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群馬県で納税額100位にも入っていなかった正田家ー明治~昭和初期の多額納税者名簿からー


◆戦前の多額納税者名簿◆

戦前、群馬県の多額納税者は10回公示されています。

当時の「官報」や、全回をまとめた「多額納税者議員互選人名簿 第9巻 群馬県」で確認できますが、明治、大正そして昭和ひとケタ代まで、皇后の実家本家・正田家(醤油醸造業)は掲載がありません。

上位15名のみ公示だった初回の明治23年から大正7年まではもちろんのこと、その後100位まで公示となった大正14年、昭和7年にさえ掲載は無く、戦時体制に入りつつあった最後の昭和14年に、やっと県下で59位でした。(これは、分家筋の美智子祖父の貞一郎氏の日清製粉の成長も関係しているのでしょう。)

つまり戦前10回のうち最後の1回だけでした。
長年の報道からくる印象とはずいぶん異なります。

意外と知らない人も多いようで、いくつか納税者名簿のリンクを貼っておきます。

以下のリンクした多額納税者名簿には、群馬の正田家は全く出てきませんが一方で、ほとんどの年で上位に、福岡県には麻生家(信子妃)、そして香川県には鳥取家(久子妃)が掲載されているのが確認できます。


目安として、

※ 日本の人口は、明治初期でおよそ3400万人、明治30年で4240万、明治末で5050万、大正末で6070万、昭和10年で6925万。現在、1億2670万人。(総務省「日本統計年鑑」)

※ 群馬県の人口は、大正9年で今の半分、世帯数は4分の1です。(群馬県統計課 「群馬県人口と世帯の動き」より)




明治23年 群馬県多額納税者

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900128/20



明治期は上位15名ですが、当時の人口を考えると、現在の50位ぐらいでしょうか。
明治前半期は、まだ江戸末期の経済状況を反映しているといえるでしょう。






明治30年 群馬県多額納税者 


「群馬縣多額納税者及大地主」(商工者名鑑)(明治31年)より、上段の「多額納税者」が明治30年のもの



美智子さんの実家・正田本家のある館林は、↑の画像の左下の「邑楽郡」です。
念のため町村名を消していますが、「多額納税者」にも、「大地主」にも、館林町の方が複数おられますが、正田家ではありません。









明治37年、同44年 群馬県多額納税者
(上段が明治44年、下段が37年)http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/910298/219 



隣のページの新潟県は、「千町地主」といわれる日本有数の大大地主が複数あり、群馬県の納税額とはケタが違います。





そして、大正14年から上位100名公表となりましたが、これも当時の人口と世帯数を考えると現在の200位あたりからもう少し多いかもしれません。





大正14年 群馬県多額納税者 (4月と7月の2回選挙があった)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/922789(群馬県はコマ番号116)


                  

1位の中島知久平は、戦前の「中島飛行機」の創業家で、戦後は富士重工業(スバル)。
納税額も2位の倍以上あります。






昭和7年 群馬県多額納税者 
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1445744(群馬県はコマ番号20)




100位まで公表となって、職種もはっきりわかります。


「荒物商」に「興行業」に「魚商」もいますが、この顔ぶれと納税水準でランク外なんですね・・・。





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この多額納税者名簿は、戦前の各地の資産家調べの最も基本的で最初に調べる資料です。


(当時の貴族院(今の参議院)議員が、都道府県の納税額上位15人による「互選」で1~2名選出されていたため、7年ごとの選挙(および補欠選挙)のたびに公示されていました。)


いくらなんでもこの実情で、「上州きっての」、「由緒ある資産家」などというのは、ありえないでしょう。

これで江戸期からの「豪商」などと言い始めると、日本中「財閥」だらけになってしまいます。



(そもそも県の「多額納税者」と言っても、殆どは地元の農家と商人。全国レベルのごく数家を除けば、到底それだけで、昭和30年代に皇太子妃が出るような顔ぶれでないのは、一目瞭然です。)




正田本家が貴族院議員でなかったことは資料からも明らかですが、一方、分家筋の正田貞一郎氏(美智子皇后の祖父・日清製粉会長)も、一応、勅選の貴族院議員になったとはいえ、
「敗戦後」の昭和21年から翌22年の3月に貴族院が廃止されるまでの、
占領下でのごく短い期間でした。
(「貴族院」というので、戦前と勘違いさせるような報道が多いのですが。)
まさに戦後の混乱期でした。





