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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

感動屋稼業

2009-04-22 03:48:14 | 時事

 (YouTubeで公開されている公式動画より 写真:ITmedia)

 ○英国発“美声のおばさん”にYouTube熱狂

 審査員席や客席のわざとらしい反応、臭い演技、何が起こるか分かっている事が丸見えなカメラワークなど、露骨なヤラセの感動劇ですね、これは。

 このフィルム、ワイドショーの”事件再現ビデオ”レベルの演出かと思うのですが、そんなものを見て多くの人々が簡単にその気にさせられ、”感動”を表明しているありように、ちょっと空恐ろしさを感じてしまいます。

 はじめは嘲笑していた審査員や観衆が一声聞いただけで感動し熱狂するとか、出演者の演技も稚拙だが筋書き自体も、頭の緩い人向けに作られたお手軽なメロドラマレベルのものではありませんか。

 そんなものの製作者にやすやすと乗せられ、彼らの思惑通りに感動ごっこに酔ってしまうなんて。安過ぎませんか、あなたの心は?


 ○英国発“美声のおばさん”にYouTube熱狂
 (ITmediaニュース - 04月20日 09:51)
 地味なおばさんが、マイクを持ってオーディションのステージに立つ。「エレイン・ペイジ(英国のミュージカル女優)のようになりたい」と話す彼女に、審査員も、会場の観客も苦笑。だが、彼女が歌い出すなり、あまりの美声に会場が総立ちになる――
 英国のオーディション番組「Britains Got Talent」のこんな一幕が4月11日、YouTubeで公開され、世界中で驚きと賞賛を呼んでいる。彼女の名はスーザン・ボイル(Susan Boyle、47歳)。独身で無職の教会ボランティア、男性とキスしたこともないという。
 美声で歌ったのは、ミュージカル「レ・ミゼラブル」のナンバー「I dreamed a dream」。番組が公式にYouTubeにアップした複数の動画のうち最も人気のものは、19日までに約3000万回再生された。女優のデミ・ムーアさんもTwitterで「大ファンになった」と賞賛している。
 ボイルさんの動画やインタビュー動画は、一般ユーザーも大量に投稿しており、「Susan Boyle」で検索すると6000件以上ヒット。日本語字幕付きのものも複数あり、19日までに多いもので約10万回以上再生されている
 メディアでも話題になり、英語版Google Newsで検索すると2000以上の記事がヒットする。日本では19日のNHKの海外ニュースが紹介するなど、話題は広がっている。

G.S.I LOVE YOU

2009-04-21 03:27:47 | 60~70年代音楽


 ”G.S.I LOVE YOU”by 沢田研二

 なんかねえ、今日は酒を飲んで良い日のような気がしてならないんだよ。まあ、飲んで良い日も何もない、医師に「あなたはとっくに、人の一生分の酒を飲んでしまったのだから。もう飲まなくてもいいんじゃないですか」と禁酒令を出されている身、飲んで良い日なんてはじめからありゃしないんだが。
 うん、まあ、それでも最初の三年は真面目に一滴も飲まずにいたな。その後、週に一回だけこっそり飲むようにしたんだけど。ときどきそうやってガス抜きしないとヤバいんだよ。毎日、首吊って死ぬ事ばかり考えるようになってしまったから。それを実行に移すより飲むほうがマシでしょ。
 医師は気が付いているのかどうか。定期検査の結果は良いんだそうで、特に文句は言わない。週一の飲酒なんてのは誤差の範囲内なのかね?知らないけどさ。

 昨日に続いて後ろ向きの話を書いてしまうが、元人気GS・ジャガーズのメンバーだった岡本信が亡くなったというニュースを見たんで、ちょっとGS話を書いてみたくなった。
 とは言うものの、とくに岡本のファンだったわけでもない。ただGS全体に、というか彼らとその時代に思い出、と言うよりは時を経ても消えない執着がある。それだけの話だ。
 ジャガーズのライブを、その全盛時代に東京は新宿の”ACB”という店で見たことがある。そこでも岡本の印象は特にない。ボーカルの彼より、ギタリストがリッケンパッカーの、ジョン・レノンが使っているのと同じモデルを弾いているのが羨ましくてならず、そればかり見ていたのだった。

