【往復書簡】恥を捨てよ。修羅へ落ちよう。
壇珠さんの記事へのお返事です。
壇珠さん、おはこんばんちは!!最近はマッサージにはまっている俺です。パッと見は美顔マッサージに見えるのですが、俺は反骨マッサージと名付けています。顔をほぐすと、闘志が湧き出してくることを発見したのです。どうしてこんなことをはじめたのかと言うと、自分の体にコリがあることにムカついたからです。日常的に痛みを感じる場所はないのですが、咬骨とか、鎖骨とか、臀部とか、強く押したら結構痛い箇所が何箇所かあります。そこをなくしたい。年内になくしたい。ダラダラやっても仕方がない。年内に締めたい。
肩凝りや冷え性に悩む女子にたくさん会います。私は「なぜ、肩凝りや冷え性を受け入れるのだ!そんなもの、ない方がいいに決まっているじゃないか!受け入れるな!拒め!俺と一緒に反骨ダンスを踊りませんか?!」的な気持ちになります。大偏見をぶちかましますと、肩凝りに悩む女子は生き霊に取り憑かれています。きゃつらは「デスクワークだから」とか「スマホの見過ぎかしら」などと言いますが、違う。きゃつらの肩凝りは、実は中学生くらいの頃からバキバキに発症していたことを俺は知っています。多くの場合、それは母です。母に取り憑かれて、母の怨念が負荷となり、双肩に重くのしかかっているのであります。
母殺しの俺は「いまから一緒にこれから一緒に除霊に行こうか」と言わんばかりの勢いで、母親の呪縛を解きに行きます。俺は毒親と言う言葉が嫌いです。何歳になっても親のせいにするとは情けねえ。毒親とか言ってんじゃねえ。毒はお前だ。お前の解釈が毒だ。お前の生き方が毒だ。毒に負けるな。毒を持て。毒俺を見よ。毒まみれだが、元気いっぱい。それは、毒を味方にしているからだ。馬鹿と毒は使いよう。全部、使い方の問題。まずは「毒親万歳」と言ってみよう。毒親を肯定して、毒親に育てられたことを肯定するのだ。そうすることで、自分の中にある毒も肯定できる。
美顔マッサージの動画をたくさん見るのですが、きゃつらの顔は綺麗です。しかしながら、きゃつらの声を聞くと「こいつらはまだまだ呪われているな」と確信します。俺の目は誤魔化せません。顔は綺麗なのですが、心が醜いです。心が醜い人は大好きなのですが、認めない人は大嫌いです。壇珠さん、俺は思います。美容のために生きるからつまらなくなるのだ。健康のために生きるからつまらなくなるのだ。反骨のために生きるのだ。戦うために生きて、戦うために食べるのだ。美容のためにやることなんて、そんなものは美ではない。美は、結果であり、俺たちは、毒です。親だけが毒なのではなく、俺たち全員が毒です。生きるとは、喜怒哀楽の毒を喰らい尽くすことです。
俺たち風神雷神の往復書簡は、世の中に蔓延する退屈なコンプライアンスをぶち破るためにはじまりました。ちゃんとしなきゃの牢獄をぶち破り、真の自由とは何かを提言する、阿鼻叫喚の地獄絵図。冥界からのラブレター。小手先なんかじゃない。普通の地獄絵図だよ。天国なんか行きたくない。地獄で遊ぼう。マインドフルネスで行こう。毎日が冒険。毎日が修羅場。毎日が独座大雄峰。魑魅魍魎の反骨ダンス。良識打破。いい子のマニュアル焚書坑儒。あらゆるこうあるべきを取り除き、ぐにゃぐにゃになってやりたいと思います。
世の中には「恋しちゃったから」「応援してあげたいから」という理由で曲や舞台を消費したり、あちこちに出向いて追っかけをしたりして、推し活に興じる人が大量にいます。こう言ったら彼らにめちゃくちゃ怒られそうですが、私はそういう活動を、広義でのストーカー活動だと思います。私はそういう人のことを、どこか満たされていないのだと思っています。そんなことをしていて、自分業は疎かにならないのだろうかと思います。否、確実に疎かになっていると思います。
まずは自分を推せよ!!悟って解脱までした人でもない限り、死ぬときに最も離れがたいと感じる相手は自分だ。走馬灯で振り返るのは、推しの人生ではなく自分の人生だ。だったら、生きているうちから自分を推せよ!!自分を推すことができない人は、自分自身から推したいと思ってもらう人間になることを、サボっているんだよ!!だから、それをサボっていない誰かに憧れを持つんだよ!!推しの人物を通して君が愛しているのは、君自身なんだよ!!
