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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

ロボットの明けない夜明け

2010-11-10 04:27:12 | エレクトロニカ、テクノなど
 ”CTRL ALT DELETE”by FREE THE ROBOTS

 どうも、この種の音楽に惹かれてしまって、我がことながらこれで良いのかと困惑する今日この頃なんでありますが。まあ、以前からクラフトワークやらタンジェリン・ドリームやら、”電気もの”は好きだったんではありますが。

 今回もエレクトリックなロボット・ミュージックであります。とりあえずこの音楽、属するジャンルを指す言葉も知りません。知ったところでたいした意味もないとは思っているが。ようするに音楽、それでいいんで。
 この盤の製作者は米国はカリフォルニア州サンタ・アナあたりを根城に活躍するプロデューサー&DJとのことで、さぞやナウいフィールドで活躍しているんだろうと思いますが、まあ、それもとりあえずどうでもいや。

 冒頭、まず飛び出すのは重々しい金属の塊がややネジの狂ったで動き出す気配。ホラーっっぽい音素も振りまきつつ、自由を求めるロボットの行進は始まります。
 ロボットと言っても、このアルバムで「自由を!」と叫んでいるロボットは、以前取り上げたエレクトロニカ作品の”私はロボット、それが誇り”君と比べると、まるで存在感が違う。”私はロボット”君が、その淡い視線のありようによって存在していた感があるのに比べて、こちらは堂々の重金属の手触りがある。

 金属の皮膚の下にみっちりと充満した金属の筋肉がギシギシと軋み、その狭間を満たすのは黒く重く煮えたぎった機械油の流れ。重くうごめくリズムの上にジャズ、ロック、サイケ、ブレイク・ビーツなどなど各種の音要素が気ままにぶち込まれる。そう、まったく気ままに。オモチャ(すべて重金属製)を一面にぶちまけた中を行軍するロボットの姿。そこに頻繁にユーモアが漂うのはプレイヤーの理性の証しで、すべてがモノクロームの中に塗り込められているのは彼らが内に抱え込んだ閉塞感の証しか。

 鉛色の朝、ロボット、故郷へ還る。



ハ・スビン、逆襲の明日?

2010-11-09 01:50:16 | アジア

 ”THE PERSISTENCE OF MEMORY”by Ha SooBin

 韓国ネタが続きまして恐縮です。また、韓国事情通のかた、「何をいまさらそんなことで驚いているのだ」と私の情報遅れをお笑いでしょうが、フン、そんなのあなたがとっとと情報を広めないのが悪いのさ。まあ、勝手にやらせてもらうよ。
 と言うわけで。
 いやあ、さっき韓国ものの通販サイトを覗いていたら、ハ・スビンの新譜がド~ンと載っているんで驚いてしまって。いやもう、「発売されるという噂」なんてレベルの話じゃない、再デビュー盤はすでに出来上がっていて、もうクリック一発で買える運びになっているんだから。

 初めから状況の説明をします。ハ・スビンというのは1992年、”童話の世界からやって来たお姫様”をコンセプトにデビューした韓国のアイドル歌手です。ゆうこりんみたいにギャグにはしない、こちらは終止本気で、俗世離れたお嬢様歌手として売っていたようです。
 で、デビューアルバムに収められていた「ノノノノノノ」が大ヒットします。聞いてみると特に歌はうまくない、むしろ声量のないヘタレ声で音程ふらつきながら懸命に歌うのが健気で応援したくなるとか、そんな感じの支持を受けていたんじゃないかと思われるのですがね。
 その翌年、彼女は2ndアルバムを世に問うのですが、これが自らの作った歌あり、サウンドのクオリティも上げ、大人っぽい雰囲気を前面に出した、なかなかの傑作である。そんな事で彼女は、当時美少女歌手としてトップの人気を誇っていたカン・スジなんかと並び称されるようになる訳です。(「格が違う」とカン・スジのファンは怒ったようだ)

