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( 8½ )(68 ⅚)【注釈U - g】VR奥儀皆伝 TP-VR Attract. 謎解き・テーマパークVR Web版

2025-08-31 | バーチャルリアリティ解説
Number68 ⅚ 【注釈U - g
                          【( 8½ )総目次 
   (68⅚)【注釈U-g】AS-1物語

   (68⅚)注釈U-f】鋳型化注釈U-e】白川総裁発言。注釈U-d】IVRC2015。ケルズの書 /(68⅚)【注釈U-c】日加豪同盟。先住民族の知恵。ユリシーズ入口 /【注釈U-b_Pollux】死傷者ゼロ。レオ12世。なでしこの花 /【注釈U-b】シモネッタ。日本文化の波動つづき。八雲とブレイク
   注釈U-a】安全論証。← シラバス カナダの量子コンピュータ。一条天皇の辞世 /注釈T】上宮法皇の e パレード 。『ユリシーズ』 ← シラバス /注釈S】高松塚古墳 。← シラバス / ・・・注釈L】「e五節の舞」 VRデジタル復元 / マニエリスム年表(重要!)

□  AS-1物語   抜粋

 ○ 飛び込んで来た幸運

   ダグラス・トランブル氏は、映画『2001年宇宙の旅』『未知との遭遇』『スタートレック』『ブレードランナー』などの特殊撮影 SFX や『ブレインストーム』(83年公開)の監督として、 ハリウッドでは非常に有名な人物で、「映像の魔術師(Wizard)」と呼ばれていた。トランブル氏自身が、「現在の特殊撮影監督と中世の魔術師は(精神のレベルで)同じことをしているように感じる」と言っていたためである。
   後進の育成にも尽力した方で、『スターウォーズ』の特撮で有名になったILM社の社長たちは、トランブル氏の弟子にあたる。
   さて、彼が『ブレインストーム』の監督をしている最中に、主演女優のナタリー・ウッドが水遊びに出掛けた先で溺死してしまうという事故があり、それを機に映画への出資者たちが騒ぎ始めて「映画制作を中止して、映画保険で出資金を返してもらいたい」と言い始めた。保険会社がこれを拒否したので、交渉は長期に及んだ。(略)

   ともあれ、トランブル氏は『ブレインストーム』がやっと83年に公開されて、カルト的な人気も得たけれど、すっかり疲れはてていた。それで、幼馴染だったニック・ケリー氏の薦めで、ボストン近郊のフーサトニック市バークシャーにあるケリー氏の会社(バークシャー・コーポレーションという商事会社)に寄宿することになった。
   バークシャーは、ハリウッドから充分に離れていて、しかもニューヨークの映画人たち(ハリウッドに対抗する意識が強い)のネットワークに近い。年金生活者の保養地として有名な場所だそうで、Seiji Ozawaの指揮によるボストンフィルのコンサートなども催される ということだ。

   この場所で、トランブル氏はケリー氏と一緒に「バークシャー・ライドフィルム社」を設立し、トランブル氏が会長、ジョン・ガーナー氏が社長という体制を整えた。ユニバーサル・スタジオのムービーライドの傑作「バックトゥザフューチヤー・ザ・ライド」(91年公開)が、この会社の代表的な仕事である。「2019年木星への旅 ツアー・オブ・ザ・ユニバース」などの体験劇場も、この時期の仕事。どうして、体感劇場の仕事をしていたのか、というと、もともと 揺動装置と映画を組み合わせた「Simulation Ride」( Movie Ride )が彼のアイデアの産物だったためだ。トランブル氏が 国際パーク施設展示会 IAAPA 76 に出展したこの装置は 圧倒的人気で「Best New Idea賞」を受賞した。トランブル氏は、体感劇場の重要な特許も いくつか取得していた。
   さて、ユニバーサル・スタジオの仕事は順調に進んでいたのだけれど、次の仕事がなかなか思うように決まらない。そのころのセガ・エンタープライゼスは、「ジェネシス」(米国版の「メガドライブ」)を89年9月に発売して以来、米国での知名度が上がりつつある時期だった。(『ソニック・ザ・へツジホック』の米国発売は、91年5月。)