もっともっともっと、自分に迫れよ!!自分に肉薄しろよ!!自分を他人のように眺めたときに哀れに思わないくらいまで、自分とピッタリ一致しろよ!!自分を推せよ!!文字通り、命がけで自分を応援しろよ!!自分をどこまででも追っかけて行けよ!!お前がそれをしてくれないから、お前の心は別の人に強烈に惹かれて、そいつに喜怒哀楽を乗っ取られるんだよ!!逃げるな!!他人を推すことに逃げるな!!他人に逃げずに、自分を推せ!!今好きな推しがいるのなら、そいつを推すんじゃないんだよ!!違う!!そいつを目の前にしたときに、堂々と対等の人間として存在できるくらいの自分になるんだよ!!それが本当の恋、本当の推し活なんだよ!!
読者の方から「応援しています!」と言われると「応援なんかしてんじゃねえよ!応援ってなんだよ!よくわかんねえよ!結局なんにもしてねえじゃねえかよ!そんなんで俺が喜ぶとでも思ったらなめられたもんだぜ!てめえはてめえを生きやがれ!てめえの生き様で俺を震わせてみやがれ!」と思います。勝手に託してんじゃねえよと思います。あの人はファンを大事にするから好きとか言う人がいますが、芸能は託児所じゃねえんだよ。お前がいつまでも小児のままだから、託児所みたいな芸能ばかりになっちまってるんだよと思います。何が握手会だ。あんなもの、ただの売春じゃないか。ペンライトなんか振ってんじゃねえよ、自分の人生を棒に振れよ、死ねよ、と思います。
試しに、パートナーシップは奪い合いだと思ってごらんよ。相手とは、奪い合いをしたくて出会ったのだと思ってごらんよ。なんで自分はこの人から奪いたいのだろう、なんでこの人は自分から奪いたいのだろうと、その観点から自分らをよくよく観察してみるんだよ。するとほら、その暗い穴を覗けばそこに、こちらを覗いている自分のデーモンがいるじゃないかよ。そのデーモンと話をしてごらんよ。きっとそのデーモンは、よくよく話してみれば、さみしかったんだと言うだろう。愛されたかったのだと言うだろう。
自分がデーモンになったことを許せよ。そのデーモンをパートナーに頼らずに自分でいたわり慰めて、自分がいかに自分を愛していたのかを思いだして、そいつと仲良くなるんだよ。そこまでいくのは、結構な汚れ仕事になるはずなんだよ。でもそれをしていくと、パートナーとの間に、面白い変化があるんだよ。与え合いだなんて考えているから、その作業を相手にやってもらいたくなっちまうんだよ。それじゃ俺たちは、いつになったら自分のデーモンとの、愛の果たし合いができるっていうんだよ!!
パートナーシップとは、あんたのデーモンと俺のデーモン、出会わせて何が起こるか見てみやしょうや。ということなんだよ。パートナーシップとは、デーモンシップ。それっくらい生々しくて汚れ覚悟の活動なんだよ。だから、自分のパートナーシップが地獄の様相を呈していても、おかしいと思うなよ。それを嘆くのをやめろって!!それでじゅうぶんに健全なんだよ!!そしてやることはシンプルで、相手のデーモンを呪ったり、相手にデーモンを引っ込めて無償の愛を示してくれと要求するのをやめて、自分のデーモンと対峙することなんだよ。それをしようとしたところから、一気に反転するんだよ!!これが面白いんだって!!これを読んだパートナーシップに苦悩のある君よ、己のデーモンに会いに行けよ。奪い合いを観察していれば、白黒が反転して与え合いが見えてくる。そのジレンマの暗い森の道の途中で、己のデーモンが待ち構えているんだよ。
そうだそうだ!!その通りだ!!愛とは自立や成長を促すこと、結婚やパートナーシップとは与えること・与え合うこととか、夢みたいなこと言ってんじゃねえよ!!だからお前もお前の人生もつまんねえままなんだよ!!借金取りみたいな愛し方をするなよ!!マイナスにマイナスをかけるとプラスになる!!デーモンにデーモンをかけるとエンジェルになる!!スキンシップはサタンシップ!!肌と肌を重ね合わせたら、サタンとサタンも重ね合わせて爆発しろよ!!サタンとサタンでサタタタターン!!核融合しろよ!!なんとなくそっちの方が楽しそうだろう!!成仏できそうな気がするだろう!!成仏しろよ!!生き霊になるなよ!!満員怨霊とか言ってんじゃねえよ!!怨霊には出て行ってもらえよ!!怨霊を飼い慣らすなよ!!怨霊の鎖を解き放てよ!!怨霊を放し飼いにしろよ!!パートナーとマザー牧場なんか行くなよ!!パートナーとサタン牧場を作れよ!!
