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たのしいゲーム

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街 ネクストストーリー9

2014年05月03日 16時00分00秒 | 街 サウンドノベル
10月15日



猪野の家・朝



牛尾は携帯の音で目を覚ました。

麗子「おっはよう、朝だぞ、起きろ」

電話に出ると、麗子の威勢のいい声が耳に入る。

牛尾「何だよ・・・。まだ7時じゃねえか」

まだ半分閉じている目をこすりながら言う牛尾。

麗子「もう7時でしょ。今日も一日気合い入れて探そうな。あ、あたし今日午後から暇だから、一緒に手伝ってあげるよ。今日の予定はどうなってる?」

牛尾「おう、9時にハチ公前で被害者の子と会う約束してる」

麗子「へえ、約束取れたの?なかなかやるじゃない」

牛尾「まあな、そんぐらいちょろいもんだぜ」

麗子「じゃああとで会いましょ、またね」

電話を切る麗子。

牛尾はボリボリと背中を掻きながら、大きな伸びを一つ打つ。

長い一日がまたこの街で始まる。母ちゃんのいるこの街で。

牛尾は対母ちゃん用の計画表のことを思い出した。

”最悪の場合、本当に最後の手段として、俺は奴を探さなければならない。俺の身代わりになれる唯一の男、馬部甚太郎を。”

しかし、彼の居所を今知るすべはなかった。やつを探している暇があるのなら、今の仕事を片付けてしまった方が手っ取り早い。

牛尾は頬を両手で叩き、気合いを入れ直した。

ふと横を見ると、相棒の猪野はまだ起きていない。万年床の中で小さないびきを立てている。

牛尾「おい、起きろイノシン」

反応はない。牛尾は力任せに布団を引っ剥がす。

猪野「うう、寒い・・・」

牛尾「起きろ。出動だ」

猪野はそれでも起きようとしない。目をつぶったまま布団を探し当て、また頭からかぶる。

猪野「うう・・・、行きたくない・・・」

牛尾「ダメだ、俺の命令に従え」

猪野「いやだ、女なんて、みんな、俺のことバカにしてるんだ・・・」

牛尾「おう、その通りだ、その通りだから、行くぞ」

無理矢理猪野を引きずり起こす。猪野も抵抗するが、力の勝負で牛尾に勝てるはずがなかった。





ハチ公前・朝



結局二人揃ってハチ公前にやって来た。猪野はもう諦めたのか、いくぶん足取りも軽くなっている。

人だかりから少し離れたところに、一人で立っている女がいた。

牛尾が彼女に抱いた印象を一言で言い表すと、”茶色”だった。

茶色いのではなく、”茶色”そのものの女だった。髪の毛の先からむき出しの太ももまで、とにかく全身が茶色なのだ。

牛尾は彼女が自分と同じ種族であることが信じられなかった。

牛尾「あの、かおりさん?」

恐る恐る声をかけてみる牛尾。心のどこかで、違っていてほしい、と祈りつつ。

しかし、返って来た言葉は、その期待を裏切るものだった。

かおり「ハイッ」

明るく返事をする女。

牛尾「あ、そう、じゃあ、とりあえずどっか入るか」

昨日の女とはまたえらい違いだな、そう思いつつ、昨日と同じ店に連れていくことにした。





喫茶店・朝



女は店に入るなり、ペペロンチーノとミックスサンドとバナナジュースとチーズマフィンを注文した。

かおり「昨日の夜から何も食べてなくってえ」

大の男二人が見守る中、勢いよく食べまくる女。

猪野が小さな声で牛尾に耳打ちした。

猪野「俺さ、こういうギャル系、一番ダメなんだよね、何言っても話通じそうにないじゃん」

牛尾「・・・よし、ここは俺に任せとけ。お前はテープ頼むぞ」

猪野「分かったよ。・・・ったく、来るんじゃなかった」

猪野は渋々とかばんに手を入れ、テープの録音スイッチを押す。

かおり「何ゴチャゴチャ言ってんの?」

牛尾「いや、よし、じゃあ早速だけど、あんた、高校生か?」

かおり「うん、高2、16歳、ピチピチ」

牛尾「・・・で、いつ入れ墨に気付いたんだ?」

かおり「えっとぉ、確か3ヵ月前にぃ、彼氏が見つけたの」

牛尾「で、いつ入れられたかは全然分からなかったのか?」

かおり「うん、全然覚えてない」

牛尾「知り合いにそういうことしそうな奴いるか、彫師とか、美大生とか」

かおり「彫師って?」

牛尾「だから、入れ墨を彫る仕事の奴だよ、彫師」

かおり「ああ、タトゥショップの店員さんに知り合いいるよ、それに友だちは大体タトゥ入ってるし、あたしもぉ、ちょーど入れようと思ってたとこだったのぉ。だから得しちゃった」

牛尾「なに、じゃあ、まだ消してないのか?」

かおり「うん、だってぇ、店の人に見せたら、これ入れた人、かなり腕がいいって言われたんだもん。なんなら見せたげよっか?」

立ち上がってシャツを胸の辺りまでめくる女。途端に周りの男たちが一斉にこちらを向く。

せき払いをして辺りを伺う牛尾。出勤前のコーヒーを飲んでいるサラリーマンたちと目が合う。猪野はその間ずっとうつむき続けている。

女は牛尾たちに見えるように後ろを向いた。背骨からやや右側にそれたところに、躍動感溢れるペガサスの絵が刻み込まれている。

牛尾「おう、ありがとう、もういいぞ」

女を座らせる牛尾。途端に周りの男たちは一斉にあちらを向く。

牛尾「分かった、じゃあ一応その彼氏と、タトゥなんとかの店員さんの連絡先だけでも書いといてくんねえかな、俺たちからの質問はこれで終わりだ」

かおり「えーっ、もう終わり?だって、こっちのひと何にも喋ってないじゃん」

猪野を指差す女。

牛尾「ああ、こいつはいいんだ。こいつな、喋れねえんだよ」

下を向いている猪野の頭をバシッと叩いて言う牛尾。

猪野「いてっ」

かおり「喋れるじゃん」

突っ込みを入れる女。猪野は姿勢を正して精一杯顔を上げる。

猪野「しゃ、喋れますよ。あの、最後に僕から質問していいですか?」

かおり「いいよ、なに?」

ふてぶてしく言い放つ女。

猪野「その、3ヵ月前でしたよね、その入れ墨見つけたの。その前後に、あなた、病院に通ったりしたことはありませんでしたか?」

かおり「ええっと、2、3回行ったかな、でも風邪でだよ」

猪野「そうですか、あ、じゃあ、その病院の名前も書いておいてくれませんか?」

言われた通りにする女。

かおり「これで本当に終わり?じゃあ、もっとなんか食べていい?」

ウエイトレスを呼ぶ女。牛尾は猪野の肩をつつく。

牛尾「お前もちだからな」

猪野「ええっ!またか?!」

牛尾「あったりまえだ」

財布を広げ、大きなため息をつく猪野。



茶色い女がいなくなったあとも、二人は喫茶店の中で時間を過ごしていた。

十一時になった。ハチ公前で次の女が待っている時間だ。

牛尾「おい、お前、連れてこい」

猪野「む、無理言うなよ。俺にそんなことできるわけないだろ」

牛尾「大丈夫だ、食われやしねえって。それに、さっきよりひどいことはないだろ」

猪野は渋々席を立った。

しばらくして、猪野は一人の女を連れて戻って来た。年は二十歳前後、長い髪を後ろに束ね、清潔感溢れるブルーのワンピースを着ている。襟元から見える首筋は、先程の女とは比べ物にならないほど白い。

牛尾は少しドキリとした。

”好みだ・・・”

年のわりに落ち着いた、大人しい外見。控えめながらも知性を感じさせるその瞳。

牛尾はこういうタイプに弱かった。

猪野「ど、どうぞ、おすわり下さい」

猪野が手を差し出す。さっきよりは落ち着いているようだ。

牛尾「ああ、どうぞどうぞ、遠いところをわざわざ」

牛尾も立ち上がって手を出す。

女「いえ、別に近所ですので」

牛尾「ああ、そうですか、それはどうもご親切に、お構い無く」

緊張のためか、知っているだけの丁寧な言葉を連呼する牛尾。

牛尾「あの、この度は、どうも御愁傷様です」

女「はあ」

牛尾「どうですかお体の具合は。どこも何ともありませんか」

女「ええまあ。あれからもう半年以上経ちますので、傷跡も何も」

牛尾「そうですか、それは良かった、いや、ほんとに」

コップの水を一気飲みする牛尾。

”この依頼引き受けて良かった・・・!”

初めて心の底からそう思う。

牛尾「あ、お名前は、・・・ええと、野上さん、だったね」

野上「ええ」

牛尾「あの、今日来てもらったのは他でもねえ、いや、ありません、あなたの知らないうちに入ってたっていう、あの入れ墨のことなんですけどね、我々はある人に頼まれて、そんなひどいことをした犯人を探しているんです。御協力お願いできませんかね?」

野上「ええ、私にできることでしたら何でも」

ええ子や、と牛尾は思った。

牛尾「おう、じゃあ聞かせてもらうな、とりあえず、職業は?」

野上「一応外資系会社のOLやってます」

牛尾「年は?失礼か?」

野上「いえ、24です」

牛尾「趣味は?」

野上「はい?」

牛尾「いや、ゴホン、あの、じゃあ、入れ墨とかに興味をもったことは?」

野上「いえ、まったくないです」

牛尾「そういう関係の知り合いもいないのか?」

野上「ええ、いないですね」

牛尾「そっか、じゃあな、その入れ墨が見つかった時、恋人とか、あんたに好意をもってるやつとかいたか?」

野上「はい、恋人はいましたけど、2年前に九州に転勤で行ってしまったので、その時は会ってないです」

牛尾「その恋人のこと、今でも好きなのか?」

野上「いえ、・・・どうしてそんなこと聞くんですか?」

牛尾「いや、一応な、一応。で、そんときなんか身の回りで変わったことはなかったか?変な男に言い寄られたとか、ストーカーにつけまわされたとか」

野上「いえ、思い当たることは別に・・・」

牛尾「そっか・・・、なるほどな、分かった、ありがとう」

質問を終えようとする牛尾。と、猪野が突然口を開いた。

猪野「あの、すいません、最後にいいですか、あなた、その時病院に通ったりしてませんでしたか?」

野上「え、ええ、あの、実は私そのとき足をねんざしていまして、1ヵ月ぐらい通院してましたけど・・・。それが何か?」

猪野「いえ、何でもないです。とりあえずその病院、名前だけでも書いておいて下さい」

牛尾「てめえ、何でもないなら聞くなよな」

猪野の頭を後ろからどつく牛尾。

牛尾「ほんとにありがとな。おかげで助かったよ。これで犯人もすぐ捕まる。間違いない」

野上「ほんとですか?!私、警察に行っても全然信じてもらえなかったし、半分諦めかけてたんです。本当に、犯人を捕まえてくれるんですか?」

牛尾「ああ、もちろんだ。あんたのためにも」

野上「嬉しい!ありがとう!」

牛尾の手を握る野上。白く柔らかな感触が身体中に広がる。

野上「頑張って下さいね!応援してますから」

牛尾「・・・うん、がんばる」

ぼーっとする牛尾。言葉で言い表すなら、まさに”骨抜き状態”だ。

そんな牛尾はお構い無し、といった風に、猪野は一人で物思いに耽っている。

鼻の穴を、ピクピクと膨らませながら。

野上は礼を言って去っていった。何度も手を振ってそれを見送る牛尾。

猪野「だらしねえなあ、ちょっと手を握られたぐらいで」

牛尾「うるせえ、お前だったら発射してるだろうが。いいか、彼女にとって俺はヒーローなんだよ。突然現れて、ピンチを救ってくれる」

猪野「バカなことを・・・、ん?」

ふと外を見ると、野上が若い男と手を組んで楽しそうに帰っていくのが見える。

猪野「あれ見ろよ。ほんとにお前がヒーローか、ん?」

気付いた牛尾も目で二人を追う。二人が見えなくなるまで追い、がっくりと肩を落とす牛尾。

猪野「ヒーローじゃなくてピエロだったな。それよりな、ちょっと色々と整理しときたいことがあるんだ。いったん家に戻ろう」

今度はうなだれる牛尾を猪野が引きずって帰る。





猪野の家・昼



猪野の家に戻って来た。牛尾は被害者のリストを、猪野はパソコンの画面をそれぞれ睨んでいる。

猪野「あの子、警察に行ったって言ってたよな、でも、警察には何の記録も残っていない。鼻っから話を信じてなかったから記録しなかったのか、それとも・・・」

牛尾「それとも?」

猪野「・・・牛尾ちゃん、彼女の書いたメモ、見せてくれ」

猪野は待切れない、といった様子でそのメモを牛尾からひったくる。

注意深く目を通しながら言う猪野。

猪野「彼女たち、3人ともまるで違うタイプの女だったよな。地味な女と、ギャル入ってる女、あと普通の可愛い感じの女。ふつうこういう連続の性犯罪の犠牲者っていうのは、犯人の理想像に近い女がターゲットになるわけだから、自然とどこかに共通点を見いだせる場合が多いんだよ。髪が長かったり、小柄だったり、年令が近かったり。俺は、その共通点がどこかに必ずあると思って3人を見てたけど、残念ながら見つけることができなかった。彼女たち自身からは」

牛尾「? どういうことだ?」

猪野「共通点は見つかったんだよ。ほら、これだ」

メモを牛尾に見せる猪野。

猪野「この2文字だよ。病・院」

猪野はペンを取って、”病院”の文字を丸く囲む。

猪野「彼女たちは、入れ墨を入れられる前後の期間、皆病院に通ってたんだ。理由はそれぞれ違うけどな。この偶然は、なんだと思う?」

牛尾「んー、何だ?」

猪野「・・・まだ断定はできないが、何かひとつ手がかりを見つけたら、それをきっかけに解決の糸口を探す。それがデカってもんだ」

猪野はメモ用紙を牛尾に手渡して言う。

猪野「病院、行ってこい。住所は今調べるが、3件とも渋谷近辺だ」

牛尾「俺が、行くのか?デカはお前だろ、俺は探偵見習いだ」

猪野「どっちだって同じだよ。俺はもうちょっとここで脳みそ動かしてるから、身体のお前が行かなくてどうする」

牛尾「ち、分かったよ。人の台詞パクリやがって」

牛尾は上着を羽織ると、再び街に飛び出して行った。





街中・昼



牛尾は街に出ると、まずタクシーを捜し出した。

母ちゃんはこの街にいる。下手に動いて、ばったり出くわしちまったらシャレになんねえ。

綺麗な身体になるまえに会うことだけはできねえ。

そう思いつつ車の多い大通りに向かう牛尾。と、携帯電話が鳴りだした。麗子からである。

麗子「ハァイうっしー、いまどこにいるの?」

牛尾「だれがうっしーだ。今な、タクシー拾うとこなんだ。また後でかけ直す」

麗子「あっ、ちょっと待った、ど、どこ行くのよ?」

牛尾「日野内科っていう病院だ。そのあともう2件回る」

麗子「病院?なんで病院なの?怪我でもしたの?」

牛尾「俺の聞き込みの成果だ。その病院が怪しいから、これから調べに行く」

麗子「へえ、スゴイじゃない。ちゃんと働いてるんだ」

牛尾「当たり前だ。ヒーローだからな」

麗子「分かった、あたしも時間空いたから今からそこ行くわ。日野内科だっけ、住所は?・・・わかった、じゃああとで会いましょ」

それだけ言うと電話はプツリと切れた。

再びタクシーを探す牛尾。

十字路でタクシーがつかまり、そのまま乗り込む。

運転手「はい、どちらまで?」

牛尾「おう、この病院まで頼む」

牛尾はメモを運転手に渡した。

牛尾「一番上から順番に1つずつ回ってくれ」

運転手「ふえ?病院のはしごですか?変わってますね、どこも悪くなさそうなのに」

牛尾「うるさい、いいから早く行け」

運転手「ふ、ふええ、はいはい」

急いで車を出す運転手。牛尾は後部座席にどっかと座り、着くまでの時間少し仮眠を取ることにした。





日野内科の前・昼



運転手「お客さん、着きましたよ」

運転手の声で牛尾は目覚めた。外を見ると、確かに目の前に病院がある。

牛尾「おう、サンキュー、じゃあ、ちょっくら行ってくるから、待っててくれ」

運転手「はい、早くして下さいね」

牛尾は車を降り、病院の玄関口に回った。外観は見たところ何の変哲もない、小さな開業医といったところだ。

玄関のドアを開けて中に入ると、病院特有の薬品の匂いが牛尾を包む。待ち合い室では人が列をなしていた。列の最後尾に並ぶ牛尾。と、隣の女が牛尾に話しかけて

きた。

麗子「遅かったじゃない」

驚いて向くと、声の主は麗子だった。

牛尾「なんだよ、脅かすな」

麗子「あんまり遅いからほんとに見てもらおうと思ってたとこだったよ。じゃあ、早速聞き込み始めよっか」

麗子は隣に座っていた老婆に声をかけ、何やら色々と聞き出している。

牛尾「何だよ、直接ここの医者に聞けばいいじゃねえか。まどろっこしい」

牛尾は立ち上がって、奥の診察室に入って行こうとする。

麗子「ダメだよ、みんな順番待ってるんだから」

牛尾「かまわねえ、話聞くだけなんだから。行くぞ」

麗子「・・・もう!」

二人は患者たちの冷たい視線を浴びながら、診察室へと進む。

ドアを開けると、当然のことながら診察中であった。医者と看護婦が一人づつ、小さな子供がベッドの上で横たわっている。

医者「何ですかあなたたちは。まだ名前呼んでませんよ」

面倒臭そうに医者がそう言う。

牛尾「うるせえ、別に俺たちは患者じゃねえ。ちょっと聞きたいことがあってな」

牛尾の顔を見て、明らかに怯える看護婦。しかし医者は、毅然とした態度で言い返す。

医者「・・・出て行って下さい、あなたみたいな人に話すことは何もありません。患者たちが待っていますので」

牛尾「何だとコラ、ぶっ殺すぞ、人を見かけで・・・」

医者「早く出て行って下さい、でないと、警察呼びますよ」

牛尾「上等じゃねえか、俺は強盗犯に間違えられたこともあるんだぞ、そんなことで・・・」

たまりかねて間に割って入る麗子。

麗子「失礼しました、出直します!」

牛尾を連れて外に出て行く麗子。

牛尾「おい、何だよ、まだ話しが・・・」

麗子「あんな聞き方で話してくれるわけないでしょ!まったく、ちょっとは考えなさいよね」

牛尾の背中をバシッと叩く麗子。

麗子「あんたよくそんなんで今までやってこれたね、信じらんない」

牛尾「なんだと、そんな男に依頼したのはどこのどいつだ」

麗子「たまたまあんたがタイミングよく現れたからだよ!それにあんた、ちょっとやそっとじゃ死にそうにないし」

それを聞いて、牛尾は昨日何者かに襲われたことをふいに思い出した。

牛尾「おう、死にそうで思い出したけどな、俺は昨日変な奴らに殺されそうになったんだぞ、今してることから手を引けって」

麗子「・・・」

黙り込む麗子。

牛尾「おい、なんとか言えよ。なんで俺が命狙われなきゃなんねえんだ?あんた、何か隠してんじゃねえのか?」

麗子「・・・」

麗子は、口を開こうとしない。うつむいたまま、唇をきゅっと噛み締めている。

たまりかねた牛尾が近付いて行こうとしたその時、いきなり黒い車がカーブを曲がって現れ、猛スピードでこちらに走って来た。

牛尾「あぶねえっ!」

麗子を抱きよせ、横に飛ぶ牛尾。間一髪のところで車は通り過ぎた。

牛尾「大丈夫か?無茶しやがる」

麗子「なんとかね」

牛尾の手を振り払って、一人で立とうとする麗子。と、車は急ブレーキを踏み、中から三人の男が出て来た。

長身の男、金髪の男、そして小柄な男。忘れもしない、昨日白昼堂々と牛尾を襲ったあの三人である。

男2「いやー、また会ったね、先日はどうも」

小柄な男が薄ら笑いを浮かべて近付いてくる。

牛尾「てめえ、その気色悪い顔は死んでも忘れねえぞ、よくも昨日は・・・」

男2「おおっと、そこまで。今日はあんたには用はないんだ。お嬢さん、ちょっとお時間いただいてよろしいかな?」

男が合図すると、金髪の男が麗子を後ろから羽交い締めにした。

麗子「なにすんだ、この、放せっ」

暴れる麗子を無理矢理車の中に押し込もうとする。

牛尾「やめろっ」

止めようとする牛尾。しかしそのまえに、金属バットをもった長身の男が立ちはだかった。

男1「昨日みたいにはいかねえぞ、へっ」

バットを振りかぶって威嚇する男。その隙に、男たちは麗子を連れて車に乗り込む。

牛尾「待ちやがれ、この野郎」

追いかけようとする牛尾の腹に、金属バットが鈍い音を立てて食い込んだ。

牛尾「ぐふっ」

倒れ込む牛尾。それを見届けてから、ゆっくりと最後に車に乗り込む長身の男。

車が勢いよく発進する。牛尾は、痛む腹を押さえてそれを見送るしかなかった。

痛みが引くのを待って、タクシーに戻る牛尾。

牛尾「おい、今の見てただろ、あの車、追いかけてくれ」

しかし、運転手はうつらうつらと首を傾けていた。牛尾の声で慌てて起きる。

運転手「ふえ、ふえい、どの車でしょう?」

ダメだこりゃ、と牛尾は思った。後部座席にどかりと座る。

牛尾「・・・もういい。予定変更だ、病院巡りはおしまい。戻ってくれ」

運転手「ふぇい、なんか知らんけど、えらいすんません」

言われた通りに車を出す運転手。

牛尾「くそっ!」

思わず呟かずにはいられない牛尾。





猪野の家・昼



猪野「そりゃ、災難だったな」

牛尾は猪野の家に戻って来た。猪野は相変わらずパソコン画面を睨み付けながら、間の抜けた声で言う。

牛尾「畜生、一体どうなってんだ、ったく。おい、薬よこせ薬」

猪野「そんなもん無いぞ」

牛尾「あるじゃねえか。俺にとってはこれが薬だ」

牛尾はそう言って、ちゃぶ台の上に置いてあったウイスキーのボトルを手に取る。

そのまま一気にラッパ飲みし、ふう、と大きな息をつく。

牛尾「おい、イノシン」

猪野「ん?」

牛尾「どういうことなんだよ、俺だけならまだしも、何で彼女まで襲われたんだよ?俺にはさっぱり分からねえ」

猪野「ふうむ・・・。俺も今それを考えていたんだ。昨日お前が襲われたこと、それを知った時の彼女の態度、そしてその彼女自身が今度は襲われたこと。この3つのことから分かるのは、彼女は依頼したお前にまだ話してない、何か重要なことを知ってるってことだ。そんな暴力団まがいの奴が出てくるぐらいの、何かヤバいことを。で、それを嗅ぎ回ろうとしたお前が襲われ、次にその依頼主本人である彼女自身も襲われた、と」

牛尾「何だよそのヤバいことっていうのは」

猪野「そこなんだよ。さっきから考えてるんだが、犯人が見つかると困る連中がいるってことまでは分かったんだがな、その理由が分かんねえんだよ。何でそんな連中がいるんだ?犯人はただの変態だ、個人的趣味を追求していくうちに社会常識から逸脱してしまったような野郎が捕まって困ることなんてあるのか?そのつながりがな、どうしても分かんねえんだよ」

牛尾「・・・そっか、お前にも分かんねえことがあるんだな」

猪野「当たり前だ。論理的に説明不可能な時は、お手上げだ」

猪野はそれだけ言うと、くるりと背を向けて再びパソコンに対面した。

しばらく沈黙が続いた。

”イノシンに分からねえんなら、本当にお手上げだな”

ふとそう悟った牛尾は、それまで続けていた考えるふりを止めた。

”くそっ”

悔しげにウイスキーをあおる牛尾。徐々にそのペースは上がり、すぐに一本空けてしまった。空になった瓶を床に投げ捨てる。

猪野「俺はもう降りるぜ」

突然猪野がそう呟いた。

牛尾「何だと?」

猪野「だってよ、このままだと俺の命も危なくなるんだぜ。これ以上下手に首突っ込むのは危険だ」

牛尾「途中でやめるってのか?ふざけんな、お前それでもデカか」

猪野「今はただの趣味の多い一般市民だ。やりたいことはまだまだいっぱいある、俺はまだ死にたくない。お前ももうやめとけ、次はバットじゃすまねえぞ」

牛尾「ふざけるな!」

勢いよく立ち上がる牛尾。その顔は少し赤らんでいる。どうやらウイスキーのせいだけではなさそうだ。

牛尾「一度引き受けた仕事を途中で投げ出すなんてな、そんなこと、ヤクザだってやんねえぞ!俺は昔からなんだって最後までやり通してきたんだ!絶対に手は引かねえ!!」

猪野「そんなこと言ったってお前・・・」

牛尾「それにな、19人の女たちがな、ヒーローが現れるのを待ってるんだよ!今さら後には引けねえ」

それを聞いた猪野は、けげんそうな表情を浮かべて牛尾に聞く。

猪野「19人?最初の話だと、18人って言ってたんじゃなかったのか、例の女」

牛尾「ん?ああ、確かに言ってたな18人って。でもな、俺が電話かけたとき数えたら、19人いたんだよ。あの紙にもな、19人分の連絡先が載ってたぞ」

そう言って被害者のリストを猪野に見せる。猪野はそれを受け取り、一人一人注意深く数えていく。

猪野「本当だ。確かに19人だ。何で間違えたんだろう?省略したにしても、こんな中途半端な省略の仕方、無いよな」

不思議そうに首をかしげる猪野。

そのとき、ウイスキーによって活性化された牛尾の脳細胞が、突然現れた何かのイメージを見事にキャッチした。

牛尾「おい、イノシン」

猪野「ん?何だ?」

牛尾「いいからちょっと俺の言う通りにしてみてくれ。いいか、俺が電話したとき、音信不通だった女が3人いた。今から名前言うから、1人づつその警察のデータかなんかに入って調べてみてくんねえか?」

