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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

私は祭りが嫌いだ

2009-07-15 04:15:33 | いわゆる日記


 私の街の夏祭りが、この15,16日にありまして、これが結構規模がでかい。昼間は各同好会の神輿が走り回り、夜は各町内会が工夫を凝らした山車が街中を巡幸する。祭り太鼓が街中に響き渡り、そして街中が飲っぱらいだらけになる。
 まあ、祭りの規模がでかいのはいいんだけど、斜陽と噂のわが街の若者人口は都会に流出してしまっているので、それを支える人員が決定的に足りない。
 結果、ワシら残留住民の負担は増すばかりとなっております。 老人会からお呼びの来るような年齢になるまで町内会青年部を抜けさせてくれないんだから。人手不足で引退させちゃくれねーんだ、ほい。

 ともかく毎年、祭りの準備、当日の進行、終わったあとの片付けと、やらにゃならんこと山積みでね。もう面倒くさいのなんの。このクソ暑いのになあ。助けてくれ。助けると思って助けてくれ。ひー。
 と言うわけで私、祭りが大嫌いです。 もうじき、夜が明けたら始まるんだなあ。嫌だなあ。きぐしねいです。

 それでですね、ここで何が情けないといって、我ながら弱ったものだ、ワールドミュージック愛好家としてこんなんでいいのかいと疑問に思っているのが、祭りの夜に引き回す山車の上で叩かれる祭り太鼓の打ち出すパターンが、どうも理解できずにいること。こんなになさけない事ってないよ、子供の頃から聴き馴染んできた祭り太鼓、いまさら分からないもないもんだ。
 なんというのかなあ、こちらが昔から聴き馴染んでいるロックやらラテンやらアフリカ音楽やらのパーカッション・アンサンブルの、ドカドカリズムの渦に乗せてゆくあれとはまた違う仕様であって。そもそも踊りの伴奏と言うか踊りと一つになって成立するものなんだろうな、本当は。リズムの乗りだけじゃノリが分らない。なんか描写音楽みたいな感じなんであって。

 どうやらこれらは、江戸起源の”三社祭礼囃子”ってものの流れらしい。”鎌倉”とか”馬鹿囃子”なんて演目名からして、そうだからね。
 とかもっともらしいことを言っているのだが、そもそも私は和太鼓の譜面(と言うのか何と言うのか)が読めない。子供の頃、練習をサボって逃げ回っていたムクイといえばその通りなんだが、とにかく読めない。あんな、白丸黒丸が並んでいるだけの譜面から、あれこれ変化するリズムパターンを読み取れるもんだとか、いまさらながらに初心者丸出しの発言を成している。

 他の連中はさあ、あの譜面に書かれている通りのリズムを無心に打ち出しているから、「この太鼓の曲は、構造が難解である」とか、どうでもいいようなことで悩んだりしないんだよ、つまりはそれだけの話でさあ。
 などとブツクサ言ってみたりしなければならない、だから私は、祭りが大嫌いだ。夏祭りなんかさあ、遠くで聴こえる祭囃子を聴きながら、わけありの場所で一杯やっている、これが一番と思うんだがねえ。そうも行かないのさ。弱ったもんだねえ。くそったれめが。

マレーのディスコの物語

2009-07-14 03:36:51 | アジア


 ”Zamzam & The Twilites”

 心ときめく60’の熱い夜。南国マレーシアの最先端を突っ走った、いっちゃんナウい奴らを聴け!サイケでハレンチで、とびっきりいかしたGS、それがザムザム&トワイライツだっ!
 とでも言うよりしょーがねえだろうよ。またも出会ってしまった60年代マレーシアのグループサウンズなんですがね。
 いやもう、これがまったく日本のあの頃の音と変わらないんだから参ってしまいました、私は。なんか、オノレの過去を暴き立てられているみたいな気分になってくるのな、聴いていると。

 ギンギンギョンギョンテケテケテケと鳴り渡る、深くエコーのかかったエレキギターがかっこいいぜっ。シュワーッと尾を引くチープなコード弾きのオルガンの音は、これはエーストーンのコンボオルガン使用としか思えないっ!ボンボコボコボンとピック弾きのエレキベースは妖しく蠢き、そしてブレイクはジャッキー・アブドゥラ・イブラヒム・吉川のドラム・ソロだっ。ツクツクトコトコボカボカドコドコジャ~ン!ってねえ。

