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テスラ研究家・新戸雅章の静かなる熱狂の日々

エジソンも好きなテスラ研究家がいろいろ勝手に語っています。

★はずれの町から盆踊り(2)

2005-10-18 21:38:17 | Weblog
 藤沢の歴史というとき、市民ですら藤沢のルーツが中世にあることを忘れがちである。藤沢の町はもともと鎌倉時代に時宗総本山清浄光寺(遊行寺)の門前町にはじまった。しかしこの歴史的知識はあっても、最初にイメージするのは東海道五十三次の宿駅であり、歴史の探求もそこに焦点が当てられがちである。
 しかし藤沢はまずもって中世都市であり、鎌倉の周縁都市であった。このことを強調するのは歴史学者、清田義英氏である。清田氏は好著「鎌倉のはずれの風景」(江ノ電沿線新聞社)の中で、一遍が逗留した「龍の口」、すなわち片瀬から腰越を含むあたりの地域を鎌倉の「西のはずれ」と位置づけている。
 そこには日蓮の法難や蒙古使節の処刑地として知られる龍ノ口刑場があり、一遍が踊り念仏を奉じた片瀬の浜の地蔵堂があった。まさに地獄と聖域が混在する周縁の地だった。
 清田氏は「龍の口」だけでなく、遊行寺やその近辺までを含めて鎌倉のはずれだったのではないかと指摘されている。藤沢は中世都市であったばかりか、はずれの中世都市でもあったのである。
 このご託宣は市民にとってはあまりありがたくないだろう。だれでもはずれよりは中心のほうがよいに決まっている。鎌倉のはずれの町よりは、湘南の中核都市のほうがきこえがよいし、誇りももてそうな気がする。
 しかし中世鎌倉のはずれであった藤沢は、近世にあっては江戸のはずれであり、今も東京のはずれに位置する。このことは事実として受け止めたほうがよい。
 それに、開き直ってしまえば、はずれも決して悪くない。いや、はずれだからこそ見えてくる可能性もある。
 文化人類学者山口昌男氏の周縁論によれば、はずれ、すなわち周縁とは、闇と混沌に支配された場所であり、そこでは本来交換不能な内と外、生と死、此岸と彼岸などが交換可能となる。こうした周縁的土壌によってはぐくまれた文化が芸能である。
芸能の本来の役割は、その表現によって共同体の人々に反秩序の闇を示し、生きる意味を確認させることにあった。同時にそれを通して共同体のけがれを排除する役目もあった。とりわけ重要なのは死のけがれの排除、すなわち死者の鎮魂だった。芸能のルーツたる中世芸能、たとえば能、神楽、平家琵琶、説経節、踊り念仏などにはその特徴が顕著に見られるが、だからこそ死者と生者が交わる周縁がふさわしいのである。
 また、芸能のにない手にとっても周縁は本来の住処となる。
 網野義彦氏も指摘するように、中世芸能をになった説経語り、琵琶法師、遊行聖、熊野比丘尼、遊女、白拍子、ばくち打ちなどの芸能民は、商人、職人、乞食、などとともに諸国をめぐった漂泊民だった。
 彼らは周縁、境界を渡り歩きながら、秩序と反秩序をつなぐ媒介者(異人)として存在した。死者供養を本分とした遊行聖が、鎌倉のはずれの龍ノ口で踊り念仏を奉じたのは偶然ではない。
 はずれはが育てた芸能は、現在進行中の藤沢駅北口周辺の町おこしでも重要なキーワードなっている。
 来年、商工会議所が中心となって藤沢で全国盆踊り大会が企画されている。そこで藤沢発の創作盆踊りの立ち上げが予定されているが、その原型は一遍が継承・発展させた踊り念仏になるはずである。中世以来のはずれの都市にはまことにふさわしい町おこしだといえる。
 そして、これは藤沢の町づくりや文化行政にとっても画期的なことなのである。(この項つづく)