   それで、ライドフィルム社(正確にはケリー氏)から米国支社 SOA に打診が行なわれた。

   SOA社員の連絡を受けて、AM5研や S木久司本部長は 騒然となるのだが、間もなく、パークシャー・コーポレーション日本事務所の代表 沢木建治さんが、AM5研を訪ねて下さった(90年4月4日)。ケリー氏が大変 信頼を置く人物で、この訪問については 英語でケリー氏が沢木氏に伝えるより 日本語のほうが良いと思うので と ケリー氏から依頼された SOA社員 N川氏が 沢木氏に電話を入れてくれたそうだ。それにしても、寝耳に水のことで 沢木氏も 何でケリー氏が 日本の会社に電話を掛けたのか 全く事情を把握されていなかった。実は、この沢木氏は、後にすごく重要な役割を担って下さることになる。
   そして沢木氏に続いて 先方の Directorのケリー氏も、本社を訪問された(4月17日)。

   これは、後で仲良くなって ケリー氏が武田に言われたことだが
(確か ケリー氏の車の助手席で。バークシャーで 車に分乗して どこかに向かうときだったか )「テーマパークの仕事は、ドーンと巨額なお金が入って来るのは良いけれど、毎月の現金収入がまったく無いんだ。AS-1の映像ソフトを受注しておけば、(運用次第で)毎月(例えば、米国のアミューズメント施設などから)現金が入ってくるかも知れない」と仰っていた。なるほど。それで SOAに電話してこられたわけだ。しかし、当方にしてみれば AS-1という故障しらずの高スペック揺動装置は完成したものの、高品質の映像と揺動(モーション・デザイン)を製作してくれる会社が無いものかと 本気で探していた最中の電話でしたので 助かりました。と、最後の文章は 私の心の声。


   ※ AS-1の 購入希望オペレータ向け設置条件。便利なので、宣伝部や役員から依頼の雑誌記事に そのまま載せた。

   このあと 6月から7月にかけて、ライドフィルム社から日本市場のフィージビリティ(採算性)を問い合わせる FAX が来て、AM5研では 検証を「前例無し」「料金仮定」で山のようにシミュレーションして資料を FAXで せっせと送った。確か、送付状(表書き)が手書きの時代。これは もっと後の話になるが、〇〇〇遊園地に仮の映像を乗せロケテストを行なったところ、AS-1は 自社最高のロケテスト売上を示して採算性を証明し 戦略商品になってしまった。ともあれ、それは ずっと後の話で、この当時は、何だか分からないけれど面白いものが作れそうだったので、皆な、がんばっていたのだ。

   ともあれ、トランブル氏との出会いは、思いがけない形で、
   VRにとっての Reality とは 何か、という 私たちが その頃 探し求めていた関心事に、
   正解に 最も近い アプローチを教えてくれることになった。(【注釈U-i】)
   そして、
   当社にとっては歴史的な、90年9月26日のミーテイングが 本社で行われた。

   このときの会議で、やろう、という合意はできたのだったが・・・。朝の10時に、ケリ一氏、社長のガーナー氏、日本の窓口の沢木氏、そして嬉しいことに トランブル氏の 4名が、セガ本社を来訪された。後で考えると、トランブル氏には 他の部署にも声を掛けて 工場バックヤード見学の別メニューを用意してあげれば良かったと思う。会いたかった社員も、多かったことだろう。ともあれ、いつもの VIP専用の 社内観光巡回コースで 研究開発の現場をざっと見て頂いてから、AS-1の設置してある倉庫にご案内し、試作機に乗って頂いた。
なかなか、好感触。
   それで お昼になったので、近くのファミレス「サンデーズサン」で、皆で昼食をとった。ここまでは、とどこおりなくプログラムは進行した。

   この後が 会社の歴史に残る「ライドフィルム社との 9時間の交渉」。我が社の出席者は、最初に 中山社長が ご挨拶して退席されたあと、S木本部長、K澤部長、武田、W辺さん、そして O形武徳氏も おられた筈だ。

