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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

ザーラの不思議な万華鏡

2010-06-06 02:34:11 | イスラム世界

 ”Beautiful Tango”by Hindi Zahra

 ワールドもの好きの一部で話題となっている(?)インディ・ザーラの日本初登場盤ということで。まあ私の場合、ジャケ写真の写りがいい女っぽかったんでジャケ買いしたわけなんですが。毎度、すみません。
 ザーラは(インディのほうが苗字だそうで)1979年にモロッコで、北アフリカ先住民族であるベルベル人の血をひく者として生を受けた。その後、10代の前半にフランスはパリに一家で移住している。
 その後、欧米の文化を正面から受け止めつつ自らの音楽を育み、2005年、メジャー・シーンで話題となり、こうしてアルバム・リリースとなったわけだ。
 そんな彼女の特異な経歴は、その音楽の上にも当然反映されていて、北アフリカ的なものと欧米的なものの混交した、実にユニークな音楽世界を作り上げている、との世評。

 ・・・で、さっそく聴いてみたのだが私には、なんか目新しいものを聞くという感じはせず、むしろ不思議な既視感があった。
 既視感といっても退屈とか不愉快とかいうんではなく、むしろ懐かしい感じ。昔馴染みの音楽に意外なところで再会してしまったみたいな温かい思いが胸を満たしたのだ。
 それはたとえば冒頭のタイトルナンバー、ビューティフル・タンゴ。この曲、英語で歌われているせいやアレンジのせいもあるんだろうけれど、なんか昔の英国ポップスに聴こえたのだ。
 なにげない生ギターの弾き語り中心で歌われるその唄は、マイナー・キイのメロディや、ブンチャブンチャという古めかしい歌謡曲リズムから、私には60年代の英国ポップスのヒット曲、たとえば”マンチェスターとリバプール”なんてナンバーを想起せずにはいられなかったのだ。おお。こんな世界、聞き覚えがあるぞ!

 次の、ベルベル語で歌われる、北アフリカ色濃い筈のナンバーも、私には60年代にドノバンが試みていたような、サイケなエスニック・ポップスの匂いを強力に感じた。やや書き割りっぽい、昔の彩色写真みたいな薄っぺらい異国情緒が漂う。
 その後の曲にも、生ギターとボンゴだけでやっていたサイケ・フォーク時代のTレックスやら、エスニック味で煮しめたみたいなサイケ・フォークの大御所、インクレディブル・ストリングバンドなどの面影が次々に現われ、カラフルな幻想が音の合間に舞う。これが、変な話だけれど、なごめてしまうんだよな。

 あくまでも気負わずさりげなく歌いだすザーラの歌声は好ましいものであるし、この不思議な、あるはずのないノスタルジィによっていたっていいのだが、しかし、彼女のキャリアに60年代のロンドンなんてないのだし、この辺の偶然の符合、考えてみずにはいられない。 なんでこうなる?なんかここにワールドミュージックの意外な秘密とか隠されていないかな?とか思ってみたり。



イスタンブール望郷

2010-06-05 04:03:03 | アジア


 ”KIRIK KALPLER DURAGINDA”by CANDAN ERCETIN

 威風辺りを払う、とでも言うのだろうか、このジャケ写真を見たとき、写真に写っている人のあまりの貫禄に畏れ入った私は、「これは買うしかないだろう」と思ってしまったのだった。何のことやら分かりませんが。これもジャケ買いのうちに入るのかね。
 音を聴いてみると、まさに期待通りの貫禄のトルコ歌謡がビッシリと詰まっていたのだった。彼女、シャンダン・エルチュティンはトルコの大衆音楽の大歌手らしいけど、なるほど、いかにもそんな感じであります。

 ともかく揺るぎがない、岩みたいな貫禄のお人。ドスの効いたハスキーな声で”屹立”と言う言葉がよく似合う感じの背筋をピシッと伸ばして歌っている、その姿が目に浮ぶような毅然とした歌声が響き渡る。
 ときに民族楽器鳴り渡る、いかにもアラブなミステリアス路線、ときにシャンソンの風が吹き、ジプシーの叫びが入り込むかと思えばロックっぽく駆け抜けて行ったり。小アジアからヨーロッパ全域までも自身のナワバリとして視界に収めた、壮大な歌世界が繰り広げられている。

