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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

風起ちて台湾

2009-05-15 02:34:58 | アジア
 ”三生石”by 朱海君

 シンガー・ソングライターの山崎まさよしがやっている”ウコンの力”のコマーシャルがありましょう。
 彼が夜の街を歩いていると”ウコン・バー”なんて店の看板が見える。宵の口の街角にネオンを掲げて、なんだか楽しそうな場所に見えます。次の場面ではもう彼はその店の客となっていて、友人らしき男や店のネーチャンと笑顔をかわしながら”ウコンの力”の小瓶を傾けているんだけど、お~い、悲しかないか、山崎。

 あのウコンエキス入り飲料は要するに酒飲みが肝臓の具合とかを心配して飲むものなんだけど、100ミリリットルの小さな缶入りで、一瞬にして飲み終わってしまうんだよ。今、私も飲んだところなんだけどさ。しかも、”一日一本を目安としてお飲みください”とか書いてある。山崎はあの楽しげなウコンバーに、まあ、どう粘っても2~3分くらいしかいられないと言うわけだ。
 楽しい時間は、長く続いたためしはない。いつも、あっという間に過ぎ去ってしまうんだね。悲しいねえ、人生って。

 というわけで。どうつながるのか自分でもさっぱり分からないけど、台湾演歌の新人、朱海君のデビューアルバム、「三生石」であります。
 ああ、これが良いんですよ。昭和30年代くらいまでの日本演歌の様式を守り続けて、独特の表現を開花させて行った台湾演歌ですが、その時代を超えた美しさが綺麗にパッケージされた作品って言う気がします。「戦前の古き善き日本の姿がそのまま残っている台湾!」とか言いたくなっちゃう人もいますが、まあ、世の中はそう都合よくは出来ていませんけどね。

 朱海君は台湾高雄の出身の20代前半の女性歌手で、犬が好きでネコが嫌い。好物は豆腐で、五輪真弓の「恋人よ」が一番好きな歌。
 確かな歌唱力で清楚な歌声を響かせる、なかなか好ましい歌手であります。慎ましやかな個性で、熱唱しても暑苦しくならない。これはなにかとねちっこくなりがちなアジアの歌手としては、貴重な個性といえましょう。コブシを廻してもくどくならないし、胃にもたれなくてよろしい。

 聴き終えると、三拍子の切なくも奥ゆかしいメロディの曲ばかりが印象に残っている。この辺が彼女の個性にあっているんでしょうなあ。ジャケ写真のバックに緑色の背景があり、春の草原ででも撮ったものかも知れませんが、アルバムを聴き終えた今は、むしろ秋風舞う高原みたいに見えてきます。まあ、そんな歌手であって。このまま素直に伸びて行って欲しいものであります。

 しかし良いわやっぱり、台湾演歌は。

ラグラグ打ち込みモデルン

2009-05-14 04:11:26 | アジア


 ”JANGAN GILA DONG !!! ”by LOLITA

 なんかよく分かりませんが、最先端のハウスなダンドウットのコンピレーションのようです。
 なにしろ、”Dangdut Dugen ABG Mix"でありまして”Jangan Gila Dong!!!”とありますから相当なものであります。しかも歌い手は”Lolita”嬢であります。あ、私、マレー語もダンドウットの詳しいところも全然分かっておりませんので、以下はあまりシリアスに受け止めることなく鼻で笑ってお読みいただけますよう、お願いいたします。

 そもそもあんまりダンドウット方面は聴いていないので知らなかったのですが、こちらの方も大変な事になっているのですな、お先ッ走り連中のシーンは。
 ともかく情け容赦もなく打ち込みのリズムが打ち込まれます。まさに”機械的”なハードさで降り注ぎます。ずっと聴いていると、暴力的とさえ感ずる慌しさ。
 ともかく重くせわしないリズムを隙間なく投下し、音楽を受け取るものの思考能力を奪い、どさくさ紛れにあらゆるものを売りつけちゃおうかとか、そんな思惑さえ感ずる、リズムの絨毯爆撃状況であります。

