goo blog サービス終了のお知らせ 

ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

チムサァチョイの十字架

2011-02-10 02:17:57 | アジア
 ”New Bigining”by Jade Kwan

 いけね、これ、去年のクリスマスに取り上げるつもりのCDだったんだが忘れてしまったと頭をかきつつ、まったく時期外れの今頃、引っ張り出した次第である。

 クリスチャンの中国国民、なおかつ根っからの香港っ子という自らの足元にあるものをじっと見据えつつ、聖夜、喧騒の香港の通りに降り注ぐ神の祝福の美しさを清冽な余情を込めて歌ったアルバム、”Shine”を発表し、私のような俗人をもシンとした気分にさせてくれたジェイド・クヮンである。あれはきれいな音楽だったよなあ。
 昨年の年末にも彼女は、このアルバム”New Bigining”を世に問い、クリスマス気分を盛り上げてくれるはずだったのに、何に気を取られていたのか忘れたが私は、せっかく買い込んでいたこのアルバムを聴きもせずに歳を越してしまった。
 それでもまあしょうがない、今日あたりを”旧”のクリスマスってことにしようよ、などと言いつつ、どんどん聴いてしまう。

 今回もまた”聖夜”からみのアルバムであることは、中ジャケに載せられた写真が雪まみれであることからも明らかだ。深夜、雪明りの荒野に一人、アップライト・ピアノだけをお供にジェイド・クヮンは立っている。
 しかし、前作よりも彼女の歌が線が細く、思いつめた表情になってしまったのが気がかりではある。前作では彼女は暖かい部屋のソファに座ってさまざまな思い出にふけりながら聖夜を祝っていたはずなんだが、今回の彼女はキリストの舐めた苦しみを我が身にも、とでも言うように裸足で雪の降り積む荒野に立っている。そりゃ、そこがスタジオであり彼女に降りかかっているのが発泡スチロールや白色のスプレーによる積雪ではあるにせよ。

 音楽も同じノリであり、先のアルバムで微笑みながら祝福を与えていた周囲人々への思いが、今回は、「どうかこの人たちに幸せを」と、イエス・キリストにすがりつかんばかりの勢いである。
 収められた各曲のメロディラインも、いつものように美しいスロー・バラード中心のものなのであるが、今回は心を絞り上げるような痛切な想いの吐露の趣きが濃く、ある種、痛々しさを伴う感もある。
 いや、それは私の勘ぐり過ぎで、彼女の表現の個性がそのようなものである、だけのことかも知れないんだけど。
 その一方で、それはジェイド・クヮンという感受性の強い娘の意識を通って表に出て来た時代の貌、なんて気もしているんだけどね。




オ・ジウンに淫して

2011-02-08 01:48:57 | フリーフォーク女子部
 ”1st”by 오지은 (OH JI EUN )

 なんか自分でもよく理由が分からないけど偏愛してしまう歌手というのがいて、たとえばこの韓国のシンガー・ソングライター、オ・ジウンなんかもその一人だ。ネットで彼女の写真を見て、いかん、これはすぐにこの子の歌を聴かねばいかんとYou-tubeに飛びつき、歌を聴いて、慌ててCDを取り寄せた。
 別に凄い美人ってわけでもなく、歌だってそれほどとっつきやすいものばかりでもないのに、そもそもアイドル歌手なんかとは真逆のスタンスにいる子なのに、もう恋してしまったノリで彼女にのめりこんだ(その時点でまだ、彼女のCDはウチに着いていない)なにをやっているのかなあ、オレは。

 彼女のキャリアなど知ってみると、「同種同士、引き合うもんがあったのかなあ」などと思ったりもした。
 子供の頃から相当の洋楽ファンだったようだが、高校2年のとき釜山に転校し、そのおかげで見ることが出来るようになった日本のMTVに夢中になる。大学に入ったものの気ままな生活が改まらず、即除籍。その後、日本語の習得のために札幌あたりにいたようだが、何をしていたのやら。その遊学のために親に借りた金を返すために通訳などの仕事に従事、やっと返し終わった時にはもう22歳になっていた。翌年、大学に復学。その年、自主制作盤を出すつもりでいたが、そのための資金は友達とヨーロッパ旅行に行って使ってしまう。
 などなど、もう堂々の行き当たりばったりぶり。なおかつその芯に、何かに夢中になってしまうとあとさき見えなくなる”業”みたいなものがある。他人と思えないんだよなあ。