 でも私は、彼女の歌のなにやら湿ったマイナー・キイのメロディの中に染み付いた貧乏臭いアジア的歌謡曲性が気になってならないのでした。収められているのは全曲、エルチュティン自身のペンになる曲のようだけど、彼女、シンガー・ソングライターでもあるんですな。
 それらの音、むしろロシアの大地経由で日本の古くからの歌謡曲とダイレクトにつながるような流れをうちに秘めていて、それゆえ私などはエルチュティンの唄に、なにやら根拠があるようなないような懐かしさを覚えたりしているのですね。はじめて聴く音なのに、聞き覚えが在る・・・

 この、世界音楽の裏通りをひっそりとつなぐ時代遅れの蒸気機関車みたいな代物、さっぱり格好よくないけれど、なんか身びいきしたくなってしまうのです。



バンコクの柔らかき経文

2010-06-02 02:34:42 | アジア

 ”Climax”by Girly Berry

 タイ関係では毎度そのブログを参考にさせていただいているころんさんであるが、そのころんさんいわく、「カッコいいサウンドと、それを裏切るヘロヘロな歌声の対比の妙が面白い」ということになるガーリィ・ベリィ。タイの4人組セクシーアイドルグループである。このアルバムは、彼女らが2007年に世に問うたベストアルバム。
 この種のエッチなお姐さんグループと言うのは、もはやアジア各国の芸能の世界では標準装備という感じになってきたみたいだ。”ソウル・ミュージックのその国なりの運用”みたいな音作りで、ケバい化粧にエロい衣装で身をくねらせつつウッフンアッハンとエロいコーラスを披露する。基本、そのようなものが各国に妖しの花を咲かせている。

 タイのこのグループは、まさにころんさんの言われるとおり、黒く重くカッコいいリズムがビシバシ打ち込まれる中、聴こえてくるフニャフニャな歌声に大いに脱力させられる、という芸風である。たとえば、何組か紹介している韓国のその種のグループなどと比べると・・・いや、上手いとか下手とか言ってもしょうがないだろう、もうこういうものなんだから。
 以前、ここに紹介した猫ジャンプとか、紹介したかどうか忘れたフォア・モッドなんてグループを思い合わせると、タイにはこのような脱力アイドルが多いような気がする。と書いてはみたが、しっかりとした歌唱を聞かせる人ももちろんたくさんいるわけで、確立として多いのかどうか、断言できるほどタイの大衆音楽の知識があるわけでもない。

 が、ポッコンパッコンとしたタイ語の響きと相まって、その種の脱力ポップスが、あの炎熱と喧騒のバンコックの下町の街路に、家々の窓辺に鳴り響き染み付いて行くありさまを思ってみると、熱によって煮しめられた”仏教的諦念”という奴が人々の心にジンワリと絡みついて行く様が見えてくる、みたいな気分になってくるのである。
 そいつは心優しい柔らかいマントラであり、大昔から形を変え姿を変えては人々の心にまとわり付いて、こんな脱力のレット・イット・ビーな教えを謳い続けていたのだ。
 あ、勝手な空想を書いているんで、学術的にどうこう言わないで欲しい。以上は、タイ・ポップスに捧げた詩みたいなものとお考えください。と言うことで。



ブレトン岬、ロリコン通り

2010-06-01 00:49:29 | ヨーロッパ

 ”Songbook 1”by Cecile Corbel

 ああ、俺はスケベさ、それがどうした!と素地を作っておいて、さてそれでは本題に移るとしよう。(いやなに、「ここのところ女性歌手の話ばかり書いてるなあ」と、ふと気がついたもので)
 と言うわけで、フランスはブルターニュ出身のハープ弾き語りのトラッド歌手、セシル・コルベルちゃんであります。
 この人はスタジオジブリの新作映画の主題歌を歌っているので、その歌声をお聴きになった方もおられるでしょう。つーか、私はそれは聴いた事がないんですがね。
 まあ、変な形で彼女が日の当たる場所に引きずり出されてしまうのは面白くないんで、その歌があまりヒットしない事でも祈っておきましょうか。いや、こういう個性の人はマニアが人に隠れてコソコソ聴いてこそ、その個性が生きるってなものでしょう、正味の話。メジャーの世界で生きて行くのは無理と言うか場違いだと思うよ。

