●13:00 タワーレコード前
馬部はタワーレコードビルの前に立っていた。
「喫茶店……喫茶店……」
辺りを捜すが、それらしい建物がない。
馬部は、道の端で馬部に背中を向けて立っていた浮浪者に声を掛けてみた。
「あの。すいません」
「…………ふぁい。なんでひょう」
まだ若そうな男だが、馬部に背中を向けたまま、モゴモゴした声で返事をした。
「この辺に喫茶店はありませんか?」
「ひりまへん」
聞き取れいにくい返事だが、どうやら「知りません」と言っているらしい。
「そうですか。すみません」
そそくさと立ち去る浮浪者を尻目に、馬部はキョロキョロと辺りを見回した。
「あいたッ!」
すると、馬部の頭に何か固いものがぶつかった。
「何だ……?」
それは、どこからともなく飛んできたゴルフボールだった。
そのゴルフボールは馬部の頭にぶつかった後も点々と歩道の上でバウンドを続けていた。
「あっ」
やがてそれは車道に飛び出し、通りかかった一台のトラックの窓に飛び込んだ。
「バカヤロー!」
制御を失ってふらふら走るトラック。
トラックの周りの車は急ブレーキを掛け、幾つものクラクションが辺りに響いた。
しかしやがてトラックは制御を取り戻し、普通に走り出した。
「よかった……あっ!」
そのとき馬部はトラックの向こうにある特徴的な形のビルの一階に喫茶店があることに気付いた。
「あった! 怪我の功名ッ!」
馬部は喫茶店に向かって走り出した。
馬部が勢いよく喫茶店のドアを開けると、店中の客がビックリして馬部を見た。
「ウマちゃん」
「馬部」
その中には、向かい合って座るみちると牛尾の姿もあった。
牛尾はみちるの手を取って、宝石箱のようなものを握らせていた。
「ちょっと待ったあ!」
馬部は呆然とするみちるの手から宝石箱を取り上げた。
「う、牛尾さん。悪いけど、これは受け取れません」
「ウマちゃん……」
「マスター、コーヒー牛乳」
馬部はみちるの隣に座ると、宝石箱を牛尾の前に置いた。
・浮浪者:馬部は気付いていないが、さっき宮下公園に繋がる地下道で会った謎の謎の浮浪者。
・ゴルフボール:白峰が篠田を脅していて落とした物。このゴルフボールはこの後、プラットホームを渡ってアレフガレドに流れ着く。「プラットホーム」はJR渋谷駅。変に深読みしないように。
・トラック:虎駆運太のトラック。
・喫茶店:喫茶シルベール。オタクな刑事御用達。
・マスター:ヒゲがトレードマークのマスター。本名増田知鈴(ますだ・ともすず)。つっこみに困るギャグ研究家。
●13:10 喫茶シルベール
「結婚の話があるってのは、本当か?」
牛尾は既にみちると馬部とのことを知っているらしい。
「ええ、本当よ」
みちるが俯いて、それを肯定する。
「馬部。本当なのか? 恋人ってだけじゃなくて?」
牛尾に問われて、馬部はハタと冷水を浴びせかけられたような気になった。
「……!」
「どうしたの、ウマちゃん」
今まではヤクザの親分になりたくない一心でみちると牛尾を捜していたが、いざ見付かってみちると結婚するのかと訊かれると、馬部はそれもまた、ためらいがあった。
男と女が結婚する以上、やはり女性を娶るという形で結婚したい。
しかし、今の馬部にみちるを娶るだけの器量があるのかと言えば、正直言ってとてもないというのが現状だ。
昨日撮り終えた「独走最前線」ではかなり良い演技ができたと思うが、みちるより格下であることには違いがない。
みちるはそれでもいいと言ってくれているが、それではこちらの気がすまない。
「どうなんだ。馬部」
牛尾が馬部を睨み付ける。自分と同じ顔とは思えないほど迫力があった。
「はははい。ボクは、みちるのことが好きです……」
顔から火が出るような思いで、それだけを言った。
「結婚する気があるんだな?」
牛尾の言葉に、ますます顔を赤くして馬部は頷いた。
「ウマちゃん。考えてくれてたの……」
目をうるうるさせるみちるを見て、馬部は慌てて言った。
「いやでも今すぐとかそういうことじゃなくて、そのあの、ゆくゆくはというかなんというか……」
馬部の声は段々小さくなっていき、最後はごにょごにょした独り言になってしまった。
「分かった! 皆まで言うな」
牛尾が、手を上げて馬部の言葉を制した。
「実は俺も、この3日間でみちるに惚れちまった。さっき正式にプロポーズしようとしたところにお前が乱入してきたってわけだ」
牛尾が、ジッとみちるを見た。
「ここは一つ、みちるに決めてもらおうじゃねえか……みちる、どうするんだ?」
「そんなこと言ったって……」
みちるは困惑の表情を崩さない。
「俺か、馬部か……ああ、デュークって奴もそうか? 誰を選ぶんだ?」
「…………」
みちるは俯いて黙り込んでしまった。
重い沈黙が降りた。
●13:20 喫茶シルベール
重苦しい空気を察してか、店内にいた客はほとんど勘定をすませて出て行っていた。
入ってこようとした客も、その空気に気付くと慌ててきびすを返していく。
現在店の中に残っているのは、みちると牛尾と馬部、それにマスターの四人だけだった。
マスターがカウンターの中で頭を抱えている。気の毒だが、もう少し我慢してもらうしかない。
「どうだ。答えは出たか?」
牛尾がみちるを見た。
みちるは俯いた顔を上げた。
「私……馬部さんが好きよ」
「みちる!」
馬部にはみちるが薔薇色に光る女神のように見えた。
牛尾は黙っている。
「……でも私、牛尾さんも……」
「えっ」
途端に薔薇色の光が色褪せる。
牛尾はニヤリと笑って馬部を見た。
「どっちにするか、決めかねてるってわけか」
「そ、そんな」
デュークの話題は出なかった。
「すみません……でも、これが正直な気持ちです」
みちるが再び顔を伏せる。
振り出しに戻ってしまった。
「…………」
馬部は黙ってコーヒー牛乳を飲んだ。
現実と同じく、冷たかった。
「よし。分かった」
牛尾が口を開いた。
「こうなっちまった以上、仕方ねえ。俺と馬部がサシで話付けるぜ」
「サシで……」
「だから、みちる。お前はロケバスに帰ってろや。本人が目の前にいちゃ、話しづらいこともあるからな……ここは俺が払っとく」
牛尾は伝票を手で押さえた。
「……牛尾さん、大丈夫なの? ウマちゃんに乱暴しない?」
みちるは心配そうな目で馬部を見ている。
そんなみちるの目を見ていると、馬部の心の中にもファイトのようなものが湧いてきた。
「大丈夫だって。今まで、そんなに乱暴したことないだろ?」
「そ、そうさ。君は安心してロケバスで待ってるといいよ」
沸き上がったファイトは、馬部をかつてないほど大胆にした。
「きっと迎えに行くから」
「牛尾さん。ウマちゃん……」
みちるは、うっすら涙ぐんでいた。
「分かったわ……」
みちるは、素早く涙を拭くと喫茶店から出て行った。
「これで二人っきりだ。腹割って話し合おうぜ」
牛尾は、目の前のコーヒーをグイッと飲み干した。
「ええ。お互いにね」
馬部がコーヒー牛乳をグイッと飲み干す。
「マスター!」
二人は同時にマスターにお代わりを頼んだ。
●13:30 喫茶シルベール
「さて……なにから話す」
お代わりが来てマスターがカウンターに下がると、牛尾が話し始めた。
「話すことは一つしかありません……プロポーズのことです」
「馬部。もう一度訊くが本気なのか?」
牛尾の言葉に馬部はムッとして言い返した。
「本気です。牛尾さんがみちると会う遙か前から、その話はあったんです」
「でも結局プロポーズはしてないんだよな。何を言っても生返事ばかりで、その気があるのかないのか分からないってみちるは言ってたぜ」
「グッ……」
見事にカウンターを入れられた。
「でもボクらは何度もデートを重ねて来ましたし、3年も付き合ってきたんですよ」
「昔の話は問題じゃねえだろ。要は今よ。今、俺とお前がプロポーズして、みちるが迷ってる。迷ってるってことは、同じ土俵に立ってるってことだぜ」
今度はクロスカウンターだ。
馬部は危うくダウンしそうになる心を奮い起こして牛尾に立ち向かった。
「で、でも……そうだ、白峰組だ!」
馬部は何とか反撃の糸口を掴もうと必死だった。
「白峰組? 馬部、まだ白峰組に関わってるのか?」
「るい子さんや白峰さんがボクに付きまとって困ってるんですよ。ボクを牛尾さんの身代わりみたいに考えてるんですよ」
「へえ」
牛尾には、それは初耳らしかった。
「牛尾さんが白峰組に戻れば、丸く収まるんです。大松さんたちも期待してましたから、組に戻ってあげたらどうですか?」
「俺はもうカタギの人間だ。今更白峰組に戻る気はねえ……るい子お嬢さんはいい子だぜ。馬部、もらっちまったらどうだ?」
「…………」
マズイ。押されっ放しだ。何か言わないと。
しかし考えても考えても、馬部には自分が牛尾より有利な立場にあるという論拠が見付からなかった。
馬部は今更ながらに、自分がみちるに対して、自分の気持ちを伝えるようなことを何もしていなかったことに気付いた。
確かに馬部はみちると3年付き合っている。しかしそれが何だというのだろう。
「悪ィが、俺がプロポーズさせてもらうぜ。この牛尾政美、惚れた女を譲るほどお人好しじゃねえ」
牛尾が鋭い目つきで馬部を睨んだ。
この目は――本気だ。
●13:40 喫茶シルベール
馬部は、今までのみちるとの過去を回想していた。
みちると一緒に結婚式場の前を通ったとき、みちるの「わたしたちも近くここに来るんでしょうね」という言葉を「そうだね、木公田聖子さんの結婚式、もうすぐだもんね」と惚けたこともあった……。
みちると一緒に東急本店へ買い物に行ったとき、ダブルベッドを見て「ウマちゃんの体格じゃ、このぐらいの大きさがないと二人で寝れないかしらね」というみちるに「ボクは一人しかいないよ」と無理にトボけたこともあった……。
「確かにボクは今まで、みちるにハッキリした返事することから逃げてきた」
馬部は俯いて小声で言った。
みちると比較されることが恐かった。
それはみちるに俳優としての輝きを奪われることが恐かったということだ。
俳優の持つ輝きは、水とは逆に低い方から高い方に流れていく。
つまり輝きをあまり持たない脇役俳優は、より輝きを持つ主役俳優に輝きを吸い取られ続ける。
その結果、芸能界は数人の主役俳優を頂点とした輝きのピラミッドを構成することになるのだ。
ピラミッドの底辺に蠢く無数の名もない俳優は、より輝きを持つ俳優を輝かせるためのエサにすぎないのだ。
現実として今の馬部とみちるが結婚した場合、馬部はみちるに輝きを奪われ、世間からは「みちるの」亭主としか見られなくなる。
それは確実だった。
「――それでも」
馬部は顔を上げた。
みちるに過度に依存することは、俳優としての馬部甚太郎の死を意味する。
俳優として、その道を選ぶことに馬部は躊躇していたのだ。
「――それでも!」
体が熱くなる。頭に血が上る。目の前に真っ赤なカーテンが掛かったような感覚に、馬部は異常に興奮していた。
「おい、大丈夫か?」
牛尾の声も、馬部の耳には入らなかった。
馬部は興奮のあまり、椅子を蹴って立ち上がった。
「みちるを取られるわけにはいかないんだ!」
馬部の叫び声が、ガランとした喫茶店にこだまする。
「オイ、何だよ急に」
牛尾は急に立ち上がった馬部に面食らって目をパチクリさせている。
馬部は牛尾に指を突き付けて言い放った。
「う、牛尾さん。ボクはあなたに決闘を申し込みます!」
「なにっ! 決闘だと?」
牛尾は仰天して、飲みかけのコーヒーを吹き出す。
コーヒーが馬部の顔に掛かったが、馬部は全然熱くなかった。
「ボ、ボクも男です。あなたと同じで、惚れた女を他人に渡すわけにはいきません。たとえ体を張っても、みちるは守ってみせます!」
馬部の体にはコーヒーより熱い闘志がメラメラと燃えていた。
「本気か?」
牛尾は、さっきと同じ問いを発した。
「もちろんです。さあ、時間と場所は牛尾さんが指定して下さい。今からでも結構です」
牛尾は馬部の捨て鉢の勢いに驚きつつも、真剣な表情で考えていた。
「……分かった。今日の午後6時。場所はハチ公前でどうだ」
今からちょいとヤボ用があってな、と牛尾は続けた。
「分かりました。それで結構です」
馬部は座ったまま動かない牛尾を尻目に、さっさと喫茶店を出た。
・木公田聖子:元祖アイドルにして元祖ママドル。特定のモデルはない。渋谷で香月ミカレに対抗してつばめ狩りをしているという噂。
・輝きのピラミッド:ピラミッドの中には小さなピラミッドがあり、その中にはもっと小さなピラミッドがある。カースト制は細かく区切れば区切るほど制度自体は強固なものになる。
・ヤボ用:高峰綾の恋愛相談。綾の恋人が積極的でないので牛尾が相談を受けた。結局牛尾が恋人のフリをすることになる。
●13:40 ファイアー通り
「うおおおおおお!」
馬部は、ファイアー通りを炎のように燃えながら走った。
牛尾との決闘には負けるわけにはいかない。
なにせみちるが賭かっているのだ。
馬部は、もちろんみちるが好きだ。結婚したいと思ってる。
しかし今まで、自分の心情的な都合でみちるにを待たせてしまっていた。
この決闘は、いわばみちるへの贖罪だ。
今までの優柔不断な自分を清算し、新たな気分でみちるにプロポーズするのだ!
