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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

ハリラヤ音楽を聴いてみる

2010-08-20 04:01:00 | アジア
 ”SENTUHAN HARI RAYA”

 ハリラヤとはマレーの人々にとってのお盆のようなもの、と聞いた。彼らの信ずる宗教イスラムの重要な季節の行事のようだ。そのなかでももっとも大規模なものは、有名な断食の月ラマダンが明けた日を祝って一族の集まる祭り、ハリラヤブアサなのだそうだが、まあ、こんな付け焼刃の伝聞など書いていても何の説得力もないだろうなあ。

 ともかく今回の盤は、そのハリラヤを祝うための音楽を収めたもの。ここにあるような音楽を聴いてイスラムの祭りを寿ぐのだろう。とはいっても、たとえばナイジェリアのフジであるとかパキスタンのカッワーリーのように濃厚なイスラム的個性を持った音楽がハリラヤ用に存在している、というのでもないようだ。
 男女の歌手の掛け合いでウィ・アー・ザ・ワールド調に盛り上がるバラードものや、レゲのリズムでホテルカリフォルニアっぽい歌謡ロックのメロディを聴かせたり。その合間にマレーっぽいメロディが差し挟まれたりする。でも基本はアジアっぽくマレーっぽく解釈された今風の世界標準ポップスという感じだ。

 やはり世俗音楽と一線を画すのは、どの曲の歌詞にも律儀に”ハリラヤ~♪”の一言が挟み込まれていたり、参加歌手は皆、背筋のきちんと伸びた清潔感のある人たちで、ヤクザな個性を売りにしている気配がないところだろう。
 そしてなにより、どの曲にも家族的といっていい優しさや暖かさが込められているのが、この音楽の特徴と言えるんではないか。どこか鼻の奥がツンとしてきそうな懐かしさに包まれて、「俺たちは家族じゃないか」と呼びかけてくるような。そんな音楽。

 聴いていて、ふと昔読んだ、”怪傑ハリマオ”のモデルとなった人物の評伝の最後のページなど思い出した。故国である日本と生まれ育ったマレーの地。第2次大戦の真っ只中、その二つの故郷の狭間で翻弄された人生。彼はその人生の最後の時に臨み、マレーの地のイスラムの墓に自ら望んで身を横たえたのだった。



ゴールデン・ナモのコズミック・ダンス

2010-08-18 04:55:59 | アフリカ

 ”THE MBIRA MUSIC OF GOLDEN NHAMO ”

 南部アフリカにジンバブエなる国があるが、確かこの国名は「石の家」と言う意味であったと記憶している。この国に古くから存在する石造建築物にちなんだものと聞いている。
 ジンバブエはまた、ブラック・アフリカ全域において使われている親指ピアノの音楽のとりわけ盛んなところであるが、上のような話を聴いた連想から、かの国のミュージシャンが演奏する親指ピアノを聴くたびに、ごろんと横たわる石塊に向って思索を行なう哲学者、みたいなイメージが浮んで仕方がなかったりする。

 永久の時間を沈黙して過ごして来た岩石に向って、人生の意義や宇宙の謎について楽器をかき鳴らしつつ問う、寡黙な哲学者。ここに紹介するゴールデン・ナモもまた、ジンバブエの哲学者の面影漂う(まあ、私が勝手に夢想しているだけだが)親指ピアノのプレイヤーである。
 その人生の前半分を軍人として過ごし、司令官なる地位にまで上りつつも、突然その職を辞し、故郷に帰って親指ピアノのプレイヤーとしての研鑽に務めた、などという戦国時代の変わり者の武将みたいなエピソードもまた、彼の思索家イメージを深める。

 その演奏自体もアブストラクトというのか、彼独自の不思議な手触りを持っている。アフリカ大陸では当たり前のように聞こえる複合リズムの一種ではあるが、他のミュージシャンの演奏とは一味違う奇妙に歪んだリズム構成と、それに乗って織りなされる聴いたこともないような和音の響き。
 その、まるでクラシック音楽のフィールドで”現代音楽”と呼ばれるジャンルの作曲家が作りでもしたような、ある種不安定な構成の楽の音。それは、遠くジンバブエを離れて生きる我々の今の心境にもぴったりとフィットする、非常に今日的な先鋭的な響きを奏でている。

 興味深いプレイをもっともっと聴きたいと願うのだが、残念ながら演奏者のナモは、この、彼にとってはじめてのアルバムが世に出た年の暮れ、ほんの短い患いの後、世を去ってしまっている。まだ50代の若さであった。
 このユニークな演奏家が形として残した音楽遺産が、あまりにも少ないことに唖然としてしまうのだが、せめて彼の残したこのアルバムを聴き込み、彼の残した謎の回答へと一歩でも近尽きたいと願うのみである。