 ここで聴かれる、いかにも”ベンチャーズのコピーをやっていた連中にロックなつもりのAm-G-F-E7のコード進行の歌謡曲を歌わせる”って方法論、これはまったく60年代末の日本で行なわれていたGSサウンド作りと変わりない。ネタも技術も同水準で、少なくともマレーシアと日本で当時、まるで同じ志向の音が偶然だか必然だか知らないが、作り上げられていた事がわかる。

 歌詞内容が分からないんだが、マレーシアGSの諸君も、霧に巻かれた古城で眠る清純な乙女のファンタジィを歌っていたんだろうか?、もしかして女もののタイツなんか履かされて。ステージでは失神かなんかかまして見せて。「本当に僕らのやりたいのはこんなのなんですけどねえ・・・」と戸惑いながら演じて見せるのはレコーディングはさせてもらえないストーンズ・ナンバーの「タイム・イズ・オン・マイ・サイド」だろうか。いやもうジミ・ヘンの「パープル・ヘイズ」をやっていたんだろうか。

 聴き返すごとに、映画監督・金子修介氏が著作「失われた歌謡曲」の中で発したフレーズ、「日本は東南アジアの国なんだ。戦争に負けた貧しい国なんだ」が脳裏に浮かんでならないのだった。
 そして、気が付けばサウンドの狭間からほのかに立ち上っているマレー歌謡臭。ガラム煙草の残り香のような・・・




ミャンマーのクリムト式ロック

2009-07-12 04:32:56 | アジア


 ”Min Ko” by Sone Thin Par

 まずジャケを見てのけぞってしまったんだけど、これ、画家クリムトのパロディでしょ?絵の中の人物の、顔の部分だけ歌手のそれと入れ替えてる。こういう事をやっていいのかどうか知りませんが、まあ文句言うような立場の人はミャンマーのポップスなんか、存在も知らないだろうしな。

 ミャンマーのポップス歌手、Sone Thin Parの2005年作であります。と言っても、この人を聞くのはこれがはじめて。ざっと聴いて行くと、相当の洋楽志向の人と分ります。ロックやジャズなど、アメリカ方面のポップスをかなり完璧に消化した音楽を聞かせる。カバーものなんかもあるものかも知れません。何しろ当方、昨今の米国製のポップスをまったく聴いていないんで、具体的に曲名を挙げられないんだが。

 Sone Thin Par女史の、ハスキーで押しの強い輪郭のはっきりしたボーカルは、欧米のポップスをかなり年季を入れて歌ってきたと想像できます。ともかくカッコいいや、あれこれ言う前に。確信を持って堂々と歌い上げる姿勢に、強引に納得させられてしまうんだなあ。(我々日本人の視点からはかなりヤンキー臭くも見えるんだが、これが現地ミャンマーにおいてはどのような意味を持つかは、よく分らず)

 バラードものなんか聴くと、ロックを相当に入れ込んで聴いてきたし歌っても来た、そんな年季を感じます。かなり良いよ、思わず聴き込んでしまったもの。
 9曲目のカントリー・ナンバーなんか確実にアメリカ曲のカバーであって、ミャンマー語のカントリー&ウエスタンってのも妙な手触りのものなんだけど、これも慣れた歌いっぷりで不自然さを感じさせない。

 ともかく気風のいいロック姐さんという感じで、気持ちがいいですね。いや、それだけだったらわざわざミャンマーくんだりのポップスのCDを苦労して手に入れて聴くまでもないんで。
 そんなロック姐さんであるSone Thin Par姐御の音楽にそこはかとなく漂う、いわく言いがたいミャンマー風情が、またたまらんのです。ほのかに差すアジアの気配、かすかに兆す南の陽光。
 まあ、ご本人はそんな気配の存在など自覚せずに「こんな音楽が好き!」って気持ちだけでやっているんでしょうけどね。

 それにしてもアメリカン・ポップスの諸パターンを完璧にこなすバックのバンドにものけぞった。これ、すべてミャンマーのミュージシャンがやっているのか?なんてことに驚くのも失礼な話か。

 試聴です。アルバム収録曲ではないんだが、なにしろジャケに書かれているミャンマー文字の発音も分からない状態で、どう探したらよいやら。まあ、Sone Thin Parという歌手はこんな感じ、ということでお許しください。
 ↓