 しかも同じリズムトラックを何度も使いまわすので、曲の違いがよく分からん。歌手が歌いだすまで曲が変わったのが分からなかったりします。
 また、その歌手たるものが、ロリータなる芸名からも分かるようにヘロヘロの甘ったるいアイドル声でありまして、もはや昔日のしみじみと南国情緒香るマレー歌謡の面影はどこへやら、であります。

 もっともロリータ嬢もこのアルバムの顔のようなものに過ぎないようで、中の曲を半分も歌ってはおりません。それ以外にも名前も知らないような歌手たちが入れ替わり立ち代り歌うのですが、どれも似たようなもの、いい加減な世の中舐めきったアイドル声をドスドスと打ち込まれるリズムの狭間に響かせます。これ、もはやダンドウットの形をしている音楽なのかどうかも分かりません、私には。

 もっとも、そのいい加減が不愉快かと言えばそうでもないのでありまして、むしろそのいい加減さ、適当さが、なんだかいかにも時代、と言う感じで心地良く響いてくるのですから、世捨て人のつもりの私もまたそれなりに一人の現代を生きる者として病んでおります。もうこの世界では万国共通となってまいりましたか、ヴォコーダーを通して変調させたロボ声なんぞをまじえて歌われると、「ああ、この変な声、もっと聴きたいものだなあ」とか何とか感じているのでございます。

 なんなんスかねえ、気が付いたらいつの間にか世界中のアイドル・ポップスがパフューム化とかしていたりする日が来るんでしょうか。と詠嘆調で書いてはみたが、結構それも楽しみかもしれないなんて考えている初夏の夜なのでした。

アナトリアの歌

2009-05-12 02:13:24 | ヨーロッパ
 "Ta Tragoudia Tis Anatolis"by Stelios Kazantzidis

 かって、アナトリアにギリシャ人たちが住んでいる土地があった。そこが20世紀のはじめの戦争の結果、ギリシャからトルコに割譲されることととなる。
 住んでいたギリシャ人たちはギリシャ本土に逃げ帰り、ある者は受け入れてくれる場もないまま首都アテネの悪場所に流れ込んだ。小アジアの民俗音楽を身に帯びた彼らは、アテネのハードな暗黒街暮らしの中で、例のギリシャのブルース、レベーティカを生み出す事となる。

 ・・・事実関係の説明はこんなところで良いんでしょうかね?こういう説明的な文章を書くのが一番退屈で面倒なんだ。その上、どこか間違っていたりして、大喜びでクレームつけてくる人がきっといる。
 向いてないんだなあ、こういう作業は。世の中にはウンチク並べるのが大好きって奴もいるみたいだけどさ、私は大嫌いだ。こういうのって、書かなきゃならないものでしょうかね?
 どういうグチ言ってるんだろうなあ、我ながら。

 で、そのような”引揚者”の子供として生まれたのが、このギリシャ歌謡”ライカ”の王様、ステリオス・カザンジディスである、と。
 そのような立場の人が、このようにトルコの歌ばかりを取り上げたアルバムを作った。すべてトルコ語による歌唱である。まだカザンジディスがデビュー当時、60年代の作品。

 これにはどのような意味合いがあるんでしょうか、いろいろ想像してみるんだけど、良く分からんのですわ。トルコの古典音楽家の作品から民謡まで取り上げ、それら楽曲の採取地域も、いろいろいわくありげな場所に及んでいるところから、彼なりの何らかのアナトリア音楽論のタグイを繰り広げているようにも思えるんだが。と言って、トルコで発売され受け入れられているんだから、先に述べたような問題に関わるテーマではなさそうだ。