 ところが、どういう事情があったのか分からないが、このセカンドアルバムをリリースした2年後の95年にハ・スピンはテレビの歌謡番組に出演したのを最後に消息を絶ってしまう。そのまま芸能界から去ってしまったんですな。その理由は今だ謎のまま。
 こういう人には、いなくなってから何年も経つとしょうもない噂が必ずたちます。いわく、死んでしまったとか(これは、ハ・スビンのいかにも病弱そうなヒョロヒョロした体型には、ある意味似合いの噂で、妙にリアリティがあった)
 なかでも強力だったのが、「彼女は実は男であって、皆をうまく騙しおおせた女装者に過ぎない」というもの。こいつは引退後何年経ってもテレビのコント番組でネタにされたりして、相当根強く韓国社会に流布した、というかいまだにそう信じている人も少なくはないようだ。
 「美少女歌手として一時は一世を風靡した、そののち謎の引退劇を演じ姿を消した女性が、実は男だった」・・・なんか嫌な湿り気を内に秘めた、いかにも一般大衆好みの暗い願望を刺激する噂ではあります。

 彼女本人は姿を見せないまま、そんな噂ばかりが語られる。引退後、何年経っても閉じられることのないファン・サイト。そして何度も表れては消えるカムバックの噂。
 そんな風にして流れ過ぎた少なからぬ年月。いつしか彼女の名も一般ファンは忘れかけた、こんな頃になって、ハン・スビンが本当にカムバックすると言うんだから、これは驚く。 さっき韓国のサイト(の日本語訳)を見たら、17年ぶりのアルバム・リリースだそうです。もう、彼女のインタビュー記事なんかもいくつか見ることが出来て、さすがに男じゃなかったけど(いや、上手く化けてりゃ分かりませんがね)それはかっての美少女の容貌そのっまというわけにはゆきません、けど、楚々たる美女の面目は保ったままの「ハ・スビンの近影」ではありました。
 上に掲げたのが、その彼女の17年ぶりの再デビュー盤のジャケなんですが、芳しからぬ噂をぶち飛ばそう、とでもいいたげなポーズで写っております。やっぱり忸怩たるものがあったんだろうなあ。

 さて彼女、この17年の言われ放題の歳月に、どう落とし前をつけるんでしょうねえ。おっとその前に、引退の本当の理由やこれまで何をしていたのかとか、訊いてみたいことは多々あるんだが・・・そしてさらに気になる、このアルバムの中身。どんな音楽が入っているんだろうなあ。
 
 (まだ、再デビューアルバムの音はYou-Tubeに上がっていないんで、90年代、現役アイドルだった頃の彼女の歌を、下に貼っておきます)



トロット娘の激辛激走!

2010-11-07 01:13:33 | アジア
 ”ALBUM 05”by Jang Yoon-Jeong (장윤정)

 2008年の”ツイスト”がイカシていた韓国トロット演歌のプリンセス、チャン・ユンジョン嬢の新作であります。2年ぶりの新譜、満を持して登場、というところでしょうか。ジャケ写真などもなかなか可愛く決まっております。
 それにしてもこのところの韓国アイドルの我が国における持て囃されようはなんでしょうね?そんなものは私のようなスキモノの玩弄物として放っておいて欲しいんですがね。とはいえ、私なんかの趣味とは微妙にずれるあたりが受けているのも、なかなかにむず痒い気分のものであったりします。

 さて、チャンちゃんのこの新譜でありますが、冒頭の2曲あたり、”ツイスト”の好評を受けてあの辺のリズム演歌路線をさらに押し進めたのでありましょうか、フルバンドをバックに快調に乗りまくり、良い出来を示します。
 でもなんだかここまで洗練されてしまうと、それこそ”少女時代”なんかがちょっとうっかりして演歌寄りの曲を歌ってしまったと聴こえないでもない。この辺は微妙なところです。そういや内ジャケの写真、少女時代みたいな恰好してるのが何枚かある。その辺の差別化はどうなってるんだ?なんて余計なことで悩むのは、物好きな日本のファンくらいの者かも知れませんが。

 4曲目の”ストッキング”の歌い出しには驚いた。なんだか全盛期の松本伊代を思い出させる強力な鼻詰まり声で打ち込みバシバシのディスコ演歌を決めるんだもの。これには萌えた。でも、なんでこの曲だけ?風邪でも引いてたんだろうか?
 さて、5曲目あたりから演歌度・恥ずかし度が増して行きますな。もう少女時代はついて来ることは出来まい。正統派ド演歌の連発は、まあ新し味はないが安心して聴けはします。やっぱりこういうのを歌わせるとチャンちゃんは上手いですよ。6曲目、しみじみとした演歌バラードにマッコリ恋しい冬の夜です。8曲目、”言えません”は、東京ロマンチカの鶴岡雅義氏を思い出します、ラテン・ギターが切なく響き渡る臆面もないド歌謡曲。飲まずにいられるもんですか。

