西日本スポーツの連載記事(2月2日)を要約します。
1「そびえる壁」
2000年2月、高知春季キャンプ。希望に胸を膨らませていたはずの川崎は、おびえ、おののき、孤独で長い1カ月を過ごしていた。幼い頃からプロへの夢を口にし、念願かなってホークスの指名を受けたのは、1999年11月。そのわずか2カ月後、新人合同自主トレ中には笑顔が消えた。目の前にそびえる高い壁。そこには見たことのない世界が広がっていた。
ドラフト上位指名を大卒、社会人出が占めたこの年、ルーキー5人のうち高卒選手は川崎しかいなかった。179センチ、64キロ。もともと線が細いうえ、年齢、経験、体つきもまるで違う同期生に囲まれて、少年はひそかな恐怖心を抱いていた。1月の合同自主トレも終盤にさしかかると、室内練習場には、それぞれの自主トレ先から帰ってきた1軍の主力選手もやってくる。ブルペンに響く強烈なミット音。空気を切り裂くバットスイング。ショックだった。キャンプイン直前、高校の卒業試験のため一時帰郷した川崎に明らかな異変が起きていた。「話しかけても返事がない。ごはんもろくに食べないし、何があったのだろうかと。宗則のあんな姿を見たのは初めてでした」。父・正継、母・絹代をはじめ、家族が心配して尋ねても、首をふって話さない。キャンプ地の高知への出発直前、ようやく漏らした言葉に両親はがく然とした。「光が見えない」それは息子が漏らした生まれて初めての弱音だった。鹿児島の実家には、毎晩のように高知から電話がかかってきた。「ボールが前に飛ばない。自信が持てない。光が見えない。死にたい」。希望に燃えているはずの若者は、絶望の闇でもがいていた。
2 「かけっこ」
2000年2月、キャンプ休日。電話越しのSOSが不安で、1週間の休みをとって鹿児島から駆け付けた絹代は、生気を失った息子と向き合った。やつれた姿に、たまらずほおを平手打ち。それも力いっぱい、3回。「いつでも帰ってきていい。あなたには帰るところがあるんだから」「でも野球をやめてしまったら、ボクには行くところがない」
その日、親子でうなぎ丼を食べた帰り道、絹代は「かけっこ」を提案した。練習中にねんざしたと聞いていたはずの川崎が、何の違和感もなく全速力で走っていた。翌日、吹っ切れたような顔でグラウンドに姿を見せた少年は、古賀監督のもとに自ら歩みより、こう言った。「バッティングを教えてください」。スタンドで見守った絹代は「もう大丈夫」と確信したという。ほおを伝う涙をぬぐうと、そっと球場を後にした。 「今思えば、あの時つまずいたこともいい経験だったのではないでしょうか。小さい頃からずっとレギュラーで野球をやってきて、あそこまで追い詰められたことはなかった。私たちもつらかったですが、あの経験は今につながっているのだと思います」
3「光見えた」
目を潤ませ、言葉を選びながら、当時を振り返る正継。あの後、川崎は極度のストレスと過度の練習で肝臓を悪くした。そうした中でも5月の母の日にはカーネーションを贈ってきた。そして6月。「光が見えた。ボクは野球でやっていけるかもしれない」。父の日にパターが届いたのは、それから間もなくのことだった。
昨年12月。川崎はある高校で「プロに入って初めて」の講演会を行った。耳を傾けるのは、ちょうど自分が壁にぶつかった当時と同じ年頃の高校生。希望を胸にふくらませている若者たちに、こんなメッセージを送った。「ずっと夢見ていたプロ野球選手だけど、入った直後はついていけずにやめようかと思ったこともある。みんなもなりたいものを目指して、心に強いシンを持って頑張ってほしい」力強く語りかけた目の奥に、あの時取り戻した「光」が輝いていた。(山本泰明氏の記事より)
05/02/04 23:11