猪野「ん、お、おう、分かった。やってみる」

牛尾「いいか、まず1人目、飯田慶子、22歳」

猪野「いいだ、け・い・こと・・・」

パソコンに名前を打ち込んでいく猪野。

猪野「・・・該当者無し、か。前科が無いやつのデータは無いよ」

牛尾「じゃあ次だ。篠田ゆかり、19歳」

同じように入力する猪野。

猪野「これも無いな・・・」

牛尾「じゃあ最後、原田麗美、15歳」

猪野「はらだ、う・る・みと・・・。・・・ん?」

牛尾「あったか?!」

猪野「・・・あ、ああ、あるにはあったが・・・」

牛尾「どうした?!」

猪野「死亡者リストの中に、だ」

牛尾「何だと?!」

慌ててパソコンに近付く牛尾。

猪野「原田麗美、享年15歳。’83年5月24日生、’98年8月2日没。死因は薬物による中毒死。捜査当局は医療ミスと判断し、治療にあたっていた医師、熊野洋一(46)を同月業務上過失致死罪の疑いで逮捕。家族は兄啓介(27)と姉麗子(24)の3人構成、両親はすでに死亡・・・」

牛尾「ちょ、ちょっと待て、麗子って、もしかすると、あの女じゃ・・・」 

猪野「・・・調べて見る価値はありそうだな。おい、携帯に入ってる彼女の連絡先見せてくれ」

携帯電話を受け取ると、その番号をパソコンに入力する猪野。

猪野「・・・ビンゴゥ、原田麗子、24歳、間違いない」

牛尾「ってことは、入れ墨の被害者にあの女の妹がいて、さらにその妹は死んじまってたってことか・・・!」

猪野「そうだ、しかも、その死因が薬物による中毒死。やっぱりこの子も病院に通ってたんだ。おいおい、何かつながってきたぞ。もしかすると、俺は自分の固定概念に縛られて、えらい思い違いをしてたかもしれん・・・」

牛尾「何だと?どういうことだ?」

牛尾が聞く。

猪野「俺は、この事件はその方法の異常さと、被害者が皆女だってことから、精神異常者の犯した性犯罪と最初に決めつけてしまった。だけどな、もしかしたら、それ自体が一番の間違いだったかもしれないってことだ。どうしても結びつかなかったんだよ、変態とヤクザと病院が。でもな、お前の偶然の一言で、少しずつ見えてきたよ、先が」

牛尾「だれが偶然だ、実力だ実力」

胸を張って威張る牛尾。

猪野「酒飲むと頭が冴えるからな、お前は」

苦笑する猪野。さらに続ける。

猪野「お前に依頼したその麗子って女が隠していることは、妹の死と何かしらの関係があるはずだ。ってことは、やっぱりこの病院が怪しい。得に、この”薬物による中毒死”ってやつがな。そしてその死と、入れ墨が入ってたことの関係も、絶対どこかでつながっているはずなんだ」

拳を握り締めて力説する猪野。その顔はもう完全に刑事時代のそれに戻っている。

牛尾「面倒臭え。俺が直接聞き出してやる」

牛尾はそう言って、猪野のもう片方の手が握り締めていた携帯電話を奪い取る。

電話をかける牛尾。数コールの後、麗子が小さな声で電話に出た。

牛尾「もしもし?!」

麗子「牛尾さん?あなた大丈夫?怪我しなかった?」

牛尾「それはこっちの台詞だ。あんたはなんともないのか、どこに連れてかれたんだ?」

麗子「あたしは大丈夫。なんとか会社に戻ってこれたわ。でも、今、監視がついてるの」

牛尾「監視?さっきの奴らか?」

麗子「ええそう。あたし、もう下手に動けない。牛尾さん、悪いけどもう手伝えないわ。危ない目に合わせてごめんね。もう、依頼のことは忘れて」

牛尾「何だって?」

麗子「これ以上あなたを巻き込むわけにはいかないわ。詳しいことは言えないけど、あなたも危険よ。もう手を引いて」

牛尾「それはできねえな」

麗子「え?」

牛尾「俺にとって、あんたはランプの精なんだよ。願いがかなうまではあんたのそばを離れねえ」

それだけ言うと電話を切ろうとする牛尾。

麗子「ちょ、ちょっと?!もしもし?!」

構わず電話を切る牛尾。

猪野「行くのか?」

猪野が聞くと、振り向かずに牛尾は答えた。

牛尾「おう、ちょっくら行ってくるわ。お前も来るか?」

ブンブンブンと首を大きく横に振る猪野。

猪野「じょ、冗談じゃねえぜ。わざわざ危ない所に入っていけるか。俺はただの小市民だ」

牛尾「ふん、そうくると思ったぜ。じゃあな、小市民」

そう言い残して部屋を去ろうとする牛尾。

猪野「ちょ、ちょっと待て牛」

猪野は机の上に置いてあったウイスキーの角瓶を牛尾に投げつける。

猪野「持ってけ。鬼になんとか、牛尾に角瓶だ」

片手で受け取り、軽くその手を挙げる牛尾。

足早に猪野の部屋を後にする。タクシーを拾い、行き先を告げる牛尾。

牛尾「おう、ハイブリッド・エージェンシーの本社まで頼む」





ハイブリッド・エージェンシー本社前・夕



タクシーを降りると、ビルの正面玄関前だった。麗子の仕事場は、それとは反対の裏口が入り口である。

路地を回って裏通りに出る牛尾。と、麗子の店へと続く階段の前に、例の長身の男が立っているのが見える。

牛尾は気付かれないよう気配を殺してそっと忍び寄る。

手の届く距離まで近付くと、男の肩ををぽんと叩く牛尾。

牛尾「よう、元気?」

驚いて振り向く男。その振り向きざまに、拳を叩き込む。

男はもんどりうって倒れる。

牛尾「残念だったな、バットが無くて」

角瓶を開け、少し喉に流し込む。途端に牛尾の身体に力がみなぎる。

牛尾「よっしゃ、次」

階段を降りていく牛尾。





ビル内・地下一階・夕



階段を下り切って、奥の部屋へと進む牛尾。

ドアを開けた牛尾の目に飛び込んできたのは、椅子に座って居眠りをしている金髪の男だった。

起こさないように近付いていく牛尾。と、同じようにして逆方向から男に近付く人陰に気付いた。

それは、手に板切れを持った麗子だった。男の真後ろに立ち、板切れを振りかぶって、そのまま男の脳天めがけて思いきり振り下ろす。

鈍い音がした。麗子は男を引きずって別室へ連れていく。

麗子「何見てんの、あんたも手伝って」

牛尾の方を見てそう言う麗子。

牛尾「お、おう」

言われた通りに手伝う牛尾。



・・・数分後、男は両腕を縛られ、別室に閉じ込められていた。

牛尾「さすがだな、あんたのハリセンは効くからな、原田麗子さん」

麗子「当たり前よ。あたしをだれだと思って・・・。ねえちょっと待って、なんであたしの名字知ってんの?」

牛尾「原田麗子、24歳、兄啓介と妹麗美の3人兄妹か。親がいないんじゃさぞかし苦労したんだろうな」

麗子「ど、どこでそれを・・・」

動揺する麗子。牛尾はじっと麗子の顔を見つめて言う。

牛尾「よう、あんたにとって、俺はなんだ?」

麗子「なんだって、仕事を、依頼した人よ・・・」

牛尾「そう、あんたと俺は短い時間の間に、お互いを信頼して契約したわけだよな。だけど、あんたは俺に大事なことを隠したままでいたんだ。信頼関係は、ぶちこわしだ」

麗子「だ、だけどそれは・・・」

牛尾「いいか、こんなこと言わなくても分かってるだろうがな、俺にはその秘密を聞く権利があるんだ。あんたのパートナーとして」

大きくうなだれる麗子。髪をかきあげ、キッと目を見据えて言う。

麗子「・・・わかった。あんたにはちゃんと話さなくちゃダメみたいだな。そうだな、何から話そうか、あたしたち兄妹のことからでいい?」

コクリ、とうなずく牛尾。

麗子「あたしの兄は、うちの会社がこのビルを買収する前、この場所で働いてたんだ。たぶんあんたの知り合い、榊原さんだっけ?その人の下で働いてたんだと思う。その人に仕込まれてさ、結構いい彫師だったんだよ兄貴は」

牛尾「本当かそれは。じゃあ、もしかすると、俺の入れ墨も・・・」

麗子「うん、ちょっとは兄貴が彫ったのかもね。で、うちの会社が入ってきて、榊原さんは水が合わなくてどっか行っちゃったみたい。それで兄貴がこの部門をまかされることになったの。今のこの店の前身がそれ。しばらくは結構うまくやってたみたいだったんだけど、ある日兄貴は、会社の裏側を、偶然にも知ってしまったの」

猪野「そこから先は俺が話そうか?」

ふいに声が響く。ドアが開き、猪野が中に入ってきた。

牛尾「イノシン・・・!来たのか」

猪野「やっぱりお前だけじゃ心配になってな」

麗子「だれ?この方は」

けげんそうに訪ねる麗子。

牛尾「イノシンっていってな、元本庁のデカだった男だ」

麗子「警察・・・?」

牛尾「心配するな、今はふらふらしてるただの一般市民だ。今度のことも、色々手伝ってくれた」

猪野「ど、どうも、猪野、と申します」

やはり女の前だと声がうわずる猪野。しかし、気を取り直して続ける。

猪野「さっきまで調べてたから登場が遅くなってしまったけど、やっと色々分かったよ。あんたの会社の、その、裏側ってやつが。このハイブリッド・エージェンシーっていう会社は、表向きにはエスティティック産業を主に取り扱っている普通の企業だが、裏では大手の製薬会社と手を結び、薬品開発に必要な人体実験のサンプルを提供することも行っていたんだ。それも、とりわけ副作用の強い、危険な薬品ばかり対象にして、な。あんたの妹は、その実験の犠牲者となり、死んだ・・・。あんたの妹が亡くなった病院と、おれたちが調べた3人の女が通っていた病院、どれも普通の小さな開業医ばかりだったが、一つ共通点があったよ。どの病院も、ある一つの製薬会社の薬しか使ってなかった。そこから色々と分かったよ。薬品の無料提供をえさに、あんたの会社と製薬会社はその病院を使って人体実験を行っていたんだ。つまり、病院も、あんたの会社も、全部グルだったってことさ・・・」

牛尾が口をはさむ。

牛尾「な、おい、ちょっと待て。じゃあ、あの入れ墨は何の意味があるんだ、関係ねえじゃねえか」

麗子「それは、あたしが答えるわ」

麗子は部屋の中央へ進み、二人に向かって話し始めた。

麗子「・・・さっきの話の続きだけど、兄貴は、偶然にもその実験の現場を目撃してしまった。そして、その時、あたしたちの妹がサンプルに選ばれていることも知ってしまったの」

牛尾「何だって?」

麗子「妹はその実験の副作用で死に、その責任は医師1人になすりつけられた。会社はまったく安泰よ。兄貴とあたしは怒り狂ったわ。兄貴は、何とかして会社に復讐してやろうと考えて、実験中に入れ墨を入れるっていうあの方法を思いついたの。会社のキャラクターのユニコーンの入れ墨が本人の知らないうちに刻まれているっていう事件を起こして、その話題性からマスコミが飛びつくのを待って、警察が動かざるをえない状況を作るっていう計画だったんだけど、現実は思い通りには行かなかった。それを逆手に利用して、個人の悪質な性的いたずらだと思わせるために、会社は実験材料を女性に限定したの」

猪野「そうだ、俺がいい例だ。俺はそれに見事に引っ掛かっちまった」

猪野が呟く。

麗子「・・・しかも、被害者のはずのその女の子たちも、まったくと言っていいほど被害意識がなかった。だれも何も訴えようとせず、マスコミも、警察も動いてくれなかった・・・」

猪野「それがこの国の現状だよ。自分がだれかに害を与えてるってことも知らなけりゃ、だれかから害を受けてるってことにも気付かねえんだ」

天井を見つめながら、猪野がそう吐き捨てるように言う。

麗子「兄貴はその後やつらに追われて、どこかへ逃げてしまった・・・。生きてさえいてくれればいいんだけど・・・。あのね、あたし、最初は兄貴の跡を継いで今度はあたしが復讐してやろうと思ってたの。でも、今はそんなこともうどうでもいい。ただ、残された兄妹二人で、一緒に暮らせればいいと思って、兄貴を探してほしくてあなたにこの仕事を依頼したのよ」

牛尾は、しばらく黙っていた。沸き上がる怒りを押さえ付けながら。

”ゆるせねえ・・・!”

しかし、ついに牛尾の怒りは頂点に達した。

ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ。

持っていたウイスキーを一気飲みする牛尾。

麗子「牛尾さん・・・?!」

あぜんとする麗子と猪野。

牛尾「ぶはあっ」

雄叫びをあげる牛尾。そして、ドアに向かって勢いよく走り出す。

麗子「ちょっと、どこ行くの?!」

牛尾「上の連中のところだ!俺なりにそいつらに挨拶してやる!」

麗子「なっ、やめて、やめなさいよ!あんた、力なんかで解決すると思ってるの!?」

牛尾「うるせえっ!!」

牛尾は立ち止まり、麗子たちの方を振り向いて言い放った。

牛尾「ただ黙って何もしないのが、それが正しいのかよ!だったら、俺は間違ってても何でも力を使ってやる!それが、俺の力の使い道なんだよ!!!」

ドアを開けて猛スピードで階段を駆け上っていく牛尾。





ビルの最上階・夕



牛尾はビルの最上階にやってきた。

牛尾「おい、社長室はどこだ!」

通りすがりの社員に聞く牛尾。

社員 「えっ、ここを真直ぐ行った突き当たりですけど・・・」

すぐにまた駆け出す牛尾。

”社長室”と書かれたドアがあった。立ち止まって一つ、深呼吸をする。

勢いよくドアを開け、中に入っていく牛尾。

中の部屋には、二人の男がいた。

一人は、もう顔を覚えてしまった、あの薄気味悪い笑顔の小柄な男。 

そしてもう一人は、いかにも悪銭で私腹を肥やしているような、小太りの男である。

男2「お前は・・・!」

小柄な男が牛尾を見てぎょっとする。しかし、牛尾は小柄な男をまったく無視して、小太りの男に凄い勢いで近寄る。

男4「な、何だね君は」

牛尾「うるせえ!てめえが社長か!」

牛尾は男の胸ぐらを掴むと、その男の左頬を思いきり殴るために、右の拳に力を入れた。

その手をふりかざしたその瞬間、

女「やめなさいっ!」

女の声が部屋に響いた。牛尾はまるで母親に叱られた子供のように、ビクッとしてその拳を下ろした。

母親・・・?

ふと牛尾は思った。今の声、どこかで聞いたことがある。その声は、遠い記憶の彼方、まだ、牛尾が幼かったころの、それが聞こえるたびに縮み上がった、母親の怒鳴り声にそっくりだった。

”まさか・・・”

一瞬、牛尾の背中に冷たいものが走った。

”母ちゃん・・・?”

目を凝らして声のした方を見る牛尾。

すると、奥の部屋から、老婆、とまでは言えないがかなり年老いた女が一人で出てきた。

思わず牛尾は声をあげた。

牛尾「本物だ・・・!」

それは間違いなく、牛尾の実の母親、牛尾たみであった。

牛尾を見つめるたみ。こちらも同様にかなり驚いている様子だ。

たみ「政美・・・?あんた、政美じゃねえか・・・!」

思わず駆け寄るたみ。と、いきなり牛尾の頭を叩いた。

たみ「あんた、こんなところで何しとるだ?!また人様に手ぇ出そうとして、あんた、まだヤクザもんから足洗ってないんか!」

牛尾「いてっ、ち、違うよ母ちゃん、これにはわけが・・・」

たみ「ワケ?!あんた、人を殴るのにわけなんかあるわけないだろ!ちっとは目ぇ覚まさんかい!」

そう言って牛尾を殴りつづけるたみ。

牛尾「いて、分かった、分かったから、やめてくれよ。それより母ちゃんこそ、何でこんなとこにいるんだ?!」

たみ「おや、言ってなかったかい、東京に来るって言うといただろ、お前はほんとにこの親不孝もん、迎えにも来んと・・・」

牛尾「ち、違う、東京じゃなくて、何でこの場所にいるんだよ?!」

たみ「仕事じゃ、仕事」

牛尾「仕事?何の仕事だ?」

その時、牛尾のあとを追ってきた麗子と猪野が部屋に入ってきた。猪野は、中の状況がよく飲み込めない、といった表情をしている。

麗子が小太りの男に問いただした。

麗子「社長、一体どうなってるんですか?」

社長と呼ばれた男は困惑の表情を浮かべ、こう答える。

男4「・・・いや、残念ながらな、わしはもう社長じゃないんだよ。今日から我が社は、この牛尾さんの、牛尾グループの傘下に入ることになった」

一同「ええっ!」

そこにいる全員が声をそろえてそう叫んだ。ただ一人、牛尾たみを除いて。

全員が凝視する中、たみはまた同じ言葉を繰り返す。

たみ「仕事じゃ、仕事」





レストラン店内・夜



牛尾とたみ、猪野と麗子の四人は、少し早めの夕食をとりにレストランに来ていた。

食事の済んだ皿が順に片付けられ、豪勢なデザートが運ばれてくる。

たみ「・・・なるほどのう、そういういきさつがあったのか。麗子さんとやら、すまんかったのう。うちの政美のことだ、えらい迷惑かけただろう」

器用にスプーンを使ってフルーツの種を取りながら言うたみ。

麗子「いえ、とんでもない!迷惑かけたのは、あたしの方です。牛尾さんに変なこと頼んじゃって、危険な目にも遭わせたし・・・。でも、話は聞いてたけれど、まさか牛尾さんのお母さまがあの牛尾グループの会長さんだったなんて、まったく思いませんでした!」

興奮気味に話す麗子。それを聞いていた牛尾は、猪野に尋ねる。

牛尾「俺の母ちゃん、そんなにスゴイのか・・・?」

呆れながら答える猪野。

猪野「牛尾グループ、中国地方を中心にその勢力を拡大している、年商100億ともいわれている巨大な組織だ。知らなかったよ、おまえ、お坊っちゃんだったんだな」

牛尾「知らねえよ、俺は早くに家を出たからな」

スイカにかぶりつく牛尾。種も出さずにそのまま飲み込む。

たみ「しかしのう、あのタヌキめ、やっぱりそんな汚いことに手を出してたのか。でもな、もう心配せんでええぞ、あたしが実権を握ったからにはそんな製薬会社とはもうすっぱりと手を切るから」

麗子「あ、ありがとうございます!」

深々と頭を下げる麗子。

猪野「それにな」

猪野が続ける。

猪野「俺が調べたことをそのまま警察に持ってきゃ奴らは一網打尽だ。まだ物証はないが、こう見えても俺は警察に顔がきくんだ。俺が話せば、捜査に乗り出してくれるだろう」

麗子「本当ですか?!まさか警察の方にこんなに協力してもらえるとは思ってもいませんでした!」

猪野「嬉しい誤算だろう。もう諦めかけてたのにな。偶然に、感謝するんだな」

麗子は猪野の手を握る。途端に固まってしまう猪野。

麗子「本当に、ありがとうございます・・・!」

猪野「う、うん・・・」





レストラン前・夜



四人は食事を終え、レストランの外に出た。猪野は一足早く前に進み、言う。

猪野「じゃあ俺はこの足で警察に行ってくる。早い方がいいだろ、じゃあな」

麗子「はい、本当に、どうもありがとうございました」

手を振って去っていく猪野。牛尾が声をかける。

牛尾「おうイノシン、ウイスキーうまかったぞ」

振り返って笑いながら言う猪野。

猪野「今度お前に酒やる時はもっと安いのにするよ。いっぱい飲まれて、あれ以上暴れられちゃたまんねえからな」

再び歩き出す猪野。しばらくして、彼の姿は人込みに消える。

三人は夜の街を歩き出した。ほとんどの街灯にはもう光が点り始めている。

たみが牛尾の背中を小突いて言う。

たみ「あんた、入れ墨まだ入っとるんやろ。どっかにまだヤクザ臭さが残っとるわ」

ぎくりとする牛尾。

たみ「それにな、ちゃんとした仕事はやってんのか、もしないんならどっか口きいたろか?」

牛尾「大丈夫だって、母ちゃん、心配すんな。俺はもう家を飛び出した時の政美でもねえし、ヤクザ時代の暴れ牛でもねえ。牛尾政美っていうただの男だ。なんとか生きてくさ」

そう言った牛尾を見つめるたみの顔は、麗子の目にはどこか寂しげに映った。

たみ「・・・そうか、ならいいんだがねえ・・・。でもあんた、嫁さんを見つける目だけはいいようだねえ。なかなか気丈そうで、いい娘さんじゃねえか」

えっ、と顔を見合わせる牛尾と麗子。

牛尾「バカ、違うぞ母ちゃん、なに勘違いしてるんだ、俺はこんな気の強い女・・・」

たみ「ええやないか照れんでも。あ、そうだな、婆ぁは邪魔だな、じゃあわしは先に会社に戻ってるけん、二人でゆっくりしなさい。あ、政美、あとで東京ナイトスポット巡りに連れてってな、じゃあな」

それだけ言い残して、たみは足早に会社に戻っていった。

あとには、牛尾と麗子だけが取り残された。

麗子「・・・ほんと、いいお母さんだね。牛尾さん、大事にしなきゃダメだよ」

牛尾「ああ、なんだかんだ行っても、親子二人きりだからな。これからは、自然とそうなるだろうよ」

それっきり、黙りこくってしまう二人。しばらくして、沈黙を破ったのは、麗子の方だった。

麗子「牛尾さん、そう言えばあたし、あなたにまだ一度もお礼、言ってなかったね。本当にありが・・・」

牛尾「ストップ!」

言葉を遮る牛尾。

牛尾「俺はまだ、あんたの願いをかなえてねえ。礼は、そのあとにしてくれ」

麗子「え?それって・・・」

牛尾「あんたの依頼は、兄貴を捜し出すこと、だろ」

麗子「牛尾さん・・・」

牛尾「案外いいもんかもしんねえな、家族ってやつは・・・」

煙草を取り出し、火をつける牛尾。

そんな牛尾の仕草を見つめながら、麗子はふと呟いた。

麗子「あんた、あたしのヒーローだったんだね・・・」

牛尾「ん・・・?」

麗子「ううん、何でもない。行きましょ、ランプの精さん」

麗子は牛尾の手を取り、軽快に歩き出す。

そんな麗子に牛尾は少し驚いた。くわえていた煙草を地面に落とし、慌てて麗子の後について歩き出す。







  終

街 ネクストストーリー8

2014年05月03日 15時00分00秒 | 街 サウンドノベル
牛尾 政美 「食・物・連・鎖」

作者名 S.K

10月15日





喫茶店・朝 



牛尾は、焦っていた。



母ちゃんが来る。

 

牛尾「マズイ・・・」

コーヒーを飲みながら、思わずそう呟く。と、近くにいたウエイトレスが、ビクッとして飛んでくる。

ウエイトレス「も、申し訳ございません、すぐ代えます、ハイ」

牛尾「ああ、いや、いいんだ」

ウエイトレス「あ、は、はい、あの、おかわりは・・・」

カップを差し出す牛尾。コーヒーを注ぐウエイトレス。カップを握る手はかすかに震え、カシャカシャと小さな音が立っている。

コーヒーを一口飲む。

改めて、マズイ。

そそくさと立ち去るウエイトレスを横目に見ながらカップを置き、その手で今度はペンを握る。

姿勢を正し、袖をまくる。机に広げた紙の上に覆いかぶさっていく牛尾。

大きな字で、

「打倒 母ちゃん計画」と書く。

久々に見た自分の字は、やっぱり汚かった。自分からこうして机に向かうのは、何年ぶりのことだろう。

それだけ牛尾は切羽詰まっていた。

母ちゃんが来る。

極道に足を踏み入れ、幾度となく修羅場をくぐり抜けてきた彼にも、唯一頭の上がらない人間がいた。

それが彼の母親、牛尾たみである。

牛尾は机の隅に置いてあった封筒を手に取り、中身を広げる。





”政美へ

綺麗な身体になったお前に会いに行く。

               母より”





日本一短い母親からの手紙である。

牛尾「ハア・・・」

大きなため息をつく。気を取り直して、再び机に向かう。

しばらく夢中で書き続け、ふと手を休め、辺りを見回す。

軽く手をあげると、同じウエイトレスが急いでやってきた。

牛尾「おう、ちょっとねえちゃんに頼みがあるんだ」

ウエイトレス「は、はい、あの、なにか」

牛尾「これを読んでほしいんだ。なるべくデッカイ声で」

紙を手渡されたウエイトレスは、訳が分からない、といった顔をしている。

牛尾は少し凄みをきかせて言う。

牛尾「できるな?」

ウエイトレス「は、はい、あの、読めばいいんですね、えっと・・・”打倒 母ちゃん計画”」

牛尾「声が小さい」

ウエイトレス「は、はい、だ、打倒母ちゃん計画、えっと、蛍光と対策・・・?あの、字が違いますけど・・・」

牛尾「い、いいから続けろ」

ウエイトレス「は、はい、スミマセン・・・



”その1、背中の入れ墨消す!

 その2、仕事を見つけ、借金返す!

 その3、嫁さん探す!