 自分の還暦記念パーティの日に逝った岡本は肝臓を病んでいたそうな。飲み過ぎだったんだろうな。この間亡くなったゴールデンカップスのデイブ平尾なんかも、いかにも飲み過ぎで命を落としそうなタイプだが、死因はなんだったか。そういえばテンプターズのドラムだった大口広司は何で亡くなったんだっけか?
 それから、自ら命を絶ってしまった元ブルーコメッツの井上忠夫。GS時代には大張り切りのモーレツサラリーマンみたいなキャラで弱ったものだった彼だったが、そんな人物が自死するのなら、これはもうしょうがないじゃないかって気がする。
 そうか、カップスはもう一人、ケネス伊東も、かなり早くに亡くなっていたんだ。それから、ほかに亡くなった奴は。

 などと点鬼簿を指で追っていると、GSのメンバーだったもので幸せになったものなど一人もいないのではないかなどと思えてくる。皆、オノレの定められた寿命が来る前に運命の蝋燭の前に立って自ら炎を吹き消し、力なくこの世から歩み去って行った、そんな風に見える。そうする理由など問うても無駄である。彼ら自身にも分かってはいないのだから。
 ただ、そんな消え去り方が、彼らにはなぜか似合いに見えて仕方がないのだ。GS全盛期に、エレキギターを抱え夜汽車に乗って東京に行き、どこかのGSもぐりこむ、なんて家出の計画を本気で立て、実行に移しかけて親に張り倒された経験を持つ私には、そう見える。

 そんな中で、この間、テレビで見たライブの出来では還暦過ぎても元気だったのが、沢田研二だった。そりゃ、経年劣化というものはあるにしても、ちゃんと声も出ているし、悲惨な部分が見えなかったのはたいしたものだろう。「20歳になったらやめようと決めていたロックなのに、自分は60過ぎてもまだ歌っている」との言葉が心に残った。

 その沢田に、”GSアイラブユー”ってアルバムがあるのだった。1980年度作品。ワイルドワンズの加瀬邦彦がプロデュースを担当し、佐野元春の楽曲などを取り上げている。
 沢田のソロアルバムの中ではひときわロック色の強い作品で、「60年代、タイガースのメンバーとしてデビューした当時は、自分の望むようなロックではなく歌謡曲色の濃いGSソングばかり歌わねばならなかったジュリーが今、若いロック世代のミュージシャンの協力を得て、”あの頃やりたかったロック”を実現してみせたアルバム」との評価がある。

 私もこのアルバム、そのような作品と捉えてきた。が。よく聴けばここで聴かれるのは沢田が青春の日に入れあげて来たローリングストーンズのようなロックの響きはないのだった。周囲を固めたミュージシャンの個性から行って当然と言うべきか、むしろビートルズ寄りの音がしているのだな、このアルバムからは。そうなった理由は。その方が売れるであろうから、という正しい芸能の論理からなのだろうけれど。
 沢田がこのアルバムのテーマと出来上がりとをどのように考えているのか、気に入っているのかいないのか、それについての発言を聞いたことがない。もしかしたらそんな余計な感傷などなにもない、あれは彼が長い芸能生活でこなしてきたたくさんの仕事のうちの単なる一つ、だったのかも知れず。

 ただまあ・・・自由に至る道は遠く、誰にでもたどり着けるものではなく、人はいつか歩きたくもない道を歩み、気が付けば死んでいる、そんなものなのだろうなあと思ったりしたのである。

ジャズ喫茶、1969年

2009-04-20 03:42:55 | ジャズ喫茶マリーナ
 ”Berlin Festival Guiter Workshop”

 (某アンケートに答えて)