その間私の耳には、やめればいいじゃないか、油絵など描かなくても生きられるじゃないか、何をこだわっているんだよ、この油絵に対する執着のほうこそが要らぬものだとは思わないかね、絵のことなど忘れて楽しもうじゃないか、酒でも飲んだらどうだ、いいか忘れるな、君は自由なんだ、気難しいことを考えずに一旦一服したらどうだ、そこに日本酒があるだろう、ちょっと引っかければ気分も良くなるんだ、さあさあ呑んで楽になろう、もう頑張らなくていいんだよという悪魔のささやきが断続的に聞こえてきて、謎に胃と頭と肋骨の側面が痛み、なんと視界までが狭まり、しまいには耳鳴りすら始まってきました。
が、その時私めは思ったのであります。感情に溺れるな。俺は油絵を描くんじゃない。油と絵具を混合したものをパレットからキャンバスに移動させるだけのことだ。これは移動だ。単なる輸送だ。私はソクラテスだ、と。このように事実を冷静に分析し、荒れ狂う大海原に投げられたそのたしかな事実の浮き輪にかろうじてしがみつきながら、絵具を練って筆に乗せ、それをまるで地震よりも雷よりも火事よりも怖いオヤジのご機嫌を伺うかのように、そろそろとキャンバスに乗せてみました。
するとどうでしょう。その一筆で私は時間の檻から出獄し、時の流れるのを忘れ、自分が誰なのかも忘れ、狂ったように油と絵の具を混ぜてはキャンバスに塗りたくり、気がつけば明暗を塗り分けるグリザイユ画法の一層目を描ききっていました。嵐は止み、天から降り注ぐ白い光が心象世界の自分の禿げ上がった頭頂に当たっているのを感じました。心の中の自分は、先の恐怖により頭頂部の頭髪を失い、フランシスコ・ザビエルの姿へと変貌していました。しかし、あれほど自分を震い上がらせたその恐れは、最初の一筆で吹き飛ばされていたのです。見たかと。見たかよと。俺はやったぞと。以降、油絵への謎の恐怖はきれいさっぱりと消え去ったのです。
ある種の毒は、毒でなければ決して分解されません。抗毒血清は、生体に毒物を少量ずつ繰り返し注射して免疫をつけ、その生体から採取した血液の抗体を精製することで作られます。毒を制するのは毒なんだよ。ほら、毒だ。君も飲め。毒を飲んで死を支配したソクラテスになれ。君がもしも、いくら癒やしや栄養をプラスしても抜けない毒に苦しんでいるのなら、飲むべきは毒なんだよ。その傷に湧いたウジ虫を殺したければ、己の細胞ごと滅する毒を塗りたくるんだよ。自毒の血清を作るんだよ。そうして君が獲得した免疫こそが、生涯失われることのない君の真の強さとなるんだよ!!
