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米内光政新首相へのそっけない(?)祝辞と海軍葬


山屋他人大将の葬儀で、葬儀委員長を務めたのが、おなじ岩手出身で海軍の後輩の米内光政前首相でした。


◆「米内首相を語る山屋大将」◆

さて、その葬儀のわずか8か月前の昭和15年1月16日、米内氏が内閣総理大臣となりました。(在任期間1940年1月16日~1940年7月22日) 

この時、同郷の大先輩で、当時すでに体調を崩し、熱海で病気療養中だった山屋氏へのインタビュー記事があります。
(保養中の熱海の邸宅は、親戚の実業家の所有する別邸)



「寒もやがてあけるといふ、うすら寒い風の吹きしきる日の夕べ、記者は、熱海に病を養ふ山屋閣下を訪ねて、米内新首相の話をねだった。」

「玄関に見えられた夫人に案内されて、見晴らしのいい階上の、将軍の寝室に導かれた。
夫人は火鉢の灰をかきのけて赤い炭火を掘り起こしながら、
『今少し先、やっと床を離れて、下でお茶を飲んで居るのです。』と仰言る。
間もなく、階下から丹前姿の将軍が『やあ、よく来た。何しろ階段を上るにもこの通りでな。』と四つ這いの真似をされながら座布団を敷かれた。
おもひなしか大分おやつれのようにみえる。『どうも暮れに不幸やら何やらごたごたがあって少し無理をしたもんで・・・・然しおかげでもう大分いい。』
夫人が間もなく階下に去られて、畳の香も新しい六畳間に将軍と二人きりになる。

『米内君について語れと言われても、實の処、気の毒だが何もないよ。
ただ同じ海軍の飯を喰った同郷の者だといふだけのことで、而(しか)も米内君とは十七期も違ふのだから、現役中全く面識すらなかったといっていい。
洵(まこと)に御縁が薄かった。私が米内君の名を知ったのは、たしか米内君が佐世保鎮守府司令官になられたころではなかったかと思ふ。

先日もある新聞記者がやってきて昔話をしろといふのだが、この通り何も話の種がない。その話の種のないことを語ったら、次の日の新聞を見ると、デカデカに「愛すべき男」といふ標題で書かれてある。いやはや洵に困った。
いくら何でも米内君に済まないことに思って、いづれ会ったらお詫びをしたいと思っていた。この機会に、是非一つ君の雑誌で訂正して置いてくれ給へ。

大命を拝した米内大将について彼是(かれこれ)いふことは、とりも直さず畏れ多くも大命を是非することになる。これは大いに慎しまなければならないことだ。
米内君が大命を拝されてこの難局に起たれたとは並々ならぬことである。
ただ、私が米内首相について言えることが一つある。それは「至誠」といふ二字である。すべて米内大将の一挙手一投足が、この二字から出ていることだけは伝へていただきたいものだ。

米内君と私が顔を合わせるやうになったのは、新岩手人の会や、岩手海軍会や海相になられてから、しばしば吾々隠居の大将を集められて時局についての懇談会があって、その席上などであるが、いつも頼もしく思ふのは私のこんな貧弱な體格に較べて、米内君にしろ及川君にしろ、あの身體の立派なことだ。ご苦労でも、この際である、吾々の何倍も働いていただかなければならない。』

山屋大将はここまでポツリポツリと厳かな口調で語られて、やがて深々と眼をつぶられた。白くなった長い眉毛、その下にぢっと暫らく閉ぢたままにして居られる眼。(閣下は米内さんの為に祈っておられるのだな) 記者はさう独断できめて、吐く息も自づと音無しに、小刻みとなるのを意識しないわけにはいかなかったのである。」


                       (出典:「新岩手人」)

・・・・と、記事は終わっている。
どうやら最後は、眠ってしまわれたようです。

けんもほろろ・・・とまでは言いませんが、そっけなく少々突き放した感じで意外でした。
というのもこの方は、どれを見ても「温厚篤実」、「慎重居士」と評される穏やかな方で、諸先輩や友人についての思い出話をいくつか読んだのですが、あまりに話しぶりが違っていて驚きました。

大正時代に現役を退いており、あまり付き合いがなかったという事もあるでしょうが、親族に海軍関係者もいるわけで、何も知らないという事もないでしょう。
実質褒めているのは「体格」だけです。
わずか8か月後、自身の葬儀委員長を米内氏が務めたと知ったら、驚かれたかもしれません。



◆ 海軍葬 ◆

さて、この後、山屋大将は昭和十五年九月一〇日に亡くなられています。
当時の年譜には、「薨去」と書かれているものも散見されます。

新聞には、「山屋大将邸に勅使を御差遣」として、「一二日午前一一時、勅使内藤侍従を差遣し、幣帛を下賜あらせられた」とあります。
また同時に、「海軍葬次第決まる」として、一三日に青山斎場で行われ、葬儀委員長に、二か月前まで首相だった米内光政大将、幹事にやはり同郷の八角三郎中将以下二八名と出ている。(朝日・昭和15年9月13日)


                   
(むかって右から3番目の白い制服が米内前首相、その右隣の有馬大将は故人と同期、一番右は鈴木貫太郎と思われる:「新岩手人」)

