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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

”ジャニスを聴きながら”を聴きながら

2009-11-24 05:33:44 | 60~70年代音楽

 ”ジャニスを聴きながら”by 荒木一郎

 深夜3時半なんて時間に寝起きだなんてのは私くらいのものか?別に仕事の都合とかじゃない、夜、テレビを見ながら寝転がっていたら、つい、本気で寝込んでしまった結果である。ああ、中途半端な気分だ。起き出すには早すぎるし、寝なおす気分じゃないし、酒を飲むわけにも行かないし。

 所在なし、という状態でつけっ放しになっていたテレビをいじくり回していたら「あしたのジョー」のアニメをやっていた。私もこの辺の世代ではあるんだけど、特にファンでもなかったので、このアニメを見るのははじめてだ。いつ頃作られたのかも知らない。ストーリー全体のどのあたりのエピソードかも分らず。

 画面に終始細かい雨が降っているかのような哀感が感じられたので、もうジョーの物語の終わり近くなのかなと思って見ていた。が、番組終わりの次回予告は”第8回”となっていたので、まだ物語は始まったばかりなのか。これが「ジョー」のタッチなのかも知れない。
 同じ時代の歌手を歌ったもの、という連想なのか荒木一郎の「ジャニスを聴きながら」をふと聴きたくなり、CDを引っ張り出して聴いてみる。

 同じ時代も何も実は、この歌で歌われている”ジャニス”が何者なのか長い事知らずにいた。まあジャニス・ジョプリンのことだろうと見当は付いていたのだが、歌のタッチがあまりにもフォークなので、誰か別の、私の知らないジャニスについて歌っているような気もしていた。

 この歌の歌い出し、”街はコカコーラ”を聴くたび、東京へ出て暮らし始めた年の夏の最初の日、友人たちと渋谷の街に遊びにくり出した思い出が、何枚もの連続写真みたいにストップした場面の連続で蘇ってくる。あの頃はジャズ喫茶に行くのが大好きで、それ一杯で粘り過ぎたおかげで、溶け出した氷にすっかり薄味になってしまったコーラを前に、飽きることなくジャズを聴いていたものだった。

 もっとも、ネットで検索してみるとこの部分、「街はロードレース」ともなっている。何かの事情で書き直されたのかもしれない。どちらがオリジナルか分らないが。当時あった、なにごとかの事件にちなむ歌詞なのだろうか。歌詞の他の部分、墨で消されて売られて行くプレイボーイ、というのは雑誌のグラビアでワイセツ事件でもあったのか?はっきり覚えていないけれども、そういうことがあったりした時代でもあった。オイルで汚れた引き潮、というのも、同じように現実の事件に関わるのか。

 そんなこともあったんだろう。あれもこれも忘れてしまったのだけれども。グダグダしているうちにも、残酷な夜明けは忍び寄っている。朝が来て一日が動き出したらせねばならないつまらない仕事のいくつかが記憶に蘇り、そのうっとうしさに、ふとこのまま死んでやろうかな、などと思う。ほんとに死にはしないけれども。

 ”人生はつかの間のゲームであり、その幻の賭けに負けた時は”と、荒木一郎はCDラジカセから歌いかけてくる。いや、彼は私などに関心はなく、ただ勝手に歌っているだけなんだが。”それだけのことなのさ”と。



愛以上、ヴァルバラ

2009-11-23 02:45:49 | ヨーロッパ
 ”Выше Любви”by Варвара

 読めもしないロシア文字を並べてしまいましたが、これで”愛以上 by ヴァルバラ”と言う意味になり、内容としては2008年に出た、これまでのベストヒット集ということ。

 このヴァルヴァラ女史は、写真やら動画やらを見た限りでは今日のロシア・ポップス界を代表する美人歌手の一人といって良さそうですが、その一方、芸術アカデミー出身の実力派でもあるそうで。
 そういわれてみると、ロシア~東欧圏の歌手にしてはあまりセクシーな演出を取らない人という感じもしないでもない。でもまあ、そのせいでしょうか、ユーロビジョンソングコンテストの国内予選で落っこちた、なんてパッとしない情報も伝わっております。

