10月15日
猪野の家・朝
牛尾は携帯の音で目を覚ました。
麗子「おっはよう、朝だぞ、起きろ」
電話に出ると、麗子の威勢のいい声が耳に入る。
牛尾「何だよ・・・。まだ7時じゃねえか」
まだ半分閉じている目をこすりながら言う牛尾。
麗子「もう7時でしょ。今日も一日気合い入れて探そうな。あ、あたし今日午後から暇だから、一緒に手伝ってあげるよ。今日の予定はどうなってる?」
牛尾「おう、9時にハチ公前で被害者の子と会う約束してる」
麗子「へえ、約束取れたの?なかなかやるじゃない」
牛尾「まあな、そんぐらいちょろいもんだぜ」
麗子「じゃああとで会いましょ、またね」
電話を切る麗子。
牛尾はボリボリと背中を掻きながら、大きな伸びを一つ打つ。
長い一日がまたこの街で始まる。母ちゃんのいるこの街で。
牛尾は対母ちゃん用の計画表のことを思い出した。
”最悪の場合、本当に最後の手段として、俺は奴を探さなければならない。俺の身代わりになれる唯一の男、馬部甚太郎を。”
しかし、彼の居所を今知るすべはなかった。やつを探している暇があるのなら、今の仕事を片付けてしまった方が手っ取り早い。
牛尾は頬を両手で叩き、気合いを入れ直した。
ふと横を見ると、相棒の猪野はまだ起きていない。万年床の中で小さないびきを立てている。
牛尾「おい、起きろイノシン」
反応はない。牛尾は力任せに布団を引っ剥がす。
猪野「うう、寒い・・・」
牛尾「起きろ。出動だ」
猪野はそれでも起きようとしない。目をつぶったまま布団を探し当て、また頭からかぶる。
猪野「うう・・・、行きたくない・・・」
牛尾「ダメだ、俺の命令に従え」
猪野「いやだ、女なんて、みんな、俺のことバカにしてるんだ・・・」
牛尾「おう、その通りだ、その通りだから、行くぞ」
無理矢理猪野を引きずり起こす。猪野も抵抗するが、力の勝負で牛尾に勝てるはずがなかった。
ハチ公前・朝
結局二人揃ってハチ公前にやって来た。猪野はもう諦めたのか、いくぶん足取りも軽くなっている。
人だかりから少し離れたところに、一人で立っている女がいた。
牛尾が彼女に抱いた印象を一言で言い表すと、”茶色”だった。
茶色いのではなく、”茶色”そのものの女だった。髪の毛の先からむき出しの太ももまで、とにかく全身が茶色なのだ。
牛尾は彼女が自分と同じ種族であることが信じられなかった。
牛尾「あの、かおりさん?」
恐る恐る声をかけてみる牛尾。心のどこかで、違っていてほしい、と祈りつつ。
しかし、返って来た言葉は、その期待を裏切るものだった。
かおり「ハイッ」
明るく返事をする女。
牛尾「あ、そう、じゃあ、とりあえずどっか入るか」
昨日の女とはまたえらい違いだな、そう思いつつ、昨日と同じ店に連れていくことにした。
喫茶店・朝
女は店に入るなり、ペペロンチーノとミックスサンドとバナナジュースとチーズマフィンを注文した。
かおり「昨日の夜から何も食べてなくってえ」
大の男二人が見守る中、勢いよく食べまくる女。
猪野が小さな声で牛尾に耳打ちした。
猪野「俺さ、こういうギャル系、一番ダメなんだよね、何言っても話通じそうにないじゃん」
牛尾「・・・よし、ここは俺に任せとけ。お前はテープ頼むぞ」
猪野「分かったよ。・・・ったく、来るんじゃなかった」
猪野は渋々とかばんに手を入れ、テープの録音スイッチを押す。
かおり「何ゴチャゴチャ言ってんの?」
牛尾「いや、よし、じゃあ早速だけど、あんた、高校生か?」
かおり「うん、高2、16歳、ピチピチ」
牛尾「・・・で、いつ入れ墨に気付いたんだ?」
かおり「えっとぉ、確か3ヵ月前にぃ、彼氏が見つけたの」
牛尾「で、いつ入れられたかは全然分からなかったのか?」
かおり「うん、全然覚えてない」
牛尾「知り合いにそういうことしそうな奴いるか、彫師とか、美大生とか」
かおり「彫師って?」
牛尾「だから、入れ墨を彫る仕事の奴だよ、彫師」
かおり「ああ、タトゥショップの店員さんに知り合いいるよ、それに友だちは大体タトゥ入ってるし、あたしもぉ、ちょーど入れようと思ってたとこだったのぉ。だから得しちゃった」
牛尾「なに、じゃあ、まだ消してないのか?」
かおり「うん、だってぇ、店の人に見せたら、これ入れた人、かなり腕がいいって言われたんだもん。なんなら見せたげよっか?」
立ち上がってシャツを胸の辺りまでめくる女。途端に周りの男たちが一斉にこちらを向く。
せき払いをして辺りを伺う牛尾。出勤前のコーヒーを飲んでいるサラリーマンたちと目が合う。猪野はその間ずっとうつむき続けている。
女は牛尾たちに見えるように後ろを向いた。背骨からやや右側にそれたところに、躍動感溢れるペガサスの絵が刻み込まれている。
牛尾「おう、ありがとう、もういいぞ」
女を座らせる牛尾。途端に周りの男たちは一斉にあちらを向く。
牛尾「分かった、じゃあ一応その彼氏と、タトゥなんとかの店員さんの連絡先だけでも書いといてくんねえかな、俺たちからの質問はこれで終わりだ」
かおり「えーっ、もう終わり?だって、こっちのひと何にも喋ってないじゃん」
猪野を指差す女。
牛尾「ああ、こいつはいいんだ。こいつな、喋れねえんだよ」
下を向いている猪野の頭をバシッと叩いて言う牛尾。
猪野「いてっ」
かおり「喋れるじゃん」
突っ込みを入れる女。猪野は姿勢を正して精一杯顔を上げる。
猪野「しゃ、喋れますよ。あの、最後に僕から質問していいですか?」
かおり「いいよ、なに?」
ふてぶてしく言い放つ女。
猪野「その、3ヵ月前でしたよね、その入れ墨見つけたの。その前後に、あなた、病院に通ったりしたことはありませんでしたか?」
かおり「ええっと、2、3回行ったかな、でも風邪でだよ」
猪野「そうですか、あ、じゃあ、その病院の名前も書いておいてくれませんか?」
言われた通りにする女。
かおり「これで本当に終わり?じゃあ、もっとなんか食べていい?」
ウエイトレスを呼ぶ女。牛尾は猪野の肩をつつく。
牛尾「お前もちだからな」
猪野「ええっ!またか?!」
牛尾「あったりまえだ」
財布を広げ、大きなため息をつく猪野。
茶色い女がいなくなったあとも、二人は喫茶店の中で時間を過ごしていた。
十一時になった。ハチ公前で次の女が待っている時間だ。
牛尾「おい、お前、連れてこい」
猪野「む、無理言うなよ。俺にそんなことできるわけないだろ」
牛尾「大丈夫だ、食われやしねえって。それに、さっきよりひどいことはないだろ」
猪野は渋々席を立った。
しばらくして、猪野は一人の女を連れて戻って来た。年は二十歳前後、長い髪を後ろに束ね、清潔感溢れるブルーのワンピースを着ている。襟元から見える首筋は、先程の女とは比べ物にならないほど白い。
牛尾は少しドキリとした。
”好みだ・・・”
年のわりに落ち着いた、大人しい外見。控えめながらも知性を感じさせるその瞳。
牛尾はこういうタイプに弱かった。
猪野「ど、どうぞ、おすわり下さい」
猪野が手を差し出す。さっきよりは落ち着いているようだ。
牛尾「ああ、どうぞどうぞ、遠いところをわざわざ」
牛尾も立ち上がって手を出す。
女「いえ、別に近所ですので」
牛尾「ああ、そうですか、それはどうもご親切に、お構い無く」
緊張のためか、知っているだけの丁寧な言葉を連呼する牛尾。
牛尾「あの、この度は、どうも御愁傷様です」
女「はあ」
牛尾「どうですかお体の具合は。どこも何ともありませんか」
女「ええまあ。あれからもう半年以上経ちますので、傷跡も何も」
牛尾「そうですか、それは良かった、いや、ほんとに」
コップの水を一気飲みする牛尾。
”この依頼引き受けて良かった・・・!”
初めて心の底からそう思う。
牛尾「あ、お名前は、・・・ええと、野上さん、だったね」
野上「ええ」
牛尾「あの、今日来てもらったのは他でもねえ、いや、ありません、あなたの知らないうちに入ってたっていう、あの入れ墨のことなんですけどね、我々はある人に頼まれて、そんなひどいことをした犯人を探しているんです。御協力お願いできませんかね?」
野上「ええ、私にできることでしたら何でも」
ええ子や、と牛尾は思った。
牛尾「おう、じゃあ聞かせてもらうな、とりあえず、職業は?」
野上「一応外資系会社のOLやってます」
牛尾「年は?失礼か?」
野上「いえ、24です」
牛尾「趣味は?」
野上「はい?」
牛尾「いや、ゴホン、あの、じゃあ、入れ墨とかに興味をもったことは?」
野上「いえ、まったくないです」
牛尾「そういう関係の知り合いもいないのか?」
野上「ええ、いないですね」
牛尾「そっか、じゃあな、その入れ墨が見つかった時、恋人とか、あんたに好意をもってるやつとかいたか?」
野上「はい、恋人はいましたけど、2年前に九州に転勤で行ってしまったので、その時は会ってないです」
牛尾「その恋人のこと、今でも好きなのか?」
野上「いえ、・・・どうしてそんなこと聞くんですか?」
牛尾「いや、一応な、一応。で、そんときなんか身の回りで変わったことはなかったか?変な男に言い寄られたとか、ストーカーにつけまわされたとか」
野上「いえ、思い当たることは別に・・・」
牛尾「そっか・・・、なるほどな、分かった、ありがとう」
質問を終えようとする牛尾。と、猪野が突然口を開いた。
猪野「あの、すいません、最後にいいですか、あなた、その時病院に通ったりしてませんでしたか?」
野上「え、ええ、あの、実は私そのとき足をねんざしていまして、1ヵ月ぐらい通院してましたけど・・・。それが何か?」
猪野「いえ、何でもないです。とりあえずその病院、名前だけでも書いておいて下さい」
牛尾「てめえ、何でもないなら聞くなよな」
猪野の頭を後ろからどつく牛尾。
牛尾「ほんとにありがとな。おかげで助かったよ。これで犯人もすぐ捕まる。間違いない」
野上「ほんとですか?!私、警察に行っても全然信じてもらえなかったし、半分諦めかけてたんです。本当に、犯人を捕まえてくれるんですか?」
牛尾「ああ、もちろんだ。あんたのためにも」
野上「嬉しい!ありがとう!」
牛尾の手を握る野上。白く柔らかな感触が身体中に広がる。
野上「頑張って下さいね!応援してますから」
牛尾「・・・うん、がんばる」
ぼーっとする牛尾。言葉で言い表すなら、まさに”骨抜き状態”だ。
そんな牛尾はお構い無し、といった風に、猪野は一人で物思いに耽っている。
鼻の穴を、ピクピクと膨らませながら。
野上は礼を言って去っていった。何度も手を振ってそれを見送る牛尾。
猪野「だらしねえなあ、ちょっと手を握られたぐらいで」
牛尾「うるせえ、お前だったら発射してるだろうが。いいか、彼女にとって俺はヒーローなんだよ。突然現れて、ピンチを救ってくれる」
猪野「バカなことを・・・、ん?」
ふと外を見ると、野上が若い男と手を組んで楽しそうに帰っていくのが見える。
猪野「あれ見ろよ。ほんとにお前がヒーローか、ん?」
気付いた牛尾も目で二人を追う。二人が見えなくなるまで追い、がっくりと肩を落とす牛尾。
猪野「ヒーローじゃなくてピエロだったな。それよりな、ちょっと色々と整理しときたいことがあるんだ。いったん家に戻ろう」
今度はうなだれる牛尾を猪野が引きずって帰る。
猪野の家・昼
猪野の家に戻って来た。牛尾は被害者のリストを、猪野はパソコンの画面をそれぞれ睨んでいる。
猪野「あの子、警察に行ったって言ってたよな、でも、警察には何の記録も残っていない。鼻っから話を信じてなかったから記録しなかったのか、それとも・・・」
牛尾「それとも?」
猪野「・・・牛尾ちゃん、彼女の書いたメモ、見せてくれ」
猪野は待切れない、といった様子でそのメモを牛尾からひったくる。
注意深く目を通しながら言う猪野。
