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福岡ソフトバンクホークス川崎宗則物語3

 西日本スポーツ新聞の連載記事(2月16日)を要約します。
1「一心不乱」
 大自然に囲まれた鹿児島県姶良町。その閑静な住宅街の一角に川崎の実家がある。そして、道一本を隔てて建っているのが、幼少期に通った池島保育園だ。距離にしておよそ3メートル。この「3メートルの空間」が、野球と出合った少年にとってのホームグラウンドだった。
 「本当に飽きもしないでずっと投げつづけるんですから。暗くなるまで・・・いや、暗くなってからも投げてました」と、姉はあきれたように笑った。くる日もくる日も、家からボールを持って出てきては、保育園のブロック塀に向かって投げる。何時間も、何日も。やがてそれは近所の名物になった。そうやって壁に刻まれた白いボール跡は、今も消えることなく残っている。
 やると決めたらとことん。プロになった今でも変わらない川崎のスタイルは、幼くしてすでに完成されていた。誰に言われるでもなく始めた「壁当て」に夢中になっていたころ、もう一つ必死で取り組んでいたものがあった。ぜんそくを治すため3歳から始めた空手だ。入門当初から抜群のセンスで目を引いた野生児は、小学校に上がると、さらに大きなスケールで成長した。
 「練習でこれをやれと言えば、とにかくずっとやり続ける。きつくても音をあげたところを見たことがない」同じ動きだけを繰り返して練習すると、だんだん集中力が消えてくる。ところが川崎の場合は違った。同じ目つきでひたすら同じことを繰り返す。空手の指導者は、明らかに雰囲気を持ったこの少年に大いなる可能性を感じた。
2「練習の虫」
 小3の夏、地元で開かれた空手の全国大会。身長140センチほどの小さな体に大きな闘争心を宿した川崎は、型部門でベスト8に勝ちあがった。腰の入れ方、群を抜いていた瞬発力、そして一心不乱の集中力。空手の指導者は当時のひたむきな姿を思い浮かべては、こう確信するという。「プロというのは、ああいう子が行くところなのだ。素直で、努力を惜しまない姿は、あのころと全く変わっていません」
 空手で名前が広がり始めたころ、野球人としての川崎は「壁当て」だけでは満足できなくなっていた。小3で、兄の影響で野球部に入った。最初の守備位置はセカンド。天性の運動能力に加えて、壁当てで体に染み付いた動きは初心者レベルを超えていた。「体は大きくないのに、背の高い子に交じっても目だってました。入ってきた時には、すでに基本はほとんどこなしていた」と当時の指導者。
3「プロ宣言」
 空手で全国デビューを果たし、さあこれからというころ。5年生の1学期、川崎は強い意志を胸に、空手の指導者のもとにやってきた。「師範、ボクはこれから野球をやっていきたいので空手はやめたいと思います」。「あのまま空手を続けていれば、どんな選手になっただろうかという思いはあります。しかし、あの子は野球が大好きだった。それを分かっていたから、止めることもしませんでした」
 小4の文集に、こんな思いが表現されている。「ぼくの夢はダイエーホークスに1位指名されてプロ野球でおもいっきりプレーすることです。ぼくの夢、親こうこう」
 テレビ中継といえば、巨人がほとんどだった鹿児島で、ホークスにあこがれを抱いたのは、当時甲子園で大活躍した鹿児島出身の内之倉隆志(現チームスタッフ)が入団したからだ。連日のようにニュースでホークスの映像が流れ、同じ九州にもプロ野球チームがあることを初めて知った。食い入るように画面を見つめる。その時、川崎の気持ちは固まった。「ボクは絶対プロに行く」
 壁当てから始まった野球人生。その魅力にとりつかれた男の子に、もう何の迷いも存在しなかった。ホークスに指名される8年前、堂々と書き残したプロ宣言。10歳の力強い筆跡にほとばしるような思いがにじんでいた。(山本泰明氏の記事より)
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