 と、分からない事だらけのアルバムなんだけど、横溢するエキゾティックな響きと素朴な哀感が好ましく感じられて、何度も聞いてしまっているのだった。素朴なメロディはどれも、対訳無しでも歌詞内容の見当がつきそうな気までしてくる。
 冒頭のトルコの古典音楽家のペンになる歌が特に気に入っていて、これはトルコだギリシャだと言うより、ある種のロシア民謡みたいにも聴こえる。それもかなり歌謡曲チックな。この、いわくありげな曲調の妖しさに、ワールドもの好きの血が騒ぐのよなあ。

 などとこのアルバムの昔語りに身を任せていると、いつのまにか巨大な銭湯と化したポスポラス海峡があり、さまざまな勢力が消長を繰り広げたアナトリアの歴史が、その壁に書かれた素朴な物語絵として目の前に広がってくるような幻想にとらわれるのだった。



爆走車椅子inキンシャサ

2009-05-11 02:10:16 | アフリカ


 ”Tres Tres Fort”by STAFF BENDA BILILI

 あのとてつもないアフリカン・バンド、コノノNo.1の仕掛け人氏が満を持してまたもコンゴ国はキンシャサから送り出したバンドがこれで、もう目端の利く人は話題にしているから、私がいまさら話題にする必要もないのかもしれない。が、文章にしたいから勝手に書く。文句あっか。
 キンシャサの街頭で路上生活をしている、体にハンディキャップを持つ人々と、彼らの世話をしている少年たちによるバンドとの事。小児麻痺で下半身をやられた人がほとんどらしく、皆、車椅子に乗っているのだが、その前部に自転車の前輪が付けられて暴走可能(?)な構造になっているあたり、その心意気や佳し。集合したメンバーを見ると、バイクに乗った暴走族にどうしても見えてしまうあたり、痛快である。

 バンドの楽器事情も、一応ギターやベースは使っているのだが、全体にそこはかとなくコノノに通ずる”ゴミの山から拾って来た”みたいな風格?が漂う。
 ことに、少年メンバーの一人が奏でる一弦ギター(何のことはない、空き缶の上に張り渡した弦を引っ張ったり緩めたりして音程を作り、指で弾いて演奏するもの)が素晴らしい。
 大正琴がスチールギター化したみたいなスラーのかかった哀感ある音で、不安定な音程をむしろ逆手にとって奇妙な幻想味をまき散らしながら、メロディを紡いで行く。こいつが実にファンキーで、アップテンポの曲で長めのソロなど取られると、たまりません。もっとやれもっとやれ。しかし、妙なものを発明したものだ。

 バンド全体のサウンドはやはり破格のリンガラと言ったところなのだが、冒頭の曲が高揚した際に発生したリズムの”ガッガガガガッダガッガッガ”とハードなクラーベの乗りに、あのスリット・ドラムの響きなど思い出し、彼らにルンバロックの残滓を見て勝手に嬉しくなったりする。
 3曲目のリンガラ化したジェイムス・ブラウンのナンバー”Sex Machine”など、ことに楽しい。その他、レゲなども良い味を出し、幅の広いところを見せつける。

 素晴らしかったコノノNo.1だったけど、すぐに名前を聞かなくなってしまった。この連中は、どこまで行ってくれるんだろう。ブラック・アフリカの音楽、このところ景気の良い話は聞けないので、なんとか前線に踏みとどまって欲しいものだ。
 ところで彼ら、どこの出身なんだろうか?標準リンガラ語で歌っているのだろうか?なんか妙に”空耳アワー度”の高い歌詞群なのだ。妙な「日本語歌詞」を口走っている場面、いくつも見つかる。リンガラ語って、こんな響きだったっけ?