 彼女もまた、冷え切った音色の電気楽器と独特のエコー感が醸し出す、霧に巻かれたようなモヤッとした音像の中、打ち込みの音がけだるくリズムを刻み続ける、という現代ロシア・ポップスに特徴的なサウンドを売り物にしています。
 が、そのやや低めの声を凄むように押し出し、電気楽器だらけの世界に不思議な土俗っぽさを呼び込むあたりの、あくまでも覚醒しつつのシャーマニックな感じ、とも言うべきパフォーマンスはなんとも血の騒ぐものがあります。

 抑制の効いた表現の中にもスケールの大きさを感じさせる歌い手で、その歌声の向こうに、深い夜霧に包まれたモスクワの街と、それを包囲するように広がる広大なロシアの大地などを気配として感じさせる。
 シベリア生まれの寒気が日本海を越えて入って来て我が国上空に鎮座ましまし、キリキリと大気の冷え込む冬の夜なんかに、ふと聴きたくなったりする人です。

 下の試聴は、プロモーション・ビデオにはよくある近未来社会を舞台にした映像ですが、これがあくまでもロシア風な”近未来”であるあたり、昔からのSFファンの方など、嬉しくなっちゃうんじゃないでしょうか?昔ながらの、いかにもロシアらしい無骨な幻想味が奇妙な幻想をかき立てます。冒頭に出てくるネオンサインの漢字まがいが楽しい。




タイ田園に花ほころぶ

2009-11-22 01:07:50 | アジア

 ”Morlum Dok Ya”by Tai Orrathai

 これまで何度か話題にしてきましたタイの歌謡曲・ルークトゥンの若手の第一人者であるターイ・オラタイ女史であります。
 このアルバムは、そんな彼女がかの国の田園地帯の民謡、モーラムばかりを歌ったアルバムです。私の知り合いのタイ音楽好きたちが「出た!ついに出た!」って感じの色めき立ち方でこのアルバムの登場を迎えたのが印象に残っています。あ、本年度作品。

 よく日本の演歌に例えられるルークトゥンであり、そのでんで行けば田園歌謡のモーラムを歌ったこれは、「演歌のスター、民謡を歌う」なんて企画モノに相当するのでしょう。大歌手への階段を登ろうとするタイの歌謡曲歌手にとっては通らねばならない関門なのかも知れません、このようなアルバムにトライするのは。
 私といえばほとんど野次馬的な聴き方しかしていないタイ音楽であり、偉そうに感想を述べる資格もないんですが、いや、聴いてみればそんな私でもやっぱり非常に楽しめた作品であるのは事実なのであって。それなりの感想を素直に述べてみよう、なんて気になったのでした。

 まず感じたのが、非常に瑞々しさに溢れたアルバムだなあ、ということ。なんとなく”タイの演歌”たるルークトゥンの歌い手であるオラタイ女史はその足元に当たり前のように民謡の素地を持っていて、それこそ故郷に帰ったような歌声をコブシをコロコロ廻しつつ、堂々の歌唱を聞かせるんだろうと思っていたのですが。
 ところがCDからまず飛び出してきたのは、これまでルークトゥンのアルバムで見せてきた風格みたいなものと違う、なんだか「これでいいのかしら?」なんて戸惑いさえ秘めたようなオラタイ女史の初々しい歌声。その様子にはなんだかこちらもドギマギしてしまって、思わず「萌え!」・・・なんて感想をオラタイ女史に対して持つ日がこようとは思いませんでしたけどね。そうか彼女、あまり民謡体験豊富な人でもなかったのか?

 いやでも、何歳か若返ったみたいなフレッシュな表情を見せつつ懸命に馴れない(?)田園歌謡を歌いつずる彼女の姿には、ほんとにフレッシュな魅力を感じてしまったのでした。 変な話ですが私は、何となく日本の新春の華やぎ、寒風の中を歩みつつ、ふと見上げれば梅が一枝ほころんでいるのを見つけた、そんな新しい生命の息吹に触れるみたいな感触を得てしまったんです、オラタイ女史の田園歌謡集から。
 伴奏も端正な仕上がりで、きれいに整備された田園風景を描いて見せて、オラタイ女史の歌唱を見事にサポートしてくれます。つまりは民謡の泥臭さがあまりないとも言えるんだが、そのことで文句を言う人はいないと思う。この出来上がりならね。

