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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

大阪の夏がはじける

2009-07-28 02:57:01 | その他の日本の音楽

 ”踊れ大阪総おどり”by 月乃家小菊(助演井筒家小石丸)

 NHK総合テレビで深夜、午前3時とかに時々やっている「映像スケッチ」とか言ったかな、映像詩のシリーズが好きだ。同じフィルム作品が何度も放映されるのが普通で、なんだか扱いは本放送が始まる前の埋草みたいなんだが、時の流れからひととき抜け出したみたいな独特の安らぎがあり、そうそうバカにしたものではない。

 このシリーズのうちに”夏の大阪”をテーマにしたものがある。まあ、定番の大阪の風景を映して行くのだが、その画像処理にちょっとした工夫があり、気に入っていた。何と表現したら良いのか、うだるような夏の陽が照りつける通りの上にされた打ち水、その上に立ち上がる仄かな陽炎の中に揺らめき、幻想めいた姿で現われる街の姿。そんなタッチの画像が新鮮だったのだ。

 よくあるコテコテ表現による大阪とはまるで違う、白日夢の中みたいな不確かな街の様子が面白く、また、使われているBGMも夏というには叙情的なものが多くて、画像の淡い印象と相まって、なんだか切ない真夏の一齣となっていた。あれは好きな作品だったな。最近は放映されなくなってしまったが、又見る機会があればと願っている。

 ”踊れ大阪総おどり”は、今年、”OSAKA元気!レコーズ”なるインディーズから出された江州音頭のシングルである。音頭をとる月乃家小菊はこれがデビュー作のようだが、若い女の子らしいフレッシュで愛嬌ある歌唱(もちろん、実力もある)が痛快で、なかなか好ましい出来上がりのダンスミュージックになっている。

 もはやこの種の音頭ものにおける、三味線と和太鼓にエレキギターやベースが合流する形の演奏形態は、異文化混交などと騒ぎ立てるほどもないほど馴染んだものになっているが、ここでも軽快でイマジネーションに溢れるリズムを打ち出し、聴くものの血を騒がせずにはおかない。

 歌い出しの”暮れそで暮れない浪速の空は”の一節は、夏の夕暮れを待ちかねる音頭と盆踊り好きな大阪っ子の、もう櫓が待ちきれなくてウズウズする気持ちが伝わって来るようだ。
 音頭をはらんで息付く現代都会・大阪が、あくまでも明るくポップな都会的音頭によって描き出されて行く。音頭の、この身のこなしの軽さが良い。ポコポコと弾むカラーボールのようにカラフルに。

 うん、気に入ったね。とりあえず、月乃家小菊ファンの名乗りを挙げておく。このノリのそのままで、今度はアルバムを!と大いに期待します。



ラップランドのキャンディーズ

2009-07-26 04:00:22 | ヨーロッパ

 ”Giitu”by Angelin Tytot

 健康のためのウォーキングを日課としているのだけれど、この暑さじゃもう歩けやしないよ。もちろん、灼熱の日差しを避けて夜になってから歩いているのだが、もうこうなっては同じ事だ。すぐに暑さでヘトヘトになってしまい、予定の行程を半分も歩かずに消耗し切って家に帰る羽目になる。
 「まったく酷い夏だ。こんなにハードな夏は今年が初めてじゃないか」と、汗びっしょりのTシャツを脱ぎ捨てながらぼやくのだが、この何年もそうぼやいているというのは、これは毎年、こちらの体力が落ち続けていると言うことではないか。パッとしない話だなあ。

