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「やかまし屋」の古賀喜三郎学監(雅子妃の高祖父) 「威仁親王行實」より




「威仁親王行實」巻下 1926年刊より   国立国会図書館)


(有栖川宮威仁親王)殿下が海軍兵学寮の宿舎に入らせられたのは、明治八年四月で、御歳十四の時の事であつた。
當時の校長は中牟田倉之助、学監は古賀喜三郎、この古賀が有名な八釜し屋(やかましや)であった。
ある時外出された殿下の御帰舎が門限過ぎであつたといふので、古賀は少しも容赦せず、『たとひ殿下たりとも校則は枉(ま)げる譯には参りませぬ』といつて、直に何日間かの禁足を申し渡した。すると殿下には、ご立腹と思ひの外『生徒が校則に遵ふのは當然である』と仰され、謹んで禁足を厳守せられた。

その頃の兵学寮生徒は、衣至骭式の豪傑揃ひで、動もすれば常軌の外に逸出せむとしたから、教官も余程手古摺って居た。

ある時生徒が小金井に遠足したが、俄かの大雨に濡れ鼠となり、勇を鼓して兎も角も、府中まで辿り着き、そこで着物だけは乾かしたものゝ、何分道路泥濘で、歩むことが出来ず、豪傑連もこれには痛く閉口して『今から一泊させて呉れろ』といつて、弱音を吹いたが、学校の都合上當日中に是非還らねばならなかつたので、古賀学監は思案の末、その旨を殿下に申し出ると、殿下は直に頷かせられ『さういふ事なら予が第一に出發しよう』と仰せられた。

そこで古賀は一同に向かひ、『殿下でさへ御歩きに成るのに、こゝに泊りたいと申すは何事だ』と励聲叱咤したので、一同返す言葉もなく、とうとう歩き通しで帰校した。

この時殿下の御足がまだ小さかつた為に、有り合せの草鞋がうまく穿けず、甚だ困つたといふ話もあつた。

かくの如く校則を励行する場合には、第一に殿下に御勧めして、これを模範とするやうな有様で、その後校則は次第に厳守されるやうになった。




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この「やかまし屋」の古賀喜三郎学監が、雅子妃の高祖父である。
佐賀藩士で、現・海城学園の創立者である。





◆佐賀海軍◆


古賀喜三郎は、弘化二(1845)年、北川副村古賀に生まれた。
父は平尾吉左衛門、幼名秀辰。後に、同村の中野古賀(卯兵衛)家の養子となっている。


江戸時代、佐賀藩は福岡藩とともに、外国との唯一の窓口だった長崎の警護を担っており、幕末、欧米列強が押し寄せた際、藩主鍋島直正は海防の必要性を痛感、藩士の人材養成に乗り出していた。

藩内の有望な年少者を選抜し、彼らに洋学と近代砲術の修得を奨励、その中の一人が古賀喜三郎であった。



オランダ語で西洋砲術を学んだ古賀は、幕末の文久2(1862)年、長崎港外、伊王島砲台指令に任ぜられ、その後、元治元(1864)年には、19歳で、長崎に碇泊中の英国軍艦に派遣される14名に選ばれたことが以下の資料からわかる。

          

(「長崎表碇泊の英軍艦へ乗込、砲術其外質問の為早速立にて彼地」へ派遣されている。
出典:「佐賀藩海軍史」 大正6年 国立国会図書館)


上記「威仁親王行実」に校長として出てくる「中牟田倉之助」の名前も見える。
8歳年上の中牟田との先輩後輩の関係はその後もずっと続くことになる。

なお、長崎から帰藩後、古賀は藩の教官となっている。





また戊辰戦争では、

「維新に際し、九条道孝に従い砲隊司令として奥羽征討に参加す。
平定の後、大総督宮殿下より感状を賜い、」
(先覚者小伝)

とある。この大総督は有栖川宮熾仁親王で、前述の威仁親王の実兄である。

当時22歳の古賀は佐賀藩砲隊司令兼武庫方助役として奮戦、奥羽戦争の兵を率いて帰藩の途中、大総督宮から京都・御花畠に特に召されての感状の拝受だった。



鍋島公の政策により、最先端の装備と人材を有するまでになった「佐賀海軍」が、維新後、帝国海軍に繋がっていった。
古賀のひと世代上から幾つか年長までの藩士たちは、その創設メンバーとして中牟田子爵のように元勲となったが、その後、藩閥争いで薩摩に敗れてゆくことになる。