お陽さまのジャグバンド・ワルツ

2009-05-10 02:04:37 | 北アメリカ


 ”Satisfied” by John Sebastian & David Grisman

 昔馴染みのベテラン・ミュージシャン共演によるこの種の同窓会的アルバムも、この頃はすっかり定番となってしまった。とか言ってるけど、こちらも結構喜んで手に取っているんだけどね。

 このアルバムは、60年代にアメリカン・ルーツミュージックをベースに素晴らしいポップスの魔術を見せてくれた素敵なバンド、ラヴィン・スプーンフルを率いていたジョン・セバスティアンと、70年代の初め、ブルーグラス・ミュージックの中から生まれた鬼っ子(?)であるアコースティック・ジャズの”ドーグ・ミュージック”の創始者たるデヴィッド・グリスマンの共演盤・・・
 ってなんか関係あったっけ?と3秒考えたらこの二人、60年代のフォークブームのおり、”イーヴン・ダズン・ジャグバンド”を一緒にやっていた仲間だったな、そうだそうだ。すっかり忘れていたよ。

 無名時代の僚友だった二人が、波乱の時代を乗り越え功成り名を遂げ、そして年老いた今、30数年ぶりに再会し、青春時代に血を滾らせたアメリカの古いフォークソングを再演する。中ジャケの、落ち葉に覆われた中庭のベンチで片寄せあって楽器を抱えている、リラックスしきった二人の姿がそのままこのアルバムの音楽性を表している。

 大体はジョンがギターを弾き歌い、グリスマンがいつもの達者なテクニックのマンドリンで痒いところに手が届くバッキングを差し挟んで行く。ジョンの緩さがグリスマンのテンション高き疾走を抑えているのか、それともジョンのペースでダレダレとなりかける演奏をグリスマンの早弾き魂が支えているのか。
 ともかく、古い黒人ブルースや白人民謡や50年代のエバリー・ブラザースのヒット曲などが、午後の散歩のテンポで流れて行く。特に急ぐ用事がある訳じゃないからね、今のこの二人には。こちらもご相伴にあずかるつもりで、体のあちこちのネジを緩めてみようか。

 ジョンの声が、老いが忍び寄っているというべきか、ちょっと苦しそうな感じもあるのが悲しい。以前、喉の病気を患ったなどという噂を聞いたが、その辺が影響しているのだろうか。 あの、人を食ったような薄笑いを浮かべての、とぼけたジョンの歌いぶりが懐かしい。何曲かで聞かせるブルース・ハープの響きなんかは結構迫力はあるんだから、ジョンの体力はまだ大丈夫だと信じておくことにする。

 そしてアルバムは、まさにお日さまの下の昼寝賛歌みたいに素晴らしくのどかな”ジャグバンド・ワルツ”で幕を閉じる。昔々、メンフィスの黒人たちが好んで演奏していた美しいワルツ。ハーモニカとマンドリンの響きの中にジョンとグリスマンの、そしてすべての人の魂が、時間と空間を越えて彷徨う茫漠たる”永遠”に触れる瞬間を見たように思うのは、こちらの馬鹿げた妄想か。
 そして忘れた頃に演奏が始まる、シークレット・トラックはあの曲。まあこれは、CD買った人だけが楽しめば良いことだね。

ヴォン・コの夜

2009-05-08 02:31:04 | アジア


 ”TE THIEN DAI THANH”by VAN HUONG

 これには一聴、驚かされた。そしてなんだか嬉しくなって来たのですね。まだまだ面白い音楽には出会えるものなんだなあ。
 ベトナムの大衆音楽でヴォン・コというものだそうです。かの国の軽演劇の中から生まれて来たものだそうで、語り物の要素が強く、時に演劇そのものと聴こえる瞬間もある。

 このアルバム、冒頭は西洋音楽の影響のうかがえるポップスっぽい演奏を従えて歌いだされ、まことに軽快な印象を与える音楽で楽しいんですが、そいつは途中でフェイドアウト。代わって強力に東アジアの香り漂う謡い、というか語り物の世界に突入してしまう。頭の”軽音楽”はなんだったのだと言いたくなるんですが、そいつは出会い頭の景気付けのみのようで。
 謡いの形式は中国の京劇の近親かとも聞こえるんですが、あの甲高く歌い上げる節ではなく、かわりにリズミックでクールな早口の語りが表に出てくる。

