06/02/08 11:58
第2回 堤康次郎氏の経営と西武グループ
総会屋に対する利益供与事件から経営危機にまで陥った西武グループ。創業者である堤康次郎氏は、いち早く土地開発に目を付け、一代で巨大企業グループを作り上げた立志伝中の人物だ。
だが、その一方で「土地を二束三文で買い叩き暴利をむさぼる」、「税金を払わない」、「過小資本と複雑な資本構造」といったダーティーなイメージが付きまとう。現在、西武グループが直面している危機も、その元凶は、康次郎氏が作り上げられた仕組みにある。
堤康次郎氏の経営とは、どのようなものだったのだろうか。
事業の失敗は数知れず
康次郎氏が本格的に事業に乗り出したのは早稲田大学在学中のことだ。後藤毛織の株主総会に出席し、乗取屋に追及されていた社長を弁護した。これをきっかけに後藤毛織の株式を取得し、5000円の元手を6万円に増やした。さらに、この6万円を元手に三等郵便局長の権利と渋谷の鉄工所を手に入れた。大学卒業後も次々に事業を展開する。
ただし、康次郎氏が事業で成功するのは戦後のこと。戦前は、何度も倒産の危機に直面した。
買収した鉄工所は注文先の倒産やずさんな経営で倒産。続いて、石炭の掘削に進出するが、搬送手段がなく失敗。大隈重信の要請で雑誌「新日本」の経営に携わったものの、返本が相次ぎ、廃刊となった。
1918年には、第一次世界大戦の好景気に目を付けて、名古屋の海運業者である波越汽船を買収し、海運業に進出した。しかし、石炭の積み出しのために名古屋から室蘭に向かう途中の船が、行方不明になってしまった。
真珠王・御木本幸吉氏の向うを張って鳥羽で真珠の開発をしたこともあった。これも、うまくいかなかった。
度重なる失敗の中で康次郎氏は、「自分は世の中に生きている値打ちのない人間なんだ」と思いつめることまであったという。そんな中、決断したのが不動産の開発事業への進出だった。
不動産業に転進して運をつかむ
当時の不動産事業は、特定の支配者がいるわけではなく、自由に事業を展開することができたからだ。今で言うベンチャービジネスだった。
最初に着手したのが軽井沢のリゾート開発である。これが成功し、箱根の開発にも着手できた。1919年に箱根・強羅の土地10万坪を取得。本格的な箱根開発に着手するために、1920年、箱根土地(現コクド)を設立した。
その後、芦ノ湖の湖上交通にも着目、箱根遊覧船を買収した。さらに湯河原、三島、伊豆半島にまで開発を拡大。1921年には、沼津と三島を結ぶ唯一の交通網である駿豆鉄道を買収した。
康次郎氏は、経営権を巡って内紛が起きていた駿豆鉄道の株式6000株を取得して、社長の白井龍一郎氏から経営権を奪取した。このとき、白井氏から依頼された文化会会長の岩田富美雄氏は、所有する株式を売却するようピストル片手に康次郎氏を脅迫した。
しかし、康次郎氏はひるまなかった。このことから、「ピストル堤」と呼ばれるようになったという。
伊豆と箱根の開発を巡っては、東急グループ(現在の小田急グループ)と闘った。のちに、作家・獅子文六氏の小説「箱根山」に取り上げられ、“箱根山戦争”と呼ばれるようになったものだ。
東急グループから分離独立した小田急グループ傘下の箱根登山鉄道と、箱根土地傘下の駿豆鉄道(現伊豆・箱根鉄道)が、箱根におけるバスの路線と湖上輸送をめぐって戦かった。
芦ノ湖を航行する西武系の「箱根遊覧船」に対抗してできた「箱根観光船」を、小田急が裏でバックアップ。対抗するため康次郎氏は、同氏が日本で初めて造った「自動車専用有料道路」(早雲山・湖尻間)において、箱根登山鉄道のバスの乗り入れを拒否。これが訴訟合戦に発展した。
その後も両社の闘いは、20年以上にわたって続いた。両社のボスである五島慶太氏(東急電鉄会長、小田急代表)と康次郎氏が相次いで亡くなったことで、両社は和解した。