ガラス庭園の記憶

2009-07-11 04:27:13 | ヨーロッパ


 ”Essere O Non Essere”by IL VOLO

 天国にしか咲かない夢幻の花の周りを一匹の蝶が戯れ飛び回っている風景などを空想させる、そんな繊細極まるギター・ソロが奏でられ、そしてロックのリズムが入ってくるのだが、それも非常に精微を極めるもので、こみ入った細工のガラス彫刻など連想させる。

 空高く飛翔する各楽器の絡み合いの狭間に揺らめくオリエンタルな音要素が印象的な曲、”Medio Oriente 249000 Tutto Compreso ”は、遥か宇宙空間から見下ろした中央アジアはタクラマカン砂漠と、そこを行くラクダに乗った太古の絹商人たちの姿までが浮ぶような、カラフルな幻想に満ちている。
 幻想の中を吹きぬける地中海の風と、イタリアらしいクラシック趣味が音に深い奥行きを与えている。

 そんな具合に、イタリアン・ロックの一方の頂点とも言うべきバンド、イル・ヴォーロの美しい幻想世界の旅は続いて行くのだが、しかしこのアルバム製作の年代はもう1975年。すでにイタリアン・ロックの全盛時代は過ぎ去っていた。
 1970年代の初めの、ほんの1~2年でイタリアのロックは遥かな高みに駆け上がり、奇蹟のような美しいサウンドがいくつも生まれ、そしてある日、それらはすべて崩れ去り、時代遅れの遺物として忘れ去られた。

 何でそんなことになったのか分からない。シーンが一挙に盛り上がり過ぎたせいでもあろうか。当時のイタリアは騒然たる政治の季節で、ロックバンドのライブ会場がテロの標的にされたことがイタリアン・ロック界の気勢を削ぎ衰退を招いた、などという説明も聞いた。どれも本当のような気がし、また、見当外れのような気もする。
 ともかく、つかの間のイタリアンロックの夢の時間はほんの刹那で終わりを告げ、シーンをリードしたミュージシャンのある者はヒーローにはお定まりの悲劇の夭折をし、またある者は、滑稽なクイズ番組の司会者という姿でしたたかに生き残る。

 しがないイタリアのGSから発し、70年代の初めにはとてつもない甘美な音楽世界を構築していたフォルムラ・トレなるバンドが発展的解散をした後、腕利きのミュージシャンを集めて結成したのが、このイル・ヴォーロなる音楽集団だった。
 このつわもの集結も、上げ潮に覆われ、崩れ去らんとする浜辺の砂の彫刻のような危うさを見せ始めたイタリアン・ロックのたそがれを自覚し、身を寄せ合って滅びから身を守ろうとしたと思えなくもない。
 だが結局このバンドも2枚のアルバムを残しただけで解散し、歴史の闇に消えた。

 たまにイタリアンロックが奇蹟のように燃え上がったあのつかの間の季節が懐かしくて、このタグイを取り出して聴いてみるのだが、音はそのたびに記憶していたよりも繊細になっているような感触があり、そのうちいつか盤に針を下ろしても何も聴こえては来ない、そんな日が来るような気もするのである。いや、盤が擦り切れてとか、そういう話をしてるんじゃないってば。




平岡正明氏、死去

2009-07-10 02:56:12 | その他の評論

 ニュースによると評論家の平岡正明氏が死去、とのこと。死因は脳梗塞と言うが、彼の病気のことなど知らなかったし、いやむしろあのオッサン、ことによると俺よりも長生きするぞ、とか思っていたので非常に意外である。
 平岡氏を我々の年代は「韃靼人宣言」や「ジャズよりほかに神はなし」などという、ある意味奇書によって知ったのだが、もう少し下の世代には、山下洋輔や筒井康隆やデビュー当時のタモリなどが絡んで一騒ぎした”冷やし中華”のバカ騒ぎなどの関連で知ったのではないか。

 ジャズであるとか革命であるとか。その後は歌謡曲論やら香港映画やら河内音頭などなど。 氏の著作に始めて接した当時の私は、高校生だったか、もう大学に入っていたか。いずれにせよ当時の私はジャズ・ファンでもなければ革命を夢見てもいなかったのだが、それでも一発で彼のファンになってしまったのは、その爆走する重戦車みたいにパワフルな暴論の嵐を目の当たりにするのが快感だったから。そうするうちに、私の興味もいつか氏のそれに引きずり込まれていったのだが。