 60年代から70年代への変わり目あたりに、ジャズ喫茶で聴いた思い出の盤ですか?他の方々の書かれている文章からは思い切りずっこけるかとも思いますが、1967年のベルリン・ジャズ祭からのライブ盤、”ベルリン・フェスティバル・ギター・ワークショップ”が印象に残っています。

 聴いたのは1969年、夏休みに東京の親戚の家に泊まりがけで遊びに行き、「東京のどこを見たい?」と尋ねられ、「ジャズ喫茶」と答えて呆れられたりしつつ、大学生のいとこに連れて行ってもらった・・・どこだったかなあ、渋谷かどこかのジャズ喫茶でかかっていた盤でした。
 ドイツのジャズ研究家、ヨアヒム・ベーレントのドイツ語のアナウンスに導かれ、バーデン・パウエル, エルマー・スノーデン, バディ・ガイ, バーニー・ケッセル, ジム・ホール,などなどのメンバーによる、”ジャズギターの周辺、およびその展開”みたいな熱演が展開されていました。

 冒頭のエルマー・スノーデンのノスタルジックなバンジョー演奏による”レイジー・リヴァー”に始まり、ヒステリックとも言える高揚を見せるバディ・ガイのブルースギター、後半には、あまりにも奔放過ぎてバックのベースとドラムスが付いて行けなくなるバーデン・パウエルの”イパネマの娘”と・・・なんだかジャズ本道から外れた演奏ばかりが記憶に残っていますが、あの時代でしかありえなかった熱い空気がギッチリ詰まった盤でした。

 あの60年代最後の夏の、東京の街の風景や人いきれなどと共に、妙に記憶に残っている盤です。そんな街の熱気と、盤の向こうに聴いた「まだ熱かった頃のジャズ」のざわめきがピタリと重なり合い、「ジャズ喫茶でレコードを聴いていただけだが、実は時代の先端に触れていたのだ」なんて、妙な高揚を噛み締めたものでした。

城南海の2ndシングル

2009-04-19 03:37:05 | 奄美の音楽


 ”誰カノタメニ・ワスレナグサ”by 城南海

 と言うわけで先日、奄美出身・島唄系アイドル歌手(この子の正式な歌手としての肩書きはしかし、何と言うのだろう?)の城南海ちゃんの2ndシングルCDが出たのでさっそく手に入れ、今、聴いてみたのだが。
 う~む・・・微妙かも知れない。とりあえず、デビュー曲の”あいつむぎ”みたいに「これで決まり!」と思える曲がないのが惜しい。

 何しろ彼女は、なぜか心惹かれる奄美の出身であって、アイドル好きのワールドミュージック・ファンとしてはもうすっかり応援したい気分になっているんで、当方としてもなかなかに追い詰められた(?)気分だ。

 一曲目の冒頭、リズムを刻むドラムスの音に、まず「なんだこりゃ?」と呆れる。こんなバシャバシャした音が彼女の歌に合うとは思えないんだが。
 でもこれは、ある意味仕方ないのであって。この曲はテレビの昼のメロドラマの主題歌なのですな。言ってみりゃこの曲は”営業”なのであって、彼女の個性を考えるより、その種の番組の視聴者の好みに合わせるのが優先事項ということで。

 これは曲調とかすべてに言えることで、昼メロの主題歌って実際、こういうのばっかりだよな、湿った感じのバラードでジトッと迫る。”笑っていいとも”が終わったあともテレビをつけっ放しにしておくと小堺の番組の後で昼メロが始まるんで、大体のパターンは知ってるんだけど。
 うん、あんまりねえ、ここでは城南海という歌手が真価を発揮出来るような曲が与えられていない。なんか湿っぽ過ぎたりオシャレ過ぎたりでねえ。彼女自身も不完全燃焼気味じゃないかなあ。