 そして最後に。なによりまずこのCDはジャケが良い!田園調の衣装に身を包み、田舎踊りのポーズを取ったオラタイ女史の清楚な美しさにまた一萌え!でしょうかね。もともと美女の誉れ高い彼女でありますれば、中ジャケの写真を眺めるだけでも買う価値はある、と申しましょうか。



ベンガルまでお豆腐買いに

2009-11-20 05:07:34 | アジア

 ”BENGALI MODERN SONGS”by Nirmala Mishra

 ベンガル歌謡の大物女性の若かりし頃のレコーディング、というところらしい。ジャケには例によって何のデータも示されてはいないので詳細が分らず、ジャケ写真や音質、歌声の若さからそう判断するだけなのだが。

 タブラがトットコと鳴り、メリスマのかかったボーカルがうねりながら流れて行く、いわゆる”インド音楽のボーカルもの”なんだけど、それほど濃厚で官能的な臭味は無く、なんともおしとやかで控えめな歌唱が続く。バックの音も民俗楽器なども使われている割には、強力な民俗性は感じられない。時に、スチールギターがソロを取ってみたりしてね。

 むしろあちらこちらで、日本の昭和30年代の歌謡曲などにも共通する人懐こさを感じさせたり、欧米の古きよき映画音楽の影響など想起させるような、異文化圏に育った者にも親しみやすい下世話に切ない裏町の流行り歌っぽさが窺え、ワールドミュージック者には嬉しくなる瞬間が多いのである。

 船から下りたよそ者が気まぐれに、ちょっと寄っていって一杯やっていても叱られたりしないような、開かれた場の空気のトキメキが感じ取れる。
 汎アジア歌謡とでも言うのかなあ、タブラやハーモニゥムを従えたNirmala Mishraの歌声の向こうに、三橋美智也や島倉千代子や神戸一郎の歌謡ショーのエコーが聴き取れる感じなのである、あともう少しで。

 で、それなら安心と心を許してゆったり寛いで聴き始めるのだが、実はそれら音の細部にエキゾティックな土俗性がひそやかに花開いていて、気が付けばすっかりベンガル歌謡の魅力にはまっている・・・のかも知れない。
 うん、まあ、それならそれで別に良いじゃん、と腰を据えて聴き続けるのだが、なんかどこからか昔懐かしい豆腐屋さんのラッパの音が裏通りに響き、隣の家のお姉さんが一丁買いに飛び出して行く、なんて昔見た風景がまぶたの裏に蘇ってならないのである。

 この盤の試聴はYou-tubeには無いみたいなんだけど、とりあえずベンガル・ソングの有名どころをmishraの歌で。




波止場のアコーディオン

2009-11-19 03:44:31 | その他の日本の音楽

 ”DoReMiFa”by 中山うり
 
 中山うりについてはブログ仲間のkisaraさんが取り上げておられて、先日、そいつを読んではじめて存在を知った。だが彼女はもう2年も前に、このデビュー・アルバムを出しているのであって。素早い人はとっくに知っていて、「今頃、何の話をする気だ」とか思うんだろう。まあ、しょうがないね。そんなにあちこちにアンテナを張り巡らして生きているわけにも行かないし。

 アコーディオンを弾きながら昔の日本の歌謡曲や古いラテンとかジャズの影を感ずる自作の曲を歌う中山うりである。kisaraさんのブログではじめて聴いた際には、昔々、子供の頃に風邪を引き寝込んだ夜の夢など思い出したものだ。
 蒲団の中で汗びっしょりで目を覚ますと、やっと熱が引いたのだがもう真夜中で、家族は皆、寝静まっているようだ。シンと静まり返った部屋の中でボッと天井を眺めながらつい先ほどまで見ていた夢の風景を反芻する、そんな時に脳裏に浮かんでいる風景。月とラクダ。夏祭り。古い煙突。マドロス横丁。

 まだうら若き女性である彼女と我が身の年齢差を思い「彼女はどこでこんな風景をみたのだろう?」とか首をかしげるのだが、意外に我々日本人には普遍的な風景であるのかも知れない。喪われてしまった紙芝居の手触りに通じるチープな彩色を施された、時の止まったような風景。
 付けられているメロディもそれに似合いの行き届いた時代錯誤ぶりを演じており、そいつをケロッと当たり前みたいな涼しい顔で作り歌われてしまうと、「こいつは出来過ぎではないか?」なんて言いたくもなるのだが、中山うりの世界には作り上げたものの無理やり感があまり無く、ますます不思議である。

