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ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

雨のイスタンブール

2010-11-23 01:05:09 | イスラム世界

 ”Benim Sarkilarim”by Humeyra

 イスラム圏のアラブ・ポップス数あれど、テンションの高さで一番なのはトルコ歌謡ではないかと考えている。より鋭い歌い方や尖った音は他にもあるかもしれないが、音の内に流れる感情の溢れかえり様は並ぶものなき、みたいな激烈なものがあると感ずる。一度歌いだしたら行くところまで言ってしまわねばおさまらないみたいな。
 そんなトルコ歌謡なので、この盤のような抑えた感情表現が売りみたいな世界に出会うと、何だか凄く新鮮な気がして、つい贔屓したくなってしまうのだった。

 この名はヒュメイラと読めばいいのだろうか、はじめて聴く人だが、キャリアはそれなりにありそうだ。トルコ歌謡というよりはシャンソンみたいな押さえた、そして歌謡曲的な嘆きの内に秘せられて行く感情表現の歌唱が心に残る。
 まず嘆きのバイオリンに導かれ、アコーディオンの隠し味など従えつつ、いつも雨の降っているような湿度の高い、しっとりしたサウンドと歌が始まる。そのメロディラインもイスラム色はそれほど強くなく、むしろ他の文化社会の庶民にも容易に共感を得そうな”いわゆる歌謡曲”っぽいメロディラインが歌われて行く。

 グッと感情がこみ上げ、みたいな箇所があっても、そこは極まることなく、フッと力を抜いた溜息路線の憂いの表現に歌は溶けて行く。歴史ある大都会イスタンブールに生きる大人の女の、ちょっと粋な後ろ姿を見たみたいな感じ。日本の昭和30年代に流行った都会派歌謡などを、ふと連想したりする。あるいはもっと遡って竹久夢二調か。
 髪型が最近の大貫妙子っぽいのも偶然の符合だろうが、ちょっと面白く思った。

 残念だが、このアルバムからはYou-Tubeには音が上がっていない。仕方がないので彼女の他のアルバムからの歌唱で一番このアルバムに近い印象のものを下に貼っておく。雨のイスタンブールの憂愁など、お楽しみいただきたい。



アトムの街角で

2010-11-22 00:05:36 | エレクトロニカ、テクノなど

 ”Catch/Spring Summer Autumn Winter ”by I Am Robot and Proud

 相変らずエレクトロニカやらテクノやらを右も左も分らぬまま追いかけている今日この頃なのだが。その分野での最愛のアーティストは、これはもう決まっている、以前ここで取り上げた”i am robot and proud”である。このあったかいタッチの電子音楽、これはいいなあ。

 彼の音を視覚化すると、ポンポン弾む光の玉になるんじゃないか。曇り空の下、変哲もない住宅街を屋根伝いにいくつもの光の玉が連なり、リズミカルに揺れながら弾み、飛んで行く、そんなイメージ。その光の色は、いずれ忘れ去られてしまうのだろう、懐かしい白熱電球の色をしている。

 光の後には、その地に住むなんでもない人々の喜怒哀楽を運びながら、時がゆっくりと住宅街の屋根の下を通り過ぎて行く。
 あるいは律儀に働き続けるロボットたちの姿か。何台も何台ものレトロな人間型ロボットが、チャップリン扮する労働者でも働いていそうな古色蒼然たる工場で動き回り、地味な地味な生活必需品を作り上げて行く。

 のどかで暖かくて懐かしくて、その裏にはどこか物悲しさも漂うような。そして、そんな街角に佇む、世界にかけられた謎を解く鍵の行方について想いを寄せる半ズボンの少年が一人。そいつはただ一人のユニット構成員であるショウハン・リーム、あるいはユニット名の由来となった”鉄腕アトム”の面影なのかも知れない。



怒号銀河

2010-11-20 04:11:36 | エレクトロニカ、テクノなど
 ”CLASSICS”by MODEL 500

 この年齢に来て”初心者”を楽しめる音楽に出会えて幸運だった、というべきか。今は地図も定かではない荒野をうろつきながら、とんでもない驚きに出会うアドベンチュアを満喫しているのだが。
 と言うことで、ここに来てエレクトロニカやらテクノやらという音楽にすっかり惹かれてしまい、行き当たりばったりに電子音のあれこれを聴きまくっている。まあ、いくら金があっても足りんのよ、誰か助けてくれ、というCD貧乏者の嘆きはいまさらでもないのだが。