「うおおおおおお!」
馬部は、ファイアー通りを炎のように燃えながら駆け抜けた。
「きゃっ!」
火の玉と化していた馬部は、一人の女性の悲鳴で我に返った。
馬部はハチ公前まで来ていた。
どうやら興奮して走りすぎたらしく、人にぶつかってしまった。
「あっ……すみません」
馬部の足許に、黄色い上着を着た高校生くらいの女性が尻餅をついていた。
「優作が……」
「え?」
「ウアアアアアアァァァァァ!!」
「ああ……赤ん坊か……」
女性の胸に抱かれた赤ん坊が、火が着いたように泣き出した。
女性は咄嗟に赤ん坊を庇ったのだが、やはり倒れたショックを殺しきれなかったらしい。
「ご、ごめんなさい」
「いえ、いいんです」
馬部が謝っても、赤ん坊の鳴き声が小さくなることはなかった。
「ひそひそ……」
「あの人、さっきもキャベツ教の人を……」
「赤ん坊にまで……」
馬部の回りにいた人が、口々に何かを呟きながら離れて行った。
「キャッ! 寄らないで!」
馬部が見ただけで、回りの女性は悲鳴を挙げて逃げ去った。
「…………」
そうしている間にも、赤ん坊の泣き声はますます激しくなっていく。
馬部がぶつかった女性は地面に手を突いたまま、まだ起きていなかった。
「あっ。どうぞ」
馬部が倒れた女性に手を差し出す。
「……いえ、大丈夫です。一人で起きられます」
女性はそう言ったが、その声には力がこもっていなかった。よく見れば顔色も蒼ざめている。
「ひょっとして、何か病気なんですか?」
「いえ。ちょっと疲れただけです……大丈夫です」
「そう言わず。さ、そこに座るとよいですよ」
馬部はガラガラになったベンチの一つを指さし、女性を座らせた。
●13:50 ハチ公前
「ご心配をお掛けしました。もう大丈夫です」
ベンチで少し休むと、女性の顔色はすぐに良くなった。赤ん坊もそれを察したのか、今は静かに眠っている。
「本当に、病気じゃないんだね?」
「昨日徹夜で荷物をまとめて出てきたもので……多分疲れが出たんでしょう」
確かに、女性は大きな荷物をいくつも抱えていた。
「えっと……」
高校生くらいの女性が赤ん坊を連れて、大荷物で東京に出てくる。
こ、これはひょっとして……。
馬部は一抹の不安を感じた。
「君、ひょっとして家出してきたんじゃないの?」
「え? ヤダ。なに言ってんですか」
女性は、驚いて目を真ん丸にした。
「悪いことは言わないから、すぐに家にお帰りなさい。東京は、そんなに甘いところじゃないよ」
ドラマの世界でも、家出娘は東京を目指すものと相場が決まっていた。
『東京に出れば、きっと巧い働き口が見付かって幸せになれる』
そんな夢を抱いて上京するものの、大概は夢やぶれて水商売に身を落としたりするのだ。
「ホントに私、家出して来たんじゃないですよ……あ、そういえば自己紹介がまだでしたね。私、片瀬ユキと言います。19歳です」
ユキは、胸に抱いた赤ん坊の顔を馬部の方に向けた。
「息子の優作です。ホラ、優作。おじさんにご挨拶なさい」
ユキは眠ったままの優作の体を少し傾けて、お辞儀させた。
馬部は優作の頭を少し撫でて微笑んだ。
「初めまして、優作君。馬部甚太郎です」
優作はムニュムニュと口を動かしたが、すぐにまた寝入ってしまった。
「眉がしっかりしている。きっと将来は、女の子にモテてしょうがないイイ男になりますよ」
馬部は誉めたつもりでそう言ったのだが、逆にユキの表情は暗く曇ってしまった。
「そう見えますか? それはきっとパパに似たんでしょう」
……まずいことを言ってしまった。
すると優作はプレイボーイに騙されてできた子どもなのだろうか?
女の子に生ませっぱなしで責任をとらないとは、悪い奴がいるものだと馬部は一人憤慨した。
「あ、そんなじゃないです。優作は陽平と真剣に愛し合ってできた息子です」
陽平というのがプレイボーイの名前らしい。
考えたことが表情に出たのだろうか? ユキが先回りして馬部の疑問に答えた。
「でも、魔が差すって言うんですか? 結婚前だって言うのに陽平ったら、そういうことが頻繁にあるみたいで……」
馬部は『そういうこと』が頻繁にあるようでは、『魔が差す』とは言わずに『手癖が悪い』と言うのではないかと思ったが、それを言っても詮のないことである。
代わりに馬部は、ユキを安心させてあげることにした。
●14:00 ハチ公前
「ユキちゃん。実はボクも、今度結婚することになりそうなんだ」
「えっ!」
相手はもちろん、るい子ではなくみちるである。
馬部は今晩の牛尾との決闘に勝って、みちるにプロポーズするのだ。
「ホントですか?! 相手の方は、どんな方なんですか?」
ユキは、こぼれんばかりの笑みを浮かべた。
女の子は大概、こういう話題に目がないものなのだ。
「まだ正式なことじゃないので名前は伏せさせてもらうけど……すごく優しくて、ボクのことを信じてくれる人なんだ」
そう。
みちるは、常に馬部を信頼してくれていたのだ。
『そんなに自信ないなら、役降りるなり、役者辞めるなり、どうぞ好きにしなさいよ』
3日前の池落ちのシーンの直後。
みちるは馬部に厳しい一言を放った。
一見冷たい態度に見えることがあっても、それは馬部を奮起させるためのことなのだ。
馬部は内心それに気付きながらも、気付かないふりを続けていたのだ。
気付いてしまえば、みちるの思いは馬部にとって重荷になる。馬部はそれを背負うことを、拒否し続けていたのだ。
結婚話も、馬部が遠からずみちる以上の輝きを持つ役者になると信頼したからこそみちるは乗り気だったのだ。
みちるが結婚話を切り出す度に、馬部の良心はチクチクと痛んでいた。
「ボクはその人以外に、女の人を好きになることはないだろうね」
「ひゃあ……」
聞いているうちに興奮したのか、ユキは顔中真っ赤になっていた。
「ちょっと、その人が羨ましいです。そこまで言ってもらえるなんて」
馬部も少し恥ずかしそうに頭を掻いた。
「ボクも彼女のことを信じてるからね」
「陽平も私のこと、信じてくれてるのかな……」
ユキは溜め息を一つ吐き出した。
「そうだ、ユキちゃん。いい言葉を一つ、教えてあげよう。『苦難は忍耐を生じ、忍耐は練達を生じ、練達は希望を生ず』。これはね……」
「ハイッ! ご説明致しましょう!」
誰一人回りにいなかったはずなのに、突然分厚い辞書を持った坊ちゃん刈りの少年が馬部とユキの前にあらわれた。
●14:10 ハチ公前
「あ、あれ? 君、誰?」
「き、きみ、どこから来たの?」
突然あらわれた少年に戸惑う馬部とユキを無視して、当の少年は悠然と解説を始めた。
「数々の映画や小説などに引用されるこの言葉は、元々は新約聖書にある言葉です。ローマの信徒への手紙の中で使徒パウロが述べた言葉として、第5章第3~4節に記されています。
以来、この言葉はイエス・キリストへの無条件の信頼を示す言葉としてあちこちに引用され、世界中を巡ることになるのです。この言葉を始めとして、『この中で罪のない者がまず石を投げなさい』や『カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返すがよい』など、聖書にある言葉は様々な形で人々に記憶されています。世界一のベストセラーの面目躍如というところですが……」
馬部とユキは呆然と少年の解説を聞いていた。
「……お呼びでない? お呼びでない?」
馬部とユキは不機嫌な表情で頷いた。
「こりゃまた失礼しました~~」
その場にいた人が全員すっ転んだ。
少年は、現れたときと同じように突然姿を消した。
●14:20 ハチ公前
「何だったんだ……あの子は?」
「さあ?」
「あれが噂の……」
「……うんちく少年?」
謎の少年が去った後のハチ公前がざわめいている。
馬部とユキはベンチに座り直して、話を再開した。
「ま、変な邪魔が入ったけど、要は君が……陽平君? 彼を好きなら、どんなことがあっても彼を信じ抜かなきゃ」
ユキは優作の頭を撫でながら、少し考えた。
「そうね。それはそうだわ。私が陽平を信じなきゃ、他の誰も陽平を信じないわ。だって私は……」
馬部は、ここぞとばかりに同調した。
「そうさ。君が陽平君を信じなきゃ、陽平君も君を信じてはくれないよ。君が陽平君を信じれば、きっと陽平君は君を信じてくれる。男は信じた女を裏切れないんだよ」
「馬部さん!」
ユキは歓喜の表情で馬部に抱きついて、軽く頬にキスをした。
「ユ、ユキちゃん……」
「馬部さん、ありがと! 正直言って、もう一つ陽平を全面的に信じ切れていなかったの。だけど、あなたのお陰で最後まで陽平を信じる覚悟ができたわ!」
馬部は若い娘の意外な行動に、柄にもなくドキドキしていた。
ユキにキスされた辺りをそっと手で擦ると、口紅らしき朱が馬部の指先を薄く染めた。
馬部とユキの間に挟まれた優作が目を覚まして、ダーと声を挙げた。