オンドリャの大地へ

2010-08-17 04:38:09 | その他の日本の音楽
 ”On Stage”by 山中一平&河内オンドリャーズ

 と言うわけで、さらに河内音頭盤である。山中一平という名はどこかで聞いた記憶があるのだが、どんな場面でだったか思い出せない、という位置にいる人であった、私には。

 はじめて聴く彼のアルバムは、中ジャケに書かれてあった彼の、数奇と言うのか奇妙に曲がりくねった経歴に驚いているうちに、ブルース調にアレンジされたド演歌が始まっている。山中が過去に、音頭とりとは別に歌手として出した曲とのこと。良い感じではあるが、こちらの気分としては、即・河内音頭が欲しいんだが。
 困惑するうちにも今度はド・ブルースあり韓国民謡あり、といったごった煮世界が、LPの時代で言えばA面いっぱい展開される。歌手山中本人にとっては意義あることなんだろうが、この先いつ出るか分からん全国区(?)のアルバムなんだから、もういきなり河内音頭で攻め込んで来て欲しかったところ。まあ、当方の事情としては、なんだけど。

 さて、CDも後半に至って、待ってましたの音頭がじっくり2曲聴ける事となる。山中の歌はまさに河内の風に煮込まれ、大地に沁み込んだみたいなディープな味わいのあるもの。祝祭音楽というより、土俗のファンキーさに溢れている。前回触れた初音家賢次みたいな都会音楽として洗練された音頭とはまた別の血の騒ぎに満ちている。
 しかも、一曲目は、あの”春一番コンサート”出演時の録音ゆえ、ギター、ベースにキーボード、ドラムスにサックスまでが加わったフル編成の山中一平&オンドリャーズの演奏が、二曲目は、大学のシンポジウムにゲストで出た際の録音とて、三味線と大太鼓にお囃子だけ、というコンパクトな編成による演奏を楽しめる趣向。

 これはなかなか興味深いものがあり、フルメンバーのサポートを受けてじっくり河内十人切りの物語を詠い上げて行き、クライマックスにはインプロビゼーションを繰り広げつつ絡み合う各楽器と共に一体となって音頭のカオス世界に突入するあたり、リズムのファンキーさに腰が浮き、手には汗を握るものあり、これはたまりません。
 その一方、小編制による二曲目は、そのシンプルな演奏に音頭の構造が透けて見えるような、あるいは発生当時の音頭の姿を想起させるようなひとときであり、その素朴で暖かい響きに、こちらもゆっくりその良い湯加減に身を任せていたくなるのであって。
 と言う次第で、この終わりの二曲を、さっきから何度も繰り返し聞き返しているのでありました。

 そんなオンドリャ気分の夏の夜。




傲慢なる帰郷

2010-08-16 03:57:44 | 書評、映画等の批評
 ”テレビドラマ「帰国」(2010年8月14日)”

 何度も流された番宣コマーシャルを見て、おそらく「英霊」にかこつけて、昨今の世情が気に入らないジジイが手前勝手な説教を垂れる番組であろうと予想していた。確認のため見てみたら、まさにその通りに進行して行ったのであった。

 この番組を見て分かったけど、あの脚本家の倉本聡という男は、「英霊」の一言を持ち出せば気に入らない奴はオノレの一存で殺してかまわない、むしろ殺されたことを感謝するべきだ、という考えの持ち主なんだな。そりゃ、戦争も起こりましょうよ。

 クラモトもこのままでは不自然になるとでも思ったのか、石坂浩二演ずる殺された男に亡霊と化して自分を刺し殺したビートたけし演ずる”英霊”のところに行き、「おかげで目が覚めました」とか、”お礼”を言いに行かせている。目が覚めたけど死んでましたか。

 あんな滑稽なシーンもないものだが、みんなちゃんと腹抱えて笑っただろうな?それとも聞き分けの良い昨今の人々は、あんな話にコロッと乗せられ、「感動しました」とか言ってるんだろうか。

イヤコラセの衝撃

2010-08-14 02:47:12 | その他の日本の音楽

 ”旅立て俊徳丸”by 初音家賢次

 昨年、河内音頭・江州音頭の月乃家小菊のデビュー作「踊れ大阪総踊り」をプロデュースした”イヤコラセ東京”から、今年も嬉しい盤が届いた。もちろん当方は何の知識もないのだが、河内音頭の伝説の歌い手の昭和30年代における幻の録音をダンス・ミュージック化したというリミックスCDである。
 幻の録音と言うのは、これは河内音頭好きの篤志家が私的に録っておいた音源の公開と言うことで、こういうのはなんか血が騒ぐね。で、そいつに今日のミュージシャンの側が音をかぶせてクラブ・リミックス一丁上がりと言うわけである。