 謡いのバッキングに使われているのはベトナムの伝統楽器なんでしょうか、琴の様な構造のものやギター様の楽器の独奏や合奏。その奏法も相当に独特で、チュインチュインと音を跳ね上げるチョーキング(?)奏法が多用される。ギター系の楽器の低音部の大きく揺れる動きなんか、まるでブルースマンがボトルネック奏法をやってるみたいだ。
 そういえば昔買ったベトナム民歌のCDにボトルネック・ギターみたいなプレイが聴けるのがあって、「こりゃ何だ?」と不思議に思ったものだけど、ここが出所なのか。

 チュインチュインと早弾きされる琴の音列とベトナム風ボトルネックギターがリズムのさざ波の如きものを形成し、そいつに乗って粘りつくようなベトナム語の謡いは流れて行く。
 その狭間から織りなされるヒリつくようなリズムのスリルは、その響きまるでブルース、を通り越して、全然関係ないけどアフリカのハイライフ・ミュージックとかを思い出させてみたり。ディープな世界だわ。
 これで歌詞というかセリフの意味が分かればもっと面白いか、あるいは嫌になってしまうかだろうな(?)

 いや本当に、まだまだこの音楽の事など何も分からないのだけれど、へんちくりんなものに出会ってしまった時の興奮はとりあえず十分に味わえていると言えるだろう。
 うわ。今、ベトナム語の語りが一瞬、”ジングルベル”のメロディになった。なんだなんだ、どういう物語が進行中なんだとジャケを検めるも、何の参考資料も見つからず。
 でも。そういえばここに収められている音源は、1960年代末にレコーディングされたものらしいけど、当時南ベトナムには、大量の米国軍が進駐していたわけだよね。う~むむむ・・・

 久しぶりに開高健の本でも引っ張り出してみるかなあ。などと思いついたりする春の雨の夜。

マグレブ書生気質

2009-05-07 02:34:30 | イスラム世界

 ”Chants et poésie de Kabylie”by Ait Menguellet

 一部で話題を呼んだカビール系シャアビのシンガー・ソングライター、”アルジェリアのボブディラン”と称されているルネス・マトゥープなんかと同系統の人なんでしょうね、この人も。ギターを抱えて、北アフリカにおける少数民族の一つ、カビール人の伝統色濃い自作曲を歌います。

 完全にウードの代用をさせてる感じのフォークギターのソロに導かれて、小編成の民族打楽器群がリズムを刻み、そしてAit Menguelletの抑制の聴いた歌声が自作曲を歌い始める。音楽的にはこの人完全に伝統派なのかな?半端な知識しか持ち合わせない私にはこの人の歌うメロディ、まったくの民謡調に聴こえます。

 ところで。マトゥープなんかにも感じた事なんだけど、ネットで見つけたいくつかの写真なんかで彼、Aitの顔立ちなんか見ていると、ある種の文学青年の翳り、みたいなものが見て取れるんですね。なんかミュージシャンと言うよりは小説でも書いていたほうが似合う感じのインテリ臭さを感じる。
 実際、彼の書いた詞の英訳など見つけて読んでみたんだけど、かなり入り組んだ表現を含む文学的なものでね、あくまでも民俗調を守り続けるその音楽性と、なんだか隔たりを感じてしまったりするんですね。

 彼の歌にしても、そんなインテリっぽい知性が勝っている感じで、民俗音楽としての熱さや臭味がやや薄まっている感じ。この辺って、現地の人々にはどう捉えられているんだろうか?
 そんな気がして来た状態で聴きなおすと、彼の音楽が民俗調であるのも、「民衆と共にあらねばならぬ」みたいなインテリの人っぽいタテマエから来ているんじゃないか?なんて勘ぐれないでもない。