「私、さっそく陽平を捜しに出掛けようと思います……実は馬部さんと会ったときも陽平を探している途中だったんですよね」
ユキは優作を素早く抱え直すと、すっくとベンチから立ち上がった。
「探すって、陽平君の居場所に心当たりがあるのかい?」
「さっき、おばさまに電話で聞いたんです。陽平、渋谷のどこかのデパートにいるらしいですから」
「じゃあ今どこにいるのか、分からないね」
馬部がそう言うとユキは大きな瞳を馬部に向けて、ニコッと笑った。
「だったら、片っ端から当たってみるまでよ!」
馬部は、自分がもう若い娘の行動力についていけない年齢であることを自覚した。
●14:30 西武百貨店A館
「ユキちゃん、大丈夫?」
「ハイ……大丈夫です」
馬部とユキは渋谷駅から最寄りのデパート、西武百貨店A館に来ていた。
馬部はユキの大荷物の一部を肩に担いでいた。
ユキは固辞したのだが、赤ん坊連れの上に体調の悪いユキに無理をさせるわけにはいかないと、馬部が半ば無理矢理荷物運びを手伝ったのだ。
「さあて……陽平いるかしら?」
ユキはキョロキョロ辺りを見回しているが、それらしい人影は発見できなかったようだ。
「呼び出しを掛けてもらえば、ハッキリするさ」
馬部は手近な店員を捕まえて、呼び出しの頼み方を尋ねてみた。少しユキの行動力に感化される部分があったらしい。
「呼び出しは案内所で頼むらしいよ」
馬部とユキが少し歩くと、階段の脇にある白いカウンターが見えてきた。
「ああ、あそこよ。行きましょ、馬部さん」
馬部とユキが着くと、カウンターに立っていた制服姿の女性店員が上品に礼をした。
「いらっしゃいませ」
「あの。呼び出しをお願いしたいんですが」
馬部が言うと、女性店員は専用の用紙を取り出した。
「それでしたら、こちらにお呼び出しになりたい方のご住所とお名前をお願いいたします」
女性店員が、カウンターのユキの前に紙とボールペンを置いた。
ユキはボールペンを手に取るが、同時にフウと大きな息をついた。そういえば、顔も少し赤くなってきている。
やはり疲労が溜まっているのだろうか?
「……ユキちゃん。荷物運びのカートと薬を買ってきてあげるから、しばらくここにいるんだよ」
「えっ。そんなの、いいです。大丈夫です」
ボールペンで陽平の住所を書いていたユキが顔を上げたが、馬部は有無を言わさずユキの額に手を当てた。
「ホラ! すごい熱じゃないか。君は陽平君に会いたいんでしょう? こんな大荷物持ってるのに体調が悪いままじゃ、陽平君に会う前に倒れてしまうよ」
「でも私のために、馬部さんにそこまで迷惑を掛けるわけにはいきません」
「何を言ってるんだい? 君のためじゃないさ」
「えっ?」
「優作君のためさ。今、君が倒れると優作君が困るじゃないか。ボクは子ども好きでね」
馬部は、ニッコリ笑ってユキを見た。
「馬部さん……」
「本当は病院に行くのが一番なんだけど……君は病院に行きたいかい?」
ユキはぶるると顔を振った。
「なら薬くらいは大人しく飲まなきゃ駄目だ。優作君のためにも、ね」
「……じゃあスミマセン。お願いします」
「動いちゃ駄目だよ」
馬部は一つ頷くと、ユキに背を向けて走り出した。
●14:40 西武百貨店A館
『お客様のお呼び出しを申し上げます。渋谷区神泉からお越しのトビサワヨウヘイ様。お連れ様がA館一階の案内状でお待ちでございます……』
ユキの掛けた店内放送を聞きながら、馬部はデパートの中を走っていた。
「デパートの中に薬局があるかもしれない」
馬部は、デパートの中をグルグル走り回った。
●14:50 西武百貨店A館
「な……ない」
馬部は地階から最上階まで走り回ったものの、薬局を見付けることができずにションボリとエスカレーターで降りていた。
「店員さんに訊いてみるか……」
馬部は手近な店員を捕まえて、薬局の場所を訊いてみた。
「当店では、薬品類は扱っておりません」
白髪の混じった年輩の男性店員は、眉一つ動かさずにそう言った。
「え、全然ないんですか? 風邪薬でいいんですけど」
「そもそも、当店には薬局薬店がありませんので……」
百貨店と言うくらいだから何でも売っているものと馬部は思っていたが、西武百貨店には薬局はないらしい。
「よろしければ、非常用に常備してある店の薬をお分けしますが……」
ありがたい話だが、別にユキは倒れたわけでもウンウン唸っているわけでもないので、そこまでしてもらうのも申しわけない気がする。
「いや、そこまでして頂かなくても……」
しかし困った。この店に薬局がないとすると、店の外まで風邪薬を買いに行かなければならない。
確か渋谷駅から109に行くまでに薬局があったはずだ。少し時間がかかるが、風邪薬はそこま行って買うしかないだろう。
馬部は、もう一つ店員に訊いた。
「ショッピングカートは、どこで売っていますか?」
年輩の店員は相変わらず無表情だったが、慇懃な口調でそれに答えた。
「それでしたら、2階の家事雑貨売場になります」
「そうですか、どうも」
馬部は、挨拶もそこそこに駆け出した。
馬部はエスカレーターを走り降りて2階の家事雑貨売場に駆け込むと、展示してあったカートをひっ掴んでレジに差し出した。
「ありがとうございました」
代金を払うや、馬部はカートを引いて走り出した。
・薬品類は扱っておりません:長距離電話掛けて聞きましたから間違いないです、ハイ。
・薬局薬店:薬局と薬店の違いをご存じか? ズバリ言えば調剤が出来ずにクスリを置いてるだけなのが薬店。調剤が出来るのが薬局。設備や仕事内容などに違いが出る。
・109に行くまでに薬局があった:京都から実際行って確かめてきました。ハイ。
・2階の家事雑貨売場:これまた長距離電話掛けて聞きました・ハイ(同じパターンでしつこいって?!)
●15:00 西武百貨店A館
A館を出たところで十月らしからぬ強い日差しが馬部に照り付けた。
馬部は上着を脱いでカートに縛り付けた。
「……マーフィーの法則って、本当だな」
こんな大荷物を持って走り回らなきゃいけない日に限って太陽はきついし、気温も高いのだ。
「えい、仕方ない!」
馬部がカートを持ち上げて走り出そうとしたそのとき、地面が大きく揺れた。
「きゃっ!」
「地震よ!」
道行く人々が、慌てて頭を庇ってその場にしゃがみ込んだ。
「わっ!」
馬部はカートを持ち上げるタイミングがすっかり狂ってしまい、派手に転倒した。
「いたたた……顔、擦っちゃったな……」
馬部が顔を押さえながら立ち上がった。
手で擦ってみても血は出ていなかったが、右頬がヒリヒリしていた。地面に頬をしたたかに擦り付けた。
馬部が顔を上げると既に地震は収まっており、辺りの人は互いに「ビックリしたね」などと言い合っている。
「収まったか……あ! こんなことしてる場合じゃなかったっけ!」
馬部はカートを抱え上げると、再び走り出した。
目的の薬局に着くと、馬部は薬剤師の常駐しているカウンターに直行した。
「すみません。下さいな」
馬部が言うと白い上っ張りを着た女性の薬剤師は、スプレータイプの薬をさっとカウンターに置いた。
薬の胴体には赤い文字でメキロンと書かれていた。
「目に入らないように、ガーゼに吹き付けてから傷に宛てるといいですよ」
ユキの症状も言わないうちに薬が出てきたことに面食らって、馬部はスプレーを手に取った。
「擦り傷、切り傷、金瘡……なんです、これ?」
「擦り傷の薬じゃないんですか?」
白衣の女性は、さも意外なことを言われたかのように眉を寄せ、後ろの棚に掛けてあった鏡を取って馬部に渡した。
「げ……!」
馬部の頬には、さっき倒れたときについたとおぼしき擦り傷が一筋ついていた。
「てっきり、その傷の薬だと思って……」
偶然か、擦り傷の位置は昨日までヤクザ傷の会った辺りだった。
「いや、そうじゃなくて、風邪薬が欲しいんです」
「どんな症状ですか?」
馬部はユキの症状を説明して、薬剤師に薦められた解熱剤を買った。
「急がなきゃ!」
馬部は解熱剤をポケットに押し込むと、再びカートを担いで走り出した。
・薬剤師:家が薬局だったから薬剤師になった人が一番多い。二番目に多いのは医師になり損ねて薬剤師になった人。そう言う人は妙に医師にコンプレックスがあるらしい。
・メキロン:プロレスラー大牟田厚がCMをやっている。大牟田は今、自分の団体を旗揚げするために5万円だけもって渋谷を徘徊している。
・薬剤師に薦められた:風邪は感冒や疲労など、「少し体の調子が悪い状態」の総称なので、「このクスリを飲めばどんな風邪でも治る!」というクスリは存在しない。風邪薬は症状を言って薬剤師に選んでもらおう。
●15:10 西武百貨店A館
「あれ? ユキちゃん?」
馬部がユキと別れた案内所に戻ってみると、ユキの姿は消えていた。
「???? ……あの、すみません」
さっき呼び出しを頼んだ案内所の店員を捕まえて事情を聞いてみると、ユキは若い男女と何やら話し合っていたらしい。