   申し訳ないけれど、本Blogは 抜粋なので、その攻防は 割愛させて頂く。トランブル氏は、会議の途中からお金の話しに飽きて、タクシーで一人、ホテルに帰ったのだけれど、残った人たちの話し合いは更に続いて なかなか妥協点が見つからない。夜の 7時に、ライドフィルム社が金額を提示。双方握手して、別れたけれど、皆な、かなり疲れていて、彼らは わき目もふらずにホテルへ。そうか、日本からアメリカに行った時と同じで 来日した方たちも 時差でまいっていたに違いない。配慮が足りず、大変失礼しました。このあと、26日の会議の内容を確認する手紙
(10月1日付け)が届き、ライドフィルム社は、翌年(91年!)2月の幕張のtrade show(AOU)までに作品をつくる努力をする・・・はずだった。

 ○ 『バックトゥザフューチヤー・ザ・ライド』の試作機

   90年11月12日、私たちは米国ボストン近郊の マサチユーセッツ州フーサトニックにある バークシャー社、Berkshire Ridefilm Corporationに招待された。先方が用意してくれた ライドフィルム本社での「式次第」は、以下の通り。

   Greetings and Introductions
   “Back To The Future" Ride
   Tour of Mill Complex
   Meeting in Executive Conference Room
      Topics for Discussion
   IAAPA
   “Top Fly” update
   AS-1 Prototype and Rollout update
   Video Game market
      Luncheon

   お出迎え。
   『バックトゥザフューチヤー・ザ・ライド』試作機に試乗
   ライドフィルム本社、兼スタジオ見学(ここは歴史的な織物工場跡だった。)
   役員会議室での会議
      会議の内容
   IAAPA
   (90年の国際パーク施設展示会IAAPAには、我が社とライドフィルム社が夫々ブースを
   設け出展していた。)
   ライドフィルム社から提案されていた AS-1作品『トップ・フライ」について
   AS-1の試作機1台を、ライドフィルム社まで 船便で送ってくることについての相談
   日本のアーケード・ゲーム市場について
      昼食

   昼食は、Trumbull氏のお嬢さんが、みんなにピラフを作ってくれた。
   眺めの良い部屋で
   トランブル氏も加わって一緒に食べた。

   ライドフィルム社の Executive Conference Roomでの Meetingでは、本当は、しなければいけない、いろんな話しがあったけれど、手元に残っているメモには、着いて最初に乗せて頂いた”Back To The Future the Ride”(BTTR)の、仕様だとかストーリーの説明ばかりが書いてある。
   会議室の先方の出席者は、Nick Kelleyさん、John L. Gerner氏、当社向けの作品の監督をしてくれる Arish Fyzeeさん、当社向けの作品のプロデューサ Eugeanie Sillsさん、Bernard Plishtin氏、それから 後に先方の法律交渉窓口として長~いおつきあいが始まる Maura Modlishさんたちだった。

   なお、日本からは S木本部長を含めて 総勢6名。

   実は、会議室にいた当社のメンバーは 全員、今見てきた『BTTR』の映像が 頭の中で渦巻いていたのではないだろうか。さすがに スピルバーグ監督が「最高の(モーション)ライドだ!」と折り紙をつけただけのことはあって、訪問客全員が、かなり興奮していた。

   この後にいろんな事があったので、これは先に貰ったご褒美だ。

   ということで、試作機のスペックをここに記しておく。

   本番の ユニバーサル・スタジオでは、直径80フィート(24m)の巨大なスクリーンを使用して”Back to the Future-The Ride”を上映するのだが、試作機のスクリーンは 30フィート(9m)。でも、それにしても、視野をおおう でかい画面に変わりはないし、スクリーンまでの距離が近いので臨場感が高い。メディア美学者の武邑光裕先生も、「試作機で観た方が ユニバーサル・スタジオより没入感が高かった」と仰っていた。Fyzee氏によれば、本番の映写設備を担当することになったオムニマックスの技術者(IMAX社の社員)も「80フィートなんて大きさのドームに投影するためのランプは、生まれてこの方、見た事がなかった」とも言っていたそうだから、もしかすると 距離が近い分、試作機の方が明るかったのかもしれない。背面にあるスピーカからの音を通すために、スクリーンには丸い小さな穴が全面に空いている。たしか表面が、アルミ蒸着で作られたスクリーンだった。その大画面の中に、8人乗りのデロリアンに乗った観客が、せり上がって行くのだ。