 そんな夜に、まるで季節感の逆なというべきか、凍りつくような北国の音楽を引っ張り出してしまったのは、ネット上の知り合いのピノ作さんが突然にヨーデル・ファンと化して、ヨーデル歌唱の画像などガンガン日記に張り始めた事へのリアクションがきっかけだった。
 あんまり素っ頓狂なヨーデルへの愛情吐露に敬意を表し、こちらもかねてよりヨーデルに対して抱いていた仮説と言うか妄想のようなものを書き込ませていただいた。下のようなものである。

 ~~~~~

 あっとすみません、サーミはラップ人のことです。ラップランドに住んでいる北欧先住民を彼らの言葉で呼ぶと”サーミ”となるのです。
 で、太古は北ヨーロッパ全域に住んでいたサーミ人が侵入して来たゲルマン人に追われ、スカンジナビア北端で少数民族として生き残ったわけですが、彼らが古くから持っているのが、謎の音楽として音楽学者連中を悩ませている”ヨイク”なる民俗音楽なのです。
 ↓



 こいつが征服者であるゲルマン人の文化のうちに潜り込み、ヨーデルへと進化したのではあるまいかと、これは私の勝手な想像ですが。
 
 ヨーデルの構造、地声と裏声との行ったり来たりというより、もしかしたらコブシの一種ではあるまいか、なんて気もします。
 その方向で考えると、日本の演歌歌手なら、亡くなった”骨まで愛して”の城卓也とか、あるいは前川清なんかが上手いのかも?ああいう、なんというか”肩で歌う”って感じのパワフルな歌い方の人に向いているような。

 ~~~~~

 まあ、単なる思いつき、それ以上のものでもないのだが。

 この北欧先住民、ラップランドのサーミ人の音楽には一時、相当に入れ込んでいたものだった。この場にも書いた記憶があるが、彼らの行なう不可思議なボーカリゼーション、”ヨイク”の、太古より伝わるエキゾティックにしてシャーマニスティックな独特の神秘的な響きを、取り付かれたように聴き込んでいたものだ。

 で、ここに挙げたのは、そんなラップ地方出身の女の子三人組のコーラスグループのアルバムである。彼女らは何枚かのアルバムを出していて、民俗音楽そのままのコーラスを聴かせるものから電子音楽を取り入れたものまで、さまざまな形で、サーミ民族の伝承音楽を聴かせてくれている。
 この種の地味な民俗音楽が若い女の子のグループによって歌われると言うのが、何しろアイドル好きの当方としては嬉しくて、彼女らを”ラップランドのキャンディーズ”などとあだ名して、あちこちで無理やり話題にしていたのだが、特に彼女らの名が世に広がるのに寄与出来ることもなかったようだ。そりゃそうだな。

 その後、私の音楽の好みも若干の角度が変わり、彼女らの音楽からも遠のいてしまったのだが、こうして彼女らの動画など見直してみると、やはりその野生の神秘を秘めた音楽は魅力的であり、もう一度その音楽を追いかけてみたくもなってくるのだった。まあでも、この気候はいくらなんでも合わないんで、冬になッたらと言う事で、ね。



いや、評判を呼んではいないでしょ?

2009-07-25 02:36:18 | 時事
■民主批判アニメ、ユーチューブでアクセス殺到
(読売新聞 - 07月24日 17:44)  

 どちらの政党の主張が正しいとか、ネガティブキャンペーンの是非とか、そういう話は置いておくとして、この問題のアニメ、ほんとに面白いか?これといったギャグがあるでもなし、ただ退屈なだけと思うが、違うか?

 これが「ユーチューブ」でアクセス殺到とか、評判を呼んだとか。それ、嘘だろう、どう考えたって。アクセス数の小細工は可能だろうし(自民党員は百数十万人いるんだからね。全員動員すればもう一桁上のアクセス数も達成可能))

 うん、だから政治がどうこう言っているんじゃなく、面白くもなんともないものが面白いことになって話が進んでいる事が気持ち悪くて仕方がないんだけどね、当方としては。

 改めて確認しておくけど、つまんないでしょ、これ?評判呼ばないでしょ、これ?
  ↓



 ○民主批判アニメ、ユーチューブでアクセス殺到
 (読売新聞 - 07月24日 17:44)