猪野「彼女たち、3人ともまるで違うタイプの女だったよな。地味な女と、ギャル入ってる女、あと普通の可愛い感じの女。ふつうこういう連続の性犯罪の犠牲者っていうのは、犯人の理想像に近い女がターゲットになるわけだから、自然とどこかに共通点を見いだせる場合が多いんだよ。髪が長かったり、小柄だったり、年令が近かったり。俺は、その共通点がどこかに必ずあると思って3人を見てたけど、残念ながら見つけることができなかった。彼女たち自身からは」
牛尾「? どういうことだ?」
猪野「共通点は見つかったんだよ。ほら、これだ」
メモを牛尾に見せる猪野。
猪野「この2文字だよ。病・院」
猪野はペンを取って、”病院”の文字を丸く囲む。
猪野「彼女たちは、入れ墨を入れられる前後の期間、皆病院に通ってたんだ。理由はそれぞれ違うけどな。この偶然は、なんだと思う?」
牛尾「んー、何だ?」
猪野「・・・まだ断定はできないが、何かひとつ手がかりを見つけたら、それをきっかけに解決の糸口を探す。それがデカってもんだ」
猪野はメモ用紙を牛尾に手渡して言う。
猪野「病院、行ってこい。住所は今調べるが、3件とも渋谷近辺だ」
牛尾「俺が、行くのか?デカはお前だろ、俺は探偵見習いだ」
猪野「どっちだって同じだよ。俺はもうちょっとここで脳みそ動かしてるから、身体のお前が行かなくてどうする」
牛尾「ち、分かったよ。人の台詞パクリやがって」
牛尾は上着を羽織ると、再び街に飛び出して行った。
街中・昼
牛尾は街に出ると、まずタクシーを捜し出した。
母ちゃんはこの街にいる。下手に動いて、ばったり出くわしちまったらシャレになんねえ。
綺麗な身体になるまえに会うことだけはできねえ。
そう思いつつ車の多い大通りに向かう牛尾。と、携帯電話が鳴りだした。麗子からである。
麗子「ハァイうっしー、いまどこにいるの?」
牛尾「だれがうっしーだ。今な、タクシー拾うとこなんだ。また後でかけ直す」
麗子「あっ、ちょっと待った、ど、どこ行くのよ?」
牛尾「日野内科っていう病院だ。そのあともう2件回る」
麗子「病院?なんで病院なの?怪我でもしたの?」
牛尾「俺の聞き込みの成果だ。その病院が怪しいから、これから調べに行く」
麗子「へえ、スゴイじゃない。ちゃんと働いてるんだ」
牛尾「当たり前だ。ヒーローだからな」
麗子「分かった、あたしも時間空いたから今からそこ行くわ。日野内科だっけ、住所は?・・・わかった、じゃああとで会いましょ」
それだけ言うと電話はプツリと切れた。
再びタクシーを探す牛尾。
十字路でタクシーがつかまり、そのまま乗り込む。
運転手「はい、どちらまで?」
牛尾「おう、この病院まで頼む」
牛尾はメモを運転手に渡した。
牛尾「一番上から順番に1つずつ回ってくれ」
運転手「ふえ?病院のはしごですか?変わってますね、どこも悪くなさそうなのに」
牛尾「うるさい、いいから早く行け」
運転手「ふ、ふええ、はいはい」
急いで車を出す運転手。牛尾は後部座席にどっかと座り、着くまでの時間少し仮眠を取ることにした。
日野内科の前・昼
運転手「お客さん、着きましたよ」
運転手の声で牛尾は目覚めた。外を見ると、確かに目の前に病院がある。
牛尾「おう、サンキュー、じゃあ、ちょっくら行ってくるから、待っててくれ」
運転手「はい、早くして下さいね」
牛尾は車を降り、病院の玄関口に回った。外観は見たところ何の変哲もない、小さな開業医といったところだ。
玄関のドアを開けて中に入ると、病院特有の薬品の匂いが牛尾を包む。待ち合い室では人が列をなしていた。列の最後尾に並ぶ牛尾。と、隣の女が牛尾に話しかけて
きた。
麗子「遅かったじゃない」
驚いて向くと、声の主は麗子だった。
牛尾「なんだよ、脅かすな」
麗子「あんまり遅いからほんとに見てもらおうと思ってたとこだったよ。じゃあ、早速聞き込み始めよっか」
麗子は隣に座っていた老婆に声をかけ、何やら色々と聞き出している。
牛尾「何だよ、直接ここの医者に聞けばいいじゃねえか。まどろっこしい」
牛尾は立ち上がって、奥の診察室に入って行こうとする。
麗子「ダメだよ、みんな順番待ってるんだから」
牛尾「かまわねえ、話聞くだけなんだから。行くぞ」
麗子「・・・もう!」
二人は患者たちの冷たい視線を浴びながら、診察室へと進む。
ドアを開けると、当然のことながら診察中であった。医者と看護婦が一人づつ、小さな子供がベッドの上で横たわっている。
医者「何ですかあなたたちは。まだ名前呼んでませんよ」
面倒臭そうに医者がそう言う。
牛尾「うるせえ、別に俺たちは患者じゃねえ。ちょっと聞きたいことがあってな」
牛尾の顔を見て、明らかに怯える看護婦。しかし医者は、毅然とした態度で言い返す。
医者「・・・出て行って下さい、あなたみたいな人に話すことは何もありません。患者たちが待っていますので」
牛尾「何だとコラ、ぶっ殺すぞ、人を見かけで・・・」
医者「早く出て行って下さい、でないと、警察呼びますよ」
牛尾「上等じゃねえか、俺は強盗犯に間違えられたこともあるんだぞ、そんなことで・・・」
たまりかねて間に割って入る麗子。
麗子「失礼しました、出直します!」
牛尾を連れて外に出て行く麗子。
牛尾「おい、何だよ、まだ話しが・・・」
麗子「あんな聞き方で話してくれるわけないでしょ!まったく、ちょっとは考えなさいよね」
牛尾の背中をバシッと叩く麗子。
麗子「あんたよくそんなんで今までやってこれたね、信じらんない」
牛尾「なんだと、そんな男に依頼したのはどこのどいつだ」
麗子「たまたまあんたがタイミングよく現れたからだよ!それにあんた、ちょっとやそっとじゃ死にそうにないし」
それを聞いて、牛尾は昨日何者かに襲われたことをふいに思い出した。
牛尾「おう、死にそうで思い出したけどな、俺は昨日変な奴らに殺されそうになったんだぞ、今してることから手を引けって」
麗子「・・・」
黙り込む麗子。
牛尾「おい、なんとか言えよ。なんで俺が命狙われなきゃなんねえんだ?あんた、何か隠してんじゃねえのか?」
麗子「・・・」
麗子は、口を開こうとしない。うつむいたまま、唇をきゅっと噛み締めている。
たまりかねた牛尾が近付いて行こうとしたその時、いきなり黒い車がカーブを曲がって現れ、猛スピードでこちらに走って来た。
牛尾「あぶねえっ!」
麗子を抱きよせ、横に飛ぶ牛尾。間一髪のところで車は通り過ぎた。
牛尾「大丈夫か?無茶しやがる」
麗子「なんとかね」
牛尾の手を振り払って、一人で立とうとする麗子。と、車は急ブレーキを踏み、中から三人の男が出て来た。
長身の男、金髪の男、そして小柄な男。忘れもしない、昨日白昼堂々と牛尾を襲ったあの三人である。
男2「いやー、また会ったね、先日はどうも」
小柄な男が薄ら笑いを浮かべて近付いてくる。
牛尾「てめえ、その気色悪い顔は死んでも忘れねえぞ、よくも昨日は・・・」
男2「おおっと、そこまで。今日はあんたには用はないんだ。お嬢さん、ちょっとお時間いただいてよろしいかな?」
男が合図すると、金髪の男が麗子を後ろから羽交い締めにした。
麗子「なにすんだ、この、放せっ」
暴れる麗子を無理矢理車の中に押し込もうとする。
牛尾「やめろっ」
止めようとする牛尾。しかしそのまえに、金属バットをもった長身の男が立ちはだかった。
男1「昨日みたいにはいかねえぞ、へっ」
バットを振りかぶって威嚇する男。その隙に、男たちは麗子を連れて車に乗り込む。
牛尾「待ちやがれ、この野郎」
追いかけようとする牛尾の腹に、金属バットが鈍い音を立てて食い込んだ。
牛尾「ぐふっ」
倒れ込む牛尾。それを見届けてから、ゆっくりと最後に車に乗り込む長身の男。
車が勢いよく発進する。牛尾は、痛む腹を押さえてそれを見送るしかなかった。
痛みが引くのを待って、タクシーに戻る牛尾。
牛尾「おい、今の見てただろ、あの車、追いかけてくれ」
しかし、運転手はうつらうつらと首を傾けていた。牛尾の声で慌てて起きる。
運転手「ふえ、ふえい、どの車でしょう?」
ダメだこりゃ、と牛尾は思った。後部座席にどかりと座る。
牛尾「・・・もういい。予定変更だ、病院巡りはおしまい。戻ってくれ」
運転手「ふぇい、なんか知らんけど、えらいすんません」
言われた通りに車を出す運転手。
牛尾「くそっ!」
思わず呟かずにはいられない牛尾。
猪野の家・昼
猪野「そりゃ、災難だったな」
牛尾は猪野の家に戻って来た。猪野は相変わらずパソコン画面を睨み付けながら、間の抜けた声で言う。
牛尾「畜生、一体どうなってんだ、ったく。おい、薬よこせ薬」
猪野「そんなもん無いぞ」
牛尾「あるじゃねえか。俺にとってはこれが薬だ」
牛尾はそう言って、ちゃぶ台の上に置いてあったウイスキーのボトルを手に取る。
そのまま一気にラッパ飲みし、ふう、と大きな息をつく。
牛尾「おい、イノシン」
猪野「ん?」
牛尾「どういうことなんだよ、俺だけならまだしも、何で彼女まで襲われたんだよ?俺にはさっぱり分からねえ」
猪野「ふうむ・・・。俺も今それを考えていたんだ。昨日お前が襲われたこと、それを知った時の彼女の態度、そしてその彼女自身が今度は襲われたこと。この3つのことから分かるのは、彼女は依頼したお前にまだ話してない、何か重要なことを知ってるってことだ。そんな暴力団まがいの奴が出てくるぐらいの、何かヤバいことを。で、それを嗅ぎ回ろうとしたお前が襲われ、次にその依頼主本人である彼女自身も襲われた、と」
牛尾「何だよそのヤバいことっていうのは」
猪野「そこなんだよ。さっきから考えてるんだが、犯人が見つかると困る連中がいるってことまでは分かったんだがな、その理由が分かんねえんだよ。何でそんな連中がいるんだ?犯人はただの変態だ、個人的趣味を追求していくうちに社会常識から逸脱してしまったような野郎が捕まって困ることなんてあるのか?そのつながりがな、どうしても分かんねえんだよ」
牛尾「・・・そっか、お前にも分かんねえことがあるんだな」
猪野「当たり前だ。論理的に説明不可能な時は、お手上げだ」
猪野はそれだけ言うと、くるりと背を向けて再びパソコンに対面した。
しばらく沈黙が続いた。
”イノシンに分からねえんなら、本当にお手上げだな”
ふとそう悟った牛尾は、それまで続けていた考えるふりを止めた。
”くそっ”
悔しげにウイスキーをあおる牛尾。徐々にそのペースは上がり、すぐに一本空けてしまった。空になった瓶を床に投げ捨てる。
猪野「俺はもう降りるぜ」
突然猪野がそう呟いた。
牛尾「何だと?」
猪野「だってよ、このままだと俺の命も危なくなるんだぜ。これ以上下手に首突っ込むのは危険だ」
牛尾「途中でやめるってのか?ふざけんな、お前それでもデカか」
猪野「今はただの趣味の多い一般市民だ。やりたいことはまだまだいっぱいある、俺はまだ死にたくない。お前ももうやめとけ、次はバットじゃすまねえぞ」
牛尾「ふざけるな!」
勢いよく立ち上がる牛尾。その顔は少し赤らんでいる。どうやらウイスキーのせいだけではなさそうだ。
牛尾「一度引き受けた仕事を途中で投げ出すなんてな、そんなこと、ヤクザだってやんねえぞ!俺は昔からなんだって最後までやり通してきたんだ!絶対に手は引かねえ!!」
猪野「そんなこと言ったってお前・・・」
牛尾「それにな、19人の女たちがな、ヒーローが現れるのを待ってるんだよ!今さら後には引けねえ」
それを聞いた猪野は、けげんそうな表情を浮かべて牛尾に聞く。
猪野「19人?最初の話だと、18人って言ってたんじゃなかったのか、例の女」
牛尾「ん?ああ、確かに言ってたな18人って。でもな、俺が電話かけたとき数えたら、19人いたんだよ。あの紙にもな、19人分の連絡先が載ってたぞ」
そう言って被害者のリストを猪野に見せる。猪野はそれを受け取り、一人一人注意深く数えていく。
猪野「本当だ。確かに19人だ。何で間違えたんだろう?省略したにしても、こんな中途半端な省略の仕方、無いよな」
不思議そうに首をかしげる猪野。
そのとき、ウイスキーによって活性化された牛尾の脳細胞が、突然現れた何かのイメージを見事にキャッチした。
