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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

歳月へのセレナータ

2009-04-09 23:03:01 | 南アメリカ


  ”Serenatas en Contrapuntos”by Hernan Gamboa

 カリブ海に臨む南米の不思議音楽国ベネズエラを、ある面で象徴するような民俗弦楽器、”クアトロ”の巨匠、エルナン・ガンボアの2006年度作。完全に彼のクアトロのソロ演奏のみを聴かせる盤となっている。

 クアトロというのは、まあ簡単に言えば大型のウクレレで、より金属的な音のする楽器、とでも思ってもらえばいいのだが、つまりはお馴染みポルトガルが大航海時代に地球のあちこちに残していった数多い音楽の種の実りの一つと言えよう。
 楽器の構造の中に宿ったラテンの激情と、異郷からの楽器を愛で育んだ人々の足元に眠る新大陸の地霊の手触りとが相まって醸し出す、玄妙な弦の響き。それは至極簡単な構造の楽器ゆえ、逆にますますその謎を深めている。

 ガンボアがここで用いているのは”ラスガプンテオ”なる奏法だそうな。要するにガッチャガチャと和音をかき鳴らす奏法であって、弦楽器に関しては、どちらかと言えば繊細な単弦の爪弾きを愛する当方としてはあまり好ましい奏法ではないのだが、さすが巨匠のレベルともなると、弦の掻き鳴らしも精緻を極め、退屈する隙などどこにもない。

 実際、弦の上を滑る巨匠の指先はこちらの想像を遥かに超える想像力溢れる技を次々に繰り出し、意識せねばこんなに簡単な構造の弦楽器一本の演奏とは気がつけないだろう。
 ましてやこの盤はセレナータ集、切ない想いを込めて紡がれたメロディばかりが収められているのだ。良くないはずがない。

 この盤が彼のクアトロ奏者としての40周年記念盤でもある事も付け加えておくべきだろう。そのような盤の内容を彼はセレナータ集とし、かって音楽活動を共にした仲間たちに捧げる盤とした。つまり、かって人々がその胸中を去らぬ熱い思いに突き動かされ紡ぎ出したメロディ群の演奏を、過ぎ去った歳月への捧げ物とした。巨匠の心のレンズに映った、数々の人生の面影。

 高度なテクニックによって研ぎ澄まされた甘美なメロディは、高度に昇華された感傷を歌い上げて尽きる事はなく、ついには天上に至る。そんな幻想が4本の弦の狭間から生まれては消えて行く。

城南海のフリーペーパーと地方格差

2009-04-08 22:54:35 | 奄美の音楽


 mixi内の城南海ちゃんのファン・コミュに、

>HMVにて、フリーペーパー「Kizuki Minami's Voice」が
>配られてました。
>全面カラーで内容もいっぱい書いてあります。
>スペシャル・プレゼントの情報も書いてあります。

 なんて書き込みがあった。おっ、おい!

 これ、もの凄く欲しいんだけど、当方の住んでいるところは田舎なんで、近所にHMVなんてない。 つーかそもそも一度もHMVの店舗なんて見たこともないのだ、ワシは。

 どうすりゃいいんだ?
 思いあまってHMVに「金を払ってもいいからそのフリーペーパーを郵送してもらえないか」とメールを出したが今のところ返答なし。
 なんとかしろよな~も~。田舎ものをないがしろにするのもいいかげんにせ~よ。

雨上がりのタンゴ街

2009-04-07 02:35:05 | 南アメリカ


 ”Voz Y Guitarra”by Brian Chambouleyron

 このチャブレイロン氏、アルゼンチンの小劇場においてちょいとオシャレなショーなど構成演出している人なんだそうです。粋な人なんでしょうなあ。
 そんな彼の趣味がタンゴをギターの弾き語りで歌う事。それがなかなか良い味を出しているので、このたびアルバムを出す事となったそうだ。その味わいをそのまま生かしたつくりになっていて、すなわち全曲ギターの弾き語り、それ以外の楽器は入っていない。タイトル通りの「声とギター」のみ。

 このジャケ写真、何が映っているのかいまだに分からないんだけど、青空に雲が浮んでいる様子なのかと思った。それにしては色が変だけど、何かの意図があって変色させているのかと。
 そんな風に思い込んでしまったのは、チャブレイロン氏の歌唱とギターが春のそよ風みたいな安らぎに満ちているから。長く続いたうっとうしい雨空がひと時開けて明るい光が雲の隙間から地上に差している、そんな瞬間を想起させる歌と演奏がこのアルバムには収められている。タンゴのメロディが持つ、南欧風の甘くどこか懐かしい、そんな味わいが全開である。