 コルベルちゃんの出身地であるブルターニュ半島といえば、アイルランドなどと同じく、古代ケルト文化の痕跡が色濃く残っている土地として知られており、その種の音楽の復興につくした、アラン・スティルベルなんて偉人もいて、スキモノにはたまらん土地となっております。
 でもコルベルちゃんの音楽はストレートにトラッド、ケルティック、という感じでもなく、むしろ彼女のうちにあるそれら音楽への幻想を積み上げ、彼女なりの美学にもとずく、カッコつきの「ケルティック」な音楽の迷宮を創造しているというべきでしょう。結構、虚構の手触りがする音楽です。彼女自身が演奏するハープの響きに絡むストリングスと電子楽器の轟き・・・
 でもそれが”ポップス”に通ずる美学となっているので、これはこれで意義ある、興味深い試みと受け取っていいのではないでしょうか。

 ・・・もっともらしいこと書いてますがね。なに、実は私、コルベルちゃんの唄を一耳聴いて(一目見て、という言い回しがあるから、こういうのも良いんではないかと)、その文字通りの小悪魔的響きに一発でやられてしまってミーハーなファンになっているのですわ、それだけの話。
 この声をどのように表現したらいいのかなあ。まあ、聴いてもらうしかないんだけれど。アルカイックな微笑を浮かべた唇の奥から生まれ出る、魔法の木から流れ出した謎の樹液みたいな濃厚な糖度を示すこの歌声は。
 ヤバいねえ。妖しいねえ。こういうものをやらせたらフランス人は天下一品だねえ。根っからスケベなんだねえ。呆れたものだねえ。フランス・ギャルとかシャンタル・ゴヤとか、ちょっと聴きたくなってきたねえ。




断章・アホに寄せて

2010-05-29 22:16:49 | その他の日本の音楽

 さっき三木道三の「一生一緒にいてくれや♪」って唄がどこからか聴こえて来てあらためて思ってしまったんだけれど、どうして我が国のレゲとかラップをやる奴の音楽って、いかにも頭の悪そうな雰囲気と言うか濃厚なバカ臭が漂っているんだろう?

 頭の悪い奴があの種の音楽をやりたがるのか、やっているうちにバカ化するのか?いずれにしても底知れぬ情けなさを感じます。

 下のような歌を聴くにつけても、ふがいなくてなりませんわ。(頭の構造の単純な人から、「親孝行をして、何がいけませんか?」とか反論受けそうだな。”反逆者のポーズ”が商売にならなくなったからと昔ながらのお涙頂戴に逃げるなんて、そりゃ志が低過ぎるでしょう)



ルイジアナ・スーダラ行進曲

2010-05-28 04:52:22 | 北アメリカ

 ”never go away”by boogie kings

 このCDのジャケの下のほうに「ルイジアナの伝説のスーパーグループ」とか記してありますが、それがそのまんま、このCDに収められているとは思わないほうがいいのかも知れません。”スーパーグループ”があれこれメンバーチェンジを重ね歴史を重ねた末に、「もう一度、初心に帰ってやってみっか」とか言って吹き込んだアルバムと考えるべきかと。2007年新譜。中ジャケには、それなりに年老いたメンバーが懸命にマイクに向う姿が捉えられています。
 真っ黒けのソウルを胸に秘めた白人のR&Bコーラスグループ。などというものが、特に問題なく存在し得てしまうのが、このルイジアナという南部の神秘の泥沼ゆえの魔法と言ったら見当違いでしょうか。

 ユルユルでドロドロのバックバンドの音に乗って、まるで黒人の熱っぽいコーラスがいきなり飛び出してきます。もう、いきなりスキモノの心に飛び込んでくる人懐こさをもって。
 いかにも南部、のいなたく暖かいソウル・フィーリングが盤一杯に漲っていて、その水位は最後の一曲が終わるまで、途切れることはありません。選曲がまた、ベタの極致でいいじゃあありませんか。レット・ザ・グッドタイムロールに続いてイフ・ユー・ドント・ノウ・ミー・バイ・ナウなんてのが聴こえてくる盤はそうそうないと思いますな。
 レッツ・ジャスト・キス・アンド・セイ・グッドバイってのは、マンハッタンズの曲でしたっけ?おいおい大丈夫か、あんな大都会ネタをやって。と心配してみるものの、彼らはマイペースのルイジアナ気分で歌い上げてしまいます。あの名曲、メンバーズ・オンリーでジンと泣かせてみて(でも、オリジナルのボビー・ブルーのあれに比べると、相当にユルユルホカホカなんですが)さて、後半はロッキン・ブルース大会に突入であります。