牛尾「おい、イノシン」
猪野「ん?何だ?」
牛尾「いいからちょっと俺の言う通りにしてみてくれ。いいか、俺が電話したとき、音信不通だった女が3人いた。今から名前言うから、1人づつその警察のデータかなんかに入って調べてみてくんねえか?」
猪野「ん、お、おう、分かった。やってみる」
牛尾「いいか、まず1人目、飯田慶子、22歳」
猪野「いいだ、け・い・こと・・・」
パソコンに名前を打ち込んでいく猪野。
猪野「・・・該当者無し、か。前科が無いやつのデータは無いよ」
牛尾「じゃあ次だ。篠田ゆかり、19歳」
同じように入力する猪野。
猪野「これも無いな・・・」
牛尾「じゃあ最後、原田麗美、15歳」
猪野「はらだ、う・る・みと・・・。・・・ん?」
牛尾「あったか?!」
猪野「・・・あ、ああ、あるにはあったが・・・」
牛尾「どうした?!」
猪野「死亡者リストの中に、だ」
牛尾「何だと?!」
慌ててパソコンに近付く牛尾。
猪野「原田麗美、享年15歳。’83年5月24日生、’98年8月2日没。死因は薬物による中毒死。捜査当局は医療ミスと判断し、治療にあたっていた医師、熊野洋一(46)を同月業務上過失致死罪の疑いで逮捕。家族は兄啓介(27)と姉麗子(24)の3人構成、両親はすでに死亡・・・」
牛尾「ちょ、ちょっと待て、麗子って、もしかすると、あの女じゃ・・・」
猪野「・・・調べて見る価値はありそうだな。おい、携帯に入ってる彼女の連絡先見せてくれ」
携帯電話を受け取ると、その番号をパソコンに入力する猪野。
猪野「・・・ビンゴゥ、原田麗子、24歳、間違いない」
牛尾「ってことは、入れ墨の被害者にあの女の妹がいて、さらにその妹は死んじまってたってことか・・・!」
猪野「そうだ、しかも、その死因が薬物による中毒死。やっぱりこの子も病院に通ってたんだ。おいおい、何かつながってきたぞ。もしかすると、俺は自分の固定概念に縛られて、えらい思い違いをしてたかもしれん・・・」
牛尾「何だと?どういうことだ?」
牛尾が聞く。
猪野「俺は、この事件はその方法の異常さと、被害者が皆女だってことから、精神異常者の犯した性犯罪と最初に決めつけてしまった。だけどな、もしかしたら、それ自体が一番の間違いだったかもしれないってことだ。どうしても結びつかなかったんだよ、変態とヤクザと病院が。でもな、お前の偶然の一言で、少しずつ見えてきたよ、先が」
牛尾「だれが偶然だ、実力だ実力」
胸を張って威張る牛尾。
猪野「酒飲むと頭が冴えるからな、お前は」
苦笑する猪野。さらに続ける。
猪野「お前に依頼したその麗子って女が隠していることは、妹の死と何かしらの関係があるはずだ。ってことは、やっぱりこの病院が怪しい。得に、この”薬物による中毒死”ってやつがな。そしてその死と、入れ墨が入ってたことの関係も、絶対どこかでつながっているはずなんだ」
拳を握り締めて力説する猪野。その顔はもう完全に刑事時代のそれに戻っている。
牛尾「面倒臭え。俺が直接聞き出してやる」
牛尾はそう言って、猪野のもう片方の手が握り締めていた携帯電話を奪い取る。
電話をかける牛尾。数コールの後、麗子が小さな声で電話に出た。
牛尾「もしもし?!」
麗子「牛尾さん?あなた大丈夫?怪我しなかった?」
牛尾「それはこっちの台詞だ。あんたはなんともないのか、どこに連れてかれたんだ?」
麗子「あたしは大丈夫。なんとか会社に戻ってこれたわ。でも、今、監視がついてるの」
牛尾「監視?さっきの奴らか?」
麗子「ええそう。あたし、もう下手に動けない。牛尾さん、悪いけどもう手伝えないわ。危ない目に合わせてごめんね。もう、依頼のことは忘れて」
牛尾「何だって?」
麗子「これ以上あなたを巻き込むわけにはいかないわ。詳しいことは言えないけど、あなたも危険よ。もう手を引いて」
牛尾「それはできねえな」
麗子「え?」
牛尾「俺にとって、あんたはランプの精なんだよ。願いがかなうまではあんたのそばを離れねえ」
それだけ言うと電話を切ろうとする牛尾。
麗子「ちょ、ちょっと?!もしもし?!」
構わず電話を切る牛尾。
猪野「行くのか?」
猪野が聞くと、振り向かずに牛尾は答えた。
牛尾「おう、ちょっくら行ってくるわ。お前も来るか?」
ブンブンブンと首を大きく横に振る猪野。
猪野「じょ、冗談じゃねえぜ。わざわざ危ない所に入っていけるか。俺はただの小市民だ」
牛尾「ふん、そうくると思ったぜ。じゃあな、小市民」
そう言い残して部屋を去ろうとする牛尾。
猪野「ちょ、ちょっと待て牛」
猪野は机の上に置いてあったウイスキーの角瓶を牛尾に投げつける。
猪野「持ってけ。鬼になんとか、牛尾に角瓶だ」
片手で受け取り、軽くその手を挙げる牛尾。
足早に猪野の部屋を後にする。タクシーを拾い、行き先を告げる牛尾。
牛尾「おう、ハイブリッド・エージェンシーの本社まで頼む」
ハイブリッド・エージェンシー本社前・夕
タクシーを降りると、ビルの正面玄関前だった。麗子の仕事場は、それとは反対の裏口が入り口である。
路地を回って裏通りに出る牛尾。と、麗子の店へと続く階段の前に、例の長身の男が立っているのが見える。
牛尾は気付かれないよう気配を殺してそっと忍び寄る。
手の届く距離まで近付くと、男の肩ををぽんと叩く牛尾。
牛尾「よう、元気?」
驚いて振り向く男。その振り向きざまに、拳を叩き込む。
男はもんどりうって倒れる。
牛尾「残念だったな、バットが無くて」
角瓶を開け、少し喉に流し込む。途端に牛尾の身体に力がみなぎる。
牛尾「よっしゃ、次」
階段を降りていく牛尾。
ビル内・地下一階・夕
階段を下り切って、奥の部屋へと進む牛尾。
ドアを開けた牛尾の目に飛び込んできたのは、椅子に座って居眠りをしている金髪の男だった。
起こさないように近付いていく牛尾。と、同じようにして逆方向から男に近付く人陰に気付いた。
それは、手に板切れを持った麗子だった。男の真後ろに立ち、板切れを振りかぶって、そのまま男の脳天めがけて思いきり振り下ろす。
鈍い音がした。麗子は男を引きずって別室へ連れていく。
麗子「何見てんの、あんたも手伝って」
牛尾の方を見てそう言う麗子。
牛尾「お、おう」
言われた通りに手伝う牛尾。
・・・数分後、男は両腕を縛られ、別室に閉じ込められていた。
牛尾「さすがだな、あんたのハリセンは効くからな、原田麗子さん」
麗子「当たり前よ。あたしをだれだと思って・・・。ねえちょっと待って、なんであたしの名字知ってんの?」
牛尾「原田麗子、24歳、兄啓介と妹麗美の3人兄妹か。親がいないんじゃさぞかし苦労したんだろうな」
麗子「ど、どこでそれを・・・」
動揺する麗子。牛尾はじっと麗子の顔を見つめて言う。
牛尾「よう、あんたにとって、俺はなんだ?」
麗子「なんだって、仕事を、依頼した人よ・・・」
牛尾「そう、あんたと俺は短い時間の間に、お互いを信頼して契約したわけだよな。だけど、あんたは俺に大事なことを隠したままでいたんだ。信頼関係は、ぶちこわしだ」
麗子「だ、だけどそれは・・・」
牛尾「いいか、こんなこと言わなくても分かってるだろうがな、俺にはその秘密を聞く権利があるんだ。あんたのパートナーとして」
大きくうなだれる麗子。髪をかきあげ、キッと目を見据えて言う。
麗子「・・・わかった。あんたにはちゃんと話さなくちゃダメみたいだな。そうだな、何から話そうか、あたしたち兄妹のことからでいい?」
コクリ、とうなずく牛尾。
麗子「あたしの兄は、うちの会社がこのビルを買収する前、この場所で働いてたんだ。たぶんあんたの知り合い、榊原さんだっけ?その人の下で働いてたんだと思う。その人に仕込まれてさ、結構いい彫師だったんだよ兄貴は」
牛尾「本当かそれは。じゃあ、もしかすると、俺の入れ墨も・・・」
麗子「うん、ちょっとは兄貴が彫ったのかもね。で、うちの会社が入ってきて、榊原さんは水が合わなくてどっか行っちゃったみたい。それで兄貴がこの部門をまかされることになったの。今のこの店の前身がそれ。しばらくは結構うまくやってたみたいだったんだけど、ある日兄貴は、会社の裏側を、偶然にも知ってしまったの」
猪野「そこから先は俺が話そうか?」
ふいに声が響く。ドアが開き、猪野が中に入ってきた。
牛尾「イノシン・・・!来たのか」
猪野「やっぱりお前だけじゃ心配になってな」
麗子「だれ?この方は」
けげんそうに訪ねる麗子。
牛尾「イノシンっていってな、元本庁のデカだった男だ」
麗子「警察・・・?」
牛尾「心配するな、今はふらふらしてるただの一般市民だ。今度のことも、色々手伝ってくれた」
猪野「ど、どうも、猪野、と申します」
やはり女の前だと声がうわずる猪野。しかし、気を取り直して続ける。
猪野「さっきまで調べてたから登場が遅くなってしまったけど、やっと色々分かったよ。あんたの会社の、その、裏側ってやつが。このハイブリッド・エージェンシーっていう会社は、表向きにはエスティティック産業を主に取り扱っている普通の企業だが、裏では大手の製薬会社と手を結び、薬品開発に必要な人体実験のサンプルを提供することも行っていたんだ。それも、とりわけ副作用の強い、危険な薬品ばかり対象にして、な。あんたの妹は、その実験の犠牲者となり、死んだ・・・。あんたの妹が亡くなった病院と、おれたちが調べた3人の女が通っていた病院、どれも普通の小さな開業医ばかりだったが、一つ共通点があったよ。どの病院も、ある一つの製薬会社の薬しか使ってなかった。そこから色々と分かったよ。薬品の無料提供をえさに、あんたの会社と製薬会社はその病院を使って人体実験を行っていたんだ。つまり、病院も、あんたの会社も、全部グルだったってことさ・・・」
牛尾が口をはさむ。
牛尾「な、おい、ちょっと待て。じゃあ、あの入れ墨は何の意味があるんだ、関係ねえじゃねえか」
麗子「それは、あたしが答えるわ」
麗子は部屋の中央へ進み、二人に向かって話し始めた。
麗子「・・・さっきの話の続きだけど、兄貴は、偶然にもその実験の現場を目撃してしまった。そして、その時、あたしたちの妹がサンプルに選ばれていることも知ってしまったの」
牛尾「何だって?」
麗子「妹はその実験の副作用で死に、その責任は医師1人になすりつけられた。会社はまったく安泰よ。兄貴とあたしは怒り狂ったわ。兄貴は、何とかして会社に復讐してやろうと考えて、実験中に入れ墨を入れるっていうあの方法を思いついたの。会社のキャラクターのユニコーンの入れ墨が本人の知らないうちに刻まれているっていう事件を起こして、その話題性からマスコミが飛びつくのを待って、警察が動かざるをえない状況を作るっていう計画だったんだけど、現実は思い通りには行かなかった。それを逆手に利用して、個人の悪質な性的いたずらだと思わせるために、会社は実験材料を女性に限定したの」
猪野「そうだ、俺がいい例だ。俺はそれに見事に引っ掛かっちまった」
猪野が呟く。
麗子「・・・しかも、被害者のはずのその女の子たちも、まったくと言っていいほど被害意識がなかった。だれも何も訴えようとせず、マスコミも、警察も動いてくれなかった・・・」
猪野「それがこの国の現状だよ。自分がだれかに害を与えてるってことも知らなけりゃ、だれかから害を受けてるってことにも気付かねえんだ」
天井を見つめながら、猪野がそう吐き捨てるように言う。
麗子「兄貴はその後やつらに追われて、どこかへ逃げてしまった・・・。生きてさえいてくれればいいんだけど・・・。あのね、あたし、最初は兄貴の跡を継いで今度はあたしが復讐してやろうと思ってたの。でも、今はそんなこともうどうでもいい。ただ、残された兄妹二人で、一緒に暮らせればいいと思って、兄貴を探してほしくてあなたにこの仕事を依頼したのよ」
牛尾は、しばらく黙っていた。沸き上がる怒りを押さえ付けながら。
”ゆるせねえ・・・!”
