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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

土曜日にはマウンテン

2010-05-23 02:29:16 | その他の日本の音楽
 ”マウンテン”by たむらぱん

 もう時は正確には「日曜日の午前中」となってしまっているが、こちらの感覚としては、まだ土曜日の深夜だ。これから自分に週に一日だけ飲んだくれる事を許している夜が始まるのだから、こんなにめでたいこともない筈なのだが、画竜点睛を欠くものがある、とオーバーに言いたいのが、今週は”たむらぱん”の歌う「マウンテン」を聴きそこなっている、という事実だ。

 「マウンテン」とはテレビ朝日で毎週土曜の午前中に放映しているアニメ、「ご姉弟物語」の主題歌で、そいつをあの”たむらぱん”が歌っているのだ。土曜の朝はコーヒーかなんか飲みながらテレビの前に座り込み、のんびりその唄を聴く、これがいつの間にやら習慣となってしまっていて、あれを聴かないと一週間が終わった気がしないというところに来ている。それがテレ朝め、今週はアニメの代わりに訳の分らねースーパーヒーローものの特集なんかやりやがって、聴きそこなっちゃったじゃないかよ、あの唄を。

 つまんない事を言ってやがんなあとお思いでしょうが、まあ、その曲を一度聴いてごらんなさいって。なかなかよく出来た、実にロックの王道を行く曲であると思う。ロックとはこうでなくてはいかん、という要所を押さえたメロディであり歌唱である。
 考えてみれば”たむらぱん”の、特に2ndアルバムなど聴いていると、ことに歌詞も部分に関して、実に正論の嵐で、眩っしゅござんすお天道さまよ、みたいな息苦しさを覚える瞬間さえある。

 それは私の中にあるイメージで言えば高校生の冬の朝、我々仲間が、いや、とりわけ私が、あまりにもだらしなく頼りにならないので呆れて顔をしかめるクラスの女子一名、なんて一幕。あの時彼女が何を考えていたのか、たむらぱんの唄の中にすべては歌われているのだろう。ああ、女の子はいつも正しい。そして我々は何をどうすればいいのか、まるで分らずにいた。見上げれば青空は高くあり、その奥深くに凍える風がピューと吹いていた。

 それにしても、だ。この「マウンテン」が収められるのだろう3rdアルバムは、いつ出るんだろうね。毎週毎週、それほど好きでもないアニメの番組が始まるのを待ってもいられないんだよ。



何人目かのフィオナ

2010-05-21 01:06:44 | ヨーロッパ

 ”Coming Home”by Fiona Kennedy

 棚を整理していたら、ずっと前に買ったまま放り出していたこのCDを見つけ、聴いてみる気を起こしたのだった。
 ええと、この歌手はどういう来歴の人だったのかな?と、このCDを購入した際には分っていたろう事が、もう思い出せない。情けないが、この頃真面目にトラッドの世界と向き合っていないからなあ。それにフィオナとかケネディなんて名は、トラッドの世界にはあり過ぎだってば。
 しょうがないから検索をかければ、リバーダンスとケネディ大統領関係の記事ばかりが引っかかってくる。そうか、リバーダンスで世間的には名を成した人なのか。私の知りたいのはそういうことではないのだが。それにしても後者は関係ないだろ。

 まあいいや、とりあえずスコティッシュ・トラッドの人、それも親の代から歌い手として有名な人らしい、ジャケの書き込みを見る限り。と言う分ったことだけ頭において聴いて行こう。
 トラッドと言っても枯淡の域に達している人ではなく、まだまだ生々しい肉感的と言いたい感触を持つ歌を歌う人だ。そして、トラッドと並行して新作のフォークを、それも自作の奴など歌う人で、このアルバムにも何曲かが収められている。
 それらを聴いていると、どちらが優れているというのではなく、トラッドもフォークも同じ水位の出来上がりで、聴いているこちらの気持ちも揺らがずにいられる。

 7曲目の「アフリカ」も、そのようなオリジナル曲の一つで、いやなに、実はこの曲が気になってこのCDを買い求めたのだった、それは覚えている。
 聴いてみると、特にアフリカ的要素もない”観光”っぽい爽やかフォークソングで、ちょっと拍子抜け。スコットランド民謡の歌い手がアフリカとどのように対峙するのか、興味があったのだが。むしろその次に収められたパーカッション入りのゲーリック・マウスミュージックのほうがアフリカを想起させる出来なんで、笑ってしまった。このノリでやったらよかったのに。

 その他、記憶の彼方から呼び戻された古い唄たちが神秘的なアレンジをほどこされて歌い継がれ、切なくも愛らしい最終曲、”Farewell My Love”に至る。美しいメロディがティン・ホイッスルをお供にひとときスコットランドの高原を漂い、そして消えて行く。
 なんか大きな気持ちの人だな。この、私にとっては何人目かに当たるフィオナのアルバム、他に持っていなかったか、探してみることにしようか。それとも、どうやら雨も上がったようだし、深夜の散歩にでも出てみようか。、




世界音楽腐敗の兆候?