 そんなこんなで彼女が念願の自主制作盤を出せたのは26歳になってからだったのだが、それまでのクラブ出演やら音楽コンテスト応募などで徐々にオ・ジウンの音楽への注目がなされ始め、ついに自主制作盤がメジャーから発売されることとなる。それが今回取り上げたこの盤なのであるが。
 以上、さまざまな理由で遅いデビューとなったが、オ・ジウン自身はそんな事は気にせずにマイペースで自分の音楽を追求しているようだ。最近、自身のバンドを結成してアルバムを製作、とも聞いている。

 その後はまた別の展開があるのだが、メジャーでは2008年の発売となった、オ・ジウンのデビュー作であるこのアルバムでは、まだ素朴なシンガー・ソングライター色が強い。幻想的な、たゆたうようなメロディ・ラインで気ままに心象風景を歌いつずって行く様子は、初期のジョニ・ミッチェルの系列の、と言いたいところだが、ぶっといオ・ジウンの歌質ゆえ、そうは聞こえないかもしれない。また、さすが日本ポップスのマニアだっただけあり、というべきか、突然一曲だけ矢野顕子っぽく飛び跳ねるナンバーなどがあり、苦笑させられる。ちなみにアルバム全曲、オ・ジウンの作詞作曲。

 ともかく今どき流行らないディープな低音の歌声、ギターの弾き語りやピアノのみバックというモノクロームなサウンドで地味に迫るが、気がつくと彼女の体温をすぐ身近かに感じてしまうような独特の存在感は、すでにその内に宿っている。うん、妙に心に残るんだよ、彼女の歌は。で、気になって気になって、もう一度聴きなおしたくなってしまうのさ。




モロッコの一夜

2011-02-07 01:19:52 | イスラム世界
 ”La Plus Grande Soiree Marocaine ”by YOUMNI RABHI & ORCHESTRE CHEMSSY

 モロッコの民族ダンス音楽界の人気者。現地の人々には非常に大切なイベントである結婚式のパーティーには引っ張りだことか。

 機械の打ち込みのリズムと民族打楽器の生打ちの音と手拍子がひとかたまりになって押し寄せてくる。安物のCDラジカセで聞いていた当方、この楽器三種の聴き分けが出来なかったりする。
 前に突っ込み気味の高速ハチロクのリズムがヒョコヒョコと揺れながら北アフリカの茶色の大地を疾走する。それに乗せて交わされる、シワガレ声の男たちによるコール&レスポンス。シンプルなメロディのやり取り怒鳴りあいのうちに、次第にトランス状態に入って行く、もやはモロッコ名物といいたい呪術的サウンドが爆走する。聴き手のこちらもすでに、血の騒ぎを押さえられない。

 鄙びた響きの撥弦楽器が砂漠の砂嵐のイメージを運び、安物のシンセがピロピロと妙に哀切な調べを奏でながら、リズムの奔流を渡って行く。
 彼等がこれまで評判を取ってきた曲17曲が収められているとのことだが、曲の切れ目はないノン・ストップ状態の構成になっている。どれもハチロクのアップテンポで、曲と言っても似たようなイスラミックなコブシ声の交し合いだから、一曲一曲の区別はなかなか付かない。実質的には”全1曲”なのである。

 気が付けば2曲目が3曲目が4曲目が始まっている。時々唐突にリズム処理が変わる瞬間があり、そこが曲の変わり目かとも思うのだが、音楽の非常に高揚した瞬間にそれが訪れることもあり、編集点としてはまことにふさわしくなく、むしろ盛り上げるためにそのようなアレンジになっているのかも知れない。
 とはいえ、そんなほんの”中途のインフォメーション”レベルの仕掛け以外、特にサウンドの構成上の工夫というものはあまりみられず、基本的には一本調子の豪腕による突撃のみのようである。韓国のポンチャクあたりに通ずる”美は単調にあり”の法則はここにも生きている。

 ボーカル陣はいつしか、ほんの短い吠え声の応酬となっている。打楽器間のリズムのやり取りもきわめて熱を帯び、おお、これは凄まじいことになってきたなと期待したところで、「毎度ありがとうございます。これで終わります」という冷静過ぎるコメント(そう言っているのかどうかは知らんよ。ニュアンス的にはそう聴こえるというだけの話)をもってCDは演奏終了。そのミもフタもなさに吹き出しつつ、なぜか故・三波春夫先生の「お客様は神様です」なんてセリフを思い出していた。