当日の様子について、
「故・山屋他人海軍大将の海軍葬は秋晴れの十三日青山斎場で正午から盛大に挙行された。」
有馬、鈴木、山梨各大将その他顕官諸将星、南部利英伯爵ご一家、毛利子爵、島津男爵、田中館愛橘博士等列席。永平寺の大導師の読経に入り、東伏見宮、山階宮、久邇宮の各御代拝があり、及川海相以下の弔辞のあと、全員起立の中に、横須賀海兵団儀仗隊による「弔銃」3発が碧空にこだました。
その後、午後一時から一般の告別式にうつった。(朝日新聞9月14日、新岩手人)


※この葬儀の導師を勤めた越前の永平寺と山屋大将は御縁があり、 雅子妃は、外交官試験を終えた後、曾祖父の「書」が残されているこの名刹を友人と訪ねている。


◆「山屋閣下を思ふ」◆

さて、葬儀委員長を務めた米内氏は、同じく「新岩手人」にて、先輩について以下のように語っています。

(引用開始)

私は元来人を訪問することが好きでないで、郷土の大先輩たる山屋閣下もあまりお訪ねしたことがなかった。
何でも私の大尉時代に、八角、原、小山田の諸君に連れられて、当時たしか麻布の狸穴近くだったかと記憶する山屋閣下をお訪ねして御馳走になったことがあるが、これが私の山屋閣下にお目にかかった最初だったやうにも憶えてゐる。

御承知の如く山屋閣下は温厚な人格者で、慈父のような尊厳のある方だったが、決して単にそれだけでなく、かなりの閃きをもったユーモリストでもあられた。
人を導くのに決して理屈をもってすることなく、笑ひ話の諧謔の中に、おのがじしそのゆくべき道をしめされるといふ風であった。


  「近代日本人の肖像」

私が海軍大臣に就任したとき、世田谷のお宅に御挨拶に参上したが、言葉少なに、この際洵(まこと)にご苦労だと仰言ったのみで、別に政治上のご意見は仰言らなかった。
山屋閣下はあれだけの人材であられたのだから、定めし政治上とかその他の誘ひもあったに相違ないが、(中略) 終始一貫一切政治上のことに関係されずに七十五の清い生涯を帝国軍人としてのみ終えられたことは、さすがにお偉かったと欽慕の情に堪へないと同時に、洵にお羨ましくさへ思はれる。

私が大命を拝したとき、岩手海軍会でそのお祝ひの会を開いて下さったが、その当時山屋閣下は病床に居られて、ご出席になれないのを大変残念がられ、小森閣下に託して「御挨拶」の原稿を読ませられたが、あとで、山屋閣下と碁敵として大変親しかった大見丙子郎少将(秋津洲艦長時代の部下)の話に依ると、この御挨拶の原稿を書かれるのに三時間も大変苦しまれ、推敲を重ねられて漸く出来上がったものだと聞いて、私は涙の出るほど感激した。
(中略)
ちょうど亡くなられる一週間ばかり前にお見舞いに参上したが、大変弱って居られて洵にお気の毒であった。それから又少し間を置いて、お見舞のお手紙を奥様宛に差上げたが、ちょうどそれが亡くなられた日に届いたといふやうにあとで奥様から知らしていただいて感慨無量であった。
海軍葬には委員長たるの光栄に浴し、遥かに英霊の昇天をお見送り申し上げたが、時局下、かうした偉材を亡ったといふことは、ひとり郷党や海軍としてのみならず国民の一人として洵に残念でならない。


(引用終了)   

山屋先輩は、若い米内氏を自宅で御馳走したこともすっかり忘れてしまっていたようですね。






・・・・・ここから5年後、

日本は米国に敗れ、占領下におかれることになった。

マッカーサーの部下・フェラーズ准将は、米内をGHQ司令部に呼び、天皇免責案として、開戦時の天皇は無力であったとする立証を日本側に要請(このために「昭和天皇独白録」が作られた)、そして東京裁判において「東條に全責任を負わせるようにすることだ」と提案し、それに対し米内も「同感だ」と応じている。
(「昭和天皇の終戦史」他)


陸軍と海軍は犬猿の仲でしたが、東條家も、山屋家・米内家と同じく南部盛岡藩士でした。






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この昔の県人会誌に、山屋大将の話としてちょっと驚いたのが、

「横川省三と私」

「私は下小路の家から盛岡小学校へ通った。私の隣家が例の華厳の瀧へ投身して名を遺した藤村操、その向かひが横川(省三)の家だった

「横川と私の関係はいはば小学校の友達でした」とあり、

雪解け道で、横川少年が山屋少年の下駄の鼻緒をすげてくれた思い出を話しておられます。

後年、横川は、朝日の記者などを経て、国の命で対ロシアの諜報活動に従事するも捕えられ、悲劇的死を遂げましたが、その34年後、横川氏を偲び麻布に「横川公園」ができることになった際、山屋氏も協力し地鎮祭にも出席している。

「かうしてゐる中にも鼻緒をすげてゐる少年、横川の幼い顔がはつきり浮び出る、『愛』の横川です。」
(昭和13年談)

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