2010-05-20 03:44:32 | 音楽論など
 昨日の記事に関して言い忘れたこと。あそこに貼り付けたプルーデンス・ラウの音と映像は一作前、彼女のデビュー・アルバムのもので、”Why”に含まれる曲ではありません。どうも失礼。
 いや、驚いたんだけど、彼女の2ndの映像って一曲もYou-tubeには上がっていなかったの。プルーデンスのあのアルバムって、文中にも書いたけどヒットチャートの一位になっているのであってね。それが映像一つない。仕方がないから前作のものを貼ってしまいました。

 そういえば以前、同じ香港のステファニー・ライっていう私のお気に入りだった歌手の映像を探した時も一つも残っていなくて、それどころじゃない、ネット上に彼女に関する記録自体、ほとんど残っていない、これにも驚いたものでした。
 この辺、過去の出来事などどんどん捨て去り、現在だけを見据えて逞しく進んで行く中国人社会の爆走するエネルギーなど感じて、空恐ろしい気分になってみたりするのだけれど。

 ところで。ネットをウロウロしていたら、バイリ・ファンキって言うの?なんか知らないが、そういうモノを見ちゃいました。あれはちょっとひどいね。
 信奉者の連中はあれこれ理屈をつけているみたいだけど、要するブラジル人による愚劣なアメリカのラップ・ミュージックの物真似。それだけしかないと断ずるよ、あの音楽。それ以外の何がある。
 下に貼ったYuo-tubeを見てもらえば分るが(あんまりお勧めできないけど。「ブラジルよ、お前はそこまで腐り果てたか!」と、情けなさに涙が出てくる内容だ)ひたすら、頭の軽いブラジルの若者による、アメリカ合衆国の、それもひときわ愚劣な部分に対する無条件の賛美と言う、ほとんど宗教上の儀式の様子が捉えられている。

 支持者はブラジル音楽の要素も加えられた混合音楽と認識したがっているようだけど、この映像と音楽を見れば、事のベクトルはアメリカ賛美にしか向いていない。支持者の言う「ブラジル的要素」なんてモノは単なるアリバイ作りでしかないだろう。
 だってあの映像と音楽においてブラジルの若者たちは、「アメリカの黒人ってカッコいいよなあ。俺らもこんな田舎じゃなくてアメリカに生まれたかったよなあ」としか言ってないでしょ?
 いつぞやは同じくYou-tubeで、かっては”アフリカン・ポップスの総本山”とまで言われた、あのコンゴはキンシャサの通りにおいて同じようにラップ真似っ子に興ずるアフリカ人たちを見て、暗澹たる気持ちにさせられたんだけど、つまりは世界はもう腐り果てる方向に転げ落ちて行くばかりなんだろうか?

 それでもどうやらラップの支持者ってのは、ともかくラップが広まればそれでいい、みたな価値観でいるらしく、そんなのを見て「カッコいい!」とか喝采を叫んでいるようだ。世界中の街角で、黒い奴が白い奴が赤い奴が緑色の奴がニューヨークの黒人を気取ってラップするのさ、なんてイカしてるんだろう!と。
 かって、「世界中がもう一つのアメリカのようになる。おお、なんと美しいことだろう」と苦い哄笑を”ポリティカル・サイエンス”という唄に込めたランディ・ニューマンだったらこのような状況、どんな歌にするのだろうか。

 あのような状況は一過性のもので社会の一部で流行っているだけ、どんな世界にも心ある人々はいると信じたいが、その一方、このところアフリカン・ポップスの生きの良い新作にお目にかかれないのは、その種の音楽を奏でる筈の若者たちがラップ化してしまっているからだ、との話もあり、やはり楽観は出来ない。



香港最前線の女

2010-05-19 03:17:19 | アジア

 ”點解(Why)”by 劉美君(Prudence Lau )

