goo blog サービス終了のお知らせ 

ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

俗物はどちら?

2010-07-23 03:43:06 | 音楽論など
 ”Getz/Gilberto”

 ここにとりいだしましたるは、ジャズのサックスプレイヤーであるスタン・ゲッツが、ジョアン・ジルベルト、アントニオ・カルロス・ジョビンといったブラジルのボサノバ関係の要人たちと吹き込んだ1964年度作品。これの大ヒットによりアメリカにおけるボサノバ・ブームが巻き起こることとなるわけですな。その反面、いろいろボサノバと言う音楽への誤解を産んだりしたわけですが。

 何でこんなアルバムを引っ張り出したかといいますとですね、ネット上でこのアルバムに関して「自分はまったく評価しません」という意見がなされ、それに呼応して「あれがいいと言うのは、ブラジル音楽を知らない人ですよね」なんて発言がなされたから。
 私はそれを読んでのけぞってしまいました。いやあ、よく言えるなあ、そんなこと。ここにはまず、「自分はブラジル音楽を正しく理解できている」という強烈な自負がある。私もまあ、そこそこですがブラジル音楽を聴いてはいます。でも、そこまでは言えない。「あれを良いなんていう奴はブラジル音楽を分かっておらん」と一刀両断に切り捨てる、なんて。

 しょせんは地球の裏の、自分が育ったのとはまるで別の文化の中で育まれた音楽ですからねえ。その音楽の本質を掴んでいるか知っているかと問われたら、胸を張って「知っている」と答える自信はない。自分が気が付いていない、どんな見落としや誤解があるかも知れないし。せいぜい、「聴いたことはある。好きなものもいくつかはある」程度でしょう、答えられるのは。審判を下す席に着くなんて考えられない。
 ここで書いてる文章にしたって「好き・嫌い」「面白い・つまらない」以上のものはないわけでね。
 まあこれに関しては個々人の性格というものもあり、文句をつけてもしょうがないんですが。ただ、「よく言えるなあ、”お前、ブラジル音楽を知らないだろ”なんて」と驚いているだけのことで。

 で、このアルバムについて、ですが。
 なんか、青少年の頃、ジャズ喫茶に入り浸っていた頃など思い起こさせる音ですねえ。いや、そう感じるのは後付けの記憶で、本当に聴こえていたのはレストランや商店街のBGMとして、だったのかも知れない。まあ、そういう扱いのアルバムじゃなかったか。
 でも思うのですね。このアルバムが吹き込まれた当時、ボサノバなんて音楽は世間的にはまるで知られてはいなかった、と言っていいんじゃないでしょうか。まず、そういう時代背景がある。

 そこに、前の年に吹き込んだ「ジャズ・サンバ」で一山当てたばかりのスタン・ゲッツがいる。おそらくはもう一発当てようと企んでいる。呼び寄せられたブラジル側のミュージシャンだって、ゲッツの計画に乗って何らかの現世的利益を、と考えて無かったってこともないでしょう。
 レコーディングの最中にゲッツとジョンの間にボサノバ理解を巡って一悶着起こったなんて話も聞きましたが、いろいろあったでしょうねえ、それは。二人とも、ただ事ではない人格ですからね、それは。

 で、ここに一つの歴史の扉が開けられているわけですね。何の扉かといえば”一つの音楽が若干の通俗化を伴い、世界規模の大衆音楽の流れに組み込まれて行く瞬間”という。
 立派な志ばかりでもなかったでしょう、”純粋”を旨とする音楽愛好家には納得できない音素だらけかも知れません。でも、そのいい加減な継ぎ接ぎの音楽の流れの底に、清濁併せ呑んでギラリと光る人間の生の営みの証し、みたいなものが覗く瞬間があるように思え、私は、こういうアルバムを簡単にバカにするものじゃないぞと密かに呟いてみたりもするのです。