す、す、す、すきだぁ〜!!お、お、お、おれ、たんじゅさんが、すきだぁ〜!!否、ここは敢えて「ちゅき」と言わせていただきましょう。ちゅきです。らぶらぶちゅっちゅの反骨キッスです。大事なことはすべて壇珠さんが書かれていらっしゃるので、グッドフォローイングガイの俺は補佐役に回ります。人類諸君よく聞け。取捨選択などと言った小賢しいことを考えるな。壇珠を見よ。修羅選択。取捨選択じゃない。修羅一択だ。ポチポチポチポチ、計算ばっかりしてんじゃねえよ。取捨選択とか小賢しい。修羅一択。修羅選択。毒をもって俺を制す。デーモンになればできる。サタンになればできる。鬼になってやればできる。
なにかが中途になってしまう切ない地球人生活を終える際に、一片もの悔いがないといえるほどの清々しさを覚えるというのは、生きているうちから途中で終わることを受け入れ、それをしかと覚悟した人間だけが経験できることだ。そのためには、矛盾するようだが、我が生涯に千片の悔いあり!!と言って未練のほとばしる中でこの世を去ろうと、腹をくくるんだよ。数えきれぬほどの愛する者と物を残し、好奇心を炸裂させたまま、あれにもこれにも興味がいっぱいのままこの世を去ることを、最高だと思っていいんだよ。
この世を愛して生きた人は、生きる間に生じた悔いすらも愛して死ぬんだよ。この世と自分の人生を、さまざまな悔いごと愛した者が、悔いがないと言えるんだよ。それを、生きているうちからやるんだよ。過去の悔いを愛せよ。今の悔いを愛せよ。今死んでもいいと覚悟するということは、そういうことだろう!!だからこそ、われわれ風神雷神は、生きたまま死のうと誘っているんだよ。そうさ、それはゾンビになろうということなんだよ!!
ただただ盲目的に、なにかを成して死ぬ、やりたいことをやり切って死ぬ、などという幻想を目指すなよ!!そんなものは、ただの燃え尽き症候群なんだよ!!やりたいことをやっている途中で、この世を愛したまま、道半ばで死ぬのだと腹に決めろよ!!そう思ったときの、この肺の膨らみよ、みなぎる解放感よ。俺たちは随意に生き、手当たり次第に無差別に、愛し散らかしたまま死ねばいい。そう思って生きれば逆説的に自然と成したかったことを成すんだよ。自毒の血清は自毒だ。自毒を恐れるな!!死を恐れるな!!毒を飲んでゾンビとなりたまへ!!
運命を愛する。それは、あたかも恋人を抱き止めるように、過去の後悔や目の前に迫る災難を受け入れて、まるごと愛することなのだと思います。孤独になったら孤独を愛する。ゾンビになったらゾンビを愛する。不幸になったら不幸を愛する。過去の俺はとんでもなく不幸でしたが、過去の俺に言いたいことがあるとしたら「永遠にそのままで行け」以外に何一つありません。不幸を取り除いてやりたいとは思いません。こうすればうまく行くよなんて道を示して導いてやりたいとも思いません。不幸であることも含めて、今のお前はめちゃめちゃいい感じなのだから「永遠にそのままで行け」と言ってやる。こうしておけばよかったとか、ああしておけばよかったとか言わない。言わせない。これがお前の生きる道なのだから、この道を行け。永遠にそのままで行けと思います。
読者のみなさんもご存知のように、私めは結婚もしており、子どももいて、一般的な市民に混ざって家庭を築いて生きています。長いこと私は、このことに疑問を持っていました。自分はゾンビであり、妖怪であり、外れ者でろくでなしで怠惰で、学歴もなく、職歴はめちゃくちゃで思い出せないから履歴書を書いたら必然的に嘘になってしまうし、鬱であり、公共交通機関をまともに使えず、捕まっていないだけで常態として犯罪者であり、夢・希望・自信などを持たず、愚かで無知でコミュ障で挙動不審で、発達障害で、社会不適合であるのですが、そんな自分がなによりも疑問に思ったのは、明らかに家庭向きではない自分が家庭を持ってしまっているのが、なにかの間違いなのではないか、ということです。
(※上記の私めの記述は、自虐ではありません。まごうことなき事実を記しているにすぎません。私めにも良いところがあるのです。それがなにかというと、手先がまあまあ器用であること、集中力があること、とてつもなく運がいいこと、です)
上記のように、社会生活を送るのが困難である自分は、ストリートや刑務所や、あるいは風紀の悪いところに出入りしながら生活していてもおかしくないというのに、なぜにこうして家庭を持って生きる運命にあるのだろうと、ずっと思ってきたのです。そして、こうも思いました。私は圭吾さんとこうして往復書簡を執筆し続けているが、私は圭吾さんのように特殊な生き方をしているわけではない。普通に家庭を持って、子どもを育てて、一般市民として生きている。そんな自分が圭吾さんとやり取りをしていることを、みな不思議に思うのではないだろうか、と。