 実際、彼の評論に接する時の感覚は、文章を読むより音楽を聴くのに近かった。時々、大々的に行なわれるそそっかしい誤爆も、愛嬌があって楽しかった。この誤爆癖は、彼が私に残した最大の影響かとも思うが、なに、スケールが全然違う。

 平岡氏の文筆稼業の中でもっとも不思議なのは、彼の著作がほどんど文庫本化されずにいること。これはどういうことなのか、知っている人は教えて欲しい。売れそうにない?彼はそれこそカルト的人気を誇るもの書きであったし、彼ほどの知名度もない作家の本がいくらでも文庫本化されているではないか。
 こりゃまたどういうことだ。世の中まちがっとるよ~♪と植木等も歌っていたぞ。今からでも遅くない、いや、本当は遅いのだが、ともかく。平岡正明の文庫本を出せ。それも、”一挙百冊刊行”とか、そのくらいの無茶をやらなきゃ埋め合わせが付かないぞ、出版関係者諸君!

 晩年(と、もはや言わねばならないのだが)の氏の著作には、あまり納得はしていなかった。どうも時代との切り結び方に迫力がなくなっていたような気がして、もどかしく感じていたのは事実だった。だから、そのうち復調して落とし前をつけてもらいたいと思っていたところだったのだ。
 などと書けば、平岡が怒って生き返ってくるんじゃないかと思っている。いや、本気で。


 ○評論家の平岡正明氏死去 (時事通信社 - 07月09日 14:02)

 平岡 正明氏(ひらおか・まさあき=評論家)9日午前2時50分、脳こうそくのため横浜市の病院で死去、68歳。東京都文京区出身。自宅は横浜市保土ヶ谷区仏向町1338の25。葬儀は13日午前11時から同市西区元久保町3の13の一休庵久保山式場で。喪主は妻秀子(ひでこ)さん。
 ジャズや歌謡曲などの音楽、映画、文学と幅広い分野で評論活動を展開した。主な著書に「山口百恵は菩薩である」「筒井康隆はこう読め」「マイルス・デヴィスの芸術」「シュルレアリスム落語宣言」など。 

ブルガリアの祈り

2009-07-09 02:46:49 | ヨーロッパ


 ”The Bulgarian god”by Epizod

 ブルガリアのややプログレがかったハードロックのバンドである。内容は、かってブルガリアがオスマン・トルコの支配を脱した際に活躍した国民的詩人の作品を音楽化したもののようだ。
 1曲目、大掛かりな賛美歌風コーラスが立ち上がり、その音の壁を突き破るようにして、重戦車のようなロックバンドの音が押し寄せてくる。太く歪んだギターのリフ、男たちの野太い声で聴かせるブルガリア語の荒々しいコーラス。哀愁を含んだマイナー・キーの旋律が東欧気分を大いに盛り上げる。

 そもそもこの大仰な重苦しさ、ある種のダサさ、いかにも元共産圏の国のバンドらしい持ち味と思え、そのあまりの典型ぶりに、ちょっと微苦笑を誘われないでもない。内ジャケを検めれば、揃いも揃って長髪、サングラス、ヒゲ、革ジャンのメンバーの写真が今どき暑苦しい。ちなみにこの盤は2002年録音。
 バンドの結成は1988年で、その直後、ブルガリアの一党独裁政権が倒れたのちに行なわれた国内初のロックコンサートへの出演を、バンドの輝かしい歴史として彼らは誇りに思っているようだ。80年代の終わりに歴史が強烈にスイングしたあのひとときの血の騒ぎを、その魂として燃やし続けているバンド、そんな連中なのだろう。

 曲は進み、民族楽器の響きに導かれ、ゲストの少年合唱団や民謡歌手たちも加わっての大コーラスが披露され、「ブルガリア魂は死なず!」とか、そんなシュプレヒコールが聴こえてくるような雰囲気。
 西欧の、いわゆるハードロックのバンドをそのままお手本にしたようなサウンドに比較して、彼らの持ち歌は相当にブルガリアの民族の血を意識して作られたものと感じられる。どれも重苦しく強い哀愁の感じられる土臭いメロディばかりだ。時にロシア民謡めいてみたりする、そのメロディに乗せて、男臭いボーカルは張り詰めた感情を剥きだしにして、重く雲の垂れ込めた空に突き刺さる。ディストーションのかかった重たいギターのリフをお供に。