見えない王国の歌

2010-07-22 04:50:13 | 太平洋地域


 ”Hawaiian Memories”by NA LEO PILIMEHANA

 ハワイの人気者女性3人組のコーラスグループ、”ナレオ”の2005年度作品。(グループ名は”"the voices blending together”を意味する、とのこと)
 このアルバム、そのほとんどが古くからハワイに伝わる伝承歌なのだそうで、実際、なだらかな起伏を描く流れるようなメロディののどかな曲が続き、大いなるハワイの自然と人々の心に包まれるようで、実に癒されるものがある。

 そもそもこのグループ、ただ音楽好きの女子高校生が集まり、自ら楽器を弾きながら遊びで歌っていたものが、コンテストで優勝したのをきっかけにプロの歌い手となってしまったなんて次第らしいが、いかにもそんな気安さが音楽の中に流れていて気持ちがいい。この種の楽園音楽で気張られたって扱いに困るからねえ。

 いかにもハワイと言っていいのか、それぞれにいくつもの民族の血が混交している感じのメンバーの顔立ちだが、その歌唱法は特に民族色を伝えるものではなく、ジャズ的というか平均的アメリカンポップスらしいもの。いかにもアメリカの平均的健全な家庭に育ったお嬢さんたち、みたいな空気がくっきり伝わってくる歌声だ。
 もともと、”本土”であるアメリカから伝わってくるポップスに心ときめかしていた彼女らなのであって、ナレオの3人は普段はそれらのものに大いに影響を受けた”ハワイ風のアメリカン・ポップス”を主に英語で歌っている。どちらかと言えば、それが彼女らの本来の顔なのである。

 そんな彼女らが20年に及ぶと言うキャリアの中でただ一枚世に問うた、ハワイ民族の血にかかわるアルバム、それがこの”ハワイアン・メモリー”だった。
 ナレオの三人の、澄んだコーラスによって歌い上げられる古い、はじめて聴くのに懐かしいような旋律は、その癒し効果によってこちらの心を包み込む。
 が、やがて私たちは知るのである。それら旋律の底に沈んでいるのは、失われたハワイ王国の哀しみの記憶である事を。 そいつはまるで”気配”と言ってしまえるような儚さだが、歌の中心に深い陰影を刻んでいるような気がする。


バリ・ジャイポン、混ぜるな危険

2010-07-21 03:33:10 | アジア


 ”Bali Jaipong”by SAMBASUNDA

 サンバスンダとは1990年代末、西ジャワで生まれた実験精神溢れるガムランのチーム。ジャワ島独特の小編制の瞑想的なガムラン音楽の伝統をユニークな方向に展開させる運動を行なっている。ともかく普通じゃない連中であるのは、グループ名から、すでに明らかであろう。
 とか何とか言っているけど、私はガムラン音楽に、まるで詳しくない。持ってるアルバムだって、これを入れても数枚といったところで。
 なんかねえ、これは偏見なのだろうけど、どうもガムラン音楽ってのは妙に格調高くて、胡散臭い気がしたのですな。”お芸術”好きな西欧人に受けようとして、あのような形が出来上がったのではないか、なんて疑ってしまって、好きになれなかった。と言うか本気で聴く気になれなかった。

 その後、バリ島の芸術自体が、そのような西欧を視野に入れた観光資源志向を孕みつつ発展して行った、なんて話を”バリ島”って本(講談社現代新書・永渕 康之 著) で読んだもので、ほれ見ろ、やっぱりじゃないか、などと意を強くしたのだった。ほら、”ケチャ”なんて大合唱音楽もあるでしょう、バリには。あれなんかも、いかにも”芸術でござい”なんて佇まいがあるでしょう。あれも偶然じゃない、はじめから西欧人のエキゾティックな南海に向ける期待にこたえんがために作り上げられた音楽なんだからね。

 などと悪口言っている私がこのアルバムを聴く気になったのは、同じバリ島に発生した、こいつは本物の大衆音楽である”ジャイポンガン”を、サンバスンダの連中が取り上げているからと知ったから。 
 ジャイポンガンというのは、小編制のガムランの伴奏を伴って歌い踊られる、比較的歴史の若いダンスミュージックで、変幻自在なリズムと感性の躍動が聴く者を血湧き肉踊る世界に誘う、といった音楽。
 端正なバリのガムランとエモーショナルなジャイポンガン、どのような対決を見せてくれるのか。こいつは興味をそそられた。