でも、私がもしもたとえば無職で家を持たずに、またはストリートや刑務所や風紀の悪いところに出入りして、あるいはマサイ族と結婚したりインドの山奥で呪術師として生活するなど、一般とは違う特殊な生き方をしていたら、そんな人物と圭吾さんとのやり取りは、一般の人から見れば「お前らはもともと変だからそんなことが言っていられるんだよ」「俺たち一般人の生活を知らないからそんなことが言えるんだよ」「変人の言うことを聞いても仕方がないんだよ」と言いたくなるものだったろうと思うのです。それではこのわれらの往復書簡は、ずいぶんと説得力に欠けたものだったろうと思います。
しかし私はこうして一般的な家庭人であるため、その自分がこれを書いていると言うことは、「普通に生きていても雷神(風神も可)になれるのだ」というメッセージを放っていることになるのだと気がつきました。つまり、風神雷神として生きるのに、圭吾さんのように反社ならぬ外社として生きてもいいし、私のように普通に家庭を持っていたっていいのだということです。私がごく一般的な生活を送りながら圭吾さんとの書簡を書くことで、「私は普通に会社で働いているし普通に家庭を持っているから、坂爪さんや壇珠さんのように風神雷神になんてなれません」という読者の言い訳を、言われる前からぶっ潰しているのです。このことから私は、自分は圭吾さんとこの書簡をやるために家庭を持ったのかも知れないとすら思うのです。
なぜこのことを引用した部分のお返事として書いているのかというと、例えば家庭を持ったら私たちはすぐに、このパートナーと生きていくために家庭を持ったのだと考えます。子どもが生まれれば、この子に出会うために家庭を持ったのだと考えますよね。それはそうだと思うんです。そうした直の目的もあると思います。でも、それがすべてじゃない。ひとつのドットを間近で見れば、わかりやすい直の目的が見えます。けれども、同じ事象をもっともっとでっかい視点から見てみると、そのドットはもっと大きな絵の一部であり、その視点で見れば、まったく別の絵が浮かんでくるのです。
私は植木職人だったことがありました。それから、ホステスをしていたこともありますし、土木作業に従事していたこともあります。それから、ほとんどのことに失敗して生きてきました。それらのことは、たとえば植木職人をしたのなら、体力をつけるためだったとか、木々や植物全般に対する学びを深めるためだったとか、失敗から学ぶことがあったのだとかいう、直の目的はいろいろあったと思います。ホステスをしたのも、男性全般に対する概念を塗り替える学びのためだったとか、底辺層の職業だと思われている仕事の尊さや苦労を学ぶためだったとかね。まあこうして、ちょっと考えればそのようなわかりやすい目的は、いくらでも簡単に思いつくわけです。
でも、あとになって私は、それらの経験はぜんぶ、自伝を書くための材料だったと思いました。あんなに辛かった寒い日の樹上の作業も、一生懸命に飲んだお酒も、悲しかった離婚も、あとから書いて笑うための材料でした。それぞれの小さな目的のためにやっていることは、もっと大きな目的に含まれているのだと気がついたのです。だからもちろん、自伝を書いたこともまた、もっと大きな目的に含まれているのです。家庭を持ったことは夫や娘との日常にあれこれと得られるものがあるからだとは思いますが、私はそういうエモい視点だけで見ているのは窮屈に感じられてしまうので、家庭を持ったのは、往復書簡で読者の言い訳をぶっ潰すためだったか~と考えた方が楽しくなります。
そして、自伝も往復書簡も、その他のあらゆる経験も、またもっと大きな目的のためにあるのです。では、それはなんでしょうか。私はそれは、生き易くするため、そして死に易くするためなのだと思います。なんにもないよりも、そういうドラマがあった方が生き易いからです。そうして人生に起こるドラマに意味を見出して生き易く生きたほうが、いい人生だったなどと思ってグッと死に易くなるから、そのためにやっているのだと思います。
できるだけ、安らかに死ぬために。ただ、死のために。私は、自分の死のために植木を切っていたし、死のためにお酒を注いでいたし、死のためにセメントを流し、死のために結婚し、死のために子どもを育てていました。俺たちが生きてドラマを紡いで生み出す味わいで、自分の死を、自分で一生懸命に飾っている。生まれてからせっせと命を燃やして、自分の棺桶に入れる思い出を紡いでいるのです。
なぁみんな、俺たちって、人生は素晴らしいだとか明るいものだとか貴重だとか感謝するべきだという概念の外に出て、遠慮なく勝手な審議をしていいものとして眺めてみたら、めちゃくちゃ切ないものだと思わないかい。この世は苦だと思わないかい。クッソ憐れで、涙が出ちゃうよ!!俺たちがそんなふうに自分を憐れだと思えなかったら、どうやって隣人を憐れむと言うんだよ。どうやって自分の毒親を、よこしまな友を、邪悪な他者を、憎まずに生きていけるって言うんだよ!!