 被せられたリズムトラックに乗って主人公、初音家賢次の歌声がうねりつつ流れて行くのを聴いていると、なにやら心は自然にアフリカに行ってしまうんだが、これでいいんかい?良くないと言われても、もうそう聴こえてしまった後なんだから仕方ないのだが。
 そう、ナイジェリアのハルナ・イショラをレコード店頭ではじめて聴かせてもらった日が記憶に蘇った。錆びた歌声がうねりながら流れて行き、パーカッションが地を這い、あるいはスココンと腰骨を撃つ。ユーラシア大陸を越え、遥かアフリカの大地までに至る”音頭ベルト”の連なりなど想いをはせてしまう出来上がりなのだった。

 そんなクラブ・ヴァージョンが長短2パターン続いた後、原録音ヴァージョン、ほぼ太鼓とコーラスのみの伴奏による剥き身の(?)初音家賢次の歌声がはじめて出てくるのだが、いや、やっぱりこれには勝てませんてば。
 盆踊りの場ではなく、どこかの座敷で録音されたものと言うが、錆びた歌声が凛とした風格をもってスッと空間を渡って行く。その潔さに、やはりたいした歌手なんだなあと息を呑んだ次第。このオリジナル録音のリリース計画が進んでいるとのことだが、これはなんとしても実現していただきたく思う。

 最後に余談。CDケースが左右逆開き仕様になっているあたりはふざけた凝り方で、ちょっと笑わせてもらった。
 わはは。確かにこれが”和もの”の正しいあり方かもな。ふん、開け難くてしょうがねえや。わはは。

 (さすがにこの曲の試聴はありませんでした)

陰影の宮殿に向って

2010-08-13 02:56:35 | ヨーロッパ

 ”Espurnes D'Anima”by Eybec

 こういうのをアンビエントなロックと言うんだろうか。その辺の語句の使い方もよく分からんのだけれど。ともかく、スペインの耽美なグループの幻想作。意外にこれは、酷暑に打ちのめされつつ聴いても良い感じの盤なのだった。

 やや甘さを含んで、ゆったりと空に向って伸びて行く女性ボーカリストの歌声が美しい。 それをサポートするギターやキーボードは、時の止まったような世界で静かにたゆたいながら思索的なフレーズを紡ぎ出し、絡み合いながら不可視の宮殿を中空に築きあげる。
 なるほどスペイン産と言うべきか、描き出された地平線まで広漠と続く荒れ果てた大地と、そこに降り注ぐ剥き出しの南国の陽光のイメージの中で、幻想のページが次々に開示されて行く。

 メジャー・セブンス系のコードが多いのだろうか、キーボードが、コーラスが奏でる和音がゆっくりと渦巻きながら陽炎のようにうつろう。パーカッション群が、不意に巻き起こる埃っぽい砂漠の風の歌を歌う。そしてギターが異境の祈りの響きを弦でなぞる。
 古代の祈りにも似た女性ボーカルは、もう見つけるすべもない、荒野の果ての幻想の宮殿に至る道の記憶を歌い上げる。

 もう30年も前になるのか、スペインのプログレバンドのアルバムをポツポツ買い集めていた頃を思い出した。こんな風に、どのアルバムにもアフリカの陽光の強烈な陰影が差し込んでいたものだった。
 一幅の完璧な幻想絵画が歌う古代の不思議な物語に、寝苦しい夏の一夜の無聊を癒してもらった、そんな一枚。




霧の向こうのスターダスト

2010-08-12 03:25:25 | その他の日本の音楽
 STILL CRAZY for YOU ( CRAZY CATS & YUMING)

 ”Still Crazy For You”なるCDがここにあって、どうやらクレイジー・キャッツ結成50周年記念の企画として発売されたもののようだ。私は4年前の発売時にはこのCDの存在を知らず、結構最近になってネット通販店で見つけて購入したのだった。

 曲を作っているのは松任谷由美で、それらしい擬古調のジャジーなポップスに乗せて、昔々に好きだった何者かに、今でも代わることなく好きであるとの気持ちを告げている。長い時の向こうの古い古い恋と半世紀に及んだクレイジー・キャッツに寄せる想いを、ノスタルジックなメロディの内に、二重写しに描いているようだ。
 まあ、ここは余計なことは言わず、あんまり重苦しくなくて、そしてそれなりにセンチメンタルにもなれるこの曲を、散歩のついでにでも歌ってみることにしよう。

