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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

ハングル・ガールズの発火点

2010-06-23 04:45:35 | アジア
 ”SOUND-G”by Brown Eyed Girls

 何でも韓国ではガールグループが戦国時代の様相を呈している、なんて話も聞きましたが。セクシーアイドル系から”クラスのお友達”系まで、まさに群雄割拠とか。
 そんなガールグループたちの頂点に位置すると聴いたグル-プ”Brown Eyed Girls ”の、これが最新作、2009年新譜であります。なるほどねえ、確かに”最前線に立っている”という迫力がビシビシ伝わって来る作りとなっております。

 コーラスも音作りも硬派です。もう”雄々しい”という表現を使ってしまいたくなるパワフルなコーラスで、エレクトリックなファンク音を炸裂させる。スイートなアイドルグループのあまやかな歌声とはまるで違う、ハードな韓国R&B世界です。
 時刻ならば深夜、その闇の中でモノクロの、ストイックともいえる情熱の閃光を重く打ち込まれるリズムと共に炸裂させるBrown Eyed Girls の歌声。

 こういうパターンはあまり日本人には好まれないと予想するんだが、いかが?いかにもきつい性格っぽいファッションとメイクで身を固め、完璧なダンスと歌声でオーディエンスをほとんど威嚇する。アメリカあたりのショー・ビジネスには伝統的にあるパターンで、韓国でもそれは受け入れられているみたいだけど、我ら軟弱な日本人は、普通に可愛いアイドルがたどたどしい歌を笑顔で歌ってくれるほうを好むんだよね。いや、そういう民族性なんだから、別にかまわないと思いますが。

 非常に面白く思えたのは、地を穿つみたいな土俗的リズムを囲んで、ほとんど呪文のようなハングル・ラップがメンバー全員によって呻き上げられると、彼女らの歌声とダンスの向こうに、古代韓国の祭祀の幻想が立ち上がって見えてきたこと。幻はグルグル渦を巻くみたいに時空を越え、気が付けばセクシーな舞台衣装に身を包んだBrown Eyed Girlsのメンバーたちと、ソウルの朝市でキムチを売ってるオバちゃんたちが二重写しになってくるじゃないか。

 ミディアム・テンポのお洒落なナンバーなんかも収められているが、一度見てしまった幻影は消えやしない。ほんとに凄いことになってるんだろうなあ、韓国のガールグループの遠国時代は。などと溜息ついてしまったのであります。



自由の果実

2010-06-22 04:49:14 | 南アメリカ

 ”Aguaribay”by Cecilia zabala

 つまんない表現だけど、”フォルクローレの新しい波”とでも言うんだろうか。アルゼンチン女性のギター弾き語りによるイマジネイティヴな世界。上手過ぎるギターと自由気ままに宇宙を浮遊する、スキャット混じりのボーカルとが歌い上げる瑞々しい音楽。ここではフォルクローレの伝統性は、彼女の奔放な表現の奥深くで響く遠いエコーでしかないようにも思えてくる。
 ジャズやブラジル音楽の要素も大胆に取り入れた瞑想的な歌と演奏のうちに、大都会の幻想と古代の夢とが出会うみたいな時空を越えた独特の光景が広がる。遠い南の国からもたらされた見慣れぬ果実を丸齧り、その豊富な果肉を味わう、みたいな新鮮な驚きに満ちた瞬間に何度も出会える楽園からの便りだ。



台北ホンキィトンクブルース

2010-06-21 04:30:46 | アジア

 ”秀蘭瑪雅 ”

 ショウラン・マヤというのは中国人には珍しい四文字の名前だが、それもそのはず、彼女は人種的には中国人ではなく台湾の先住民族の一つ、農布族の血を引いているのだそうだ。そういわれてみると確かに目も口も大きく眉も太く、その他顔の各部分がそれぞれ大きめでいかにも南方系の顔立ちである。
 しかもその各要素が”美人”を形成する方向に作用しているのだからよくしたものだ。なんで若い頃にアイドル歌手として日本進出をしてくれなかったのだと言いたくなるが、まあ、余計なお世話である。