 そしてプレイヤーからCDを取り出すと遠い砂漠の冒険行の幻は消え去り、私はやっぱり憂鬱な日曜日の終わりを、一人居間でもてあましているのだった。






合わせ鏡の欺瞞の夜

2011-02-06 02:05:20 | イスラム世界

 ”Mounqaliba”by Natacha Atlas

 昨年、ナターシャ・アトラスのこの最新作を聴いて、「しまった、あのまま聴き続けていれば良かったなあ」などと臍を噛む思いだったのだ、実は。
 初期の彼女のアルバムは、いかにもクラブ仕様みたいなクールなリズムトラックに乗って凍りついたアラビック、みたいなナターシャのボーカルが闇に響くって感じのお洒落なものだった。そいつがある種ワールドミュージックを一歩引いた場から覚めた目で見ている者の批判的な視線に感じられて、彼女のアルバムを聴くたびに、ワールドミュージックに熱くなっている頭をクールダウン、そんな気分になっていた。

 このアルバムだって、生楽器アンサンブルのバックで地味にアラブの古い曲とか歌っているから”アラブの伝統への回帰”とか解釈する人がいるけど、そういうことじゃないでしょ?それは見せかけだけのこと。もともとがアラブとヨーロッパにまたがった血と教養を持った彼女、素直に”回帰”なんてする場所はないんだよ、どこにも。どちらに身を置いてもはみ出してしまうところが出て来てしまうであろうこと、想像に難くない。いなかったところには帰れませんて。

 ピアノが演奏の中央に位置しているけど、これ、演奏のスタイルは完全にジャズピアノじゃないか。で、アレンジもアラブっぽい素材を、”その辺に理解のあるジャズマン”がそれらしくまとめたものの響きがする。
 ストリングスなんかも、あのアラブ音楽の妖しげに揺れ動くユニゾンの香気よりは西欧っぽくバランスの取れた”アンサンブル”を感じさせるものだ。で、ピアノやウッドベースが長い”ジャズィな”ソロを取る場面も中盤にある、と。
 アラブの音楽素材も使われる伝統楽器も、「借り物の表看板」扱いであり、サウンドの全体は白人ジャズマン的統制の元に、”アラブ音楽の分析と新構築”が行なわれている。

 そんなサウンドをバックに憂いを秘めコブシを利かせてアラブの古い歌を歌うナターシャ・アトラス。でも、なんかどこかに、”異国の音楽を相手に、器用に役をこなすジャズシンガー”の面影がないかな?
 このアルバム自体がそのような虚構を楽しむ趣向になってはいないか?ニック・ドレイクとかフランソワーズ・アルディなんて妙な取り合わせのカバー曲の組み合わせも、迷宮を更なる混乱に陥れる罠じゃないのか。うがち過ぎですか?

 それにしても彼女をそのまま聴き続けなかったのは、なぜなんだろうなあ?これから”中途より後追い”でアルバム集めるのもきついぜ、うん。




誰も言わない、そんなこと

2011-02-05 21:29:34 | 時事
出ました!”スゴレン”名物、「女性記者が妄想ででっち上げたアンケート結果を、”これが男性のものの見方と考え方”と称して発表する釣り記事」のコーナー!記事の署名が男名前なのも嘘くせ~。これ、どう考えても女性記者が書いた文章でしょう。
 こんなこと言う男はまあ、いないよ。この俺だって、女におごった後は、その事に一言も触れずに店を出る。
 本当にここにかかれているような結果が出たとしたら、相当に特殊な男たちの集団を相手に調査したんだろうし、そんな調査結果にどれほどの意味があるだろう。
 まあこのシリーズの記事は、”女性は男性の内面に関して、どのような幻想を抱いているか”を知るための資料として、あくまでも参考のために読むにとどめておいたほうが無難でしょうな。

 ~~~~~

 ☆食事をご馳走した直後に、女性をキュンとさせる一言9パターン
                  (スゴレン - 02月04日 07:14)

 デートで食事をご馳走するなら、女性からカッコイイ男だと思ってもらいたいものです。会計直後にどんな一言を発するかで、獲得できる好感度に差が出るといえるでしょう。そこで今回は、「オトメスゴレン」の女性読者に行ったアンケートの結果を参考にして、「食事をご馳走した直後に、女性をキュンとさせる一言9パターン」をご紹介いたします。

【1】「○○さんは特別だからね」
【2】「男として当然だよ」
【3】「雰囲気もいいし、おいしかったね」
【4】「今日一日付き合ってくれたお礼だから、気にしないで」
【5】「君の笑顔をご馳走になったお礼だよ」
【6】「この間、臨時ボーナスが出たからさ!」
【7】「次はお寿司でも食べに行こうよ!?」
【8】「俺の手料理はこの店よりもおいしいから、今度食べにきな」
【9】「大した金額じゃないから、気にしないで」

 食事を奢った後、他にはどんな一言が女性から「カッコイイ!」と思われるでしょうか? 皆さんのご意見をお待ちしております。(浅原 聡)