 9曲目、ポップス調に戻りまして、”気づいてちょうだい”は、リズム、コード進行、コーラスの入り具合など、AKB48の「涙のシーソーゲーム」かと思いましたが。でもあちらはこの種の曲に韓国琴とか入れないよね。この曲のボーカルも若干鼻詰まり気味で萌えます。これが新機軸なら大歓迎なんだが。
 次のフラメンコ調の”カサノバ”は、誰か他の人のヒット曲じゃなかったっけ?マイナー・キーのメロディが疾走する快調なディスコ演歌で、こいつも傑作と言えよう。
 と言うわけで、最新打ち込み演歌からオヤジ歌手とのデュエットでド演歌を営業臭フンプンたるノリで決めて見せたりの、相当にバラエティに富んだチャン・ちゃんの新作でありました。

 感想のまとめとかは、ないです。相手はトロットだもん、収拾つかないままに終わるのが作法だ。



白いムビラを弾く男

2010-11-06 02:26:13 | アンビエント、その他
 ”Essential Tremor”by Richard Crandell

 アメリカ合衆国の白人男性によるムビラ(親指ピアノ)演奏。アルバム作者のRichard Crandell はもともとアコースティック・ギターの奏者で、何枚かのアルバムも世に出していたのだが、アフリカのミュージシャンとの交流の際に親指ピアノの魅力に目覚め、演奏を始めたとのこと。
 その後、ある難病(このアルバムタイトルが、その病名でもあるとのこと)によりギター演奏が難しい体となってしまい、親指ピアノの演奏にのめり込んでいた折でもあり、本格的に親指ピアノ専門の演奏家となったようだ。

 アメリカの白人が演奏する親指ピアノなんてなあ?と、ややうさんくさい気分で聴いてみたのだが、変にアフリカ音楽を分かった振りをするでもなし、彼なりの方法で親指ピアノの表現に取り組もうとする姿勢が爽やかで好感が持て、素直に楽しめてしまった。
 彼が”難病との戦いのうちに見つけた美しいもの”としての敬意を親指ピアノと言う楽器に込め、無心に演奏に取り組むうち、白人も黒人もない悟りの境地みたいなところに至ってしまったのではないか、なんて気もする。

 全曲親指ピアノのソロで自作の曲を演奏するのだが、なにしろバルトークやプーランクといった西欧世界のクラシックの作曲家を意識の隅において作られた曲あり、アイルランド舞曲あり、といった具合に実に自由に、かのアフリカの代名詞ともいえそうな楽器を操っている。
 また彼は愛用の親指ピアノから、あの楽器を特徴つけている”さわり”というか貝殻などを貼り付けて作り出す雑音要素をすべて取り去っている。結果、打ち出される音は非常に澄んだもの、たとえばハープやオルゴールなどに近いものとなり、ますますアフリカから遠ざかる結果となるが、彼にはそのような方向での”親指ピアノ道”を究めようという気はないのだから、かまわないのだろう。

 厳格な事を言えばいくらでも文句はつけられるんだろうけど、彼の見つけた癒しの世界を認め、ともに楽しんでしまうのも悪いことではなかろう、と受け取ることにした。まあ、なんのことはない、音楽として気持ちが良かったんでね。



ゲールの移民たち

2010-11-05 02:15:57 | ヨーロッパ


 ”Deagh Dheis Aodaich (A Good Suit Of Clothes)”by Fiona J Mackenzie

 アイルランドのトラッド歌手、メアリー・ブラックが何かのインタビューで「私が世界で一番美しいメロディと思うのは、スコットランドの民謡なのだけれど」と発言していて、それを読みながら私は、うん、それに賛同するのもやぶさかではないなあ、などと頷いたものだったが。その美しさに酔いしれてばかりもいられない盤がここに一枚。
 副題に、”Songs of The Emigrant Gael”とある。スコットランドからオーストラリアやニュージーランド、そして北米各地へと歴史の流れの節々に送り出されてきた移民たちの残したゲール語の歌を、スコットランドの中堅トラッド歌手、フィオナ・マッケンジーが集め歌った盤である。なにか身が引き締まると言うか自然と背筋が伸びるような気分にさせられる一枚だ。