 台湾の先住民族の内部で流通するポップスというものは小規模なマーケットながら存在し、その辺のカセットなど私もずいぶん集めたものだが、彼女は民族のサークルの外、より広い世界にに歌手としての可能性を求めた。それも、台湾の大衆音楽のメインストリームである北京語ポップスで大ヒットを狙う、という方向ではなく、どちらかと言えば裏道とも言えましょう、台湾語による演歌や民歌の歌い手となる方向を選んだ。

 この辺に、どのような事情があるのか分らない。台湾において、よりメジャーな銭儲けに通ずる”支配者の言葉”北京語のポップスではなく、どちらかと言えば庶民の言葉と言うか、やや日陰者的存在である台湾語歌謡の道を選ぶ理由とは?
 もしかしたら若い女の競争相手の少ない台湾語のサーキットで細かく営業を廻っているほうが、手っ取り早いゼニ儲けになる、なんて考えの事務所に所属しているのか?いやいやそんな生臭い話じゃなくて、ただ単に彼女が台湾語歌謡が好んで歌われる環境に育って、ごく自然に台湾語の歌を歌っているのだ、と言うだけの話かもしれない。

 ただ、さらに不思議なのが、彼女の歌唱法が”根っからの演歌好き”な人のそれのようにコブシをコロコロ廻したりする泥臭いものではなく、はっきりとR&Bの影響を感じさせるものであること。かなり垢抜けた歌唱法なのだ、演歌歌手としては。

 垢抜けた、を通り越して場違いとも感じられる、黒人っぽくメロディをフェイクさせる、その歌い方。ともかく”洋楽好き”があからさまに読み取れる彼女の歌手としての芸風なんである。そしてバックの音も彼女の個性に合わせて、ジャズィに迫ったりしているんである、歌われている歌は古い演歌であるにもかかわらず。これはもう、彼女の”黒っぽさ”はセールスポイントになっているとしか思えない。そして実際、いい感じなんだ、ショウラン・マヤのジャズ演歌ってのは。

 先住民の血筋。あえて裏町において好まれる演歌を歌う。なおかつお洒落な洋楽っぽい音楽性を隠さない。
 この組み合わせがどのような事情から生まれたのか、今のところさっぱりわからないのだけれど、彼女自身はその辺に何も悩んでいない様子で、非常にディープにして昔懐かしい台湾情緒を、もう手馴れた様子で優雅に歌い上げるのですな。アルバムももう何枚も世に問うている、堂々たる人気者である。

 そして聴いているこっちも、知っているはずもない古き良き台湾の優しい面影に酔い痴れ、すっかり良い気持ちにさせられている次第で。
 台湾と言う複雑な歴史を生きた土地を、ある意味体現する歌手なのかなあ、彼女。などと勝手に納得しているんだけれど。



#140レイジーブルース

2010-06-19 03:52:14 | ヨーロッパ
 ”BACH ORGAN MASTERWORKS”

 いろいろままならぬ現世の成り行きのせいか、このところ気持ちが鬱に傾斜するばかりであって。だからこういうCDを聴いている、というのも理屈に合うような合わないような、やっぱり合わない話かと思うが、バッハのオルガン曲集だ。
 こうして外の雨の音を聴きながら深夜、一人で出口のない気分で聴いていると、「この音楽はブルースだな。それも戦前の、盲目の黒人がギター一発でやってる奴だ」なんて確信が沸いて来るのだった。 

 ズリズルと蠢きまわる低音と、ガシガシと奔放な走りを見せる高音部。即興性という名のもとに奔放な暴走を繰り返す演奏者の指先。
 20世紀のはじめ、アメリカ南部の夕暮れに街の辻に立ち、聴衆にギターのネックに紐で結んだ空き缶めがけて銅貨一つを放り込んでもらわんがために渾身の演奏を聴かせた貧しい盲目のブルースシンガーのギター演奏に、これら秘儀を尽くしたオルガンの響きは似たものを持ってはいないだろうか?それは人の魂のどこか深く、奇妙に歪んで生暖かく懐かしい場所での出来事なのだが。