だから、生を死地に向かう旅だと思うことは、自分を憐れみいたわり、誰かにもうっかり思いやりをもたらす、やさしい心構えなんだよ。直の目的にこだわりすぎるから、苦しいんだよ。子どもに人生を懸けるから、パートナーにすべてを預けるから、仕事に人生の意味をもたらしてもらおうとするから、ジレンマに陥るんだよ。遠くの視点から見れば、全部が死に易くするためのギフト。死地への旅を豊かに易しくする、親切なゆりかごなんだよ。
俺たちは、どんな味わいを棺桶に入れたいか、その一点のみを思って生きたっていいんだよ。家庭を持ったのも、仕事をするのも、この子に出会うため、この人に出会うため、この学びのため、うんぬんというのも正しいだろう。でも、そのあたりは放っておいていいんだよ。直の目的は、逃れられないものなんだよ。だから、そこはなるようにしかならないんだよ。そういうところをいじくろうとすると、逆に子どもやパートナーは期待を裏切って自分から逃げていくし、仕事は上手くいかないし、涙の数だけ修羅に落ちるんだよ。直の目的は、ただ受けて流して神まかせ。これでいいんだよ。
それよりも、自分の棺桶に入れてやりたいと思える、手向けの体験を求めるんだよ。己の死に装束になにを描きたいのか、己の亡骸にどんな刺青を入れたいのかを考えるんだよ。君は、自分の死装束にでかでかと、「我慢ばかりの人生でした」という文字を刺繍したいと思うかい。腕に「夫がために尽くせど、報われぬこと松崎しげる氏の肌に塗られた日焼け止めのごとし」と刺青を入れたいと思うかい。嫌だろう!!それならば、背中にでっかく、ドヤ顔で毒杯に口をつけるソクラテスを彫るほうがいいだろう!!
三途の川にどんな姿で登場したいのかを考えるんだよ。死装束をギンギラギンにさりげなく金色に染め、笑った思い出の記録と、泣いた思い出の記録と、数々の挑戦の記録を勲章にしてぶら下げて、怒りも悲しみも超えて生きてきた己のガッツポーズの姿と、我が生涯のすべての悔いとすべての未練を愛すという文言、背中の真ん中には縦に貫く「天上天下唯我独尊」という刺繍を施してはためかせ、己の身体にはドヤ顔の毒杯一気飲みソクラテスと、ラオウの最期のポーズを決めて片腕を天に突き上げたゾンビの刺青を彫りあげて、青黒い怒気と陽気な鼻歌を放ちながら、黒王号に乗って現れろよ!!しおらしく死のうとしてんじゃねえよ!!三途の川に、花魁道中をする気で赴けよ!!死地でチンドン屋をやるんだよ!!
死の概念とは、生者のものである。死んだ途端、生くるも死ぬるも夢の中のこと。生きることも死ぬことも出来ない魂こそが、俺たちの本質です。俺たちは、壊れないし、消えないし、死にもしない。だから、恐れることはなにもない。毒に当たったら毒で抜く。君はもともと、無敵だったんだよ。さあ、もう行こう。やりたいようにやるんだよ。楽しみたいように楽しむんだよ。なぜそんなことをするんだと訊かれたら、「やりたいからだ」と言え。やりたいようにやっていると傷つくぞと言われたら、「その傷も冥土の土産にして棺桶にぶっ込みます」と言え。
身勝手だ、我慢しろと言われたら、「己の死装束に『我慢して苦々しく生きました』と刺繍するくらいなら、『身勝手を炸裂させて生きました』と入れるほうがマシだと言え。後悔するぞ、後先考えろ、どうなるかわからないだろうと言われたら、「己の亡骸に『後悔が心配でなにも挑戦せぬ人生』と彫るくらいなら、『沈む瀬あれば浮かぶ瀬あり、人間万事塞翁が馬、生くとも死ぬとも一寸先は闇』と彫るほうが、遙かにマシだぜ」と言ってやれ。お前にこんな悪知恵をつけたのは誰だと言われたら「風神雷神だ」と、一体誰の真似なんだと言われたら「我が師の名はソクラテスだ」と言ってやるんだよ!!