 自民党の広報局は「民主党の政策には財源の裏付けがない」という批判のメッセージを込めたアニメCM作品を制作、インターネットの動画投稿サイト「ユーチューブ」で約18万件のアクセスを数え、話題になっている。
 民主党の鳩山代表に似た男性がレストランで女性に「僕に交代してみないか。出産や子育ての費用も教育費も、老後の生活費も介護の費用も、僕に任せれば全部OKさ」とプロポーズ。「お金は大丈夫?」とけげんそうに尋ねられ、「細かいことは結婚してから考えるよ」と押し切る内容だ。
 評判を呼んだことから、自民党広報局は第2弾のCMも検討している。

海辺の叙景

2009-07-24 03:43:14 | 奄美の音楽

 (写真は、日刊スポーツの記事より)

 悲喜こもごも、と言いましょうか、こんなことにも勝ち組と負け組みがいるのか、なんて思ったりもしてしまった皆既日食祭りでしたが。

 でも私、ちょっと良い光景かなあ、とか思わないでもなかったのでした。だって、普段はそんなことにはまるで関係ない日々を送っているたくさんの人たちが、天体の移動という大宇宙の壮大なドラマと対峙したわけでしょう、スーパーで買った太陽観察用遮光メガネと、握り締めた南島への船のキップを得物として。

 こいつは結構好きなイメージだなと、日食見物に出かけた人々の辿ったさまざまな運命をテレビ越しに見物しながら思っていたのです。また、今回、恰好の観測場所として注目が集まったのが奄美諸島というのも素敵じゃないか。それも悪石島なんて、こんな事でもなければ大多数の人々は耳にする機会もなかったろう、造化の神が置き忘れた(?)みたいな場所にぽつねんと位置する小島に注目が集まるなんて、風情のある話だ。

 古い古い、正体不明の失われた民族が残した遺跡なんかを調べると、祝祭の場のメイン会場に冬至の日の日差しとかがちょうど差し入る構造になっていたりする。そんなにも昔から、宇宙の運行と同じ波動のうちに自らの生の時を定義したい、なんて憧れのうちに人々は生きて来たのだろうか。

 なんかねえ、日食観察のために島に渡った人々が、地球と言う岸辺に置き忘れられて途方に暮れる遥か銀河の彼方からの旅人、なんて風に見えてきたりもするのですよねえ。そういえばポール・サイモンの”アメリカン・ソング”の歌詞にもありました、”我々は月に行く船で、あるいはメイフラワー号で、この混乱の時代に辿り着き”って。

 それにしても我らが城南海ちゃんの壮挙。あの日食の瞬間、ひとときの闇の訪れた奄美の海岸でプロモーション・ビデオを撮ったそうな。それはファンタスティック!それとも、こいつもやっぱり”たくましい商魂”の内に入るんだろうか。
 で、テレビのインタビューで話していた、南海ちゃんの日食に関するコメント。「暗くなったときより、また明るくなるのが不思議でした」
 しかし、ずっと暗くなったままって訳にも行かないからねえ。でもまあ、気持ちは分かる。なんとなく。



奄美のエコー

2009-07-22 04:49:12 | 奄美の音楽

 ”姉妹(うなり)たちの唄が聴こえる”by 山下聖子・平山淳子・西俊子

 昨日、21日の夕方に、山の手の別荘地帯を気まぐれに車で走ってみたのだが、高みは濃密な霧に覆われていて、ちょっと驚かされたのだった。たまにすれ違う下りの車は皆、昼間と言うのに思い切りライトを燈していて、いかにも異常事態という雰囲気である。霧が出ているのは承知していたが、ここまでとは。
 別荘地帯に入り、木立の間から遥か眼下に広がる街を見下ろしてみると、そこは濃密な白い流れに覆われ、市街地と海の境も判別しがたい状態である。へえ、あの霧の底にさっきまでいたんだ、と思うと不思議な気分になってくる。この山の手ばかりではなく、我が街のすべてがいつのまにか、濃密な霧の海に飲まれていたのである。