 もっとシンプルで骨太で、南の島の生命力がその底に脈打っているみたいな曲が彼女には合っているよ。
 というかこのシングル盤は冒頭が主題歌、2曲目が同じ番組の挿入歌、残る一曲がある映画の主題歌と言う事で、そのような設定でデビューしたての新人歌手としてはそうそう好きな事が出来るはずもなし、むしろ城南海という歌手の名を皆に知ってもらうきっかけになればそれで十分、と受け取るべきなんだろうな。

 なんて覚悟を決めて、あらためてCDを聴き直してみる。やっぱりね、随所で聞かれる島唄式発声法が魅力的に思えますよ。このあたりの彼女の個性を上手く生かす道を関係者ご一同、見つけてやってくださいとお願いして終わっておこう。

北アフリカ激走

2009-04-18 00:57:00 | イスラム世界

 ”FERKET EL HOUNA ”

 60年代末期、赤テントの演劇公演で世を騒がしていた唐十郎は、当時流行りの”アングラ文化”乱れ咲く新宿の街を指して、「新宿見るなら今見ておきゃれ。今に新宿、原になる」などと、狂い咲く文化への頌歌と、その背後に控える移ろい易い時の流れについて謳った。
 今、私は「マグレブ見るなら今見ておきゃれ」とか言っておくべきなのだろうか。いや、まだまだ終わらない。この音楽はもっとしたたかに燃え盛って、いずれは、そんなものを聴く気もなかったあなたの戸口まで、無理やり押し寄せるに違いないと私は信じている。

 そんな訳で、またも今一番気になる音楽、北アフリカはマグレブ地方のベルベル人ものを。若手男性7人組である。とりあえずジャケ写真では、そのように見えている。
 実は上に挙げた”FERKET EL HOUNA ”が作品名なのかバンド名なのか、その辺でさえ良く分からない。という情報不足状態のまま行かせてもらうが。

 ベルベルものでは毎度お馴染みの、つんのめるように前傾姿勢で疾走するハチロク系変拍子の世界。各種民俗パーカッション乱れ打ちの性急なビートが繰り出される中を、しわがれ声のタフなヴォーカルがイスラミックなコブシを廻しつつ、うねりながら渡って行く。ワイルドなコーラスがその後を追う。その下で重たいエレクトリック・ベースが”仁義を切る”みたいな剣呑さを秘めたノリで這い回る。

 かなり男っぽい、”質実剛健”なんて言葉がよく似合う音を出す連中である。
 そのヴォーカルとサウンドのありようは、テンションの高さ、地にへばりつくビートのヘヴィさ、などなど、全盛期のナイジェリアのフジ・ミュージックなどをも想起させる力強さで、思わず頬ほころぶ。凄いね、こんなに生々しく”強い”音楽がまだこの世界に生き残っていたのか。ちなみに2008年作。

 非常に短いフレーズや歌詞をコール&レスポンス状態で執拗に繰り返しつつ、もともと熱いビートをますます熱く燃えあがらせて行くというのが、どうやら彼らの得意技のようだ。
 まさにムチのようにしなるタフなビートが打ち込まれる中で、見知らぬ宗教のお題目でも唱える感じで、千切り取られた切片と化した歌詞がメロディが何度も何度も団度も団度も何度も何度も何度も何度も繰り返され、繰り返されるごとに音楽の孕む熱は高くなって行く。
 聴き手の意識はいつしか否応もなく、彼らの織りなす極彩色の幻想を伴う狂騒トランス世界へ引きずり込まれる運びだ。

 彼らの音楽、モロッコの冠婚祝祭音楽である”ダッカ”と呼ばれるものらしいのだが、こんな連中に、結婚式や葬式の場に乗り込まれるのは大いに迷惑である。と、異邦人たる私としては思う。祭りの日にやって来られるのは。最高だろ、それは。

ジプシーの鳥瞰図

2009-04-15 23:52:35 | ヨーロッパ


 ”Dura Dura Dura”by Mitsoura

 Mitsouraとはハンガリーの新進気鋭のバンドで、ボーカルのMitsou女史はジプシーの血を引く凄いボーカリストなんだよとの評判と共に受け取った一枚であります。これが二枚目のアルバムだそうですが、もちろん私は1stを聴いていません。