 一度テレビで長めのインタビューをされる彼女の姿を見ているのだが、的確な回答がホイホイ出てくる人のようで、「中山うりの世界の虚構性は何パーセント?」などと尋ねたら、もう簡単に納得できる答えを出されてしまうのだろう。
 それじゃつまらない、彼女の歌は虚構と現実の皮一枚、夢と現実のあわいのトワイライト・ゾーンて奴に置いておくのが一番のようだから、もし彼女に出会う機会を得ても、「中山、という苗字を見ると、まず中山美穂に連想が行く、というか登場を期待するんだが、そこにあなたが”うり”なんてとぼけた名前でアコーディオンを持って現われる、これはそういう類のギャグと取っていいんだろうか?」とかどうでもいい話をしておくのがよろしかろう。まあ、会う事ないだろうけどさ。

 一つだけ注文。バックの演奏がボサノバであるとかミュゼットであるとか、きちんとした素性でカチッと決まってしまうと、なんか歌が閉じ込められてしまった気がしてつまらない気がする。あくまでも「得体の知れない」存在であって欲しいと思う。「本格派」とかいう退屈なものを目指さずに。




”ご意見様”の幸福な日常

2009-11-17 23:00:24 | 時事
■「イジメ、バカ騒ぎは視聴者不快」民放連に意見書

 番組が気に入らないなら見なければ良い、それだけの事なのだが。
 テレビそのものを家に置かないようにすれば、もっと良いだろう。

 ”自分の気に入らないもの”がこの世に存在する事を許せないと思うことの傲慢さ。
 手に入れた怪しげな”権力”を笠に着て、その”気に入らないもの”の圧殺を謀る自分自身の胡散臭さに気がつけない鈍感さよ、愚かさよ。


 ○「イジメ、バカ騒ぎは視聴者不快」民放連に意見書(読売新聞 - 11月17日 19:17)

 バラエティー番組の下品な表現への苦情が相次いだのを受け、放送倫理・番組向上機構(BPO)は17日、日本民間放送連盟(民放連)に番組制作の指針作りなどを求める意見書を送った。
 意見書では、BPOに寄せられた26件の苦情を、「イジメや差別」「内輪話や仲間内でのバカ騒ぎ」など5項目に分類し、「多くの視聴者が不快に感じている」と指摘している。
 これに対し、民放連の広瀬道貞会長は同日、記者会見を開き、「趣旨と正面から向き合い、制作者レベルまで広げて議論を深めたい」と語った。

Come Rain or Come shine・・・

2009-11-16 02:17:13 | いわゆる日記

 夏の盛り・・・「クソ暑いから」という理由から体を動かすのをサボってしまった。そして今、「寒くて外に出る気にならない」と言う理由でやっぱり運動をサボっている。天罰覿面というべきか、はやくも体重がオーバー気味となっている。

 今から冬の健康診断の結果が恐ろしい。まだ採血もしちゃいないんだが、やらなくたって分かる。悪い結果が出るに決まっている。ただ無意味にテレビの前に座り込み、面白いわけでもない番組を見続けて、時だけが無駄に過ぎる無為な日々。

 とはいえ、もう医師には、タバコも酒も取り上げられ、食事も制限され。もはや医師には私から奪う人生の楽しみは何も無いはずだ。何を恐れることがある。

 オーケイ、私が一番恐れている医師の言葉はこれだ。
 「薬が効かなくなったみたいだから、もう人工透析しかないね」
 酒を飲みすぎた私はいずれそうなる、との予告はすでにされている。遅かれ早かれ・・・?