   ストーリーは、ご存知の方も多いだろう。

   悪役のビフが新型のデロリアンを盗んだので、あのドクター・ブラウンが、「大変だ、皆、来てくれ」と観客を呼びにくる。試作のデロリアンに乗り込んで、ビフを追って空に飛び立った観客たちが 映画の「未来篇」の主人公の役割を追体験して、街の中を看板などを壊しながら飛び回ったり、時間を飛び越えた過去の世界で恐竜に食べられそうになったりしながら、最後にはビフを追い詰めて盗まれたデロリアンを取り戻す、という明快なお話し。このアトラクションは人気が高く、休日には2時間待ちになったそうだ。

   ライドフィルム社のつくった”Back to the Future-The Ride”のメイキング・ビデオを頂いたが、そこに観客インタビューが入っている。皆、すっごく楽しそうで、ひたすら興奮している人もいた。観客が乗り込むデロリアンのモーションデザイン(揺動)が、また上手にデザインされている。この時には、ライドフィルム社は「モーションデザインも自分たちのノウハウだから、試作機が米国に届いたら 米国で揺動を完成させて、データが記録された ROMだけを渡すから」と言っていたのだ。

   それで、
   役員会議室の「会議」だが、まあ、数日後にまた IAAPAの会場で会えるのだから 細かな話はそこでしよう、ということになって ライドフィルム社を辞した。ナイス スケジュール。確か、空港まで我々一行はリムジンで送迎。バークシャーのこじんまりしたホテルも、オーナーの女性が感じが良く くつろいだ雰囲気。公開前の『BTTR』の試作機に乗せて貰って、昼食をごちそうして貰って、それでは また。だったので、考えて見ると とても豪華な出張だった。

 ○ IAAPAの会場にて

   以下次号



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   映画『ブレードランナー ファイナル・カット』予告編【HD】
   2019年9月6日(金)IMAX2週間限定公開
   https://www.youtube.com/watch?v=UNILYK8zIfg
   なお、未来の建物が イタリア未来派の そっくりさんであることに注意。
   サンテリアの1914年のイラストを【注釈L】に載せました。


   【注釈L】一五三〇年 フランソワ1世が イタリアから「旬」の画家たちを呼び寄せたことで、フォンテーヌブロー派のマニエリスム https://www2.rku.ac.jp/sano/Paysage/Ile%20de%20France/Fontainebleau/Fontainebleau.htm は、宮殿内装の「豪華さ」と「上品さ」の調和を示しました。フランスの宮殿(の 気品)は これを踏襲します。ところで、若桑氏が『マニエリスム芸術論』学芸文庫版 p.421に指摘された通り ”ヴァザーリ『列伝』序文に曰く、神が天地創造の時 人間を作った。そのとき神が人間に色を お付けになったと同じ顔料が、見事な絵具として 大地から取り出され ルネサンス絵画に用いられるのは 恩寵である(本Blogの意訳)” ということで、国王が 上質で高価な絵の具を 画家に使わせたのは、「信仰心」の誇示 でした。イタリア画家の力量は フランスの内装の伝統を いい塩梅に定めました。中央は「ガブリエル・デストレとその妹」(ルーブル美術館)と、ベンヴェヌート・チェッリーニの 有名な「黄金の塩入れ」。
   ちなみに ヴェルサイユ宮の鏡の間を ルイ14世が造らせたのは、フォンテーヌブロー宮の約150年後のことでした。鏡の間は 1684年に完成します。また、マリー・アントワネットの夫 ルイ16世の時代は、そこから更に 100年後。アントワネットは 16世紀から18世紀に及ぶ 250年のフランス宮廷美術・内装の蓄積をふまえ、自身の居室の内装、身のまわりの品々を選びました。そして 面白いことに、皇帝ナポレオン三世の妻 ウジェニー・ド・モンティジョが、マリー・アントワネットの残した美意識を なんでも大切にして 評価しています。・・・ナポレオン三世は 1870年に失脚するのですが、ルイ16世の妻の美意識は「ルイ16世様式の家具」などの この時代の流行を巻き起こし(「プルースト注釈書」にそう書いてあります)そこから急速に華開いた 19世紀末ジャポニズム+ベルエポック という絢爛たるパリがあって、1871年生まれのプルーストは この都会で 成長しました。

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   Fellow 武田 ( VR奥儀皆伝(8½)(68 ⅚)【注釈U-g】AS-1物語 )
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