 まず冒頭、インドの民族弦楽器、サーランギみたいな音がギュィ~ンと鳴り渡り、バンドの刻むタイトなリズムが入ってくる。そして甲高く鋭い声でコロコロと珠を転がすようなコブシを効かせる、かなりユニークな持ち味の女性歌手の歌声。
 ははあ、これはワールドミュージックに興味のあるロックバンドがロックのノリで電気楽器を駆使してインド古典声楽のコピーをやっているんだなと、浅学の私は聴いてしまいますが。

 リズムを刻むベースやドラムの狭間でポコポコとタブラはリズムを刻みまくり、シタールの音も大々的に鳴り渡っているし。それにしても相当にテクニックのあるバンドだなあ。電子音楽から民族楽器まで総動員して、異郷の音楽でここまでタイトに弾む演奏が出来るとは。
 などと思いつつ聴いていたんだけれど、どうもそうでもないみたい。そこでジャケ裏のデータを読み、こちらが想像していたような音楽ではないと知る。データくらいちゃんと読もう。

 どうやらこのアルバム、世界各地にあるジプシーたちの居住地域における伝統音楽に取材した曲を演奏しているようです。取材地(?)は、地元ハンガリー、エジプト、ラジャスタン、ルーマニア、セルビア。
 ジプシー音楽に詳しい人が聴いたら、なるほどと思えるんでしょうか?私にはそれらの違いはよく分からず、そう言われればそのようなとかなんとか、曖昧にうなずくしかない。何しろアルバム半分くらいまでインド音楽のコピー・バンドだと思って聴いていたんだから。

 それでもアルバムの前半はインド古典声楽をかなり意識したアレンジであるのは確かで、どうやらバンドの中心人物であるMitsou女史は、ジプシー民族の故郷の地、インドの音楽を座標軸としてジプシー音楽の鳥瞰図を、このアルバムで描こうとした、というところなんではないでしょうかね?
 実際、何度も聞き返すうちに浮かび上がってくるのは、ジプシーたちが長の年月に渡る流浪の旅で大地の上に記して来た血の曼荼羅の相貌。腕利きのバンド・メンバーたちが生み出したリズミックな音像の闇を、ギラリと光芒を描いてMitsou女史の妖しの歌声が切り裂いて行く。こいつはなかなか刺激的で、想像力を刺激される音空間です。

 それにしても女史の歌声、テープ早回しとか何か、細工はしていないの?普通の状態でこんな妙な発声が出来るものなのかね?そして彼女における”ジプシー”は、どの程度”天然”で、どの程度”計算”なのだろう?などなど、いろいろ疑問も心に浮かび出しまして・・・こりゃ、1stも聴いておくべきかなあ。などと、いろいろ気になる今日この頃なのでありました。

マスコミの世論操作の意図は?

2009-04-14 04:49:58 | 時事

 ○埼玉の比人夫妻、長女残し帰国

 このフィリピンからの不法入国者夫婦とその娘を、幼稚な人情劇をでっち上げる事により「かわいそうな人たち」に仕立て上げるキャンペーンを、すべてのマスコミが横並びで行っている、そのありようは実に不自然である。異様な風景と言うほかはない。
 (下に掲げた記事だって、一般に”右寄り”と言われる読売新聞の記事であるにもかかわらず。それが不法滞在の容疑者夫妻を”さん”付けで呼び、やはり”かわいそうな家族”扱いのベタベタな記事内容。どうやら右も左も相乗りのようだ、この件に関しては)

 あのように各マスコミに共同歩調を取らせるのが可能な勢力とは、何者たちなのか?
 つまりは、このキャンペーンを張る事によって利益を得ようとしているのは何者なのか?
 どんな利益を得ようとしているのか?
 我々が見ることの出来ない場所で、どのような画策が成され、実行に移されようとしているのか?