 聴いてみれば、バリのガムラン音楽が作り出す華麗な音像の中で、エロティックとまで言われたジャイポンガンの暴れまくる様、実に痛快であり、まさに外はカラッと仕上がり中は肉汁たっぷりの強力な民俗料理に仕上がっており、この辺には実はあんまり詳しくない私も、大冒険世界を大いに楽しんだのだった。これは凄いよ。

 残念ながらサンバスンダのこのアルバムの音はYou-tubeにはないみたいなので、ジャイポンガンの映像を再生回数の多いものを選んで貼っておきます。




人類の面影

2010-07-18 04:34:34 | 北アメリカ

 ”ILLINOISE”by Sufjan Stevens

 毎度、ユニークなイラストのジャケに弱くて、すぐジャケ買いとなってしまう私なのであって。この盤も、どのようなアーティストなのかまったく知らずに、ただただ雑誌に載ったジャケ写真に惚れて購入。すでにアメリカのシンガー・ソングライターなど聴くこともなくなっていた当方であり、内容はまあ、問うまいと覚悟していたのだが、いやこれが予想を裏切って面白かったのだった。この分野でこれほど楽しめるとはね。

 音楽的にはどう定義していいのか分からない。様々なフラグメントが横切る。広義のアメリカン・ミュージックとでも言うんだろうか。何か私には甘美な夢も悪夢もゴタマゼになった歪んだ夢の中でゆらめいているアメリカと言う名の虚像の記憶を歌う音楽、みたいに聴こえる。ジャズやらカントリーやらボードビル音楽やら、何もかもが奇妙な懐かしさの中で解け崩れ、夕暮れの空にちょっぴり現実離れした華やぎを見せている。

 歌詞など読んでみると、こいつはまるで何百年も未来から廃墟と化したアメリカの大地を眺め、その荒野に眠る記憶を掘り返した、みたいなポジションで書かれている。なにしろ歴史上の重大事件も、アホなUFO目撃談も、ゾンビ映画のストーリーもが等価で描かれているのだ。遠く過ぎてしまった出来事たちを遠くに眠る夢と認識する者にとっては史実も虚構ももはやその境界はぼやけ、見分けがたくなっている。ただ残るのは、かって生きていた人々の見た夢の照り返しだけ。偉容を誇る高層建築も、ただ廃墟の面影を宿すものとしか描かれていない。

 そう、実はもうこの世界は終わってしまっているのだろう。にもかかわらず、それに気が付かずに生き続けねばならない我々の滑稽さと悲哀を何世紀も未来から振り返って歌ってみたのが、このアルバムではないのか。



ダルい夏の入り口で

2010-07-17 02:35:08 | いわゆる日記

 15~16日と当地は夏祭り。もちろん私は祭りなんか嫌いだ。が、近所付き合いもあるので15日は山車巡行に付き合う。クソ暑い中、疲労困憊。おかげで明けて16日、起きられずに祭りをサボってしまう。そして明日17日、実は一番大変な”祭りの後片付け”がある。出ないわけにはいかんなあ。う~。(2

 昨日の夕方、そろそろ山車が出発する時間だな、付いて歩くのは面倒くさいなあ、などとブツブツ言いながらコーヒーを飲んでいたら、どこかであの南アフリカにおけるワールドカップの際、話題になった民族楽器ブブゼラを吹き鳴らす音が聴こえた。
 ああ、持ち出す奴がいるだろうなとは思っていたよなあなどと苦笑するうち、そのブブゼラ奏者は、私の街の祭り太鼓のリズムパターンの一つを吹き鳴らし、と、彼を取り囲んだ連中が「エエドッコイ!」と唱和した。
 ああ、馬鹿馬鹿しくていいなあ。うっとうしい祭りに吹いた一服の涼風と。言うほどではないにしても。あれ、本番の山車の上でもやってやったらいいのに。