 古くは開拓期のアメリカ中西部の荒野のただ中で作られた、望郷の念に苛まれながら生まれてきた子供に明日の希望を託す武骨で哀しい子守唄から、1920年代と言えばもう、ついこの間だ、そんな頃になってもまだ大量に送り出されていた移民たちの、汗と涙の集積がここに歌となって残されている。

 ほとんどの曲は閉ざされた雰囲気の重苦しいメロディを持ち、移民たちの送った過酷な日々が偲ばれるものである。その中にフッと柔らかな表情の歌が紛れ込み、何かと思えば大西洋を越え遠くカナダへ移民した恋人を見送った女性が、年老いてから民謡採取者に打ち明けた恋愛の記憶に関する歌だった。
 彼の残した「きっと立派になって迎えに来るから」という約束は果たされず、生死も知れぬままついに帰ってこなかった彼と、一生彼を待ち続けて結婚することのなかった老女と。それにしても、こうして歌詞を読んで行くと、「立派になって還ってくる」と約束して異境に出かけた男たちの”還って来ない率”のなんと高いことか。

 それでも、重苦しい歌たちの終わり近くに置かれた、これもカナダ移民の残した”Land of The Trees”の広々とした叙情に心打たれる。
 その歌を作った者にもやはり故国に残してきた恋人はおり、望郷の念は癒しがたい傷となってその心に横たわってはいるのだが、それでも彼は広大なカナダの大地に挑んで行く。この歌は今日もカナダで多くの人々に愛唱されているとか。
 歌詞カードの、その歌のページに添えられた、緑豊かなケープ・ブリトンの港の写真が清々しい。

 (この盤の収録曲はYou-Tubeには見つけられなかった。が、何も貼らないのは淋しいので、フィオナ・マッケンジーによるゲール語のクリスマスソングを貼っておく。クリスマスにはまだ早いが、移民たちに捧げる祈り、という意味で)


台湾暮色

2010-11-03 02:33:57 | アジア

 ”純情青春夢”by 潘越雲

 台湾の台湾語ポップス界の大物女性歌手、潘越雲が1992年に出した”台湾の心を歌う”みたいな、いわゆる名盤と噂のアルバムである。なんか出回る量が少なかったらしく、私はこの盤を手に入れそこねてもどかしい想いをしていたのだが再プレスされたようで、今頃になって手に入れた次第。
 当時は中華圏のポップスの最先鋭の一人だったボビー・チェンが作った美しいメロディの中華フォークから始まる。中華フォーク・・・と呼びうる個性のメロディもサウンドも確実にかの地には存在すると思う。東アジア人の鋭敏過ぎる感受性に応えて発達してきた、生ギターの爪弾きが似合う、淡い味わいの歌謡世界・・・
 楚々たるメロディに導かれ、極彩色の中華美学が展開するのかと想像したのだが、歌い継がれて行くのは意外にも小味な裏町歌謡だった。

 薄ら寒い風の吹く淋しい小島の波止場。波立つ湾を漁船が横切る。結ばれる運命になかった人を乗せて出て行く連絡船。久しぶりに帰り着いた故郷で、港の灯りを見下ろしながら、もう還らない日々を想い咽び泣く女。楽しく弾けるのは、夜店の幻灯機に映し出されたカゲロウみたいに儚く美しく歌われる、子供の頃に馴染んだ遊び歌。そして月の夜、都市の片隅で果たされる、夢に見た再会。
 どの曲も、美しいメロディを持ってはいるのだが、”大曲”ではない。小味の、いかにも台湾の人々がカラオケで愛唱して来たのではないかと想像される、庶民が掌で愛しむにふさわしい、気のおけない裏町歌謡だ。ところどころでノスタルジックなタッチで静かに流れるアコーディオンが良い味を出している。

 盤のちょうど真ん中に不思議な味わいの曲が置かれている。生ギターがちょっとブリティッシュ・トラッド風の調べを奏で、潘越雲が静かなハミングでそれに合わす。歌詞カードを見ると、ちゃんと潘越雲が書き下ろした歌詞はあるのである。過ぎ行く歳月を孤独に耐えながら一人生きて行く身を船の碇に喩えた詩が。けれどもこんな風に、それは歌われねばならなかった・・・
 そうなんだね、台湾の歌、これも一つの”島唄”なんだ。大陸の方の中国とは明らかに文化の異なる島の生活と人々の喜怒哀楽。そいつが漁船の上げた魚の匂いと一緒に染み付いた、台湾の曲がりくねった古い路地。生まれ出る歌。
 聴き終えた今、なんだか台湾そのものが世界の果てに流れ着いた寄る辺ない船に思えて来たりもするのだった。