 地中海の陽光に祝福されたローマ帝国の栄光を思えば辺地と言える、雪に閉ざされたドイツの地で、音楽上の様々な実験を鍵盤の上に、五線譜の上に展開させつつバッハは、ふとペンを止めて呟く。
 「ミシシッピィ河とは何のことだったかな?どうやら地名のようだが、どこで私はそのようなものを覚えてきたのか?」
 思い出せなかった。しつこいセキが、またひとしきり彼を苦しめた。今年の冬はことのほか寒く、そして長く続き、もしかしたら永遠に春は来ないのではないか、などという気持ちにまで襲われるのだった。

 ウィリー・ジョンは日がな一日続く綿摘み作業で痛む腰を叩きながら、今朝方から何度も頭の中で蘇っている”フーガ”とか”コラール”とかいう言葉の意味はいったいなんだったろうか、という妙な疑問の答えを探している。頭の隅のどこからか、そんな言葉が湧いて出たのだが、どこで聞いた言葉だったのか。
 いかん、こんな事をしていると白人の旦那方は、またオラたちを仕事をサボるなと叱るだろう。ああ、年老いたミシシッピィ河よ。お前は何を思いながらそうして毎日、流れ続けているのだ。俺らの苦労など知らぬ顔で。

 頼りに出来るものは何もない。ただ高みにいてすべてを見守っていてくださるあの方だけが心の支えだ。そう信じよと、教わって来た。
 雲の切れ目から陽が差している。また楽想が浮んだ。指が自然に鍵盤を、あるいはギターのフレットをまさぐる。音楽は続く。



風吹く波止場で

2010-06-18 03:33:15 | その他の日本の音楽
 ”船村徹が歌う愛惜の譜”

 新聞の通信販売の広告にある懐メロ演歌の箱ものCDセットが妙に気になったりする、なんて事を何度か書いている。最近では森繁ものか。まあ、実際に買ったりすることはありはしないのだが、朝刊の隅っこにあるそんな広告の曲名にふと見入っていたりはする。
 今日は歌謡曲作曲家の大御所、船村徹氏の10枚組である。すべて自作自演であるのが凄い。本気で買おうかとも思いかけたほどだ。船村氏がギター抱えて思い入れたっぷりに自作を歌うのは、一度テレビで見たことがある。もともと、人前で歌うことに抵抗がない、というかお好きなほうなのだろう。

 昭和30年の「別れの一本杉(春日八郎)}をはじめとして、戦後の歌謡界の一方をリードしてきた船村氏であるが、この種のもので定番の突っ込みどころの曲はある。たとえば「サンチャゴの鐘」「青春パソドブル」なんてあたりは、当時、ラテンブームに乗って、先生、若気の至りで作ってしまったのかな?なんて匂いがして楽しくなる。
 まだ聴いてもいないのに面白がっては申し訳ないが、若き日の船村氏はプレスリーの”ハートブレイク・ホテル”を聴いて衝撃を受け、「日本人だってこれだけやれるぞ!}と一気呵成に書き上げたのが、あの小林旭の「ダイナマイトが150トン」である、という挿話をお持ちの方であって、ヒットしそこなった曲を皆洗い出せば相当な拾い物があるかも知れない。

 とはいえ、その辺の収穫はこの箱には期待は出来ない。自作を歌うということで、歌唱技術上の問題もあるのだろう、どちらかと言えば自身の心との対話、ともいうべき地味目の内省的な曲中心に編まれた作品集となっているからだ。その結果、あんまり聴いた事のない曲中心のラインナップとなってしまっているが、こちらは別に演歌の大ヒット曲にさほど興味もないのでむしろちょうど良い。
 思えば船村氏が新進作曲家として売り出した頃、歌謡曲は戦後日本の復興期における都市の発展と農村の疲弊とを一つの大きなテーマとしていた。そこでは若者たちが夢を追い、恋人を追いして”夢の東京”を目指し、老人たちだけが取り残された村では渡る者のいなくなったつり橋が揺れ、恋人たちの別れを見送った一本杉の元に、もう二度と立ち寄る人影もなかった。すべてのものが変わってしまった。

