宮崎/それは、何というんでしょうかね・・・・。問題意識を持ち始めた頃の自分の周りにいた党員の影響というのは当然あります。1950年代の後半から60年代に入るか入らないかぐらいの頃ですからね。
やっぱり六全協(1955年の日本共産党第6全国協議会)以前の、非合法時代の党員たちが地下に潜った武装闘争時代の体験談なんかを聞いていましたから、影響はかなり大きいと思います。いかんせんガキでしたから、素直に話を聞くんですよ。
佐藤/同じ日共でも、国際派と所感派ではかなりイメージが違いますよね。当時の東京は国際派が強かったけど、東京以外は宮崎さんの周囲を含めて所感派が多かったと思うんです。
1951年の日共の分裂で、執行部で武装闘争をやって北京へ逃げた徳田球一(初代書記長)などが所感派で、これにつかなかったのが宮本顕治(のちの議長)ら国際派でした。
六全協は「国際派の勝利」として総括されていますから、その後の日共の幹部はほぼ例外なく国際派ですね。例外は吉岡吉典(元参議院議員団長、元赤旗編集局長)さんぐらいでしょうかね。彼は所感派ですからね。
宮崎/そうですね。吉岡さんも昔は中央委員会のゴリゴリでしたが、佐藤さんは外交官として議員時代の吉岡さんに便宜供与していますね。
ただ京都は最初から国際派が強かったんです。幹部は京都大学が多いですから。国際派は宮本以下インテリばかりでした。
一方で、京都は革新系の蜷川虎三が約30年にわたって知事を務めるなど、共産党の存在感が強かったですね。中選挙区時代の旧衆議院京都2区は定員5人のうち2人を共産党が取れていたこともありました。
なぜそんなに強かったのかは今もよくわからないんですけれど、やはり所感派が労働の現場でがんばったからかなとも考えています。土木建築業から西陣織の工房まで小さな企業がほとんどですから、そういうところでは国際派のインテリでは無理だと思います。
□宮崎学×佐藤優『「暴走する」世界の正体』(SB新書、2017)の「第2章 平和なき世界での革命の可能性」
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【参考】
「【佐藤優】やくざとサイコパス ~「暴走する」世界の正体(2)~」
「【佐藤優】サイコパスと革命家 ~「暴走する」世界の正体~ 」