いかさま商売

2010-11-02 04:20:38 | 時事
 ☆耳かき店員殺害に無期懲役判決

 つまり裁判員制度と言うのは、死刑制度廃止を目論む勢力が、死刑のシステムをなし崩し的に機能不能の状態にするためにめぐらした策略であること、ここにおいて明白となった。
 司法の専門家ではない裁判員は極刑を宣告する意志の強さはなく、さらに今回、”前例”まで出来た。おそらく今後は永遠に、裁判員のかかわる公判において死刑の判決が下されることはないだろう。
 今回の裁判員が、彼らのなしたコメントや裁判の現場での振舞いに関するレポートを読む限り、ことのほか意志薄弱で情に流されやすい人物ばかりが選ばれていたこと、偶然ではあるまい。
 こうして”いかさま”は公然とまかり通り、今日もまた犯罪者の人権のみが守られ、哀しみの国に行った人の魂は報われることがない。

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<耳かき店員殺害>林貢二被告に無期懲役判決 裁判員裁判
                (毎日新聞 - 11月01日)

 東京都港区で09年、耳かきエステ店員の江尻美保さん(当時21歳)と祖母の鈴木芳江さん(同78歳)を殺害したとして、殺人罪などに問われた常連客の無職、林貢二(こうじ)被告(42)の裁判員裁判で、東京地裁(若園敦雄裁判長)は1日、無期懲役を言い渡した。検察側は裁判員裁判で初の死刑を求刑していたが、判決は極刑を回避した。
 検察側は事件の構図を「林被告は江尻さんに恋愛感情を抱いたが来店を拒否され、付きまとっても拒絶されたため殺意を抱いた」と主張。鈴木さんをナイフで16回以上刺すなど、殺害行為は執拗(しつよう)で残虐として死刑を求刑していた。
 一方、弁護側は「来店拒否の理由が分からず、困惑した被告の事情を酌むべきだ。深く反省し、自責の念にかられている」などと死刑回避を求めていた。
 起訴状によると、林被告は09年8月3日午前8時50分ごろ、港区西新橋の江尻さん方に侵入。1階で鈴木さんの首をナイフで刺すなどして失血死させ、2階で江尻さんの首を別のナイフで突き刺し、約1カ月後に死亡させたとされる。公判は10月19日から始まって25日に結審。その後、裁判員と裁判官による評議が行われていた。【伊藤直孝】

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ダブステップの浸潤

2010-11-01 00:24:11 | エレクトロニカ、テクノなど
 ”Untrue”by Burial

 すでに書いたけど、どうやらエレクトロニカと呼ばれているらしい音楽などに惹かれるようになって来ていて、先日もその周辺の音を検証するためにYou-tubeをあちこち彷徨っていたら、出会ってしまったのがこれ。何だかよく分からないけど、妙に心に引っかかるものを感じて入手する羽目に陥ってしまった。
 ダブステップなる音楽らしい。いや、これが音楽の名ではなく、そのようなシーンがあって、そこで鳴り響いているのがこの音楽、ということなのかも知れない。まあ、ナウい音楽用語とか興味ないし。しかし、当世風の粋なお兄さん方が、しかるべき場所でこんな音楽を聴いているんだろうか?

 音の底の方にどす黒い重たい音塊があって、そいつがゴソゴソと蠢きまわり、シンコペーションの相場を支配する。その上を硬質なパーカッションの響きが気まぐれにカチカチと跳ね上がる。
 あたりは濃い霧のようなものに閉ざされていて、その薄明の中を電気的に変調された歌声や叫び声の断片がサンプリングにより、いつ果てるともなく呼び交わしている。キーボードが遠くから潮が引き、また満ちる、みたいな和音を不吉に奏でている。
 終止、シンシンと霧雨が降っているような、奇妙な哀しみに満たされた空間である。支配するのは、湿度と薄明。クールなようでいて孕む温度は実は高い。ふと、巨大なビルの地下にあるボイラー室の孤独、なんて言葉が頭を横切る。