「陽平君に会えたのかな? ……で、ユキちゃんは、今どこに?」
女性店員は営業スマイルを崩さずに答えた。
「体調がお悪かったようで、お連れの男の方がおんぶして表に向かわれました」
「! ホラ、言わないことじゃない」
やはり体調を崩してしまったらしい。
おんぶされて運ばれて行ったそうだから、多分病院にでも運ばれたのだろうが……。
「ユキちゃん、大丈夫かな……?」
結局、ユキが陽平に会えたのかどうかも、確実なことは不明なままである。
「このまま放っておくのも、何となく無責任な気がする」
ユキがあの状態では優作のことも心配だ。
「病院に行ってみよう」
馬部はカートをその場に置き去りにして、デパートを後にした。
●15:20 渋谷中央病院
渋谷中央病院は、東京とは思えないほど広い敷地のド真ん中に建てられた総合病院だった。
「ここか……」
その玄関に立つと馬部は『白い巨棟』という病院を舞台にしたドラマを思い出した。
「あの頃のドラマは面白かったなあ……いや、そんなこと言ってる場合じゃない」
病院の玄関にある案内図を見ながら、馬部は考えた。
「タクシーで運ばれて来たんなら……ERかな? それとも風邪だから内科かな?」
そのとき馬部の袖を、誰かがチョイチョイと引っ張った。
そちらを見ると、浅黄のパジャマに空色のカーディガンを羽織った小さな女の子が、馬部の服の袖を引っ張っていた。
「だれか、捜してるの……?」
7、8歳だろうか? 透き通るような色白ながら大雑把なおかっぱ髪の女の子は、子どもらしからぬ無表情で馬部を見上げていた。
「ああ……君は、入院してるのかい?」
少女はコクリと頷いた。
「ここ2、30分ほどの間に女の人が運ばれてこなかったかい? 黄色い服を着た、片瀬ユキって名前の女の人なんだけど」
少女は表情を変えずに、小首を傾げた。
「ずっとここにいたけど、そんな人、来てないよ」
「本当? ウーン。困ったな」
ここに来ていないとすると、もっと遠くの他の病院に運ばれた可能性がある。
あるいは陽平の家や知り合いの病院に運ばれたとすれば、馬部には捜しようがない。
「その人、心配?」
少女が馬部に訊いた。
「ああ、心配さ。ユキちゃん、ちょっと体調を崩してたからね」
馬部は少女に話しかけながら、この少女の持つおかしな雰囲気に気付いた。
顔立ちは悪くないものの、表情の乏しさがその魅力を打ち消していた。
発育不良かと思えるほど手足が細く、立っているのが不思議に思えるほどだった。
少女は無造作だが、身じろぎもせずに馬部を見つめていた。
「だいじょうぶ。今日はだれも死なないから、ユキさんもきっと生きてるわ」
少女は、初めて感情――薄笑いを表に出した。
「はあ……?」
馬部は困惑の表情で、奇妙なことを言い出した少女を見つめていた。
「こらっ、絵梨! また余計なこと、いってるなッ!」
ロビーの方から年輩の男が、車椅子に乗ってやってきた。車椅子を押している白衣の男は、この病院の医者だろう。
「…………」
少女――絵梨は目だけ男の方を向いたものの、男の声など聞こえないように馬部の方を向いていた。
「絵梨ちゃん」
車椅子を押していた若い医者がそう言うと、絵梨は初めて声が聞こえたようにクルリと振り向いた。
「そろそろ部屋に戻らないと駄目だよ。約束したよね?」
「ん」
絵梨は頷くと、トトトとロビーの奥に駆け込んでいった。
「あ……ありがとう。絵梨ちゃん」
馬部が言うと、絵梨は角に消える直前に、チラリと馬部の方を見た。
「…………」
そして身を翻して、角の奥に消えてしまった。
「大人が挨拶してるのに、無視するとはどういう子どもなんだ!」
車椅子に乗った年輩の男は、相変わらずプリプリ怒っている。絵梨に何か恨みでもあるのだろうか?
「照れてるんですよ。あの子も悪い子じゃないんですよ」
「先生、冗談言っちゃいけない。わしにはあの子が悪魔か死神の子のように思えるがな」
年輩の車椅子男は、馬部を見た。
「あの子は、誰がいつ死ぬかをピタリと当てるんだ。悪魔以外に、そんなことができるか?」
そういえば、確かに絵梨は「今日は誰も死なない」と言っていた。不思議なことを言う子だと思っていたが、それが当たるとは馬部にはとても思えなかった。
それより、せっかく病院の医者に会えたんだ。ユキのことを訊いてみようと馬部は思った。
「先生、ここ三十分ほどの間に黄色い服の患者が運ばれて来ませんでしたか?」
医者は受付や看護婦にも訊いてくれたが、その答えは絵梨のものと同じだった。
「そうですか……分かりました」
ユキがこの病院にいないのなら仕方がない。デパートの店員も陽平らしき男に会っていたと言っていたし、きっとユキは無事でいると信じよう。
馬部には、そうするしかなかった。
「それよりあなた、頬を擦りむいていらっしゃいますね」
白衣は、さっき馬部が転んだときにつけた頬の擦り傷に気付いたらしい。
「消毒しておかないと、破傷風になるかもしれませんよ……僕は鳥居と言います。さ、奥へどうぞ」
・白い巨棟:新人医師が主人公の病院ドラマ。半ば伝説となっているが、ビデオが出ていない。なぜ?
・ER:緊急病棟のこと。一刻も早い処置が必要な人が運ばれてくる。エマージェンシールームの略。黒人の医師がハバを効かせている。
・小さな女の子:真喜志絵梨。シーハーの妹。連日変な夢を見て、行動にも奇矯な点が認められるので入院している。キャラクターの掘り下げでは趣味に走ってしまいました。スミマセン。
・年輩の男:コンビニ「生活採花」店主。疲労で入院中。まだ自力で歩けないので車椅子生活だが、やたら元気そうなのは気のせいだろうか?
・誰がいつ死ぬかをピタリと当てる:昔スクールウォーズでこういう人がいた……。
・破傷風:最近ではその恐ろしさを忘れられつつある。若い男女の血をホラ貝一杯ずつ混ぜて浴びせても治りません。
・鳥居:小児科医師。絵梨の担当医。
●15:30 渋谷中央病院前
鳥居に傷を消毒してもらった馬部は、病院を後にしていた。
傷は特に痛くはなかったが、馬部の右頬には大きなガーゼが張り付いていた。
「兄貴!」
病院の前庭を歩いていた馬部の後ろから、聞き覚えのある声が追い掛けて来た。
「……ゲッ!」
それは、大松だった。
大松は玄関を出て、こちらへ向かって走って来ている。
咄嗟に馬部は逃げようとしたが、大松と自分の体力差を考えると追い付かれる可能性の方が高いと考えて、逃げたがる心をグッと押さえ付けた。
「お、お前、どうしたんだ。こんなところで」
馬部に追い付いた大松は、消毒液の匂いを発散していた。
「毎日、傷口の消毒に来なくちゃいけないんす……全く、山吹が渋谷に潜伏してるってのに、本当はこんなことで時間取ってられないっすけどね」
馬部は、自分が吐いた嘘がまだ生きていることに意外な思いに捕らわれた。
「そうだ、兄貴。山吹に射たれた傷は大丈夫っすか?」
「えっ?! 山吹に? 射たれた?」
そんな話は、初耳だ。
「えー……コホン。大松、一体誰から、そんな話を聞いたんだ?」
「え? 組の若い連中っすけど……兄貴が射たれた直後に、何人か若い連中が駆けつけたでしょう? そいつらが事務所に戻って報告したんすよ。ここには、その傷の手当に来たんすか?」
いよいよ、初耳だ。
ということは組の若い者は、誰が撃たれたところを見たのだろう? 少なくとも自分ではないことは分かっている。すると……。
「牛尾さんだ! 牛尾さんが山吹に?」
思わず叫んだ馬部を、大松が不思議そうな表情で見ていた。
「そうっすよ。兄貴、自分のことなのに何言ってるんすか」
「い、いや……」
山吹が本当に渋谷に潜伏しているとは思わなかった。
馬部はヤクザ社会には詳しくないが、関東一円に勢力を広げている白峰組を敵に回しいた場合、即座に東京から逐電して地方で今回の事件の熱が冷めるのを待つのが、普通ではないのだろうか。
「それが、射たれたときの傷ですか?」
「いや、これは……」
頬のガーゼを見て大松は大袈裟に騒ぎ立てた。
「拳銃持った相手に素手で立ち向かってこの程度ですむなんて、いやさすが“暴れ牛”。ますます貫禄がついたっすよ!」
「そ、そうか」
馬部は、困った顔で適当に相槌を打った。
・傷口:指を詰めた傷。小指を詰めると握力が落ちるため、ドスが握れなくなる。それにより極道生命を立つことが本来の意味。拳銃が出来てからはタダの懲罰としての意味しかなくなった。
●15:40 渋谷中央病院前
「……それより兄貴。この病院には絵梨ちゃんの見舞いに来たんすね? オレ、さっき見たっす」
「絵梨ちゃん?」
馬部は、さっき病院の玄関であった女の子を思い出した。
「大松。お前も、絵梨ちゃんを知ってるのか?」
「もちろんっす。シーハーの妹っすからね」
「シーハー?」
と、言われても馬部には誰のことだか分からない。人名にしては変わっている。外国人だろうか?