 この盤はデトロイト・テクノの第一人者、Juan Atkinsなる人物が1985年から1990年にリリースしたシングル集とのこと。そういわれたって、「へえ、デトロイト・テクノと言うジャンルがあるのか」と右も左も分からないこちらは感心するしかないのだが、その道の開祖の偉大なる足跡と言うことになるようだ。
 テクノといってもこれまでクラフトワークに始まるドイツもの若干くらいしか聴いたことのなかった当方としては、この猥雑なかっこよさに圧倒されるばかりなのであって。ジャケのSFっぽい意匠に、果てしない夜空に孤独に響くピコピコ音など想像していたのだが、そんなものではなかった。

 夜空に屹立するファンキーなベース音が銀河の果てまでドクドクと鼓動を伝え、深夜の高速道路を行く大型トラックなみの迫力で、何隻もの宇宙船が虚空へ飛び込んで行く。おそらく彼らは、積荷を高値で売るための何らかの事情に急かされ、あのように気ぜわしくワープを重ねるのだろう。そんなクールでハードボイルドな美学が銀河のドライブを貫いているようだ。
 交錯する電子音。ネットワークに響くロボ声のアナウンスメント。リズムの乱反射に打ちのめされて。反復、そして反復のうちに、この人を炒り立てるヒリヒリするようなビート感覚と言うのは、良質なアフリカ音楽を享受する瞬間とまるで同質じゃないかと手に汗を握りつつ感じる。

 そして、ここに貼るために覗いてみたYou-Tubeで、この盤に収められた曲の別ヴァージョンにさらにカッコいい代物が存在する事を知り、おい、それを手に入れるにはどうすればいいのだと煩悩はさらに銀河を超えて行くのだった。やめられんなあ、これは。



アフリカン・サイケな夜

2010-11-19 02:24:30 | アフリカ

 ”INTRODUCTION”by WITCH

 あの”アナログ・アフリカ”のシリーズあたりを筆頭に、欧米人のアフリカにおけるマイナー盤狩り&CD化再発ブームもここに極まっている感がある。
 ネットのどこかで見たことがあるのだ、マスクやらマジックハンドやらで強力な汚れからの完全武装をした白人男が、倉庫だかゴミの山だか分からない場所を突き回している写真を。そこに無秩序に押し込められていた、年季の入ったゴミかと見えたのは、すべて薄汚れたアナログ盤だったのだが。
 記事のタイトルにはそれが、”アフリカにおける盤狩り”の風景であることが記してあった記憶がある。あんな風にして、禍々しいビートに黒光りした辺境ファンク音楽は歴史の闇から引きずり出されてくるのだろうか。

 さて、これもその一枚。アフリカの南の小国ザンビアの、こんなアフロポップス・レア盤発掘騒ぎがなければ時の流れにただ流され陽の目を見ることもなかったであろう、マイナー臭ふんぷんたる美味しい発掘物件である。
 と言ってもこの連中、アルバム冒頭に置かれたタイトルナンバーこそショーアップされたメンバー紹介など差し挟むソウル・ショーのオープニングめいた仕掛けのナンバーだが、その後に展開される世界はむしろロックバンドの姿をしているのだった。それも、60年代末によくあった、サイケの色濃いブルースロック・バンドの姿を。

 ブカブカと軽薄に鳴り渡るチープなオルガンの音がサイケ色に飾られた60年代っぽいライトショーの面影を運ぶ中、素っ頓狂なファズ(ディストーションなんてお上品なものではない)のかかったギターが寺内タケシもかくや、の露骨なペンタトニック・ケールで延々と狂おしいソロを弾きまくるのである。サイケなのである。
 そしてそんなサイケの祭りにも、どこかにマッタリとしたと言えば良いのか、悠揚迫らざるタイム感覚が横たわっているあたり、やはりアフリカであると言えようか。太陽の光を浴びながらどこまでも転がって行くサイケの魂なのである。

 それにしても凄いよなあ。次にはどんなものが、あのゴミの山かと見えた場所から発掘されてくるのだろうか。




タンゴの黒真珠

2010-11-18 02:05:12 | 南アメリカ

 ”La Perla Negra Del Tango”by Lágrima Ríos

 彼女、タンゴ界唯一の黒人歌手なんだそうです。本場・アルゼンチンではなく隣国ウルグアイの出身ですが。”タンゴの黒真珠”とも仇名され愛されているこの女性の、これは確か50代になってからのデビュー・アルバムのCD復刻であります。
 そういえば・・・タンゴ界ばかりではなく、アルゼンチンってサッカーのワールドカップを見ていても、選手にもサポーターにも黒人ってまったくいないでしょ?同じ南米のサッカー大国ブラジルなんて、まさに人種の坩堝なのに。これ、なぜか調べてみるのも面白いかもしれませんよ、とあえて答えは書かずに焦らしておきますが。