 ダラダラ歩いて山車のところに行くと引き綱のあたりに、どこかの神輿から流れてきたかと思われる、おそらく水商売関係の若い女数人がギャーギャーと盛り上がっている。まあ、慢性的に参加者不足で困っているわが町内、なんだって歓迎なのだが。
 その彼女らの衣装、サラシを巻いた祭りの装束とアムロナミエのステージ衣装の折衷、とも言うべきもので、なるほどこれが現代というものか、などと昭和30年代のドキュメンタリー番組のオヤジくさいナレーション風に呟いたりしてみる。
 その彼女ら、山車巡幸の間、ずっと祭り太鼓のリズムに合わせてヒップホップ系のダンスを踊りまくり、エグザイルといったっけ、あの連中のステージの物真似とかも披露し、だんだん私は面白くなっていったのだった。やったれやったれ。

 と、無駄な文章を続けるうちにも時は過ぎ行く。ああ、酒が飲みてえ。けど、飲んでしまったら明日、目覚める自信はない。



神話を疑え

2010-07-15 02:29:51 | 音楽雑誌に物申す

、知り合いが、レコード・コレクター誌の8月号、「日本のロック/フォーク・アルバム・ベスト100」なる記事に関してmixi日記を書いておりました。それに呼応して私が書き込んだコメントが下のものであります。そんな次第でこれだけでは意味の分からない部分もあるかと思いますが、まあ、大体の趣旨はご理解いただけるかと。

 ~~~~~

 別にパクリだってかまわないと思うのです、聴く側のこちらにしてみれば、結果としてその音楽が面白いものになっていれば良い。大衆音楽なんて、元からそんなものだった。
 節操も無くってかまわないじゃありませんか。世界中の音楽をつまみ食いしているワールドミュージック好きの当方としては、一つの音楽に操を立てて同じような作品ばかり繰り返し作り出しているミュージシャンのもたらす退屈より、よほどマシです。
 要は、結果として出来上がった音楽が面白いかどうか、それだけで十分でしょう。いくら志が立派だって生み出される音楽が退屈では仕方がない。

 それにしても、その音楽が日本のシーンをリードした、なんて。”日本のロック史=細野晴臣の歴史”なんて、おこがまし過ぎますよね。
 そもそも私、細野氏は、というか”はっぴいえんど”人脈は、過大評価のなされ過ぎだと思うのです。それほどのものだろうか?
 日本語ではじめてロックをやった、とか。では、それ以前は日本のロックはすべて英語で歌われていたとでも言うのか?あるいは、”はっぴいえんど”の”ロックの歌詞”が、それ以前の”日本語のロック”をすべて”無価値”としてしまうほど優れたものだったと言い切れるのか?

 ようするに細野氏をはじめとする人脈を”偉大なるミュージシャン”としておく方が商売に都合の良い”業界”があり、それと結託して動くジャーナリズムがあり、というまったく古くから変わらない”芸能界の産業構造”がある、それだけのことではないですかねえ。
 そして、垂れ流されるもっともらしい神話に踊らされるファンたち。
 昔、早川義男氏は”ラブジェネレーション”の中でこう歌いました。「信じたいために親も恋人をも すべてあらゆる大きなものを疑うのだ」と。
 若い皆さんには、「ベストが出たら一から疑え」とでも提言しておきましょうか。

 以上、70年代の初めに”はっぴいえんど”のアンプ運びを担当していた者として、非常に苦い思いで記しました。

タンゴ探検隊始末記

2010-07-14 02:53:00 | 南アメリカ

 ”TANGOS INSÓLITOS”by Haydée Schvartz & Gabriela Bernasconi

 ストラビンスキィ、ショスタコヴィッチ、クルト・ヴァイル、ジョン・ケージ、エリック・サティ、といった主にクラシック方面の、いかにもややこしそうな(?)人々が作った、”タンゴ”という単語がタイトルに入ったピアノ曲を集め、それをタンゴの本場アルゼンチンのピアニストが弾きまくった、という鋭いような勘違いのような不思議なアルバム。
 予期していた通り、各自、やりたい放題のかくし芸大会状態である。

 関係ないだろう、という方向へ行く奴(ケージのなんか予想通りに半分はピアノをコブシで叩く音で構成されている)冒頭はタンゴのリズムを生かすが、隙を見て自分の世界に入ってしまう奴、タンゴの哀感あるメロディの感触は伝えるが、やはり隙を見て12音階の小路に飛び込み、自分の美学を展開しまくる奴。
 なんだか各作曲家の脳内をスキャンした画像を見比べながら聴いている気分になってくるのだった。彼らの意識の裏通りを探索したみたいな、へんちくりんな曲ばっかりなんだもん。

 やっぱりタンゴと言うのは人の心を静かに狂気に誘う音楽と考えるべきなんだろう。しかも、いたこともない土地、遥かなる南の草原へのノスタルジアという奇妙なセンティメントをまき散らしながら。
 所詮、世俗のダンスミュージックだからと気安いノリとなり、ふと心を許した巨匠がたが、心の内のうっかり見せたらまずいものを大開陳したアルバム。なのかもしれませんぜ。

 このアルバムの音はYou-tubeでは見つかりませんでした。しょうがないからそこにあった弾き人知らずのストラビンスキィの”ピアノのためのタンゴ”など貼ってみます。



追放処分

2010-07-13 21:22:10 | 時事

 ☆小野恵令奈がAKB48を卒業! ~ 代々木コンサート「サプライズはありません」で発表のサプライズ

 急過ぎる状況の流れから考えて、確実に”クビ”のようだな。というか”突然の追放”ってニュアンスさえ感じる。よほどの事があったのだろうね。伏魔殿の芸能界、その真相を我々が知る日が来るかどうか分からないが。
 しかし、こんな事態になっているのに”海外留学”なんてうそ臭い関係当局の発表を鵜呑みにして、「夢に向ってジャンプするえれぴょん、頑張れ」とか呑気な事を言っているんだから、ファンと言うのは幸せな人種だ。というか、そんな連中がいるから悪名高きAKB商法が成り立つんだろうけど。