あまり余計なことを言うとぼろが出るので馬部が黙っていると、大松は一人でしゃべり続けた。
「いいとこあるっすね。舎弟の妹を秘かに見舞うなんて」
どうやらシーハーというのは、白峰組員の名前らしい。
「ま、まあな。兄貴分として、当然のことだ」
「さすがっす、兄貴!」
そのとき、どこかで携帯電話の電子音が鳴った。
大松は右手一本で携帯をポケットから出すと、通話スイッチを入れた。
「ハイ、大松っす……ハイ。ハイ……分かったっす……え?」
大松は、そこまで言うと急に馬部の方を見た。
厭な予感。
馬部は思わず目を逸らした。
「兄貴なら、ここにいらっしゃるっす……ハイ。代わります」
大松は、携帯を馬部に差し出した。
「組長からっす」
やはり、厭な予感というのは当たるものらしい。馬部は大松から目を逸らしたまま、それを受け取った。
「ご、ご無沙汰しています」
「ウン? 牛尾じゃないな。馬部君か?」
「ハ、ハイ……」
どうやら白峰は牛尾に用事があったらしい。
馬部はまたしても、牛尾のとばっちりを喰らった形である。
「それがその……」
「あの後、君と別れた場所に人をやったが、芸能事務所なんて何処にもなかったと報告して来おった……どういうことだね?」
「いや、それは話せば長いことで……」
馬部はしどろもどろになったが、白峰を納得させられるだけの説明は思い付かなかった。
「とにかく今から車を回す。その車に乗って、事務所に来たまえ。君にも話がある」
「ハイ……」
馬部は、反論せずに従うことにした。
馬部はタワーレコードビルの前に立っていた。
「喫茶店……喫茶店……」
辺りを捜すが、それらしい建物がない。
馬部は、道の端で馬部に背中を向けて立っていた浮浪者に声を掛けてみた。
「あの。すいません」
「…………ふぁい。なんでひょう」
まだ若そうな男だが、馬部に背中を向けたまま、モゴモゴした声で返事をした。
「この辺に喫茶店はありませんか?」
「ひりまへん」
聞き取れいにくい返事だが、どうやら「知りません」と言っているらしい。
「そうですか。すみません」
そそくさと立ち去る浮浪者を尻目に、馬部はキョロキョロと辺りを見回した。
「あいたッ!」
すると、馬部の頭に何か固いものがぶつかった。
「何だ……?」
それは、どこからともなく飛んできたゴルフボールだった。
そのゴルフボールは馬部の頭にぶつかった後も点々と歩道の上でバウンドを続けていた。
「あっ」
やがてそれは車道に飛び出し、通りかかった一台のトラックの窓に飛び込んだ。
「バカヤロー!」
制御を失ってふらふら走るトラック。
トラックの周りの車は急ブレーキを掛け、幾つものクラクションが辺りに響いた。
しかしやがてトラックは制御を取り戻し、普通に走り出した。
「よかった……あっ!」
そのとき馬部はトラックの向こうにある特徴的な形のビルの一階に喫茶店があることに気付いた。
「あった! 怪我の功名ッ!」
馬部は喫茶店に向かって走り出した。
馬部が勢いよく喫茶店のドアを開けると、店中の客がビックリして馬部を見た。
「ウマちゃん」
「馬部」
その中には、向かい合って座るみちると牛尾の姿もあった。
牛尾はみちるの手を取って、宝石箱のようなものを握らせていた。
「ちょっと待ったあ!」
馬部は呆然とするみちるの手から宝石箱を取り上げた。
「う、牛尾さん。悪いけど、これは受け取れません」
「ウマちゃん……」
「マスター、コーヒー牛乳」
馬部はみちるの隣に座ると、宝石箱を牛尾の前に置いた。
・浮浪者:馬部は気付いていないが、さっき宮下公園に繋がる地下道で会った謎の謎の浮浪者。
・ゴルフボール:白峰が篠田を脅していて落とした物。このゴルフボールはこの後、プラットホームを渡ってアレフガレドに流れ着く。「プラットホーム」はJR渋谷駅。変に深読みしないように。
・トラック:虎駆運太のトラック。
・喫茶店:喫茶シルベール。オタクな刑事御用達。
・マスター:ヒゲがトレードマークのマスター。本名増田知鈴(ますだ・ともすず)。つっこみに困るギャグ研究家。
●13:10 喫茶シルベール
「結婚の話があるってのは、本当か?」
牛尾は既にみちると馬部とのことを知っているらしい。
「ええ、本当よ」
みちるが俯いて、それを肯定する。
「馬部。本当なのか? 恋人ってだけじゃなくて?」
牛尾に問われて、馬部はハタと冷水を浴びせかけられたような気になった。
「……!」
「どうしたの、ウマちゃん」
今まではヤクザの親分になりたくない一心でみちると牛尾を捜していたが、いざ見付かってみちると結婚するのかと訊かれると、馬部はそれもまた、ためらいがあった。
男と女が結婚する以上、やはり女性を娶るという形で結婚したい。
しかし、今の馬部にみちるを娶るだけの器量があるのかと言えば、正直言ってとてもないというのが現状だ。
昨日撮り終えた「独走最前線」ではかなり良い演技ができたと思うが、みちるより格下であることには違いがない。
みちるはそれでもいいと言ってくれているが、それではこちらの気がすまない。
「どうなんだ。馬部」
牛尾が馬部を睨み付ける。自分と同じ顔とは思えないほど迫力があった。
「はははい。ボクは、みちるのことが好きです……」
顔から火が出るような思いで、それだけを言った。
「結婚する気があるんだな?」
牛尾の言葉に、ますます顔を赤くして馬部は頷いた。
「ウマちゃん。考えてくれてたの……」
目をうるうるさせるみちるを見て、馬部は慌てて言った。
「いやでも今すぐとかそういうことじゃなくて、そのあの、ゆくゆくはというかなんというか……」
馬部の声は段々小さくなっていき、最後はごにょごにょした独り言になってしまった。
「分かった! 皆まで言うな」
牛尾が、手を上げて馬部の言葉を制した。
「実は俺も、この3日間でみちるに惚れちまった。さっき正式にプロポーズしようとしたところにお前が乱入してきたってわけだ」
牛尾が、ジッとみちるを見た。
「ここは一つ、みちるに決めてもらおうじゃねえか……みちる、どうするんだ?」
「そんなこと言ったって……」
みちるは困惑の表情を崩さない。
「俺か、馬部か……ああ、デュークって奴もそうか? 誰を選ぶんだ?」
「…………」
みちるは俯いて黙り込んでしまった。
重い沈黙が降りた。
●13:20 喫茶シルベール
重苦しい空気を察してか、店内にいた客はほとんど勘定をすませて出て行っていた。
入ってこようとした客も、その空気に気付くと慌ててきびすを返していく。
現在店の中に残っているのは、みちると牛尾と馬部、それにマスターの四人だけだった。
マスターがカウンターの中で頭を抱えている。気の毒だが、もう少し我慢してもらうしかない。
「どうだ。答えは出たか?」
牛尾がみちるを見た。
みちるは俯いた顔を上げた。
「私……馬部さんが好きよ」
「みちる!」
馬部にはみちるが薔薇色に光る女神のように見えた。
牛尾は黙っている。
「……でも私、牛尾さんも……」
「えっ」
途端に薔薇色の光が色褪せる。
牛尾はニヤリと笑って馬部を見た。
「どっちにするか、決めかねてるってわけか」
「そ、そんな」
デュークの話題は出なかった。
「すみません……でも、これが正直な気持ちです」
みちるが再び顔を伏せる。
振り出しに戻ってしまった。
「…………」
馬部は黙ってコーヒー牛乳を飲んだ。
現実と同じく、冷たかった。
「よし。分かった」
牛尾が口を開いた。
「こうなっちまった以上、仕方ねえ。俺と馬部がサシで話付けるぜ」
「サシで……」
「だから、みちる。お前はロケバスに帰ってろや。本人が目の前にいちゃ、話しづらいこともあるからな……ここは俺が払っとく」
牛尾は伝票を手で押さえた。
「……牛尾さん、大丈夫なの? ウマちゃんに乱暴しない?」
みちるは心配そうな目で馬部を見ている。
そんなみちるの目を見ていると、馬部の心の中にもファイトのようなものが湧いてきた。
「大丈夫だって。今まで、そんなに乱暴したことないだろ?」
「そ、そうさ。君は安心してロケバスで待ってるといいよ」
沸き上がったファイトは、馬部をかつてないほど大胆にした。
「きっと迎えに行くから」
「牛尾さん。ウマちゃん……」
みちるは、うっすら涙ぐんでいた。
「分かったわ……」
みちるは、素早く涙を拭くと喫茶店から出て行った。
「これで二人っきりだ。腹割って話し合おうぜ」
牛尾は、目の前のコーヒーをグイッと飲み干した。
「ええ。お互いにね」
馬部がコーヒー牛乳をグイッと飲み干す。
「マスター!」
二人は同時にマスターにお代わりを頼んだ。
●13:30 喫茶シルベール
「さて……なにから話す」
お代わりが来てマスターがカウンターに下がると、牛尾が話し始めた。
「話すことは一つしかありません……プロポーズのことです」
「馬部。もう一度訊くが本気なのか?」
牛尾の言葉に馬部はムッとして言い返した。
「本気です。牛尾さんがみちると会う遙か前から、その話はあったんです」
「でも結局プロポーズはしてないんだよな。何を言っても生返事ばかりで、その気があるのかないのか分からないってみちるは言ってたぜ」
「グッ……」
見事にカウンターを入れられた。
「でもボクらは何度もデートを重ねて来ましたし、3年も付き合ってきたんですよ」
「昔の話は問題じゃねえだろ。要は今よ。今、俺とお前がプロポーズして、みちるが迷ってる。迷ってるってことは、同じ土俵に立ってるってことだぜ」
今度はクロスカウンターだ。
馬部は危うくダウンしそうになる心を奮い起こして牛尾に立ち向かった。
「で、でも……そうだ、白峰組だ!」
馬部は何とか反撃の糸口を掴もうと必死だった。
「白峰組? 馬部、まだ白峰組に関わってるのか?」
「るい子さんや白峰さんがボクに付きまとって困ってるんですよ。ボクを牛尾さんの身代わりみたいに考えてるんですよ」
「へえ」
牛尾には、それは初耳らしかった。
「牛尾さんが白峰組に戻れば、丸く収まるんです。大松さんたちも期待してましたから、組に戻ってあげたらどうですか?」
「俺はもうカタギの人間だ。今更白峰組に戻る気はねえ……るい子お嬢さんはいい子だぜ。馬部、もらっちまったらどうだ?」
「…………」
マズイ。押されっ放しだ。何か言わないと。
しかし考えても考えても、馬部には自分が牛尾より有利な立場にあるという論拠が見付からなかった。
馬部は今更ながらに、自分がみちるに対して、自分の気持ちを伝えるようなことを何もしていなかったことに気付いた。
確かに馬部はみちると3年付き合っている。しかしそれが何だというのだろう。
「悪ィが、俺がプロポーズさせてもらうぜ。この牛尾政美、惚れた女を譲るほどお人好しじゃねえ」
牛尾が鋭い目つきで馬部を睨んだ。
この目は――本気だ。
●13:40 喫茶シルベール
馬部は、今までのみちるとの過去を回想していた。
みちると一緒に結婚式場の前を通ったとき、みちるの「わたしたちも近くここに来るんでしょうね」という言葉を「そうだね、木公田聖子さんの結婚式、もうすぐだもんね」と惚けたこともあった……。
みちると一緒に東急本店へ買い物に行ったとき、ダブルベッドを見て「ウマちゃんの体格じゃ、このぐらいの大きさがないと二人で寝れないかしらね」というみちるに「ボクは一人しかいないよ」と無理にトボけたこともあった……。
「確かにボクは今まで、みちるにハッキリした返事することから逃げてきた」
馬部は俯いて小声で言った。
みちると比較されることが恐かった。
それはみちるに俳優としての輝きを奪われることが恐かったということだ。
俳優の持つ輝きは、水とは逆に低い方から高い方に流れていく。
つまり輝きをあまり持たない脇役俳優は、より輝きを持つ主役俳優に輝きを吸い取られ続ける。
その結果、芸能界は数人の主役俳優を頂点とした輝きのピラミッドを構成することになるのだ。
ピラミッドの底辺に蠢く無数の名もない俳優は、より輝きを持つ俳優を輝かせるためのエサにすぎないのだ。
現実として今の馬部とみちるが結婚した場合、馬部はみちるに輝きを奪われ、世間からは「みちるの」亭主としか見られなくなる。
それは確実だった。
「――それでも」
馬部は顔を上げた。
みちるに過度に依存することは、俳優としての馬部甚太郎の死を意味する。
俳優として、その道を選ぶことに馬部は躊躇していたのだ。
「――それでも!」
体が熱くなる。頭に血が上る。目の前に真っ赤なカーテンが掛かったような感覚に、馬部は異常に興奮していた。
「おい、大丈夫か?」
牛尾の声も、馬部の耳には入らなかった。
馬部は興奮のあまり、椅子を蹴って立ち上がった。
「みちるを取られるわけにはいかないんだ!」
馬部の叫び声が、ガランとした喫茶店にこだまする。
「オイ、何だよ急に」
牛尾は急に立ち上がった馬部に面食らって目をパチクリさせている。
馬部は牛尾に指を突き付けて言い放った。
「う、牛尾さん。ボクはあなたに決闘を申し込みます!」
「なにっ! 決闘だと?」
牛尾は仰天して、飲みかけのコーヒーを吹き出す。
コーヒーが馬部の顔に掛かったが、馬部は全然熱くなかった。
「ボ、ボクも男です。あなたと同じで、惚れた女を他人に渡すわけにはいきません。たとえ体を張っても、みちるは守ってみせます!」
馬部の体にはコーヒーより熱い闘志がメラメラと燃えていた。
「本気か?」
牛尾は、さっきと同じ問いを発した。
「もちろんです。さあ、時間と場所は牛尾さんが指定して下さい。今からでも結構です」
牛尾は馬部の捨て鉢の勢いに驚きつつも、真剣な表情で考えていた。
「……分かった。今日の午後6時。場所はハチ公前でどうだ」
今からちょいとヤボ用があってな、と牛尾は続けた。
「分かりました。それで結構です」
馬部は座ったまま動かない牛尾を尻目に、さっさと喫茶店を出た。
・木公田聖子:元祖アイドルにして元祖ママドル。特定のモデルはない。渋谷で香月ミカレに対抗してつばめ狩りをしているという噂。
・輝きのピラミッド:ピラミッドの中には小さなピラミッドがあり、その中にはもっと小さなピラミッドがある。カースト制は細かく区切れば区切るほど制度自体は強固なものになる。
・ヤボ用:高峰綾の恋愛相談。綾の恋人が積極的でないので牛尾が相談を受けた。結局牛尾が恋人のフリをすることになる。
●13:40 ファイアー通り
「うおおおおおお!」
馬部は、ファイアー通りを炎のように燃えながら走った。
牛尾との決闘には負けるわけにはいかない。
なにせみちるが賭かっているのだ。
馬部は、もちろんみちるが好きだ。結婚したいと思ってる。
しかし今まで、自分の心情的な都合でみちるにを待たせてしまっていた。
この決闘は、いわばみちるへの贖罪だ。
今までの優柔不断な自分を清算し、新たな気分でみちるにプロポーズするのだ!