 毎度、香港ネタでは同じ話を繰り返して恐縮だが、香港返還の直前、数年間の香港ポップスを私は、特別の思い入れを持って聴いていたものだった。それらの盤の中には、ほどなく確実に失われてしまう”借り物の土地・借り物の時間”と英国の作家が表現した不思議な時を過ごして来た幻想都市・香港と、そこに生まれ生きて来た人々の胸に息つく行き所のない焦燥感が厚く渦巻いている、そんな風に感じられたから。

 もちろんそれはこちらのセンチメンタルな思い込みで、香港人自身に言わせればなんて事のない一個の時流に過ぎないのかも知れないが。いや。そう割り切ってしまうにはやっぱり納得の行かない不思議な情熱が、”返還”を目前とした香港で生み出された音楽には封じ込められていた。自らの感性に賭けて、そう断言する。
 ともかく確実に、あの時代の香港ポップスは世界の先端に立っていた。それが何の先端であったのか、いまだに分らないのではあるが。

 そんな”香港の忘れがたい一瞬”に生み出された鮮烈な作品群の、これは一枚である。香港のあの時代を過激に生きた女、プルーデンス・ラウが1988年にリリースした、彼女としてはセカンドアルバムである”Why”である。タイトルナンバーは香港において、その年の初めのヒットチャートの一位に輝いたりもしている。

 香港の夜の闇を体現するようなモノクロームな印象のエレクトリック・ポップが流れ出す。ブツブツと無機質な呟きを繰り返すベースの音に導かれ、プルーデンスの、いかにも”都会のいいオンナ”っぽいクールな歌声が響く。
 この歌声がちょっと異色の手触りである。音程が外れているようないないような、微妙なところで揺れ動く歌声。私はこれを、有名な北京語の四声に比べて九声もあるという広東語の複雑なアクセントが西欧風なメロディとぶつかり、独特の効果を生み出しているのではないかと想定している(カントニーズ・ブルーノートとか言っちゃって)のだが、まあ、確証はない。そもそもその現象がプルーデンスの歌声だけに起こる、というあたり、なんの説得力もない。

 プルーデンス・ラウを眩しい存在と私が感じてしまうのは彼女の生き様であって、なにしろ彼女は22歳で歌手としてデビューしているのだが、その時点ですでに彼女は結婚していて子供までいた。奔放な話じゃありませんか、子連れアイドル歌手なんて。
 どのような事情があったのか、詳しいことは知りませんが、そんな彼女の生き方と、いかにもアンニュイな翳のある都会風のいい女を想起させる彼女の歌声のイメージとが相まって、私の想像力が勝手に”香港最前線を生きた女”なんてストーリーを、彼女を主人公に作り上げてしまうのだ。

 プルーデンス・ラウはその後、10枚ほどのアルバムを出して人気歌手家業に精を出す一方で映画女優としてもいくつかの作品に出演している。が、1995年、突然アメリカに移住してしまう。香港返還を2年後にひかえて、である。関係あるのかどうか知らないが。そして同時期、離婚もしている。激動の年であったようだ。
 その後のことはよく知らない。しばらくの沈黙の後、カムバックしたとの話も聞いたが、私自身が香港の音楽シーンに興味を失ってしまっているので、彼女のその後も追えていないのだ。いやあ、なんか返還後の香港の音楽って、ガツンと来るものがないみたいな気がするんですなあ。

 香港の街の灯りは何も変わりはないように見えるのだが、さて、その灯りの下ではどのような人生が繰り広げられているのだろう。



若葉のトラッド

2010-05-18 01:33:18 | ヨーロッパ

 ”Dear Irish Boy”by Marianne Green

 今流行りの、ですかね、森の(笑)奥の岩陰にそっと腰を下ろし、静かな微笑を浮かべる貴婦人・・・みたいな仕込みになってますがちょっとぎこちないよ。それはそうです、彼女はまだ17歳の女の子、アイリッシュ・トラッド界のピカピカの新人歌手なのであります。
 そんな年齢の女の子が地味な民謡の世界に、どのような事情があって飛び込んだのか知りませんが、アイリッシュ・トラッド界ではちったあ知られた職人ニュージシャンのAndy Irvine が彼女の才能にほれ込んでしまって、このアルバム製作を全面的に面倒を見たようです。というか彼女とAndy Irvineの、ほとんど連名みたいな形で世に出ているのでした、このアルバム。

