明治時代全般を通じて、僧界を見わたすに、行誡上人と雲照律師が「仏教界の二大巨星」であるという言いかたがなされる。また、「明治の三傑僧」といえば、行誡上人、雲照律師に宗演老師であるという。
行誡上人(1809-1888)は、幕末から明治時代に活躍した浄土宗の僧で、仏教学者、歌人でもあった。明治維新期に神仏分離や廃仏毀釈で混乱した日本仏教界を指導し、僧侶はまず自戒内省して仏僧本来の面目に帰ることが必要であり、広く他宗の教えを学ぶ兼学を提唱した。傳通院、増上寺貫首として、縮刷大蔵経の刊行にも着手。「仏法を以て宗旨を説くべし、宗旨を以て仏法を説くなかれ」と誡められた。
宗演老師(1859-1919)は、慶応義塾に学び、セイロンの僧院に3年間滞在、帰国後32歳で臨済宗円覚寺派管長となり、シカゴ万国宗教大会に日本代表の一人として出席した。弟子の鈴木大拙に禅籍の英訳をさせ、その後自身も渡米して、諸大学で禅を講じ、米大統領とも世界の平和について対談した。その後の海外での禅ブームの先駆をなした。
釈雲照和上(1827-1909)は、その学徳と僧侶としての戒律を厳格に守る生活姿勢、そしてその崇高なる人格に山県有朋、伊藤博文、大隈重信、沢柳政太郎など明治の元勲や皇室の方々、学者、財界人などが帰依し教えを請うたという。殆ど生き仏のような感じを一般に与えていた。眉毛が長く眼光鋭く人を射り、烈日厳霜の如き風貌の方、近づきがたい人との人物評(『一滴の水』壬生雄舜著昭和16年)もある。そして、世の人は畏敬の念をこめて「雲照律師」と呼んだ。
僧侶の呼称としてはむかしから和尚、和上、上人や聖人などとあり、現代では方丈さんとかお住持さん、住職さん、院家さんといわれる。江戸後期に今釈迦と言われ賞された高僧慈雲は尊者と呼称され、より遡れば奈良時代の僧行基には菩薩が好まれて使われる。だが、雲照和上にはやはり律師と当時多くの外護者たちからも呼ばれたようであり、ここでもその生き様をそのままに伝え、教えをわずかでも継承する立場から尊敬と親しみをこめて律師と呼ばせてもらうことにする。
そもそも律師とは、仏教世界の僧としての行儀・戒律に堅実な徳の高い僧のことである。雲照律師は特別な儀式を除いて普段は木綿の衣を着し、毎日の食事は一食。朝は七時にカルルス煎餅三枚とお茶一杯、昼前に納豆汁と煮豆など質素な菜食を摂ると正午過ぎには一切固形物は口にされなかったという。外出先で昼食が正午過ぎに出されたりすると戒律に従い箸をとることはなかったと言われている。晩年はたった二時間の睡眠しか取らず、午前2時から6時間から9時間もの修法をつづけられた。
だから明治38年に雑誌『ホトトギス』に連載された夏目漱石の小説『吾輩は猫である』にも、こんな具合に律師の名前が登場する。 「…その静岡第一の呉服屋の番頭が甚兵衛といってね。いつでもお袋が三日前に亡くなりましたというような顔をして帳場のところに控えている。甚兵衛君の隣には初さんという二十四、五の若い衆が坐っているが、この初さんがまた雲照律師に帰依して三七二十一日の間蕎麦湯だけで通したというような青い顔をしている。初さんの隣が長どんで…」と。何の説明書きも無く名前が登場しても理解されるほど、既に当時知名度も高かったということだろう。
雲照律師が生きた、江戸時代幕末から明治にかけて時代は大きく様変わりをしていく。幕府の権威は失われ、明治維新によって世の中の制度や人々の暮らしが変わっていくが、それは僧侶の世界でも同様であった。幕府の官吏と化した僧侶たちは安逸を貪り地位名誉を競い酒色に耽っていたと言われている。今日お寺には家族があり、当然のことながら妻帯していることに何の不思議も私たちは感じていない。だが、江戸時代までは僧尼令により厳しく僧の異性間交渉は犯罪として取り締まれ、遠島や晒の上破門とされていた。
そうした事情が変わっていくのもこの時代のことであった。もちろんそれは江戸時代が特に寺院をキリシタン禁制のために、寺檀制度によって、すべての国民が地元の寺院の檀家とならねばならなくなった。そして、お寺は今日の役所の住民課さながら、「宗旨人別帳」という、過去帳ならぬ現在帳でその家の家族構成から経歴まで把握した。婚姻や引っ越し、出生、通行手形の届けから臨終時の引導までお寺に担わせていたので、お寺や僧侶にも厳しく戒律の遵守を課したのであった。
そもそも、戒律は如来正法の命根であるとされ、まず守るべきものであり、その上で教えあり修行あり証果ありとなる。戒とは一般に僧として仏教の教団内に所属する際に守るべき基本的な倫理事項のことで、一般の在家の仏教徒でも五つの戒(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒)がある。出家しても二十歳に至らなかったり、正式に僧侶となる前の見習い期間には沙弥の十戒(不殺生・不偸盗・不淫・不妄語・不飲酒・香を塗ったり装飾をつけない・歌舞音曲を避ける・大きな立派なベッドに寝ない・正午以降固形物を摂らない・お金や財物に触れない)を守る必要があり、正式に僧侶になるときには二百五十戒というさらに沢山の数の守るべき条項がある。そして、律とは、教団内で取り決めた生活規範で、儀式、行事に関する規定のことである。
その戒律が幕末から明治にかけて大いに乱れ、幕府の官吏として安逸に暮らし、幕府の眼が届かなくなった幕末には、名聞を誇り奢り酒色に耽る僧侶が多きを数えたと言われる。そうした中にあって、一人雲照律師は、決然と世間の流れに抗して釈迦直伝の戒律をもって身を正し、修学に勤しみ、修禅観法に徹しられた。そして、明治の世になると一人宗門のために立ち、政府勅使をも恐れずに抗弁を垂れて誤りを正し、己の信じる仏道をひたすら説いてその本道を歩き通された。さらにその後、宗派を離れて一仏徒として護法運動に一生をささげられたのであった。
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