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勝俣「無縁」論

2013-10-26 | 東日本大震災と研究者

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年10月26日(土)21時48分38秒 編集済

『一揆の原理』で、なるほどな、と思ったのは例えば次のような箇所です。(p204以下)

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 中世一揆研究の第一人者である勝俣鎮夫氏は、一揆の結合原理は「無縁」であると主張した。一揆メンバーは、一揆に参加するにあたって、それぞれが血縁・地縁・主従の縁など諸々の「縁」を断ち切った。彼らは「無縁の場」という非日常的な空間を自ら創出することによって、はじめて「縁」を超越した「共同の場」である一揆を形成し、個々のメンバーの平等性と自立性を確保することができたのだという。この“縁切り”のための儀式として勝俣氏が重視したのが、例の「一味神水」なのである。
(中略)
 しかし、ここまでの章で述べてきたように、「一味神水」の神秘性を過大に評価すべきではない。私が思うに、どうも「無縁」論は、「神への信仰によって人々が平等になる」という理屈が先行しているようだ。「神の前では人間、みな平等」という発想は現代人にはとっつきやすいものだが、残念ながら史料的に証明されているとは言いがたい。
(中略)
 一揆契状の決まり文句である「水魚の思いを成す」・「一味同心の思いを成す」は、従来、神への信仰心によって諸々の「縁」=身分制から解き放たれた者たちの精神的連帯と解釈されてきた。言い換えるならば、自由で平等な、まるで「市民革命」を成し遂げた「近代的個人」のような人々の集団として、一揆を理解していたのである。
 要するに、マルクス流の「唯物史観」をしりぞけて宗教的側面を重視した勝俣「無縁」論も、一揆に自由と平等、個人の尊厳、さらには身分制を突き崩す革命的な要素を求めるという根っこの部分では、「階級闘争史観」とつながっているのだ。
 だが一揆の「一味同心」とは、そのような抽象的・理念的なものではなく、赤の他人との間に実の親子兄弟同然の親密な関係=絆を築くことを意味しているのではないだろうか。「無縁」の産物として語られることの多い一揆であるが、実はその根底に、擬制的な親子兄弟という、「縁」を秘めているのである。
 一揆の結成は、神仏の前での「無縁」空間の創出というより、旧来の「縁」をいったん切断した上で新たな「縁」を生み出す行為、と把握すべきである。
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言われてみれば当たり前なのだけれど、当たり前のことをあっさり言うためには鋭い直感だけでなく、旧来のそれなりに重みのある学問的蓄積を覆す地味な努力が必要ですね。
私は網野善彦氏の「無縁」論は胡散臭いなとずっと思っていたのですが、勝俣鎮夫氏の文章には網野氏とはまた違った独特の魅力があるので、読んでいるとついつい勝俣ワールドに引きずり込まれてしまっていました。
しかし、呉座氏のドライかつ無粋な案内に従ってセイレーンの歌声の聞こえない距離まで離れてみると、確かに勝俣「無縁」論には問題が多いですね。

コメント
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