以上の3点をできるだけ早く実行する!もしできない時は、俺がこの街を去る時だと思え!」

朝の空いている時間帯とはいえそれなりに客はいる。ウエイトレスは周りの目を気にしながらも半ばやけ気味に読み上げた。

ウエイトレス「・・・そして、最悪の場合、本当に最後の手段として、俺は奴を・・・」

牛尾「ああ、そこまででいいぞ。悪かったな恥かかせて。おかげで気合いが入ったよ」

牛尾は立ち上がり、紙を受け取って店を出た。

ひとつ大きな伸びをして、煙草を口にくわえる。

牛尾「さて・・・。その1からいってみるか」

小さく畳んだ紙をポケットにしまい、牛尾は街を歩き出した。





街の路地・昼



昼間でもごくわずかしか光は差し込まないビルの谷間の路地を牛尾は歩いていた。

近くに鰻屋があるのか、甘ったるい独特の香りが道中に充満している。湿ったままのアスファルトの上には無数の吸い殻が屍のように横たわっている。

屍たちを踏み分けて、牛尾はあるビルの地下へと続く階段の前で立ち止まった。目の前に、小さな字で、”tatoo t.”と書かれた看板がある。

牛尾はゆっくりと階段を降りていく。

 



ビルの地下1階・昼



妙な落書きに囲まれた薄暗い廊下を進む。

牛尾「変わったな・・・」

辺りを眺め回しながらふとそう呟く。先へ進むと、小さなドアがあった。錆び掛けのノブを回し、中に入る。





室内・昼



と、牛尾の視界にいきなり飛び込んできたのは、上半身裸でベッドに横たわる若い女の姿だった。

牛尾「・・・!」

呆然としつつもじっくりと観察する牛尾。女はまだ相当若く、よく焼けた肌や髪の色からするとどうやら高校生のようだ。うつぶせに寝ているのでまだ牛尾には気付

いていない。

牛尾はゴクリと唾を飲み込み、女に近付いていく。目の前にある柔肌。一歩一歩近付くにつれ鮮明になるその豊かな曲体を前に、牛尾の理性は少しずつ失われていく。

手を出せば触れることができる距離まで近寄った。よく見ると女はうつぶせのまま寝ているようだ。元々大して無い牛尾の理性はまた少し減った。

さらによく見ると、下半身にかけられた毛布の下からは、下着に覆われていないむき出しのお尻が少し顔を除かせている。

牛尾の理性は消え失せた。心身ともにかつての”暴れ牛”と化した彼は、女の毛布を剥ぎ取ろうと手を伸ばす。



”バキッ”



後頭部に走る衝撃で、牛尾は犯罪者への道を免れた。

女「何やってんだあんた」

振り返ると、手に板切れを持った女が立っていた。もしその板がむちだったら、間違い無くSMの女王だと思われるような全身革づくめの格好である。

女「うちの客に何しようとしてんだコラ」

牛尾「客?そうだ、俺も客だった」

女「客だ?悪いけど、うちは女性オンリーなんだよね、帰りな」

牛尾「何だと・・・」

女「それに、・・・」

そういって牛尾をじろじろと見て、

女「あたし、ヤクザ屋さんには彫らないようにしてるんだ、キライだから」

キライ、という言葉にピクッと反応する牛尾。

牛尾「いいか、よく聞けよ女、俺はヤクザじゃねえし、入れ墨入れにきたんでもねえ。おまけにな、俺だってお前みたいにいきなり人をどつくような気の強い女は大ッ嫌いなんだよ!」

女「ハイハイ」

軽くあしらって、客の女に近寄り、耳もとで何かをささやく女。寝ていた女は起き上がり、毛布に身を包んで隣の部屋へと行く。

女「で?」

牛尾「・・・で?」

牛尾は興奮したため息が荒い。女は牛尾の方へ身体を向き直して言う。

女「何しに来たの、ヤクザ屋さん」

牛尾「ヤクザじゃ・・・」

女「だ・か・ら、何しにここへ来たの、覗きじゃないんでしょ、客なんでしょ?」

牛尾「ああ、あのな、あんた前この店にいた男知ってるか?榊原っていう」

女「知らない」

牛尾「極道の世界じゃちょっと名の知れた彫師でな、俺の古いダチなんだ。そいつに、俺の背中の彫り物を無くしてもらおうと思ってな」

女「なんだ、やっぱりヤクザかい」

牛尾「元だ、元」

女「ふうん、・・・ねえ」

女はそう言いつつ牛尾の背後に回り、肩に両手を置く。顔を耳に近付け、小声でさ

さやく。

女「見せて・・・」

牛尾「な、なにお・・・?」

ドキリとしながら答える牛尾。と、凄い力で牛尾の上着を脱がそうとする女。

女「あんたの入れ墨だよ!有名な人がやったんだろ、あたしが採点してやる!」

牛尾「よ、よせ、破れる」

抵抗する男と、力でねじ伏せようとする女。格闘の末、ポケットから一枚の紙切れが落ちる。

女「何これ」

拾い上げて読み出す女。

牛尾「あっ、それはだめ」

かつて暴れ牛と呼ばれていた男とは思えないような情けない声をあげる牛尾。お構い無しに女は読みつづける。

女「ぶっ、ぶわははははっ」

笑い出す女。

女「あんた、結構面白い人だね。その顔で母ちゃんが恐いって?ジャイアンみたい」

牛尾「う、うるさい、早く返せ」

精一杯凄んでみせるが、まったく威厳がない。紙切れをひったくる牛尾。女はまだ笑い続けている。

女「ねえ、あんたの母ちゃん、何やってる人なの?」

牛尾「さあ、なんかどっかの会社のお偉いさんらしいけどな、よくは知らねえ」

それを聞いてさらに笑い出す女。

女「よく知らないって、あんたの親でしょ、あーおかしい」

牛尾「ちっ、もういい、邪魔したな」

上着の襟を直し、ドアの方へ歩いていく牛尾。女は笑うのを止め、牛尾の前に回り込む。

女「あたし、持ってるよ」

じっと牛尾を見据えて言う女。

牛尾「何を?」

女「あんたの3つの願い、かなえてくれる魔法のランプ」

少し笑みを浮かべて続ける。

女「あたしの頼み聞いてくれたら、貸してあげてもいいよ、そのランプ」

少し考え込む牛尾。しかし、今の牛尾にとって、彼女のその言葉はまるで何かの呪文でもあるかのように妙な力を持っていた。

牛尾「何しろっていうんだ」

女「やってくれる?!」

牛尾「本当に持ってるんならな」

女「ほんとだよ!入れ墨はあたしがタダでやったげるし、仕事として、報酬もちゃんと出すからさ、借金も返せるよ、それに、嫁さん見つけられる可能性も高くなると思うよ、この仕事すれば」

牛尾「本当か!それは」

女「そりゃあもう、よりどりみどり」

牛尾「言ったな、これででたらめだったらただじゃおかねえ」

女「おうよ、ヤクザを前に二言はない」

牛尾「ヤクザじゃねえって・・・」

女「とにかく、商談成立ね。詳しく話すから、ついてきて」

女は入り口に向かって歩き出す。

女「早くしなさい、ランプの精は気が短いのよ」





ビルの最上階・昼



牛尾は女に連れられてそのビルの最上階にやってきた。地下とはうって変わって、広く清潔なフロアーに幾つもの部屋が並んでいる。

歩きながら牛尾は女に聞く。

牛尾「どこへ行こうってんだ」

女「え?社内見学」

あっけらかんと女は答える。

女「このビル全てがハイブリッド・エージェンシーという我が社の管轄に置かれていまして、地下はあのタトゥ・ショップ、1階はネイルケアの店で、2階は美容室、3階はエスティティック・サロン、4階は日焼けサロンというふうに、我が社は総合的な女性の身体美の向上をコンセプトとした、トータル・フィジカル・プログレッシング・プロジェクトを行っている会社でございます」

急にかしこまった口調で話す女。しかし、ほとんど全ての横文字は牛尾の耳を左から右へと通過した。

牛尾「我が社って、あんたOLだったのか、その格好で」

女「仕事と趣味の一致、でございます」

女はある部屋の前で立ち止まる。

女「ここ、入って」

ドアを開けると、こじんまりとした部屋の机の上に雑然と置かれた書類の山が目に入った。どうやら倉庫のようだ。折り畳みの椅子を取り出し、二つ並べる女。

女「座って」

牛尾「お、おう」

窮屈そうに座る。牛尾には小さすぎるようだ。

女「そうだ、まだ名前言ってなかったわね、あたしは麗子、あんたは?」

牛尾「牛尾だ、牛尾政美」

麗子「じゃあ牛尾さん、早速始めるからね」

ドアにカギをかけ、椅子に腰掛ける麗子。

麗子「あたしの依頼は、もちろんあたしの個人的な頼みでもあるんだけど、同時に我が社からの依頼でもあるの」

牛尾「だからこんなとこに連れてきたわけか」

麗子「もちろん依頼そのものは個人の域は出ないけど、問題の解決が会社の利益にも通じるわけ」

牛尾「俺は難しい話は分からん。結局何すればいいんだ」

麗子は立ち上がり、棚から一冊のファイルを取り出し、牛尾に見せる。

ファイルの中はアルバムのようになっており、何枚もの写真が収められていた。少女、女の、背中が写された写真。パラパラとめくってみるが、全ての写真がそれの

ようだ。

牛尾「何だこりゃ」

麗子「一枚一枚をよく見てみて」

言われた通りにする牛尾。よく見ると、全ての女の背中から腰の辺りに、場所こそ多少の違いはあるが、何かあざのようなものが同じように浮かんでいるのが見える。

麗子「これが拡大したもの」

一枚の写真を手渡す麗子。しげしげと牛尾はそれを見る。

牛尾「・・・入れ墨か!」

麗子「そう、この子達には、全員同じ入れ墨が彫られてあるの。しかもね」

牛尾「しかも?」

麗子「彼女達、だれ一人として、この入れ墨がいつ彫られたのか知らなかったの」

牛尾「何だって?」

麗子「このファイルは、ここ1年の間に、知らないうちに入れ墨が彫ってあったから消してくれってうちの店や他のタトゥ・ショップに駆け込んできた子達のリストなんだ。その総数は18名」

牛尾「お前、入れ墨って気付かれないで彫れるもんなのか?」

麗子「そりゃあ全身痲酔でも使って意識を無くせばできないことはないけどさ、でも本人の許可無くしてやっちゃった場合、それはもう犯罪だからね、暴行罪。あたし、同業者として、こんな馬鹿なことするやつは許しておけないし、それに、その被害者の中にあたしの知り合いもいたんだよ。だから、あんたにそいつの正体を暴いてほしいんだ」

牛尾「なっ、それが仕事か?なんで警察に頼まねえんだよ?」

麗子「それにも理由があるんだよ」

そう言って一枚の紙切れを取り出す麗子。

麗子「それとさっきの写真を見比べてみて」

紙切れには、ユニコーンをモチーフにしたデザイン画が描かれており、その下に何か文字が刻まれている。

麗子「それが我が社のイメージキャラクター、ユニ坊」

写真の入れ墨をよく見ると、あまりはっきりとは写っていないが、ユニコーンらしき動物が彫られているのが分かる。

牛尾「おんなじだな」

麗子「そう、偶然の一致にせよ何にせよ、警察はとりあえずはこの共通点に注目するでしょ、そうすると捜査の手が社内にまで及び、私個人の勝手な行動が会社に迷惑をかけることになるわけ。まあその前に、真っ先にあたしに疑いがかかっちゃうのがやなんだけど」

牛尾「なるほどねえ、だからその偶然の疑いを晴らせば、お前の会社のイメージ回復にもなるわけだな」

麗子「その通り!分かってんじゃない、そうすれば、会社からも報酬がボーン!」

牛尾「ボーン・・・」

麗子「どう、悪い話じゃないでしょ、引き受けてくれるよね」

牛尾「ちょっと待て、お前さっきこの仕事すれば嫁さんが見つけやすいって言っただろ、それは何でだよ?今の話だと、俺の願いは2つしかかなえらんないぜ」

麗子はチッチッチッと指を横に振る。

麗子「甘いね、いい?あんたの嫁さん候補は、ここにいるじゃない」

ファイルをバンバンと叩く麗子。

麗子「この18人のうら若き乙女にとって、事件を解決してくれる人はヒーロー以外の何者でもないんだよ。だから、あんたは彼女達のヒーローになれるんだよ」

ヒーロー、その言葉が牛尾の頭の中で繰り返される。ヒーロー・・・。

いい響きだ。牛尾は段々気持ち良くなっていった。

牛尾「俺が、ヒーロー・・・」

麗子「そう、あんたがヒーロー」

牛尾「よ、よおおおおおおおおおおおおしっ」

牛尾は立ち上がり、久々に心から吠えた。

牛尾「やってやるぜ、俺はヒーロー、牛尾様なんだ。何でもかかってこいってんだ」

麗子「その意気よ、牛尾様」

麗子は紙袋を取り出し、中から携帯電話を取り出した。

麗子「携帯、持ってる?」

牛尾「そんなもん、俺には必要ねえ」

麗子「どうやって連絡取るつもり?これはあんたに貸すよ」

そう言って携帯電話を取り出す麗子。紙袋に色々なファイルを詰めながら続ける。

麗子「メモリーの一番最初にあたしの番号が入ってるから、連絡取る時はそれにかけて。あと、こっちは資料」

紙袋を牛尾に手渡す麗子。

麗子「他になんかいるものがあったらいつでも言ってよ。とりあえず、あたしからは以上」

立ち上がる麗子。牛尾もそれに続く。

牛尾「期間は?いつまでに調べればいい?」

麗子「分かるまでだよ。のんびりやってる暇は無いんだろあんただって」

そうだった。母ちゃんが来る前に、金をもらって、入れ墨を消して、嫁さんを探さなければ。牛尾は新たな決意を胸に抱いた。

牛尾「おうし、やるぞおおおおおっ!」

麗子「シッ!」

ドアの前に立ってカギを外そうとしていた麗子が突然鋭い音を発した。耳をドアに当て、外の様子を伺っている。 

麗子「聞かれてた・・・?」

呟く麗子。

牛尾「何だ、どうした」

慌てて牛尾は聞くが、麗子は答えない。しばらく何かを考え込んでいたが、スクリと立ち直して言う。

麗子「牛尾さん、あたしが先に出るから、少し待ってて。合図したら、あたしとは逆の方に出ていって。その先に、非常階段があるから」

ドアを開け、外に出ていこうとする麗子。

牛尾「おいこら、ちょっと待て、どういうことだ」

麗子「頑張ってね、期待してるから」

ドアが閉まる。少しして、コンコン、とノックする音が聞こえる。

急いでドアを開け、部屋の外に出る牛尾。右側を向くと、遠くの方に歩いていく麗子が見える。こちらを見ずに手を振る麗子。

牛尾「どうなってるんだ一体・・・」

そう呟いた牛尾は、仕方なく左を向き、ゆっくりと歩き出した。





街の路地・昼



非常階段を降り、外に出た牛尾は再び街を歩いていた。腕時計を見ると、午後二時を少し回ったところである。

牛尾「さて、探偵ごっこの始まりだ」

近くに座れる場所を探し、どっかと腰を下ろす牛尾。紙袋の中から被害者のリストと電話を取り出し、上から順に一件一件電話をかけてみる。



・・・四十分後の成果は次のようになった。



移転などにより連絡先不明・・・3件

留守中(居留守中?)  ・・・6件

しらを切る、または話の途中でその関係と分かると電話を切る・・・その他



牛尾「だめだなこりゃ」

せめて会ってくれよ、と牛尾は思った。

顔を見ないことには、嫁さんの候補にもなりゃしねえ。

どうすればいいんだ・・・。

牛尾は考えた。脳みそを洗濯機のようにフル回転させて考えた。

いいアイディアは、浮かばなかった。俺に頭を使えというのがどだい無理な話だ。

牛尾は自分にそう言い聞かせて、回転させすぎて痛くなった後頭部をさすりながら立ち上がった。

牛尾「考える暇があったら、動いてやらあ!」

牛尾は猛然と歩き出した。





センター街・昼



センター街にやってきた。

牛尾は、聞き込み作戦を取ることにした。それも、手当りしだい。

道ばたに座っている女子高生、入れ墨を入れているチーマー風の男たちを中心に聞きまくった。だが、何の成果も得られなかった。 

牛尾は顔の傷を撫でながら呟いた。

牛尾「この顔は聞き込み向きじゃねえな・・・」

実際、声をかけたうちの何人かは彼の顔を見ただけで逃げてしまった。

牛尾は、女子高生たちに紛れて道ばたに座り込んだ。

途端に彼の周りから人がいなくなる。

ヤクザなんて、街の中じゃ消しゴムみたいなもんだ。俺が通った後は綺麗に人がいなくなる。

”今に始まったことじゃねえか”

牛尾は自嘲気味に鼻で笑った。

”もうひとふんばりだな”

煙草に火をつけ、重い腰を上げる牛尾。

男「おい」

立ち上がった牛尾がその声で顔を上げると、三人の男が牛尾を囲んでいた。

スーツに身を包み、こちらを睨み付けている。一見すると何の変哲も無いサラリーマンのようだが、牛尾にはすぐに分かった。

自分と同じ匂い。命のやり取りを何度と無くこなしてきた人間に共通する独特の匂いを三人は漂わせていた。

”ヤバい・・・!”

牛尾は直感的にそう思った。相手がどう出てきても対処できるように、重心を低く落とす。

男たちはさらに近寄ってくる。長身の男が牛尾の胸ぐらを掴んできた。

男1「何を嗅ぎ回ってる?」

牛尾「何のことだ?」

男は牛尾のくわえていた煙草を奪い取り、地面に捨てもみ消す。

男1「とぼけんなコラ!何探ってんのか聞いてんだよ!」

男2「まあまあ」

小柄な男が間に割って入った。

男2「人に物を聞くにはそれなりの礼儀を尽くさなきゃダメだよ、ねえ」

同意を求める男。牛尾には、ヤクザ時代に培ったある能力があった。

集団のボスを、一瞬で見分けることができる能力。

”こいつが頭だな”

牛尾はボスらしき男と向き合い、目を見据えて言う。

こういう時に引け目な態度を取ると、その後の勝負の優劣が瞬時に決まってしまう。牛尾はそこまで計算高くはなかったが、本能的に毅然とした態度で望んだ。

牛尾「その通りだ。あんた、こいつらにどういう教育してんだ」

小柄な男が目で合図すると、長身の男は牛尾を掴んでいた手を離した。

男2「ごめんね、こいつまだ若いから。人との接し方が分かってないのよ」

牛尾「みたいだな」

ふと、牛尾は自分の若い頃を思い出した。組に入り立ての、ただがむしゃらに突っ走っていた頃。

しかし、すぐにそんな状況ではないと自分に言い聞かせた。

小柄な男はうっすらと笑いを浮かべ、辺りを見回しながら言った。

男2「場所、変えたほうがいいみたいだね。ついてきてくれる?」

そういうや否や、長身と、もう一人金髪の男が牛尾の腕を両脇からがっしりと掴んだ。

牛尾はただ彼らの言いなりになるしかなかった。





街の路地裏・昼



牛尾は人気のない路地裏まで引っぱってこられた。乱暴に掴まれていた手を振りほどき、上着の襟を正す。

男2「あんた、何者だい?」

牛尾「てめえらこそ何者だ。初対面にしちゃ乱暴だなちょっと」

薄ら笑いを浮かべる男。

男2「これは失礼。まあ、お互い何者かなんてそんなこと知ってもあんまり意味無いからさ、今の質問は無かったことにしてよ。ただ、僕達が知りたいのは、あんたがこれから何をしようとしてたかってことだけなんだよ。もし良ければ、教えてくれないかな?」

穏やかな口調で聞く男。一見すると柔和そうな普通の男だが、牛尾には良く分かっていた。

こういう奴が、一番ヤバい。

警戒体制は崩さずに、なおかつ毅然と答える牛尾。

牛尾「嫁さん探し。まあ、平たく言えばナンパかな」

男3「ふざけるな!」

金髪の男が牛尾に食って掛かる。それを軽く手で制して続ける小柄な男。

男2「へえ・・・、そうなんだ。あんた、両刀遣い?男もナンパしてたもんね。そっか、人は見かけによらないもんだね、ふうん、あんたみたいのがねえ・・・」

男は薄気味の悪い笑みを浮かべつつ、可愛子ぶった女のするような上目遣いで牛尾を見る。

男2「・・・そっか、言いたくないんだ。分かった、言いたくないんだったら別に全然構わないんだよ。じゃあ、こうしよう。代わりと言っちゃあ何だけど、僕達からちょっとした忠告があるんだ」

牛尾「忠告?」

男2「うん、もし、もしもね、あんたが今やってることから手を引かなかったら、こういう風な目に遭わなきゃいけないかもしれないっていうこと」

そう言って男が手を挙げると、脇に控えていた男たちが突然牛尾に殴り掛かってきた。

牛尾「ウオッ?!」

余りにも突然の出来事だったため、不意をつかれて一発頬にパンチを食らう牛尾。

しかし、相手の力の無さと、警戒体制にあった下半身のおかげですぐに踏み止まる。

牛尾「やっぱりな!」

返しのパンチを打つと、金髪の男の顎にカウンターで見事に入った。

男3 「グッ」

顔を押さえながらうずくまる男。と、すぐに長身の男が牛尾の背中から身体をぶつけてきた。しかし、牛尾の身体を倒すまではいかない。そのまま片手を引き寄せ、一本背負いで相手を投げ飛ばす。

男1「グハッッ」

勢い良く地面に叩き付けられる男。立ち上がろうにも、腰を強打したためか起き上がることができない。

牛尾「暴れ牛を甘く見るなよ」

決め台詞を言い放って小柄な男の方に向き直す。

男2「残念。そこまでだね」

男を見て牛尾はギョッとした。男は、スーツの内ポケットに手を突っ込んでいる。

”ハジキか・・・!”

ジリジリと間をつめる男。牛尾は一歩一歩後退していく。

男がスーツの内側から手を出そうとした。

その時、路地の端から大きな声が響いた。

警官「そこ、何やってる!」

現れたのは制服警官だった。その姿を見るや否や、小柄な男は手を引っ込め、警官

とは逆の方へ走り去って行った。倒れていた二人もヨロヨロと後を追っていく。

警官「どうした?!、何があった!?」

一人残された牛尾に聞く警官。

牛尾「ん、いや、まあ、ちょっとしたいざこざだ。気にすんな」

警官「気にすんなって、通報があったんだぞ。ここで殺しあいやってるっていう」

牛尾「通報?」

警官「ああ。ほら、あの男からだ」

警官の指差した先には、曲がり角から顔だけを出してこちらの様子を伺っている男がいた。牛尾と目が合うと、慌てて顔を引っ込める。

牛尾「あいつは・・・!」

牛尾は男の後を追って走り出した。

警官「お、おい、ちょっと待て!」

警官が制止するのも振り切って、街を疾走する牛尾。





宮下公園前・夕



男は人込みの中をスルリスルリと旨くすり抜けている。

牛尾「待てコラ!」

牛尾は人波を無理矢理こじ開けて突進する。

宮下公園へと続く歩道橋を渡ったところで、男は疲れ果てたのか走るのを止めた。

すかさずそこを捕まえる。ハアハアと息を切らしている男。

男「フウフウ、か、勘弁してくれよ牛尾ちゃん」

牛尾「やっぱりお前か」

牛尾は男の首根っこを押さえながら言った。

猪野真一、三十六歳、通称イノシン。元々は一介の刑事で、牛尾との出会いは捜査一課の取調室が最初だった。現役時代は理論派でならした男だったが、昇進決定と同時に退職した。その理由は牛尾の知るところではないが、”遊ぶ暇がなくなるからだよ”と同僚にうわさされるほどの趣味人間である。

猪野「いたたたた、痛いよ。なんだよ、助けてやったんじゃないか、もっと丁寧に扱え」

牛尾「何が助けてやっただ!俺はな、警察を呼ばれるのが一番嫌いなんだよ!」

首を掴んでいる手にさらに力を加える。

猪野「あたた、わかった、わかりました、ごめんなさい、放して」

仕方なく手を放す。姿勢を正して、改めて牛尾と向き合って言う猪野。

猪野「よう、久しぶりだな」

牛尾「久しぶりだ、じゃねえよ。何であんなところにいたんだ、いつから俺をつけてた?」

猪野「つけてたなんて人聞きの悪い。あんたがエステのビルから出てくるのが見えたから、ちょっと気になって観察してただけだよ。そしたらあんた聞き込みなんかやりだすし、変な男たちにつけられてるし。牛尾ちゃんなに、今なんかヤバい仕事でもやってんの?」

牛尾「俺だって何がなんだか分かんねえんだ。ただちょっとした頼みごとを引き受けただけなのに、何であんな連中に狙われなきゃなんねえんだ」

猪野「頼みごと?」

猪野の目が小さく、しかし鋭く光った。一瞬の内に、刑事時代の顔つきに戻る。

猪野「何だそれは。何か面白そうじゃんか」

牛尾「ダメだ、それはお前には教えらんねえ。そういうことになってんだ」

猪野「何だよ、堅いこと言うなよ。あ、じゃあさ、走って燃料使っただろ、補給代出すからさ、ガソリン入れに行こうぜ」

ガソリン、と聞いて牛尾の喉はゴクンと鳴った。

牛尾「お、おう、仕方ねえな、そうするか」

それを聞いて、ニヤリ、と笑う猪野。

二人は並んで再び街の中へ向かって歩き出した。





居酒屋内・夜



ゴク、ゴクッ、ゴクッ。

牛尾は空になったビールジョッキをドンと机に置く。そして、すぐに追加を注文する。

猪野「・・・そうか、やっぱり思った通りだ。何か面白い事件の匂いがしたんだよな」

牛尾「そうだろそうだろ、おいイノシン、お前ももっと飲め」

上機嫌で酒をすすめる牛尾。猪野は、どうやら暴れ牛の手なずけ方を心得ているようだ。それにまんまとはまって全てを話してしまった牛尾。

猪野「同じ入れ墨を入れられた少女たち・・・しかも、全員がそれを知らなかったか・・・。うん、いい事件だ。ポップでキャッチーだね。現場にいた頃の血が騒ぐぜ」

牛尾「そうだ、お前元刑事だもんな。お前ならよ、どうやって犯人を見つける?捜査の基本ってやつを教えてくれよ」

猪野「捜査の基本はまず情報収集からだ。手元にある情報は多ければ多いほどいい。そして、その集めた情報を元に捜査を開始する。これに焦りは禁物。まあじっくりと覚悟を決めてやるんだな」