 まともな感性を持つ者なら、背筋が寒くなって当然である。
 唯一の救いは、たとえばネットの書き込みなど見る限り、各マスコミの世論操作にもかかわらず、その報道姿勢に懐疑的な人々が圧倒的に多い事だろう。作り物の安い涙の洪水にも流されず、一般大衆は冷静である。それが救いだ。

 ワールドミュージック・ファンとしては、この家族とその報道に関わる者たちが一様に、フィリピンに帰ることをまるで地獄に落ちるように捉えている事実に、非常な不快感を覚えている。「フィリピンなんかに帰ることになったらかわいそう」と言わんばかり。フィリピン国家と国民に対して、それはあまりにも失礼ではないのか。

 ○「3人で残りたかった」埼玉の比人夫妻、長女残し帰国
 (読売新聞 - 04月13日 19:39)
 不法入国で強制退去処分が確定した埼玉県蕨市のフィリピン人、カルデロン・アラン・クルズさん(36)と妻サラさん(38)が13日、中学2年の長女のり子さん(13)を残し、成田空港からフィリピン・マニラに帰国した。
 出発ゲートで、親子は涙を流しながら何度も抱き合い、別れを惜しんだ。アランさん夫妻は「多くの人に支援してもらい、感謝している。3人で日本に残りたかったので寂しい。のり子には頑張ってほしい」。のり子さんは「一生会えなくなるわけではない。また日本で一緒に暮らしたい。生活や学校のことで不安はあるが、勉強などを頑張りたい」と気丈に話した。
 一家は3人での在留を希望したが、法務省東京入国管理局は3月、日本語しか話せない長女のみに在留特別許可を出した。サラさんの妹(31)の家族が蕨市に転居し、のり子さんの養育に協力する。同省は、1年前後で夫妻に上陸特別許可を与え、短期間、会うことを認める方針だ。


風の向こうのハワイ王国

2009-04-13 05:17:30 | 太平洋地域

 ”ハワイ王国時代のハワイ音楽”by 山内雄喜

 もはや改めて紹介の必要もないであろう、ハワイ音楽研究家にして演奏家である山内雄喜。これは山内によるハワイ音楽の歴史を辿る7部作シリーズ、その第2集です。ハワイ王室の音楽四天王なんだそうですね、カラ-カウア王、リリウオカラニ女王、リケリケ王女、レレイオーホク王子などの作品を中心に収められています。

 ハワイ王朝のアメリカ合衆国による併呑とその滅亡の悲劇、そしてそれに関わる音楽の物語については以前、パオアカラニの花束という文章を書いているんだけれど、ハワイ王朝とその音楽を思う時、やはりその悲劇的結末が意識に昇ってしまうのですな。

 このアルバムにしてもともかく美しいメロディの連発であり、その儚げな美しさが、楽園であるかに見えるハワイの地を吹き抜ける風の向こうに、失われた王国の記憶が蜃気楼のように一瞬だけ蘇る、そんな幻想を呼びます。

 アコースティック音楽の演奏家というイメージの強い山内はここで、珍しくと言っていいと思いますが電気を通したギターを使っています。最初に聞いたとき、ドン、と響く低音弦にちょっと驚かされたんだけれど、何度か聴き返す内、アルバムのテーマにはむしろ電気楽器の使用はふさわしかったのだろうな、なんて気がしてきます。

 いつものリアルな生ギターの響きはハワイの土と人々の暮らしの香りを運んでくるのだけれど、ここではエレクトリック・ギターの人工的増幅感(?)を伴う音の伸びの良さが織りなすちょっぴり非現実的な手触りが、ここに提示された美はもうこの世のものではないのだぞ、という現実との境界を改めて確認させる効果を作り出している。それゆえ滅びの美学がさらにまた悲しく美しく浮き彫りになる、みたいなね。

 まあ、山内氏ご本人がそういうつもりでエレクトリック・ギターを使ったのかどうかは知らないけれど。美しいアルバムです。


60’マレーシアGS奮闘記

2009-04-12 01:01:53 | アジア

 ”J・Sham と Pop Yeh-Yeh”

