都市の基盤整備が一段落した1980年代、多くの地方都市で芸術や文化に基づく町づくりが盛んに行われたことは記憶に新しい。
豪華な博物館、美術館、文化ホールなどのハコモノが次々に建設された。相場とかけ離れた高価な絵画が購入され、どこにでもある文化財が仰々しく展示された。海外からはクラシック、オペラ、ミュージカルなどの一流アーチストが高額なギャラで次々に招聘された。
しかしバブル崩壊後の財政難から経営難に陥り、維持が困難になっている施設も多いときく。
もちろん財政が豊かならよいという話ではない。厳しい今だからこそ文化行政の内実が充分に検討されなければならないのである。
市民社会の形成とともに発展した近代の芸術や文化には、普遍性を目ざすことによって、土地の歴史や地縁・血縁を超越・排除する傾きがある。だからこそ市民社会が世界に拡大するにつれて、その芸術も世界に広がっていったのである。
とはいえ、西洋においても、すぐれた芸術がそれを育てた土地と無縁でないことはいうまでもないだろう。でなければ芸術の意味自体が失われてしまう。それをふまえた上での普遍性なのである。
日本では明治以降、西欧崇拝、西洋コンプレックスから西洋の芸術・文化を無反省に許容する土壌ができている。しかし西洋の風土に花開いた文化をそのまま移植すれば、借り物による無個性化はさけられない。
それが町おこしや文化行政に適用されると、印象派の絵画を展示する美術館や、クラシック、オペラ、ミュージカルなどを招聘するホールが日本中に氾濫することになる。これが財政難以上に地方文化行政が直面する大きな問題点なのだが、行政も当の芸術家このことには驚くほど無頓着である。
だからこそ芸術ではなく芸能なのである。
中世に起源をもつ芸能は近代の芸術や文化のよってきたるところであり、祈りと踊り、布教と芸能が一体であった時代の影を引きずっている。主人公は人間の姿をしていても、その本質は神や魔的なものであり、それを通じて土地土地の固有な霊、地霊と結びついている。
そこに息づいているのは抽象的な精神ではなく、自然的で荒々しい原型的な魂、そのエネルギーである。
こうしたありかたは一見、普遍性とは無縁のようだが、その原型性においてもうひとつの普遍性を形成しているのである。
近代の洗練以前のそのエネルギーをとらえ返すことは、貧血気味の近・現代芸術に活力を与えることになるし、同時に歴史的な町づくりや文化行政の突破口にもなるだろう。(この項さらにつづく)
豪華な博物館、美術館、文化ホールなどのハコモノが次々に建設された。相場とかけ離れた高価な絵画が購入され、どこにでもある文化財が仰々しく展示された。海外からはクラシック、オペラ、ミュージカルなどの一流アーチストが高額なギャラで次々に招聘された。
しかしバブル崩壊後の財政難から経営難に陥り、維持が困難になっている施設も多いときく。
もちろん財政が豊かならよいという話ではない。厳しい今だからこそ文化行政の内実が充分に検討されなければならないのである。
市民社会の形成とともに発展した近代の芸術や文化には、普遍性を目ざすことによって、土地の歴史や地縁・血縁を超越・排除する傾きがある。だからこそ市民社会が世界に拡大するにつれて、その芸術も世界に広がっていったのである。
とはいえ、西洋においても、すぐれた芸術がそれを育てた土地と無縁でないことはいうまでもないだろう。でなければ芸術の意味自体が失われてしまう。それをふまえた上での普遍性なのである。
日本では明治以降、西欧崇拝、西洋コンプレックスから西洋の芸術・文化を無反省に許容する土壌ができている。しかし西洋の風土に花開いた文化をそのまま移植すれば、借り物による無個性化はさけられない。
それが町おこしや文化行政に適用されると、印象派の絵画を展示する美術館や、クラシック、オペラ、ミュージカルなどを招聘するホールが日本中に氾濫することになる。これが財政難以上に地方文化行政が直面する大きな問題点なのだが、行政も当の芸術家このことには驚くほど無頓着である。
だからこそ芸術ではなく芸能なのである。
中世に起源をもつ芸能は近代の芸術や文化のよってきたるところであり、祈りと踊り、布教と芸能が一体であった時代の影を引きずっている。主人公は人間の姿をしていても、その本質は神や魔的なものであり、それを通じて土地土地の固有な霊、地霊と結びついている。
そこに息づいているのは抽象的な精神ではなく、自然的で荒々しい原型的な魂、そのエネルギーである。
こうしたありかたは一見、普遍性とは無縁のようだが、その原型性においてもうひとつの普遍性を形成しているのである。
近代の洗練以前のそのエネルギーをとらえ返すことは、貧血気味の近・現代芸術に活力を与えることになるし、同時に歴史的な町づくりや文化行政の突破口にもなるだろう。(この項さらにつづく)