しかし、ついに牛尾の怒りは頂点に達した。
ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ。
持っていたウイスキーを一気飲みする牛尾。
麗子「牛尾さん・・・?!」
あぜんとする麗子と猪野。
牛尾「ぶはあっ」
雄叫びをあげる牛尾。そして、ドアに向かって勢いよく走り出す。
麗子「ちょっと、どこ行くの?!」
牛尾「上の連中のところだ!俺なりにそいつらに挨拶してやる!」
麗子「なっ、やめて、やめなさいよ!あんた、力なんかで解決すると思ってるの!?」
牛尾「うるせえっ!!」
牛尾は立ち止まり、麗子たちの方を振り向いて言い放った。
牛尾「ただ黙って何もしないのが、それが正しいのかよ!だったら、俺は間違ってても何でも力を使ってやる!それが、俺の力の使い道なんだよ!!!」
ドアを開けて猛スピードで階段を駆け上っていく牛尾。
ビルの最上階・夕
牛尾はビルの最上階にやってきた。
牛尾「おい、社長室はどこだ!」
通りすがりの社員に聞く牛尾。
社員 「えっ、ここを真直ぐ行った突き当たりですけど・・・」
すぐにまた駆け出す牛尾。
”社長室”と書かれたドアがあった。立ち止まって一つ、深呼吸をする。
勢いよくドアを開け、中に入っていく牛尾。
中の部屋には、二人の男がいた。
一人は、もう顔を覚えてしまった、あの薄気味悪い笑顔の小柄な男。
そしてもう一人は、いかにも悪銭で私腹を肥やしているような、小太りの男である。
男2「お前は・・・!」
小柄な男が牛尾を見てぎょっとする。しかし、牛尾は小柄な男をまったく無視して、小太りの男に凄い勢いで近寄る。
男4「な、何だね君は」
牛尾「うるせえ!てめえが社長か!」
牛尾は男の胸ぐらを掴むと、その男の左頬を思いきり殴るために、右の拳に力を入れた。
その手をふりかざしたその瞬間、
女「やめなさいっ!」
女の声が部屋に響いた。牛尾はまるで母親に叱られた子供のように、ビクッとしてその拳を下ろした。
母親・・・?
ふと牛尾は思った。今の声、どこかで聞いたことがある。その声は、遠い記憶の彼方、まだ、牛尾が幼かったころの、それが聞こえるたびに縮み上がった、母親の怒鳴り声にそっくりだった。
”まさか・・・”
一瞬、牛尾の背中に冷たいものが走った。
”母ちゃん・・・?”
目を凝らして声のした方を見る牛尾。
すると、奥の部屋から、老婆、とまでは言えないがかなり年老いた女が一人で出てきた。
思わず牛尾は声をあげた。
牛尾「本物だ・・・!」
それは間違いなく、牛尾の実の母親、牛尾たみであった。
牛尾を見つめるたみ。こちらも同様にかなり驚いている様子だ。
たみ「政美・・・?あんた、政美じゃねえか・・・!」
思わず駆け寄るたみ。と、いきなり牛尾の頭を叩いた。
たみ「あんた、こんなところで何しとるだ?!また人様に手ぇ出そうとして、あんた、まだヤクザもんから足洗ってないんか!」
牛尾「いてっ、ち、違うよ母ちゃん、これにはわけが・・・」
たみ「ワケ?!あんた、人を殴るのにわけなんかあるわけないだろ!ちっとは目ぇ覚まさんかい!」
そう言って牛尾を殴りつづけるたみ。
牛尾「いて、分かった、分かったから、やめてくれよ。それより母ちゃんこそ、何でこんなとこにいるんだ?!」
たみ「おや、言ってなかったかい、東京に来るって言うといただろ、お前はほんとにこの親不孝もん、迎えにも来んと・・・」
牛尾「ち、違う、東京じゃなくて、何でこの場所にいるんだよ?!」
たみ「仕事じゃ、仕事」
牛尾「仕事?何の仕事だ?」
その時、牛尾のあとを追ってきた麗子と猪野が部屋に入ってきた。猪野は、中の状況がよく飲み込めない、といった表情をしている。
麗子が小太りの男に問いただした。
麗子「社長、一体どうなってるんですか?」
社長と呼ばれた男は困惑の表情を浮かべ、こう答える。
男4「・・・いや、残念ながらな、わしはもう社長じゃないんだよ。今日から我が社は、この牛尾さんの、牛尾グループの傘下に入ることになった」
一同「ええっ!」
そこにいる全員が声をそろえてそう叫んだ。ただ一人、牛尾たみを除いて。
全員が凝視する中、たみはまた同じ言葉を繰り返す。
たみ「仕事じゃ、仕事」
レストラン店内・夜
牛尾とたみ、猪野と麗子の四人は、少し早めの夕食をとりにレストランに来ていた。
食事の済んだ皿が順に片付けられ、豪勢なデザートが運ばれてくる。
たみ「・・・なるほどのう、そういういきさつがあったのか。麗子さんとやら、すまんかったのう。うちの政美のことだ、えらい迷惑かけただろう」
器用にスプーンを使ってフルーツの種を取りながら言うたみ。
麗子「いえ、とんでもない!迷惑かけたのは、あたしの方です。牛尾さんに変なこと頼んじゃって、危険な目にも遭わせたし・・・。でも、話は聞いてたけれど、まさか牛尾さんのお母さまがあの牛尾グループの会長さんだったなんて、まったく思いませんでした!」
興奮気味に話す麗子。それを聞いていた牛尾は、猪野に尋ねる。
牛尾「俺の母ちゃん、そんなにスゴイのか・・・?」
呆れながら答える猪野。
猪野「牛尾グループ、中国地方を中心にその勢力を拡大している、年商100億ともいわれている巨大な組織だ。知らなかったよ、おまえ、お坊っちゃんだったんだな」
牛尾「知らねえよ、俺は早くに家を出たからな」
スイカにかぶりつく牛尾。種も出さずにそのまま飲み込む。
たみ「しかしのう、あのタヌキめ、やっぱりそんな汚いことに手を出してたのか。でもな、もう心配せんでええぞ、あたしが実権を握ったからにはそんな製薬会社とはもうすっぱりと手を切るから」
麗子「あ、ありがとうございます!」
深々と頭を下げる麗子。
猪野「それにな」
猪野が続ける。
猪野「俺が調べたことをそのまま警察に持ってきゃ奴らは一網打尽だ。まだ物証はないが、こう見えても俺は警察に顔がきくんだ。俺が話せば、捜査に乗り出してくれるだろう」
麗子「本当ですか?!まさか警察の方にこんなに協力してもらえるとは思ってもいませんでした!」
猪野「嬉しい誤算だろう。もう諦めかけてたのにな。偶然に、感謝するんだな」
麗子は猪野の手を握る。途端に固まってしまう猪野。
麗子「本当に、ありがとうございます・・・!」
猪野「う、うん・・・」
レストラン前・夜
四人は食事を終え、レストランの外に出た。猪野は一足早く前に進み、言う。
猪野「じゃあ俺はこの足で警察に行ってくる。早い方がいいだろ、じゃあな」
麗子「はい、本当に、どうもありがとうございました」
手を振って去っていく猪野。牛尾が声をかける。
牛尾「おうイノシン、ウイスキーうまかったぞ」
振り返って笑いながら言う猪野。
猪野「今度お前に酒やる時はもっと安いのにするよ。いっぱい飲まれて、あれ以上暴れられちゃたまんねえからな」
再び歩き出す猪野。しばらくして、彼の姿は人込みに消える。
三人は夜の街を歩き出した。ほとんどの街灯にはもう光が点り始めている。
たみが牛尾の背中を小突いて言う。
たみ「あんた、入れ墨まだ入っとるんやろ。どっかにまだヤクザ臭さが残っとるわ」
ぎくりとする牛尾。
たみ「それにな、ちゃんとした仕事はやってんのか、もしないんならどっか口きいたろか?」
牛尾「大丈夫だって、母ちゃん、心配すんな。俺はもう家を飛び出した時の政美でもねえし、ヤクザ時代の暴れ牛でもねえ。牛尾政美っていうただの男だ。なんとか生きてくさ」
そう言った牛尾を見つめるたみの顔は、麗子の目にはどこか寂しげに映った。
たみ「・・・そうか、ならいいんだがねえ・・・。でもあんた、嫁さんを見つける目だけはいいようだねえ。なかなか気丈そうで、いい娘さんじゃねえか」
えっ、と顔を見合わせる牛尾と麗子。
牛尾「バカ、違うぞ母ちゃん、なに勘違いしてるんだ、俺はこんな気の強い女・・・」
たみ「ええやないか照れんでも。あ、そうだな、婆ぁは邪魔だな、じゃあわしは先に会社に戻ってるけん、二人でゆっくりしなさい。あ、政美、あとで東京ナイトスポット巡りに連れてってな、じゃあな」
それだけ言い残して、たみは足早に会社に戻っていった。
あとには、牛尾と麗子だけが取り残された。
麗子「・・・ほんと、いいお母さんだね。牛尾さん、大事にしなきゃダメだよ」
牛尾「ああ、なんだかんだ行っても、親子二人きりだからな。これからは、自然とそうなるだろうよ」
それっきり、黙りこくってしまう二人。しばらくして、沈黙を破ったのは、麗子の方だった。
麗子「牛尾さん、そう言えばあたし、あなたにまだ一度もお礼、言ってなかったね。本当にありが・・・」
牛尾「ストップ!」
言葉を遮る牛尾。
牛尾「俺はまだ、あんたの願いをかなえてねえ。礼は、そのあとにしてくれ」
麗子「え?それって・・・」
牛尾「あんたの依頼は、兄貴を捜し出すこと、だろ」
麗子「牛尾さん・・・」
牛尾「案外いいもんかもしんねえな、家族ってやつは・・・」
煙草を取り出し、火をつける牛尾。
そんな牛尾の仕草を見つめながら、麗子はふと呟いた。
麗子「あんた、あたしのヒーローだったんだね・・・」
牛尾「ん・・・?」
麗子「ううん、何でもない。行きましょ、ランプの精さん」
麗子は牛尾の手を取り、軽快に歩き出す。
そんな麗子に牛尾は少し驚いた。くわえていた煙草を地面に落とし、慌てて麗子の後について歩き出す。
終
猪野の家・朝
牛尾は携帯の音で目を覚ました。
麗子「おっはよう、朝だぞ、起きろ」
電話に出ると、麗子の威勢のいい声が耳に入る。
牛尾「何だよ・・・。まだ7時じゃねえか」
まだ半分閉じている目をこすりながら言う牛尾。
麗子「もう7時でしょ。今日も一日気合い入れて探そうな。あ、あたし今日午後から暇だから、一緒に手伝ってあげるよ。今日の予定はどうなってる?」
牛尾「おう、9時にハチ公前で被害者の子と会う約束してる」
麗子「へえ、約束取れたの?なかなかやるじゃない」
牛尾「まあな、そんぐらいちょろいもんだぜ」
麗子「じゃああとで会いましょ、またね」
電話を切る麗子。
牛尾はボリボリと背中を掻きながら、大きな伸びを一つ打つ。
長い一日がまたこの街で始まる。母ちゃんのいるこの街で。
牛尾は対母ちゃん用の計画表のことを思い出した。
”最悪の場合、本当に最後の手段として、俺は奴を探さなければならない。俺の身代わりになれる唯一の男、馬部甚太郎を。”
しかし、彼の居所を今知るすべはなかった。やつを探している暇があるのなら、今の仕事を片付けてしまった方が手っ取り早い。
牛尾は頬を両手で叩き、気合いを入れ直した。
ふと横を見ると、相棒の猪野はまだ起きていない。万年床の中で小さないびきを立てている。
牛尾「おい、起きろイノシン」
反応はない。牛尾は力任せに布団を引っ剥がす。
猪野「うう、寒い・・・」
牛尾「起きろ。出動だ」
猪野はそれでも起きようとしない。目をつぶったまま布団を探し当て、また頭からかぶる。
猪野「うう・・・、行きたくない・・・」
牛尾「ダメだ、俺の命令に従え」
猪野「いやだ、女なんて、みんな、俺のことバカにしてるんだ・・・」
牛尾「おう、その通りだ、その通りだから、行くぞ」
無理矢理猪野を引きずり起こす。猪野も抵抗するが、力の勝負で牛尾に勝てるはずがなかった。
ハチ公前・朝