 ルネス・マトゥープなどは、少数民族であるカビール人のために社会的、政治的な歌を歌い続け、ついには射殺されてしまった、なんて逸話があるわけですが、彼なんかもどうなのかなあ?”その存在”と、”その音楽性”を切り離して考えると、結構頭で音楽をやっていた人なんじゃないだろうか?なんて気もしてくるのですね。

 いや、最近聴きはじめたばかりの音楽の、そんな微妙な部分、分かりっこないんですがね、ろくに資料もない状態で勘ぐってみたって。ただ、マトゥープの歌声を初めて聴いた時に、予想していたよりもずいぶんインテリっぽいクールな歌声なんで意外に感じた、その辺の間合いが気になって仕方がないんです、いまだに。

 まあ、”社会運動”の初期にはその種のインテリが列をリードするってのは普通にあることで、別にそれが悪いと言いたい訳じゃないんですが、それに関する一般民衆の本音を知りたいなあなんて、ふと思ったもので。


アラブの夢、タンゴの闇

2009-05-06 03:35:05 | イスラム世界

 ”Arab Tango”by Soumaya Baalbaki

 1930~50年頃に中東地域では、タンゴに影響されたアラブポップスなんてものが歌われていたようですね。
 これは、かって愛好されたその音楽を、レバノンの若手実力派歌手が今日に再生してみせたものだそうです。2008年作。

 アルゼンチン・タンゴとアラブ音楽とは、これはどちらも事情をよく知らないものにとって、その孕む闇の深さというものは、なかなかのものがありそに見えますな。結構似たもの同志の音楽といえるような気がする。
 どちらも、なにやら込み入った美学に元ずくらしい迷宮的な構造の音楽が、なにやら官能的な匂いを振りまきつつ流れて行く。どこか、関係者以外は口を出せないような、ちょっと密室の秘儀っぽい雰囲気など漂わせている辺りも似ています。

 よくもまあ、こんなにややこしいもの同志が融合したものだと感心するんだが、聴いてみると確かに良い具合の融合が成されていて、”闇+闇=闇の三乗”くらいの結果は出ているんじゃないだろうか。

 まず主人公の女性歌手、Soumaya Baalbakiが良い味を出している。過ぎ去った時代に愛された迷宮的音楽の再生という微妙な作業をするにはうってつけの地味で上品で、でも秘された華をどこかに秘めた堅実な歌唱を聞かせるタイプです。
 演奏のほうも、タンゴ関係の楽器構成にアラブの民族楽器が紛れ込んだ編成なんですが、これはどこまでオリジナルの”アラブタンゴ”のアレンジに忠実なのでしょう?なかなかに端倪すべからざる奥深さを持って聞かせる。

 最初のうちはタンゴの軽快さや南欧っぽいメロディのトキメキを披露してくれていたんですが、そのうち、タンゴにしてはややリズムが粘るなあ、などと思わせ始め、と、演奏はズルズルとアラブの伝統音楽に横滑りして行く。タンゴの甘美な闇と交じり合いつつ、アラブ音楽が秘める濃厚なる闇の底へ果てしなく降下して行く。時に、ジャズの手法なども導入しつつ。

 なんとなくノスタルジック・・・と言ったって、アルゼンチンの波止場がバクダッドの飲み屋街に通じていた昔なんてあった筈はないのであって。
 音楽が現出させる甘やかな虚構の空間がひと時、不可思議な夢を物語り、そして消えて行く。この音楽が味あわせてくれる酔いは深いのです。


ホームルームはもうたくさん

2009-05-05 04:28:44 | その他の日本の音楽


 というわけで。”RCのキヨシロー”逝去、ということで、あちこちで追悼文の花盛りであって、そんな時期にこんな事を書いたって、一つも得するところはないんだが、一昨日、「あまりキヨシローは好きじゃない」とか書いてしまったんで、そのあたりの事情について説明してみます。
 といっても、大してややこしい話じゃないんだけどね。まあ、あんまりテンション上げずにお読みいただければと。