「うおおおおおお!」
馬部は、ファイアー通りを炎のように燃えながら駆け抜けた。
「きゃっ!」
火の玉と化していた馬部は、一人の女性の悲鳴で我に返った。
馬部はハチ公前まで来ていた。
どうやら興奮して走りすぎたらしく、人にぶつかってしまった。
「あっ……すみません」
馬部の足許に、黄色い上着を着た高校生くらいの女性が尻餅をついていた。
「優作が……」
「え?」
「ウアアアアアアァァァァァ!!」
「ああ……赤ん坊か……」
女性の胸に抱かれた赤ん坊が、火が着いたように泣き出した。
女性は咄嗟に赤ん坊を庇ったのだが、やはり倒れたショックを殺しきれなかったらしい。
「ご、ごめんなさい」
「いえ、いいんです」
馬部が謝っても、赤ん坊の鳴き声が小さくなることはなかった。
「ひそひそ……」
「あの人、さっきもキャベツ教の人を……」
「赤ん坊にまで……」
馬部の回りにいた人が、口々に何かを呟きながら離れて行った。
「キャッ! 寄らないで!」
馬部が見ただけで、回りの女性は悲鳴を挙げて逃げ去った。
「…………」
そうしている間にも、赤ん坊の泣き声はますます激しくなっていく。
馬部がぶつかった女性は地面に手を突いたまま、まだ起きていなかった。
「あっ。どうぞ」
馬部が倒れた女性に手を差し出す。
「……いえ、大丈夫です。一人で起きられます」
女性はそう言ったが、その声には力がこもっていなかった。よく見れば顔色も蒼ざめている。
「ひょっとして、何か病気なんですか?」
「いえ。ちょっと疲れただけです……大丈夫です」
「そう言わず。さ、そこに座るとよいですよ」
馬部はガラガラになったベンチの一つを指さし、女性を座らせた。
●13:50 ハチ公前
「ご心配をお掛けしました。もう大丈夫です」
ベンチで少し休むと、女性の顔色はすぐに良くなった。赤ん坊もそれを察したのか、今は静かに眠っている。
「本当に、病気じゃないんだね?」
「昨日徹夜で荷物をまとめて出てきたもので……多分疲れが出たんでしょう」
確かに、女性は大きな荷物をいくつも抱えていた。
「えっと……」
高校生くらいの女性が赤ん坊を連れて、大荷物で東京に出てくる。
こ、これはひょっとして……。
馬部は一抹の不安を感じた。
「君、ひょっとして家出してきたんじゃないの?」
「え? ヤダ。なに言ってんですか」
女性は、驚いて目を真ん丸にした。
「悪いことは言わないから、すぐに家にお帰りなさい。東京は、そんなに甘いところじゃないよ」
ドラマの世界でも、家出娘は東京を目指すものと相場が決まっていた。
『東京に出れば、きっと巧い働き口が見付かって幸せになれる』
そんな夢を抱いて上京するものの、大概は夢やぶれて水商売に身を落としたりするのだ。
「ホントに私、家出して来たんじゃないですよ……あ、そういえば自己紹介がまだでしたね。私、片瀬ユキと言います。19歳です」
ユキは、胸に抱いた赤ん坊の顔を馬部の方に向けた。
「息子の優作です。ホラ、優作。おじさんにご挨拶なさい」
ユキは眠ったままの優作の体を少し傾けて、お辞儀させた。
馬部は優作の頭を少し撫でて微笑んだ。
「初めまして、優作君。馬部甚太郎です」
優作はムニュムニュと口を動かしたが、すぐにまた寝入ってしまった。
「眉がしっかりしている。きっと将来は、女の子にモテてしょうがないイイ男になりますよ」
馬部は誉めたつもりでそう言ったのだが、逆にユキの表情は暗く曇ってしまった。
「そう見えますか? それはきっとパパに似たんでしょう」
……まずいことを言ってしまった。
すると優作はプレイボーイに騙されてできた子どもなのだろうか?
女の子に生ませっぱなしで責任をとらないとは、悪い奴がいるものだと馬部は一人憤慨した。
「あ、そんなじゃないです。優作は陽平と真剣に愛し合ってできた息子です」
陽平というのがプレイボーイの名前らしい。
考えたことが表情に出たのだろうか? ユキが先回りして馬部の疑問に答えた。
「でも、魔が差すって言うんですか? 結婚前だって言うのに陽平ったら、そういうことが頻繁にあるみたいで……」
馬部は『そういうこと』が頻繁にあるようでは、『魔が差す』とは言わずに『手癖が悪い』と言うのではないかと思ったが、それを言っても詮のないことである。
代わりに馬部は、ユキを安心させてあげることにした。
●14:00 ハチ公前
「ユキちゃん。実はボクも、今度結婚することになりそうなんだ」
「えっ!」
相手はもちろん、るい子ではなくみちるである。
馬部は今晩の牛尾との決闘に勝って、みちるにプロポーズするのだ。
「ホントですか?! 相手の方は、どんな方なんですか?」
ユキは、こぼれんばかりの笑みを浮かべた。
女の子は大概、こういう話題に目がないものなのだ。
「まだ正式なことじゃないので名前は伏せさせてもらうけど……すごく優しくて、ボクのことを信じてくれる人なんだ」
そう。
みちるは、常に馬部を信頼してくれていたのだ。
『そんなに自信ないなら、役降りるなり、役者辞めるなり、どうぞ好きにしなさいよ』
3日前の池落ちのシーンの直後。
みちるは馬部に厳しい一言を放った。
一見冷たい態度に見えることがあっても、それは馬部を奮起させるためのことなのだ。
馬部は内心それに気付きながらも、気付かないふりを続けていたのだ。
気付いてしまえば、みちるの思いは馬部にとって重荷になる。馬部はそれを背負うことを、拒否し続けていたのだ。
結婚話も、馬部が遠からずみちる以上の輝きを持つ役者になると信頼したからこそみちるは乗り気だったのだ。
みちるが結婚話を切り出す度に、馬部の良心はチクチクと痛んでいた。
「ボクはその人以外に、女の人を好きになることはないだろうね」
「ひゃあ……」
聞いているうちに興奮したのか、ユキは顔中真っ赤になっていた。
「ちょっと、その人が羨ましいです。そこまで言ってもらえるなんて」
馬部も少し恥ずかしそうに頭を掻いた。
「ボクも彼女のことを信じてるからね」
「陽平も私のこと、信じてくれてるのかな……」
ユキは溜め息を一つ吐き出した。
「そうだ、ユキちゃん。いい言葉を一つ、教えてあげよう。『苦難は忍耐を生じ、忍耐は練達を生じ、練達は希望を生ず』。これはね……」
「ハイッ! ご説明致しましょう!」
誰一人回りにいなかったはずなのに、突然分厚い辞書を持った坊ちゃん刈りの少年が馬部とユキの前にあらわれた。
●14:10 ハチ公前
「あ、あれ? 君、誰?」
「き、きみ、どこから来たの?」
突然あらわれた少年に戸惑う馬部とユキを無視して、当の少年は悠然と解説を始めた。
「数々の映画や小説などに引用されるこの言葉は、元々は新約聖書にある言葉です。ローマの信徒への手紙の中で使徒パウロが述べた言葉として、第5章第3~4節に記されています。
以来、この言葉はイエス・キリストへの無条件の信頼を示す言葉としてあちこちに引用され、世界中を巡ることになるのです。この言葉を始めとして、『この中で罪のない者がまず石を投げなさい』や『カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返すがよい』など、聖書にある言葉は様々な形で人々に記憶されています。世界一のベストセラーの面目躍如というところですが……」
馬部とユキは呆然と少年の解説を聞いていた。
「……お呼びでない? お呼びでない?」
馬部とユキは不機嫌な表情で頷いた。
「こりゃまた失礼しました~~」
その場にいた人が全員すっ転んだ。
少年は、現れたときと同じように突然姿を消した。
●14:20 ハチ公前
「何だったんだ……あの子は?」
「さあ?」
「あれが噂の……」
「……うんちく少年?」
謎の少年が去った後のハチ公前がざわめいている。
馬部とユキはベンチに座り直して、話を再開した。
「ま、変な邪魔が入ったけど、要は君が……陽平君? 彼を好きなら、どんなことがあっても彼を信じ抜かなきゃ」
ユキは優作の頭を撫でながら、少し考えた。
「そうね。それはそうだわ。私が陽平を信じなきゃ、他の誰も陽平を信じないわ。だって私は……」
馬部は、ここぞとばかりに同調した。
「そうさ。君が陽平君を信じなきゃ、陽平君も君を信じてはくれないよ。君が陽平君を信じれば、きっと陽平君は君を信じてくれる。男は信じた女を裏切れないんだよ」
「馬部さん!」
ユキは歓喜の表情で馬部に抱きついて、軽く頬にキスをした。
「ユ、ユキちゃん……」
「馬部さん、ありがと! 正直言って、もう一つ陽平を全面的に信じ切れていなかったの。だけど、あなたのお陰で最後まで陽平を信じる覚悟ができたわ!」
馬部は若い娘の意外な行動に、柄にもなくドキドキしていた。
ユキにキスされた辺りをそっと手で擦ると、口紅らしき朱が馬部の指先を薄く染めた。
馬部とユキの間に挟まれた優作が目を覚まして、ダーと声を挙げた。
「私、さっそく陽平を捜しに出掛けようと思います……実は馬部さんと会ったときも陽平を探している途中だったんですよね」
ユキは優作を素早く抱え直すと、すっくとベンチから立ち上がった。
「探すって、陽平君の居場所に心当たりがあるのかい?」
「さっき、おばさまに電話で聞いたんです。陽平、渋谷のどこかのデパートにいるらしいですから」
「じゃあ今どこにいるのか、分からないね」
馬部がそう言うとユキは大きな瞳を馬部に向けて、ニコッと笑った。
「だったら、片っ端から当たってみるまでよ!」