牛尾「情報ったって、この女たち、みんな俺と会ってくれないぞ。もう終わったことだから放っておいてくれって感じだった」

猪野「それもそうなんだよ。たぶんこの子たちは、自分が被害者だって言う感覚が薄いんじゃないかな。別に実際犯されたわけでもないんだし・・・。ん、そうか」

鼻の穴を膨らませる猪野。これは彼が何かを思いついた時にする昔からの癖だった。

猪野「犯人は二十歳以上の独身男性。職業は彫師、もしくはそれに関連した美術色の強い職種、高度な美術能力を要求される職種か、またはその能力を持ち合わせている人間。被害者の住所から推測される犯人の活動拠点は、主にここ渋谷であろう。女性に大して独占欲が強く、性的にやや屈折したところが見られる・・・ってとこか」

牛尾「な、なんじゃそりゃ」

猪野「プロファイリングってやつさ。昔の俺の得意技さ。犯行の手口、被害者の共通点などから犯人の人間像を可能な限り分析し、捜査の役に立てる。まあ日本じゃそんなに重く扱われてないから俺は趣味でしかやってなかったけどね」

牛尾「すげえな、その独占欲だとか屈折だとか何で分かるんだよ?」

猪野「被害者が全員女だってことからして、これはある種の性犯罪の可能性が高い。レイプ犯は一度捕まってもほとんどの場合また同じことをする。それはその人間の性癖で、まあ病気みたいなもんだな。こいつの場合はその性癖が女に入れ墨を入れることで、それをすることによって自分の征服欲、独占欲を満たしていると俺は思うね」

牛尾「そうか、何だ、簡単なもんだな、もうだいたいどんな奴か分かっちゃってんだもんな。いやあ、ありがてえ、お前に話して良かったぞ、まあ飲め飲め」

猪野「あとは被害者たちに会って、共通の男の知り合いでもいればさ、事件は解決だ」

喋りすぎて乾いた喉をビールで潤す猪野。

猪野「ただな・・・、まだちょっと引っ掛かるところが幾つかあるんだが・・・」

首を傾げながら言う猪野。

牛尾「ガッハッハ、これで借金返せるぞ!母ちゃん、いつでも来いってんだ!イノシン、お前のおごりだ、ガンガン飲むぞ!」

そんな猪野を尻目に、ジョッキを一気に飲み干す牛尾。

彼の目の前のテーブルに、空になったジョッキが綺麗に並べられていった。





居酒屋前・夜



店を出ると辺りはすっかり闇に包まれていた。

牛尾は鼻歌交じりに軽やかに歩き、猪野は財布を見ながら呆然としている。

猪野「やっぱりあんた、底なしだな・・・」

ため息をつく猪野。牛尾はお構い無しにどんどん先へ行く。

と、牛尾のもっていた携帯電話が鳴りだした。慌てて紙袋をあさり、電話を取り出す。

麗子「もしもし、牛尾さん?」

牛尾「おう、あんたか」

電話の主は麗子だった。滑らかな口調で続ける。

麗子「どう?はかどってる?」

牛尾も軽やかに答えた。

牛尾「はかどってるどころじゃないよ、もう、順調すぎて困ってるぜ」

麗子「本当に?!何か分かった?」

牛尾「おう、犯人は、男だ」

麗子「・・・それだけ?」

牛尾「それとな、なんか、女の趣味が悪いらしい。クッセツしてるんだとさ」

電話の向こうからため息が聞こえてくる。

麗子「・・・わかった。その調子で頑張って。また何かあったら連絡してちょうだい。警察なんかあてにしちゃダメよ」

その言葉に牛尾は少しドキリとした。後ろを振り返ると、元刑事のさえない男がいる。

牛尾「お、おう、分かった、じゃあな」

電話を切る牛尾。

猪野「今のあれ、例の依頼主?」

猪野が近付いてきて聞く。

牛尾「ああ。なあ、お前もう警察とは関係無いんだよな、完全に」

猪野「あんなとこ、もう二度と戻りたくない。牛尾ちゃんと一緒だよ」

牛尾「・・・なら別に問題はねえな。あのよ、イノシン、お前のその脳みそ、もうちょっと俺に貸してくんねえか?」

猪野「あん?」

牛尾「俺には頭を使うことはできねえ。お前の力を借りてえんだよ。俺だけじゃいつまでかかるか分からねえからな。それだと困るんだよ、早いとこ解決して、報酬をもらわねえとヤバいんだ」

猪野「なんだ、借金取りにでも追われているんか?」

牛尾「・・・まだそっちのほうがいいぜ」

猪野「俺はお前にいわれなくてもそうするつもりだ。こんな事件知ってて何にもしなけりゃ、寝つきが悪くなるからな」

牛尾「本当か!!ありがてえ、よっしゃ、最強コンビの誕生だな」

猪野「ちゃんと働けよ、部下として刑事の技を仕込んでやる」

牛尾「何言ってんだ、こき使うのは俺の方だ、子分だ、子分」

ガッハッハと笑う牛尾。

猪野「やれやれ・・・。やっぱりやめるかな」

ガッハッハと笑いつづける牛尾。

猪野「そうだ、親分、ちょっと気になることがあるんですが・・・」

笑うのを止める牛尾。

牛尾「何だ、何でも言ってみろ」

猪野「その麗子って言う女は一体何者なんだ。何でこの事件の解決をそんなに望んでいるんだ?」

牛尾「ああ、確か同業者として許せないとか言ってたな。それにな、知り合いもやられたらしい」

猪野「ふうむ・・・。じゃあ、その前に何でその女はお前に依頼したんだ?ただのヤクザもどきのお前に」

牛尾「それは、俺がスーパーヒーローだからだ」

猪野「あん?」

牛尾「ヒーローは、ある日突然現れるもんなんだ」

猪野「・・・わかった、もういい。とにかく、被害者の女たちにもう一回連絡してみるんだな、その後のことは、俺の部屋で考えよう。お前も一緒に来い」

牛尾「何でお前の部屋なんだ、親分は、俺だぞ」

猪野「いろいろ調べたいことがあるんでね・・・」

二人は猪野の家に向かって歩き出した。





猪野の家・夜



猪野の家にやってきた。

酒瓶が無造作に置かれたちゃぶ台を囲んで、牛尾と猪野は座っている。

六畳一間の和室に、高そうなパソコンが二台置いてある。そのうちの一台の前に座ってマウスをいじっている猪野。

牛尾は携帯電話でだれかと話している。

牛尾「そうですか、分かった、いえ、分かりました。では、失礼します」

電話を切る牛尾。

猪野「お前が敬語使うとこなんて初めて聞いたよ」

そのままの姿勢で言う猪野。

牛尾「うるせえな、それよりやったぞ、3人と会う約束が取れた。しかもな、1人は今日これからでもいいってよ。9時にハチ公前だ。よし、なんかお前が現れてから順調すぎるほど順調だな。このぶんだと嫁さんも・・・」

猪野「ん?」

牛尾「いや、何でもない、続けてくれ」

言われた通りパソコン画面に向かう猪野。マウスとキーボードを交互に動かしている。

猪野「・・・やっぱり警察はまだ動いてないみたいだな、ここ数カ月の事件記録にもそれらしいのは載っていない。訴えれば立派な刑事事件のはずなのに、どうやらだれ一人として訴えていないらしい」

牛尾「何だ?何でそんなことが分かるんだよ?」

猪野「警察のデータバンクに侵入しただけさ。俺はこいつのおかげで、刑事を辞めた今でも昔と変わらない情報を手に入れることができる」

パソコンをポンポンと叩く猪野。

猪野「いよいよ面白くなってきたな。俺たち、警察も知らない事件を先に知って、おまけに先に解決できるかもしんないんだぜ。あ、なんか現役時代より燃えてきた」

楽しそうに話す猪野。

牛尾「頼もしいじゃねえか、その意気だイノシン。さて、そろそろ出るか。待ち合わせの時間だ」

時計の針は、八時半を少し回ったところだ。牛尾が立ち上がろうとすると、猪野が慌てて聞く。

猪野「な、なあ、俺も行くの?」

牛尾「当たり前だろうが。俺が身体でお前が脳みそなんだから」

猪野「お、女と会うんだろ・・・。俺、女、ダメなんだよね、綺麗な人の前に行けば行くほどさ、喋れなくなっちゃうんだよね」

牛尾「ああ、ガハハ、そう言えばそうだったな、刑事さんは昔から女恐怖症だったな」

猪野「できればさ、一人で行ってきてよ。俺ここでこれからのこと考えとくからさ」

牛尾「ダメだ、連れてく」

猪野「た、頼むよ」

情けない声をあげる猪野。

牛尾「言っただろ、脳みそは置いてけねえんだよ」

半ば引きずるようにして猪野を外に連れ出す牛尾。



O喫茶店内・夜

女は時間通りにハチ公前に立っていた。すぐに近くの喫茶店に入る三人。

向かい合って座り、まじまじと女を観察する牛尾。飾り気のない服と、素顔に近い顔。はっとするほどの美人ではないが、よく見ると目鼻立ちはなかなか整っている。猪野を軽く肘でこずく牛尾。まったく反応がない。完全に固まってしまってるようだ。

”仕方ねえな・・・”

重くまとわりつく空気を振り払おうと、口を開く牛尾。

牛尾「ええと、平松さん、でしたね」

平松「はい」

牛尾「これからちょっといろいろ聞かせてもらうけど、勘弁してな」

平松「はい」

牛尾「あなた、どこに入れ墨入ってたんでしたっけ、確か腰の・・・」

平松「ええ、腰の真ん中です」

牛尾「で、いつ入れられたかはまったく覚えてないと」

平松「はい、母に言われるまではまったく気付きませんでした」

牛尾「そういう心当たりも、まったく無いと」

平松「はい?」

牛尾「だから、そういうことされる憶えや、入れ墨を入れてるような連中との付き合いも」

平松「まったく無いです」

牛尾「・・・入れ墨が見つかる前、何か自分の身の回りに変わったことはなかったか?」

平松「さあ・・・、あ、少し体調を崩して通院したことぐらいかなあ」

牛尾「そうか・・・。じゃあ、今まで記憶を無くしたようなことは?」

平松「それは・・・。お酒飲んでいてあやふやになったこともありますけど、でも、まったく無くなったなんてことは、無いと思います。まあ、あったとしても、記憶が無いんだから、覚えてません」

牛尾「そりゃそうだな、その通りだ。ふうん、まいったなこりゃ。おい、イノシン、お前からもなんか聞いてくれ」

ビクッと反応する猪野。慌てふためいて、一枚の紙を取り出す。

相手の顔を見ないように、それを読み出す猪野。

猪野「あ、あの、お知り合いの方で、絵描きとか、その、美術系のお仕事してる人がいらっしゃったら、こ、ここに、名前と連絡先、書いておいてくれませんか?」

必死にそれだけを言うと、また固まってしまう猪野。

平松「あ、はい」

女はペンを握り、思いつくだけ書き記す。

平松「できました。でも、あまりいないですよ」

紙には三、四人の名前が書いてある。

猪野「あ、ありがとうございます!」

急いで紙をひったくると、また下を向く猪野。

平松「あの・・・。私がこんなこと言うのも何なんですけど、私、別に入れ墨が入ってたからって他に何かされたわけじゃないし、初め見つけた時は確かに気持ち悪かったんですけど、もう跡形無く消したし、時間も経ってるんで、別にまあいいか、って思いだしてたんですよ。あなたたちには申し訳ないけど、こういうことは、今回限りにしていただけませんか?」

牛尾「そうだな、それが当然だよな」

平松「じゃあ私、これで失礼します」

牛尾「あ、ちょっと待ってくれ」

帰りかけた女を止める牛尾。

平松「はい?」

牛尾「これが最後の質問だ。俺のこと、どう思う?」

面喰らう女。

牛尾「だから、俺を結婚相手として見た場合、どうかな・・・?」

精一杯の笑顔を見せる牛尾。しかしその引きつった顔は、だれが見てもぶきみだった。

平松「・・・すみません、失礼します!」

逃げるように外へ出ていく女。

牛尾「お、おい、ちょっと!」

追いかけようとする牛尾。しかし、猪野がそれを制する。

猪野「やめとこうよ、無駄だ」

同時にため息をつく二人。

猪野「ダメだな、おれたち・・・」

牛尾「ああ・・・まったくだ・・・」





猪野の家・夜 



とぼとぼと家に戻ってきた二人。どっと疲れが出たのか、二人ともいったん腰を下ろすと、しばらく動けない。

牛尾「あああ・・・。嫁さん候補が、一人消えた・・・」

猪野「あああ・・・。また喋れなかった・・・」

それぞれの思いを呟く二人。先に動いたのは猪野だった。ポケットからテープレコーダーを取り出し、中身を確認する。

牛尾「なんだ・・・、やることはちゃんとやってんだな」

それを見ていた牛尾が言う。

猪野「当たり前だ。公私混同はしない、それがプロってもんだ」

牛尾「何がプロだ、無職のくせに」

猪野「う、うるさい、いいか、これと、さっき書いてもらった紙の名前を調べる。今できることといえばとりあえずそれくらいだな」

牛尾「ああ、あとお前、明日の2人用に、質問考えとけよ。さっきみたいになんないようにな」

猪野「分かったよ。今日は俺はもう疲れたから、明日やろう明日。いくら急ぎの仕事だからって、そこまで慌ててやることはないんだろ?」

牛尾「ああ、そうしよう。俺も疲れた。今日の探偵稼業はとりあえずおしまいだ」

猪野は自分の万年床に入っていく。牛尾もそのままゴロンと横に、なろうとして途中で止めた。

牛尾「そうだ・・・、家の留守電聞かねえと」

携帯電話を取り出し、慣れた手つきで番号を押す牛尾。

メッセージが一件、入っていた。再生させると、どこかで聞いたことのある声が牛尾の頭の中で響き渡る。

たみ「政美!どこをほっつき歩いてるんだよあんたは!あたしゃもうこっちに着いてんだよ、連絡とれないから早く家に帰ってきんさい!!じゃあな!」

一瞬、牛尾の頭の中は真っ白になった。

何が起こっているのかよく把握できなかった。母ちゃんがもう来てる・・・?!

母ちゃんが、来た。俺に、会いに。もう、この街に、母ちゃんがいる。

頭の中で単語を繰り返す牛尾。徐々に、ことの重大さに気付き始めた。



”母ちゃんが、もうこの街に、来てる・・・!”



猪野「牛尾ちゃん、どうしたよ?」

顔面蒼白になっている牛尾を見て慌てて布団の中から声をかける猪野。

牛尾は、しばらくそのままの状態で、動かない。

猪野「牛尾ちゃん?」

声に反応して猪野の方を見る牛尾。ようやく口を開く。

牛尾「おう・・・、仕事さ、急ぎになっちまったよ。いや、超特急だな」

そのまま床に倒れ込む牛尾。今日以上に長くなりそうな、恐ろしく長くなりそうな明日のことを思って、絶望的な気分になりながら、そのまま深い眠りに就いた。










街 ネクストストーリー7

2014年05月02日 19時00分00秒 | 街 サウンドノベル
●14:50 緑山学院倉庫

「緑山学院か……」

馬部は緑山学院の前まで来ていた。

日曜日だけあって生徒の姿は少ないが、それでもキャンバスにはそこそこ生徒らしき若者の姿があった。

「体育倉庫……体育倉庫……ここか」

しかし馬部が体育倉庫に近づくにつれ、その数はドンドン減って行き、体育倉庫に着いたときには、視界内のどこにも人影は見あたらなかった。

馬部は体を低くして体育倉庫に近づいていく。山吹なら馬部が近づくのを見逃すはずがないが、それでも用心にこしたことはないだろう。

馬部は体育倉庫の壁にたどり着くと、耳を付けてそっと中の様子を窺った。

「…………」

中で微かに人が動く音が聞こえた。

山吹は確実にこの中にいるのだ。多分、牛尾とみちるも一緒に。

「どうする……」

馬部は考えた。

ここは奇襲で牛尾とみちるを奪い返すか。それとも正々堂々乗り込むか。

馬部は少し考えて答えを出した。

奴は用意周到だ。下手な奇襲は逆効果だろう。ここは真っ向勝負だ。馬部は立ち上がって、倉庫の扉の前に立った。

「山吹……馬部だ」

念のため体育倉庫のノックしてから、馬部は扉のノブに手を掛けた。

「入るぞ」

「逃げずに良く来たな。馬部」

そこに、泥だらけのボロの服に身を包み、ツケヒゲと唾広帽子で顔を隠した浮浪者の山吹がいた。

見事な変装だった。山吹を知っているものなら、この浮浪者が山吹だなどとは決して思わないだろう。

山吹は右手を服の内に忍ばせ、跳び箱の上にあぐらを掻いていた。

「みちると牛尾さんはどこだ?」

「座れ。馬部」

馬部は山吹が指さした向かいの跳び箱に大人しく座った。山吹までの距離は……3メートル。

「何故、浮浪者の格好をしている?」

座りながら馬部は訊いた。

人間は力を込めるときには、息を吐くか止めるかしなければならない。これは芝居の常識である。言葉を話していればその調子から、山吹の動きをある程度察知できるのだ。

山吹は、ヒゲの下でニヤリと笑った。

「この世には、存在しても見えないものがある。道に落ちている小石。電話BOXの違法広告。道に駐車してある車……どこにでもある。ありふれている。にもかかわらず誰も見ていない。気付かない……浮浪者も同じだ」

確かにどこに寝ていても不自然ではないし、夜中に歩き回っても誰も気にしない。

にもかかわらず、こちらの動きを自由に見張ることができる。

「確かに、よく考えた変装だ……だが、そこまでして何故渋谷にこだわる? 何故、地方にでも逃げなかった?」

言いながら、馬部は山吹の動き――特に懐に入れられた右手の動きを注意深く見ていた。少しでも妙な動きがあれば、すぐに行動できるように。

だが今のところ、山吹も、その右手も動く気配はなかった。

「何故かだと? 愚問だな、馬部。それが最善の行動だったからに決まってるだろう?」

「どういう意味だ?」

馬部の質問に、山吹はクックックと声を殺して笑った。

「さあな。知りたきゃ自分で考えるんだな」

山吹は、真剣な声に戻った。

「お喋りの時間は終わりだ……馬部、よくも俺の邪魔をしてくれたな。死んでもらうぜ」

山吹が懐から右手を抜いた。

馬部は、素早く跳び箱から降りて、その陰に隠れた。

「山吹! それは……」

その右手には、三次が持っていた銀色の拳銃が握られていた。



●13:00 緑山学院倉庫

「2日前に包帯巻いたグラサンオタクから、騙し取ったんだ。モデルガンかと思ったら本物だった。しかも見覚えがある。こいつを手に入れたのは、まさに神の采配だぜ」

2日前。夕方に三次と会ったときには、既に拳銃をなくしていた。しかし牛尾の話によると、2日前の昼間に会ったときには、まだ拳銃を持っていたらしい。

山吹の言葉を信じれば、三次の手を離れた直後に、拳銃は山吹の手に渡っていたと言うことになる。

「隠れてないで、出て来い。こいつは、そんな跳び箱くらい簡単にぶち抜くぜ」

「…………」

馬部も実際4日前にそれを射っていたから、山吹の言うことが本当だと言うことも理解できた。

「それに、その跳び箱を射ち抜かれると、お前も困るんじゃないか?」

「どういう意味だ?」

「……うがぐがぐ」

馬部は跳び箱の中から何かが聞こえることに気付いた。

「……まさか」

「そのまさかだ」

馬部が慌てて跳び箱を開けると、中に猿ぐつわを噛まされ、両手足を縛られたみちるが入っていた。

「みちる!」

慌てて馬部はみちるの猿ぐつわを外す。

「ウマちゃん……来てくれたのね」

涙ぐむみちるの口許には、痛々しい猿ぐつわのあとが付いていた。

「もちろん。もう大丈夫だ。みちる」

「ウマちゃん。気を付けて! そっちの跳び箱に……」

「こっちの跳び箱がどうかしたか?」

山吹は跳び箱から飛び降り、跳び箱に向かって拳銃を構える。

それを見たみちるが悲鳴を上げた。

「牛尾さん!」

「何だって!?」

馬部が見ている前で、山吹の手で跳び箱の一段目が開けられた。

「!」

中にぐったりと項垂れた牛尾が入っていた。

「牛尾さん!」

馬部が呼んでも、牛尾は反応しなかった。

ワイシャツ姿の牛尾の胸に紅い血の跡がついているのが見えた。

「ウマちゃん。私、見たの! 牛尾さん、拳銃で射たれたのよ! 牛尾さん! 牛尾さん! しっかりして!」

みちるは何度も牛尾の名を呼ぶが、やはり牛尾は反応しない。

「無駄だ。こいつは縄で縛ってあるし、オマケに気絶してる。こんなことをされても……」

山吹は冷徹な表情で拳銃を牛尾の米噛に突き付けた。

「……反抗できないわけだ」

「やめろ!」

「いいや、やめないぜ。お前とこいつのせいで、俺は白峰組代貸の地位を追われた。八つ裂きにしても、まだ足りないくらいだ。あっさり死ねることに感謝して欲しいくらいだぜ」

山吹は拳銃の引き金に掛けた指に力を込めた。

「や、やめろ! 牛尾さんを殺すなら、先にボクを殺せ!」

「ダメよ! ウマちゃん! 死ぬ気なの?」

ようやく縄を解いたみちるが、泣きそうな声を挙げた。

「だ、だって、仕方ないじゃないか。このままじゃ牛尾さんが……」

「だからってウマちゃんが死ぬなんて……ダメよ! 牛尾さんも大切だけど、ウマちゃんだって大切なんだから!」

「みちる……」

馬部はみちるをギュッと抱きしめた。

馬部は自分がみちるを愛しているということを、かつてないほどに感じていた。

体の細胞の一つ一つがみちるを求め、必要としていることを自覚した。

「ウマちゃん……」

みちるも同じ思いだったのだろう。

みちるの頬を一筋の涙が伝い、縛られた縄の上に落ちた。



・包帯巻いたグラサンオタク:エゲレス書院の黒川。山吹の秘蔵コレクション「セーラードールズ人形」と拳銃を交換した。



●13:10 緑山学院倉庫

「仲の良いことだな。でもこいつのことを忘れちゃいないか?」

これ以上ないほどの冷徹な声が割って入った。

山吹は牛尾に拳銃を突き付けた形のまま馬部とみちるを見ていた。

「どうやら、お前たちはこいつのことはどうでもいいらしいな……じゃあ死んでもらうか」

「やめろ!」

もう一度、さっきと同じやり取りが繰り返される。

「牛尾の命が惜しいのなら、俺の言うことをきくことだ……オイ女。お前を縛っていた縄で、馬部の手を縛れ」

「え……」

「やるんだ、みちる」

馬部が言う。みちるは、子どものようにイヤイヤをした。

「そうしないと、牛尾さんが殺される」

馬部が両手を揃えてみちるの前に並べた。

「縛ってくれ、頼む。美樹」

「! ……」

みちるは青ざめた顔で馬部を見た。

馬部は、ゆっくり頷いてみせた。

「何をしている! こいつがどうなっても良いのか?!」

山吹はいい加減苛立っている。

しかしみちるが馬部の手首を縛ると、山吹はとびきり邪悪な笑みを浮かべた。

「よし……こっちに来い」

馬部が山吹の方に近づいていくと、山吹は拳銃を牛尾から離して、馬部に向けた。

「…………」

馬部は緊張に表情を固くしながらも、目はしっかり山吹を見ていた。

拳銃が、馬部の額に宛てられる。

「ヒッ……」

「楽に死ねると思っているのか?」

山吹は馬部の額に宛てた拳銃を振り上げると、馬部の頬を思い切り銃底で殴りつけた。

「あがっ」

「ウマちゃん!」

みちるの悲鳴が遠くに聞こえる。

目の前が真っ白になる感覚。

口の中に拡がる鉄の味。

馬部はヨロヨロよろめいた。

「ゆっくり痛めつけてやる」

山吹は馬部の髪を掴んで引き起こすと、腹に膝蹴りを連発で入れた。

「がはっ!」

地面に倒れた馬部の腹目掛け、山吹のヤクザキックが襲いかかる。

「お前のッ!」

「せいでッ!」

「俺はッ!」

「何もかもッ!」

「失ったんだッ!」

馬部を襲うキックの一発一発に、山吹の怨念が籠もっていた。

「やめて! ウマちゃんが死んじゃう!」

みちるが目前で繰り広げられる暴行に耐えきれず、悲鳴を挙げて顔を覆った。馬部は黙って山吹の暴行に耐えるしかなかった。

「はあ……はあ……はあ……」

やがて山吹は馬部の顔を踏みつけて、動きを止めた。山吹の荒くなった息が体育倉庫内に木霊した。

「馬部……これは復讐だ」

「…………」

馬部の顔はドッジボールのように腫れ上がり、立つこともできない激痛が全身を覆っていた。

「まだ殺さないぜ。俺の苦しみを、十倍にしてお前に返してやる」

山吹が口許だけで笑ってみせる。

そのとき馬部が小さな声で呟いた。

「山吹。そろそろ本音を言ったらどうだ」

「! ……本音だと?」

「白峰組に見付かる危険を冒してまで、渋谷に留まった理由だ」

山吹は一瞬表情を固くしたが、すぐに元の表情に戻った。

「そんなことを、俺が言うと思うか?」

「言うさ。お前は、自分の優位を誰かに自慢したがる最低な奴だ」

馬部の言葉を聞いた山吹は、フンと鼻で笑った。

「大きな口を叩く野郎だ……まあいい冥土のみやげに教えてやろう。俺はもうすぐ白峰組に復帰する」

「なんだと!」

「確かに俺は三次を使って組長をパクらせようとしたが、それは俺のアイデアじゃねえ。関西ヤクザに渡りを付け、俺を影からサポートしてくれた人が、まだ白峰組に残ってるんだ。万一の場合に備えてな」

「貴様……」

馬部は、思わず唸った。

「その人が組長を始末したら、俺が白峰組の跡目を継ぐことになってたんだよ」

山吹は優位に立った者の余裕の目で馬部を見下した。

「その人が、誰だか分かるか?」

山吹の台詞に馬部は考えた。

山吹を使うほど器量があって、組長に近づくことができて、関西ヤクザに渡りを付けられるほど顔が広い人……。

馬部は答えた。



・美樹:「独走最善戦」でのみちるの役名。みちる扮する美樹がが馬部扮する組長の縄を解いて逃がすシーンでは、縄があっさりほどけるように手品の結び方をしていた。馬部はそれを模倣してみちるに暗号を送っていたのだ。