 ~~~~~

 ☆小野恵令奈がAKB48を卒業! ~ 代々木コンサート「サプライズはありません」で発表のサプライズ(RBB TODAY - 07月11日 22:55)

 本日千秋楽を迎えた、AKB48代々木第一体育館コンサート「サプライズはありません」。コンサートタイトル通りにサプライズはないはず…だったが、さきほどAKB48の人気メンバー「小野恵令奈」が、同グループを卒業することが発表された。
 ほぼ同時に、AKB48のオフィシャルブログ「~AKB48 TOKYO DOME までの軌跡~」にも「【お知らせ】」のタイトルで、小野の所属事務所(太田プロ)による説明文が掲載された。
 それによると、卒業の時期などは未定ながら、「夏までの活動予定」とのこと。「映画『さんかく』の出演をきっかけに、自分の考えの甘えや実力のなさに気付いたようです。一度自分を見直すために海外へ留学し、その期間は芸能活動を停止することになります」とその理由が説明されている。また「女優業を勉強する決心もあるようです」とのことなので、あくまでAKBからの卒業で、将来的に芸能活動を再開する可能性はあると思われる。
 コンサート終了直後ということもあって、本人および他メンバーのTwitterやブログでは、まだ関連する書き込みはないようだ。小野恵令奈については、AKB総選挙の投票で15位と人気も高く、(きっかけになったとはいえ)映画『さんかく』で見せた魅力で、AKBファン以外からも評価されはじめたばかり。ぜひ“えれぴょん”の旅立ちと、今後のさらなる飛躍に期待したい。
 なお小野恵令奈オフィシャルブログ「キラキラ☆☆ ぴょん吉成長日記」の最新記事では、卒業に関する投稿はなく、今朝8時時点に、代々木への抱負を述べる文章、そして「本当にAKB48で幸せだなぁ…と思いました☆。」という言葉が投稿されている。

太陽と薔薇のブルース

2010-07-10 04:32:44 | ヨーロッパ

 ”In forma di Rosa”by Rosa Paeda

 どういう人なのかまるで知らないのだが、ジャケの薔薇の花の赤い色彩があまりに強烈なので、ふと購入してしまった。妙なジャケ買いもあったものだ。
 南イタリアの、民謡系の人らしい。超短髪でメガネまでかけて、なんかインテリ臭い風貌に、「頭で音楽をやる人かもな?ヤバいかな?」と一瞬、不安が過ぎったりもした。