 そもそもが演出家の趣味とはいえ、その歌もギターも確かなテクニックがあり、安心して聴いていられる。とくにその歌声の柔らかな響きは、聴こえてくるだけで癒しの効果があるようだ。そんな彼が好きな歌を心行くまで歌う、その喜びがそのままこちらにも伝わってくる、そんな感触が嬉しい。

 アルバムのど真ん中に置かれたガルデルの曲、「急げ、先頭の牛」が、ひときわ印象に残った。このタイトルから想像するに、南のパンパス地帯に生きる牛飼い、いわゆるガウチョの生活をテーマに作られた歌なのだろう。
 歌詞の詳しい意味が分からなくて残念だが、広大な草原で降り注ぐ陽光と吹き抜ける風と、それらにさらされて干しあげたようになってなおもこびりついてくる孤独とを友に生きる人々の息遣いが、ひとときアルバムの主人公となる。

 そんな昔ながらの草原の暮らしへの憧憬を込めた曲が、アルバムという”ショー”の中央に置かれていること。それによってその他の曲で歌われている都会生活の感傷の表現もまた、ピリッと締まるのだ。「我々はあそこからやって来て、今、ここにいるのだ」と。

 あと、ギターと歌だけの演奏が単調に陥らぬよう、チャブレイロン氏がときおり吹く口笛が粋である、と付け加えておこうか。細かい話だが。ともかく氏のタンゴへの愛情と暖かい眼差しに脱帽。
 まあそれにしても、これだけの”持ちネタ”がある演出家にチェック入れられているのでは、小劇場の役者連中もかなわんだろうなあと可笑しくなったりする。

鎮魂歌・グルジア2008

2009-04-06 03:57:08 | ヨーロッパ


 ”Leper Mass ”by Oda Relicta

 これはジャンルとしてはクラシックの分野の現代音楽作品と言う事になるのだろうか。ウクライナの作曲家が書き下ろした、昨年夏のロシア軍のグルジア侵攻によって犠牲となった人々を悼む音楽作品である。
 北朝鮮のミサイルが発射された日、「こんな日に聴いておかねば」などと、歪んでいるような、それで良いような気分で聴いてみたのだった。

 静かに流れるオーケストラと合唱が、雲が低く垂れ込める暗い空の下、灰色に静まり返った風景などを想起させる、いかにもレクイエムな音像を作り出す。そこに空から降り注ぐソプラノの歌声と教会オルガンのソロが厳かに鳴り渡る。
 ソプラノがマキシマムに声を張る一瞬以外、クラシック臭はあまり気にならない。むしろ普通に美しい音楽作品として、プログレかなんか聴く時のノリでその世界に浸れてしまう。と言うか深夜、一人でこの音楽に向かい合って頭に浮ぶさまざまな想念と戯れていると、まさに止め処もない。

 これを耽美というのか。作品の成立由来を思えば、その美しさをこんなに呑気に甘受していていいのか、なんて気分にもなるのだけれど、そう言われたってだから何をすればいいと言うのだ、音楽を楽しんでいけない訳もあるまいと居直りつつCDに向い直す。
 振るわれた暴虐への怒りや悲しみ。溢れ出たやりきれない想いが曇り空の下で淀んでいる。苦悩の泉がなぜこんなにも美しくあるのか、その答えを誰も持たない。

ホーボー犬の足跡を追って

2009-04-05 01:42:26 | その他の日本の音楽

 どうしても解決しなければならない、という問題でもないんで放り出しているのだが、でもなんだか気になる、と言うものがいくつか子供の頃の記憶にあって、これなんかもその一つだった。
 子供の頃、外国製のテレビドラマで、なんか犬が主人公のものを見たことがあったなあ、と言うもの。おそらく毎週楽しみに見ていた、と言うほどのものでもなかったのだろう。
 どんな物語だったのかまるで覚えていず、そんな漠然とした記憶しかないのだが、主題歌だけは妙にはっきり記憶している。

 ”見知らぬこの町 さまよい来れば
  はるかな思い出 胸によみがえる”