・冥土のみやげ:言っちゃいけない魔法の言葉。コレをいうとどれだけ有利でも逆転されてしまう。



●13:20 緑山学院倉庫

「柏木巌さんか」

馬部が言うと、山吹はニヤリと笑った。

「当たり……牛尾よりはマシな頭をしているらしいな」

その言葉を聞きながら、馬部は地面から少し身を起こした。まだ激痛が走るが、動けないほどではなかった。

「経験に裏付けられた迫力、影の存在ながら大きい影響力。警察にも関西ヤクザにも通じる広い顔……あの人こそ、理想のヤクザだぜ」

山吹はウットリとした目つきで虚空を見つめた。

「しかし、何故なんだ。柏木さんは何十年も白峰組を支えてきたと聞いてる。何故、白峰さんを狙うんだ」

山吹は、出来のいい生徒を前にした教師のように笑った。

「……復讐だよ。馬部。お前は、組長が若い頃に兄弟分を殺したことがあるのを知っているか?」

「何だと?」

馬部は、そんなこと初耳だった。

「その兄弟分が組を裏切ったせいで、当時の組長が殺され掛けたんだ。当時の組長は、男の兄弟分だった今の組長に抹殺命令を出した。その男を殺したせいで白峰組長はムショ行きになったんだ」

「……それと、柏木さんとどういう関係があるんだ?」

「殺された男は、柏木さんの実子だったんだよ」

「!」

馬部は目を見開いた。寡黙に白峰に仕えているように見えた柏木に、そんなことがあったとは……。

「むろん、組長もそのことを知っている。柏木さんが組長を恨んでいることも……それでも組長は柏木さんと五分の盃を交わした。それは組長が柏木さんを恐れているからだ」

「白峰さんが柏木さんを恐れる?」

「柏木さんは、先代の時代から白峰組を支えてきた人だ。組のことなら何でも知っている……組長が誰にも知られたくなかったこともな」

山吹はふと視線を下げた。

「馬部。お前、るい子お嬢さんと結婚するつもりか?」

「え?」

突如山吹が話題を変えたことにとまどいつつも、馬部は山吹を見た。

「結婚?」

みちるがふと顔を上げる。

「ウマちゃん、それってどういうこと?」

「いやみちる。この5日間いろいろあって……」

馬部の言葉を遮って、山吹が話し出す。

元々馬部の返事には興味がなかったらしい。

「結婚しても、白峰組はお前の手に入らないぞ。なぜなら……」

山吹は悪魔的笑みを浮かべた。

「るい子お嬢さんが白峰忠道の本当の娘じゃないからだ」

「…………」

「なんだ。知ってたのか? 面白くない」

馬部は衝撃的なはずの事実にあまり驚いていない自分を発見した。

恐らく馬部は白峰の焦りと強引すぎる計画から、薄々その事実に気付いていたのだろう。病気のことを差し引いても、あの計画は性急すぎた。

そのとき、山吹は拳銃を体育倉庫の入り口に向けた。

「……どうやら驚いたのは、ウマじゃなくてネズミだったようだな」

馬部がここに来て初めて、拳銃が馬部からも牛尾からもみちるからも外れた。

千載一遇のチャンスだ。

馬部は死ぬ気で山吹に襲いかかろうかと思ったが、そのとき馬部の脳裏に牛尾の声が響いた。

『焦るな……チャンスを待つんだ……俺たちは二人で一つだ』

馬部は踏みとどまり、山吹の様子を見ることにした。

「出てきな。射たれたいか?」

しばらくの沈黙。山吹はもう一度出てきなと言った。

やがて扉が開き、細い光の線が太くなっていった。

光の帯の中に人影がある。

黒い服の長い髪をした女――。

「るい子さん!」

それは白峰るい子だった。

「これはこれは。お久しぶりです、お嬢さん」

山吹がるい子の側に行き、いつかと同じ獲物を狙う蛇の目つきで、るい子を見た。

「黙りなさい、山吹。話は総て聞かせてもらったよ」

るい子は気丈にそう言ったが、自分の心臓をい狙う拳銃のせいかその声は震えていた。

「だったら話は早い。お嬢さん。組長は、唯一その事実を知る柏木さんを恐れてたんです。あなたにそれを知られたくなかったんですよ」

山吹の厭らしい声に、るい子はピクリと肩を震わせた。

「10分前は組長令嬢だったのに、今はタダの女だ。20年以上あなたを守ってくれた後ろ盾を失った気分はどうです? お嬢さん」

厭らしい。山吹の言い種は巻き付いた蛇がゆっくり兎を締め殺していくようだった。

るい子は精一杯の瞳の強さで山吹を睨み返して言った。

「知っていたわ」



・五分の盃:どちらが兄でも弟でもなく、対等の立場で兄弟分になること。「○○の兄弟」と呼び合う。



●13:30 緑山学院倉庫

るい子は首に掛けていた金のネックレスを山吹に見せた。

「これを貰ったときに母さんが教えてくれたの。わたしは本当は白峰の子じゃないって」

「何だと?」

それは、るい子の母の形見の品だった。

「母さんは病床で私に言ったわ。『あなたは私たちの本当の子どもじゃないわ。だけどね、私たちはあなたを本当の子どもと思って育ててきたのよ。愛も、優しさも、厳しさも、本当の子どもと同じだけあなたに注いで育てたのよ。血は繋がっていないけど、今も、今までも、これからも、あなたは白峰の家族なのよ』……って」

るい子の頬を涙が伝った。るい子の母は、その直後に亡くなったのだ。

るい子の母は形見と共に真実をもるい子に残した。それはるい子を家族と考えていたからこその告白だった。

本当の家族になるために、偽りの家族の繋がりを否定しなければならなかったのだ。

「お父さまは、お母さまが私にそれを話してくれたことは知りませんし、本当の父のことも教えてくれませんでした……ついさっきまで」

「さっき?」

「さっき、教えてくれました。本当の父のことも、胸の病気のことも」

「るい子さん……」

馬部は、やはりと思った。

さっきの白峰の表情を見て、総てを話す覚悟ができたのだと悟ったのだ。

白峰が本当の父のことをるい子に話した以上、白峰が柏木を恐れる理由はなくなったということだ。

「いくら血の繋がりを否定したところで、家族の絆を否定することはできないわ。だって私たちは、家族なんですもの!」

「……くっ!」

山吹は、拳銃の銃底でるい子を殴った。

あっさり膝を突き、るい子は地に倒れる。

「るい子さん!」

馬部が叫ぶと、るい子は弱々しく大丈夫と答えた。

山吹は不機嫌な顔で、ペッと唾を吐いた。

「面白くないぜ……そんな浪花節を聞きたかった訳じゃねえんだよ」

山吹は、改めて拳銃を馬部に向けた。

「そろそろこの座興にも飽きた……死んでもらうぜ、馬部」

「ウマちゃん!」

自由になったみちるが跳び箱から出て、馬部をかばった。

「ウマちゃんは殺させないわよ! ウマちゃんは、私の大切な人ですもの。ウマちゃんを殺すなら、まず私を殺しなさい!」

みちるが血相を変えて山吹の前に立ち、両手を広げた。

「現金な女だ。さっきまで牛尾が大事だと喚いてた癖によ」

みちるはポロポロ涙を流して俯いた。

「ごめんなさい……ごめんなさい、牛尾さん。だけどやっぱり私、ウマちゃんが……」

「山吹! お前の目的はボクと牛尾さんのはずだ! みちるやるい子さんに手を出すな!」

馬部が立ち上がった。

「そうか。だったら牛尾の始末を先にするか」

山吹が牛尾に矛先を変えると、今度はるい子が血相を変えた。

「待ちなさい、山吹! 牛尾さんには私が手出しさせないわ」

「おっと……動くんじゃない、お嬢さん」

駆け寄ろうとしたるい子を山吹が睨んだ。

「動くと、こいつの頭が吹っ飛ぶぜ」

「くっ……」

山吹が勝ち誇った表情で言った。

「……決めた。まずは牛尾に死んでもらうことにしよう。あんたはそこで大人しくそれを見物してな」

山吹の指が引き金に掛かろうとしたそのとき――

「――ハッ!」

るい子がの蹴りが一閃した。

山吹の手から拳銃を蹴り上げ、返す刀で山吹の額に踵落としを叩き込む。拳銃は放物線を描いて、体育倉庫の外に飛んでいった。

「ぐっ」

呻き声を挙げて山吹が倒れる。

「今だ!」

馬部が手に握った紐を引くと、あっさり手を縛っていた戒めが外れた。

「みちる、拳銃を!」

「え……あ、ウン」

みちるがハッとして体育倉庫から走り出る。

馬部は地面に倒れている山吹に飛びかかった。

「……くっ」

頭を振っていた山吹が、掴みかかる馬部の手を払いのけた。

「大人しくしろ!」

馬部はハッタリに大声で叫びながら再度掴みかかり、山吹の肩に手を掛けた。

るい子は馬部の背後で構え直している。

拳銃はみちるが取りに行っている。

馬部は山吹に掴みかかっている。

これは、勝負あった――

馬部がそう思った瞬間。

「痛ッ!」

「馬部さん!」

るい子の叫び。馬部の手から、鮮血が迸った。



●13:40 緑山学院倉庫

「手前ェ……調子に乗りやがって」

山吹の手にナイフが握られていた。

銀色のそれは、馬部の血を吸ってヌラヌラと赤く光っていた。

「もう許さねえぞ。手前ェら、皆殺しだ」

山吹の声の調子が変わっていた。

今までの余裕が消え、切迫した感じが声の中に混じっていた。

今馬部の目の前にいるのは白峰組の代貸まで務めた男ではなく、ただの追い詰められたチンピラだった。

山吹がナイフを逆手に持って、馬部の足を差した。

「ぎゃあああああ!」

激痛が馬部の足を走り、馬部は知らず叫んでいた。

「次は手前ェだ!」

るい子に向かって大きくナイフを振り回す山吹。

一閃。二閃。

るい子は辛うじて身をかわしていた。

「るい子さん! ……痛ッ」

馬部はるい子を助けようとするが、足が言うことを聞かない。

「……!」

避けきれなかったナイフの刃がるい子の髪を一条、断ち切った。

「ナイフの捌き方は教えてもらわなかったのか?」

馬部の血に染まったナイフが、蛇の舌のようにチラチラとるい子を威嚇した。

「……あんたごとき、お父さんに教えてもらった技術を使うまでもないわ」

るい子は憎まれ口を叩いたが、これは逆効果だった。

今まで振り回していたナイフが突き出された。それは、止めの一撃を意味する。

「死ね!」

「るい子さん!」

「…………!」

ギュッと目を瞑ったるい子の胸の一センチ手前で、ナイフは止まっていた。

「お、お前……」

大きな手が山吹の手首を掴んでいた。

山吹が叫ぶ。

「意識が戻ってたのか……牛尾!」

ずっと気絶したままと思った牛尾が、山吹の手首を掴んでいた。

縄はあっさり千切られていた。

「何言ってんだ。お前が言ったんだぜ? 『この世には、存在しても見えないものがある』ってな」

馬部と同じサイズとはとても思えない力強い手が、万力のように山吹の手首を締め上げる。

カランと音を立てて、ナイフが転がった。

「けど頭使うのは苦手だぜ。“暴れ牛”の本領、見せてやる」

牛尾の拳が山吹の頬を襲った。

「ぐわっ!」

体を二つに折って倒れそうになる山吹の髪を掴んで無理矢理起こし、膝蹴りを連発で入れる。

「ぐふッ……」

「あ……それは……」

それは、山吹がさっき馬部にしたことだった。

「ヤクザキックとナイフの分が残ってるが……やるか? 馬部」

山吹はとっくに伸びている。

馬部は慌てて頭を振った。



・お父さんに教えてもらった技術:ヤクザは剣道や空手、柔道を極めていることが多い。白峰も空手を極めていて、るい子にそれを教えていたのだ。



●14:00 緑山学院倉庫

馬部がるい子に傷の手当をしてもらっていると、拳銃を捜しに行っていたみちるが帰って来た。

「みちる、拳銃は?」

みちるは深呼吸をして息を整えていた。

「校舎の策から校外に弾き出されてて……門から回り込んでそこまで行ったら、もうなかったわ。どうも、子どもが玩具だと思って持って行っちゃったみたい」

「そう……」

モノが拳銃なら持っているだけで通報されるから、いずれ発見されるだろう。

それより今は、みちると語り合いたかった。

馬部がみちるの方を見ると、みちるも馬部と同じ目で馬部を見ていた。

「……牛尾さん。私たちは外に出てましょう……あ、山吹も連れてきてね」

るい子が敏感に気配を察し、馬部の手当をさっさと終わらせた。

「あ? 何でだ?!」

鈍感な牛尾の手を取って、るい子は体育倉庫の外へ出ていった。

「…………」

「…………」

何も言わずに、見つめ合う二人。

やがてどちらともなく笑い出す。

「……ふふふふふ」

「……ははははは」

「はははははははは! 終わった! 終わった!」

「終わったわね! ウマちゃん」

二人は手を握り合って、お互いの無事を確認し合う。

「ふふふふふふ……ホント、二人とも生きてるのが夢みたい」

みちるが言った。さっきまで笑っていたのに、涙声になっていた。

「なんで、来たの? ウマちゃん。今回はたまたまラッキーだっただけで、拳銃持ったヤクザに立ち向かうなんて、正気の沙汰じゃないわよ」

みちるは馬部の胸に飛び込んだ。

「わたしはどうなっても良かったのに……ウマちゃんさえ無事なら、わたしは思い残すこともなかったのに……」

「みちる」

馬部はみちるを胸から引きはがした。

「そんなことを言うもんじゃないよ。君がボクを大切に思ってるように、ボクも君を大切に思ってるんだから」

馬部は、少し顔を赤らめた。

「あーー……みちる。い、今から二人にとって大事なことをいうから……」

「?」

みちるが不思議そうな顔で馬部を見た。

「……聞き逃さないで……聞いて」

みちるは馬部の言わんとすることを察し、服装を整えて正座した。

「あー…………みちる。ボクは、君が好きだ」

役者の輝きというものは、水とは逆に低い方から高い方に流れていく。馬部は今までみちるに輝きを吸い取られるのが恐くて、みちるとの結婚を拒否してきたのだった。

「……多分、君もそうだと思う……」

馬部はユキのことを思い出していた。

恋人のことを信じられずに心底悩み、途方にくれていたユキを、馬部はなぜか放っておけなかった。

今にして思えば、あのときのユキは馬部自身だったのだ。

自分で自分のことを信じられずに悩む自分をユキに重ね、ユキの悩みを自分のことのように考えていたのだ。

「……だからこれからは、一緒にいたいと思う……」

確かに脇役俳優の馬部甚太郎なら、みちるに輝きを吸い取られてしまうだろう。

しかし今の馬部は違う。銀幕の隅に移る顔のない群衆の一人ではないのだ。

『苦難は忍耐を生じ、忍耐は練達を生じ、練達は希望を生ず』

馬部の苦難は4日前、三次に牛尾と人違いされたことから始まった。馬部はこの4日間の忍耐を想い、なるほど芝居に練達したと思った。

「……だから、申し込みます……」

脇役俳優の馬部甚太郎は、三次と会ったときに死んだのだ。

「……椎名みちるさん。ボクと結婚して下さい」

今ならみちると一緒に輝けそうな気がする。

みちるは一筋の涙と共に答えた。

「……はい、喜んで」

みちるが馬部の胸に飛び込んできた。

希望を生ずるのはこれからだ、と馬部は思った。



・子ども:中島貴子。ご用の途中で玩具を拾ってゴキゲンゴキゲン。



●14:10 緑山学院倉庫前

「結局、組に帰ることにしたんですか?」

馬部は、牛尾の言葉を信じられない思いで聞いた。

「まあな。オヤジには恩があるし……組の方も大変らしいからな」

るい子によれば、馬部が白峰と別れた後に白峰が柏木を告発したのだという。

柏木は逃走し、白峰組の幹部は誰一人いなくなった。

「馬部さんは気付いてたみたいだけど、お父さま、実は心臓病だったの……いつ万一の事態が起こるか分からなかったから、つい馬部さんを使って強引に牛尾さんを連れ戻そうとしちゃったのね」

るい子がさばさばした口調で言う。

もう、るい子にとって馬部はフィアンセではないのだ。

「とりあえず、下の者が育つまでって言う条件付きだけどな」

「牛尾さん、それで良いんですか?」

馬部の問いを、牛尾は豪快に笑い飛ばした。

「ガハハハハ! 良いに決まってんだろ! 今はもう、半年前とは状況が違うぜ」

牛尾は、馬部の耳を引っ張って囁いた。

「横に並んでくれる奴もいるし、な」

牛尾は馬部、みちると見て、最後にるい子を見た。

「……まさか、ボクに遠慮してのことじゃないんでしょうね?」

馬部が囁き返すと、牛尾はポケットから何かを取り出した。

「ホレ。もう一回やるか?」

それは、昨日馬部が渡した100円玉だった。

馬部は牛尾と顔を見合わせて、ニヤリと笑った。

「そら!」

100円玉は、昨日と同じく宙を舞った。

しかし昨日と違って、今日の100円玉は光の中を舞っている。

「……開けるぞ」

牛尾が、100円玉をキャッチした手をゆっくり開ける。

「……裏」

牛尾は、馬部の掌に100円玉を置いた。

「預かったモン、返すぜ……また会おう」

「さよなら。馬部さん。お元気で……」

山吹を担いだ牛尾は、るい子と並んで歩き出す。

「僕らも行こうか」

馬部とみちるも、並んで歩き出す。

「ウマちゃん……何なの? その100円玉?」

みちるは不思議そうな目で馬部の手の中の100円玉を見ていた。

「ボクの、一番大事なものさ……ん」

馬部は通りがかりの脇道に、駄菓子屋があることに気付いた。

「みちる。ちょっと待っててね」

馬部は駄菓子屋に入っていく。

「……お待たせ。はい」

馬部が出てきたときには、掌には100円玉の代わりに玩具の指輪が載っていた。

「婚約指輪の代わりってことで……もっと高い奴を買ってあげたいんだけど……ごめんね」

すまなさそうな馬部と対照的に、みちるの顔は輝かんばかりに明るかった。

「とんでもないわ! 素晴らしい指輪をありがとう……ウマちゃん」

みちるは馬部の方に左手を差し出した。

「填めてくれる……?」

馬部は、そっとみちるの左手を取った。



・心臓病:白峰は煙草が原因で動脈硬化になっている。狭心症を何回か起こしており、危険な状態。



●19:50 ハチ公前

馬部は牛尾と別れて、みちると二人で渋谷を歩いていた。

思えばなんと長い5日間だったのだろう。

「あ……」

ハチ公前まで来たとき、馬部は連れだって歩くユキと陽平、乱入女、花嫁を見かけた。

花嫁は、なぜか赤ん坊を抱いている。

「馬部さん」

ユキが、優作の手を持って小さく振った。

「……幸せそうだね」

ユキは幸せそうに笑っていた。

「馬部さんのお陰です」

「……そう」

乱入女も花嫁も、幸せそうに笑っていた。

「馬部さんも、幸せそうよ」

「ホント、そう思います」

「馬部さん。椎名さんと付き合ってたんですね」

三人娘が口々に騒ぐ。陽平だけが半ば放心状態だった。

「君たち、幸せかい?」

馬部の問いに三人娘は同時に答えた。

「もちろん!」

馬部はニッコリと笑った。



●20:00 文化村通り

「あ……ウマちゃん、見て!」

みちるが指す方向をみると、大きな花火が上がっていた。

「花火か……久しぶりに見るな……」

一つ。また一つ。

次々花火が打ち上げられて行く。

「ロマンチックね……ウマちゃん」

みちるがウットリした目で馬部を見上げた。

「ん……」

馬部がみちるにキスしようとした瞬間――

「やっぱり、みちるさんだ! どこ行ってたんですか!」

サギ山の声に、馬部とみちるはサッと離れた。

見れば、マルハンの方からサギ山が走ってきていた。

「アレ? ウマさん、一緒だったんですか……いやそれよりみちるさん。監督がカンカンですよ」

サギ山の言葉に、みちるはしまったという顔をした。

「そうだわ! スッカリ忘れてた! わたし、行かなくちゃ」

慌ただしく走り去るみちる。馬部は、その背中を見送った。

「そうだ、サギ山君」

みちるを追って走り出そうとしていたサギ山を呼び止めて、馬部は言った。

「きみ、たしか助監督辞めるって言ってなかった?」

サギ山は馬部の声を聞くと振り返った。

「ボク、もう少しやってみることにしました。なんか、この世界向いてるような気がしてきたんです……じゃあ」

サギ山が馬部に一礼して、マルハンに入っていく。

馬部は一人花火を見上げて、そして――

「――まてよ、サギ山君。ボクも行くよ!」

馬部は、サギ山を追ってマルハンに入っていった。

花火は馬部の前途を祝うように、次々と上がっていた。



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The wrong man 馬

take2



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街 ネクストストーリー6

2014年05月02日 18時00分00秒 | 街 サウンドノベル
☆10月15日

●11:00 白峰邸客間

「おはようございます。るい子さん。シーハー君」

「あら、馬部さん。もう、礼服を着てらっしゃるの?」

るい子がシーハーを連れて馬部の泊まる客間を訪ねたときには、馬部は既に礼服に着替え、ソファで新聞を読んでいた。

「馬部さん。紅茶でも、いかがですか?」

「ええ、よろこんで」

「シーハー、ここへ」

例のドレスを着て化粧まですませたるい子が、馬部の正面のソファに座る。

シーハーが持参したティーセットを机に置いて、手際よく紅茶の葉をティーポットの中へ入れていく。

「最近、何かと物騒な事件が多いですね」

新聞を読んでいた馬部が言うと、ティーカップにお湯を入れていたるい子が頷いた。

「そうね。特にここ数日は、変な事件が続いてるわ」

スコーンを皿に並べ、紅茶の豊かな薫りが部屋中に瀰漫すると、るい子はシーハーを下がらせた。

新聞は、昨夜井の頭通りで起きた乱闘事件や謎の飛行物体目撃事件など、物騒な記事で溢れかえっていた。

馬部も関わりのある宝石店強盗続報や理由の分からない交通事故、鰐が渋谷をウロついているという噂まであるらしいのだ。

「山吹や白峰組は、関わってないんですか?」

るい子は「まさか」と両手を上に向けた。

芳醇たる香りが、客間全体に満ちつつあった。

「山吹が何してるのかは分からないけど、白峰組はいちいちそんな事件に首突っ込むほど暇じゃないわ」

るい子はティーカップの湯を捨てると、入れたての紅茶を馬部の前に置いた。

「あ、すみません。るい子さん」

「お砂糖とミルクは?」

「砂糖は3つ。ミルクは結構です……すみません」

馬部はるい子が入れた紅茶に口を付けて、ニッコリと笑った。

「美味しいです」

「ありがとう。馬部さん」

馬部は一旦カップを置いて、再び乱闘事件の記事に目を通し始めた。

「代貸の山吹がいなくなって、白峰組は大丈夫なんですか?」

馬部は、自分が読んでいる乱闘事件の記事とは何の関係もないことを、るい子に訊ねた。



・スコーン:英国風のビスケットのようなお菓子。イギリス人はこれと紅茶でティータイムを取る。

・鰐:ワニ次郎の飼っていたワニ。神出鬼没。



●11:10 白峰邸客間

「何故、そんなことを聞くの?」

るい子が、逆に馬部に訊ね返した。当然だ。

「それはあなたの言葉とは思えませんね。るい子さん」

馬部は新聞から視線を外し、るい子を見た。

「あなたは、ボクに白峰組の跡取りになれと言ったのではなかったのですか? ボクが白峰組のことを気にするのは、当然だとは思いませんか?」

そう答えたとき、馬部はるい子が微かに戸惑いの表情を浮かべたのを見た。

「……馬部さん。それは、白峰組の跡を継いでくれるってことですか?」

「おや、るい子さんはそうして欲しいのだと思っていましたが」

「も、もちろん。馬部さんが覚悟してくれたんなら、それは当然嬉しいんだけど……あまりに急だったから」

馬部は紅茶で口を湿らせ、再び新聞を読み始めた。

「“暴れ牛”に未練はありませんか?」

「何が言いたいの? 馬部さん」

「ボクが白峰組の跡を継いでも、他の候補者が名乗り出るようなことはないのか、ということです。それを確認するのは、当然でしょう?」

「え、ええ、まあ……」

昨日までの煮え切らない態度とうって変わって、積極的に白峰組について質問する馬部に、るい子は不気味なものを感じているようだった。

「今は馬部さんの他には有力な候補者はいないわ。山吹の独走態勢が崩れて、今まで勢いのあったところが急に失速してる状態だから」

「なるほど」

「それにこの世界の上下関係は、凄く厳しい物なの。親が白い物を黒だと言えば、子どもはそれが白だとは、口が裂けても言えないのよ。お父さまがあなたを後継者として指名すれば、誰も逆らうことはできないでしょう」

「山吹や“暴れ牛”でもですか?」

少し間をおいて、るい子が答えた。

「……もちろん」

「……そうですか」

馬部は、新聞のページを繰った。

「ところで、山吹はまだ捕まってないのですか? 山吹が渋谷のどこかに潜伏しているのなら、今日の式は絶好の機会ではありませんか。ボクも牛尾さんのように、ならないでしょうね?」