 昨日までのカンカン照りの夏日を思えば、なにやら異様な気象の変化である。先ほどすれ違った車たちの真似をしてライトを点灯し、視界の悪さを考慮せず不意に飛び出す無謀を犯す車に注意しつつ、ゆっくり進めて行く。どのみち、この辺りをこの時刻に走る車などいもしないのではあるが。
 家に帰りつくと、居間のテレビが中国地方を襲った豪雨のニュースを流していた。その雨がそのままこちらにやって来る、という形勢でもなさそうだったが、とりあえず雨に対する心構えだけでもしておくべきかと思われた。日本中を不安定な気象が覆っているような形勢である。

 ”姉妹たちの唄が聴こえる”は、”奄美民謡大会”の第28回(平成19年)の優勝者である山下聖子のアルバムである。同じ笠利町の出身である同世代の歌い手、たとえば里アンナの華やかさや中村瑞稀の鋭さと比べると、一見地味な芸風に感ずる歌いぶりである。地味な日常生活の連なりの中からふと湧いて出たような当たり前さをまず、感じとってしまう。
 が、聴き進むにつれ山下聖子の、スッと背筋を伸ばして端正な文字を一つ一つ書き付けて行くような、奥ゆかしげな唄の表情の、その裏に秘めた強靭なバネと、地を這うようなビート感覚にだんだん気が付きはじめ、そうなるともう一度CDを頭から聴き直さずにはいられなくなってくるのだった。

 海に生きる奄美の上代の民は、姉妹(ウナリ)信仰なるものを持っていたそうな。板子一枚下は地獄の海の生活の中で、姉妹神の霊験により命を救われた、などという。
 アルバム製作者の弁として、ここでその姉妹神との関わりも語りつつ、このアルバムでは合唱としての奄美島唄に焦点を当ててみようとした、と語られているのを読んだ事がある。つまりそいつが”姉妹たちの唄”というわけだ。
 その割には、いつもの掛け合いと違う、女性歌手たちが声を合わせてメロディを歌って行くという形が、このアルバムでは8曲目の”とらさん長峰節”でしか聴けないのが物足りない、というか残念だ。確かに女性コーラスによる奄美島唄は珍しく、新鮮な響きがして好もしく感じられるので、ここはもっともっと聴いてみたかった。次の機会には全曲コーラスもので、どうか頼みます、関係者諸氏よ。

 さて明けて22日、国内で46年ぶりとなるとて話題となっている皆既日食が起こるまで、もう何時間もない。日本国内ではもっとも長時間日食が観測できるとかで、奄美の島々に突然にスポットが当たり、こいつも意外な展開となった。天候がどうももう一つでじれったいが、ここは奄美のためにもきれいに天体ショーが観測できる事を祈る。

 もっとも、その一方で中国地方では大雨による被害が出ているなどと知らされると、大自然の荒ぶる神が「吹けば飛ぶような人間どもの思い通りになる自然ではないぞ」と念を押しているのではないか、などと怪しむ気持ちも、まあ、ムチャクチャであり被害を受けられた方々には無神経な表現で大変申し訳ないが、起こって来たりもするのである。
 なにしろ神秘のエコーを秘めた地、奄美が絡んでいるのだから、当方の性格からして、さまざまな想像が浮んでしまうのも仕方がないのだ、お許し願いたい。





鳩間の港の猫時間

2009-07-21 03:43:48 | 沖縄の音楽

 ”ヨーンの道”by 鳩間可奈子

 あれは何を調べようとしたんだっけなあ、ともかく私はその日、You-tubeの沖縄シマウタ関係をあちこち覗いては何ごとか探し出そうとしていて、そのついで、というのもなんだけれども、その時偶然に出会った鳩間可奈子という女の子の歌う”鳩間の港”なる歌がちょっと気に入ってしまったのだった。
 まあ何のことはない、宴席で手拍子を打って歌うのにちょうど良い、調子の良いメロディの波止場のお別れ唄なんだけど、その気のおけないメロディが気に入ってしまったのだった。一杯機嫌で歌ってみたら楽しいだろうなあと。