 そして船村氏もまた、都会に出て成功を掴んだ村の青年の一人だったのだろう。「王将」やら「風雪流れ旅」といった「高尚なる」作品の製作により一つの権威としての位置付けの完了した「演歌」と、その作り手である自分自身。その事への後ろめたさの補間作業のように船村氏はここで、失われた村の風景を郷愁を込めて何度も繰り返し歌い、裏町のしがない酒場の哀感に生きながら自らを葬ることとなった。
 悔やんでも仕方がない、彼に、彼ら無辜の個人に、精一杯生きる以外の何が出来たわけでもなかったのだが。
 
 下に貼ったのは、船村徹と、彼とは学生時代からのパートナーであった作詞家の高野公男が歌う三橋美智也のヒット曲、「あの娘が泣いてる波止場」です。これなんか素朴で良いんで、ますます自作自演集が欲しくなってくるんですが・・・
 


この卑しき地上に

2010-06-16 21:26:17 | ヨーロッパ

 ”Phaedra”by Tangerine Dream

 2010年06月13日(日)
 ワールドカップが始まると、皆がいろいろな国名を口にし始めるので、一瞬、全員がワールドミュージックのファンになったのかと錯覚しかける。けれど、もちろんそんな事はなくて、誰もが相変らずイギリスとアメリカの音楽だけを”洋楽”として聴いているのである。

 2010年06月14日(月)
 再びワールドカップとワールドミュージック話。ワールドカップの試合中継の内、英語圏のイングランドとアメリカ関係の試合だけ見て、それ以外は興味がない、という人がいたらなんか変な人だと思うんだが、それと同じ事をやってるんだよね、「洋楽はアメリカとイギリスのものしか聴かない」って人は。

 ・・・なんてえことを思い付きでツイッターで呟いてみたんだけど、どんなもんですかね?まあ、どんなもんでもないわけですが。なんかもう、ツイッターにも飽きてきましたね。フォロワーをやめられるのが怖くて穏便な事を呟く人ばかり、というのが現状みたいだし、そんな生ぬるいところにいてもなあ。
 
 ワールドカップの音楽ネタといえば、南アメリカの会場で現地の観客が盛んに吹き鳴らしているなんとかいう名の民俗管楽器。あれはうるさいからとかなり不評のようだが、私はあれはあれでそれなりに面白い効果を出しているじゃないか、などと思ったりする。広い空間で大量のあの楽器が、おそらくユニゾン状態で吹き鳴らされ、響き合うことによって、なにやらミニマルミュージックと言うか、不思議な効果を出していると聴こえる瞬間がないでもないのである。
 そりゃまあ、こちらはテレビの向こうで吹き鳴らされているのを聴いているだけだし、現場で思い切り吹き鳴らされたら、それはそれで別の感想があるだろうけど。

 などという事をシトシト降る雨音を深夜に聴きながら書いているわけである。いずれにせよ梅雨の季節間近か。うっとうしい雨空が続きそうで憂鬱なんだが、こんな気分に合う音楽ってなんだろうなと考え、引っ張り出したのが、これはもうドイツの電子音楽の大御所、タンジェリン・ドリームの初期の名作と定評のある”Phaedra”である。
 殷々と重なり合い鳴り渡るシンセの響きと、地下深くでリズムを発振し、打ち込み音を複合させつつ闇の置く深くへ人を誘う、禍々しき凶音の旅である。あんまり音楽に興味のない人に聞かせると、「お化け屋敷の音楽?」とか問い返されちゃうのである。