 音のほうはと言いますと、やはりマリアンヌの声は幼いです。普段、トラッドといえば大貫禄のお姉さまがたの渋い歌唱を聴き慣れているこちらとしては「こんなんでいいの?」と、いささか戸惑ってしまう。しまうんだけど、不快ではないです。むしろ、「あ、こんな行き方があったのか!」みたいな、一本とられたみたいな気分になりますな。
 それは確かに彼女の歌声は幼いんだけど、歌唱そのものはきちんとしたもので、唄の勘所は押さえている。それに、そもそもそのような、まあコドモが本格的トラッドを本気で歌ってしまう、というのが痛快じゃないですか。

 なんか、型に嵌ってしまっていた伝承音楽の世界に、雲間から柔らかな光が差して来た、みたいな感じで気持ちがいいのですね。
 それにしてもさすが職人のAndy Irvineの息がかかっただけのことはある、と受け取ったらいいんでしょうか、アルバムの作りに浮ついたところはないです。彼自身の奏でるブズーキやマンドリンを中心に、必要最小限の音が、これがまた実に地味な選曲を歌うマリアンヌをサポートします。これもすっきりして良いですね。

 Andy たちが切り取ったフレームの中で、若草の上の裸足の散歩、新鮮な果実丸齧り!みたいに素朴な新鮮さが麗しいマリアンヌが軽やかにステップを踏み、若い血が古い伝承唄に新しい命を吹き込みます。音の向こうから春の若草の匂いがします。

 なんと彼女の映像、You-tubeには一つもありませんでした。アイリッシュ・トラッドの新人なんてのは、そんなものでしょうか。しょうがないんで彼女のMyspaceのURLを下に貼っておきますんで、そこを覗いてマリアンヌの若草トラッド(?)をちょっと聴いてみてください。
 ↓
●Marianne Green My Space


その旗の下には立ちたくないと言う話

2010-05-17 02:56:17 | 奄美の音楽

 以前よりいろいろ想いを寄せている奄美の音楽の世界で、下のような音楽イベントがあります。

 <夜ネヤ、島ンチュ、リスペクチュ!>

 上に掲げたポスターをご覧になればお分かりのように、内容だけなら、そりゃ文句のつけようがない。私だって都合さえ付けば「それいけ!」ってなものですが。
 でもちょっと、引っかかるものがあるんですねえ。それについて、流行のツイッターに下のように呟いてみました。

 ”微妙な話ですが。奄美の地に憧れを持ち島唄を愛しているけれど、ヒップホップやレゲが大嫌いな私にとって、この「リスペクチュ!」って言葉、凄く複雑な気持ちになります。ヒップホップが嫌いな奴は奄美を愛しちゃいけませんか? ”

 「リスペクチュ」ってのは、要するにラップやらレゲやらが好きな連中が好んで口にする「リスペクト」でしょ?それを南島風に「くちゅ」と訛ってみた、というわけだ。
 まあ、小さな事と言えばその通りなんですがね。主催の人々は私みたいにヒップホップ嫌悪とかなくてむしろファンでおられるのでしょう。で、勢い一発でイベントのタイトルをそう決めてしまった。

 まあ、そう言うこともあるでしょう。ヒップホップの世界に共鳴している人には、さぞや楽しいジョークなんでしょう。
 けど私は、そんなヒップホップ印の旗の元に集まるわけには行かない。つまらない意地を張っているとお笑いでしょうが、嫌なものは嫌だ。それに、一言言わせていただければ、その場で奏でられる音楽のほとんどはレゲでもヒッポホップでもないんですよね?

 ・・・という、まあそれだけのお話です。




FIN.K.Lに想う

2010-05-16 02:53:52 | アジア

 ”Fin Kl 3 -Now”by FIN.K.L

 いまやブーム真っ盛り、なんでしょうか、現地では百花繚乱、様々個性を誇るグループが続々と誕生して覇を競っているという話を聞きました、韓国のセクシー・アイドル・グループ世界。韓国において、そのジャンルへの道を切り開いたグループの一つである”FIN.K.L”が2000年に発表した彼女らの3rdアルバムであります。
 もはやこの時点で、”韓国風R&Bなセクシーアイドル”路線は出来上がっていたようですな。ビシバシと打ち込まれるファンクなリズムに乗って、ウッフンアッハンとセクシーなコーラスが炸裂。早口コトバみたいなハングル・ラップやらが駆け抜ける。日本のこの種のグループとは本気度が違うと言えるんではないでしょうか。