馬部は、自分がもう若い娘の行動力についていけない年齢であることを自覚した。
●14:30 西武百貨店A館
「ユキちゃん、大丈夫?」
「ハイ……大丈夫です」
馬部とユキは渋谷駅から最寄りのデパート、西武百貨店A館に来ていた。
馬部はユキの大荷物の一部を肩に担いでいた。
ユキは固辞したのだが、赤ん坊連れの上に体調の悪いユキに無理をさせるわけにはいかないと、馬部が半ば無理矢理荷物運びを手伝ったのだ。
「さあて……陽平いるかしら?」
ユキはキョロキョロ辺りを見回しているが、それらしい人影は発見できなかったようだ。
「呼び出しを掛けてもらえば、ハッキリするさ」
馬部は手近な店員を捕まえて、呼び出しの頼み方を尋ねてみた。少しユキの行動力に感化される部分があったらしい。
「呼び出しは案内所で頼むらしいよ」
馬部とユキが少し歩くと、階段の脇にある白いカウンターが見えてきた。
「ああ、あそこよ。行きましょ、馬部さん」
馬部とユキが着くと、カウンターに立っていた制服姿の女性店員が上品に礼をした。
「いらっしゃいませ」
「あの。呼び出しをお願いしたいんですが」
馬部が言うと、女性店員は専用の用紙を取り出した。
「それでしたら、こちらにお呼び出しになりたい方のご住所とお名前をお願いいたします」
女性店員が、カウンターのユキの前に紙とボールペンを置いた。
ユキはボールペンを手に取るが、同時にフウと大きな息をついた。そういえば、顔も少し赤くなってきている。
やはり疲労が溜まっているのだろうか?
「……ユキちゃん。荷物運びのカートと薬を買ってきてあげるから、しばらくここにいるんだよ」
「えっ。そんなの、いいです。大丈夫です」
ボールペンで陽平の住所を書いていたユキが顔を上げたが、馬部は有無を言わさずユキの額に手を当てた。
「ホラ! すごい熱じゃないか。君は陽平君に会いたいんでしょう? こんな大荷物持ってるのに体調が悪いままじゃ、陽平君に会う前に倒れてしまうよ」
「でも私のために、馬部さんにそこまで迷惑を掛けるわけにはいきません」
「何を言ってるんだい? 君のためじゃないさ」
「えっ?」
「優作君のためさ。今、君が倒れると優作君が困るじゃないか。ボクは子ども好きでね」
馬部は、ニッコリ笑ってユキを見た。
「馬部さん……」
「本当は病院に行くのが一番なんだけど……君は病院に行きたいかい?」
ユキはぶるると顔を振った。
「なら薬くらいは大人しく飲まなきゃ駄目だ。優作君のためにも、ね」
「……じゃあスミマセン。お願いします」
「動いちゃ駄目だよ」
馬部は一つ頷くと、ユキに背を向けて走り出した。
●14:40 西武百貨店A館
『お客様のお呼び出しを申し上げます。渋谷区神泉からお越しのトビサワヨウヘイ様。お連れ様がA館一階の案内状でお待ちでございます……』
ユキの掛けた店内放送を聞きながら、馬部はデパートの中を走っていた。
「デパートの中に薬局があるかもしれない」
馬部は、デパートの中をグルグル走り回った。
●14:50 西武百貨店A館
「な……ない」
馬部は地階から最上階まで走り回ったものの、薬局を見付けることができずにションボリとエスカレーターで降りていた。
「店員さんに訊いてみるか……」
馬部は手近な店員を捕まえて、薬局の場所を訊いてみた。
「当店では、薬品類は扱っておりません」
白髪の混じった年輩の男性店員は、眉一つ動かさずにそう言った。
「え、全然ないんですか? 風邪薬でいいんですけど」
「そもそも、当店には薬局薬店がありませんので……」
百貨店と言うくらいだから何でも売っているものと馬部は思っていたが、西武百貨店には薬局はないらしい。
「よろしければ、非常用に常備してある店の薬をお分けしますが……」
ありがたい話だが、別にユキは倒れたわけでもウンウン唸っているわけでもないので、そこまでしてもらうのも申しわけない気がする。
「いや、そこまでして頂かなくても……」
しかし困った。この店に薬局がないとすると、店の外まで風邪薬を買いに行かなければならない。
確か渋谷駅から109に行くまでに薬局があったはずだ。少し時間がかかるが、風邪薬はそこま行って買うしかないだろう。
馬部は、もう一つ店員に訊いた。
「ショッピングカートは、どこで売っていますか?」
年輩の店員は相変わらず無表情だったが、慇懃な口調でそれに答えた。
「それでしたら、2階の家事雑貨売場になります」
「そうですか、どうも」
馬部は、挨拶もそこそこに駆け出した。
馬部はエスカレーターを走り降りて2階の家事雑貨売場に駆け込むと、展示してあったカートをひっ掴んでレジに差し出した。
「ありがとうございました」
代金を払うや、馬部はカートを引いて走り出した。
・薬品類は扱っておりません:長距離電話掛けて聞きましたから間違いないです、ハイ。
・薬局薬店:薬局と薬店の違いをご存じか? ズバリ言えば調剤が出来ずにクスリを置いてるだけなのが薬店。調剤が出来るのが薬局。設備や仕事内容などに違いが出る。
・109に行くまでに薬局があった:京都から実際行って確かめてきました。ハイ。
・2階の家事雑貨売場:これまた長距離電話掛けて聞きました・ハイ(同じパターンでしつこいって?!)
●15:00 西武百貨店A館
A館を出たところで十月らしからぬ強い日差しが馬部に照り付けた。
馬部は上着を脱いでカートに縛り付けた。
「……マーフィーの法則って、本当だな」
こんな大荷物を持って走り回らなきゃいけない日に限って太陽はきついし、気温も高いのだ。
「えい、仕方ない!」
馬部がカートを持ち上げて走り出そうとしたそのとき、地面が大きく揺れた。
「きゃっ!」
「地震よ!」
道行く人々が、慌てて頭を庇ってその場にしゃがみ込んだ。
「わっ!」
馬部はカートを持ち上げるタイミングがすっかり狂ってしまい、派手に転倒した。
「いたたた……顔、擦っちゃったな……」
馬部が顔を押さえながら立ち上がった。
手で擦ってみても血は出ていなかったが、右頬がヒリヒリしていた。地面に頬をしたたかに擦り付けた。
馬部が顔を上げると既に地震は収まっており、辺りの人は互いに「ビックリしたね」などと言い合っている。
「収まったか……あ! こんなことしてる場合じゃなかったっけ!」
馬部はカートを抱え上げると、再び走り出した。
目的の薬局に着くと、馬部は薬剤師の常駐しているカウンターに直行した。
「すみません。下さいな」
馬部が言うと白い上っ張りを着た女性の薬剤師は、スプレータイプの薬をさっとカウンターに置いた。
薬の胴体には赤い文字でメキロンと書かれていた。
「目に入らないように、ガーゼに吹き付けてから傷に宛てるといいですよ」
ユキの症状も言わないうちに薬が出てきたことに面食らって、馬部はスプレーを手に取った。
「擦り傷、切り傷、金瘡……なんです、これ?」
「擦り傷の薬じゃないんですか?」
白衣の女性は、さも意外なことを言われたかのように眉を寄せ、後ろの棚に掛けてあった鏡を取って馬部に渡した。
「げ……!」
馬部の頬には、さっき倒れたときについたとおぼしき擦り傷が一筋ついていた。
「てっきり、その傷の薬だと思って……」
偶然か、擦り傷の位置は昨日までヤクザ傷の会った辺りだった。
「いや、そうじゃなくて、風邪薬が欲しいんです」
「どんな症状ですか?」
馬部はユキの症状を説明して、薬剤師に薦められた解熱剤を買った。
「急がなきゃ!」
馬部は解熱剤をポケットに押し込むと、再びカートを担いで走り出した。
・薬剤師:家が薬局だったから薬剤師になった人が一番多い。二番目に多いのは医師になり損ねて薬剤師になった人。そう言う人は妙に医師にコンプレックスがあるらしい。
・メキロン:プロレスラー大牟田厚がCMをやっている。大牟田は今、自分の団体を旗揚げするために5万円だけもって渋谷を徘徊している。
・薬剤師に薦められた:風邪は感冒や疲労など、「少し体の調子が悪い状態」の総称なので、「このクスリを飲めばどんな風邪でも治る!」というクスリは存在しない。風邪薬は症状を言って薬剤師に選んでもらおう。
●15:10 西武百貨店A館
「あれ? ユキちゃん?」
馬部がユキと別れた案内所に戻ってみると、ユキの姿は消えていた。
「???? ……あの、すみません」
さっき呼び出しを頼んだ案内所の店員を捕まえて事情を聞いてみると、ユキは若い男女と何やら話し合っていたらしい。
「陽平君に会えたのかな? ……で、ユキちゃんは、今どこに?」
女性店員は営業スマイルを崩さずに答えた。
「体調がお悪かったようで、お連れの男の方がおんぶして表に向かわれました」
「! ホラ、言わないことじゃない」
やはり体調を崩してしまったらしい。
おんぶされて運ばれて行ったそうだから、多分病院にでも運ばれたのだろうが……。
「ユキちゃん、大丈夫かな……?」
結局、ユキが陽平に会えたのかどうかも、確実なことは不明なままである。
「このまま放っておくのも、何となく無責任な気がする」
ユキがあの状態では優作のことも心配だ。
「病院に行ってみよう」
馬部はカートをその場に置き去りにして、デパートを後にした。
●15:20 渋谷中央病院
渋谷中央病院は、東京とは思えないほど広い敷地のド真ん中に建てられた総合病院だった。
「ここか……」
その玄関に立つと馬部は『白い巨棟』という病院を舞台にしたドラマを思い出した。