 というもので、このフォーク調のメロディを口ずさむと、妙にうら寂しいような切ないような、甘酸っぱい奇妙な感傷にとらわれ、その感傷がどこから来ているのか、その正体はなんなのか、知りたいとは思っていた。

 まあ、思うだけで何の調べもしなかったのだが、さっきふと「どうせ何も出てこないだろうなあ」などと言いつつネットで検索にかけたら簡単にいくつもの回答が出てきて、拍子抜けしてしまったのだった。なんだ、こんなことなら早く調べればよかった。私と同じ気持ちでいた人が結構多かったと考えるべきか。

 その番組は「名犬ロンドン」、原題を”The Littlest Hobo ”というものだそうで、誰に飼われているでもない、列車にただ乗りなどして流浪の生活を送るシェパード犬が、あちこち旅した先で悪を懲らし困っている人を救い、また知らぬ土地に旅立つ、そんな物語だったようだ。
 お前は犬のクセして水戸黄門か、それとも渡り鳥のアキラかと言いたくなるような話だが、これでちゃんと成立していたのだろうか?いたのだろうね、連続テレビドラマとして放映されていたのだから。

 この”飼い主もなく一匹ぽっちで放浪する”という設定と主題歌の哀愁味とがマッチして、このドラマは、まだガキだった私の心にポツンと奇妙な感傷の種を撒いて行った様なのだ。
 そうするとあれは彼がただ乗りするべき汽車を待つプラットホームだったのかな、番組のエンディングに、台座のような場所にヒョイと主人公たるシェパード犬が乗り腰を下ろすと、そこに例の主題歌が流れ出し、そんな場面がかすかに記憶の底に残っている。

 思えばあの場所から・・・私たちも、かの犬の如く寄る辺ない身の一人旅をして来たのだろう、今いるここまで。
 今日の人々よりはずっと”蛮人”だったように思えるあの頃の大人たちも、プラモデルとカレーライスの事しか考えていなかったガキだった私も、歩を進める道の先にあんなことやこんな事が待っているなんて想像もついていなかったのだ。よくもここまでやって来たと、あなたがたに言おう。それが成功だったのか失敗だったのかなんて、そんな話は必要ないだろう。

 「名犬ロンドン」の主題歌の盤を手に入れたいと思うのだが、リアルタイムでさえソノシートしか出ていなかったかの歌、今日に至ってもCD化は成されていないようだ。なんとかしてくれないか、レコード会社の人よ。あの番組を見ていた人、いるだろ、そちらの会社にも。
 ムーンライダースによるカバーがネットで聴けるようだが、いまだ見つけていない。ライダースの連中も、あの番組の、というかあの主題歌の洗礼を受けた世代なんだな、そういえば。


 P.S.
 上の文章を公表直後、一時間もたたないうちに「CD化されている」との情報をいただきました。おお、ちゃんとカタログに生きている!感謝、感謝。

天使風来し奇跡を歌う

2009-04-04 03:18:44 | アジア

 ”Miracle”by Angel Karamoy

 久しぶりにインドネシアのキリスト教系ポップスである”ロハニ”の新作など。
 まあそれにしても、世俗賛美歌を収めたアルバムのタイトルが”奇跡”で、歌手名がエンジェル・カラモイ、で、ジャケ写真では背中に羽が生えておりますって意匠はどうよ?なんか安易じゃあありませんか?
 この辺、いかにもロハニが、”大衆芸能としての賛美歌歌唱”という娯楽であることの証明って気がして、なんだか嬉しくなって来ますな。

 エンジェル嬢、ジャケ写真では人気AV女優の柚木ティナ改めRioちゃんに似ているようにも見えましたが、中ジャケなども検めてみますと、そうでもないようで。余談ですが。
 で、このRioちゃん、ではなかったエンジェルちゃん、本格派が美声を競うロハニの世界では珍しく、ちょっと低めのハスキーなアイドル声で切々と歌い上げております。
 アルバムの作りはいつものロハニのそれで、スローバラード中心(というか、賛美歌もこういう呼び方で良いのか?)で、ストリングスなど伴いつつ、ありがたき神の御業を清浄なる歌唱で讃えます。

