江戸末期、文化14年、能勢(野間町出野)の農家(当主辻家)の屋根裏から竹筒に入った遺書が発見される。
遺書の日付は600年前の建保5年(1217)。書き手は、藤原経房という貴族で、息子にあてたもの。清盛の妻(大河では松阪慶子か)の命により、壇ノ浦から安徳天皇を守って、能勢まで逃れてきたこと、安徳天皇は1年後にこの地でなくなるが、その墓を守ってきたという驚くべき内容。この古文書は江戸の能勢領主にまで届けられ、松平定信も見たそうだ。
江戸や京大阪でも話題になり、贋物だとか大いに議論があったそうだけど、数年でブームは去り、その後、忘れさられる。そりゃそうだよね。江戸の庶民にとっては、それがどしたん、という感じかもしれない。わたしも、平家物語は読んでないし、安徳天皇といってもぴんとこないや。
滝沢馬琴や国学者判信友などはニセモノだと断じたが、大阪の文人木村蒹葭堂などは擁護したそうだ。
この古文書の現物は明治になって行方不明になるが、江戸時代、能勢の隣の池田の国学者山川正宣という人が熱心に写本を作っていたので、現在でも読むことができる。
明治35年、安徳天皇を祭っている岩崎八幡社の下から平家時代の壷や鏡、刀などが発掘されており(国立博物館に所蔵)、安徳天皇の墓と伝わるものは全国で13ヶ所あるそうだけど、ここが一番信頼度が高いそうだ。
画像の本は図書館で見つけた能勢初枝「ある遺書ー北摂能勢に残るもうひとつの平家物語」〈発行クレイ2001年)。
これは、発見された遺書の現代語訳と原文をのせ、筆者の推理も加えたもの。読みやすい。
安徳天皇陵跡地、車で15分で行けるところです。また、追って報告します。
05/10/23