「大丈夫よ。結婚式の式場の周りは、組の若い衆に見張らせてるわ。馬部さんは、安心して式に出席して下さい」

「はい」

しばらく、沈黙が部屋を支配した。

馬部はのんびり新聞記事に目を通しているが、るい子は、それとは対照的な落ち着きなさげな目で馬部を見ている。

「あの……馬部さん。本当に、どうかしたんですか?」

馬部はるい子を見た。

「どうもしませんよ。覚悟を決めただけです」

「……そうですか」

るい子はティーカップを置いてソファから立ち上がった。

「すみません。ちょっと失礼します」

るい子は馬部に一礼すると、扉を開けて部屋から出ていった。

馬部の頭の中で「カット!」のかけ声が掛かった。



●11:20 白峰邸客間

馬部は、ホウッと大きな溜め息を吐いた。

「こ、これで良かったのかな……信用してもらえるといいんだけど……」

馬部はソファから立って、ウーンと伸びをした。

知らず緊張で全身を縛り付けていたらしく、ガチガチになっていた筋肉がバキバキ音を立ててほぐれていった。

「や、やっぱり緊張するなあ」

昨夜馬部と牛尾は、みちるを取り返す算段を色々話し合ったが、そこでの結論の一つは、「馬部はるい子と一緒に結婚式に出席するべきである」というものだった。

「少し、確かめてきてもらいてえことがあるんだ……それに義理ごとを欠かすのは男の恥だしな」

牛尾は、ドンと胸を叩いて準備は任せろと言っていた。

本当に任せて大丈夫だったんだろうか。

「今更ながらに不安になってきたな……」

牛尾と馬部は、結婚式の後で合流することになっていた。

「何はなくとも……まずは、結婚式を乗り越えることだ」

馬部は頬をパンと叩いて気合を入れ直した。



●11:40 白峰邸客間

ノックの音がして、馬部のいる客間にシーハーが入ってきた。

「…………」

馬部は、さっきるい子が一緒にいたときの何倍も緊張した。せっかくほぐれた筋肉がピキピキ音を立てて、またこわばっていく。

「式の迎えに来るにしては早いね」

「…………」

馬部は緊張を紛らわそうとシーハーに話しかけるが、例によってシーハーはそれを無視してツカツカ馬部の方に歩み寄った。

「あ……紅茶」

シーハーがティーセットを持ってきたときと同じようにお盆に乗せていく。

「手伝うよ」

「結構です」

シーハーは馬部の申し出もすげなく断った。

元々無口なシーハーだから、馬部が黙ると部屋中がシンとなる。

「…………」

「…………」

「…………」

「…………」

「…………コホン」

沈黙に耐えきれずに馬部が咳払いをすると、シーハーが何かを言った。

「お嬢さんと結婚するつもりですか?」

さっきの馬部とるい子との会話を聞いていたのだろうか。

「ああ。そのつもりだよ」

馬部が内心の恐怖を隠して答えるとシーハーは馬部と目を合わせずに言った。

「殺されますよ」

いきなり強烈なシーハーの言葉に、馬部は思わず唾を飲んだ。

「だ、誰にだい?」

「……組長の直舎弟は、あなたを支持するでしょうが、あなたを殺そうとする奴が組に半分は残っています」

馬部はソファから身を乗り出した。

「それは?」

「山吹の子飼いです。山吹が逃げた後は柏木さん預かりになっていますが、山吹からの命令があれば、ヤツらは動くでしょう」

「子飼いの山吹への忠誠心は生きていると?」

「もちろん」

素っ気ないシーハーの答え。

これだ。これが聞きたかったんだ。

最初にカマをかけたるい子は、残念ながら建前以上のことは話してくれなかった。

るい子は組長の娘とはいえ堅気でもあるし、馬部に不安なことを言うと決心が揺らぐと思ったのかも知れない。

「あ……待って!」

馬部はティーセットをスッカリ片付け終わって客間を出ようとしていたシーハーを呼び止めた。

「……?」

馬部は廊下を覗いて誰も客間の近くにいないことを確認し、扉を閉じた。

「シーハー君。君に聞きたいことがあるんだ……」

馬部はシーハーにソファを勧めた。



●12:00 白峰邸客間

「なるほど……分かったよ」

「…………」

シーハーはいくら馬部が勧めてもソファに座ろうとはしなかった。

馬部が幾つかの質問をする間、シーハーはテーブルの脇で直立不動の姿勢を崩さなかった。

「色々、教えてくれてありがとう。引き止めてしまって、悪かったね」

「…………」

シーハーは、馬部に向かって一礼した。

「また絵梨ちゃんのお見舞いに、行かせてもらうよ」

シーハーは何も言わずに廊下に消えた。



そのとき馬部の内ポケットの携帯が、電子音で馬部を呼んだ。

「はい……」

電話を掛けてきたのは、牛尾だった。

『…………』

牛尾が警察や病院に行って、調べてきた事実を馬部に告げる。

それはさっきシーハーから聞き出した事実とピタリと符合するものだった。

また、昨夜牛尾と立てた仮説をも裏付けている。

「牛尾さん……やはり、昨夜の推測は正しかったようです」

シーハーに教えてもらったことを牛尾に話す。

『…………』

総て、分かった。

白峰やるい子の思惑も、山吹の残した時限爆弾のことも。

「じゃあ予定通りに……ええ」

馬部は牛尾との最後の打ち合わせを終えた。



・警察:鯨井に会って昔の白峰の経歴を調べてもらった。雨宮に泥棒呼ばわりされ、盗品の携帯のことを思い出してブチ切れる。

・病院:鳥居に会って白峰の通院記録を調べてもらった。



●13:10 宮益坂教会

馬部とるい子は、結婚式の会場となる宮益坂の教会に来ていた。

白峰の親類の結婚式ということで客の大半がヤクザが占めているのではないかと馬部は夢想していたが、意外にも招待客は堅気の人間ばかりだった。

「お父さまが花嫁のお母さんと兄妹なの。秋葉のおじさまが通信販売の会社をやっていらっしゃるので、変な噂が立たないようにお父さまも気を付けていらっしゃるのよ」

るい子が言った。

なるほど。確かに堅気同士の結婚式に、あまり暴力団員の姿が見えては困るだろう。

「だからここの警備も、目立たないように気を付けてやらせてるのよ」

「そうですか」

目立たないようにといっても、やはり暴力団員は目立つ。黒の礼服を着た男たちが何人か、教会の周りをウロついているのが馬部の目に入った。

「よう、馬部君。来ていたのか」

立派な黒紋付を着た白峰がやって来た。

「仲人を務めるのは初めてではないが……義理ごとというのは、何度やっても面倒が多いものだな」

白峰がコホンと咳払いしてるい子に視線をやると、心得たようにるい子が姿を消した。

白峰は馬部に顔を近づけた。

「馬部君……るい子に聞いたが、結婚の覚悟を決めてくれたというのは本当かね?」

白峰が内緒話のように馬部に囁いた。

「ええ、本当です」

馬部は力強く頷いた。

「そうか……まあ、式や組員への通達はもう少し後になろうが……良く決心してくれたな」

白峰は、更に小さな声で囁いた。

「昔の彼女の方は……もう良いのかね?」

「はい、とっくに」

「そ、そうか」

白峰は汗を拭きながら言った。

馬部には、白峰が微かに動揺しているように見えた。

「とにかくその話は、この結婚式が終わってからにしよう。色々忙しくてな」

言うと、白峰は新郎の控え室に入っていった。



・秋葉のおじさま:秋葉雄三。



●13:20 宮益坂教会

「ふうっ。何とかできるもんだな」

馬部は誰にも表情を見られないように窓際に移動して、溜め息を吐いた。

最初は、本物のヤクザに囲まれて堂々と立ち振る舞うなんて絶対に無理だと馬部は思ったが、案外やればできるものだ。

昨夜、牛尾が言ったのだ。

『とにかく、堂々とした態度を崩さねえことだ。ヤクザを信用させるには、何はなくともハッタリが大事だ』

元ヤクザの言葉とはいえ、本当にヤクザたちに信用されているのだろうか? 実は既にヤクザたちに本心を見抜かれているのではないか?

疑い始めるとキリがないが、ここはとにかく牛尾の言葉を信じるしかなかった。

「ん?」

窓から教会の入り口の方を見ていた馬部は、通りの方で何か騒ぎが起きているのに気付いた。

「だから私、新郎の知り合いだってば!」

聞き覚えのある声。赤ん坊の泣き声。

遠目にもチラチラと黄色い上着が動いているのが見えた。

誰かが見張りの組員に止められているらしい。

「あれは……ユキちゃん?」

良く見ると、確かにユキらしい。

馬部は教会を出ると、通りの方へ駆けていった。



「ユキちゃん!」

「馬部さん?!」

ユキは派手に泣く優作を抱いていた。

見張りの組員が馬部に訊ねた。

「お知り合いですか? このお嬢さん、新郎のお客さんと仰ってるんですが、招待客リストに名前がなかったもので……」

ユキは礼服ではなく普段着だった。

「ボクの友人だよ……それにしてもユキちゃん、どうしてここへ?」

「馬部さんこそ……まさかこの結婚式、馬部さんの結婚式じゃないですよね?」

ユキは馬部の話を覚えていたらしい。

「まさか! 新婦方の義理ごとでね……君は新郎の知り合いなのかい?」

「ええ。長い付き合いよ……それより馬部さん、昨日は勝手に帰ってしまってごめんなさい。あの後、また倒れちゃって。タクシーで運ばれちゃった」

「いや、気にしてないよ。体はもう大丈夫なの?」

「ええ。もうスッカリ」

「馬部さん! どうしたの?」

「るい子さん」

騒ぎを聞き付けたらしいるい子が、馬部とユキの方に駆け寄ってきた。るい子は組の若い者に事情を聞くと、即座に通してあげなさいと言った。

「え、いいんですか?」

組員が驚いて声を挙げる。

「馬部さんのお友達なら妙なことはしないでしょう」

キッパリ言い切ったるい子は、ユキを見ていった。

「初めまして。馬部のフィアンセの白峰るい子です」

馬部はソレを見て頭を抱えた。

昨日みちるの話をしたばかりなのに、今日早速違う女性に婚約者呼ばわりされているのを見て、ユキは馬部のことをどう思うのだろうか。

しかしユキは馬部の予想に反して、目を輝かせて言った。

「まあ。あなたが、あの……。もうすぐ、馬部さんとご結婚なさるそうですね」

「まあ。ご存じなんですか?」

「ええ。馬部さんからお噂はかねがね聞いていますから」

どうやら、ユキはるい子とみちるを勘違いしているらしい。そう言えば、ユキとの会話ではみちるの名前は出していなかったような気がする。

馬部はホッと息を吐いた。

結果オーライという奴だ。

「まあ、そうなんですか?」

「馬部さんは私の恩人なんですよ」

るい子はユキと話をしながら、教会に入っていく。

「何が幸いするか、分からないものだな」

馬部も、その後から教会の中に入った。



●13:30 宮益坂教会

馬部が教会の中に入ると、式の30分前となって、招待客らは次々と控え室から教会の中へ移ってきていた。

「……馬部さん、こっち!」

教会の奥でるい子の声がした。

馬部がそちらに行くと、るい子は白い衣装に身を包んだ新郎新婦と話していた。

「私のフィアンセの馬部甚太郎さんです。こちらが新郎の飛沢陽平さん」

「飛沢です。本日はどうもありがとうございます」

黒い礼服の中でただ一組、純白の衣装に身を包んだ新郎新婦は、まるで鴉の群に紛れ込んだ白鳥のように美しかった。

「馬部です。おめでとうございます」

言葉を交わしてみて分かった。

新郎新婦の美しさは衣装の美しさから来るものではない。一生に一度の人生の絶頂期にある、幸福の美しさなのだ。

人は何かをやり遂げたときに大きく、強くなれる。その成長の証が、人を美しく見せるのだ。

目の前の新郎新婦は、一つのことをやり遂げた美しさに溢れていた。

「アレ……何日か前にお会いしませんでしたか?」

挨拶を交わしたばかりの新郎が妙なことを言い出した。

馬部は新郎をマジマジと見る。きりりとした眉毛が印象的な、二枚目と言って良い風貌だった。

飛沢陽平。とびさわ・ようへい。

何となく、聞き覚えがある。

ひょっとしたら会ったことがあるのかもしれないが、馬部は思い出せなかった。

「ええと……そう、でしたか……すいません、この5日間、いろいろとあったものですから」

「本当、陽平クン?!」

いかにも上品なお嬢様と言った感じの新婦が驚きの声を挙げた。

「実は私も偶然お会いしているのよ。ねえ、馬部さん」

「は、はあ……」

馬部は、花嫁には全く覚えがなかった。

「馬部さんはね、今売り出し中の役者さんなんです。それで見覚えがあるんじゃない?」

馬部の困惑を見て取ったのか、るい子が助け船を出してくれた。

「ああ……そうかもしれませんね」

新郎は相槌を打った。

しかし悲しいかな、馬部はロクにテレビに映らない端役の役者である。テレビで見るよりも街角で見かける確率の方が高いと、馬部は自分では思っていた。

「……そういえば前にテレビで」

などと新郎は気を使ってくれるが、多分嘘だと見当が付けられるところが馬部の悲しいところである。

「おとといまではね、『独走最善戦』て刑事ドラマのロケでゲスト主役やってたのよ。放送されるときは見てね」

「はい是非」

新郎は更に気を使ってくれる。

馬部は理由のない罪悪感に襲われた。

「お姉さんたちは、いつごろの予定なの?」

新婦が訊く。

「できるだけ早いうちがいいと思ってるんだけど……ねえ、馬部さん」

るい子がしなだれかかるのを、馬部はがっしり受け止めた。

「ええ。何か、新しい人生が始まるって感ジで嬉しいです」

馬部は堂々とした態度で、るい子を見た。

「じゃ、私たち、他にも挨拶しなきゃならない方がいるので……行きましょう、馬部さん」

馬部は新郎新婦に会釈して、るい子について行った。

「ユキちゃんは、どうしたんだい?」

新郎新婦が人混みで見えなくなったころ、馬部はるい子に尋ねた。

「教会に入って新郎新婦の姿が見えたら、すぐにどこかに行っちゃったわ。赤ん坊がぐずりだしたんじゃないかしら?」

「そう……」

何かを忘れている。

馬部は魚の小骨が喉に引っかかったような思いを味わっていた。



・偶然お会い:言うまでもないが、デュークとみちるのキスシーンを見たときに牛尾と会ったときのことである。



●14:00 宮益坂教会

2時ちょうどに、結婚式は始まった。

聖壇に向かって右側に新郎側の参列者が、左側に新婦側の参列者が座っていた。

馬部とるい子は新婦側の参列者に混じって、式の主役の登場を待った。



白峰に付き添われた陽平が、緊張の面持ちで会堂右手の通路からゆっくり入場した。

聖壇前に到着した陽平は会堂内を見渡して、ギョッとしたような表情を浮かべた。

「わあ……!」

「きれい……!」

同様に、会堂中の参列者から驚きの声を挙げた。

ブーケを持った花嫁が、父親に手を引かれてバージンロードを進んできたのだ。

「…………」

馬部は、隣に座ったるい子が少女の目に戻っていることに気が付いた。

「るい……」

声を掛けようとして、馬部はすんでの所で思いとどまった。

るい子の心は、既に花嫁の元へ飛んでいる。

以前、みちるに聞いた言葉を思い出す。

『女は歳を取っても、結婚しても、花嫁に憧れるものなのよ』

当時の馬部はそんなものかと思っただけだったが、るい子を目の前にした今ならそれが理解できる。

女は、いつでも花嫁なのだ。

馬部が再び花嫁を見ると、花嫁はみちるの顔になっていた。

『みちる……』

馬部は山吹に誘拐されたみちるのことを思い出した。

『……もう少し辛抱してくれよ』

みちるが聖壇に近づくと、白いタキシードを着た馬部がその手を取り、並んで牧師の前に立った。

馬部はみちるのことを案じて、溜め息を吐いた。



●14:10 宮益坂教会

オルガンの賛美歌唱和、牧師のありがたい講話なども無事終わり、式は夫婦誓約式になっていた。

「いよいよクライマックスよ」

るい子が誰に聞かせる風でもなく、ウットリした顔で呟いた。

これに同意すれば婚姻は成立し、結婚した二人は牧師と参列者に祝福されながら新しい人生の第一歩を踏み出すことになる。

「飛沢陽平、あなたは秋葉美奈子をめとり、紙の定めに従って婚姻を結ぼうとしています。あなたはその健やかなるときも、病めるときも、つねにこれを愛し、これを救い、これを慰め、これを助け、その命の限り固く節操を守ることを誓いますか」

「はい、誓いま……」

「いっちゃダメよ、陽平! そんな結婚、絶対にしちゃダメ!」

突如、叫び声が静かな会堂を切り裂いた。

「ユキちゃん……!」

叫び声の主は、新郎側の席に座っていたユキだった。間髪入れず、会堂の入り口が大きな音と共に開かれた。

「待って下さい!」

赤い服の女が、会堂に走り込んできた。

「その結婚、どうか待って下さい! 私のお腹には飛沢君の赤ちゃんがいるんです!」

馬部は乱入女の台詞につられて、陽平の方を見た。陽平は三次に追い詰められたときの馬部の顔になっていた。

「ちょっと待ちなさいよ! 今ワタシが陽平を助けようとしてるんだから邪魔しないで!」

「ユ……ユキさん? 優作君も……どうして?」

「それは、こっちが訊きたいよ」

馬部は、突然巻き起こったおかしな乱入劇に、頭の中が真っ白になっていた。

「るい子さん?」

るい子も、ただポーッとユキと乱入女を見つめているだけだった。

「どうしてじゃないわよ。アナタまだそんなウソ続ける気なの?」

「ウソなんかじゃありません! 私は本当に……!」

「いいからアナタは引っ込んでて! 陽平の子供はね……この優作だけよ!」

ユキが優作を高々と抱え上げた。

会堂内が騒然となった。

陽平は目の前の女同士の戦いを目の当たりにして、顔色を土気色にして固まっている。

「あ……そうだ。優作君の父親の名前がヨウヘイだっけ!」

今の今まで忘れていたが、馬部は確かに昨日、ユキから陽平の話を聞いた。ユキが真剣に愛し合っていると話していた優作の父親が陽平だった。

陽平の浮気性を心配していた馬部は、ユキに陽平を信じるように言ったのだ。

その結果がこれだとしたら――余りに悲しすぎる。

少しの間だが、馬部はユキの性格を見抜いていた。

ユキは陽平の浮気癖を嫌と言うほど知っていた。多分、普段なら姉御肌のユキは「私が陽平を他の女から守ってやらないと」ぐらいのことを考えていたはずなのだ。

「それが、無責任に陽平を信じろなんてボクが言ったせいで――」

ユキがこの結婚式をぶち壊そうと思うまでに思い詰めたとしたら――それは馬部の責任だ。

「これは、マズ……あっ!」

馬部が陽平の方を見ると白峰が顔を紅潮させて、席から立ち上がっていた。

「こっちの方がマズい!」

馬部は混乱状態の参列者席をすり抜けて、白峰の側に駆け寄った。

「小娘……」

白峰が、怒りを押し殺して呟いた。

その視線が睨み殺さんばかりにユキと乱入女を射抜いていたが、しかし二人はそれに気付くこともなく互いに自分の正当性を証明し合っていた。

「白峰さん! 落ち着いて下さい」

「……引っ込んでいろ。馬部」

矢のような視線が馬部に向いた。その迫力は、不動明王もかくやと思えるほどだった。

「い、いえ。引っ込みません……えいっ!」

「こ、こらっ。馬部!」

ドモりながら、馬部は白峰に抱きついた。

白峰は年齢を感じさせない力で、馬部を振り解こうとした。

「落ち着いて……暴れないで下さい。るい子さんのためにも!」

馬部が白峰の耳元でそう囁くと、白峰がピタリと動きを止めた。

「……知っていたのか?」

「は、はい」

「誰に聞いた?」

「刑事の鯨井さんに。心配しておられました……あと色々状況証拠がありまして」

「そうか……」

白峰は再び椅子に座り、万感の思いを込めて馬部を見た。

「ウソいわないで!」

「ウソじゃありません!」

会堂の中では、ユキ、乱入女に花嫁までが加わって、空しい言い合いを続けていた。

しかし馬部と白峰の間には、その言葉は届いていなかった。

白峰が口を開いた。

「るい子はこのことを……?」

「いえ、ご存じないと思います。まだ仰っておられないんですよね?」

白峰は一旦言葉を切り、ゴクリと唾を飲んだ。そっと腕を紋付きの中に入れる。

最後の問いをする覚悟ができたらしい。

「馬部よ……」

白峰は重々しく口を開いた。

「……牛尾は、このことを知っておるのか?」

馬部は、これ以上ないほどの真摯な表情で答えた。

「この話は、牛尾さんが鯨井さんにお聞きになったことです」

「……!」

白峰は、顔色をなくしてうなだれた。

「飛沢君! 本当のことを言って上げて下さい!」

「陽平! はっきりいってやって!」

「陽平クン!」

気が付くと、ユキと乱入女が花嫁と一緒に陽平に詰め寄っていた。



・牧師:宮前忍。

・赤い服の女:倉科亜美。不幸そうな女。振ったら絶対後ろから包丁で刺される。

・るい子さんのためにも!:白峰の病気の伏線3

・鯨井:実は白峰とは長い付き合い。最近白峰が痩せてきたので心配していた。



●14:20 宮益坂教会

「ウソ、なんだ……」

「ウソ、なのだ……」

優作が泣き出した。

期せず、陽平と白峰の声がシンクロした。

「そうよ、この人たちは大うそつき……」

「私、ウソなんて……」

「陽平、この人たちのウソ……」

陽平がぽつりと言った「ウソ」と言う単語には三人娘が激しく反応するが白峰の言った「ウソ」には馬部は反応しなかった。

いや、できなかったのだ。

白峰の言葉は、それまでの白峰の人生を背負って発せられたものだった。軽々しく言葉を掛けられるほど、人生は軽くない。

「妙なことに巻き込んで悪かった。馬部……」

「……白峰さん、お嬢さんが」

短い馬部の言葉に、白峰がハッとして参列者席を見た。参列者席の中に、るい子が立ち上がっていた。

「お父さま。どうなされたんです?」

るい子が白峰の元へ駆け寄る。

「るい子……馬部君を巻き込むのは、もうやめたよ」

「そんな……なぜですか、お父さま!」

黙り込むしかない白峰を見て、馬部が助け船を出す。

「るい子さん。白峰さんは……」

「馬部さんは黙っていて下さい」

静かな迫力。るい子は白峰忠道の娘なのだ。

「最低……!」

聖壇の方で、二発頬を張る音が聞こえた。

見れば、乱入女とユキが教会から走り去っていた。

「ユキちゃん……!」

「るい子。その話は後回しだ」

「白峰さん!」

馬部が制止しようとするが、白峰はやんわりその手をどけた。

「心配するな。手荒なことはせん」

白峰が立ち上がった。

「小僧……!」

陽平が、ビクリと白峰の方を向いた。

「こんな屈辱は初めてだ……」

「あわわわわ」

陽平がオロオロ後ずさる。

「この白峰によくも恥かかせてくれたな。いや……ワシより美奈子のメンツはどうしてくれる! 貴様、たとえ美奈子が許しても、ワシが許さねえ……!」

「うわああああッ!」

陽平が教会の出入り口に向かって逃げ出した。

「待ちやがれ!」

「陽平クン!」

白峰と美奈子が同時に叫んだ。

「その小僧、捕まえろ! 生かしちゃおけねえ!」

白峰が警備の若い衆に叫ぶ。

陽平は訳の分からない叫び声を挙げて、その間隙を縫って走り去った。

「……陽平クン!」

「いかん、美奈子!」

白峰の声を無視して、ウエディングドレス姿の美奈子が、陽平を追って教会から走り出た。



●14:30 宮益坂教会

教会の中は、騒然となっていた。

結婚式に花婿の子どもがいる女性が二人もも名乗り出たばかりか、花婿、花嫁までが逃げ出したのだ。

騒ぐなと言う方に無理があるだろう。

「お父さま、どうするの?」

るい子が、白峰の横に並ぶ。

「こうなったのも、ワシの責任だ。ワシが、あんな小僧なんぞを信用したばかりに、美奈子や秋葉に恥をかかせることになってしまった」

「お父さま」

「けじめをつける」

「……ま、待って下さい」

馬部が、土下座でもしかねない白峰を制止した。

「そんなことしたら、せっかくの結婚式が台無しになります」

「もう台無しになっておる」

陽平の愛情表現に何かまずいところがあったのは確かだろう。それが、こうした最悪の形で現れてしまったのだ。

しかし、少なくともユキは陽平を真剣に愛していたはずだ。

馬部は、昨日会ったときのユキの表情を思い出していた。

陽平もユキを真剣に愛すればこそ優作をもうけたのだろうし、それは乱入女にしても同じだろう。

ならば彼らにtake2はないのだろうか。

まだ彼らは若い。やり直しの機会を与えれば、巧くやっていく道を見付けることが出来るのではないだろうか。

「白峰さん。ここはボクに任せて下さい」

「何?」

白峰が、ギロリと馬部を見た。

「何とか、この場を納めてみせます」

馬部は聖壇の前に立つと大きく息を吸い込んで、腹を膨らませた。

「皆さん、お静かに!!」

牧師を背にして馬部が叫ぶと会堂内で騒いでいた人々が口を閉じ、一斉に馬部の方を見た。

「ここは静粛であるべき神の殿堂です。皆さん、元の席にお戻り下さい!」

今まで騒いでいた参列者が、馬部の指示に従って元の席に戻っていく。全員が座ったところで、馬部は再び口を開いた。

「皆さん、大変驚かれたことと思います。でもご安心下さい。これらは、すべて予定通りのことなのです」

「……!」

馬部の言葉を理解できないとでも言うように参列者の表情は固まった。

「参列者の中には、新郎新婦が若すぎるからということで、結婚を渋っていらっしゃる方もいるそうですね。これは、そう言う方に向けたイベントなのです」

「イベント……?」

花嫁の父が何か言いたそうにしたが、白峰が目だけでそれを黙らせた。

「人の心は変わりやすいものです。式の前には新郎を祝福してらした皆さんも、今はどうです?」

参列者は、何も言わず馬部を見ていた。

反応に困っているのだろう。

「『式の最後に新郎新婦が喧嘩別れする芝居を打って、余計な心配している人をドッキリさせてやろう』ということです。これは、仲人の白峰さんと牧師様にだけ打ち明けられていたことだそうです」