 その無骨な感情表現を、だが、稚拙と笑う気にはなれない。アジアとヨーロッパとの狭間にあり、常に異民族からの脅威に晒されてきた歴史を持つ小国の国民の、これは切実な想いなのだろう。つたなさダサさを越えて響いてくるがゆえに、かえってその想いの一途さに胸を打たれるのだ。

 以上、今この時にも恐怖に打ちのめされそうになり、明けない夜の闇を見つめているのであろう新疆のウイグルの、あるいはその他、不当な暴力にさらされている世界中のすべての人々にこの文章を捧ぐ。つたない、想いの尽くせない文章で申し訳ないが。


 

新疆の月の下で

2009-07-07 05:31:20 | アジア
 新疆民歌・「在銀色的月光下」




<中国>ウイグル族3千人暴動 100人死亡情報も
(毎日新聞 - 07月06日 11:43)

 【北京・浦松丈二】中国国営・新華社通信は6日、新疆ウイグル自治区ウルムチで5日夜、暴動が発生し、多数の一般市民と武装警察官1人が死亡したと伝えた。AFP通信によると、約3000人のウイグル族住民が約1000人の警官と衝突した。中国の少数民族自治区で大規模な暴動が発生したのは08年3月のラサ暴動以来。

 同自治区のヌル・ベクリ主席は6日朝、6月26日に広東省の玩具工場で漢族とウイグル族が衝突し、ウイグル族2人が死亡した事件を「テロ・分裂・過激分子」が利用した、との談話を発表した。

 新華社通信は、在米ウイグル人の人権活動家、ラビア・カーディルさん率いる在外ウイグル人組織「世界ウイグル会議」が暴動を主導したと伝えた。これによると、5日からネット上にウルムチ市中心部でのデモ呼びかけが広がり、群衆は車両や商店などを襲撃、放火した。

 同自治区共産党委員会と政府が警察を動員し、暴動参加者を逮捕。事態はほぼ落ち着いているという。

 中国中央テレビは、多数の住民が警察車両を襲ってひっくり返したり、車から出火する様子を放映。顔から出血し、立ちすくむ女性らの姿も映し出した。

 一方、日本ウイグル協会はウェブサイトで「武力鎮圧で死亡した人は100人を超え、多数が負傷した。幼い子供や女性もいた。逮捕された人は1500人を超える」とする「世界ウイグル会議」の声明を公表した。

 声明はまた、「広東省で発生した悲惨な虐殺事件(玩具工場での衝突)、ウイグル人に対する民族的虐殺に抗議するため、(5日に)ウイグル民族がウルムチの中心地4カ所に計1万人集まり、平和的なデモで自らの不満を表した」としている。

 同自治区では08年8月の北京五輪開幕直前にも治安機関を標的にした襲撃事件が相次ぎ、中国からの分離独立を主張するウイグル族2人に死刑判決が下された。

慈悲の波、寄せる岸辺に

2009-07-06 03:40:05 | アジア


 ”心霊菩提”by 水琉璃

 なんか精神的に大分参っているのかも知れないです、さっき気がついたんですが。いやね、数日前からなんとなく体調悪いなあと感じてたんだが、もしかしたら心のヤマイ傾向が出て来ているのかも?って気もして来た。それが証拠に、このように台湾の仏教音楽なんかを引っ張り出して聴いてみたくなったりしているわけです。

 ”心霊菩提”なんて、日本人の漢字イメージから行くとホラーみたいなタイトルと感じてしまうんだけど、中華圏には”心霊音楽”なる、何と申しましょうか仏教ネタのヒーリング・ミュージックとでも言うべきもののジャンルがあるようなんですね。こんなアルバムには時たま出会います。

 なんでも、ある台湾の歌手が北京語による優れた心霊音楽のアルバムを作った功績により北京政府に表彰され、チベットの仏蹟への参拝を特別に許された、なんてエピソードまであるそうな(心霊音楽は台湾語で歌われるケースが多いようです)
 そんな話からすると、この心霊音楽、中国人の世界ではこちらが考えるよりも大きな存在であるのかもしれません。

 このアルバムの主人公は、黄思亭(本当は亭の字に女偏が付く)という名で普段は活動している台湾の実力派女性歌手なんだそうですが、これは仏教名か何かなんでしょうか、水琉璃なる名でこのアルバムをリリースしている。心霊音楽をやるときだけの名前なのかもしれません。
 彼女、しっとりと落ち着いた美声の持ち主で、このような御仏のお慈悲を歌うアルバムには確かにうってつけの人材といえましょう。