◆学校創立◆

廃藩置県後は海軍入り。兵学校の教官や学監、監事(明治14年)等の教育畑の職務も多く、自身でも、現役時代から自宅の屋敷内に「一貫舎」という学校を作っている。

明治23年に引退(海軍少佐)、(※引退を明治14年と誤った資料が散見される)
翌24年、海軍予備学校を設立(麹町区元園町)、
「以来、宅地家財及び恩給等全部をなげうってひたすら学校の為に尽し」、教育と学校経営に邁進した。

ひ孫で評論家の江藤淳氏によれば、古賀は、当時所有していた芝・田村町の500坪の土地と屋敷を抵当に入れ、娘・米子(雅子妃の曾祖母)も家政の手伝いのため東京女学館を中退している。

(古賀喜三郎校長)


設立にあたっては、海軍兵学校での教え子であった山本権兵衛(当時大佐)が認可、同郷の先輩である中牟田(枢密院顧問、海軍中将、子爵)も後援している。

その後、学校の拡張にあたり、司法省の建物を譲り受け、霞が関の海軍省裏手の土地を入手出来たのは、前者は上記の有栖川宮威仁親王、後者は娘婿の江頭安太郎(のち中将)によるものとも伝えられる。

(明治29年の第1回の卒業式にはこの威仁親王と山階宮菊麿王が、翌年には小松宮が臨席している)

こうしてできた学校が、現在の海城学園である。


古賀は、同じ佐賀藩・嘉村家出身のすま夫人との間に、米子嬢のほか数人の子供をもうけるも、多くが早世したため、同郷の江頭中将に嫁いでいた米子嬢(この方は長命)の次男を跡継ぎの養子とし、大正3年に逝去。
享年七十。





(「(佐賀県歴史人名事典(先覚者小伝)」、「百年史」、「佐賀藩海軍史」)



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尚、明治の人事録等を見ると、古賀の後妻となった女性の父は、朝廷に仕える家柄で、岩倉公と通じた幕末の尊攘運動家のようだが、これは誰が間に入っての縁談だったのだろうか?
雅子妃と血の繋がりはないものの、なかなか興味深い縁組である。



古賀氏の系統は、子孫も海軍や佐賀県にゆかりのある方が多いようだが、
ひ孫の配偶者である江口朴郎氏(歴史学者、東大名誉教授)も、やはり同県の出身で、父が海軍(人事興信録)というのは、イメージと違っていてちょっと意外でした。
戦後の左派知識人の重鎮でありました。



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        (有栖川宮威仁親王)

さて、古賀が学監として指導した威仁親王の孫(美枝子女王の次女)が徳川喜久子姫で、のちの高松宮宣仁親王妃喜久子であった。

「威仁親王行實」には、親王が孫娘を溺愛する様子が描かれており、最期のころには、舞子別邸に逗留させ、一緒に過ごしている。

この評伝は、大好きだった祖父の死をまだ理解できない幼い喜久子姫を見て、周囲の人々が涙するところで終わっている。





(・・・あまり本題とは関係ないが、)


このとき偶然にも、亡くなられた舞子別邸に人事局長として勲章を届けにやってきたのが、山屋他人少将(当時)であった。



(「七月八日 山屋海軍人事局長(少将)元帥号並に菊花頸飾章進達の為め舞子御別邸に到らるゝところ」 『歴史写真』8月號 大正2年 国立国会図書館)


さらに後年、喜久子妃の外国語教師(御用掛)を務めたのが、山屋の母方いとこで英国留学経験のある野辺地安子女史であった。





安子の父で、山屋他人の伯父の野辺地尚義は、幕末に南部藩を脱藩、大村益次郎門下の蘭学者となり、江戸の毛利藩邸で教授(生徒に伊藤や木戸がいた)、京都で日本初の女学校(後の府立第一高女)校長を経て、和の迎賓館と呼ばれた高級社交場・紅葉館館主を長く務めた。)

              (「明治過去帳」 「東京芝・紅葉館 紅葉館を巡る人々」他)

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