 このマレーシアのベテラン歌手、J・シャム氏の音楽は以前から気になってはいたんだけれど、なんとなくすれ違っていて、今回初めて盤を手に入れる機会を得た。
 その盤、どうやら全盛期(?)のヒット曲を最近、再演したもののようなのだが、はたして「残念ながらオリジナルではない」と言う必要があるかどうか分からない。なんとなく、「昔も今もたいして変わらない出来の音楽をやって来たんじゃないかな」と思わせる匂いが、彼には漂っている。

 シャム氏のやっている音楽はCDのジャケをみると”ポップ・イェイェ”と称するようだが、どれほど社会的に認知されているのかは分からない。ちなみに検索すると60年代フランスの青春ポップスである”イェイェ”に関する記述ばかりが引っかかってくる。
 まあ、彼の音楽を一発で分かってもらう事は可能だ。要するに彼は60年代、”マレーシア版のグループサウンズ”界のスターだった人なのだ。

 私の手元にある盤、”J・Sham Dulu&Kini”には、あの60年代のエレキ・ブームの熱く素っ頓狂な狂騒を想起させる”エレキのバンド”のイカした熱演がビッチリと詰め込まれている。同時期、日本のGSがやっていたようなプレイが頻出し、なにやら気恥ずかしくもある
 やってたんだねえ、マレーシアでもこんな事。エレキでゴーゴー。東南アジアでも”勝ち抜きエレキ合戦”とか、あったのかしら?マレーシアにも当地の寺内タケシに相当する”エレキの神様”がいたりしたんだろうか?

 ジャケでは、「赤道直下の国でそんなものを着ていたら暑かろうに」と思わずにはいられないイナセな冬物のスーツを身にまとったシャム氏が、イカしたポーズをとっている。その相貌からは中年から老年に至ろうとする男の疲れと、長年身を置いた芸能界の汚れが滲んで見え、つまりは良い味を出したオヤジなのである。おそらく60年代このかた、時代の流行がどちらを向こうと変わることなくマレーシア風のGSソングを唄い続けて来たのだろう。

 とはいえ、歌手としての彼のパワーは衰えていない。まだまだ彼は男くさい猥雑さを振りまきつつ、野口ヒデトの如く哀訴し、沢田研二の如く誘惑し、鈴木ヒロミツの如く吠える。
 そして・・・はじめのうちは「わははは、やってるやってる」とか、そのあまりのGSぶりに噴き出しながら聴いていたんだけど、聴き進むうちに段々切なくなってくる瞬間が増え始めたのだった。

 収められている曲は、ほとんどシャム氏の自作である。欧米のロックにひたすら憧れつつ書き演じたのであろう曲と、やっているうちに濃厚なマレー歌謡の感触がジットリと滲む曲がある。まあ、別に作り分けたのではなく、結果としてそうなっただけだろうけど。
 その前者、軽薄にして根無し草の真似っこロック系の曲のあちこちに溢れ出ている切ない情感に、当時のマレー半島に生きた青春群像へのシンパシーがいつの間にか湧き上がって来たのだった。

 そうなると、「あ、結構いいじゃん、この曲」とか感心したり、間奏でロシア民謡風のメロデイを繰り出すギターに大滝詠一をなぜか思い出したり出来るようになってくる。
 そうなんだよ、似たような事をやってたんだよ俺たちも。いや、ほんとにさ。あれからいろいろあったけど、こいつら、今はどうしているんだろうねえ、とかさ。笑ってなんかいられないよ、多分俺もシャムのバンドのメンバーの一人だ。


江ノ島エレジー喪失

2009-04-10 23:53:04 | その他の日本の音楽

 家の戸口を出て何メートルかで国道だった。国道を横切れば防波堤の向こうはもう海で、だから自分にとって海水浴とは、家で水着に着替えてそのまま浜まで駆け出して行く事を意味していた。
 そんな環境で育てば、加山雄三系の海洋性快男児に育っても良さそうなものなのだが、そう言うものでもなかったようだ。