 ここに描かれている幻想空間を美しいと呼ぼうとし、でも結局そうする気になれないのは、ここで蠢いているリズムと降り続ける哀しみが、こちらの足元まで濡らしつつあるような気がしてならないからだろうか。などと言っているうちに、ほら嵌り込んでしまって、何度も聴き返している始末だ。



ペギーHの探求

2010-10-30 02:13:34 | フリーフォーク女子部
 ”Sing Sung Saing”by Peggy Honeywell

 近付いているという台風のせいだろうか、海沿いの国道は風が出ていて、ときおり霧雨が降りかかる。ヨットハーバーからは波に揺れる各艇の装具が触れ合ってカチカチと鳴る音が聴こえている。そして自分は海沿いのコンビニに買いものに来ているのだった。もはや気候は冬と変わらず、毎週のように花火大会が行われ観光客でごった返した海岸通りはその面影もない。ただうら寂しい街路灯の光の下で、シンと静まり返っているのだった。

 さっきテレビの番組にエイベックスの社長と言う人物が出ていた。彼は言っていた、CDなどという時代遅れの商品に、今日を生きる企業はいちいちかまっていられないのだ、との持説を。
 そうじゃないだろ、話が逆だろ、と思う。CDをプレスし、それを収めるプラケースを成型し、それを包むジャケを製作する。商品製作にそんな手間をかけるより、”ダウンロード”するシステムを置いておけば消費者は勝手にそこで自ら商品を製作し、代金をおいて行く。企業にとってそっちの方が断然、商売はおいしいものな。
 だから君ら企業は消費者に、「ダウンロードの方がナウくてカッコいい」とする価値観を吹き込み、そして、とうの昔にいいなりになるのにすっかり慣れきっている消費者は、「それもそうかと思うげな(by添田唖蝉坊)」と言うわけで、「ダウンロード以外、考えられないね。なに、いまだにCDとか買っている人がいるの?信じられない」と大喜びで言うようになる、という作業工程だ。

 買い物から帰ってぼんやりテレビを見ていた。「世界の車窓から」とかいう、数分の帯番組。映像のバックに女性の歌うフォークっぽい音楽が流れていて、それに妙に耳に引っかかる。
 ほぼギター弾き語りみたいなシンプルなサウンドに乗せて、シロウトくさいか細い声で、彼女は歌っていた。ある意味素朴な、ある意味シュールな、みたいな、シンプルなくせしてどこか一癖ある独特のメロディが、歩き方を覚えたばかりの赤ん坊みたいなペースでユラユラと空間を渡って行く。
 なぜか子供の頃見た冬の朝の光景が浮んだ。小学校の登校風景。差し入る朝日に皆の息が白く、水溜りに張った薄い氷を踏み破り、嬌声を挙げていた。

 あれ、この歌、なんだか良くないか?と半身を起こすのに時間はかからなかった。さっそく歌手名を調べ、資料を探してみる。アメリカのシンガー・ソングライターのようだ。
 Peggy Honeywellという名で歌手活動をしているが、別の名で画家稼業も行なっているそうな。そちらが本職なのかも知れない。CDのジャケも自分で描いている。なんだか北国版のアンリ・ルソーみたいな素朴画で、これもよい感じだ。これだけでもファンになる価値がある気がする。
 が、残念なことに現在、彼女のアルバムはすべて絶版のようで、どこの通販サイトをあたっても購入不能である。新譜というのもないようで、もう歌手活動はしていないのだろうか?これは、いずれ再評価の時(あるはずである。その価値はある)を待つしかないのかも知れないが、くそう、じれったいなあ。欲しいよう、Peggy Honeywellのアルバムが。

 まあ、もう少し、どこかで売れ残っていないか探してみようと思ってるんだけどね、どうしても”盤”が欲しい私としては。ねえ、どこぞの社長さんよ。




龍の喪失

2010-10-28 03:11:14 | フリーフォーク女子部
 ”ゲド戦記歌集”by 手嶌葵

 昨日、ウチに不在連絡表を置いていった宅急便の配達員に呆れるほどの怠慢行為あり、さっそく翌朝早く、そいつの携帯にかけて思い切り説教、ついでに宅急便の会社にも電話し、くわ~しく苦情を述べ立て、のち、そいつの代わりに荷物を持ってきた奴の同僚も怒鳴りつけてやる。
 ざまあみやがれ正義は必ず勝つ!と握りこぶしを固めたのだが、そういう自分がうっとうしくてたまらない気分なのだった。
 振り返れば腐秋。見回せば周りは、どいつもこいつも身勝手な欲望からくっだらねえ策略をめぐらし、ゴミみたいな日を送っている。
 こんなくだらないゴタゴタに身をすり減らして。俺はいつか。などと駆られる焦燥。