 ちょっと興味深かったのは、エンジェルちゃんのハスキーなアイドル声からは、いつものお姉さんがたの大人のロハニの裏に影を落としている”ラテンの残響”があまり感じ取れなかった事。
 ロハニに限らず、ポップ・インドネシアの魅力の一つとして、その音楽の底部に、昔々にヨーロッパの国々が置き忘れていったラテンの激情が潜んでいて、そいつがおりに触れて顔を出す事、って話は何度も書いておりますが。
 エンジェルちゃんのこの作品にはそのラテンの翳りが希薄なかわりに、素朴な祈りの表現が獲得されていて、新しいロハニの地平を開くものかも知れないですよ、これ。

 ところで。毎度、聴いた事のない人にロハニのなんたるかを説明するのに良い方法がないかと悩むんだけど、今回のエンジェルちゃんのハスキー系アイドル声によるロハニ歌唱を聴いているうち思いつきましたね。
 この、いかにも賛美歌らしい切なげな循環コード多用、クラシック曲からちょっといただいちゃったかなあ、みたいなメロディライン、全体を覆う”なんとなくクリスマス”なムード。
 そうだよ、ロハニって、後期の松田聖子のヒット曲のいくつかに似ているんだ。と説明したら・・・そりゃやっぱり問題があるだろうなあ。

 それにしても最終曲の”Oh Mesias”の歌い出しのメロディが、”なごり雪”を思わせるものだったので、「え?そんな曲のカバーを?」とか思って焦ったのだった(笑)


アレクサンドラの風

2009-04-03 04:56:16 | イスラム世界


 ”Ashganah”by Alexsandra

 レバノンの新人女性歌手2007年作。

 アラブものとしてはずいぶんと控え目と言うかクールと言うか、の歌唱法で、声を張ったりコブシコロコロと濃厚な感情表現をしたりしていない。そこに目新しさと言うか、同時代感覚のようなものを感じてしまい、妙に気になって何度も聞き返してしまった。
 決して激したりしない、冷静にコントロールされた歌声が流れて行く。ほのかな感傷を秘めて。

 バックの音は民族楽器メインの伝統的な音つくりで、いや実はシンセも使われていれば打ち込みのリズムもあるのだが、それがあまり目立たない作りになっている。しかもあまり音を重ねず、隙間の目立つサウンドにしているので、こいつもなかなかクールな印象で、その風通しの良さが心地良い。

 蒸し暑かった夏の夕暮れにふと吹き抜けた一陣の風、みたいな手触りのアルバムで、何度聞いても胃にもたれません。その”引き”の作りが逆に、アルバムの主人公アレクサンドラ嬢を”教室の後ろのほうの席に座っている美人で無口の子”みたいに印象付けて、なんだか気になって仕方なくなってくるのだった。

不在とストリングス

2009-04-02 02:29:22 | ヨーロッパ


 ”Lawrence of Arabia(Soundtrack)”

 もうあんまり朝とはいえないような時間に目覚めると、昨夜、つけっ放しにしてしまった枕元のラジオが、昨日亡くなったというフランスの映画音楽の大家の追悼特集をやっていた。
 特に映画ファンでもない身としては、モーリス・ジャールというその名を聞いてもピンとは来なかったのだが、「アラビアのロレンス」や「ドクトル・ジバゴ」の音楽を担当と説明されると、それなりに記憶に引っかかってくるものはある。風邪気味の朝だったし、仕事と言っても集金が一件あるだけだったので、しばらくそのままベッドの中で特集を聴いていた。

 大編成のストリングスを前面に押し出した、昔ながらのムードミュージック調と言うのか、いやもう、その芸風を指す言葉さえ失われてしまったような古き良き”大音楽”的作風の人だったようだ。まあ、当時の映画音楽というのはそんな感じだよね。
 あらためて聴いてみると「アラビアのロレンス」のテーマなどは、壮大なアレンジのストリングスがこれはアラブ風という見立てなのだろう、いわゆるエキゾティックな旋律を織りなしつつ突き進んで行くあたり、相当な迫力である。そいつはまだ寝ぼけ半分の我が脳裏に、ウネウネと身をよじらせながら嵐を突いて天に昇って行く巨大な龍のイメージなどを結び、私は「ちゃんと勉強した人の芸と言うのはたいしたものだなあ」とか、失礼ともマヌケとも言うべき感想を呟いたのだった。