 我が町内に関するバカ話一つ。終戦直後、市の主催で各町内対抗の競泳大会が行われた。当然、海に馴染んだ我が町内が優勝するものと思われたのだが、結果は惨憺たるものだった。我が町内の”若い衆”にとって海というものは垂直に潜って銛で魚を突いたり貝を集めたりといった”狩場”なのであって、平行に並んで進行速度を競う、などと言う場所ではなかったのだ。”競争”などという発想がそもそも彼らには出来なかったのだ。実話である。

 今では埋め立てが進んで感じが分からなくなっているが、かっての海岸線を思えば波打ち際にあったとしか考えられない古い神社が近所に残っていて、かっては漁師たちの守り神であった。ガソリンスタンドの隅っこに海水に侵食された石塊を地蔵に見立てて祀っている祠があり、忘れられているかのように見えるが、今日でも線香を手向ける者が絶える事はない。

 昔、まだ我が家が木造だった頃、海が荒れた日には古い家は夜っぴて揺れ続けた。それでも嵐の夜は好きだった。荒れた海の暗い底から吹き付けてくる熱風が、南の海のロマンを運んで来てくれるような幻想があった。熱風の中に含まれる奇妙な腐敗臭は、遥か沖で名も知らぬ海獣が巨大な屍を浮かべている、そんなグロテスクでスリリングな夢想を運んでくれた。

 幼い頃に馴染んだ海の記憶を辿れば、それは不思議に夕刻や深夜の、寂しい光景ばかりである。夏の日の下、波間で遊び呆けた記憶でも蘇れば良かろうものを、夜更けて桟橋に波が砕けるチャプンという音とか、漁港を照らす黄色い常夜灯の光芒ばかりが。あるいは、無口な漁師が茶碗酒を傾ける姿など。

 船を下りた老漁師が営んでいた小さな飲み屋の後始末を手伝った事がある。亡くなった店主を慕って店に通っていたのも、昔気質の漁師たちだったのだろう。これで用が足りたのかと首を傾げたくなる頼りない本数の古めかしいテープ式のカラオケには、戦前の歌謡曲しか入っていないようだった。この小さな店で飲み交わした者たちの気配だけがそこに残り、明日にはそれはもう失われてしまう。

 たとえば近藤啓太郎が千葉の漁師たちを主人公に書いていた小説の中の豊饒の海は、すでに失われようとしていた。海から溢れかえる魚群の物語は。
 私は店の片付けの合間に”江ノ島エレジー”が入ってはいないかとテープを手にとってみたが、いや、入っていたところでそんな古いカートリッジでは再生のしようがないのだった。

 今の江ノ島は知らぬ、私が子供の頃に親に連れられて訪れたあの場所は、不思議に懐かしい場所だった。初めてなのに、あの島の坂道を流れ過ぎて行く潮風は生まれる前から覚え知っているもののように肌に馴染む感触があった。
 その時の私は幼過ぎたのだろう、何をして遊んだのかも覚えていない。ただ焼き飯のタグイを食べたことだけ覚えている。情けないが。それ以後、江ノ島は訪れていない。

 ”江ノ島エレジー”を初めて聴いたのは二十歳頃だったか。テレビで北島三郎がギターの伴奏だけで歌うのを聴いた。うら寂しい夜の海の余情に関する歌だった。ああ、これは子供の頃見ていたあの夜の海の手触りを伝える歌だなと感じた。
 江ノ島エレジー。元々は昭和26年、菅原都々子のヒット曲だそうな。

”あわれ夢なき青春を
 海の暗さに散らす夜
 君は遥けき相模灘
 漁り火よりも遠き人”(作詞・大高ひさを)

 今、私の手元には田端義夫の歌う盤があり、深夜、ふと聴いてみたりもするのだが、もちろん、奇妙な形に埋め立てられ、若者たちが浜でビーチバレーなどに興ずる海は、もう私の見覚えのあるあの海ではないのである。