 殷々と流れるシンセの響きやアコースティックギターの爪弾きなんかをメインにした河のせせらぎの如き癒しのサウンドをバックに、彼女が心を込めて歌い上げる仏教歌の数々。本気で癒しです。もう、すがる気分になって来てます。ヤバい、ほんとに私、深く静かに疲れているのかも。

 冒頭に収められた、彼女の仏教名と同じタイトルの曲が、なかなか興味深い出来上がりになっております。あの喜多郎が作ったシルクロードのテーマのようでもあり沖縄島唄めいてもいるメロディで、そして確かに歌の後ろにはシンセの響きの狭間で沖縄の三線の音がしている。面白い事を考えたなあ。これ、沖縄から誰か招かれて三線を弾いたんだろうか?

 歌詞は、漢字の意味を追っていってもなんだか分らないし、言葉の響きとしても聞き慣れないものだから、古いお経にそのままフォーク調のメロディを付けたものではないでしょうか。ちなみに作詞者は”藥師佛心咒”なる、よく分らないが畏れ多そうなお名前となっております。
 他の詞も、”吉祥天女心咒”とか”清淨法身佛”なんて、「人間扱いでいいのか?作詞印税とか行ってしまったら逆に失礼にならないか?」とか妙な心配をしたくなるお名前が作詞者として並んでおりまして、この辺も昔の徳の高い坊さんの説法にメロディをつけたとか、そんなものであるような気がします。

 なんか”気がします”ばかり連発してしまいますが、まだいろいろ謎の部分が多いです、この心霊音楽ってジャンル。まあ、いちいち気にせず、勝手に癒しの音楽として聴いてしまっていますけどね。


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ヴィクトリア湖の雲

2009-07-05 02:28:25 | アフリカ

 ”ENDURANCE”by Les Mangelepa

 もう日付けは昨日になってしまったが、いきなりクソ暑い夏が一気にやって来た土曜日、もはや海水浴モードに入ったかに見える観光客諸氏の群れを背に家にこもり、役所に提出する面倒くさい書類2通を作成するために、めったに座らない仕事机の前に座り、覚悟を決めてCDプレイヤーをスタートさせたのだった。
 仕事のBGMに選んだのが、東アフリカ流浪バンドの元祖と言えるのかもしれないコンゴ・ルンバの”マンゲレパ”のアルバムだった。

 バンドのメンバーから機材から家族に家財道具一切までを車に押し込み、より良いギャラを求めて国境線を越えて東に向かったコンゴ(当時ザイール)のまさに”トラベリン”バンドの流浪の物語は以前、この場に書いたことがある。
 まあこちらは、アフリカの太陽の下、そんな風の吹くままのバンドマン稼業なんてちょっと良いじゃないか、とか適当な事を言って安易なロマンに酔っていればいいが、現実にやるとしたら、そりゃハードだろう。と言いつつ、資料さえ揃えば彼らを主人公に小説の一本も書いてみたい欲望にも駆られる。

 東アフリカを流浪したバンドを聴く醍醐味の一つは、行く土地それぞれの現地の音楽に影響を受け、というより現地の人々に”受ける”ためにというべきか、さまざまに変化していったサウンドだろう。もともと彼らが持っていた”本家コンゴ・ルンバ”たるリンガラ・ポップスに現地のリズムが、メロディが、言語が混じりこみ、異郷にある緊迫感と自由さが不思議に交錯した、独特のファンキーさを形作っていた。

 そんな東アフリカ出稼ぎバンドのサウンドに惹かれ、彼らのアルバムを夢中になって探していたのは、もう20年以上も前になるのか。このCDだって、そんな昔の思い出のために買い求めたものだが、実は一度も聴く事もなく退蔵していたものだった。
 久しぶりに聴くマンゲレパの音は、当然というべきか二周りくらい時代が過ぎてしまった音がした。アフリカン・ポップスの辺境にあって時代を鋭く撃つ!なんてこちらの思い入れから解き放たれたその音からは、やっぱり広大なアフリカの草原の空を悠然と行く雲のイメージがこぼれた。

 ボコボコと地の底から湧き出るような、独特のファンキーなフレーズをベースが奏で、ドラムが奔放に暴れまわる。ギターやホーンやボーカル群が織りなすアンサンブルもずいぶん隙間の多いもので、そのルーズさが生み出す高いファンキー度が嬉しい。
 間奏でホーン・セクションがアドリブ合戦を繰り広げる一幕があるが、こいつも”東アフリカ・ジャズ研究会”とあだ名を付けたくなるような気楽なノリがあり、こちらまでニコニコと幸せになってしまう運びだ。