 イタリアも最南端、かの靴の形をした国の踵の辺りの音楽をやっているそうだ。聴いてみれば、いかにもそんな感じ、非常にアラブの影の濃い歌を聴かせる。そもそも、バックバンドはアラブの民俗打楽器を使用しているのだし。その他、ギターはフラメンコっぽくなりもし、木管楽器はバルカン的な曲がりくねったメロディを奏でもする。東地中海の陽の輝きと、それに反比例して地に落ちる果てしなく黒い影の音楽。様々な文化の混交。

 そして主人公のRosa Paedaは、やはり南イタリアらしいアラブ色濃い、”朗誦”なんて言葉を使いたくなるような重い土俗と、南の太陽の輝きを、その歌声で振りまく。
 最南端のこの辺りが、イタリア人にとっても”地の果て”の感じなんだろうか?南イタリアの民俗音楽を聴くといつも、地面深くに沁み込んで永遠に癒える事のない孤独の泉の響きを聴き取ってしまう。

 照りつける太陽とからりと乾いた空気と吹き抜ける潮風の中で、そいつは人々の魂に取り付いて永の年月を生きている。女たちがまとう民族衣装の厚ぼったい黒い生地の下で、営々と息付いている。
 そんな乾いた孤独のイメージが吹き寄せて来て、野生の花の周りでカラカラと乾いた音を立てて舞っている。



ハンバートに悩む

2010-07-08 03:04:45 | その他の日本の音楽

 検索かけた結果を見、ああやっぱり今流れてる「アセロラ」のCMソングはハンバート・ハンバートが歌ってるのか、なるほどね、などと頷いてみたけれど、だからって事態は何の代わりもないのだった。
 なんて話の始め方では何がなんだか分からないよなあ。最初からやりなおしだ。

 ハンバート・ハンバートは1998年に結成された、佐藤良成と佐野遊穂のお二人によるによる男女デュオのフォークグループだ。2001年にアルバム、”for hundreds of children”でCDデビューしている。
 そして私はここの女性メンバー、佐野遊穂嬢の歌声の、結構なファンなんですな。まあ、グループのサウンドそのものもそうなんだが、彼女の発声法に70年代初めの頃の欧米の女性フォーク歌手が持っていた雰囲気に通ずるものがある。なんだか明るい陽の中をフワフワとどこまでも舞い上がって行くような、その独特の発声法には。

 それはいいんだけど、問題はこのグループが”男女デュオ”のチームであるということだ。当然、もう一人の男性メンバー、佐藤氏も歌は歌うわけだよな。そりゃ歌うよ。
 いや、はっきり言って申し訳ない、私はこの佐藤氏のボーカルが邪魔で邪魔でしょうがないのだった。だって、女性メンバーの佐野嬢の歌声に惹かれて、ハンバート・ハンバートに関心を持ったのだから。

 これがねえ、”男声コーラス”ならまだ我慢は出来たと思うんだ。彼女の歌のための効果音と解釈が出来る。でも、彼女の横で対等の立場で歌われると、そこには一個の人間の存在感とが生まれ、佐野嬢の歌声をじっくり聴きたいという、こちらの気持ちは集中力を削がれ、失速してしまう次第。何とかならんか。
 まあ、ムチャクチャ言っているわけですがね、デュオのグループに、「片方黙れ」と要求しているのだから。しかし何とかならんかなあ。たとえば、佐野嬢がグループのコンセプトとは別の音楽にトライしたくなってソロ・アルバムを作るとかね。

 私が同じような理由で贔屓にしている日本のフォークグループ、”ビューティフル・ハミングバード”なんかはその辺、良いよなあ。同じ男女のユニットながら、男性メンバーは唄を歌うことに関心がなさそうだし。
 どうでもいいような事をダラダラ書きやがってとお嘆きの貴兄に。それじゃ、どうしたらいいと思いますか、この問題を?思いっきり聴きたいんですがねえ、佐野嬢の歌声を。佐野嬢の歌声だけを。