 ほとんどカラオケ大会の選曲であるこの盤で、後半がブルースってのは、ルイジアナの酔っ払いはこのノリと考えていいのでしょうか。そしてラス前にサム・クックのブリング・イット・オン・ホーム・ツゥ・ミーを持って来てR&Bファンをまた泣かせ、最後は意外にも、のオールド・ラギッド・クロスだ。この辺、信仰厚き南部人としては当たり前のパターンなんでしょうか。
 と、ただ実況中継をやってりゃ世話はないんですが。まあでも、こんな能天気な楽しみに満ちている盤にあれこれ言ってみても仕方がない。ドンと行こうぜ、ドンとね。

 下に貼った映像、この盤とどれほど関係があるか分かりませんが、とりあえずブギー・キングスのステージではあります。時代やメンバーは、この盤とちょっと違うかもしれませんが、心意気は同じようなもんですわ、きっと。




路面電車去って後

2010-05-27 04:57:55 | 60~70年代音楽

 昨夜は作詞家・松本隆に関する特集番組のようなものをやっていたらしい。それについて書かれた感傷的なWEB日記をさっき読んだ。まあ、彼に対する一般的評価と言うのがあれなのだろう。

 あれは70年代、松本がかって属していたバンド、”はっぴいえんど”がアメリカでレコーディングしてきた、彼らとしては最後のオリジナル・アルバムであるところの「さようならアメリカ・さようならニッポン」がリリースされた直後のこと。
 私はある女性ロック評論家(彼女の名前が思い出せたら、と思うのだが)が書いたアルバム評を読み、いわゆる目から鱗の落ちる経験をさせられたのだった。
 彼女は書いていた。「松本隆の作る歌詞は、すでに腐臭を放ち始めている」と。
 とりあえず、その一年前になるのか2年前になるのか、短い間ではあったがバイトで”はっぴいえんど”のアンプ運びなどやっていて、それは得がたい体験だったなあなどと日に日に重く思えてきていたし、なによりまだ”はっぴいえんど”の信奉者であった私は、彼女のその文章にドキリとさせられた。

 そうなのだ。その時の私も「さようならアメリカ・・・」に収録されている松本隆の作詞には、なんだか物足りないものを感じてはいたのだった。1stアルバムにおける、やや山師めいたものも感じさせる迷宮的な言葉の積み重ねや、2ndにおける”風都市”なる空想をモチーフにして繰り広げられたイメージの世界に比べると、3rdである「さようなら・・・」で見られる歌詞は、なんだかつかみ所がないと感じてはいた。
 が、”腐臭”とは。激烈な表現に驚いたのだが、しかし反発は感じず、「ああそうだったのか」とむしろ納得してしまったのは、すでに私も心の奥では似たような感想を持ってはいたのだろう。「今回の歌詞はパッとしないな」と。

 言われて見ればそのとおり。かってあれほど共感をさせられた松本隆の詞の世界の煌きは失われてしまっていたのだった。
 それからは。それをきっかけに、といいたいほどのタイミングでさまざまな変化がやって来た。それまで愛好していたシンガー・ソングライターやアメリカのルーツ・ロックの世界が、まるでつまらないものに思えてきてしまったこと。かっての仲間たちが、それぞれに新しい生き方を求め、歩む道筋を変えて行ったこと。ある者は髪を切ってマトモな会社に就職を決め、ある者は家業を継ぐために故郷に帰っていった。
 それまで信じていたことすべてが揺らぎ、だが私は新しい価値観も見つけられずにいた。親しかった友人の下宿を訪ねれば、いつの間にか彼は引越しをしていて、空っぽの部屋に風だけが吹き抜けていた。

 まあ、これらはすべて、かって荒木一郎が歌った、「それは誰にもきっとあるような、ただの季節の変わり目の頃」となるんだろうけれど。
 その後、作詞家・松本隆の詞業はさらに濃い腐臭を漂わせながら歌謡曲の世界にも進出して行った。そして人々はその腐臭を愛しむように競って飲み干し、松本隆の歌謡界における活躍が始まった。
 その後の話は話せば長いがすべて省略する。今、”大御所”としてテレビで特集番組を組まれるベテラン作詞家の松本隆がいて、その現実にいまだに納得の出来ない、かってのファンとしての私がいる。それだけのこと。
 多分私は一生、納得する道は見つけられないだろう。あれこれ言っても仕方がないのだけれど。ただの季節の変わり目だったのだから、あれは。