結局二人揃ってハチ公前にやって来た。猪野はもう諦めたのか、いくぶん足取りも軽くなっている。
人だかりから少し離れたところに、一人で立っている女がいた。
牛尾が彼女に抱いた印象を一言で言い表すと、”茶色”だった。
茶色いのではなく、”茶色”そのものの女だった。髪の毛の先からむき出しの太ももまで、とにかく全身が茶色なのだ。
牛尾は彼女が自分と同じ種族であることが信じられなかった。
牛尾「あの、かおりさん?」
恐る恐る声をかけてみる牛尾。心のどこかで、違っていてほしい、と祈りつつ。
しかし、返って来た言葉は、その期待を裏切るものだった。
かおり「ハイッ」
明るく返事をする女。
牛尾「あ、そう、じゃあ、とりあえずどっか入るか」
昨日の女とはまたえらい違いだな、そう思いつつ、昨日と同じ店に連れていくことにした。
喫茶店・朝
女は店に入るなり、ペペロンチーノとミックスサンドとバナナジュースとチーズマフィンを注文した。
かおり「昨日の夜から何も食べてなくってえ」
大の男二人が見守る中、勢いよく食べまくる女。
猪野が小さな声で牛尾に耳打ちした。
猪野「俺さ、こういうギャル系、一番ダメなんだよね、何言っても話通じそうにないじゃん」
牛尾「・・・よし、ここは俺に任せとけ。お前はテープ頼むぞ」
猪野「分かったよ。・・・ったく、来るんじゃなかった」
猪野は渋々とかばんに手を入れ、テープの録音スイッチを押す。
かおり「何ゴチャゴチャ言ってんの?」
牛尾「いや、よし、じゃあ早速だけど、あんた、高校生か?」
かおり「うん、高2、16歳、ピチピチ」
牛尾「・・・で、いつ入れ墨に気付いたんだ?」
かおり「えっとぉ、確か3ヵ月前にぃ、彼氏が見つけたの」
牛尾「で、いつ入れられたかは全然分からなかったのか?」
かおり「うん、全然覚えてない」
牛尾「知り合いにそういうことしそうな奴いるか、彫師とか、美大生とか」
かおり「彫師って?」
牛尾「だから、入れ墨を彫る仕事の奴だよ、彫師」
かおり「ああ、タトゥショップの店員さんに知り合いいるよ、それに友だちは大体タトゥ入ってるし、あたしもぉ、ちょーど入れようと思ってたとこだったのぉ。だから得しちゃった」
牛尾「なに、じゃあ、まだ消してないのか?」
かおり「うん、だってぇ、店の人に見せたら、これ入れた人、かなり腕がいいって言われたんだもん。なんなら見せたげよっか?」
立ち上がってシャツを胸の辺りまでめくる女。途端に周りの男たちが一斉にこちらを向く。
せき払いをして辺りを伺う牛尾。出勤前のコーヒーを飲んでいるサラリーマンたちと目が合う。猪野はその間ずっとうつむき続けている。
女は牛尾たちに見えるように後ろを向いた。背骨からやや右側にそれたところに、躍動感溢れるペガサスの絵が刻み込まれている。
牛尾「おう、ありがとう、もういいぞ」
女を座らせる牛尾。途端に周りの男たちは一斉にあちらを向く。
牛尾「分かった、じゃあ一応その彼氏と、タトゥなんとかの店員さんの連絡先だけでも書いといてくんねえかな、俺たちからの質問はこれで終わりだ」
かおり「えーっ、もう終わり?だって、こっちのひと何にも喋ってないじゃん」
猪野を指差す女。
牛尾「ああ、こいつはいいんだ。こいつな、喋れねえんだよ」
下を向いている猪野の頭をバシッと叩いて言う牛尾。
猪野「いてっ」
かおり「喋れるじゃん」
突っ込みを入れる女。猪野は姿勢を正して精一杯顔を上げる。
猪野「しゃ、喋れますよ。あの、最後に僕から質問していいですか?」
かおり「いいよ、なに?」
ふてぶてしく言い放つ女。
猪野「その、3ヵ月前でしたよね、その入れ墨見つけたの。その前後に、あなた、病院に通ったりしたことはありませんでしたか?」
かおり「ええっと、2、3回行ったかな、でも風邪でだよ」
猪野「そうですか、あ、じゃあ、その病院の名前も書いておいてくれませんか?」
言われた通りにする女。
かおり「これで本当に終わり?じゃあ、もっとなんか食べていい?」
ウエイトレスを呼ぶ女。牛尾は猪野の肩をつつく。
牛尾「お前もちだからな」
猪野「ええっ!またか?!」
牛尾「あったりまえだ」
財布を広げ、大きなため息をつく猪野。
茶色い女がいなくなったあとも、二人は喫茶店の中で時間を過ごしていた。
十一時になった。ハチ公前で次の女が待っている時間だ。
牛尾「おい、お前、連れてこい」
猪野「む、無理言うなよ。俺にそんなことできるわけないだろ」
牛尾「大丈夫だ、食われやしねえって。それに、さっきよりひどいことはないだろ」
猪野は渋々席を立った。
しばらくして、猪野は一人の女を連れて戻って来た。年は二十歳前後、長い髪を後ろに束ね、清潔感溢れるブルーのワンピースを着ている。襟元から見える首筋は、先程の女とは比べ物にならないほど白い。
牛尾は少しドキリとした。
”好みだ・・・”
年のわりに落ち着いた、大人しい外見。控えめながらも知性を感じさせるその瞳。
牛尾はこういうタイプに弱かった。
猪野「ど、どうぞ、おすわり下さい」
猪野が手を差し出す。さっきよりは落ち着いているようだ。
牛尾「ああ、どうぞどうぞ、遠いところをわざわざ」
牛尾も立ち上がって手を出す。
女「いえ、別に近所ですので」
牛尾「ああ、そうですか、それはどうもご親切に、お構い無く」
緊張のためか、知っているだけの丁寧な言葉を連呼する牛尾。
牛尾「あの、この度は、どうも御愁傷様です」
女「はあ」
牛尾「どうですかお体の具合は。どこも何ともありませんか」
女「ええまあ。あれからもう半年以上経ちますので、傷跡も何も」
牛尾「そうですか、それは良かった、いや、ほんとに」
コップの水を一気飲みする牛尾。
”この依頼引き受けて良かった・・・!”
初めて心の底からそう思う。
牛尾「あ、お名前は、・・・ええと、野上さん、だったね」
野上「ええ」
牛尾「あの、今日来てもらったのは他でもねえ、いや、ありません、あなたの知らないうちに入ってたっていう、あの入れ墨のことなんですけどね、我々はある人に頼まれて、そんなひどいことをした犯人を探しているんです。御協力お願いできませんかね?」
野上「ええ、私にできることでしたら何でも」
ええ子や、と牛尾は思った。
牛尾「おう、じゃあ聞かせてもらうな、とりあえず、職業は?」
野上「一応外資系会社のOLやってます」
牛尾「年は?失礼か?」
野上「いえ、24です」
牛尾「趣味は?」
野上「はい?」
牛尾「いや、ゴホン、あの、じゃあ、入れ墨とかに興味をもったことは?」
野上「いえ、まったくないです」
牛尾「そういう関係の知り合いもいないのか?」
野上「ええ、いないですね」
牛尾「そっか、じゃあな、その入れ墨が見つかった時、恋人とか、あんたに好意をもってるやつとかいたか?」
野上「はい、恋人はいましたけど、2年前に九州に転勤で行ってしまったので、その時は会ってないです」
牛尾「その恋人のこと、今でも好きなのか?」
野上「いえ、・・・どうしてそんなこと聞くんですか?」
牛尾「いや、一応な、一応。で、そんときなんか身の回りで変わったことはなかったか?変な男に言い寄られたとか、ストーカーにつけまわされたとか」
野上「いえ、思い当たることは別に・・・」
牛尾「そっか・・・、なるほどな、分かった、ありがとう」
質問を終えようとする牛尾。と、猪野が突然口を開いた。
猪野「あの、すいません、最後にいいですか、あなた、その時病院に通ったりしてませんでしたか?」
野上「え、ええ、あの、実は私そのとき足をねんざしていまして、1ヵ月ぐらい通院してましたけど・・・。それが何か?」
猪野「いえ、何でもないです。とりあえずその病院、名前だけでも書いておいて下さい」
牛尾「てめえ、何でもないなら聞くなよな」
猪野の頭を後ろからどつく牛尾。
牛尾「ほんとにありがとな。おかげで助かったよ。これで犯人もすぐ捕まる。間違いない」
野上「ほんとですか?!私、警察に行っても全然信じてもらえなかったし、半分諦めかけてたんです。本当に、犯人を捕まえてくれるんですか?」
牛尾「ああ、もちろんだ。あんたのためにも」
野上「嬉しい!ありがとう!」
牛尾の手を握る野上。白く柔らかな感触が身体中に広がる。
野上「頑張って下さいね!応援してますから」
牛尾「・・・うん、がんばる」
ぼーっとする牛尾。言葉で言い表すなら、まさに”骨抜き状態”だ。
そんな牛尾はお構い無し、といった風に、猪野は一人で物思いに耽っている。
鼻の穴を、ピクピクと膨らませながら。
野上は礼を言って去っていった。何度も手を振ってそれを見送る牛尾。
猪野「だらしねえなあ、ちょっと手を握られたぐらいで」
牛尾「うるせえ、お前だったら発射してるだろうが。いいか、彼女にとって俺はヒーローなんだよ。突然現れて、ピンチを救ってくれる」
猪野「バカなことを・・・、ん?」
ふと外を見ると、野上が若い男と手を組んで楽しそうに帰っていくのが見える。
猪野「あれ見ろよ。ほんとにお前がヒーローか、ん?」
気付いた牛尾も目で二人を追う。二人が見えなくなるまで追い、がっくりと肩を落とす牛尾。
猪野「ヒーローじゃなくてピエロだったな。それよりな、ちょっと色々と整理しときたいことがあるんだ。いったん家に戻ろう」
今度はうなだれる牛尾を猪野が引きずって帰る。
猪野の家・昼
猪野の家に戻って来た。牛尾は被害者のリストを、猪野はパソコンの画面をそれぞれ睨んでいる。
猪野「あの子、警察に行ったって言ってたよな、でも、警察には何の記録も残っていない。鼻っから話を信じてなかったから記録しなかったのか、それとも・・・」
牛尾「それとも?」
猪野「・・・牛尾ちゃん、彼女の書いたメモ、見せてくれ」
猪野は待切れない、といった様子でそのメモを牛尾からひったくる。
注意深く目を通しながら言う猪野。
猪野「彼女たち、3人ともまるで違うタイプの女だったよな。地味な女と、ギャル入ってる女、あと普通の可愛い感じの女。ふつうこういう連続の性犯罪の犠牲者っていうのは、犯人の理想像に近い女がターゲットになるわけだから、自然とどこかに共通点を見いだせる場合が多いんだよ。髪が長かったり、小柄だったり、年令が近かったり。俺は、その共通点がどこかに必ずあると思って3人を見てたけど、残念ながら見つけることができなかった。彼女たち自身からは」
牛尾「? どういうことだ?」
猪野「共通点は見つかったんだよ。ほら、これだ」
メモを牛尾に見せる猪野。
猪野「この2文字だよ。病・院」
猪野はペンを取って、”病院”の文字を丸く囲む。
猪野「彼女たちは、入れ墨を入れられる前後の期間、皆病院に通ってたんだ。理由はそれぞれ違うけどな。この偶然は、なんだと思う?」
牛尾「んー、何だ?」
猪野「・・・まだ断定はできないが、何かひとつ手がかりを見つけたら、それをきっかけに解決の糸口を探す。それがデカってもんだ」
猪野はメモ用紙を牛尾に手渡して言う。
猪野「病院、行ってこい。住所は今調べるが、3件とも渋谷近辺だ」
牛尾「俺が、行くのか?デカはお前だろ、俺は探偵見習いだ」
猪野「どっちだって同じだよ。俺はもうちょっとここで脳みそ動かしてるから、身体のお前が行かなくてどうする」
牛尾「ち、分かったよ。人の台詞パクリやがって」
牛尾は上着を羽織ると、再び街に飛び出して行った。