 ~~~~~

海熊の遠き呼び声

2011-02-04 01:56:55 | ヨーロッパ

 ”The Ghost That Carried Us Away”by Seabear

 まだまだ寒いですね~。という事で、またもヤケクソでアイスランドの音楽です。こちらも2ndアルバムを発表したばかりの新人バンド。とはいえ、私はまだ今回取り上げる2006年のデビュー盤しか聴いていませんが。

 それにしても、この妙なバンド名はどういう意味だろうな、何かこの言い回しによる深遠な意味でもあるんだろうか?と思ったけれど、ジャケ裏には表ジャケの児童画みたいなタッチの絵の延長で、川で魚を取る熊が描いてある。これは”海熊”でいいんだろうか?
 サウンドは、あくまでも淡い感じの田園調フォークロック。バンドの中心人物、Sindri Mar Sigfussonがまるで無防備にかき鳴らす生ギターに率いられ、ドラムスとバイオリンが、そしてトコトコとのどかに響くバンジョーやトイピアノが、寄り添うように音を重ねて行く。

 Sindri のボーカルはあくまで淡く決して激することはない。自身の紡いだちょっぴり切なく内省的なメロディを、独り言を呟くみたいに物語る。
 田園調、と言ったけど、私はあのキンクスの田園調ロックの傑作盤、”ヴィレッジ・グリーン”なんかを思い出してしまった。歌詞のほうは分析できるほど聞き取れてもいないんだけど、裏ジャケに下手くそな手書き文字で書かれた、”おはよう、カカシさん””猫のピアノ””フクロウワルツ”なんて曲名から、こいつもレイ・デイビスばりに相当ひねくれていると読んだが、どうなのかな?このアルバム・タイトルだって決してまともじゃないものね。

 などといろいろ空想を広げつつ、新録音なんだけどどこか過ぎた時間から響いてくるみたいな、時代の流れから一回降りてみた感じのノリで鳴り渡る彼らの音楽に身を任せていたら、”遠くから呼びかけてくる淡い哀しみ”なんてアダ名をSeaBearのサウンドにつけてしまっていた。この夜風の向こうの、シベリア気団さえ飛び越えた先の小島、アイスランドから。



拝啓・NTT東日本様

2011-02-02 23:30:21 | 音楽論など
 現在オンエアされておりますNTT東日本のテレビコマーシャル、「二人の365日・冬」編(新垣裕衣と中村蒼が出演)に、始まってから20秒過ぎあたりで、かなり大きな電話の呼び出し音が挿入されます。

 あの音が、心臓を患って入院もしたことのある私の母には相当な衝撃のようで、「あのCMを見るたび、胸が苦しくなる」と申しております。

 CMは予告無しに万人が見てしまう可能性のあるものです。挿入される呼び出し音の音量や音質に工夫をする等、体にハンディキャップを持つ者を苦しめないような配慮はしていただけないものでしょうか。非常に腹立たしく思います。




ザンビア・ロックがまた輝けば

2011-01-31 03:02:13 | アフリカ

 ”DARK SUNRISE”by RIKKI ILILONGA & MUSI-O-TUNYA

 1970年代、西アフリカのザンビアに独特のロック・ミュージックが興隆し、その名をザンロックと呼ぶ。何てことも、つい最近知ったわけだが。これまでもザンビア方面のアフロロック再発盤について書いてみたりもしたし、何かありそうだなとは思っていたのだが。この盤に出会い、何かありそうどころではない事実が見えてきた次第であります。