「……!」

白峰の方を見ると、苦々しい顔の白峰が馬部を睨んでいた。

「白峰さん」

「……さよう。あれは芝居であった。この白峰も聞いておる」

白峰が牧師に視線をやると、牧師もウンウン頷いた。

「ここに、新郎新婦からのお手紙を預かっています」

相変わらずシーンとしている参列者席に向かって馬部が一枚のメモ用紙を取り出した。

それは昨日白峰から渡された、事務所の電話番号を書いたメモ用紙だったのだが、馬部はそれを見ながら話した。

「皆さん。この手紙が読まれるころは、会場は大騒ぎになった後だと思います。お騒がせしたことについては、全く申し訳なく思っています。でも、僕たちは若くても、真剣に愛し合っているということを皆さんに分かって頂きたかったのです。式で騒ぎを起こした女性二人は、白峰さんに手配していただいた役者さんです。真に迫った演技をしてくれることと思います……」

馬部は新郎の両親をチラリと見たが、新郎側の席最前列で気絶したまま、起きる気配はなかった。ユキの身元がバレる心配はないようだ。

「……最後に、この計画に協力して下さった白峰さん、及び牧師様にお礼を申し上げると共に、参列者のみなさまに、これからの私たちを見守っていただきますようお願いします。

              飛沢陽平」

馬部が手紙を読み終わると同時に、白峰が大声で笑い出した。

「はっはっは。さすが飛沢君だ! 今の若いモンは、ユーモアが効いておる!」

白峰が拍手をすると、それにつられるように参列者席からも拍手が湧いた。

「…………」

花嫁の父が、何とも言えない顔で拍手をしていた。



「巧くいくものね……」

白峰が豪快に笑い飛ばしてくれたお陰で、参列者は浮かない顔ながらも先の騒ぎをイベントと了解してくれた。その白峰は教会の片隅で、なにやら組員に指示を出している。

参列者が消えた教会で、るい子と馬部は話していた。

「人間は、たまに『騙されたい』ときがあるんですよ……分かってるんでしょう」

馬部の言葉に、るい子はプイと顔を背けた。

「分からないわ。そんなの」

「そうですか……あっ」

馬部の携帯が鳴った。

「ちょっと、失礼します」

馬部は控え室に移動して、携帯の通話スイッチを入れた。

「馬部甚太郎か?」

電話の相手は山吹だった。

「山吹……お前……」

「やっぱり、お前は牛尾じゃなかったんだな……変だと思ったぜ」

「何の用だ? 何故、そのことを知っている?」

「決まってんだろ。ケジメつけるんだよ。今すぐ、緑山学院の体育倉庫に一人で来い」

山吹は静かな口調で言った。

「牛尾から聞いてんだろ? お前のバシタがどうなってもいいのか?」

「貴様……」

捕まったみちるを想像して、馬部は体中がカッと熱くなった。

「山吹、慌てるな。地獄に行くには、まだ早いぜ」

馬部は必死に考えていた。牛尾は山吹と会う場所が変わったことを知らないのだ。何とか牛尾に連絡を取らなくては……。

「おっと。時間稼ぎして、牛尾に頼ろうってった無駄だぜ。今、声を聞かせてやる」

「声?」

馬部が携帯を耳に当てて待っていると、しばらくゴソゴソした後に聞き慣れた声が聞こえた。

「馬部。すまねえ」

それは牛尾の声だった。

「う、牛尾さん。どうして!」

「罠に填められちまった……面目ねえぜ」

「そんな……待って下さい!」

牛尾が捕まったことで、馬部はすっかりパニックに陥っていた。

「ボク一人でどうしろって言うんですか! 牛尾さん!! ボクたちは、二人で一つじゃないんですか?!」

「馬部……」

牛尾は怪我でもしてるのか、苦しそうな声を振り絞った。

「焦るな……チャンスを待つんだ……俺たちは二人で一つだ」

「お喋りはそれまでだ」

再び山吹の声になった。

「バシタの命も、牛尾の命もお前が握ってるんだぜ」

馬部は、ゴクリと唾を飲み込んだ。

「忘れんな」

ピッと音がして、電話が切れた。



馬部は、頭を抱えながら会堂に戻った。

理由は分からないが、既に牛尾は山吹に捕まっているらしい。

一人でみちると牛尾の二人を取り戻すのは、至難のことと思われた。

「あら、お父様……?」

「む」

馬部が会堂に戻ると、白峰が学生らしい若い男と向き合っていた。るい子が白峰に声を掛けると、若者を睨んでいた白峰の表情が緩んだ。

「お父さま。こちら、お知り合い?」

馬部はるい子と共に白峰の方に近づいた。

こうなったら、白峰に頼って山吹を……。

いや、駄目だ。

馬部は、その考えを頭から追い出した。

山吹は一人で来いと言った。

山吹のようなタイプは、周到に用意をしてから宣戦布告をするだろうし、白峰に助けを求めるのは得策ではないだろう。

山吹と一対一でケリを付けるのか……。

馬部は、全身から冷や汗が吹き出るのを感じた。

「あ、ああ。ちょっとした友人でね」

白峰の声は少しうわずっていた。

「まあ、お父さまの」

「キン……イヤ、金田一君、紹介しよう。娘のるい子だ」

「あ……」

若者はるい子のことを知っていたようだ。

「はじめまして、いつも父がお世話になっております」

「お……お噂はかねがね」

るい子がそつなく挨拶して、隣の馬部を紹介する。

「彼、馬部甚太郎さん。フィアンセなの」

「う、馬部です。いや、フィアンセというのは……マダその……」

牛尾が捕まった途端、馬部は急に弱気になった。このままヤクザの親分にされるのは御免だった。

「ねえ、あなた、美奈子ちゃんたちも凝ったイベントをやるわね私たちのときもこのくらい派手にやりたいわ」

「いや……あの……」

正直言って、今はここでこんな会話を交わしている場合ではない。今すぐ行動を起こさないと、みちると牛尾の命に関わるのだ。

「おやじさん。奴が、スクランブル交差点で……」

「お父さま、そろそろ、美奈子ちゃんたちを追いかけないと……」

「ああ、そうだな。それじゃあ金田一君……」

何かマズいことでもあるのか、白峰はるい子と馬部の背中を押して、教会を後にした。



・緑山学院の体育倉庫:最初に三次が隠れ家に選んでいたところ。最終決戦というのも意味深で良い。

・バシタ:ヤクザの情婦のこと。下場=台所が語源か?

・学生らしい若い男:篠田正志。正志シナリオと陽平シナリオでは明らかにこの辺の時間軸がズレてるので、このシナリオでは陽平シナリオに合わせてある。



●14:40 宮益坂教会前

白峰は組員が回してきたベンツに乗って、すぐにどこかに行ってしまった。

「じ、じゃあるい子さん。ボクはこっちを捜しますので……」

馬部が緑山学院の方に向かって走りだそうとすると、るい子が呼び止めた。

「馬部さん! 美奈子ちゃんもユキさんも、渋谷駅の方に行ったらしいわよ」

渋谷駅なら反対方向だ。

馬部は足を止め、るい子の側に歩み寄った。

「な、何よ」

改まったような表情の馬部に、るい子はちょっと顔を赤くした。

「るい子さん。ボクは、あなたに謝らなければいけません」

馬部は思いきった決断をした。

山吹と向き合えば、馬部は殺されるかもしれない。

馬部は嘘を吐いたまま死ぬのは、厭だった。

「え?」

「ボクはこの2日間、あなたのフィアンセになるような態度をとり続けていましたが、ボクはあなたと結婚する意志がありません」

「ち、ちょっと、何言ってんの……」

るい子は、困惑の表情を浮かべた。

死ぬかもしれないと思ったら、馬部がずっと言えなかったことが自然に言えた。

「ボクには好きな人がいるんです!」

「……!」

るい子が絶句する。馬部は続けた。

「あなたたちがあなたたちなりの思惑でボクを利用していたのは分かっています。でもボクはハッキリさせておきたいんです」

るい子はちょっと目を瞑り、溜め息を吐いた。

「……いつから、気付いてたの?」

「ハッキリ分かったのは、今朝のことです。ボクが白峰組を継ぐと言ったら、あなたは僅かに困った表情を見せた。それが決定打でした……といっても、よく考えれば最初から話がおかしかったんですがね」

馬部は一旦言葉を切った。

るい子は、唇を噛んで俯いている。

「組員でも何でもないボクを跡継ぎにしようとした。これがまず変です。それにあなたと結婚すること自体が組を継ぐことであるかのようにボクに吹き込んだ……これも妙です。それにあなたはボクと牛尾さんに面識があることを知っていた。これは変ではありませんが、有力な傍証です」

「そうね……」

るい子は、顔を上げた。僅かに目が潤んでいる。

「ボクも、ヤクザのことを少し勉強しました。組長が生きているうちに跡目を譲る場合、通常は組員の中から有力な者を選んで次期組長とします。これは、組織が大きくなればなるほど堅守されます。何故なら後継者の選択ミスは組織の分裂を招くからです。その実例が、数年前にありました」

数年前、高一抗争と呼ばれた暴力団同士の抗争が勃発したことがあった。それの原因が、有力後継者の病死による跡目争いであったことは記憶に新しい。

一賀会は高口組から分裂した組であり、抗争の結果、高口組、一賀会双方会わせて死者25人、負傷者70人、逮捕者506人という史上最悪の大抗争となったのである。

「それからあなたと結婚することは、組の跡を継ぐこととイコールではありません。組長の実子であっても跡目を継げないヤクザは幾らでもいますし……なにより、ヤクザは自分の実子をヤクザにだけはしたがらないそうです。娘なら尚更でしょう。自分がした苦労を、実子にさせるのは忍びないというわけです」

馬部は続けた。

「それでも、あなたはボクに跡継ぎになれと言った。何のために? それは、本気でボクに後を継いで欲しかったからではありません。ボクが牛尾さんに助けを求めることを期待してのことだったのです」

「……その通りよ」

るい子は言った。

「あなたが、牛尾さんに助けを求めて、牛尾さんに組に復帰して欲しかったの。山吹を失った今、白峰組を継げるのは牛尾さんしかいなかったのよ」

山吹の独走態勢を許したツケがそれだった。

「でも組の方から、堅気になった牛尾さんに頭を下げるわけにはいかなかった。『男は見栄だ。メンツだ。それをなくしたら、男じゃねえ』……牛尾さんの口癖だったそうですね」

馬部の言葉に、るい子が寂しく笑った。

「それはお父さまの口癖でもあるのよ。馬部さん……妙なことに巻き込んでしまって、ごめんなさい」

るい子は、馬部に頭を下げた。

「いいんですよ、るい子さん。ただ、きっちりケジメつけとかないと」

「あなた、ヤクザに向いてるわ。馬部さん」

るい子は、目に涙をためて笑っていた。

「そういえば馬部さん……私の方から質問していい? さっき、お父さまが急に、あなたを巻き込むのをやめると言い出したのは何故?」

馬部は口ごもった。これは下手に話せない。

「そ、それは……」

「それは、ワシから話そう」

「し、白峰さん!」

馬部とるい子のそばに黒ベンツが止まり、白峰が降りてきた。

「馬部君。そう言うことだ。ここから先は、親子の問題だ。それに、君には急がなければいかん理由があるんじゃないのか?」

「ハ、ハイ……」

そうだ。山吹が馬部を待っているのだ。

「じ、じゃあ……失礼します」

「ああ……牛尾によろしくな」

馬部は、緑山学院に向かって走り出した。



・男は見栄だ。メンツだ。それをなくしたら、男じゃねえ:牛尾の発言の中でも白眉。よって再登場。

街 ネクストストーリー5

2014年05月02日 17時00分00秒 | 街 サウンドノベル
●16:00 組事務所組長室

白峰組事務所の組長室は、和風の造りになっている私邸とは対照的に、カーペットが敷き詰められるなど洋風の造りになっていた。

棚にはブランデーのボトルが並び、部屋の隅にはゴルフセットが置いてあった。

酒に影響があるのか、窓には厳重にカーテンが吊られていた。

「では組長。オレは若いのを連れて、山吹を捜しに行きます」

「ウム」

ソファに身を沈めた白峰が、大松に頷いた。

白峰の向かいのソファに座った馬部は、生きた心地もしないほどに体を硬くしていた。

「馬部君……」

「ハイッ!」

大松が退室したのを見計らって白峰が話し始めると、馬部はビシッと背筋を伸ばして直立不動の姿勢をとった。

ビックリしたのは白峰である。

「なぜ立ち上がるんだね? まあ緊張せずに。何か飲むかね? 煙草は?」

白峰は慣れた動きで立ち上がって、棚から未開封のブランデーとグラス2杯を取り出した。

「い、いえ。結構ですッ! ボク、お酒も煙草も……駄目なんです」

馬部が両手を千切れんばかりに振った。

「そうかね? なら失礼だが、一人でやらせてもらう。医者の勧告で煙草は止めたが、酒は止められん」

白峰は黒いボトルのブランデーの封を切り、静かにグラスに注いだ。

「それに、飲まずにはおれんことになっておってな……」

ゴクリ。

馬部はその一言で、ますます自分が追い詰められていることを知った。

白峰は、思い詰めた表情で口を開いた。



・医者の勧告:白峰の病気の伏線1



●16:10 組事務所組長室

「実は、あれから色々あってな……何としても、近日中にるい子の結婚を決めなくてはならなくなった」

死刑宣告にも等しい白峰のその一言に、馬部は愕然とした。

「実は明日、親戚の結婚式が宮前坂の方で開かれることになった。ワシも出席するが、君とるい子もそれに出席してみて、良いようなら君達の場合もそこに決めようと思う」

「明日!」

そんなこと、急に言われても困る。

「何か不都合があるのかね?」

そ、そうだ。ボクには不都合があるんだ。

何でもいいから不都合を考えないと、ノリノリで結婚させられてしまうだろう。

結婚式……結婚式……馬部は、思いついたものを適当に言って行った。

「そ、そうだ。礼服がありませんッ! 実はボク、礼服を持ってないんです。礼服がないと、結婚式には出られませんよね」

「レンタルすればよかろう」

白峰は馬部の反撃を事もなげに弾き返した。

「じ、じゃあ、お祝いのお金がありません! 貧乏役者なもので、まとまったお金を急に用意するのは、無理です。ハハハ。これじゃ結婚式には出られません」

「るい子と連名にすればいい。婚約しているのだから、特に不自然ではないだろう」

「こ、婚約!」

馬部はいつの間にか、るい子と婚約させられてしまっていたらしい。あたふたと慌てる馬部を尻目に、扉がノックされた。



・色々あってな:七曜会手先、金曜日こと篠田正志に脅されていた。

・親戚:秋葉美奈子のこと。

・レンタル:便利な世の中になったもんです……。最近ではペットのレンタルもあるそうな。



●16:20 組事務所組長室

「るい子です」

「入れ」

るい子は扉を開けた。

「あ……」

馬部は、自分の置かれた状況を忘れ、一瞬るい子にみとれてしまった。るい子は上品なドレスに身を包んでいたのだ。

「るい子さん。その格好……」

「明日、着る予定のパーティドレスよ。どう? 馬部さん」

「き、きれいだ。本当に……」

思わず出た馬部の本心に、るい子はニッコリ笑った。

「ありがとう。急いで仕上げさせた甲斐があったわ」

事実、るい子は薫るような色気を発散させていた。

その色気が下品にならず、神々しささえ感じさせるのはドレスのデザインがるい子にマッチしているせいだろうか。

「明日の結婚式の件は、もう……?」

「話した」

白峰も手を袖にして、るい子の盛装を見て目を細めているが……どこか寂しそうに見えるのは気のせいだろうか?

「馬部さん、そういうことよ。明日、私と一緒に結婚式に出席して下さるわね?」

馬部は言葉に詰まった。時間稼ぎの言い訳も、咄嗟には出てこない。

「…………」

馬部が無言で固まっていると、るい子は沈黙を了解ととったらしく、顔の前で手を組み合わせて破顔した。

「よかった!」

「るい子。馬部君は礼服を持っていないそうだ」

「じゃあ、まずそれをなんとかしなくちゃ。馬部さん。こっちに来て」

「え……いや、まだ出席するとは……」

「こっちよ!」

馬部は、るい子に引っ張られて組長室を後にした。



●16:30 白峰組事務所

「ここよ」

るい子が案内したのは、事務所2階の会議室の様な部屋だった。

「この中に何着か礼服が入っているわ。仕事柄、急に正装が必要になることもあるから、常に何着か置いてあるのよ」

るい子が作りつけの物入れを指して、そう言った。

「急に正装が必要になること?」

「そう。お葬式とかね」

馬部が顔色を蒼白くして礼服を見つめていると、部屋の扉をノックして若い男が入ってきた。

「あっ、シーハー。こっちよ」

「シーハー?」

馬部はその名前に聞き覚えがあった。

確かさっき大松が言っていた絵梨ちゃんの兄の白峰組員がそういう名前だった。

「シーハーって君だったのか……」

それは大松が指を詰めたときに一緒にいた美少年風の男だった。

「…………」

シーハーは無言で馬部の前に立つと、無表情のままポケットから何かを取り出した。

「わっ?!」

思わず馬部は身を竦めた。

「服のことは、シーハーが見てくれるわ。シーハーは、組で一番のお洒落さんなのよ。シーハー、こちらは馬部さん。お父さんのお客さんよ」

馬部が目を開けると、シーハーはメジャーを持って立っていた。

「な、何だ。てっきりナイフでも出すんだと……」

「じゃね、馬部さん。また後で」

るい子が扉から姿を消すと、馬部はシーハーと二人きりで部屋に取り残された。

「よ……よろしく。シーハー君」

「……上着を脱いで下さい」

シーハーは馬部の言葉を無視した。

「ハ、ハイ」

馬部が大人しく上着を脱ぐと、シーハーが膝を突いて馬部のウエストに手を回した。

「…………」

ウエストを測り終えたシーハーは立ち上がって物入れの中を物色する。どうやら、馬部に合う礼服を捜してくれているらしい。

その間数十秒、部屋の中には重い沈黙が降りていた。

「シ、シーハー君。さっき病院で妹さんに会ったよ。可愛い妹さんだね」

沈黙に耐えきれなくなった馬部が、物入れを覗いているシーハーに話しかけた。

「…………」

また部屋の中に沈黙が降りた。シーハーは、物入れから何着かデザインの違う服を選び出した。

「君と絵梨ちゃんはよく似ているね。特に……」

無表情なところ、と言いかけて、馬部は思いとどまった。

もう少し良い言い方を考えないと、シーハーの機嫌を損ねては何をされるか分からないのだ。

「……落ち着きのあるところとか」

シーハーはチラリと馬部を見たが、無言のままだった。シーハーの場合、無言の圧力が一番恐い。馬部は自分を安心させるように更なる質問を試みた。

「絵梨ちゃんは、何で入院しているの? 盲腸か何か?」

「これを着てみて下さい」

物入れを覗いていたシーハーが馬部の方に振り向いた。シーハーが選んだ服は、割と大きめの地味なスーツだった。

馬部がスーツを受け取るとシーハーは無言で出入り口の方に歩き、馬部に背中を向けて立った。恐らく、見ていると着替えにくいという配慮だろう。

「あ……ありがとう」

馬部は、シーハーに控え目に礼を言った。



・事務所2階:暴力団の事務所は通常、2階以上に設けるのが常識。1階ではトラックの特攻をくらう可能性があるため。

・シーハー:真喜志絵梨の兄。

・お洒落さん:死語。実はるり子は結構な歳なのかも知れない。

・盲腸:一般に盲腸と言われている病気は虫垂炎。本当に盲腸を切ったら大変だ。



●16:40 白峰組事務所

数秒の後。

馬部がシャツのボタンを外していると、唐突にシーハーが話し始めた。

「寝ていると、人が死ぬ夢を見るんだそうです」

「え?」

唐突なシーハーの言葉に、馬部は面食らったような声を挙げた。

「絵梨のことです。お聞きになったでしょう」

「ああ……」

馬部はシーハーに全く話すつもりがないのかと考えていたが、どうやらそうでもないらしい。

「昔から見えます。夢を見たら、その人は確実に死にます」

どうも尋常な症状ではないらしい。

しかし無言で立つシーハーは恐すぎる。

この場は話題を確保する方がまだマシだろうと馬部は考えた。

「でも、夢なんだろう? 本当に当たるとは思えないな」

「今まで外れたことはありません」

シーハーはキッパリ言い切った。

「そ、そうなのかい?」

馬部は口ではそう言ったが、正直なところ信じていなかった。

ドラマやバラエティーでは超能力はよく見かけるが、現実世界でそんな話があるわけがない。テレビの中のことは、あくまでフィクションなのだ。

しかしシーハーの口振りからすると、シーハーはその能力の存在に疑いを持っていないよう思える。

馬部は今まで着ていたシャツを脱ぐと、シーハーが選んでくれたシャツに袖を通した。

何となく危ない方向に話が行きそうなので、馬部は別のことを訊いてみようとシャツのボタンを留めながら考えた。しかし意外なことに、今度はシーハーの方が口を開いた。

「本当にるい子お嬢さんと結婚するつもりですか?」

「…………」

いきなり鋭い質問だ。

馬部が口ごもっていると、シーハーが続けて訊いた。

「組長はあなたを白峰組の跡取りにとお考えのようですが、それを受けるつもりがあるのですか?」

シーハーの口調は丁寧だったが、明らかに馬部を責める意志が感じられた。

「君はその案に反対のようだね」

シーハーは珍しく声を荒げて答えた。

「当たり前だ。何処の馬の骨とも知れない男と盃が交わせるかッ!」

「盃……そうか」

そういえばそうだ。

今まで自分のことにしか頭が回っていなかったから気付かなかったが、るい子と結婚して白峰組を継ぐと言うことは一万人はいると言われる白峰組系暴力団員全員の親になるということである。

確かに如何に白峰の指名と言えど、何処の馬の骨とも分からない馬部の盃を彼らが拒否するということはありうることだった。

下手すれば組の分裂、幹部クラスの反乱、更に言えば分裂した組員同士、正統を巡っての抗争にも発展しかねない深刻な問題なのだ。

それだけに白峰も慎重な対応をせざるを得ないのか、馬部のことは未だ正式には発表されていないらしい。さっきもるい子は馬部のことを「お父さんのお客さん」と紹介したことからもそれは分かる。

しかし逆に言えば、それは馬部にとってはチャンスだ。正式発表されてしまえば馬部には逃げ道はなくなるが、その前にこの話をなかったことにできれば、何とか逃げられる。そう考えたとき、馬部の脳裏にピンと閃くものがあった。

ひょっとして白峰組員の多くが反対していれば、白峰も馬部とるい子の結婚を考え直してくれるのではないだろうか。

組員の態度は、どうなのだろう? これはシーハーに訊けば分かるだろうか?

シャツを着終えた馬部はズボンに足を通した。



・人が死ぬ夢:翌日、絵梨は兄が死ぬ夢を見て、何とかそれを阻止しようと病院を抜け出すのであった……。

・外れたことはありません:通常、こう言ってる奴は記憶を勝手に改竄していることが多い。予言者、政治家など。こういう奴は言ったことをすべて記録にとっておけば簡単に論破できる。



●16:50 白峰組事務所

「シ、シーハー君。他の組員の反応は、どうなの? やっぱり君と同じように……」

シーハーは元の静かな声に戻って言った。

「大半の組員は、突然あなたが登場したことに戸惑っています。嬉々として受け入れているのは、あなたを“暴れ牛”と勘違いしている大松ぐらいのものですね」

確かに大松は組中が“暴れ牛”の復帰を望んでいるようなことを言っていた。あれは大松だけがそう思っていたと言うことか。

組員がそういう状況なら、馬部にも望みがある。みちるのことを打ち明けてみるか……?