 そんなバンド全体を覆うアバウトな乗りが、”本家”コンゴのバンドの、きっちりと構築されたアフリカン・ルンバの美学をあざ笑うかのように陽の当たる草原を疾走して行く。良いよなあ。昔好きだった”Malawi Zikama”なんて曲は今聴くと、倍、良い曲に感じられる。いかにもアフリカらしい、野生が吠えてる感じのメロディ。

 そんな彼らの出稼ぎ天国も永遠のものではなく、そのうちケニアの政府が自国の芸能者保護のために外国人バンドを締め出すような政策を取り、バンドたちは一番の稼ぎ場所を失って、さらに東アフリカの辺縁へと流浪を続けて行くのだった。
 とか言ってるが私も彼らのその後の運命を知らない。ちょうど同じ頃、本家コンゴで興隆を迎えていた過激なサウンド、”ルンバロック”の諸作がようやく日本でも手に入るようになって来ていて、そちらを追いかけるのに忙しくなって来ていたからだ。うん、観客なんて気ままなものです。

 いやほんとうに、彼らはその後、どうしたんだろう?などと今頃思ってみても、調べようもないことなのだが。
 

●試聴はこちらで


オラタイ・ジ・アイスドール

2009-07-04 05:23:14 | アジア

 ”MAR JARK DIN” by TAI ORRATHAI

 しばらく興味を失いかけていたタイの音楽をまた聴くようになったのは、ブログ仲間のころんさんの文章を読んでいて、そのタイ音楽への入れ込みようがなんとも楽しそうだったので、こちらもついお相伴にあずかりたくなったというのが正直なところだろう。

 で、ころんさんの足跡を追う形で(?)「なるほど、これは面白い」「これは趣味じゃないかな」などと勝手な事をいいながら、あれこれ聞いていっている次第なのだが、今回はころんさんが苦手とされているらしい、ターイ・オラタイ女史である。

 今日のルークトゥン界で名歌手の評価のある歌手ではあるが、ころんさんは彼女の歌を苦手にしておられると言う。
 その理由として「歌い口が非常に硬くてその歌唱に人間的な温かみが感じられない」「あまりに生真面目な歌で、ユーモア感覚とか洒落っ気なんかはほとんど感じられない」「感情が表に出てこないクールな歌で、場合によっては少々重苦しい感じがします」といった事柄をころんさんはあげておられる。

 なるほど、それで実力派となれば、”鋼鉄の女”みたいな歌を聴く羽目になりそうだな。とは思ったものの、そんなターイ・オラタイを聴いてみる気になったのは、彼女が美人だからである。なんの事はない、ジャケ買い、ジャケ買い。
 で、彼女のCDを買い込んだ私は、まあ試しに、恐る恐る聴いてみたのだが、ありゃりゃ、特に違和感なく聴けるじゃないか。

 ころんさんはああ言ったが私には、むしろ好ましい歌手として感じ取れる。確かに硬くクールな歌い方かもしれないが、むしろその硬質な感じがテクノというかプラスティックというかハイテック感覚と言うか(いちいち表現が古いな、俺は)無機質っぽくてカッコいいじゃないか、なんて私は感じてしまったのである。

 たとえばどこかにコンクリート打ちっぱなしの、広くて何も置かれていない部屋があって、そこに風が吹き抜けている。窓の外には人っ子一人いない公園があり、空には灰色の雲が垂れ込めている。そんな風景がターイ・オラタイの歌の向こうにあって、その風景のかもし出す孤独が、疲れた現代人の私には歪んだ癒しになる、そんな感じ。なんて説明では、分らない人にはますます分からなくなるか。

 そして、あまり感情の起伏がなく湿度も低く設定された彼女の歌が私には、日常生活で背負い込んだ人間関係の重苦しさにひとときの涼風を吹き込んでくれるような感触も感じ取れるのである。うん、重苦しい歌どころか、その逆。
 まあね、同じ歌にもいろいろな聴こえ方がありますという事で、こんな感想も許してもらうしかない。

 それにしても現地タイの人たちは彼女の歌を、実のところどのように受け止めているのか。そして私のこの感想を聞いて彼らはなんと思うのだろうか。


●試聴1

●試聴2