 70年代、アンゴラやモザンビークといった周囲の国々が独立を巡っての騒乱状態となり、自国ザンビアもまた主要な輸出品だった銅の価格暴落を受けて経済状態はかばかしくない事となる、という悪条件下でザンビアのロックは高揚の時期を迎えたのだった。
 だが人々は音楽どころではない。それにレコード一枚出すのだってレコードの原材料調達のレベルからもう困難であるのだから、どうにもならない。さらに、混乱に輪をかけたのがエイズの流行である。
 もうロックどころではない、ということで失意のまま国を脱出しヨーロッパに居を移すミュージシャンもあり、ついに70年代のザンロックは、存分に暴れるチャンスさえ与えられぬまま、爆発の予感を漂わせただけで消滅せねばならなかった。

 ここにある2枚組のCDは、当時、ザンビアのロックの最先端を走っていたリッキー・イリロンガと彼のバンドの、ほとんど幻といっていい録音集の再発である。不運だったザンロックの遺産に今、はじめて光が当たるというわけだ。
 いや、これがカッコいいんで、ちょっと驚いてしまったのですね。ともかく終止鳴り続けるジミ・ヘン風ギターがサイケの嵐を巻き起こし、演奏される曲のことごとくが70年代っぽい熱さを秘めたロック魂をゴリゴリと感じさせるものなんだから。
 さすがにアフリカということで、ファンクっぽさというのかアフロビートっぽい響きを持つ曲もあるんだけれど、ミュージシャンの軸足はあくまでロックにある。これが嬉しい。なんかワールド・ミュージックに耽溺して忘れかけていたロックへの想いが蘇ってくるみたいな気分である。

 アフリカ風サイケ・ロック炸裂の一枚目も素晴らしいのだが、フォークロック3連発で幕を開ける2枚目がたまらない。おいおい、”ストップ・ドリーミング・ミスターD”の”D”は、ディランのことなのかい?・・・という具合で、あの頃”のロックファンの琴線に触れっぱなしのラインナップ、ともかく泣かせてくれるのだ。
 やがてエルモア・ジェイムス調のスライドギターが登場し、シカゴ風ブルース・ハープと絡み合うブルース・ナンバーにやられ、裏声をうまく使って、まさかと思ったプログレ気分を演出してみせる曲にいたっては、よくやってくれるわと呆れるよりない。イリロンガはじめバンドのメンバーは、どれだけの音楽ファンだったんだろう!そしてもし彼らに当時、十全な活躍の機会が与えられたら、どんなバンドになっていたことだろう?

 という訳で、前2枚聴き終えた当方は連中の熱が伝染したみたいで、ガスリーじゃないが、「ギターを取って弦を張れ」なんて気分になっていたのだった。

 下は、昨年行なわれたイリロンガの復活ライブの模様。ともかくこの人のギターのジミヘン振りには泣けます。



アイスランド遠野郷便り

2011-01-30 00:56:58 | ヨーロッパ

 ”Pod kolnar i kvold....”by Rokkurro

 相変らずクソ寒い日々が続いておりますんで、ヤケついでにまたもアイスランド音楽を。 かの氷の国で私の一番好きなバンドです。といっても、昨年の秋に2ndアルバムが出たばかりの、まだ若いバンドなんですが。
 チェロの弾き語りをする女の子を中心にした5人編成のロックバンド。ロックとは言っても思慮深い音つくりの連中で、チェロのソロにアコーディオンやグロッケンシュピールなどの地味な楽器を隠し味的に絡ませて行く手管なんか洒落たものであります。

 決定的に情報不足なんで(そもそもアイスランド語の解説が読めない)良く分かりませんが、子供の頃に暖炉のそばでお婆さんが聞かせてくれたお伽噺の音楽化とか、そんなコンセプトを持ってやっている連中なんでしょうか。そんな手触りがある音です。昔懐かしい暖かさがあって夕暮れ時の哀感があって、そして子供たちの大好きな楽しいお伽噺がその裏に実は持っている、底知れない薄気味悪さの気配などまで、彼らの歌からは伝わってくる。その辺に惹かれます。

 なんといっても、チェロの女の子の優美な歌声がたまりませんね。結構ややこしいメロディも多いと思うんだが、しっとりと落ち着いた調子で、アイスランド昔語りの薄暮の幻想をそっと歌い聴かせてくれる。
 そして、極北の音楽特有の暖かさ。それは戸外の温度が冗談ではすまないくらいに降下している状況で、身を寄せ合った人々の間にこそ生まれるものなのでしょう。