 クレジットにはユーミンとクレイジー・キャッツの共演盤となっているが、実態はユーミンと谷啓のデュエットである。それはそうで、もうクレィジーの主要メンバーたちは次々に物故してしまっている。
 生き残って50周年記念の歌を披露したのが、あんまり時の経過と関係ないマニアックな少年の夢の世界を生きてきた谷啓であるのも、不思議な天の配材なのだろう。時の流れや現実の世界とは一つ離れた、不思議なファンタジィが出来上がった。
 これが人情家のハナ肇や常識人の植木等だったら、また別の世界が出来上がっていただろう。

 それにしても50年である。この歳になると嫌でも分かるが、過ごして来た歳月の貌など本気で振り返ろうものなら、そこにはもう、どうにも取り返しの付かない、付けようにもても届かない時の渓谷が横たわっていて、人は深い絶望に打たれて、その衝撃に死んでしまうかもしれない。還って来ない思い出。もう会うこともかなわない人々。
 だから人は、あったのかなかったのかも分からない恋の思い出などを持ち出して、その谷を厚い感傷の霧で覆い、「好きだった。今でも愛している」なんて呟いてみせたりもするのである。

 クレイジー・キャッツといえば「しゃぼん玉ホリデー」であって、私は人生で必要なことのすべてをあのミュージカル・コメディの番組で学んだ。まあ、”人生で不必要なことのすべてを”でもいい、どっちでもいいのだが。
 あの番組、子供の頃、夕食をとりながら見ていた記憶ばかりがあるが、実は番組自体は私が”ガキ”から”そこらのお兄さん”へと成長し、自分なりに人生の扉を開けようと、そのほとんどは無駄であった努力など始める頃にもまだ続いていた、と知って唖然としたものだ。それからだって、もうずいぶんの月日が経過している。

 そしていまだに。忘れられぬトキメキ、ということだ。行く道の先に霧は深く、でもそこはもぬけの殻で、ザ・ピーナッツがスターダストなんか歌っていたりはしないから、くだらない冗談言ってからかったりも出来ず、ただこのまま歩き続けるしかないのだろう。




マッコリ荒野

2010-08-10 04:08:39 | アジア
 ”Minyo Party”by Yu Ji Na

 韓国演歌界名物、ノンストップ・トロット盤であります。
 ともかくCD一枚をノンストップで歌唱&演奏、お馴染みのヒット曲やみんなの愛唱歌を詰め込めるだけ詰め込み、調子の良いアレンジを施し、たて続けに歌い継いで行く。全体の構成とか考えません。一曲一曲が楽しければ、その集合体であるアルバム自体も当然、作品としてよろしかろう、という価値判断より生まれた一本調子の快進撃音楽。
 欲張りな庶民の求める安易な娯楽の具現化の音楽版と申しますか。「安い!旨い!早い!臭い!」の4拍子が揃った(4つ目のは不用だ?まあ、ケンチャナヨ!)大衆歌謡天国がそこには大展開されているのであります。ともかく韓国大衆のバイタリティが濃厚に臭って来る豪華徳用盤の伝統が韓国演歌の世界にはある。

 さて、こいつはその民謡ヴァージョンであります。同じ要領で韓国各地で歌い継がれてきた民謡各種をノンストップで歌いまくります。
 歌うは、鋼の喉を持つ韓国演歌勢の中でもとりわけハードな歌唱で知られるユ・ジナ女史でありまして、これは壮絶な作品にならざるを得ないな、と聴く側のこちらも覚悟を決めるわけです。
 トロット演歌ならともかく、韓国民謡の知識はまるでない身が情けないのですが、確かに盤を廻して始まるのは聴き慣れた韓国演歌とは大分違うゴツゴツした手触りの野趣溢れる歌の数々。韓国の民族楽器にリードされて始まるフルバンドの演奏に乗って、ユ・ジナ女史の歌声は流れます。
 鉛色に濁った空の下、吹きすさぶ寒風の中で静かに胸中で燃やした熱情を爆発させる、みたいなハード極まるユ・ジナ女史の歌声を聴いていると、この人はそもそもこのような楽曲のほうが向いているのではないか、などと思えてくる。もう、この喧嘩腰みたいな濁り声のコブシ回しがCDの収録時間いっぱいに鳴り渡るその迫力に恐れ入りひれ伏すしかないでしょう。