馬部は振り返って、シーハーの向こうの扉に開く気配がないか確認してから、徐に口を開いた。

「シーハー君。落ち着いて聞いて欲しいんだけど、実はボクは、るい子さんと結婚するつもりはないんだ」

「!」

馬部にはシーハーの後ろ姿しか見えなかったが、明らかにシーハーの雰囲気が変わったのが分かった。

シーハーは全身から、切れそうに凄惨なオーラを放っていた。

「それは、どういうことですか?」

抑えた声が余計に恐いが、今更取り消すことはできない。こうなったら、勢いをつけて一気に言ってしまうに限る。

「実はボクには好きな人がいるんだ。女優なんだけど、その人と既に婚約しているんだ。だから……」

「なら、何故ここにいるんです?」

シーハーの声がますます静かになり、ゆっくりと振り向いた。

「何故、ここに?」

シーハーは馬部に背を向けるときと同じく、無表情のままだった。

「な、何故って……」

馬部は、表情のない人間の顔がここまで恐いとは思わなかった。

「組長やるい子お嬢さんは、それをご存じなのですか?」

シーハーの問いに、馬部はブルブルと頭を振った。

「……言えなかった……こ、恐くて」

舌が巧く回らない。まるで蛇に睨まれた蛙のようだ。

「できたらッ、き、君たちからも言って欲しいんだ。ボクを跡目につけないでって」

馬部が緊張しながらもそう言うと、シーハーは再び馬部に背を向けた。

「……白峰組舐めんなよ。おっさん」

「ヒッ!」

シーハーが冷たい声でささやいた瞬間、馬部は頭から氷水に放り込まれたように凍り付いた。

「確かに俺たちは、あんたが跡目につくのには反対だ」

馬部は凍り付いたまま動けない。

「……でも組長が目をかけたんだから、あんたにもそれなりのモンがあんだろうよ。親を信頼しなくて、ヤクザやってられるかってんだ」

どうやら、事態はますます悪くなってしまったらしい。

「今の言葉は、聞かなかったことにしておいてやる。さっさと服を着ろ」

「ハ、ハイ」

馬部は超特急で礼服を一通り身に着けた。

シーハーはズボンの裾の長さやベルトの位置をチェックして、何かをメモに書き付けた。

「もう脱いでいいですよ」

シーハーは無表情のシーハーに戻っていた。

しかし、いつまたさっきの氷のような表情に戻るか分からない。礼服をシーハーに渡した馬部は急いで自分の服に着替え、部屋を後にしようとした。

「あんた……早めに手を打った方がいい」

馬部が扉に手を掛けると、馬部が着ていた礼服をハンガーに掛けながらシーハーが言った。

「もし組長やるい子お嬢さんが不愉快な思いをすることがあったら、関東白峰組一万人、あんたを狙うことになる」

「ハ、ハイ」

馬部は、こそこそ部屋から逃げ出した。



・“暴れ牛”と勘違い:大松はまだ勘違いしているらしい。いい加減気の毒。

・親を信頼しなくて、ヤクザやってられるか:理想論。現在ではヤクザも親の器量より組の代紋の力関係で親を選ぶらしい。



●17:00 組事務所組長室

重い足取りで組長室に帰ってみると、組長室には誰もいなかった。

「あれ……?」

さっき白峰がブランデーを飲んでいたグラスは残っているものの、白峰もるい子も姿を消していた。

明日の結婚式のせいか、二人ともかなり忙しいらしい。

「ごくろうさまでした!」

「おかえりはこちら!」

廊下から、威勢のいい声が聞こえてきた。

恐らく事務所に詰めている若い衆だろう。

まさか馬部に向けて言ったわけではないだろうが、そちらに誰かいることだけは確かなようだ。

「そうだ。牛尾さんとの約束が……」

馬部は牛尾との決闘の約束を思い出した。

確か午後六時、ハチ公前の約束だった。

「そろそろここから出たいな」

もちろん、牛尾との決闘のこともあるが、それがなくても暴力団の事務所にはあまり長居したいとは思わない。

馬部はそろそろと、さっき声が聞こえた方に歩を進めた。

事務所に通じているらしい扉を見付け、そっと開けてみる。

「……!」

事務所に詰めていた若い衆が、一斉に馬部の方を見た。

「あ……ハハハ、どうも……」

馬部がヘラヘラ挨拶すると、ヒゲを生やした若い衆が、馬部の方にやってきた。

「あなたを事務所から出すなと、組長の命令です」

慇懃無礼な口調で、ヒゲヤクザが馬部に言った。

「……ハハハ……そうなの……」

馬部は愛想笑いを浮かべながら、来たときと同じようにそろそろ廊下を戻って組長室の扉をパタリと閉めた。

「ふう……」

やはり、山吹の件で戒厳令が掛かっているらしい。馬部は強制的に白峰組に保護されているのだろう。

「でも、早くここから出ないと……」

牛尾との決闘に遅れてしまう。

約束に遅れるだけならまだしも、みちるに逃げたと思われては元も子もなくなるのだ。

「考えないと……」

牛尾は、ソファに座って頭を抱えた。



・誰かいる:篠田正志。1万円恐喝して帰るところ。



●17:20 組事務所組長室

20分が経っていた。

まだ白峰もるい子も帰ってきていない。

馬部は何十通りもの脱出方法を考えたが、成功しそうなものはいくつもなかった。

しかしその数少ない成功しそうな方法も、考えれば考えるほど成功しそうにないように思えてくる。

「ウーン……」

こうなってしまうと、もう何を考えても無駄である。

何をやっても失敗しそうな気がして、同じ思考をグルグル繰り返すしかなくなってしまうのだ。

「駄目だ。何もいい方法が思いつかない」

馬部はヤケっぱちになって、ソファをベッド代わりに寝転んだ。

馬部が何もかも放棄して寝転んだ途端、猛烈な眠気が襲いかかってきた。

「そう言えば、今日は走ってばかりだったな。昨日も殆ど寝てないし……」

馬部は少し休むだけと、目を閉じた。



・少し休むだけ:こう考えているときは、いとも簡単に眠り込んでしまう。反対に寝ようとして目を瞑るとなかなか眠れない。



●17:50 組事務所組長室

「ん、電話………………あっ!」

馬部は、机の上で鳴る電話のベルで目を覚ました。

「……寝ちゃったのか」

馬部は慌てて部屋の壁の時計を見た。

牛尾との約束の時間は、既に10分後に迫っている。

「! ……どうしよう!」

電話のベルは鳴り続けている。馬部は電話を取るべきか否か、一瞬躊躇した。

「取ってみるか……!」

馬部が電話に手を掛けた瞬間、ベルは鳴り止んだ。

「…………」

受話器を耳に当ててみたが、ツーという無機的な音が聞こえるだけだった。

「電話にまでバカにされてる……」

馬部は受話器を置いた。

「誰からだったんだろう? いや、今はそれどころじゃないか……」

馬部は電話を見つめながら、再びこの事務所から脱出する方法を考えた。

「……電話……電話……電話に出んわ……駄目だ!」

馬部は最後の手段として、いっそ警察に電話して保護してもらおうと考え、受話器を手に取った。

「ん……?」

110番を押そうとして、馬部は再度電話機を見た。

白い電話機は、プッシュホンのボタンの横に幾つかの小さなボタンが並んでおり、その横に小さなシールが貼られていた。

「『自宅』……『柏木携帯』『組事務所』『H』……電話番号が登録してあるのか」

電話の上に並んだシールを見て、馬部は何か違和感を感じた。

「『組事務所』? それってここじゃないのか」

しかし、よくよく考えてみれば、謎はすぐに解けた。

さっき電話が鳴ったとき、何度も繰り返しベルが鳴ったにも拘わらず、電話が取られることはなかった。

これが事務所に掛かってきた電話なら、ベルが鳴ってすぐに事務所に詰めている若い衆が電話を取っていたはずだ。

何度も何度もベルが鳴ったということはつまり、事務所の電話は鳴っていなかった。この部屋にだけ別回線が入っているということだ。

「さすがに組長ともなると、秘密の電話が必要なのかな……そうだ!」

馬部は一つ妙案を思いついて受話器を取り、『組事務所』のボタンを押した。

「巧く行ってくれよ……」

やがて電話が取られ、受話器からはドスの利いた男の声が聞こえてきた。

「はい。白峰組事務所です」

それは、さっきのヒゲヤクザの声だった。

馬部は心の中で、カチンコを鳴らした。

「おう。俺だ。牛尾だ」

「う、牛尾さん……」

“暴れ牛”の活躍を知っているのだろう。

ヒゲヤクザの声がうわずっているのが、電話を通しても分かった。

「ご、ご無沙汰しております。何か御用でしょうか」

「おう。実は事務所の組長室で保護されてる馬部って男を俺のところまで連れてきて欲しいんだ」

電話の向こうで、ヒゲヤクザが息を呑む気配があった。

「で、でも、馬部さんは何があっても出すなと組長から言いつかっていまして……」

「その組長に頼まれたんだ。今さっき」

馬部は電話での優位に少し余裕が出て、楽に作り話が出来るようになっていた。

そう言えばここしばらく、作り話づいている。

「話を聞いてないか? 近く“暴れ牛”が白峰組に復帰するって」

「お、大松が言いふらしてましたが……本当だったんですか?」

馬部は、機嫌良くオウと答えた。

「そんでその馬部って男のことを組長によろしく頼まれたわけだ……分かったか?」

「は、はい」

ヒゲヤクザが縮み上がっている様子を想像して、馬部は一人悦に入った。

「……で、馬部さんをどちらにお連れすればよろしいのでしょう?」

「ハチ公前まで頼む。そこで俺も待ってるから……ああ、ベンツで来るんだぞ」

馬部は調子に乗って贅沢な注文を付け、電話を切った。



・『H』:ホスピタルの意味。白峰の病気の伏線2。馬部が実際に『H』に電話してみた方が良かったかも知れない。



●18:00 組事務所組長室

ソファに座ってしばらく待っていると、ヒゲヤクザが蒼白な顔で馬部を迎えに来た。

「う、馬部さま。移動していただきます。どうぞこちらへ」

ヒゲヤクザの口調は無礼が取れ、慇懃極まりないものになっている。

「え、どうしたんですか?組長がボクを事務所から出すなって言ったんじゃなかったんですか?」

馬部の口調は、やや芝居臭いものだったが、ヒゲヤクザはそれには気付かなかったようだ。

「ええ。でも当組の代貸が、あなたを連れてこいと言いまして……どうぞ。こちらへ」

ヒゲヤクザの案内に従って乗ったエレベーターは、地階の駐車場で停まった。

エレベーターのすぐ前に、朝乗ったのとは違うベンツが停まっていた。

「どうぞ。お乗り下さい」

ヒゲヤクザが後部座席のドアを開けて頭を垂れる。馬部が乗り込むと、後部ドアを閉じたヒゲヤクザも運転席に乗り込んだ。

「JR渋谷駅のハチ公口に向かいます」

ヒゲヤクザが言うと、滑るようにベンツは走り出した。



・朝乗ったのとは違うベンツ:来客用。親分同士の間では「飽きたからコレやるわ」とかいってベンツのやり取りがされている……らしい。ホントかどうかは知らない。



●18:10 ハチ公前

「お待たせしました。代貸」

やや約束の時間に遅れたものの、何とか馬部は無事にハチ公前に到着した。

牛尾は馬部を待っている間、足許に何本か煙草の吸い殻を落としていた。

「おう、なんだ? 馬部、お前なんでこいつと一緒に……」

「わーーーっ!」

馬部は慌てて牛尾の口を抑えた。

るい子との結婚を進めたがっているはずの白峰組のヤクザが、みちるを巡る決闘の舞台に馬部を送ってきたのだから、牛尾が仰天するのも無理はなかった。

「余計なことを言わずに……」

馬部はドサクサに紛れ、牛尾の耳元で小さく囁いた。

「お? おう。分かった」

「代貸。ご命令通り、馬部さんをお連れいたしました。後は宜しくお願いしやす」

「??? おう、任せとけ」

「……ご復帰、おめでとうございます」

訳が分からないままに請け負った牛尾に一礼して、ヒゲヤクザはきびすを返した。

「馬部。白峰組の奴らを手なずけちまったのか?」

「い、いや。いろいろあって、こうするしかなかったんです……待たせてしまったようですね」

「いや。俺も少し遅れて来たんだ。ガハハハハ」

「で……どうします、牛尾さん? ここで決闘を始めるのはマズイでしょう」

「いきなり決闘なんて、無粋なまねはよそうや。とにかく、どこか店に入ろうぜ」

「……そうですね」

牛と馬は、連れだって歩き始めた。



●18:30 サーディズクラブ

「……ってことはお前、白峰組をだまくらかして逃げてきたってわけかい」

「ま、まあ。そういうことになりますね」

時間が早いせいか、店内には殆ど客はいなかった。

カウンターに陣取った牛尾と馬部はそれぞれ飲み物を目の前に置いて話していた。

「馬部。お前、役者より詐欺師の方が向いてるんじゃねえか?」

そう言った牛尾の目の前には、ウイスキーが瓶ごと置かれていた。

牛尾はそれをストレートでグラスに手酌して、ガブガブと飲んでいる。

馬部の前にも一応グラスは置かれていたが、酒が全く駄目な馬部はさっきから水ばかり飲みながら、つまみの落花生の皮をむいていた。

「それはひどいな……牛尾さんこそ、綾さんの彼氏を騙しおおせてるんですから……美人局でもする気ですか?」

「逆だよ。女に手、出させなきゃいけないんだよ」

牛尾は機嫌良くガハハと笑うと、クイッと景気良くグラスを煽った。

「……!」

牛尾は急に顔を歪めると、ガーゼを張り付けた右頬を押さえた。

「まだ痛みますか?」

馬部は牛尾が山吹に拳銃で撃たれたことは大松に聞いていたが、ご丁寧にも馬部が転んでつけた傷と同じ場所を牛尾も怪我しているとは、思いもしなかった。

今は、二人ともガーゼを右頬に張り付けている。

「オマケに医者まで同じとはな」

「牛尾さんも鳥居先生に会ったんですね」

シンクロニシティというのは、実際あるものだと二人は感心した。

「浮浪者の格好してたもんで、山吹の正体気付くのが遅れちまったんだ」

牛尾が撃たれた拳銃というのは、三次が持っていた拳銃らしい。

「そう言えば、捕まる前に『なくしちまったんだ』って三次も言ってましたもんね」

もちろん牛尾が撃たれたことは、警察には内緒にしてある。

銃声に駆け付けた白峰組の若い衆と牛尾とで、必死に警官の追求を誤魔化したらしい。

「その後、山吹はどうなったんですか?」

「逃げたよ。今は、どこに潜伏してるのか分からねえ」

牛尾は、言いつつウイスキーをガブガブ飲んでいる。

「牛尾さん。あまり飲み過ぎない方が……」

「なあに、心配ねえ。景気づけよ」

確かに牛尾は顔色一つ変わっていない。

馬部はチビリとウイスキーに口を付けて、慌てて水をガブ飲みした。

「……ボク、牛尾さんが羨ましいです」

「ああ?」

「喧嘩も意志も強くて、お酒も強くて、男らしい生き方ができて……凄いですよね」

「おい、馬部……やめろ」

牛尾がグラスを置いて、馬部を見た。

「それに比べてボクは、昔から喧嘩も意志もお酒も弱くて、決断力もなくて……全然正反対なですよ」

「やめろ。馬部」

牛尾は背を起こし、眉を寄せた。

「同じ顔なのにどうしてこんなに違うんでしょうね。笑っちゃいますよね」

「やめろって言ってんだろ」

牛尾が握り拳でカウンターを叩いた。

突然の怒鳴り声に店内の客は驚いて、一斉に牛尾を見た。

「あ……騒がせてすまねえ。勘弁してくんな」

牛尾が手を立てて店内の客に謝ると、客はぶつぶつ言いながらも、それぞれの世界に戻っていった。

「お前が変なこと言うからだぞ。馬部」

「ホントのことです」

「そうかい……じゃあ今度は俺の言い分を聞いてくれや」

牛尾はボトルとグラスを脇にどけて、馬部に向き直った。

「俺はお前が羨ましいぜ」



・美人局:「つつもたせ」と読む。女が男を誘い、イザ、という時にヤクザが押し入ってきて「人の女房になにしてるんだ」とか言って恐喝する。新聞に「美人局アナ」と書かれていたら、それはつつもたせするアナウンサーではなく局アナの中で美人な人のことである。

・浮浪者:正体みたり外道照身霊波光線。実はこの浮浪者が山吹だったのだ! 因みに馬部が見た浮浪者と同一人物。馬部の後を付けて喫茶シルベールで牛尾を見付け、そこから先は牛尾を尾行していた。



●18:40 サーディズクラブ

馬部が見つめるグラスの中で、氷がカランと音を立てて揺れた。

「え? 今、なんて言ったんですか?」

「お前が羨ましいって言ったのよ。馬部」

馬部が顔を上げ、信じられないような面持ちで牛尾を見た。

馬部の目と、もとより馬部を見ていた牛尾の目とが合った。

「俺は昔から一人だった。貧乏暇なしで親も構っちゃくれねえし、兄弟もいなかった。不満を紛らわせて腕を振るっているうちに、ヤクザになっちまっていた」

牛尾が馬部から視線を外す。目を細めて、遠くを見るような目つきで話を続けた。

「その頃の俺は若造で、腕を振るうことでしか自分の価値を証明できなかった。白峰組に入っても何も変わらなかった。無我夢中で暴れているうちに“暴れ牛”なんてあだ名を付けられちまった……俺が欲しかったのは、そんなモンじゃなかったのにな」

「牛尾さん……」

何かを言いかける馬部を、牛尾は手だけで制した。

「ここは俺の『見せ場』だぜ……口挟むんじゃねえや」

牛尾はウイスキーで乾いた口を湿らせると、再び話し始めた。

「組を辞めたのは、俺の欲しいモンはヤクザやってちゃ手に入らねえって気付いたからさ。総長、組長、代貸、親分、舎弟……ヤクザ社会は、誰かと横に並ぶってことがそうそうないんだ。金太郎飴みたいに、どこを切っても縦割り社会だった。女でも、友達でも、名前なんかどうでもいい。俺は、俺の横に並んでくれる奴が欲しかったんだ」

牛尾の横に座った馬部は、牛尾の目にうっすら涙が浮かんでいるのを、信じられない面持ちで見ていた。

「……今まで自分で気付いていなかったけどな」

牛尾は、自分で自分の言葉にビックリしているらしかった。

「3日前。ひょんなことからお前と入れ替わってロケ隊に紛れ混じまった。何の興味もない世界だったが、カバ沢、クマ野、サギ山、みちる……みんな俺の横に並んでくれた。俺を横に並べてくれた。正直言って、驚いたぜ」

牛尾は馬部を見て、不器用に笑った。

「もちろん、お前もな。お前に会えて、良かったぜ。馬部」

「牛尾さん」

「でも何かある度に、皆が見ているのは、俺じゃなくて馬部甚太郎なんだと俺は思い知らされた。その度に俺は思ったぜ。お前が羨ましいってな」

不器用ゆえに純粋な牛尾の心に、馬部は深く感動していた。

子どものように透き通った牛尾の心に、自分は何を言えば良いのだろう。

考えても考えても、馬部には答えを見付けることはできなかった。

世俗の垢にまみれた自分が、牛尾に対し何かをいう資格があるのだろうか。

汚れた手で白い紙を触れば、悪意はなくとも紙を汚してしまう。

今の自分は、牛尾の告白に何も言ってやることができない。触れることさえ、できないのだ。

馬部は、そう言おうとして口を開いた。

しかし、実際に馬部の口をついて出た言葉は、全く逆の言葉だった。

「牛尾さん……主役交代です」

馬部は思わず口をついて出た言葉に、自分で驚いていた。

「今度は、ボクの『見せ場』です」

馬部の中の、自分でも気付かなかった真白な部分が、ゆっくりと顔を見せ始めていた。



・総長:白峰組系列組長を束ねる総大将。組長の中の組長といってもよろしい。英語で言うと「KUMITYO THE KUMITYO」



●18:50 サーディズクラブ

「ボクは両親が年を取ってから生まれた子どもだったので、可愛がられて育ちました。それこそ――目に入れても痛くないぐらいに」

それは事実だ。子宝に恵まれなかった両親が四十歳を過ぎ、養子をもらうことさえ考え始めた頃に馬部は生まれたのだ。

「両親がボクを心の支えにして生きていたということは、子ども心にも分かりました。両親はボクの世話だけが生き甲斐だったのです」

両親の馬部への可愛がりようは異常とさえ思えるほどで、箸の上げ下げさえ両親が世話してくれていた。

「ボクが役者になろうと思ったのは、赤城山圭二郎という人に影響されたからでした。その人は人気絶頂のうちに、若くして交通事故で死んだのです」

馬部の脳裏に、忘れていた光景が浮かんだ。

モノクロの世界。赤城山のブロマイドを手に、泣き伏す女性の姿。顔はぼやけて見えないが、かなり身近な人であったという記憶だけは残っていた。

「嗚咽の声を抑えきれないその女性は、『これで、あなたは永遠に若いままよ』と慟哭していました。『永遠に若いまま』。この言葉が、ボクの心に突き刺さったのを覚えています」

後に赤城山のことを調べてみたのだが、赤城山が死亡したとき、馬部はまだ1歳か2歳くらいだったはずなのだ。

泣いている女性を見たのがいつなのかは定かでないが、1歳や2歳のころでないのは確かだろう。

あるいは『永遠に若いまま』という言葉の記憶を説明するために、馬部自身が作り出した幻想なのかもしれない。

「『永遠に若いまま』。この言葉が、ボクの心を捕らえて離しませんでした。当時のボクは、『永遠に若いまま』『永遠に子どものまま』でなければいけないと思いこんでいたのです――両親のために」

馬部の世話を生き甲斐にした両親。

馬部が一人前になることは、両親の生き甲斐を奪うことと同じだった。

「成功は成長の証です。ボクは、成功しすぎては――大人になってはいけなかったのです」

牛尾は黙って馬部を見つめていた。

馬部は自分の口から出ている言葉が信じられなかった。確かに馬部は赤城山に『永遠』を見ていたが、それが両親の過保護と結びついていたとは馬部自身、今の今まで気付いていなかったのだ。

「実際に役者になっても、それは変わりませんでした。成功しすぎてはいけなかったのです。いや。ボクは『未熟でいつづけるために』役者になったのです」

赤城山に近づくために――。

子どもでいつづけるために――。

両親の生き甲斐を潰さないために――馬部は役者になったのだ。

そうだったのか――

「――ボクは今まで自分で気付いていませんでした」

それは、さっき牛尾が言った言葉だった。

馬部は、さっきの牛尾のビックリした表情の理由を理解した。

「3日前。牛尾さんと間違われて足を踏み入れた白峰組で、ボクは自分の足で立つことを強制されました。白峰さん、るい子さん、三次……みんな、ボクを“暴れ牛”……自立した大人として扱いました。正直言って恐怖の連続でしたが、皆さんで、ボクの甘えを叩き直してくれたのだと思います」

馬部は牛尾を見て、ニッコリと笑った。

「もちろん、牛尾さんも。あなたに会えて、良かったと思います。牛尾さん。ボクも、“暴れ牛”と同じくらい強かったらなと思いました」

「馬部」

「牛尾さん」

牛尾と馬部は、共に感極まって落涙していた。

「どうやらボクたちは、お互いの足りないところをお互いが持って生まれてきたみたいですね」

馬部の不足は牛尾が補い。

牛尾の不足は馬部が補う。

鏡に映したように似ているが、鏡に映したように逆転しているのだ。

「ああ、そうだな」

牛尾も同じことを考えていた。

「俺とお前は……」

「ボクとあなたは……」

二人は顔を見合わせて、同時に言った。

「……二人で一つだ」

二人は仲良く並んで、兄弟のように笑った。

●23:00 文化村通り

「牛尾さん……大丈夫ですか?」

「何言ってんだ。お前こそフラフラしてるぞ。馬部」

馬部は牛尾と肩を組んで、文化村通りを歩いていた。

「馬部、もう一軒行くか?!」

闇の中に光るHUBなる文字を見て、ウイスキーをボトル2本空けた牛尾が、頬を上気させて気炎を上げた。

「や……やめて下さいよ。牛尾さん」

馬部は同じくウイスキーをコップ2杯空けていたが、牛尾以上に酔っぱらっていた。

「だらしないぞ、馬部!」

「こ、これ以上は無理です」

「見ろ! あいつに笑われてもいいのか」

牛尾はHUBから出てきた青いセーターの男を指さした。

「……ウェップ……」

しかしその男は顔色は土気色だし、足取りは絵に描いたような千鳥足だった。

どう見ても、馬部を笑える状態ではなかった。

「牛尾さん、大丈夫ですよ。あの人も、他人のこと笑える状態じゃないですから」

千鳥足で去っていく男を見ながら馬部も、ゆらゆらと地震の中を歩くような感覚を味わっていた。

元々酒に弱い馬部には、コップ2杯飲んで倒れていないだけでも奇跡のようなものなのだ。

「それに、まだ決闘が残ってます。今日は、そのために会ったんですよ」

「決闘……そうか」

牛尾は、そんなことはスッカリ忘れていたらしい。

「……でも、決闘って何をするんだ? 今さら喧嘩する気にもならねえぞ」

「……じゃあ、これで決めますか?」

馬部は、ポケットから100円玉を取り出した。

「表だったら牛尾さんの勝ち。裏だったらボクの勝ちです」

「ガハハハハ、面白いな。俺がやろう」

牛尾が銀色のコインを弾き上げる。

馬部と牛尾が、真っ黒の空を見上げた。

「恨みっこなしだぜ」

牛尾が、右手の甲に落ちたコインを左手で押さえ、一瞬だけ真剣な表情になった。

「もちろん」

馬部も酩酊を吹き飛ばして、同じ表情になった。

そのとき――

「――あれ、何か甲高い音が……?」

馬部はピピピピピと電子音を聞いたような気がした。

馬部は辺りをキョロキョロ見回すが、酔いのせいか殆ど景色が頭に入らない。

「俺の携帯の音だ……ちょっと待てよ」

牛尾は手をそのままに内ポケットから携帯電話を取り出すと、緑のボタンを押した。

「もしもし……?」

牛尾も相当酔っていた。しかし電話に出た途端、端から見ても牛尾の酔いが吹っ飛んだのが分かった。

「……何でこの携帯の番号知ってるんだ? 山吹!」

「山吹?!」

牛尾の叫びと同時に、馬部の酔いも吹っ飛んだ。

山吹が牛尾に電話を掛けてきたのだ。

「牛尾さん、山吹が何ですって?」

「シッ! 馬部、黙ってろ……」

牛尾は山吹の言うことに耳を傾けている。

「そうだ……そうだ……なにッ!」

牛尾が驚愕の声を挙げ、一気に顔色を悪くした。

「分かった……みちるに手を出すんじゃねえぞ」

「山吹が何を言ってきたんですか?」

なにかみちる関係のことらしい。

牛尾が電話を切るのをまちかねて、馬部が詰め寄った。

「最悪だぜ。野郎、みちるを誘拐しやがった!」

「ええーーーーーーーッ!!」

馬部は心底仰天した。

「返して欲しかったら明日3時、俺とお前で代々木公園に来いとよ……ウカツだったぜ」

白峰組を追われ、せめてもの復讐でやった牛尾襲撃も失敗した山吹が、追い詰められてみちるに牙を剥いたのだ。

卑劣漢は、いつでも相手の一番大事なものを狙うのだ。

「こりゃ、決闘どころじゃなくなっちまったな」

「とりあえず、みちるを取り返しましょう。決闘は、それからです」

馬部は牛尾と頷きあった。馬部も牛尾も、みちるを譲るつもりは毛頭ないのだ。

牛尾は馬部の顔を見て言った。

「もう一度、やるしかないようだな……」

馬部は牛尾の顔を見て言った。

「……考えるんです。馬と牛で、ね」



・青いセーターの男:瀬山高広。いままさに篠田との一気呑み勝負に負けて出てきたところ。

・俺の携帯:実はこれは三次から渡された盗品である。抵抗一つ、銅線一本牛尾の物ではない。

・携帯の番号:牛尾はサギ山に教えてもらった。携帯には自分の番号を表示する機能があるのだ。山吹はサギ山に教えてもらった。



           <5日目に続く>