 なんか、この音楽には元ネタがあるのかなあ?彼らには、いつもは伝承曲を演奏している英国諸島圏あたりのトラッドバンドなんかが自作曲に取り組んだ時のサウンドを連想させるものがあり、このRokkurroもまた、音作りの基礎に伝承曲があるのかも?などと空想しているのだけれど。
 ・・・などと、出合ったばかりのバンドを相手にいろいろ空想を広げている時が一番楽しかったりするんですな。



ムーミンの闇

2011-01-29 03:23:31 | ヨーロッパ

 この間、”ムーミンのオリジナル・メロディ集”とでも呼ぶべきアルバムに触れてみたんだけど、そういえばムーミンの話って、まともに読んだ事がなかったなあと気が付いた。そこでふと気まぐれを起こし、書店でムーミンの本を2冊ほど適当に引っ張り出して買ってみた。まあ、もともと北欧の文化には興味があるし、この辺も読んでおかなけりゃと思っていたんで、ちょうどいいきっかけでもあったのだった。
 で、その二冊を読んでみたらどちらにも、「これはいつものゆかいで楽しいムーミン村の話とは様子が違っているので戸惑われた方も多いかと思います」みたいな解説が付いていたんで、自分の超能力に驚いた次第。よりによってムーミン・シリーズの中の例外的な二冊を何も予備知識なしに買ってしまうなんてなあ。

 どう例外的と言えば、どちらも暗いのだった。
 まず一冊、「小さなトロールたちと大きな洪水」、これがムーミンシリーズの実質的第一作のようだが、大洪水に襲われ、何もかもが姿を変えてしまった世界をムーミンが母親と二人で、水に流されていなくなってしまったお父さんを探し彷徨う話。
 これはほんの短い話で、まともに本にさえしてもらえなかったそうだ、まだ無名の新進作家だったトーベ・ヤンソンは。
 次に長編としての第一作となるのが「ムーミン谷の彗星」であって。これは彗星が地球にぶつかるという終末テーマのSFものであり、これは明るくなりようがない。作者も苦戦したようで、初版にいろいろエピソードを加え、明るく躍動的な話にもって行こうとしたようだ。が、地球に彗星がぶつかる”終末もの”なんだからどうにもならん。訳者も前向きの解釈を解説で述べているのだが、そいつもやっぱり苦しい言い訳ぽかったりする。そうそう、コミックスは小説とは別のストーリーになっているとか。

 で、先に述べた「大きな洪水」は、その後日談と取る事も出来るんだが、”大破壊”に襲われた廃墟の地球をさまようムーミンとママが描かれている。最後に二人はパパと出会え、ハッピーエンドのように終わるんだけど、それは無理やり作ったエンディングで、むしろ流れとしては不自然。
 現実に、物語の流れの中では、パパは死んでいる。筋運びの中に、死の雰囲気が濃厚に流れている。二人のもとに偶然に流れ着く、ビンの中に入ったパパの”遺書”などど真ん中で、ともかくそんな雰囲気しかしないんだから、いくらめでたしめでたしと言って終わろうと、どうにもならない。

 訳者の解説によれば、これは作品執筆当時、ソ連との戦争に破れ疲弊した故国フィンランド社会を悼んだヤンソンの思いが反映しているのではないか、とのこと。
 そうかもしれない。そんな具合に心の奥にたまった澱を吐き出さねば、その後のムーミン谷の明るく楽しいファンタジィを紡ぐことは不可能だったのだろう。
 でも、なにもねえ、そんな無理しなくても。この辺の作品は没にして、その後に書くことになる”明るく楽しいムーミン物語”だけ発表しておけばよかったじゃないか。とも思うんだが、ヤンソンにしてみれば、イメージ違いの初期ムーミン話でも世に出しておかねば、作家としての人生に落とし前が付かなかったんだろうねえ。因果な話だなあ。

 へえ、こんな重苦しいエピソードに出会うとは思わなかった。無心にムーミンを読む子供たちはこれらの部分をどう納得して読んでいるんだろうな、などと。まあ、私が心配しても仕方がないことだけどね。
 上の画像は映画、”冬戦争”のポスター。下に貼ったのは、北欧先住民サーミの歌手、Mari Boine の歌です。私はムーミン一族に、このサーミの人々の面影が宿っているような気がしてます。