いいかい、道に迷ったら思うんだよ。自分の棺桶を。死装束を。亡骸を。その旅立ちに手向けてやりたい思い出を。死にゆく自分にたしかに渡してやりたい、愛のメモリーを。それを今作るんだよ。今だよ。あとででもなく、明日でもなく、生きている今このときに浮世の思い出を作るんだよ!!愛せよ!!死を愛せよ!!愉快に、貪欲に、彼岸への旅を最高に楽しみにして準備しろよ!!己への、それほどの慈しみがあるかよ!!
これを読む君よ。己の千片の悔いを許せ。デーモンとなった自分を許せ。いいんだよ。もういいんだよ。仕方なかったんだよ。己の罪を許し愛せよ。そして、死に際の自分を想像しろ。その自分に、今の自分の、今の自分による、今の喜びを送るんだよ。そうして、こう言ってやるんだよ!!
美しい人生よ 限りない喜びよ この胸のときめきをあなたに
二人に死がおとずれて 星になる日が来ても あなたと離れはしない
狂気の長文引用を遂行させていただきました。友よ。これだけの長文をここまで読んだお前は、人生の苦楽を共にした俺たちの友であり共犯者だ。言い訳は許さない。言い逃れは許さない。俺とお前は永遠のずっ友。ここで会ったが運の尽き。地獄の果てまで花魁道中。普通とは何か。特殊とは何か。俺たち風神雷神は、特殊な生き方をしようとして特殊な人間になった訳ではない。普通か普通でないと言ったら、俺たちが言っていることは普通ではないと思うだろう。だが、自然か自然ではないと言ったら、俺たちは普通のことを言っている。特殊なことをやろうと思って生きているのではなく、自分にとっての自然を生きた結果、特殊な人間だと思われるようになっただけなのだ。わかるかい、この孤独が。わかるかい、この自由が。俺たちは、どこまでも孤独で、どこまでも自由な、一切の垣根を認めない、お前の友なのだ。
私は熱海の山中に暮らしている。熱海の街は観光地で、駅前は若いカップルでごった返している。若いカップルたちは、旅の土産に楽しかった思い出を持ち帰るだろう。それでいい。だが、私の家に来た者たちは、楽しかった思い出だけではない「喜怒哀楽の全部」を持ち帰る。ある者は泣き、ある者は怒る。ある者は裸になって自分をさらけ出し、ある者はより一層自分の鎧を強化させる。楽しむことがゴールではない。喜怒哀楽の全部を持ち帰ることが、私に会う旅のゴールになる。喜怒哀楽なんて要らない、私は楽しいだけが欲しいのだと思う者は、私のところには来ない。それでいい。楽しいだけでは足りないと思う者たちが、私に触れ、何かしらの反応を起こす。当然、私も何かしらの反応を起こし、化学反応が生まれる。
あなたを通じて自分を掴み、自分を通じてあなたを掴む。あなたを通じて自分を壊し、自分を通じてあなたを壊す。小手先だけの、情報のやり取りとは違う。生きる根拠を賭けた、存在のやり取りを通じて、喜怒哀楽の嵐を起こす。嵐の中で、キラッと光る何かを掴む。それが命だ。私に会う者は会う前に怯える。自分から会いたいと連絡しておきながら、会う前に怖くなって震え出す者や、逃げ出す者もいる。頼まれたから行ったのに、行ったら行ったで「怖い」「殺される」「会いたくなかった」と言われる私は、死神なのかもしれない。死の恐怖を越えた先に、新しい自分との出会いがある。恥を捨てると、命が開く。やらない理由は無限にある。だが、大きく分けると「嫌われたくない」「損をしたくない」「恥をかきたくない」のいずれかに該当する。そして、死ぬ時になって「嫌われてもいいからやりたいことをやればよかった」「損をしてもいいからやりたいことをやればよかった」「恥をかいてもいいからやりたいことをやればよかった」などと言う後悔に襲われる。だから、俺たち風神雷神は提言する。死ぬ前に、死のうよ。恥を捨てよ。修羅へ落ちよう。
【四十億年】【生きる】年齢を聞かれたら生命誕生から現在まで四十億年続く流れを生きているから「四十億四十歳です」と答えるようにしています。(株)風神雷神共同代表・風神(雷神も可)
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