 その後、彼女が”鳩間の港”を含むアルバムを沖縄現地のレコード会社から出していると知ったんでさっそく取り寄せてみた。今、ジャケ裏を見てみるとこのCD、2000年の暮れに出ている。何を今頃言っておる、だろうなあ、シマウタ好きの人たちには。こんな文章は。いやあ、私は沖縄の音楽を聴きはじめたのはごく最近のことなんで、ここの所はお許しを願いたい。

 この鳩間可奈子と言う歌手は沖縄は石垣島方面の出で、八重山の民謡をことに好んで歌ってきているとのこと。まあ、今述べたように八重山の民謡の特性、といった事もまだ全然分っておりません、私。申し訳ない。
 まあそんな訳で、なるほど、歌詞カードを見ると”八重山民謡”と記された曲もいくつかある。そして。完璧にシロートの私がこんな事を言うのもなんだけれども、確かにこれまで聴いてみた沖縄のシマウタとは、趣が違っている。なんというか、よりのんびりした時間が流れているみたいな手触りを感じたのだな、彼女の歌に。それが八重山の民謡の特徴か彼女の個性かは分からない。どちらでもある、みたいな気がするのだが。

 あまり”プロ!”って感じにいきり立つよりも、そこら辺の音楽好きの女の子がふと唄ってみた、そんな気負わなさがふんわりとした唄の個性となって彼女の歌には漂っている。そののどかさが心地良く思えた。ちょうど、このアルバムに八重山民謡で”与那国の猫小”って曲が入っているが、港に住み着いた野良猫が暖かな日差しの中でのんびり昼寝をしているみたいな、そんな風景が浮かんでくる彼女の唄の個性が、なにやら嬉しいのである。

 アルバムの主人公である鳩間可奈子の個性はそれでいいとしても、このアルバムの作りはしかし、いかがなものか。すべてではないが、何曲か問題ある曲が目につく。
 冒頭の”トゥバリャー”や4曲目、”NIFAI-YOU”あたりの、妙に都会的なオシャレなサウンド作りはどうだろう。彼女の個性には全然合っていないと思うのだが。どうなっているのだ。策士、知名定男らしからぬ誤算と言えまいか。
 それでも製作者の期待に答えようとロックなバックトラックに負けじと力んで声を張っている彼女がなんだか痛々しくもある。

 憤りさえ感じたのが、中山千夏作詩、小室等作曲の”老人と海”なる曲。なんスか、これは?70年代の亡霊が立ち上がって来たとしか思えない、時代錯誤もはなはだしい曲だが、何で彼女にここでこの唄を歌わせねばならないのか?理解に苦しむ。時々、プロデュースの知名定男は、こういう変な行動に出るのだよな。
 それでも昨年出た2枚目のアルバムでは、妙な小細工は成されることなく、おそらくは一作目への反省に元ずき(と信じたい)彼女の個性を生かした八重山民謡中心の構成になっていると聞く(私も盤は買ったのだが、まだ聴いていない)ので、そのうち時間を作ってのんびり聴いてみようと思う。

 ・・・と、書いてみてあらためて驚いたのだが、1stと2ndの間が8年か。いくら島時間と言っても。いやまあ、これが彼女のペースであるのなら文句を言う筋合いでもないのだが、もちろん。




綾なす海の南に

2009-07-20 01:55:40 | アジア

 ”Ibulong”by Shiella Mae

 フィリピンのポップスというものがワールドミュージック者の当方としては、どうも取っ掛かりがつかめないまま今日に来てしまっている。かの国のポップス、英語で歌われるものが多かったり、いかにも”アメリカじこみの本格派エンターティメント”な芸風の人とかにやたら出会ったりして、どうも興ざめになってしまったりする事が多いのである。そうなってしまう国情というものがあるんだろうから、ヨソモノの野次馬が批判がましい事もあまり言うものじゃないんだろうけど。

 で、当方としては唯一、かの国で好ましく感じられる”タガログ語ポップス”という奴を探していろいろジタバタする事になるわけなんですが。いや、もしかしたら先に述べたような、アメリカのそれと変わらないポップスが英語で歌われているような”フィリピンもの”を愛好するのが通人なのかも知れず。