 これは、この種の盤の多くがそうであるように2枚組のセットでありまして、韓国の民族楽器の響きや、韓国民謡に多い三拍子のリズムをややヤクザにフェイクするドラムスの動きが印象的な、やや落ち着いた造りの1枚目と、派手にロックっぽいアレンジで激走する2枚目のセットとなっておりまして、う~ん、こんなの聴いていると敬遠していた韓国民謡の世界にもちょっと手を出してみようかなんて気分にもなってきたりもします。
 え?なぜ敬遠していたのかって?いやあ、有名なパンソリとか聴くと、あまりにもテンション高くて疲れそうでしょ。それで、ね。





私は月には行かないだろう

2010-08-09 03:27:41 | 時事

 さっきから終戦記念のテレビドラマとかで「第2次大戦で死んだ英霊が今の日本に帰ってきたら」なんてもののCMがやたら流れてるんだけど、その内容って要するにジジイの繰言なんだろうなあ、としか思えないんだが。

 その予告を見る限りでは、”英霊”諸氏に「今日の、この日本のありようは何だ!こんな国を作るために我々は死んでいったのではない!」などと叫ばせるようだけど、俺が”英霊”だったらそんなこと喚く前に、まず酒を飲みに行くよ。
 あるいは、昔の小松左京の小説にあった如く、ホテルでセックスに励むベッドの中の若いカップルに皆で覆いかぶさり、「おい!もっと見せろ!」と要求するよ。

 それが人間らしい生き方って奴じゃないのか、ええ?それを踏みつけにして、エラい人が立派な事を言い出したら。そんな時が一番ヤバい、とそれだけは心しておくぜ、俺はさ。





ちょんちょんキジムナー探訪

2010-08-08 04:37:42 | 沖縄の音楽

 ”ちょんちょんキジムナー”by 照屋政雄

 沖縄方面のミュージシャンで私が一番興味あるのが、実は照屋政雄氏なのであって。あれは普天間かおりのヴァージョンだっけか、政雄氏の代表作である”チョンチョン・キジムナー”を聴いて、何だこりゃ、こんなひょうきんな歌を作ったのはなにものだ?と慌てて氏の経歴を調べたりCDを買い込んだりしたものだ。
 キジムナーとはもちろん、あの沖縄の愛すべき精霊なのであるが、氏は彼ならではの愛嬌たっぷりの手管で、現実と非現実のあわいに住む伝説の生き物を、実に生き生きと親愛の情を込めて描き出していた。

 それにしても照屋林山、登川誠仁両氏をはじめとして、錚々たる師匠連に沖縄の伝承音楽を学び、言ってみればかの世界の”王道”を歩いてきたかに見える正雄氏、にもかかわらずさっぱり偉そうではない、むしろ素っ頓狂なキャラを貫いているのが嬉しいではないか。
 中ジャケでも複数の人が政雄氏の日常のトボケた失敗談など紹介しているが、その楽しさ、暖かさがそのまま、氏の音楽の魅力と直結している。
 ここに挙げたアルバムは沖縄のローカル・レーベル、”んなるふぉん”から2002年に発売になった、おそらくは氏の初のソロアルバムなのだが、ここには政雄氏の音楽の、気のおけない楽しさが頭から尻尾までギッシリと詰まっている。

 沖縄と言う土地の日常の、なにげない生活の喜怒哀楽や伝承を歌う、その狭間々々に、聴く者の脇の下にもぐりこんでコチョコチョくすぐり倒すような飄々とした風刺と諧謔のタマシイが潜んでいる。その標的となるのはオカミの作ったなんの役に立つやら分からない道路から、”分かっちゃいるけどやめられない”と自堕落な生活を続ける名もない庶民の日常まで、分け隔てはない。
 沖縄の伝統音楽の素養はもとより身についている政雄氏だが、一方、沖縄漫才等の方にも手を染めていて、そのあたりから身に付けたのだろう、”寄席芸の肌触り”が、彼の歌声、節回しから良い具合でこぼれ落ち、氏の音楽に更なる奥行きを与えている。彼の歌の向こうに、裏表から見た沖縄の庶民史が透けて見えてくるような気がしてくるのだ。

 ギターやベース等の軽い伴奏が付いている曲もあるが、多くは政雄氏の三線の弾き語りで、このパフォーマンスにおいても、鋭さよりはどこかコロコロした鈍角の愛嬌(?)を滲ませる政雄氏である。
 コミカルでファンキーな自作曲の間に伝統曲を挟みつつ進行したアルバムは、かっての紅楼の巷におけるドタバタ騒ぎを活写した愉快な”吉原漫歩”で幕を閉じる。こいつがまた、楽しい曲である。
 で、聞き終えると同時にこちらは、照屋政雄氏の世界にますます惹かれ始めていて、「早く次のアルバム、出ないかなあ」などと呟いてしまっている次第だ。