 あれはいやなのだ、友人のアオキが死の前にずっとやっていたから。腎臓を病んで。冗談はやめろ、と言いたくなるくらいのひどい顔色をして。そしてある日、奴は私の友人で最初にこの世を去る者となったのだった。まだ40代になったばかりだったんだが。中学生の時、生まれてはじめて作ったバンドの、奴はメンバーだったんだが。



ペルシャ湾岸の脂肪

2009-11-15 01:58:52 | イスラム世界

 ”Nabil Shuail 2004”

 以前、話題にしたこともあるクウェートの巨漢歌手、ナビル・シュアイルの、これは2004年作品である。
 相変らず、そのあり余る自らの脂肪におぼれそうになりながらハスキーかつ甲高い、哀感ある歌声を振り絞る独特の歌世界には不思議な魅力があり、つい聴き入ってしまうのだった。

 サウンドの基本は、乱打される民俗打楽器群に囃し立てられ、妖しいフレーズを奏でつつ絡みつくユニゾンのストリングス・オーケストラ、コール&レスポンス状態で彼の歌声を追うコーラス隊、というアラブ・ポップスの定番である。
 だが、その中にも細かいリズム変化や、時にアコーディオン、時にアラブの民俗笛と、曲によりいろいろの楽器をメインに押し立てて長いソロを聴かせたり、飽きさせない工夫がなされている。7曲目などは凝ったオーケストレーションで、まるで映画音楽みたいな舞台作りをバックに、悲恋に関するバラード(なんだろうと思う)をじっくりと聴かせる。

 ついその巨体ばかりに目が行ってしまうけれど、こうやって久しぶりにこの人の歌にのんびり付き合うと、ゲテモノ扱いばかりもしていられない、タンゲイすべからざる歌手なんじゃないかとも思えてくる。

 先に述べたようにその歌声にはもともと備わった哀感があるのだが、ナビルはそれ以外の余計な感情移入は行なわず、結構クールな歌いっぷりに終始しているのだ。それと、比較的コンパクトにまとまったバックのサウンドとの組み合わせの結果、ある種のテクノポップにも通ずるような今日的洗練が、そこには成立してしまっている。
 こちらがその見かけから勝手にイロモノ歌手扱いをしている間に、ご本人のシュアイルはもっと遠くへ行ってしまっている、というところか。

 このアルバムからは下の曲がYou-tubeに入っていた。へえ、アルバムの中でもかなりプリミディブな味わいの地味な曲をシングルカットしたんだなあと、その辺の奥深さにも感ずるところあり。
 それにしても、むくつけきおっさんたちが居並んでステップを踏む、”花いちもんめ”みたいな踊り。これは何だ?




壁の東側で見た夢

2009-11-14 00:22:45 | ヨーロッパ


 ”Reise zum Mittelpunkt des Menschen”by Stern Combo Meissen
 
 シュテルン・コンボ・マイセンという物々しいバンド名の響きが良い。旧東ドイツのプログレ・ロックバンドである。”東側”のバンドということで、例によって詳細な資料がないので、どのような歴史を辿ったバンドなのかも分らないのだが、70年代終わりから80年代初めにかけて、”ロックの辺地”たる東独において非常に重厚なシンフォニック・ロックの演奏を行なっていた事だけは事実として記録されている。
 実は先日、ある東欧ロック探求サイトの掲示板で、「凄いアルバムを作ってるけど、使ってる機材がややショボい」との書き込みを見つけ、とたんにシュテルン・コンボ・マイセンのアルバムを猛烈に聴き返したくなってしまったのだった。

 そうか、そんな方向の聴き方があったのか。当方、オーディオマニアの素質はまるでないので、基本的にそれこそショボいCDラジカセでもっぱら音楽を聴いている。音質の良いオーディオで音楽を聴いている人のように、「こいつらはどのような機材を使っているのか」なんて聴き取りは出来ず、興味の持ちようもなかった。だから、「ショボい楽器を使って凄い演奏をするシュテルン」なんて思ってもいなかった視点を提示されると、当時、日進月歩の西欧世界から見ればとっくに型落ちの電子機器をまさぐり、彼らなりの表現を研ぎ澄ましていたシュテルンのメンバーの姿が妙にリアルに脳裏に浮かび、彼らの音が再び息付いて動き出すような感触が湧き出してたまらなくなってしまったのだ。
 そういえばいつぞやYou-tubeで見たシュテルンの演奏風景。彼らは見るからにダサいファッションに身を包み、確かにセコイ楽器を操って、「例のあの音」を出していたのではなかったか。

 ここに挙げたアルバムは彼らの最高作と呼び名も高い”Reise zum Mittelpunkt des Menschen”である。「人間の内宇宙への旅」とでも言う意味になるのか。