3号線の蝶々を追って

2010-05-26 01:35:45 | アジア

 ”02 Oh! silence”by 3rd Line Butterfly

 昨夜に続いて、またも韓国ロックですみません。まあ、サッカー敗戦記念とでもしておいてください。
 いや、昔は私も大の嫌韓家でね、日本代表がサッカーの試合で韓国に敗北などしようものなら頭に血が登ってえらいことになったものです。だけど、最近じゃこの通り、淡々と事態を見送っております。もう、どうだっていいのよ、サッカーとか。こうなったのもカワブチが悪い。と申し上げれば分る人にはお分かりでしょう。

 しかし、”三号線の蝶々”とは、なんじゃそれ?なバンド名。レコード店のジャンル分けには”Alternative Rock”とある。韓国における相当お洒落な存在のバンドじゃないかと思いますな、ジャケの雰囲気からもそんな印象を受ける。いかにもクールにお洒落なメンバーの姿があります。
 音の方は、なにやらダラダラとかき鳴らされるギターやけだるい呟きボーカルがダラッと流れるスモーキーな世界。色で言えば灰色が支配的ですが、そこに一筋激情がほとばしると、ノイズっぽい暴れようを見せるギターに乗せられ、女性ボーカルが真っ赤な激情を隠そうともせずにフリー・フォームのオタケビを高らかにあげたりもします。

 メンバーはギターやドラムの3人に、その時々で助っ人が加わる流動的なもののよう。その助っ人も、女優兼歌手やら詩人やらとタダモノではなさそう。最先端の奴等が集まっているんだろうなあ。
 ひたすら霧の中を歩む、みたいなミステリアスな浮遊感をもってバンド・サウンドは進んで行きます。聴き始めは、「ケッ、かっこつけやがって」とか実は反感をもって聴いていた私も、いつのまにか、この先の見えない幽冥境の散歩が心地良くなっているのに気が付くのでした。

 それにしても情念の言語、激情の言語である韓国語、こんな風にけだるくお洒落にボソボソ呟かれるのは、実に妙な気分だ。
 そしてエンディング。CDを入れ替えるのもだるいんで放っておいたら・・・しょうもない悪戯しやがって。夜中に聴いてて、ビックリして飛び上がったぞ。




OK牧場の面影

2010-05-25 01:47:15 | アジア

 ”OK牧場の乳牛”by Crying Nut

 この時期、このジャケにこのタイトルはヤバかろうよ。とはいえ、2006年に出た実在のアルバムなんだから仕方あるまい。
 一部で噂の韓国のパンクロック・バンド、クライング・ナットである。昨年、来日もしているとかで、彼らのステージをご覧になった方もおられるだろう。

 音を聴いてみると、歪んだ音のギターが乱雑にかき鳴らされ、怒号と言うしかないようなヤケクソのボーカルがツバを飛ばして襲い掛かってくる。
 一瞬、頭がカラの、世界中どこにまいりましても普通に見かけるようなガキ臭漂うバンドかと思うんだけど、そのうち、もう少し奥行きのある表現も心得ているバンドであることが分る。
 その”奥行き”は、主にアコーディオン担当(そういうメンバーがいるのだ)のキム・インスあたりから発せられているようだ。とか言っているうち、ティン・ホイッスルがアイリッシュ・トラッドっぽいメロディを吹き鳴らしたりし始める。

 まあ、早い話が欧米の、ポーグスとかブレイブ・コンボみたいなバンドに対する韓国人からの回答がこのバンドなんだろう。などと言っているうちにも、ガサツなパンク・サウンドの狭間から出所不明の民族調の哀感などちらつき始め、そして飛び出すレゲやらポルカやらのリズム。確かにタダモノではなさそうな連中だ。