 こういう音楽って、何が楽しくて人は聴くのかね?冷たい電子音が響き渡っているだけ、聴いて辿れるようなメロディがあるわけでもなし。
 いや、聴くのかねと言ったって、世にこの音楽のファンは確実にいるのだし、私自身にしてからがこの種のシンセの響きが好きで、あれこれ盤を買い集めているのであって。
 なんだかねえ、この深夜に焼けクソ気味で耳を傾けていると、「これは、鈍重な肉体に縛り付けられたまま、いつまでも卑しい地上を這い回らねばならない人類の半端な知性の呻き声だ」とかなんとか言ってみたくなるのですがね。

 それにしても、久しぶりに聴くこの盤、思い込んでいたよりずっと素朴な響きに感じ、意外な気がする。まだまだ支配的なサウンドエフェクト的部分はともかく、キーボードがメロディらしきものを弾くあたり、”電気オルガンのソロ演奏”っぽく聴こえたりする。そいつがまた、”レトロなホラー”っぽくて快感なんだけどね。やっぱ、この時期のタンジェリン・ドリームは良いわ。



古き”スール”をまた彷徨う

2010-06-13 02:07:28 | 南アメリカ

 ”MANZI, CAMINOS DE BARRO Y PAMPA” LIDIA BORDA

 リディア・ボルダといえば、私がまだタンゴを聴き始めたばかりで右も左も分らない頃(今だって何も分っちゃいないが)出たばかりの彼女のデビュー盤と出会い、非常に新鮮な印象を受け、一発でファンとなってしまった人である。
 なにより、落ち着いたアルトの声でゆったりと古典曲中心に歌い上げるその姿勢が好ましかった。ラテンの女子の濃厚な情熱の発露より、やはりこの辺を好んでしまう、私も単なる日本人である。そんな事はどうでもいいのであって。

 このアルバムは昨年発売の、今のところリディアにとっての最新作。タンゴの歴史上の重要人物である作詞家のオメロ・マンシの作品集である。
 オメロ・マンシという人は1907年の生まれ、1952年に亡くなっている。タンゴの名曲”スール(南)”の作詞を始め、さまざまな名作を世に送り出している。”国民的作詞家”という奴だろうか。作詞のほかに政治活動でも知られ、1930年代に”民主主義の擁護”を行なったかどで投獄された、などと言う話も聞いた。短かった人生を全力で走りぬけた、なんて感じの生涯だったのではないか。

 今回のアルバムは、そんなオメロの、あまり知られていない民謡調の作品を主に取り上げたものだそうな。たしかに、バンドネオンむせび泣く、なんて感じのアレンジは出てこない。というよりそもそもバンドネオンは、ついでに言えばバイオリンなどもまったく遣われていない。ピアノでさえも数曲で聴こえるだけである。いわゆるタンゴの演奏形態は採用されていない。
 ほとんどの曲が高名なタンゴ・ギタリストであるリディアの兄のルイスとの演奏上の対話に、他の楽器が遠慮がちに加わる、といった形態で演奏されており、タンゴと言うよりはフォルクローレ的な感触が強い。

 リディアの歌声もルイスのギターも、いつもより強めの民族色を感じさせるものだ。特に2曲目のチャランゴ大活躍の曲など、リディア兄妹によって今日化されたフォルクローレと言うしかないもので、なかなかに血が騒ぐサウンドだ。
 歌詞内容すべてが分からないのがなんとも口惜しいが、タンゴの都会派の感傷の一典型である”スール(南)”を書き上げた作詞家オメロ・マンシの心の底に潜んでいた古きアルゼンチンの地霊が、ボルダ兄妹の奉納演奏によって長き眠りより覚め、ひととき現世をさ迷い歩く、そんな淡い幻想に引き込まれる感のある、ひときわ酔いの深い一枚になっているのである。

 それにしても、ジャケ写真として使われている、おそらくは戦前のブエノスアイレスの街角の、セピア色の風景写真には心奪われてしまった。雨に霞む、煤けた古きブエノス。数少ない自動車と共にメインストリートを行く馬車や手押し荷車たち。女性たちの古き優雅なドレス。街角に立つのは、ガス灯なんだろうか。強力な郷愁を感じてしまった。行ったことさえないんだが。