 そういえば昔、映画は娯楽の王様と言われていたものだった。逝ってしまった巨匠の作品群は、そんな昔を思い起こさせる、もう失われてしまった昔気質のゴージャスさの洪水だった。 ストリングスからコーラスから効果音まで、皆、人の手がかかっている。機械による合成なんかじゃない。音楽の隅から隅までぎっしりと命あるものの息吹が吹き込まれている。豪勢な話じゃないか。実はそれで当たり前のはずなんだが。

 娯楽の王様だった映画を上映する映画館はその頃、信じられないほどきらびやかな娯楽の神殿に見えた。休日に親に連れて行ってもらった隣町の映画館は、こちらが子供だったからでもあるんだろうが、なんと馬鹿でかい建物に見えただろう。
 とんでもない数の人々が押しかけていて、その天井はあくまで高く、幼い私はその中央に輝く電球を見上げ、「あれが切れたらどうやって取り替えるんだろう?もの凄く高いところにあるのに?」なんてどうでもいい事を開演の時を待つ間、ずっと考えていたものだ。そういえば・・・ほんとにどうやって取り替えていたんだろうね?
 あれらすべてが、映画界の不況の波なんてものに飲まれて絶滅してしまったんだから、何と恐るべき事だろう。きらめく神殿に見えた映画館は今、うらぶれた廃墟と化した、信じられないほどちっぽけな建物である。

 豪放な行進曲はあくまでも豪放に、針が振り切れるほどの器楽音と力強いコーラスによって歌い上げられ、愛のテーマは泣きたくなる様な優しい手触りのアレンジで編まれ、ふくよかなストリングスの調べに乗せて語られる。いっそ、”臆面もなく”と言っておいた方がいいのかも知れない。
 亡き巨匠の音楽は、もうたいていの人にとってはお笑い種の過去の遺物なのだろう。あるいはいつか、気まぐれな時代の波に押し出され、一周廻って流行物件として弄ばれる時が来るのかも知れない。が、たとえそうなろうと、あの日々はもう失われてしまったのだ。

 特集を聴き終え遅い朝食を取った後、私はその日唯一の仕事らしきもの、一件の集金に出かけた。が、その家の奥さんは、”金策がままならずこれだけしか払えない。残りは来週、必ず”と言うばかりである。昨今はこんな話ばかりだ。
 ひとしきりごねてみたのだが、空の財布をどう振ってみても何も出てこない。仕方ないので出された分を受け取り、家に帰った。街には薄ら寒い風が吹きぬけ、名ばかりの春はただそこに淀むばかりである。


☆ モーリス・ジャール氏死去 映画音楽作曲家(3月31日15時21分配信 CNN.co.jp)

(CNN) 約150本の映画音楽を手がけたフランス人作曲家モーリス・ジャール氏が29日、がんのため米ロサンゼルスで死去した。84歳だった。
 デビッド・リーン監督の「アラビアのロレンス」(1962)、「ドクトル・ジバゴ」(65)で米アカデミー作曲賞を受賞。その後も同賞に6回ノミネートされ、リーン監督の「インドへの道」(84)で3度目のオスカーを獲得した。
 「刑事ジョン・ブック/目撃者」(85)、「危険な情事」(87)、「いまを生きる」(89)、「ゴースト/ニューヨークの幻 」(90)の音楽では、率先して電子機材を取り入れた。映画音楽最後の作品は「永遠のアフリカ」(2000)。交響楽やバレエ音楽、劇場作品も手がけた。

還れないサン・ペドロ通り

2009-04-01 03:47:05 | 北アメリカ


 ”Exit To Mystery Street” by Paul Sanchez

 アメリカの、おそらくは南部のマイナー・レーベルを舞台に活動しているのであろうと思われるシンガー・ソングライターの昨年作。そのスペイン系の苗字と、唄のタイトルにもスペイン語のものが散見されるあたり、なんとなく気になるものがあって手に入れた。

 まず飛び出してくるのが、まあ予想通りと言うべきか、オールド・タイミィなホーンセクションを伴ったルーズな南部ロックの世界。古臭いブルースにカントリー、ときにデキシーランド・ジャズ風に、など各種取り混ぜて。聴こえてくる音のすべてがくすんだヤニ色に染め上げられていて、アメリカ南部の埃っぽく気だるい空気の匂いがする。

 ほのかにあのキンクスの70年代の名作アルバム、”マスウエル・ヒルビリーズ”なんてアルバムを思い出させたりもする。アーティスト名から期待したようなテキサス=メキシコ国境線上の音楽的ロマンスは2曲ほどで聴かれただけだったが。

