「華厳手鏡」に性起は広く染浄(煩悩に汚れた存在と汚れてない存在)の諸法に通ずるや、また浄法に局るかを論じ、縁起は染浄に通ずるも、性起は唯浄法に限る所以を釈し、性起の性に㈠理性と㈡理行の性と、㈢理行果の三を合して性となす、の三種の義あり。
その中今「性起しょうき」の性は正しくは理・行・果を合せる性にして兼ねて前二意を含む、随ってこの果性より、佛果の応機仮用を現ずるを「起」となすが故に、性起は唯浄法なるべきことを明かす。即ち性起は無上覚を成ぜる如来の大智を以って一切世界を見給ふ境界にして、経に「奇なる哉、奇なる哉。一切衆生の身は如来の智慧海を具す」と宣説したまひしは(注、「景川和尚語録」 に「一見明星忽然大悟乃云奇哉奇哉一切衆生具有如來智慧徳相」とあります。他の経典には見つかりません)正しく此の境地を開顕せしものである。
この境地よりいへば「手鏡」の説の如く佛果の大智は本来衆生の心中に遍在し、一切衆生日用分別の念念皆如来果地の所起にして、染浄森羅の萬法は悉く佛智所現の影像である。所起所現よりいへば染浄並べ存するも、この所起所現を能起能現の果体に同ぜしめ、並びに性起の大用と為し唯浄法となすものである。
蓋し華厳所用の法体を深く尋ぬれば、本覚の一心である。此の本覚の一心の体に所謂、海印森羅常住の用と法界円明自在の用あり、本覚の一心を覆へる無明妄念を滅尽するとき法界の諸法一時に炳然として、清浄円明の心面に現じ、一切諸法清浄真如の相を現ずるを海印三昧といふ。
しかして此の海印三昧をば一心本覚の体に於いて明かすことあり、或いは菩薩の安心に約して釈することあり、また佛果の大智に於いて説くことあり、前叙の理性起、行性起、果性起(注)これである。(注、仏教大辞典とウイキペヂアを総合すると
「1. 理性起とは、 人間は本来あるべき相としての仏性を生まれながらにもっている、これが「智」によってあらわれたもの。
2. 行性起とは、 教えを聞き行を起こして「仏果」を成じるもの、修行の意味を表わす。
3. 果性起とは、 修行によって完成された仏果から、教化のはたらきを起こすもの。」)
しかして今は果性起にして無上覚を成ぜる毘盧遮那の大智を以って円かに法界を照らすこと、あたかも日出でて万象その光に照らされたるが如く、一切世界斉しく大智の光明に照らされ、自性清浄の真如相を現ぜる境界なるがゆえに、性起唯淨の説(性(覚りの真理)から万象の現起をとく華厳の「性起」の立場からは「性起」には煩悩に汚れた現象(染法)を含まないとする。なぜなら「染法」は法性のそむいて起こったものであるから、とする説を「性起唯淨の説」といい天台宗の染浄のすべてが性起であるとする性具の説に対する)を成ずるものである。
探玄記(第16巻)に寶王如來性起品第三十二に性起唯淨の義を明かす釈のうちに
「・六、染淨門とは。問ふ『一切諸法は皆な性に依りて立つ。何故に下の文に性起の法は唯だ淨法に約して染を取らざるや。』答ふ『染淨 等の法は同じく眞によると雖も、但だ違順の異るが故に、染を無明に属し、淨を性起に帰すなり』。問ふ『染は性にあらずして起らず應に眞を離るべし。』答ふ『眞に違するを以ての故に眞を離るることを得ず。眞に違するを以ての故に眞の用に属せず。人の顛倒して靴を帯して帽と為すがごとし。倒は即ち是れ靴なるがゆえに靴を離れず。首に帶して帽と為すは靴の所用にあらず。當に知るべし。此中の道理もまた爾なり。染は眞の體を離れざるを以ての故に衆生即如等と説くなり。眞の用に順ぜざるを以ての故に此の性起の攝に非ず。若し留惑に約して淨用あらば、亦た性起に入れて收む』。問ふ『衆生及び煩惱とは皆な是れ性起なるや不や』。答ふ『皆な是なり。何を以っての故に。是れ所救の故に。所斷の故に。所知の故に。是の故に一切は性起にあらざることなし』。
・七、因果門とは、問ふ『菩薩善根は亦た性に順じて起る。何故に下の文に唯だ佛果を弁ずるや』。答ふ『未だ圓ならざるを以ての故に辨ぜざる耳。若し、性起の因となる義、及び眷屬の義に皆約せば皆性起の攝なり。下の文に藥樹王の牙を生ずるとき一切の樹同じく生ずる等の如し。若し此の義に従はば、初發菩提心已去を皆な性起に攝め、唯だ凡小を除く。二處に牙を生ぜざるがゆえに。若し縁となりて彼をして善を生ぜしむるに拠らば、亦た性起に攝む。日の生盲を照らすが如き等なり。
・八、通局門(つうごくもん)とは。問ふ『此性起は唯だ佛果に拠らば、何故に下の文に「菩薩は自ら身中に性起の菩提あることを知る」と。一切衆生の心中も亦た爾るや』。答ふ『若し三乘教は衆生の心中には但だ因性ありて果用の相なし。此の圓教の中の盧舍那の果法は衆生界を該かぬ。是故に衆生の身中に亦た果相あり。若し爾らずんば則ち但だ是れ性にして起の義なく、この品にあらず。云々」
探玄記に性起唯淨の義を明かす釈のうちに「六染淨門者。問一切諸法皆依性立。何故下文性起之法。唯約淨法不取染耶。答染淨 等法雖同依眞。但違順異故。染屬無明。淨歸性起。問染非性起。應離於眞。答以違眞故不得離眞。以違眞故不屬眞用。如人顛倒帶靴爲帽。倒即是靴故不離靴。首帶爲帽。非靴所用。當知此中道理亦爾。以染不離眞體故説衆生即如等也。以不順眞用故非此性起攝。若約留惑有淨用。亦入性起收。問衆生及煩惱皆是性起不。答皆是。何以故。是所救15故。所斷故。所知故。是故一切無非性起 七因果門者。問菩薩善根亦順性而起。何故下文唯辨佛果。答以未圓故不辨耳。若約爲性起因義及眷屬義皆性起攝。如下文藥樹王生牙時一切樹同生等。若從此義。初發菩提心已去皆性起攝。唯除凡小。以二處不生牙故。若據爲縁令彼生善。亦性起攝。如日照生盲等八通局門者。問此性起唯據佛果。何故下文菩薩自知身中有性起菩提。一切衆生心中亦爾。答若三乘教衆生心中但有因性無果用相。此圓教中盧舍那果法該衆生界。是故衆生身中亦有果相。若不爾者則但是性而無起義。云々」
17/06/20