麦藁帽子とアイリッシュ・フルート

2010-06-12 00:14:45 | ヨーロッパ

 ”Tune In”by Nuala Kennedy

 毎度ジャケ買いが多くて面目ないが、これもそうだった。このジャケデザインは所属レコード会社の名である”コンパス”にちなんだジョークかと思うが、ちょっぴりシュールでちょっぴりユーモラスなこの感じが気に入ってしまって、どうしても欲しくなった。
 これが女性アイリッシュ・フルート奏者でトラッド歌手でもあるNuala Kennedyの新譜であると知ったのは買うと決めた後のこと。どうやらNualaはジョークの好きな女性であるようで、中ジャケの写真でも、すっとぼけたポーズをいろいろとって笑いを取りにかかっている。

 このアルバムの内容であるが、Nualaの、フルート奏者としてより歌手、そしてソングライターとしての側面に焦点をあてたもののようだ。とかなんとか言う以前に、2曲目に収められたトラッドというよりはフォークソングぽい小品”All of These Days”に、私はすっかりやられてしまったのだけれど。
 どこの誰にでもある夏休みの思い出がテーマになっているのだろうか。一匙の翳りも兆す事のない明るい日差しの下で過ごした、永遠とも思える、でもただなんでもない青春の日の記憶。そいつは過ぎ去った今になってますます色鮮やかに思い起こせるのだが。でも時は確実に過ぎて行き、すべては夕焼け空の向こうに失われてしまった・・・
 この、なにげなくアルバムの頭に置かれた一曲の醸し出す甘酸っぱい感触が、盤一枚を聴き終えるまで、通奏低音の如く、聴く者の胸に鳴り続ける。

 その他、アイルランドのゲール語のものなども含むトラッド曲もNualaは飄々とした独特のノリでこなして行く。主戦武器(?)である、トラッドのフルート演奏にしても、ジャズっぽさを取り入れたアレンジなど導入して、クリアーな音質で遊び倒す。”トラッドかくあるべき”なんてこだわりは持たない自由な感覚の持ち主なんだろうなあ。そしてどこにもあの明るい日差しのぬくもりがある。こういう人は良いよね。
 と、すっかり初対面のNuala Kennedyのファンと化しているのだった。私もいつかフルートとコンパス持って陽のあたる場所を目指そう。





玩具の音楽

2010-06-09 02:05:19 | エレクトロニカ、テクノなど

 ”Port Entropy”by Shugo Tokumaru

 これは全然知らないミュージシャンだったのだけれど、どこかの雑誌で見かけたジャケのイラストが妙に心に残ったので、なんか気になって仕方なくなり、ネットで試聴できるところを探して聴いているうち、ついにたまらず購入してしまったものだ。不思議な感じのイラストのジャケが好きでね~。
 ジャケも印象に残ったが、一緒に掲載されていた玩具らしき小さなキーボードをいくつも積み重ねたものを前に真面目くさって座っているミュージシャン本人にも興味があった。こいつ、とぼけたことしやがるなあ。雑誌の記事を読んでみても、「歌詞は見た夢の登場人物の言葉を使う」なんて語っていて、タダモノではないようだ。

 さて、CDの現物を聴いてみると、こいつも期待にたがわずひねくれていて凝り倒していて面白いものだった。多重録音を駆使し、自身が奏でる多くのアコースティック楽器がさざ波のように表情を変え、カラフルに場面を織りなして行くあたり、私などは世代的にヴァン・ダイク・パークスなど想起してしまうが、若い連中には別に、このような試みをするヒーローがいるんだろうか。
 聴こえて来るメロディは、これも昼寝の夢の中で聴こえていたとらえどころのない旋律の尻尾を捕まえたみたいな奇妙な懐かしさに満ちたものだ。トクマルの他のアルバムに、宮沢賢治の童話など思い起こさせるイラストが使われたりしていたが、そんな絵を使いたくなったデザイナーの気持ちも分かるみたいな、子供の頃の、もう失われかけている記憶の中で響いていたわらべ歌の面影を宿すものなど。