 ちょうどmixiにおけるマイミクの一人、it's meさんがパフォーマーとしてのキヨシローの本質を一言で表現されているんで、そいつを借用します。

 >清志郎の本質って、悪ふざけが大好きな中学生のマインドを一生持ち続けた点にあるんだろうな

 まあ、そういうことなんだろうと思います。で、it's meさんはこれを肯定的な意味で書かれているんだけど、私はその部分を評価しない、と。つまりはそれだけの話です。

 私は、大きな存在になってそれなりに影響力も持ってしまった”RCのキヨシロー”が、そのような方法論(?)でロック界に君臨する事で、日本のロック界に”ロック=中学生の悪ふざけ、でかまわない。むしろそれが素晴らしい、”なんて了解が生まれてしまったと思ってます。で、それは非常に退屈な結果をもたらしたと思っている。
 おかげで、日本のロックがいつまでも中学生レベルの意識で歌われていて、その先に進む事がない。これはなんとも情けないよ。30過ぎても40過ぎても50になっても中学校の校庭でガクラン着てタバコ吸って得意になってる奴らばかりじゃしょうがないじゃないか。

 その後に登場して来るブルーハーツなんて連中にも中学印のバトンは手渡されたんではないかとも思う。あれが日本のパンクを代表するバンドなんでしょ、ブルーハーツってのは。彼らなんかも一つの典型だね。
 彼等の行動パターンってのも、やっぱり「中学生の悪ふざけって素晴らしい」が存在証明になっている。彼らの歌う歌詞なんてものは、ほんと、中学校のホームルームが永遠に続いている世界、みたいな感じでね(きっとファンの人たちは、「そんな少年の心をいつまでも持っているところがステキ!」とか言ってるんだろうなあ)

 いつぞやもテレビで偶然、彼らの演奏風景を見てしまったんだけど、メンバーが彼らの”お手本”であるのであろう、イギリスのパンクのバンドがかって売り物にしていた顔の歪め方など得意げにいまだに真似しているのには、ちょっと背筋が寒くなる思いがしてしまったのだった。こいつら、こんな風に成長から目を背けたまま年老いて行くつもりなのか。
 ・・・つもりなんだろうねえ。まあ、それで商売になっているのなら、それで良いんだろうなあ。うん。


悲嘆美の回廊

2009-05-04 04:32:45 | ヨーロッパ


 ”Ashram”

 イタリアはナポリのバンド、という事で興味を惹かれて聴いてみたんだけど、これはクセモノだ。あまりイタリア臭さというものを感じさせず、どちらかといえば汎ヨーロッパ的な耽美世界を探求しているみたいなんだけど・・・
 なんかねえ・・・昔、”雨音はショパンの調べ”なんて歌が流行ったけど、あの曲の主題による変奏曲集、みたいな雰囲気もありですな、あえて俗な表現を使ってみたが。

 あくまでも繊細にして切ないメロディを奏で続けるピアノと、流麗なる調べを泉の如くに沸き立たせる豊かな響きのバイオリン。それらを従えて、やや中性的な男性ボーカルが暗黒の中で悲嘆の調べを朗々と歌い上げる。ヨーロッパの退廃美の底から湧き上がって来るエキスみたいな音楽だなあ。

 クラシック色が相当に濃く、その系統のプログレの一種みたいにも思えるけど、それとも別の美意識を持ってやっているようだ。”美と悲嘆”をど真ん中に置いて悪びれる事がない。臆面もなく泣きのフレーズを積み重ねて行く。その結果としてムード・ミュージックのすぐ隣りあたりに表現の形が至ってしまう事を恐れない。ともかく美しければ勝ちだ、と腹を据えているんだな、彼らは。

 そして最後に収められた、聴くまでが一苦労の(?)シークレッットトラックのアヴァンギャルドな響きに、哀愁世界の吟遊詩人に身をやつした彼らの心中に潜む悪意が顕わとなる運び。やっぱりヨーロッパ、一筋縄では行かない。