 ことに8曲目、女性歌手をゲストに、マイナー・キイのワルツを切々と聴かせるあたり、表現の幅がグンと広がる。
 何を歌っているのかはもちろん分らないのだが、聴いているうちに、雲が灰色に垂れ込める薄ら寒い空の下、海風吹き寄せるうらぶれた漁港などに佇み、許されない愛に悩む男女の演ずる安いメロドラマ風景などが浮んで、このバンドが踏みしめている魚臭い大地の広がりがリアルにリアルに感ぜられるようになって来るのだ。

 そして最後は渋いソウルっぽいバラードで粋に決めてみせる。おお、たいした余裕じゃないかと感心すれば、なんともう10数年のキャリアのある実力派バンドなんだそうで。なるほどね。
 それにしても、タイトルナンバーはどんな事を歌っているんだろうなあとやはりこのご時世、気になりつつも、これにて。




失われた(?)00年代を求めて

2010-05-24 03:58:57 | 音楽雑誌に物申す

 そろそろ皆も21世紀慣れ(?)がして来たのだろうか、何かと言えば”ゼロ年代の”なんてくくりでことが語られている。そのような総括めいた振り返りがあちこちで成されている。これもそんな動きの一つなんだろうな。
 『ミュージック・マガジン』の最新号(6月号)において、”ゼロ年代ベスト100”なんて銘打たれたベストアルバム選びが行なわれている。ちょっと覗いてみて、感じた事をメモしておきたくなった。あくまでメモ。ちゃんとした感想はいつか書く。・・・事もあるかも知れない。
 MM誌のライターたちによって選ばれた、この10年を象徴する100枚のアルバムのうち私が買ったのは今のところ3枚で、うち2枚は何度か聴いた後、売り飛ばした。ここを支配する価値観は、私には別世界かも。残りのi 枚はネット上の知り合いの”s_itsme”さんが薦めてくだすったベイルートなる若いミュージシャンの盤なんだが、ずいぶん前に買ったはいいがまだ聴いてないんだから面目ないです(汗)

 だいたい、一位がディランって何かね?そりゃロックの歴史から見れば大変なミュージシャンなんだろうけど、今、ここに来て”一位”はないだろう。そういえばこの雑誌といい分家(?)のレコードコレクターズ誌といい、この頃妙にディランを持ち上げまくっていないか?再評価だかなんだか知らないが。
 まあ、その関係の雑誌をたまに覗く程度の、それこそ”良い読者ではない”読み手なので確証はないんだが、なんか裏にあるのかと勘ぐりたくなるほどの異様さを感じる。
 それから5位に選ばれたブライアン・ウィルソンの”スマイル”ってのはどうだろう?本来、三十数年前に出来上がるはずが中絶してしまった作品だ。今頃「出来上がりました」とか言われても、そりゃ壮大な後出しジャンケンみたいなもので、私もそれなりにブライアンと彼の音楽のファンでいたつもりだけど、そう無邪気に納得は出来ないぞ。ブライアンの新作というならまだしも、「あの”スマイル”が出来上がった!」とか言われてもねえ。

 それから。おや、ランディ・ニューマンがこんなアルバムを出していたのか。と思うが、さほどの血の騒ぎはない。70年代には私にとって彼は非常に重要な歌い手だったのだが。 ジャケ写真の、すっかり白髪頭になった彼の姿を見ながら、このアルバムを聴くこともないだろうと思う。彼がいまだに鋭く現実と対峙し、聴くに足る作品を作り上げているとは、言っちゃ悪いが思えなかった。ただ彼のことだ、拡散に耐え、みっともなくはないアルバムにはしているはずだ。そのことが逆に痛々しく感じられるのではないか、そんな気がして、聴かずにおこうと思うのだった。
 そんな具合に複雑な気分を誘う昔馴染みの顔ぶれを挟みながら、新しい時代のロック(だかなんなんだか)を担っているのであろう私の知らない若いミュージシャンの作品が並んでいる。それらに関しては何を言えるものではない。聴いてないんだものな。

 などと言いつつ、興味を引かれた盤にチェックを入れ、購入予定のリストに加える。なぜかテクノ方面が妙に気になっている、そんな自分が不思議ではある。また、ジャケ買い人間としてはスフィアン・スティーヴンス「イリノイ」なんて盤は絶対欲しいと思う。どんな音楽をやっているのかはもちろん知らない。
 それにしても、皆、ほんとにこの辺の音楽を聴いているのか?まあ、よく分りませんが。などと言っている間にも、酷薄な夜明けは闇の向こうに忍び寄っている。