 そんな訳で、黒真珠女史の歌声。白人歌手たちの、一旦、自らを死の国に幽閉してから、遠い”現世”へのノスタルジイとして歌を歌う、みたいな屈折はない気がします。もっとスッとお日さまに向って伸びて行くみたいな素直な生命力を感じます。まあ虚数の音楽であるタンゴの場合、どっちがいいとも言いようがないんですがね。
 本当はこのアルバムの冒頭に収められている”ネグラ・マリア”って歌を下に貼りたかったんだけれど、You-Tubeには上がっていない。仕方がないから別の曲をはりますが。本当は貼りたかったなあ、”ネグラ・マリア”を。”黒いマリア”って意味になるんですかね?同じ南米に生きる黒人の少女たちに呼びかけた歌、と私は解釈しているんだけれど。




裁判所はお花畑

2010-11-17 04:28:05 | 時事
 ☆<横浜2人殺害>50代裁判員「法廷で何度も涙」 初の死刑

 今回の担当裁判官は、その職につく資格があるのだろうか?死刑判決を下したあと、被告に控訴を勧めるなど、聞いたことがない。なんというムチャクチャで無責任な話なのだろう。
 プロ野球の審判が「ストライク」のコールをした後にバッターに、「この試合は重要な試合だから判定に抗議をしておきなさい」などと勧めることが考えられるか?相撲の行司が一方の力士に軍配を上げ勝ちを呼ばわったその直後に、「この取り組みは大事な取り組みなので、物言いを付けてくださるよう、希望します」と土俵周りの審判員に懇願する、などと言うことがありうるのか。

 ところがそれが当然ありうると、出来ればそうして欲しいと、この裁判官は言っているのだ。考えられない。
 自分の判決に自信がもてないなら判決を下すな。いやそれ以前に、彼は裁判官を辞するべきだろう。

 そしてそれに似合いの理不尽を晒す裁判員たち。「被告は泣いているように見えました。そして私も泣きました」と、彼ら彼女らは感情のみで出来上がったベタベタのコメントを晒す。泣けばいいのか。泣けばどんな罪も許され、どんな矛盾もまかり通るのか。
 この裁判員の生きている世界では憲法の条文よりも社会正義よりも、いや人一人の命よりも、「泣いていること」が重要な事項とされている。殺人犯であること、その犯人に家族を殺された家族たちの嘆き、怒り、そして殺されたその人の無念さ。そのすべてが、際限もなく垂れ流される涙の中でグズグズと溶け崩れ、意味を失ってしまう。

 そんな曖昧さの中にあらかじめ滑り込まれている”死刑廃止”に向けての狡猾な意識操作。我々が依って立つべき重要な樹木が今、過度の感情偏重によって薄汚れた涙の湿度の中で立ち腐れようとしている。

 しかし裁判官と言う種族、法律に関する文言や下された判例などを暗記することだけに長けた、知能のほどは3歳児程度の人々、と考えるより仕方なくなってくるのだが。
 殺人事件の実行犯と被害者の家族とが被害者の命日に仲良くピクニックに出かけ、お花畑の中で微笑みあい一日幸せに暮らす、などという風景を実現可能な夢として自分は持っていると事もあろうに法廷で語り、被害者の家族に猛反発を食らった、あの人物も死刑廃止論者の裁判官であったと記憶している。

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<横浜2人殺害>50代裁判員「法廷で何度も涙」 初の死刑
(毎日新聞 - 11月16日 13:03)

 裁判員6人のうち、50代男性1人が判決後の午前11時55分から横浜地裁で記者会見に応じ「すごく悩みました。法廷で何回も涙を流してしまった。今でも思い出すと涙が出る。それで察してください」と述べ、生死を分かつ判断の重みに苦悩した日々を振り返った。
 法廷で目にした池田被告の態度について「初公判では『おれは悪いことしたんだ、殺せ』と言っているように見えた。だが、遺族の意見陳述を聞いているのを見た時、目が赤くなっているのが見えた。それを見て自分たちも泣いてしまった」と言葉を絞り出すように話した。
 それでも「被告を見るのではなく、法律にのっとって刑を考えることを心がけた」と話す。「法廷の中の被告だけを見ていると、泣いてしまって審理ができなくなる」という。池田被告へ最後に声をかけるとしたら、との問いには「裁判長が最後におっしゃった通り『控訴してください』と言いたい」と話した。
 死刑判決にかかわったことについては「毎日すごく大変で、気が重かった。だが素人が裁判員になることに意義はあると思う。私としては良い経験になった」とはっきり述べた。【伊藤直孝】