しかし、乗っ取りで名を馳せた“強盗慶太”と“ピストル堤”の戦いとして今でも語り次がれている。
宮家の土地を買収し、プリンスホテルを建設
康次郎氏のビジネスが本格的に拡大するのは戦後になってからだ。昭和初期に経営危機に追い込まれた箱根土地は、不毛地に道や水道などのインフラを整備して付加価値を付ける土地開発から、ブランド力のある都心の土地を買収し開発するビジネスに、その重心を移していった。
そして戦後、康次郎氏が着目したのが、東京都区部にあった旧皇族、大口土地所有者の土地の買い入れだった。
皇族が邸宅地を手放すようになったのは、1946年5月。GHQ(連合国総司令部)が、課税免除を含む皇族の特権を廃止したことがきっかけだ。秩父、高松、三笠の直宮家を除く11宮家に、臣籍降下と財産税の納付を申し渡した。
しかし、宮家が自力で財産税を支払うのは容易なことではない。将来設計をするために、康次郎氏をビジネスパートナーに選んだ。
康次郎氏は、1950年に朝香宮邸を、翌51年には竹田宮邸を買収した。さらに、53年に北白川宮邸、54年には李王邸を買収した。
康次郎氏は、これらの取得費用を支払うに当たって、一つの工夫を施した。手付金のみを支払い、残金は残したまま、利息を支払うことにしたのだ。
例えば北白川邸は1万2000坪。坪単価8000円、総額9600万円の価値があった。これに対して、手付金500万円と中間金1000万円はすぐに支払ったものの、残金は支払い猶予金として支払わずに残し、年間1割の利息を支払うことにしたのだ。
康次郎氏には、小さな資金で大量の土地を取得できるメリットがある。宮家にとっても、長期間にわたって生活の保障が確保できるというメリットがあった。
康次郎氏は、取得した宮家の屋敷や庭園を転売することなく、そのまま生かす道を選んだ。そして、庭園を利用してつくったのがホテルである。
旧竹田宮邸には高輪プリンス、旧朝香宮邸には芝白金迎賓館、朝鮮李王家邸には赤坂プリンスを建設した。これらの土地が持つブランド力を最大限に利用するために、「プリンス」の名を冠したと言われている。
西武グループに対する康次郎氏の執着は強く、近親者たちには「竈(かまど)の灰まで堤家のもの」だと教えていたという。また康次郎氏自身の屋敷も会社名義にし、家の修理代、電気代、固定資産税、運転手、書生・女中の給与もすべて会社負担として節税・節約した。
またグループ企業の資本は小額に押さえ、持ち株会社であるコクドを通して堤家が支配できる体制を作り上げた。コクドの株式は、堤家の名前が表に出ないよう、役員らの名義を使って保有した。その詳細なやり方については次回に譲る。
康次郎氏の節税策や資本政策は、当時は、西武グループという“家業”を守るための知恵だったのかもしれない。しかし康次郎氏が生きた時代と今とでは、時代背景が大きく変っている。
コンプライアンスに対する考え方も全く違う。であるにもかかわらず「“家業”を守るための知恵」をそのまま放置し、経営の近代化を図らなかった後継者たちの責任は重い。無責任に放置された負の遺産が今、西武グループに重くのしかかっている。
(松崎 隆司=経済ジャーナリスト)
松崎 隆司(まつざき たかし)
経済ジャーナリスト
中央大学法学部を卒業後、経済誌の出版社に入社。経済誌の記者やM&A専門誌の編集長などを経て1999年独立。
経営論から人事、M&Aなど経済全般について取材を進めている。11月には「知っておきたい昭和の名経営者」(三笠書房)を出版する予定。
主な著書
「会社破綻の現場」(講談社)
「闘う経営者」(実業之日本社)
「商売のしくみとしきたり」(日本実業出版社)
2006年1月25日 NIKKEI BP
カテゴリー:人物・伝記