 平べったいボーカルはときおりパンクっぽさが漂い、もともとはそんな音楽をやっていた世代なのかな、などと思わされたりする。ギターの音が時にハードロックっぽく聴こえたりするのも、世代なのだろう。ニューヨークとかロンドンとかのパンクシーンに憧れたのか。
 が、そんな彼も今は故郷テキサスに引っ込み、ブルースやらカントリー三昧の毎日だ。

 こんなの、シンガー・ソングライターの音楽を夢中になって聴いてたあの頃、出会っていたら”名盤発見”とか、夢中になっていただろうな。歌手たちは皆、今から振り返ればほんの若造のクセして髭なんか生やして老成を気取り、渋さぶりっこ競争に明け暮れていたものだった。古いギターを抱えて、悟ったような顔つきで放浪や孤独を歌い・・・古い蒸気機関車が走って行く灰色の空の下の知らぬ土地に憧れた。

 もう、あの頃あんなに夢中になった彼らシンガー・ソングライターたちの歌声が、自分の心の中で錆び付いてしまったと気が付く。もともとが”骨董ぶりっこ”の音楽が、こちらの記憶の中で別の意味で古び、心に響かなくなってしまっている。

 長いこと会わないでいる当時の仲間は、今はどうしているのだろう。便りも交わさなくなって大分経つが。などと柄にも合わない事を考え、そして私はこのアルバムを、中古店行きの段ボール箱に放り込んだのだった。

トロット街道、氷結

2009-03-31 03:52:18 | アジア


 ”第1集”by Jio

 ああっ恥ずかしいっ。こんな音楽を聴いているところを誰かに見られたらどうしようっ!・・・と身悶えしつつ、でも聞く事をやめられない。大衆音楽ファンのこれは因果な醍醐味でしょうなあっ。
 などと深夜一人、CD廻しながらわけの分からないボヤキを呟いてみる。いやなに、今、手に入れたばかりの韓国のトロット演歌の新譜を聴いていたんでね、多少の妄言はお許し願いたい。

 ”Jio”なる若い女性歌手の、おそらくデビュー盤。まあ大きなくくりの中では美人なんだろうが、妙に逞しいものを感じさせる女で、”女子プロレス”なんて言葉も頭を過ぎる。そんな外見にふさわしく相当にタフな喉の持ち主で、新人らしからぬパワフルな歌唱力を真正面に押し出し、ふてぶてしいとさえ言える歌を聞かせる。トロット演歌の歌い手なんてものは、このくらい強面でなけりゃやっていけないのかもなあ、などと勝手に納得するしかない。

 アタマに収められているのが・・・昔、いましたね”わらべ”とかいう欽ちゃん番組に出ていた女の子3人組が。彼女らの”もしも明日が”なんてヒット曲を思い出させる”嬉し恥ずかし昔のド歌謡曲”的曲調の一発で、もうアタマからこれだもんなあ。妙な上昇志向などかけらも見られない、臆面もない歌謡曲ぶりがいっそ爽やかともいえよう。

 その後も、ほんとにこんな曲を聴いているところを誰にも見られたくないなあと首をすくめるような、感傷垂れ流し古臭い歌謡曲感覚丸出しのド演歌が次々に繰り出される。
 アルバムの主人公であるJioの歌声は時に「インネンつけてるんか?」と尋ねたくなるようなドスの効かせっぷりで響き渡り、バッキングも、「裏町酒場の酔いどれの感傷に時代の流れなど関係はない」と言わんばかりの時代錯誤ぶりを誇りつつ、揺るぎのないブンチャカブンチャカ道を全うするのである。

 聴いていると、夜闇の高速道路を夜っぴて飛ばす長距離トラック運転手や、ソウル発最終列車に凍えた体を押し込み家路を辿る生酔いのサラリーマンたちの孤独や怒りなどが、安酒場において供されたイカ焼きの臭いとマッカリ焼酎の酔い込みでこちらの体にまで染み付いてくるような、ディープなディープな韓国風うらぶれフィーリングが溢れ出て、死ぬほどやりきれない思いに身を焼く羽目となるのである。

 ・・・と、ケチばかりつけているように聞こえるかもしれないが、これでも文意としては大衆音楽トロットの新人デビュー・アルバムの出来上がりを褒めているのであって、その辺を行間から読み取っていただけると幸いである。