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萌えよ信仰の光

2010-11-15 00:31:49 | アジア
 ”Melangkah Bersama-Mu”by Adelia Lukmana

 あれ、このアルバムをとっくに紹介したつもりでいたけど、まだだったんだな。何をやっているのかね、もう次のアルバムが出ちゃったじゃないか。
 ということで、アタフタととりいだしましたるは、毎度すみません、インドネシアのクリスチャンたちが愛聴している賛美歌系ポップス(?)のロハニ、その歌い手の中でも最高の萌え度を誇るアデリア・ルクマナちゃんの、2008年度盤であります。最新作のほうはクリスマスの時期でも選んで触れようと思いますんで。

 とかあれこれ言ってるけど、アデリアちゃんに関して日本語で書かれた文章を検索にかけて探すと私の書いた文章しか引っかかってこない。この音楽に入れ込んでいる日本人て、ほんとに私一人かもしれないぞ?なんか気恥ずかしい気もするが、えーい負けるものか、我がアイドル愛好癖にかけても。

 と言うわけで。イエス・キリストの尊い教えやその慈愛に関するありがたい物語を美しいメロディに乗せて歌っているロハニ音楽でありますが、その歌い手の中でも可愛い度で言うならぶっちぎりで1位なのが、このアデリアちゃんでありましょう。その可憐なルックスといい、たどたどしい儚げな歌い口といい、万国共通のアイドル歌手の要件をかなり高いレベルで満たしていると思うのですが、いかがなものでしょう?

 実際、事情を知らされなければこのCD、普通のアイドルのアルバムとしか思えないはずだ。内ジャケにはアデリアちゃんの愛らしいスナップ写真がいくつも載っているし、これが宗教ポップスなんて辛気くさいものだなんて誰も思わないよね。
 サウンドも今日風に洗練され、曲調はやや穏やかなものが続くけど、それはアデリアちゃんの個性に合わせてうららかなタッチに仕上げたのだと、誰もが納得するはずだ。ときおり歌詞に混じる「ヘイスス、クリンドゥ」なんて部分に気が付かない限りは。

 いや実際、主イエス礼賛はタテマエで、ほんとにアデリアちゃんはアイドルとしてインドネシアのクリスチャン社会の中で機能しちゃっているんじゃないですかね?そんな気がしてならないんだけど。いや、彼女に限らず、ロハニの人気には”表向きの信仰のための音楽=本音としての娯楽音楽”って二重構造が隠されているんじゃなんだろうか?

 なんて仮説をぶち上げてみたんだけど、あんまり興味のある人もいなさそうなのが無念であります。
 で。ほんとにさ、歌声といい内ジャケの写真といい、可愛過ぎだよね反則だよね、アデリアちゃんは。これで宗教ポップスだなんて言われてもさ。




カルパチア盆地征服千周年記念

2010-11-14 04:19:00 | ヨーロッパ

 ”VILAGFA”by LOVASZ IREN / HORTOBAGYI LASZLO

 ハンガリーを代表する女性民謡歌手の新作。「カルパチア盆地征服千周年記念盤」という趣旨が凄い。
 カルパチア盆地というのはバルカンの根っこに広がる広野。9世紀の終わり頃、マジャール人たちがそのあたりに侵入、征服してハンガリーを建国した。その千周年記念の催しがハンガリー国立博物館で行なわれ、そのために吹き込まれたのが、このアルバムというわけだ。会場でBGM的に流されたのか、あるいは記念コンサートのタグイでも行なわれたのだろうか。

 ハンガリーの民族楽器や電子楽器のタグイをバックにして、あるいは無伴奏で、LOVASZ 女史は女史は、そんな建国の頃を初めとして、歴史の折々に歌われてきた古い民謡を生き生きと歌い上げる。これまで聴いた彼女の歌の中で、これがベストと言いたくなるほど気持ちの良い歌を聴かせてくれている。
 いかにもバルカンの地らしく、東方の色彩の感じられる曲、西欧の風の吹く曲。その歌唱によって彼女の想いがメロディに乗り過去の出来事をカラフルに照らし出すみたいに感じられて。

 そいつはさながら生きたハンガリーの庶民史の風情。また素敵なアルバムを作ってくれたなあ、トベタな感想でも言っておこうか。
 (このアルバムの音は、残念ながらまだYou-tubeには上がっていないようだ。しょうがないから LOVASZ IREN女史の歌を適当に見繕って貼っておきます)