◆地主名簿◆


農家ではないので関係ないだろうとは思いましたが、一応、地主を調べる資料として、

「50町歩以上ノ大地主」 農商務省 大正13年
「群馬県各都市別耕地10町歩以上所有地主調」 群馬県 明治45年


やその他、篤農家名鑑等も見てみましたが、掲載されていません。

なお、戦前の大地主と多額納税者はかなりの部分で重なっており、あらゆる資料で出てくる名前は大体決まっています。





※日清製粉の前身である「館林製粉」は、もちろん正田家も出資していますが、
 それだけでなく多額納税者常連の地元の大地主たちが多く出資して設立された会社です。
 高商(現・一橋)を出ている正田貞一郎氏は設立時、専務として経営を任されていました。




一方、のちにライバル社となる「日本製粉」の(事実上の初代)社長に招聘されたのが、南條新六郎氏でした。
実家は館林藩家老をつとめ、群馬県初の銀行「国立第四十銀行」を館林に創立、初代頭取となり(行員の多くは士分を失った旧藩士)、同地の近代産業発展の礎を築いた人物です。
子息は、三井合名筆頭常務理事。

家柄、業績から見ても、本来、館林の近代史の中心にあって、同地が輩出した代表的人物であるはずですが、古い資料にでもあたらない限り、関連書籍や記述も少なく、殆ど知られていません。
この方についてのおそらく唯一の本(2008年出版)の帯には「忘れ去られた館林の歴史」とあります。

これも、正田家を皇后の実家本家たらしめるために生じた、大きな「歴史のゆがみ」の現れなのでしょうか?

                 (参照:「館林第四拾国立銀行創立と頭取 南條新六郎」)








◆「根拠がない」◆


また、正田家の先祖について、「新田義重の老臣、生田隼人重幸とされる」との婚約時の報道も、なんら学問的・客観的裏付けがなく、

「正田家が群馬県新田郡世良田村の長楽寺住職 平泉恭順氏(すでに故人)に、とくに調査を依頼した結果わかったとして」発表したもの

(週刊読売 昭和33年12月7日号 p24)

にすぎない。

そもそも朝日新聞(昭和33年11月27日縮刷版436p)では、

「生田隼人重幸から出たとの説もあるが、重幸が実在したかどうかは根拠がない」。

(ただしこの生田隼人家の子孫が家康の命で正田姓に改め、代々新田の徳川郷の名主となっており、世良田東照宮とも非常に関わりが深い。)



更に、館林に来てからの正田家の初代とされる人物も、

「(常光寺の墓碑の)名前は消えてわからない」、

「先祖がどこのだれであるか、実のところ正田家については明確ではない。」。

(ともに前出「週刊読売」24p)



※「正田」姓となった時期について、朝日は(明治維新の数年前の)文久年間、一方、「週刊読売」と毎日新聞は「生田隼人説」に則って天保年間(豊臣時代)としている。
とにかく驚くほどいい加減である。



(多くの美智子関連本では、古い来歴について(上記のように殆どが伝承)、実家筋の会社の社史や、近しい人がまとめた祖父の評伝から引用しているが、こういうのは言うまでもなく「無効」である。)




ただし、明治から大正期の群馬県の(すでに公開されている)商工人の名簿(館林町)には、


「醤油醸造 正田文右衛門」 
「和洋紙商 正田直次郎」
「米穀商 正田房五郎」
このほか谷越村に、「荒物商 正田卯平」 とあり、
 
館林町や目車町あたりで、一族で各種、商売しておられます。





まあしかし、この幾人かが存命中に親戚の娘が皇太子妃になるというのは、ちょっと考えられないことだったでしょう。
(旧皇族・華族か民間か、とかいう以前の問題。)

誰がどう見ても、この一族でようやく広い世に出つつあったのは、祖父の正田貞一郎氏が最初でしょう。

貞一郎夫妻(同族のいとこ同士の結婚)の年の離れた妹たち(美智子さんの大おば)あたりから、若干の婚姻の上昇と広がりがみられますが、それでも、その時代の町村長、組合長、町村会議員など、総じて地元・北関東レベルのものといっていいでしょう。


ここから美智子さんが皇太子妃になるまで、わずか1.5世代しか経っていません。

正田美智子さんって、「誰」ですか?




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こうした漠然とした疑問を覆い隠し、彼女を皇太子妃たらしめる大きな役割を果たしたのが(女性)週刊誌でした。
婚約翌日の毎日新聞に『「週刊女性」発刊』とあり、当時、各社で創刊ラッシュでした。
史実や信ぴょう性を求められず、何とでも書ける週刊誌なくして、美智子さんは存立しえなかったでしょう。(彼女に関するこうしたデタラメは、今や専門書にも及びつつある)

入内後にできた美智子さんの実家閨閥はマスコミのスポンサー企業であり、相互利益が形成され、そこに、皇室本を書く学者、評論家、ライター等々が「寄生」するという構造ができていきました。
これも、皇室の存続・繁栄のため、という大義名分によって正当化されたのでしょう。

その後のテレビも含め、「マスコミ天皇制」となったのは必然でした。


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