 わが国のそれはアイドル性やセックス・シンボル性に流れてしまうんだが、韓国では質実剛健、むやみに愛嬌振りまくよりは、完成されたエンターティメントを志向する。オトナのエッチさを込めた流し目で画面を睨み、もともとが日本人よりぶっとい声帯を生かして、吠え立てるボーカル。
 でもねえ・・・日本人たる私は、あまり”本気一本”でやられると、なんかちょっと恥ずかしくなってしまうところがあるんですな。この辺、韓流好きな人とは違憲の異なるところとなるかも知れないけど。
 むしろ、このアルバムの中でも時々うかがえる初期の雰囲気といいますか、スィートなアイドル・ポップを歌っていた頃が懐かしく感じられたりする。

 アイドルの場合、歌なんて下手くそなほうがむしろ好ましい、なんて感じ、あるじゃないですか。やっぱりねえ、日本の”モーニング娘”や”AKB”みたいな、たわいないところがあるものを求めてしまう心が私なんかにはある。この辺、”芸能のあり方”なんて方向で突っ込んでみたら面白いかと思うんですが。
 いやまあ、こうしてCDを集めてるんだから、”FIN.K.L”だって好きには違いないんですがね。(CDどころじゃない、メンバー中のセクシー・リーダーのイ・ヒョリの写真集まで持っている)(笑)



フィンランドの森の歌

2010-05-13 00:50:49 | ヨーロッパ

 ”Kaenkukuntayat”by Riikka

 フィンランドの民謡をはじめとする、かの国の民俗というのには興味を惹かれて、90年代の始め頃だったか、かの地のトラッドのCDなど買い集めて夢中になって聴いていたものだった。
 ハンガリーと同じく”ヨーロッパ大陸に紛れ込んだアジアの血の一滴”という民族的出自がファンタスティックに思えた。他の欧州の言語とまるで関連のないみたいな不思議な響きのフィンランド語に憧れ、大衆音楽の事を「カンサンムジク」、”お前、ぶっ飛ばしたろか”を「ヨコハマフナウタ!」と言う、なんて事を知って妙に嬉しかったりした。

 そしてフィンランド音楽の、アジア的な濁りを孕む歌声に血の騒ぎを感じ、丸太を大地に突き立てるようなワイルドなリズム感に撃たれ、はるか東方の響きを予感させる歌謡性を帯びたメロディラインに、フィンランドの人々が旅した道のりへの空想を喚起された。
 そもそもフィンランドの人々の祖先はアラル山脈のふもとあたりに住まいしていて、古代のある時期、スカンジナヴィア半島に侵入、彼らの国家を築いたとの事。
 と言うわけで、そんな遠い国の妄想に酔い痴れていた日々を思い起こさせるような、刺激的なフィンランド盤に出会えたので、ここに取り上げる次第。

 はじめて名を聞く人だが、まるきりの新人とはとても思えない音楽的底力を感じる。解説に拠ればヴァルティナ等、名のあるグループに在籍してきた実力派のようだ。
 このアルバムのテーマとしては、フィンランドの民俗音楽の様々なエッセンスを分解&再構成して、新しい”郷の音楽”を作り出そうという試みなのだろう。
 アコーディオンやニッケルアルパといった民族系の楽器と打ち込みの電子音が地味にブレンドしあったバックトラックの上に、まるで森の小動物が鳴き交わすようにリッカの一人多重録音の歌声はリズミカルに広がり、人間には意味の聞き取れない秘密のネットワークが木々の間に張り巡らされて行く、そんな幻想が経ち現われる。

 伝承音楽の響きを中心に残しつつ、全体の手触りはまるでポップであり、そこが良い。
 北国特有の哀感の滲むメロディに乗せて、”アイヤ~アイヤ~イヤ~アイヤ~♪”なんて意味のない掛け声を繰り返しながら、古代の祭祀の幻想の中に入り込んで行く、その足取りの軽さが良い。重苦しい”民俗芸術”ではないのだ。
 あくまでもそのノリは軽く、楽しげにハミングしながら森の中へ、太古の時間にスキップしながら入って行きそうな心安さがこのアルバムの勝因だろう。
 さあ、我々もおいて行かれないように森を目指さねば。




鳥は今、どこを飛ぶか?