タランテッラの夜

2010-11-13 01:09:30 | ヨーロッパ

 ”Taranta Power”by Eugenio Bennato

 NCCPやムジカノヴァといった南イタリアの民謡復興グループの結成にもかかわり、その分野での大物としての貫禄をつけている Eugenio Bennatoである。これは、その彼が近年入れ込んでいるタランタパワーなるプロジェクトの音楽を収めたアルバム。
 そもそもタランタパワーとはなんじゃいな?と言うことになるが、 Eugenio が長年身を置いてきた南イタリア民謡の現場で伝統的に踊られているタランテッラなる舞踊、この地中海を越えて北アフリカまでも版図を広げている狂騒的ダンスをさらに世界に広めようという趣向のようだ。何かこの事に思想的意義付けでもあるような気もするのだが、いや、気がするだけで、そう推察する確たる根拠はない。

 演者が「全世界にタランタパワーを!」と入れ込むだけあり、南イタリアの民謡を聴き慣れた者にはお馴染みの、あの焼け付くようなリズムがさらに現代化されてソリッドに切り込む、相当に血が騒ぐ出来上がりとなっている。土ほこりと血の匂いと焼け付く南国の日差しと。
 打ち鳴らされる南イタリア独特の巨大タンバリンとバックの女性コーラスが煽り立て、ややイスラムの香り漂う官能的メロディがうねりながら地を這う。

 首謀者の Eugenio だが、その深い知性を感じさせるボーカルは彼の誠実な性格を良く伝えはするのだが、パワーや狂気と言ったものとは縁がなく、この辺、誠実なインテリの限界などチラッと感じさせるところ。何しろ演じようとしているのが狂騒的民族ダンス音楽なんだから。やや物足りなさを感じてしまうのは致し方ないところだろう。
 後ろに控えるアフリカ人を含む女性コーラス隊などがメインボーカルに廻るとバンド全体の孕む熱がグンと上がるのだから、歌のほうは彼女らに任せてしまい、御大はバンド全体を締める役割に徹したらと思うのだが、 Eugenio ご本人は「俺が歌えないなら何のためのバンドだ」くらいに思い込んでいるのやも知れないのよなあ。

 と言うわけで、今夜も地中海は妖しいステップに揺籃され、良い具合に煮あがって行く・・・



ドナウ河のWe Shall Over Come

2010-11-12 02:13:46 | ヨーロッパ

 ”Jelbeszed”by Koncz Zsuzsa

 コンツ・ジュジャ。長い間、ハンガリーのフォーク・シーンをリードしてきた女性歌手である。
 どのくらい長い間と言っても、若い頃の映像では白黒画面の中でフィフティーズっぽくアップにした髪形で”ケセラセラ”なんて曲をハンガリー語でカバーしているんだから、年齢なんか考えるのも畏れ多い。しかもいまだに彼女、現役で活躍しているらしいんだからね。その芸歴、半世紀を越えるんではあるまいか。

 彼女の場合、フォークと言っても我が国にも若干の愛好家がいる、いわゆる民謡系、トラッド系のそれではなく、西欧風な”いわゆるフォークソング”を歌って来た人。”ハンガリーのジョーン・バエズ”なんて呼ばれかたもしたようで、若干、政治的アピールのある人のようだ。
 手元にあるベストアルバム的CDを聴いて行くと、伸びのある美声を生かした”いわゆるフォークソング”から、カントリーロック調やら60’アメリカ西海岸っぽいサイケ調など顔を出し、もちろんハンガリー語で歌われているんで、なかなかに不思議な楽しさもある。

 ご存知、”ハンガリー動乱”の際、ソ連軍の戦車により芽生えかけた自由を圧殺されたハンガリーの人々が、もう一度、注意深く自由への道を一歩一歩辿って行った、彼女はその足音に寄り添うように歌い続けて来た人、と考えればいいのではないかと思う。いくつかのライブ映像における、観衆の彼女に対する支持の寄せ方など、いかにもそんな感じなのだ。
 いや、分かりませんよ、彼女に関する資料も何も手元にはないんだから。私の勝手な空想。毎度こんな事を言っていて申し訳ないが。

 でも彼女、若い頃はかなりの美少女ぶりで、結構楽しげにアイドル歌手をルンルンやっていたように見える。それが年齢とともにある種の翳りと思慮深さがその表情に加わって行き、そして半世紀の時が流れた。
 凛とした歳月の重みを漂わせて今もマイクに向う彼女への人々の拍手が、いつしか彼女の活動に寄せる深い信頼の表明みたいなものに変わっている、そんな様子を見て行くと、あんまりただ事ではない人生など想起せずにはいられないのですけどね。