 こんなとき、ふと思い出すのがカナダのシンガー・ソングライター、ブルース・コバーンの曲、”If I had a Rocket Launcher”なのだった。とはいえかの曲は、コバーンがアメリカ合衆国の暴虐の嵐に晒された南米のゲリラへシンパシーを込めて歌った政治の歌である。
 私の方は、そんな立派な志があるじゃなし、使い古したトカレフでもなんでもいい。この日々をふと振り返り、鋼鉄の塊を打ちまくれるなにものかがあれば良いのだ。そうして、私がこれまでの生活の中で愛したものも憎んだものもひとまとめに。

 凛として己の世界を構築して現実なんか大嫌いな古風な文学少女、そんな少女が歌う歌が聴きたい、なんて想いがある。極初期のジョニ・ミッチェルなんかがそんな感じか。もっといそうな気もするが、今は思いつけない。”時の流れを誰が知る”を作った時のサンディ・デニーなんかもイメージだな。
 そんな子が同級生たちの明るいおしゃべりに背を向けて机にかがみこみ、キリリと尖らせたエンピツで書き上げたなにかの結晶みたいな歌を聴きたいと思っていたりする。どうしても聴きたいから盤を探し回る、なんて感じじゃないが、ふとそんなものを聴きたい渇望を感じる。

 このアルバムは、例のスタジオ・ジブリの。なんていったってアニメそのものに何の関心もない私にとってはなにやら分からず、もちろん作品も見たことはないのだが、ともかくこれは、あのアーシュラ・K・ルグィンの原作になるファンタジィ、「ゲド戦記」のジブリによるアニメ化作品のイメージソング集とでもいうのだろうか。
 収められている10曲のうち、映画で使われたのは2曲だけだそうだ。2曲のうち、”テルーの歌”は、このアルバムの主人公、手嶌葵がテレビで歌っているのを何度か見たことがある。
 その他の曲も”ゲド戦記”の中のエピソードに準拠して書かれたもののようだが、使われる予定が初めからなかったのか、その辺はわからず。が、映画のサントラのようでいて実はこのアルバムの中にしか存在しない歌、という密室感?が、逆にその世界をふさわしい独特の虚構性を高めていると感じた。これはこれでいいのだろう。

 彼女の歌はほとんど呟きであり、他人に聞かせるというよりは自分の心に歌い聴かせる感がある。歌われるのは、龍が跳梁する異世界の日常である。異世界の石畳の道に彼女の長い影が落ちる。歌を呟きながら彼女は歩を進める。他に人影はない。ただ廃墟と化した都市と島々を渡る孤独と生命の木と見上げる空と。
 ギターだけとかピアノだけとか、たまに聴こえるアコーディオンとか、伴奏はきわめてシンプル。いや、いくつかの楽器が重なり合う瞬間はあっても、その響きはアルバム全体を包み込む静けさの内にあり、分厚い印象は残らない。

 ゲド戦記。SFに夢中の少年だった頃、SF雑誌の情報ページでル・グィンの書いたと言うその小説の紹介を読み、熱烈に読んでみたいとおもったものだった。が、いくら待ってもそれは訳出されず。まだあんまりSFにファンもいなかった頃の話である。
 時は流れ、私がオトナとなり現実のあれこれに追い回されてSFを手に取る機会も無くなった頃、”ゲド戦記”はいつの間にかいわゆるカルト的支持を集めつつ刊行されていた。懐かしさから、そのシリーズを一気に買い込み読もうとしたが、哀しいかな、なにが面白いやらさっぱり分からない。私にはもう、この種の異世界ファンタジーを楽しめる心は失われていたのだった。
 私はシリーズを途中まで読み、諦めてすべてを古書店に売り払ったものだ。今回のこの”戦記歌集”を音楽として楽しめる事実に感謝せねばなるまい。