街中・昼
牛尾は街に出ると、まずタクシーを捜し出した。
母ちゃんはこの街にいる。下手に動いて、ばったり出くわしちまったらシャレになんねえ。
綺麗な身体になるまえに会うことだけはできねえ。
そう思いつつ車の多い大通りに向かう牛尾。と、携帯電話が鳴りだした。麗子からである。
麗子「ハァイうっしー、いまどこにいるの?」
牛尾「だれがうっしーだ。今な、タクシー拾うとこなんだ。また後でかけ直す」
麗子「あっ、ちょっと待った、ど、どこ行くのよ?」
牛尾「日野内科っていう病院だ。そのあともう2件回る」
麗子「病院?なんで病院なの?怪我でもしたの?」
牛尾「俺の聞き込みの成果だ。その病院が怪しいから、これから調べに行く」
麗子「へえ、スゴイじゃない。ちゃんと働いてるんだ」
牛尾「当たり前だ。ヒーローだからな」
麗子「分かった、あたしも時間空いたから今からそこ行くわ。日野内科だっけ、住所は?・・・わかった、じゃああとで会いましょ」
それだけ言うと電話はプツリと切れた。
再びタクシーを探す牛尾。
十字路でタクシーがつかまり、そのまま乗り込む。
運転手「はい、どちらまで?」
牛尾「おう、この病院まで頼む」
牛尾はメモを運転手に渡した。
牛尾「一番上から順番に1つずつ回ってくれ」
運転手「ふえ?病院のはしごですか?変わってますね、どこも悪くなさそうなのに」
牛尾「うるさい、いいから早く行け」
運転手「ふ、ふええ、はいはい」
急いで車を出す運転手。牛尾は後部座席にどっかと座り、着くまでの時間少し仮眠を取ることにした。
日野内科の前・昼
運転手「お客さん、着きましたよ」
運転手の声で牛尾は目覚めた。外を見ると、確かに目の前に病院がある。
牛尾「おう、サンキュー、じゃあ、ちょっくら行ってくるから、待っててくれ」
運転手「はい、早くして下さいね」
牛尾は車を降り、病院の玄関口に回った。外観は見たところ何の変哲もない、小さな開業医といったところだ。
玄関のドアを開けて中に入ると、病院特有の薬品の匂いが牛尾を包む。待ち合い室では人が列をなしていた。列の最後尾に並ぶ牛尾。と、隣の女が牛尾に話しかけて
きた。
麗子「遅かったじゃない」
驚いて向くと、声の主は麗子だった。
牛尾「なんだよ、脅かすな」
麗子「あんまり遅いからほんとに見てもらおうと思ってたとこだったよ。じゃあ、早速聞き込み始めよっか」
麗子は隣に座っていた老婆に声をかけ、何やら色々と聞き出している。
牛尾「何だよ、直接ここの医者に聞けばいいじゃねえか。まどろっこしい」
牛尾は立ち上がって、奥の診察室に入って行こうとする。
麗子「ダメだよ、みんな順番待ってるんだから」
牛尾「かまわねえ、話聞くだけなんだから。行くぞ」
麗子「・・・もう!」
二人は患者たちの冷たい視線を浴びながら、診察室へと進む。
ドアを開けると、当然のことながら診察中であった。医者と看護婦が一人づつ、小さな子供がベッドの上で横たわっている。
医者「何ですかあなたたちは。まだ名前呼んでませんよ」
面倒臭そうに医者がそう言う。
牛尾「うるせえ、別に俺たちは患者じゃねえ。ちょっと聞きたいことがあってな」
牛尾の顔を見て、明らかに怯える看護婦。しかし医者は、毅然とした態度で言い返す。
医者「・・・出て行って下さい、あなたみたいな人に話すことは何もありません。患者たちが待っていますので」
牛尾「何だとコラ、ぶっ殺すぞ、人を見かけで・・・」
医者「早く出て行って下さい、でないと、警察呼びますよ」
牛尾「上等じゃねえか、俺は強盗犯に間違えられたこともあるんだぞ、そんなことで・・・」
たまりかねて間に割って入る麗子。
麗子「失礼しました、出直します!」
牛尾を連れて外に出て行く麗子。
牛尾「おい、何だよ、まだ話しが・・・」
麗子「あんな聞き方で話してくれるわけないでしょ!まったく、ちょっとは考えなさいよね」
牛尾の背中をバシッと叩く麗子。
麗子「あんたよくそんなんで今までやってこれたね、信じらんない」
牛尾「なんだと、そんな男に依頼したのはどこのどいつだ」
麗子「たまたまあんたがタイミングよく現れたからだよ!それにあんた、ちょっとやそっとじゃ死にそうにないし」
それを聞いて、牛尾は昨日何者かに襲われたことをふいに思い出した。
牛尾「おう、死にそうで思い出したけどな、俺は昨日変な奴らに殺されそうになったんだぞ、今してることから手を引けって」
麗子「・・・」
黙り込む麗子。
牛尾「おい、なんとか言えよ。なんで俺が命狙われなきゃなんねえんだ?あんた、何か隠してんじゃねえのか?」
麗子「・・・」
麗子は、口を開こうとしない。うつむいたまま、唇をきゅっと噛み締めている。
たまりかねた牛尾が近付いて行こうとしたその時、いきなり黒い車がカーブを曲がって現れ、猛スピードでこちらに走って来た。
牛尾「あぶねえっ!」
麗子を抱きよせ、横に飛ぶ牛尾。間一髪のところで車は通り過ぎた。
牛尾「大丈夫か?無茶しやがる」
麗子「なんとかね」
牛尾の手を振り払って、一人で立とうとする麗子。と、車は急ブレーキを踏み、中から三人の男が出て来た。
長身の男、金髪の男、そして小柄な男。忘れもしない、昨日白昼堂々と牛尾を襲ったあの三人である。
男2「いやー、また会ったね、先日はどうも」
小柄な男が薄ら笑いを浮かべて近付いてくる。
牛尾「てめえ、その気色悪い顔は死んでも忘れねえぞ、よくも昨日は・・・」
男2「おおっと、そこまで。今日はあんたには用はないんだ。お嬢さん、ちょっとお時間いただいてよろしいかな?」
男が合図すると、金髪の男が麗子を後ろから羽交い締めにした。
麗子「なにすんだ、この、放せっ」
暴れる麗子を無理矢理車の中に押し込もうとする。
牛尾「やめろっ」
止めようとする牛尾。しかしそのまえに、金属バットをもった長身の男が立ちはだかった。
男1「昨日みたいにはいかねえぞ、へっ」
バットを振りかぶって威嚇する男。その隙に、男たちは麗子を連れて車に乗り込む。
牛尾「待ちやがれ、この野郎」
追いかけようとする牛尾の腹に、金属バットが鈍い音を立てて食い込んだ。
牛尾「ぐふっ」
倒れ込む牛尾。それを見届けてから、ゆっくりと最後に車に乗り込む長身の男。
車が勢いよく発進する。牛尾は、痛む腹を押さえてそれを見送るしかなかった。
痛みが引くのを待って、タクシーに戻る牛尾。
牛尾「おい、今の見てただろ、あの車、追いかけてくれ」
しかし、運転手はうつらうつらと首を傾けていた。牛尾の声で慌てて起きる。
運転手「ふえ、ふえい、どの車でしょう?」
ダメだこりゃ、と牛尾は思った。後部座席にどかりと座る。
牛尾「・・・もういい。予定変更だ、病院巡りはおしまい。戻ってくれ」
運転手「ふぇい、なんか知らんけど、えらいすんません」
言われた通りに車を出す運転手。
牛尾「くそっ!」
思わず呟かずにはいられない牛尾。
猪野の家・昼
猪野「そりゃ、災難だったな」
牛尾は猪野の家に戻って来た。猪野は相変わらずパソコン画面を睨み付けながら、間の抜けた声で言う。
牛尾「畜生、一体どうなってんだ、ったく。おい、薬よこせ薬」
猪野「そんなもん無いぞ」
牛尾「あるじゃねえか。俺にとってはこれが薬だ」
牛尾はそう言って、ちゃぶ台の上に置いてあったウイスキーのボトルを手に取る。
そのまま一気にラッパ飲みし、ふう、と大きな息をつく。
牛尾「おい、イノシン」
猪野「ん?」
牛尾「どういうことなんだよ、俺だけならまだしも、何で彼女まで襲われたんだよ?俺にはさっぱり分からねえ」
猪野「ふうむ・・・。俺も今それを考えていたんだ。昨日お前が襲われたこと、それを知った時の彼女の態度、そしてその彼女自身が今度は襲われたこと。この3つのことから分かるのは、彼女は依頼したお前にまだ話してない、何か重要なことを知ってるってことだ。そんな暴力団まがいの奴が出てくるぐらいの、何かヤバいことを。で、それを嗅ぎ回ろうとしたお前が襲われ、次にその依頼主本人である彼女自身も襲われた、と」
牛尾「何だよそのヤバいことっていうのは」
猪野「そこなんだよ。さっきから考えてるんだが、犯人が見つかると困る連中がいるってことまでは分かったんだがな、その理由が分かんねえんだよ。何でそんな連中がいるんだ?犯人はただの変態だ、個人的趣味を追求していくうちに社会常識から逸脱してしまったような野郎が捕まって困ることなんてあるのか?そのつながりがな、どうしても分かんねえんだよ」
牛尾「・・・そっか、お前にも分かんねえことがあるんだな」
猪野「当たり前だ。論理的に説明不可能な時は、お手上げだ」
猪野はそれだけ言うと、くるりと背を向けて再びパソコンに対面した。
しばらく沈黙が続いた。
”イノシンに分からねえんなら、本当にお手上げだな”
ふとそう悟った牛尾は、それまで続けていた考えるふりを止めた。
”くそっ”
悔しげにウイスキーをあおる牛尾。徐々にそのペースは上がり、すぐに一本空けてしまった。空になった瓶を床に投げ捨てる。
猪野「俺はもう降りるぜ」
突然猪野がそう呟いた。
牛尾「何だと?」
猪野「だってよ、このままだと俺の命も危なくなるんだぜ。これ以上下手に首突っ込むのは危険だ」
牛尾「途中でやめるってのか?ふざけんな、お前それでもデカか」
猪野「今はただの趣味の多い一般市民だ。やりたいことはまだまだいっぱいある、俺はまだ死にたくない。お前ももうやめとけ、次はバットじゃすまねえぞ」
牛尾「ふざけるな!」
勢いよく立ち上がる牛尾。その顔は少し赤らんでいる。どうやらウイスキーのせいだけではなさそうだ。
牛尾「一度引き受けた仕事を途中で投げ出すなんてな、そんなこと、ヤクザだってやんねえぞ!俺は昔からなんだって最後までやり通してきたんだ!絶対に手は引かねえ!!」
猪野「そんなこと言ったってお前・・・」
牛尾「それにな、19人の女たちがな、ヒーローが現れるのを待ってるんだよ!今さら後には引けねえ」
それを聞いた猪野は、けげんそうな表情を浮かべて牛尾に聞く。
猪野「19人?最初の話だと、18人って言ってたんじゃなかったのか、例の女」
牛尾「ん?ああ、確かに言ってたな18人って。でもな、俺が電話かけたとき数えたら、19人いたんだよ。あの紙にもな、19人分の連絡先が載ってたぞ」
そう言って被害者のリストを猪野に見せる。猪野はそれを受け取り、一人一人注意深く数えていく。
猪野「本当だ。確かに19人だ。何で間違えたんだろう?省略したにしても、こんな中途半端な省略の仕方、無いよな」
不思議そうに首をかしげる猪野。
そのとき、ウイスキーによって活性化された牛尾の脳細胞が、突然現れた何かのイメージを見事にキャッチした。
牛尾「おい、イノシン」
猪野「ん?何だ?」
牛尾「いいからちょっと俺の言う通りにしてみてくれ。いいか、俺が電話したとき、音信不通だった女が3人いた。今から名前言うから、1人づつその警察のデータかなんかに入って調べてみてくんねえか?」
猪野「ん、お、おう、分かった。やってみる」
牛尾「いいか、まず1人目、飯田慶子、22歳」
猪野「いいだ、け・い・こと・・・」
パソコンに名前を打ち込んでいく猪野。
猪野「・・・該当者無し、か。前科が無いやつのデータは無いよ」
牛尾「じゃあ次だ。篠田ゆかり、19歳」