 などと余計な事をぼやきながら、手に入れたばかりのタガログ語ポップス若手のホープ(なんだろうと思う)、shiella mae嬢のアルバムを聴いてみるのだけれど。
 うわ、こりゃ切ない。期待を裏切らぬどころか、ちょっと待ってくれと悶えちゃうような出来上がりだったのですわ、これが。

 多用されるメジャー・セブンス系の和音が、行き惑う青春の懊悩と若い血潮のざわめきを伝えて来ます。ボコボコと呟きを繰り返すベースの導く16ビートは、かの島国を取り巻く輝く海と、その上に照りつける陽光の恵みを歌っています。
 そしてshiella の、ややハスキーでパワフルな歌声は実に素直に、与えられたフォーク・ロック調の、いかにも青春、みたいな切ないメロディラインの収録曲を歌いこなして行く。

 どの曲も、立ち止まって思い悩む事はあっても決して絶望的にはならない魂を感じさせる、独特の輝きを持っている。片方に憂いを秘めつつも、その一方で南国の太陽を目指して伸び伸びと枝葉を茂らす逞しい木々の生命力が息ずいている。良い感じだ。
 歌詞カードを開くと、かなりでかい文字で”Words and Music By ; Ronald Paderes”とあるのだけれど、高名なソングライターなんだろうか。

 いくらでも声を張れそうな歌声なのにそうはせずに、あくまでもさりげない表現で曲に込められた感傷を編み上げて行くshiella の歌唱センスも良い感じ。達者なギターに率いられ、余計な音は一つも出さずにシンプルなサウンドに徹したバックのバンドも好印象。
 こいつは期待以上の拾い物でした。というかほんとにわが青春の古傷に妙に絡んでくるメロディが多いんだなあ。それにやられちゃいました。そして唄と演奏のさりげない良さに。




非在の砂丘にて

2009-07-19 02:28:31 | アンビエント、その他
 ”Hayaku”by Crista Galli

 どうやら国籍はフランスの、まあ胡散臭いバンドではあります(苦笑)ライナーにはケルトとオリエントとか、地球と大地の精霊への祝祭とか書いてあるんで、まあ、その方面のバンドなのでしょう。ちなみにタイトルの”ハヤク”ってのは日本語のようです。
 ジャケにも昔の中国人みたいな衣装をまとった人物が描かれているが、これ、日本人のつもりかも知れない。後ろの大きな赤丸は日の丸のようにも、赤斑を浮かべた木星のようにも見える。

 バンドの正式メンバーはキーボードとギターの二人で、この二人がその他にも民族楽器各種を操り、それに若干のセッイション・メンバーなど加わって織りなすサウンドがあなたを内宇宙の旅へと誘う・・・ほうら、胡散臭いでしょう(笑)
 告白すれば実は。面目ないが、この種の音を聴くのは結構好きだったりする。いや、本気で宇宙と交信する音楽とか思っちゃいませんよ。昔のSF映画のチャチい特撮などを愛す、そのノリで、この種の”スピリチュアル”音楽の胡散臭さを楽しんでます。

 などと言っている間にもCDは演奏をはじめていて、電気ピアノがかなり隙間の多い音をポツリポツリと置いて行く。中華風の音階のプリミティヴなメロディが反復して奏でられ、口琴が、あるいはオーストラリアのディジリドゥがリズムを刻み、仏教のお経のような男性コーラスが鳴り響く上を、女性のスキャットの美しい高音が舞う。あるいはホーミーが披露される。

 あちこちの民俗音楽を継ぎ接ぎしつつ、それらしい瞑想的雰囲気が織りなされて行く。音の向こうになんとなく浮かび上がるのは、太古のシルクロードの風景だろうか。白ッ茶けた砂漠が広がり、幻想の天女が舞う。
 そうか、クソ暑い日が続くんで、ふと炎熱の砂漠の音楽を聴きたくなったんだなとここではじめて気が付く。でも、本物の砂漠の音楽をかけたら暑苦しくていられないんで、絵空事の砂丘を選んだ。