2010-05-12 04:57:14 | その他の日本の音楽

 呼吸”by ビューティフルハミングバード

 このグループの歌声を初めて聴いたのは、なにかのテレビCMでだった。まるで60年代末のアメリカの女性フォークシンガーみたいな独特のクセのある発声法で歌われていたので私は、誰かその辺の歌手が公演で訪れた日本が気に入ってしまい、そのまま日本に住み、歌手活動を行なっていて、このCMソングはそんな彼女の営業の一つなのだろう、と思い込んでいた。
 後日、あれは日本のビューティフルハミングバードなるフォークグループの仕事であり、歌っているのはメンバーである普通の日本人の女性であると知り、何だか化かされたような気になったものだ。だって、日本語の発音も、何だか怪しげに聴こえたぜ。

 などという出会い方をして以来、なんだかこのグループが気になってきてしまった。まったく、何かのファンになるのは、出会い頭に見知らぬ車と交通事故を起こすのと似ている。
 ともかくそうなってはしょうがない、CDを買って来てじっくりその”ビューティフルハミングバード ”なるグループの音楽に対面する。やはり耳に付くのは、ヴォーカルの小池光子嬢の独特のボーカルである。ジョニ・ミッチェルあたりにでも傾斜をしたのだろうか。その、ユラユラと裏返りつつメロディを織りなして行く様子には独特の美学があり、このグループの魅力の勘所だろう。

 サウンドは瞑想的といっていいだろうか、物静かなアコースティックな様子で、雨上がりの日曜の朝というか、梅雨の終わりの晴れ間とか、モップをあてた後の乾きかけの渡り廊下の匂い、そんな”乾燥途上系”の爽やかさを感じさせる。
 現実からポコッとはみ出た 物静かな幻想味が漂う歌詞世界であり、よく磨かれたガラス窓の中で差し入る日差しの中のうたた寝の夢見に通ずる。

 いずれにしても、その、かってのアメリカン・フォークっぽい音楽の形式自体が、70年代のブームの頃にシンガー・ソングライターたちの音楽に夢中になっていた世代には、もう”過去のもの”と判定を下されて久しいはずの音楽である。そして歌い手の視界の前に広がっている”生まれたばかりの世界の眩さ”も、老いたる身にはトキメキようのない遠いもの。
 なのに。なのに、もう誰も来るはずのない出会いの約束の場所になど、こうして足を運んでしまうのはなぜか。そんな具合に我ながらいぶかしく思いつつ、買って来てしまったCDをふと鳴らしてみる春の夜更けだったりするのである。




タガログ諸島へ

2010-05-10 01:54:30 | アジア

 ”Kahit Na Ilang Umaga”by Jessa Zaragosa

 なんか気になるフィリピンのタガログ語ポップスであります。その世界では大物、とのことです、ヘッサ・サラゴサ女史。スローバラード中心にじっくりと美しいメロディを歌い上げます。
 この辺の音楽に出会うと、嬉しくなってしまう私です。インドネシアの洗練されたポップスを、本来は泥臭い音が好きな自分であるくせに妙に好んで聴いているのと、事情は同じなんですが。

 その響きの向こうに、昔ヨーロッパ人が植民地支配のついでに置き忘れて行ったラテンの血の騒ぎが聞き取れるところに、妙に心が騒いでしまう。そして、そこから炙りだされてくるアジア的歌謡性の貌の鮮やかさに魅せられてしまう、というところでしょうか。この両者のブレンド具合の微妙な心地良さ、ですよ。

 タガログ・ポップスの、どこか燦々と陽が差す感じが好きですね。で、先に述べましたように、ちょっぴり漂う南欧っぽいお洒落さ、気だるさ。
 明るい昼下がりなんかにゆっくり聴いていると、地中海のどこか、イタリアの隣なんかにフィリピンやインドネシアの島々が浮んでいるような、へんちくりんな幻想が浮んで来もしますな。

 それにしてもこのヘッサ・サラゴサ女史、女優も兼ねていると言うくらいで見た目は可憐な人なのに、結構声域が低く、歌声にドスが効いているのも面白いです。数少ないアップテンポの曲では、とぐろを巻くように蠢くファンク・ビートに乗って、意外なほどパワフルな唸り声で凄みを効かせます。
 かなり根性座ってます、気位高くて機嫌をそこねると大変です、素顔は。とか勝手な推測をしてみては、「へへ、ヤバいヤバい」とかニヤニヤしてみたり。いや、気色悪くてすまん。