同じように入力する猪野。
猪野「これも無いな・・・」
牛尾「じゃあ最後、原田麗美、15歳」
猪野「はらだ、う・る・みと・・・。・・・ん?」
牛尾「あったか?!」
猪野「・・・あ、ああ、あるにはあったが・・・」
牛尾「どうした?!」
猪野「死亡者リストの中に、だ」
牛尾「何だと?!」
慌ててパソコンに近付く牛尾。
猪野「原田麗美、享年15歳。’83年5月24日生、’98年8月2日没。死因は薬物による中毒死。捜査当局は医療ミスと判断し、治療にあたっていた医師、熊野洋一(46)を同月業務上過失致死罪の疑いで逮捕。家族は兄啓介(27)と姉麗子(24)の3人構成、両親はすでに死亡・・・」
牛尾「ちょ、ちょっと待て、麗子って、もしかすると、あの女じゃ・・・」
猪野「・・・調べて見る価値はありそうだな。おい、携帯に入ってる彼女の連絡先見せてくれ」
携帯電話を受け取ると、その番号をパソコンに入力する猪野。
猪野「・・・ビンゴゥ、原田麗子、24歳、間違いない」
牛尾「ってことは、入れ墨の被害者にあの女の妹がいて、さらにその妹は死んじまってたってことか・・・!」
猪野「そうだ、しかも、その死因が薬物による中毒死。やっぱりこの子も病院に通ってたんだ。おいおい、何かつながってきたぞ。もしかすると、俺は自分の固定概念に縛られて、えらい思い違いをしてたかもしれん・・・」
牛尾「何だと?どういうことだ?」
牛尾が聞く。
猪野「俺は、この事件はその方法の異常さと、被害者が皆女だってことから、精神異常者の犯した性犯罪と最初に決めつけてしまった。だけどな、もしかしたら、それ自体が一番の間違いだったかもしれないってことだ。どうしても結びつかなかったんだよ、変態とヤクザと病院が。でもな、お前の偶然の一言で、少しずつ見えてきたよ、先が」
牛尾「だれが偶然だ、実力だ実力」
胸を張って威張る牛尾。
猪野「酒飲むと頭が冴えるからな、お前は」
苦笑する猪野。さらに続ける。
猪野「お前に依頼したその麗子って女が隠していることは、妹の死と何かしらの関係があるはずだ。ってことは、やっぱりこの病院が怪しい。得に、この”薬物による中毒死”ってやつがな。そしてその死と、入れ墨が入ってたことの関係も、絶対どこかでつながっているはずなんだ」
拳を握り締めて力説する猪野。その顔はもう完全に刑事時代のそれに戻っている。
牛尾「面倒臭え。俺が直接聞き出してやる」
牛尾はそう言って、猪野のもう片方の手が握り締めていた携帯電話を奪い取る。
電話をかける牛尾。数コールの後、麗子が小さな声で電話に出た。
牛尾「もしもし?!」
麗子「牛尾さん?あなた大丈夫?怪我しなかった?」
牛尾「それはこっちの台詞だ。あんたはなんともないのか、どこに連れてかれたんだ?」
麗子「あたしは大丈夫。なんとか会社に戻ってこれたわ。でも、今、監視がついてるの」
牛尾「監視?さっきの奴らか?」
麗子「ええそう。あたし、もう下手に動けない。牛尾さん、悪いけどもう手伝えないわ。危ない目に合わせてごめんね。もう、依頼のことは忘れて」
牛尾「何だって?」
麗子「これ以上あなたを巻き込むわけにはいかないわ。詳しいことは言えないけど、あなたも危険よ。もう手を引いて」
牛尾「それはできねえな」
麗子「え?」
牛尾「俺にとって、あんたはランプの精なんだよ。願いがかなうまではあんたのそばを離れねえ」
それだけ言うと電話を切ろうとする牛尾。
麗子「ちょ、ちょっと?!もしもし?!」
構わず電話を切る牛尾。
猪野「行くのか?」
猪野が聞くと、振り向かずに牛尾は答えた。
牛尾「おう、ちょっくら行ってくるわ。お前も来るか?」
ブンブンブンと首を大きく横に振る猪野。
猪野「じょ、冗談じゃねえぜ。わざわざ危ない所に入っていけるか。俺はただの小市民だ」
牛尾「ふん、そうくると思ったぜ。じゃあな、小市民」
そう言い残して部屋を去ろうとする牛尾。
猪野「ちょ、ちょっと待て牛」
猪野は机の上に置いてあったウイスキーの角瓶を牛尾に投げつける。
猪野「持ってけ。鬼になんとか、牛尾に角瓶だ」
片手で受け取り、軽くその手を挙げる牛尾。
足早に猪野の部屋を後にする。タクシーを拾い、行き先を告げる牛尾。
牛尾「おう、ハイブリッド・エージェンシーの本社まで頼む」
ハイブリッド・エージェンシー本社前・夕
タクシーを降りると、ビルの正面玄関前だった。麗子の仕事場は、それとは反対の裏口が入り口である。
路地を回って裏通りに出る牛尾。と、麗子の店へと続く階段の前に、例の長身の男が立っているのが見える。
牛尾は気付かれないよう気配を殺してそっと忍び寄る。
手の届く距離まで近付くと、男の肩ををぽんと叩く牛尾。
牛尾「よう、元気?」
驚いて振り向く男。その振り向きざまに、拳を叩き込む。
男はもんどりうって倒れる。
牛尾「残念だったな、バットが無くて」
角瓶を開け、少し喉に流し込む。途端に牛尾の身体に力がみなぎる。
牛尾「よっしゃ、次」
階段を降りていく牛尾。
ビル内・地下一階・夕
階段を下り切って、奥の部屋へと進む牛尾。
ドアを開けた牛尾の目に飛び込んできたのは、椅子に座って居眠りをしている金髪の男だった。
起こさないように近付いていく牛尾。と、同じようにして逆方向から男に近付く人陰に気付いた。
それは、手に板切れを持った麗子だった。男の真後ろに立ち、板切れを振りかぶって、そのまま男の脳天めがけて思いきり振り下ろす。
鈍い音がした。麗子は男を引きずって別室へ連れていく。
麗子「何見てんの、あんたも手伝って」
牛尾の方を見てそう言う麗子。
牛尾「お、おう」
言われた通りに手伝う牛尾。
・・・数分後、男は両腕を縛られ、別室に閉じ込められていた。
牛尾「さすがだな、あんたのハリセンは効くからな、原田麗子さん」
麗子「当たり前よ。あたしをだれだと思って・・・。ねえちょっと待って、なんであたしの名字知ってんの?」
牛尾「原田麗子、24歳、兄啓介と妹麗美の3人兄妹か。親がいないんじゃさぞかし苦労したんだろうな」
麗子「ど、どこでそれを・・・」
動揺する麗子。牛尾はじっと麗子の顔を見つめて言う。
牛尾「よう、あんたにとって、俺はなんだ?」
麗子「なんだって、仕事を、依頼した人よ・・・」
牛尾「そう、あんたと俺は短い時間の間に、お互いを信頼して契約したわけだよな。だけど、あんたは俺に大事なことを隠したままでいたんだ。信頼関係は、ぶちこわしだ」
麗子「だ、だけどそれは・・・」
牛尾「いいか、こんなこと言わなくても分かってるだろうがな、俺にはその秘密を聞く権利があるんだ。あんたのパートナーとして」
大きくうなだれる麗子。髪をかきあげ、キッと目を見据えて言う。
麗子「・・・わかった。あんたにはちゃんと話さなくちゃダメみたいだな。そうだな、何から話そうか、あたしたち兄妹のことからでいい?」
コクリ、とうなずく牛尾。
麗子「あたしの兄は、うちの会社がこのビルを買収する前、この場所で働いてたんだ。たぶんあんたの知り合い、榊原さんだっけ?その人の下で働いてたんだと思う。その人に仕込まれてさ、結構いい彫師だったんだよ兄貴は」
牛尾「本当かそれは。じゃあ、もしかすると、俺の入れ墨も・・・」
麗子「うん、ちょっとは兄貴が彫ったのかもね。で、うちの会社が入ってきて、榊原さんは水が合わなくてどっか行っちゃったみたい。それで兄貴がこの部門をまかされることになったの。今のこの店の前身がそれ。しばらくは結構うまくやってたみたいだったんだけど、ある日兄貴は、会社の裏側を、偶然にも知ってしまったの」
猪野「そこから先は俺が話そうか?」
ふいに声が響く。ドアが開き、猪野が中に入ってきた。
牛尾「イノシン・・・!来たのか」
猪野「やっぱりお前だけじゃ心配になってな」
麗子「だれ?この方は」
けげんそうに訪ねる麗子。
牛尾「イノシンっていってな、元本庁のデカだった男だ」
麗子「警察・・・?」
牛尾「心配するな、今はふらふらしてるただの一般市民だ。今度のことも、色々手伝ってくれた」
猪野「ど、どうも、猪野、と申します」
やはり女の前だと声がうわずる猪野。しかし、気を取り直して続ける。
猪野「さっきまで調べてたから登場が遅くなってしまったけど、やっと色々分かったよ。あんたの会社の、その、裏側ってやつが。このハイブリッド・エージェンシーっていう会社は、表向きにはエスティティック産業を主に取り扱っている普通の企業だが、裏では大手の製薬会社と手を結び、薬品開発に必要な人体実験のサンプルを提供することも行っていたんだ。それも、とりわけ副作用の強い、危険な薬品ばかり対象にして、な。あんたの妹は、その実験の犠牲者となり、死んだ・・・。あんたの妹が亡くなった病院と、おれたちが調べた3人の女が通っていた病院、どれも普通の小さな開業医ばかりだったが、一つ共通点があったよ。どの病院も、ある一つの製薬会社の薬しか使ってなかった。そこから色々と分かったよ。薬品の無料提供をえさに、あんたの会社と製薬会社はその病院を使って人体実験を行っていたんだ。つまり、病院も、あんたの会社も、全部グルだったってことさ・・・」
牛尾が口をはさむ。
牛尾「な、おい、ちょっと待て。じゃあ、あの入れ墨は何の意味があるんだ、関係ねえじゃねえか」
麗子「それは、あたしが答えるわ」
麗子は部屋の中央へ進み、二人に向かって話し始めた。
麗子「・・・さっきの話の続きだけど、兄貴は、偶然にもその実験の現場を目撃してしまった。そして、その時、あたしたちの妹がサンプルに選ばれていることも知ってしまったの」
牛尾「何だって?」
麗子「妹はその実験の副作用で死に、その責任は医師1人になすりつけられた。会社はまったく安泰よ。兄貴とあたしは怒り狂ったわ。兄貴は、何とかして会社に復讐してやろうと考えて、実験中に入れ墨を入れるっていうあの方法を思いついたの。会社のキャラクターのユニコーンの入れ墨が本人の知らないうちに刻まれているっていう事件を起こして、その話題性からマスコミが飛びつくのを待って、警察が動かざるをえない状況を作るっていう計画だったんだけど、現実は思い通りには行かなかった。それを逆手に利用して、個人の悪質な性的いたずらだと思わせるために、会社は実験材料を女性に限定したの」
猪野「そうだ、俺がいい例だ。俺はそれに見事に引っ掛かっちまった」
猪野が呟く。
麗子「・・・しかも、被害者のはずのその女の子たちも、まったくと言っていいほど被害意識がなかった。だれも何も訴えようとせず、マスコミも、警察も動いてくれなかった・・・」
猪野「それがこの国の現状だよ。自分がだれかに害を与えてるってことも知らなけりゃ、だれかから害を受けてるってことにも気付かねえんだ」
天井を見つめながら、猪野がそう吐き捨てるように言う。
麗子「兄貴はその後やつらに追われて、どこかへ逃げてしまった・・・。生きてさえいてくれればいいんだけど・・・。あのね、あたし、最初は兄貴の跡を継いで今度はあたしが復讐してやろうと思ってたの。でも、今はそんなこともうどうでもいい。ただ、残された兄妹二人で、一緒に暮らせればいいと思って、兄貴を探してほしくてあなたにこの仕事を依頼したのよ」
牛尾は、しばらく黙っていた。沸き上がる怒りを押さえ付けながら。
”ゆるせねえ・・・!”