「あの頃のドラマは面白かったなあ……いや、そんなこと言ってる場合じゃない」
病院の玄関にある案内図を見ながら、馬部は考えた。
「タクシーで運ばれて来たんなら……ERかな? それとも風邪だから内科かな?」
そのとき馬部の袖を、誰かがチョイチョイと引っ張った。
そちらを見ると、浅黄のパジャマに空色のカーディガンを羽織った小さな女の子が、馬部の服の袖を引っ張っていた。
「だれか、捜してるの……?」
7、8歳だろうか? 透き通るような色白ながら大雑把なおかっぱ髪の女の子は、子どもらしからぬ無表情で馬部を見上げていた。
「ああ……君は、入院してるのかい?」
少女はコクリと頷いた。
「ここ2、30分ほどの間に女の人が運ばれてこなかったかい? 黄色い服を着た、片瀬ユキって名前の女の人なんだけど」
少女は表情を変えずに、小首を傾げた。
「ずっとここにいたけど、そんな人、来てないよ」
「本当? ウーン。困ったな」
ここに来ていないとすると、もっと遠くの他の病院に運ばれた可能性がある。
あるいは陽平の家や知り合いの病院に運ばれたとすれば、馬部には捜しようがない。
「その人、心配?」
少女が馬部に訊いた。
「ああ、心配さ。ユキちゃん、ちょっと体調を崩してたからね」
馬部は少女に話しかけながら、この少女の持つおかしな雰囲気に気付いた。
顔立ちは悪くないものの、表情の乏しさがその魅力を打ち消していた。
発育不良かと思えるほど手足が細く、立っているのが不思議に思えるほどだった。
少女は無造作だが、身じろぎもせずに馬部を見つめていた。
「だいじょうぶ。今日はだれも死なないから、ユキさんもきっと生きてるわ」
少女は、初めて感情――薄笑いを表に出した。
「はあ……?」
馬部は困惑の表情で、奇妙なことを言い出した少女を見つめていた。
「こらっ、絵梨! また余計なこと、いってるなッ!」
ロビーの方から年輩の男が、車椅子に乗ってやってきた。車椅子を押している白衣の男は、この病院の医者だろう。
「…………」
少女――絵梨は目だけ男の方を向いたものの、男の声など聞こえないように馬部の方を向いていた。
「絵梨ちゃん」
車椅子を押していた若い医者がそう言うと、絵梨は初めて声が聞こえたようにクルリと振り向いた。
「そろそろ部屋に戻らないと駄目だよ。約束したよね?」
「ん」
絵梨は頷くと、トトトとロビーの奥に駆け込んでいった。
「あ……ありがとう。絵梨ちゃん」
馬部が言うと、絵梨は角に消える直前に、チラリと馬部の方を見た。
「…………」
そして身を翻して、角の奥に消えてしまった。
「大人が挨拶してるのに、無視するとはどういう子どもなんだ!」
車椅子に乗った年輩の男は、相変わらずプリプリ怒っている。絵梨に何か恨みでもあるのだろうか?
「照れてるんですよ。あの子も悪い子じゃないんですよ」
「先生、冗談言っちゃいけない。わしにはあの子が悪魔か死神の子のように思えるがな」
年輩の車椅子男は、馬部を見た。
「あの子は、誰がいつ死ぬかをピタリと当てるんだ。悪魔以外に、そんなことができるか?」
そういえば、確かに絵梨は「今日は誰も死なない」と言っていた。不思議なことを言う子だと思っていたが、それが当たるとは馬部にはとても思えなかった。
それより、せっかく病院の医者に会えたんだ。ユキのことを訊いてみようと馬部は思った。
「先生、ここ三十分ほどの間に黄色い服の患者が運ばれて来ませんでしたか?」
医者は受付や看護婦にも訊いてくれたが、その答えは絵梨のものと同じだった。
「そうですか……分かりました」
ユキがこの病院にいないのなら仕方がない。デパートの店員も陽平らしき男に会っていたと言っていたし、きっとユキは無事でいると信じよう。
馬部には、そうするしかなかった。
「それよりあなた、頬を擦りむいていらっしゃいますね」
白衣は、さっき馬部が転んだときにつけた頬の擦り傷に気付いたらしい。
「消毒しておかないと、破傷風になるかもしれませんよ……僕は鳥居と言います。さ、奥へどうぞ」
・白い巨棟:新人医師が主人公の病院ドラマ。半ば伝説となっているが、ビデオが出ていない。なぜ?
・ER:緊急病棟のこと。一刻も早い処置が必要な人が運ばれてくる。エマージェンシールームの略。黒人の医師がハバを効かせている。
・小さな女の子:真喜志絵梨。シーハーの妹。連日変な夢を見て、行動にも奇矯な点が認められるので入院している。キャラクターの掘り下げでは趣味に走ってしまいました。スミマセン。
・年輩の男:コンビニ「生活採花」店主。疲労で入院中。まだ自力で歩けないので車椅子生活だが、やたら元気そうなのは気のせいだろうか?
・誰がいつ死ぬかをピタリと当てる:昔スクールウォーズでこういう人がいた……。
・破傷風:最近ではその恐ろしさを忘れられつつある。若い男女の血をホラ貝一杯ずつ混ぜて浴びせても治りません。
・鳥居:小児科医師。絵梨の担当医。
●15:30 渋谷中央病院前
鳥居に傷を消毒してもらった馬部は、病院を後にしていた。
傷は特に痛くはなかったが、馬部の右頬には大きなガーゼが張り付いていた。
「兄貴!」
病院の前庭を歩いていた馬部の後ろから、聞き覚えのある声が追い掛けて来た。
「……ゲッ!」
それは、大松だった。
大松は玄関を出て、こちらへ向かって走って来ている。
咄嗟に馬部は逃げようとしたが、大松と自分の体力差を考えると追い付かれる可能性の方が高いと考えて、逃げたがる心をグッと押さえ付けた。
「お、お前、どうしたんだ。こんなところで」
馬部に追い付いた大松は、消毒液の匂いを発散していた。
「毎日、傷口の消毒に来なくちゃいけないんす……全く、山吹が渋谷に潜伏してるってのに、本当はこんなことで時間取ってられないっすけどね」
馬部は、自分が吐いた嘘がまだ生きていることに意外な思いに捕らわれた。
「そうだ、兄貴。山吹に射たれた傷は大丈夫っすか?」
「えっ?! 山吹に? 射たれた?」
そんな話は、初耳だ。
「えー……コホン。大松、一体誰から、そんな話を聞いたんだ?」
「え? 組の若い連中っすけど……兄貴が射たれた直後に、何人か若い連中が駆けつけたでしょう? そいつらが事務所に戻って報告したんすよ。ここには、その傷の手当に来たんすか?」
いよいよ、初耳だ。
ということは組の若い者は、誰が撃たれたところを見たのだろう? 少なくとも自分ではないことは分かっている。すると……。
「牛尾さんだ! 牛尾さんが山吹に?」
思わず叫んだ馬部を、大松が不思議そうな表情で見ていた。
「そうっすよ。兄貴、自分のことなのに何言ってるんすか」
「い、いや……」
山吹が本当に渋谷に潜伏しているとは思わなかった。
馬部はヤクザ社会には詳しくないが、関東一円に勢力を広げている白峰組を敵に回しいた場合、即座に東京から逐電して地方で今回の事件の熱が冷めるのを待つのが、普通ではないのだろうか。
「それが、射たれたときの傷ですか?」
「いや、これは……」
頬のガーゼを見て大松は大袈裟に騒ぎ立てた。
「拳銃持った相手に素手で立ち向かってこの程度ですむなんて、いやさすが“暴れ牛”。ますます貫禄がついたっすよ!」
「そ、そうか」
馬部は、困った顔で適当に相槌を打った。
・傷口:指を詰めた傷。小指を詰めると握力が落ちるため、ドスが握れなくなる。それにより極道生命を立つことが本来の意味。拳銃が出来てからはタダの懲罰としての意味しかなくなった。
●15:40 渋谷中央病院前
「……それより兄貴。この病院には絵梨ちゃんの見舞いに来たんすね? オレ、さっき見たっす」
「絵梨ちゃん?」
馬部は、さっき病院の玄関であった女の子を思い出した。
「大松。お前も、絵梨ちゃんを知ってるのか?」
「もちろんっす。シーハーの妹っすからね」
「シーハー?」
と、言われても馬部には誰のことだか分からない。人名にしては変わっている。外国人だろうか?
あまり余計なことを言うとぼろが出るので馬部が黙っていると、大松は一人でしゃべり続けた。
「いいとこあるっすね。舎弟の妹を秘かに見舞うなんて」
どうやらシーハーというのは、白峰組員の名前らしい。
「ま、まあな。兄貴分として、当然のことだ」
「さすがっす、兄貴!」
そのとき、どこかで携帯電話の電子音が鳴った。
大松は右手一本で携帯をポケットから出すと、通話スイッチを入れた。
「ハイ、大松っす……ハイ。ハイ……分かったっす……え?」
大松は、そこまで言うと急に馬部の方を見た。
厭な予感。
馬部は思わず目を逸らした。
「兄貴なら、ここにいらっしゃるっす……ハイ。代わります」
大松は、携帯を馬部に差し出した。
「組長からっす」
やはり、厭な予感というのは当たるものらしい。馬部は大松から目を逸らしたまま、それを受け取った。
「ご、ご無沙汰しています」
「ウン? 牛尾じゃないな。馬部君か?」
「ハ、ハイ……」
どうやら白峰は牛尾に用事があったらしい。
馬部はまたしても、牛尾のとばっちりを喰らった形である。
「それがその……」
「あの後、君と別れた場所に人をやったが、芸能事務所なんて何処にもなかったと報告して来おった……どういうことだね?」
「いや、それは話せば長いことで……」
馬部はしどろもどろになったが、白峰を納得させられるだけの説明は思い付かなかった。
「とにかく今から車を回す。その車に乗って、事務所に来たまえ。君にも話がある」
「ハイ……」
馬部は、反論せずに従うことにした。