 キーボードとドラムスが二人ずつ、ほかにベースとボーカル、という風変わりな6人編成。ギターがいないという事で、ロックバンドの定番的盛り上がりは起こりえない。替わりに、クラシックの影響を隠すことない華麗なテクニックのキーボード群の奏でるメロディや和音の乱舞が全面に出てくる。そしてその背後で、これもこのバンドの特徴的である非常にタイトなリズムがドラムより打ち出され、それらの中心でまさに”豪腕”という言葉がふさわしい、音数の多い割にはタフなベースのフレーズがすべてを纏め上げつつスイングさせる。

 重層的に折り重なるキーボード群の幻想の迷宮。中央で脈打つ重厚なリズム。そのすべてがいかにもドイツ人らしいと言っていいのだろうか、冷厳な美意識をもってコントロールされ、異様な内宇宙への幻想紀行を描ききっている。
 今、久しぶりに聴いてみたんだけど、こいつはやっぱり名盤だよ。こんな演奏が出来るバンドは昔も今も”西側”にはいなかったし、”東側”にも彼らしかいなかった。
 そして時は流れ、東ドイツなる国家は西ドイツに統合され、地図の上からは消え去った。いや、その後、今日でも西と東の経済格差等がドイツ国民の間に軋轢を生んでいるとのニュースを、さっき耳にしたばかりなのだが。

 その後の噂も寡聞にして聞いていないシュテルン・コンボ・マイセンだが、さて、彼らは今、どうしているのだろうな。



プラハ・1969~1999

2009-11-13 02:18:28 | ヨーロッパ

 ”Miluska Vobornikova”

 これはチェコのポップス歌手、Miluska Vobornikova女史が1999年にリリースした、おそらくは歌手としての彼女の集大成的なアルバムであります。
 1949年生まれの彼女は1969年にレコードデビューをし、どうやら今日まで歌い続けているらしい。
 つまり、チェコという国が60年代、つかの間の自由を享受した、いわゆる”プラハの春”がソ連軍の戦車によって圧殺された、その直後から歌いだした彼女の、これは20世紀の終わり頃までの記録ということだ。東欧共産圏のポピュラー歌手の30年、というのも相当に興味深いと思い、聴いてみたのでした。

 歌手と同時に女優としても活躍していたらしい彼女の音楽を一言で言ってしまえば、まあ”あんまり色気のないカンツォーネ”でしょうかね。いかにもかっての”鉄のカーテンの向こうのポップス”的な野暮ったさがあります、残念ながら。私はスラブ的哀愁のメロディなど期待してたんですが、そのようなものも感じられません。強いて言うなら汎ヨーロッパ・ポップスとなるんでしょうけど。

 アルバムの半分は70年代から80年代、歌手としての彼女がもっとも輝いていたのであろう頃のレコーディングが収められています。そして残り半分は、1999年の新録音が。30年の歳月が封じ込められているわけですからね、この一枚に。
 そのど真ん中にはもちろん、あの”ビロード革命”、第2次世界大戦後ずっと、ソビエトの後押しによってチェコを支配してきた共産党政権が打ち倒された日もあるわけですから。その日を境に彼女の歌はどのような変化を見せたのだろうか?私はなにやら胸騒ぎを覚えつつ聞き入ったのです。「あの変革の日々は、チェコ人たる彼女の内面にどのような変化をもたらしたのか?」などと。

 聴いてみた結果。まあ・・・なんてことは無かったですね。99年録音の多くは、まるでアメリカで60年代末に流行ったフォークタッチのポップスの上っ面をなぞったみたいな、明るく楽しい曲調、”シング・アウト”調のコーラスも暖かい、妙に日なた臭い歌が続き、はやる私の心にぬるま湯をかけて行くのでした。
 「そうそう面白いことばかりありはしないよ。変革のなんのと言っても多くの大衆にはその日その日の生活があり、そして舞台の上の歌手にとってショーは続けねばならないものなんだよ」と、何者かが私に語りかけ、私はCDを途中で止めてプレイヤーから取り出したのでした。窓の外を見上げれば空をのんびりと雲が行き、今日はどうやら良い天気です。

 下の試聴は、このアルバムに入っている曲ではありませんが、You-tubeにあった曲の中でこれが一番気に入ったので。毎度、アバウトな姿勢で恐縮ですが。