 この、ありもしない世界の時の止まった風景に身を置き、無駄な時間を過ごすのが好きだ。エアコンからの半端に涼しい風を感じながら、非在の砂漠の旅を夢想する夏の日。
 タモリが井上陽水の唄を褒めて言った言葉を思い出す。「あんたの唄は良いねえ。なんにも言ってないもの」陽水は「少しは何か言ってると思うんだけどねえ」とくさっていたが、いや、なんでもないことの素晴らしさを人は知らんといかん。

 終盤にいたり、ずっと聴こえていた女性コーラスはいつの間にか日本語の歌詞を歌い始めている。穏やかな童謡調のメロディ。耳を凝らすが、はっきり意味を取れるような発音ではない。日本人にローマ字で書かせた歌詞を丸暗記して歌っているのだろう。何でここで日本語が出てくるのか、もちろん分らない。

 最終曲はバイオリンをバックに従えた女性ボーカルがアイリッシュ・トラッドの如きメロディをじっくりと歌い上げる。マジで歌ってもらえばかなり聴けることに気が付く。考えてみれば、やっている音楽の志向性は適当でも、ミュージシャン個々の実力は確かなものだ。冗談半分で聴いているつもりだが、一杯食わされているのは、本当はこちらなのかもしれない。
 
 一通り聴いた後、日本語の歌詞が気になり何度か聴き直すが、正確にはどういう歌詞なのか、いまだに聞き取れずにいる。

 そのひとみをひらいて うみはしずか
 しずかなかぜが ふいてたうみはきれい

 こんなもので、それから「はやく・・・を」と呼びかけて来るのだが、せかされても意味が取れないので行動に移しようがないのだった。行動に移す必要などない事を多分、歌っているのだろうが。

 試聴を付けようと思ったんだけど、You-tubeには同名異バンドしかなかったんで・・・

レココレ誌の英国ロック・ベスト100が変だ

2009-07-18 03:43:18 | 音楽雑誌に物申す


 またこの話になってしまうけど・・・と言いつつ、やっぱり書かねばならんと。出たばかりのレコードコレクターズ誌8月号の特集、初期英国ロック・ポップの名曲ベスト100”なる記事についてである。そう、この種の企画に対する違和感については、もう何度も書いてきた。でも、「前にも書いたから良いや」とは、ならんのよねえ。

 今回の企画は、”ロニー・ドネガンが「ロックアイランド・ライン」を吹き込んだ1955年からサージェント・ペパーズ」発売の前年の1966年”の間に出たレコードのうちからベスト100を選ぶ、と言う企画。25人の筆者に選んでもらった個人のベストを下に編集部で構成した、と言う事。まあ、英国ロックの黎明期を探るって感じでしょうか。
 で、まずベスト1がストーンズの「サティスファクション」である。ま、まあ、そんなもんかなと。何か言いたいことがあるような気もするが、これでいいとしておくとしても。

 でも確実に疑問符を感じてしまうのが、2位と3位だ。ザ・フーの「マイ・ジェネレイション」とキンクスの「ユー・リアリー・ガット・ミー」ってのはいかがなものか。
 こんなの、完全に日本における洋楽受容史の捏造作業じゃないのか。もう答えが出ている歴史を見下ろして自分に都合の良い絵を描いた、その”後出しジャンケン”の不自然さに、もの凄く居心地の悪い気持ちがする。リアルタイマーとして、その頃の音楽を聴いて来た身としては。