 しかしこれらは、周到に計算されて作られた擬製の感傷なのだろう。すべてを覆う、映画のセットのような作り物の手触りがある。もちろん、その虚構性も含めて、スリリングで面白いと感じるのだが。
 うんそうだ、怪獣映画の撮影現場をはじめて見たとき、「そうだ、自分はSF映画の特撮を仕事にしたかったのだ」と子供の頃の忘れていた憧れが不意に蘇り、なんとも取り返しの付かないような気分になったものだが、その時の感じを思い出したよ。
 それにしても妙な音楽を思いついたものだな。現実の付け入る隙のない強固な別世界が、オモチャのピアノや弓弾きされたノコギリやアコーディオンの響きの中に現出して、奇妙に歪んだ郷愁の調べを奏でる。まるでずっと昔からそれがそこにあったように。



キム・ユナの日常と幻想

2010-06-07 02:41:33 | アジア

 ”315360”by 김윤아(Kim Yoon Ah)

 ええっと、このジャケの右上にかろうじて読み取れるような文字で数字がいくつか書いてあるけど、これがアルバムタイトルなんだろうか?韓国のCDを扱っている店では解読を諦めて(?)ただ「第3集」と表記しているところがほとんどのようだ。
 これ、韓国の人気ロックバンド”紫雨林”の女性ボーカリストであるキム・ユナが今年出した3枚目のソロアルバムなんだけど、いや、すごく良いや。さっきから何度も聴き返している。サウンドが淡いから、聴いていて疲れないのもありがたい。実は彼女のソロも紫雨林も聴いた事がなかったんだけど、これはもっと早く聴いておけばと反省しきりなのである。

 ジャケからして力が入っていて、アコーディオンみたいな蛇腹式のジャケは、一度取り出したCDの仕舞いどころが分らなくなりかける始末。表裏を折り返し、中を覗き込んでキム・ユナの写真に見入っていると、とんでもないところに歌詞カードが入れてあるのを見つけたりする。
 ともかく、ロックバンドのメンバーの作品とも思えないくらいの静けさに包まれた世界が展開されている。フルートやバイオリンのアンサンブル、あるいは電子楽器のシンプルなパルス。音数を抑えた清浄な空間を、キム・ヨナの歌声が嫋々と流れて行く。なんだか水晶の中を覗き込んでいる気分。

 このアルバムでキム・ユナが静かに歌い上げるのは、子供の遊び唄のような子守唄のような、そんな懐かしく素朴なメロディ。そいつを基にして、それをクラシックの歌曲みたいな感じで発展させていった、そんな感じの不思議なメロディ。ちなみに、すべての曲の作曲はキク・ヨナ自身による。
 キム・ユナのボーカルは終止冷静で、過剰な感情表現もない。ごく自然に美声を響かせている。いるのだが、その奥に一筋縄では行かない何かが息をひそめている、そんな印象も受ける。

 歌詞内容が分からないのがもどかしいが、キム・ユナ独自の綾かな白日夢みたいな幻想を歌っているのではないか。”going home””summer garden””cat song”と、なんとか意味の取れる英語の曲名を辿って行けば、なんとなく彼女の歌世界の風景の予想くらいはついてくる。
 そうそう、この ”going home”なる曲は、スピリチャル、と言いたくなるほどの重いものを感じる曲で、いったい何があったのかとキム・ユナという歌手を見直す気にさせられた一発でもあるのだった。

 その一曲前に収められているのが”東京ブルース”なるタイトルの曲で、彼女が訪れるたびに感ずると言う”東京という街の持っている孤独”に関する唄とかで、この辺の歌詞内容にも非常に興味がある。
 などといろいろ知りたい事があるのに、”キム・ユナ”で検索をかけるとドカドカと例のスケート選手のキム・ヨナ情報が出てくるのはどういうことだ。何とかしろよ、おい。