しかし、ついに牛尾の怒りは頂点に達した。
ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ。
持っていたウイスキーを一気飲みする牛尾。
麗子「牛尾さん・・・?!」
あぜんとする麗子と猪野。
牛尾「ぶはあっ」
雄叫びをあげる牛尾。そして、ドアに向かって勢いよく走り出す。
麗子「ちょっと、どこ行くの?!」
牛尾「上の連中のところだ!俺なりにそいつらに挨拶してやる!」
麗子「なっ、やめて、やめなさいよ!あんた、力なんかで解決すると思ってるの!?」
牛尾「うるせえっ!!」
牛尾は立ち止まり、麗子たちの方を振り向いて言い放った。
牛尾「ただ黙って何もしないのが、それが正しいのかよ!だったら、俺は間違ってても何でも力を使ってやる!それが、俺の力の使い道なんだよ!!!」
ドアを開けて猛スピードで階段を駆け上っていく牛尾。
ビルの最上階・夕
牛尾はビルの最上階にやってきた。
牛尾「おい、社長室はどこだ!」
通りすがりの社員に聞く牛尾。
社員 「えっ、ここを真直ぐ行った突き当たりですけど・・・」
すぐにまた駆け出す牛尾。
”社長室”と書かれたドアがあった。立ち止まって一つ、深呼吸をする。
勢いよくドアを開け、中に入っていく牛尾。
中の部屋には、二人の男がいた。
一人は、もう顔を覚えてしまった、あの薄気味悪い笑顔の小柄な男。
そしてもう一人は、いかにも悪銭で私腹を肥やしているような、小太りの男である。
男2「お前は・・・!」
小柄な男が牛尾を見てぎょっとする。しかし、牛尾は小柄な男をまったく無視して、小太りの男に凄い勢いで近寄る。
男4「な、何だね君は」
牛尾「うるせえ!てめえが社長か!」
牛尾は男の胸ぐらを掴むと、その男の左頬を思いきり殴るために、右の拳に力を入れた。
その手をふりかざしたその瞬間、
女「やめなさいっ!」
女の声が部屋に響いた。牛尾はまるで母親に叱られた子供のように、ビクッとしてその拳を下ろした。
母親・・・?
ふと牛尾は思った。今の声、どこかで聞いたことがある。その声は、遠い記憶の彼方、まだ、牛尾が幼かったころの、それが聞こえるたびに縮み上がった、母親の怒鳴り声にそっくりだった。
”まさか・・・”
一瞬、牛尾の背中に冷たいものが走った。
”母ちゃん・・・?”
目を凝らして声のした方を見る牛尾。
すると、奥の部屋から、老婆、とまでは言えないがかなり年老いた女が一人で出てきた。
思わず牛尾は声をあげた。
牛尾「本物だ・・・!」
それは間違いなく、牛尾の実の母親、牛尾たみであった。
牛尾を見つめるたみ。こちらも同様にかなり驚いている様子だ。
たみ「政美・・・?あんた、政美じゃねえか・・・!」
思わず駆け寄るたみ。と、いきなり牛尾の頭を叩いた。
たみ「あんた、こんなところで何しとるだ?!また人様に手ぇ出そうとして、あんた、まだヤクザもんから足洗ってないんか!」
牛尾「いてっ、ち、違うよ母ちゃん、これにはわけが・・・」
たみ「ワケ?!あんた、人を殴るのにわけなんかあるわけないだろ!ちっとは目ぇ覚まさんかい!」
そう言って牛尾を殴りつづけるたみ。
牛尾「いて、分かった、分かったから、やめてくれよ。それより母ちゃんこそ、何でこんなとこにいるんだ?!」
たみ「おや、言ってなかったかい、東京に来るって言うといただろ、お前はほんとにこの親不孝もん、迎えにも来んと・・・」
牛尾「ち、違う、東京じゃなくて、何でこの場所にいるんだよ?!」
たみ「仕事じゃ、仕事」
牛尾「仕事?何の仕事だ?」
その時、牛尾のあとを追ってきた麗子と猪野が部屋に入ってきた。猪野は、中の状況がよく飲み込めない、といった表情をしている。
麗子が小太りの男に問いただした。
麗子「社長、一体どうなってるんですか?」
社長と呼ばれた男は困惑の表情を浮かべ、こう答える。
男4「・・・いや、残念ながらな、わしはもう社長じゃないんだよ。今日から我が社は、この牛尾さんの、牛尾グループの傘下に入ることになった」
一同「ええっ!」
そこにいる全員が声をそろえてそう叫んだ。ただ一人、牛尾たみを除いて。
全員が凝視する中、たみはまた同じ言葉を繰り返す。
たみ「仕事じゃ、仕事」
レストラン店内・夜
牛尾とたみ、猪野と麗子の四人は、少し早めの夕食をとりにレストランに来ていた。
食事の済んだ皿が順に片付けられ、豪勢なデザートが運ばれてくる。
たみ「・・・なるほどのう、そういういきさつがあったのか。麗子さんとやら、すまんかったのう。うちの政美のことだ、えらい迷惑かけただろう」
器用にスプーンを使ってフルーツの種を取りながら言うたみ。
麗子「いえ、とんでもない!迷惑かけたのは、あたしの方です。牛尾さんに変なこと頼んじゃって、危険な目にも遭わせたし・・・。でも、話は聞いてたけれど、まさか牛尾さんのお母さまがあの牛尾グループの会長さんだったなんて、まったく思いませんでした!」
興奮気味に話す麗子。それを聞いていた牛尾は、猪野に尋ねる。
牛尾「俺の母ちゃん、そんなにスゴイのか・・・?」
呆れながら答える猪野。
猪野「牛尾グループ、中国地方を中心にその勢力を拡大している、年商100億ともいわれている巨大な組織だ。知らなかったよ、おまえ、お坊っちゃんだったんだな」
牛尾「知らねえよ、俺は早くに家を出たからな」
スイカにかぶりつく牛尾。種も出さずにそのまま飲み込む。
たみ「しかしのう、あのタヌキめ、やっぱりそんな汚いことに手を出してたのか。でもな、もう心配せんでええぞ、あたしが実権を握ったからにはそんな製薬会社とはもうすっぱりと手を切るから」
麗子「あ、ありがとうございます!」
深々と頭を下げる麗子。
猪野「それにな」
猪野が続ける。
猪野「俺が調べたことをそのまま警察に持ってきゃ奴らは一網打尽だ。まだ物証はないが、こう見えても俺は警察に顔がきくんだ。俺が話せば、捜査に乗り出してくれるだろう」
麗子「本当ですか?!まさか警察の方にこんなに協力してもらえるとは思ってもいませんでした!」
猪野「嬉しい誤算だろう。もう諦めかけてたのにな。偶然に、感謝するんだな」
麗子は猪野の手を握る。途端に固まってしまう猪野。
麗子「本当に、ありがとうございます・・・!」
猪野「う、うん・・・」
レストラン前・夜
四人は食事を終え、レストランの外に出た。猪野は一足早く前に進み、言う。
猪野「じゃあ俺はこの足で警察に行ってくる。早い方がいいだろ、じゃあな」
麗子「はい、本当に、どうもありがとうございました」
手を振って去っていく猪野。牛尾が声をかける。
牛尾「おうイノシン、ウイスキーうまかったぞ」
振り返って笑いながら言う猪野。
猪野「今度お前に酒やる時はもっと安いのにするよ。いっぱい飲まれて、あれ以上暴れられちゃたまんねえからな」
再び歩き出す猪野。しばらくして、彼の姿は人込みに消える。
三人は夜の街を歩き出した。ほとんどの街灯にはもう光が点り始めている。
たみが牛尾の背中を小突いて言う。
たみ「あんた、入れ墨まだ入っとるんやろ。どっかにまだヤクザ臭さが残っとるわ」
ぎくりとする牛尾。
たみ「それにな、ちゃんとした仕事はやってんのか、もしないんならどっか口きいたろか?」
牛尾「大丈夫だって、母ちゃん、心配すんな。俺はもう家を飛び出した時の政美でもねえし、ヤクザ時代の暴れ牛でもねえ。牛尾政美っていうただの男だ。なんとか生きてくさ」
そう言った牛尾を見つめるたみの顔は、麗子の目にはどこか寂しげに映った。
たみ「・・・そうか、ならいいんだがねえ・・・。でもあんた、嫁さんを見つける目だけはいいようだねえ。なかなか気丈そうで、いい娘さんじゃねえか」
えっ、と顔を見合わせる牛尾と麗子。
牛尾「バカ、違うぞ母ちゃん、なに勘違いしてるんだ、俺はこんな気の強い女・・・」
たみ「ええやないか照れんでも。あ、そうだな、婆ぁは邪魔だな、じゃあわしは先に会社に戻ってるけん、二人でゆっくりしなさい。あ、政美、あとで東京ナイトスポット巡りに連れてってな、じゃあな」
それだけ言い残して、たみは足早に会社に戻っていった。
あとには、牛尾と麗子だけが取り残された。
麗子「・・・ほんと、いいお母さんだね。牛尾さん、大事にしなきゃダメだよ」
牛尾「ああ、なんだかんだ行っても、親子二人きりだからな。これからは、自然とそうなるだろうよ」
それっきり、黙りこくってしまう二人。しばらくして、沈黙を破ったのは、麗子の方だった。
麗子「牛尾さん、そう言えばあたし、あなたにまだ一度もお礼、言ってなかったね。本当にありが・・・」
牛尾「ストップ!」
言葉を遮る牛尾。
牛尾「俺はまだ、あんたの願いをかなえてねえ。礼は、そのあとにしてくれ」
麗子「え?それって・・・」
牛尾「あんたの依頼は、兄貴を捜し出すこと、だろ」
麗子「牛尾さん・・・」
牛尾「案外いいもんかもしんねえな、家族ってやつは・・・」
煙草を取り出し、火をつける牛尾。
そんな牛尾の仕草を見つめながら、麗子はふと呟いた。
麗子「あんた、あたしのヒーローだったんだね・・・」
牛尾「ん・・・?」
麗子「ううん、何でもない。行きましょ、ランプの精さん」
麗子は牛尾の手を取り、軽快に歩き出す。
そんな麗子に牛尾は少し驚いた。くわえていた煙草を地面に落とし、慌てて麗子の後について歩き出す。
終