 当時、フーなんて聴いてた奴、日本にはいなかった。そりゃ、一部マニアはおいておくとして。だって、55年から66年だよ。フーなんてバンド、誰も知らない。彼らが日本の音楽ファンに認知を受けたのは、あの”ウッドストック”への出演を契機に、といっていいだろう。
 私の記憶が確かならば、フーがラジオなどで聴ける様になったのだって、67年のヒット曲である「アイム・ア・ボーイ」からだったはずだ。この曲はたまらなかったよ。ラジオで聴いて即、すっ飛んでいったよ、レコード店に。で、待ちに待った次の曲、「ハッピー・ジャック」は、市民プールにおけるBGMとして聴いたのだった。消毒薬の匂いの向こうに揺れる水面を見ながら、「あ、これフーの新曲じゃないのか」と呟いたあの夏の日。

 まあ、感傷に浸るのはあとでいいとしても。ともかくそうでしょ、どちらかといえば70年代になってからの姿である”大スターになったフー”の姿から逆算して、この曲をこの辺りに押し込んだわけだよね。イギリスでは売れていた?それなら日本ではそうではなかった事実が読み取れるような扱いをするべきだと思う。英国には英国の、日本には日本の”英国ロック愛好の歴史”があるのだから。日本人が読む雑誌でしょ、日本語で書いてあるんだから。

 キンクスの”ユー・リアリー・ガト・ミー”だって、ここまで上位ってのは、おかしい。これも”現在、この曲がどういう評価を受けているか”を根拠にしての”上位入賞”だよねえ。
 さらに見て行けば「テルスター」なんて曲が10位ってのも無理やりでしょ。こんなのこそマニアのわがまま、歴史の捏造といっていいと思う。55年から66年なんて時代のベスト10に入るのが普通に納得出来ようか。
 さらに12位、”ジョニー・キッド&パイレーツ”ってバンド。知らねえよ、そんな奴ら。付けられたコメントに”過小評価を受けている”とかあるけど、では今回突然、こんな上位に無理やり突っ込んで、「よし、これで歴史は正された」と悦にいろうってのかい?基本的なところで勘違いしてないか。

 なんて話をいちいち書いて行くと、このクソ暑い中、疲れて仕方ないんでやめておくけど、ともかく言いたい。あと出しジャンケンはやめよう、と。こんな風にして自分好みの歴史をでっち上げて楽しむなんて、悪趣味と思うんだがねえ。

祭囃子が聴こえる

2009-07-16 04:42:49 | いわゆる日記


 と言うわけで祭りの真っ只中である。祭りの運営と参加者、両方やってりゃそりゃたまりませんわい。疲れたよ~。
 とか言っていても生産的でないので、昨日書いた、祭り太鼓のビートの不思議について考えたところをメモしておくことにしよう。

 まず思うのは、これはお馴染みの阿波踊りの音楽でも連想していただければいいのだが、「馬鹿囃子」みたいなアップテンポのダンスナンバー(?)は普通に乗れるとしても、「鎌倉」みたいな描写音楽(?)は、どう乗ったら良いのか分らない、ということである。

 太鼓の音楽であるからリズムの拍動は確かに刻まれているわけで、だから音楽にあわせてリズムを取る事は出来るのだが、それで楽しいかと言えばそうでもない。なんか、普通の音楽で打楽器のアンサンブルだったら躍動感とか開放感とかにつながるものがあるのだが、こちらにはそれがない。むしろ抑圧的ビート、なんてものを感じたりする。
 リズムに身を任せていると、森羅万象のすべてを絡み取り抑えつけようとする意思とでも解釈したいものを感じたりするのだ。なんなんだろう、この抑圧感というものは?

 音楽の生まれてきた宗教的バックグラウンドなど考えられないだろうか。その源流を辿ると悪霊退散とかの意図を持って打ち鳴らされた太鼓に至るとか。
 まあ、そう考えてみたというだけで何の根拠もない話だが。

 と、何も分からないままに文章を終わるが、いやもうほんとに疲れた、明日は祭りへの参加はサボっちゃう予定である。ワシもう、そんな体力ないもん。若い者に任せますよ、若い者に。で、明後日の祭りの撤収作業に加わって辻褄を合わせりゃいいんじゃないかと。よくはないかも知れないが、まあ、それで許してもらわねばならんのさっ。