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冠婚葬祭の変遷 8 『冠婚葬祭入門』の影響力  国策報道

A.婚儀と葬儀のスタンダード・・恥をかかないために 
 いまは誰もが結婚をし結婚式と披露宴をやるとは限らない時代になったが、戦後日本では高度成長の頂点を過ぎたころ、1970年くらいまでは、誰もが結婚して当たり前、30半ばまで未婚なのは男女とも、なにか問題があるのかと噂さえる状況だった。ぼくも30歳過ぎても結婚していなかったので、親戚などは心配して見合い話を持ってきたことがあった。考えてみれば余計なお節介だと思っていたが、「世間の目」というのはそういう感じだった。今はもうそういうことは希薄になっているので、よかったと思うが、お葬式の方は高齢化社会でもあるし誰でも例外なくいつかはあの世に逝くのだから、お葬式に参列することはよくある。結婚式はいろいろ華やかなイベントにするのが今も続いているが、お葬式の方は、故人の考えはあまり反映されず葬儀社とお坊さんがだいたい昔からこうやっている、というからその形でやる人が多く、仏教式にお経を聞きながら霊前にお焼香して手を合わせていれば、まあそれでいいということになっている。いったい、この婚儀や葬儀のやり方はどこで誰が決めたのか?よくわからない。そう思ったら、塩月弥栄子の『冠婚葬祭入門』という本が、1970年に出て、これがかなり大きな影響を与えたと思われる、と斎藤美奈子さんは書いている。

 「唐突だが、冠婚葬祭のキーパーソンは誰だと、あなたはお思いだろうか。
 それは45~55歳の男女である。
 もちろん前後10歳ほどの幅はあり、時代や性別、ライフスタイルによってもちがうのだけれども、それが「家族のイベント」である限り、冠婚葬祭デビューはおおむね50歳前後。50歳、それは娘や息子が結婚年齢に達し、同時に親の死に直面する年代だ。
 1970年に50歳になった父と、45歳になった妻をモデルケースに考えてみよう。夫は1920(大正9)年生まれ。妻は1925(大正14)年生まれ。敗戦時に25歳と20歳だった二人は見合いで結婚し、数年の間に三人の子どもが生まれた。1920年代生まれとは、つまり団塊世代の親の世代なのである。
 ところで、ここでのポイントは、この世代にはきょうだいが大勢いたことである。五人、六人はざら。そこで長兄が親元に残って親と同居し、下のきょうだいは進学や就職や結婚を機に家を出た。この二人も親元を出て就職し、結婚した口である。
 1970年、息子が結婚する。会社で知り合った相手との恋愛結婚である。
 戦後の貧しい時期に結婚し、まともな結婚式を挙げられなかった二人は息子には立派な婚礼を挙げさせたいと考える。幸い多少の貯えもある。一方、息子には息子の事情があった。媒酌人は上司に依頼し、会社の先輩や同僚を披露宴に招くつもりだという。また、息子は大卒、婚約者は短大卒だから、学生時代の恩師や友人も招かなければならない。
 そこで選ばれたのが、ホテルでの神前結婚式である。
 挙式には、新郎側15人、新婦側15人、計30名のきょうだい(新郎新婦にとっては、おじおば夫妻)が列席した。神前結婚式場にはちょうどいい人数である。それは全国各地に散ったきょうだいが一堂に会する機会にもなった。披露宴には親戚一同に加えて、新郎新婦の会社人脈、学校人脈の人々が集まった。宴は華やかなものになった。
 おわかりだろうか。この時代の結婚式は、血縁+社縁+学校縁で成り立っていたのである。神前結婚式が流行ったのは、べつに人々が信心深くなったからではなく、神前結婚式+披露宴のパターンが三方丸く収めるのに合っていたのだ。
 さて、そうこうするうちに夫の父が亡くなった。きょうだい全員が田舎の家に駆けつけた。一歳上の彼の長兄は戦後の混乱期に、裸一貫から事業を興した人である。財を貯え、父母を引き取り、立派なマイホームも建てていた。葬儀には長兄の部下が駆けつけてきて、裏方を手伝った。近所のご婦人たちが集って、台所の裏方を担当した。
 式は盛大に行われた。長兄には長男の面子もあったし、仕事の関係者も弔問に訪れるとなれば、みっともないことはしたくない。幸い親戚が多く、兄の顔も広かったから、立派な葬儀が出せた。息子たちが出世したおかげだと、おやじもあの世で喜んでいるだろう。
 と、これが1960年代から日本中を席巻した、高度成長期型の結婚式と葬式だ。きょうだいの多さと、企業ぐるみのおつきあい。それがベースで、結婚式にはさらに学校縁が、葬式には地縁が加わる。費用はかさむが、人がにぎやかに集まり、祝儀や香典も多かったから、互いに支え合う(義理を果たし合う)ことができた。
 儀式の形は、ひっきょうその時代時代のコミュニティのありよう、平たくいえば「みんなの都合」のすりあわせによって決まる。神前結婚式+披露宴というスタイルは、つまることろ親戚(きょうだい)が多くて、しかも彼ら彼女らが全国各地に散り、なおかつ終身雇用制の企業社会が生きていた時代の暮らしに合っていたのである。
 そして、このように日本の冠婚葬祭が全国一律のスタイルに傾き、人々が新しいルールを求めるようになったころ、一冊の本が出た、塩月弥栄子『冠婚葬祭入門』である。
 『冠婚葬祭入門』が光文社カッパブックスの一冊として発売されたのは1970年1月。一年で300万部をこす空前のベストセラーとなり、10月には『続 冠婚葬祭入門』も発売された。この二冊と翌年の『続々 冠婚葬祭』『図解編 冠婚葬祭入門』の四冊あわせて、じつに700万部に達したという驚異の物件である。
 この本がそこまで売れた背景に結婚ブーム(団塊世代が結婚年齢に達した)があったことはまちがいない。つまりこれは時宜を得た本だったのだ。
 編集のテクニックにも秀でていた。上下二段組で、一項目につき二分の一ページ。390項目の見出しだけ見れば、必要なことが一目でわかる構成は、それまでのもたもたしていた冠婚葬祭マニュアルの景色を一変させた。これにはカッパブックスというパッケージの力もあっただろう。『英語に強くなる本』(岩田一男、1961年)から『頭の体操』(多胡輝、1966年)まで、60年代のカッパブックスはベストセラーを量産していた。新書というコンパクトな容れ物に、それはピタッとハマったのである。
 内容も斬新だった。冠婚葬祭のしきたりを知らない戦後世代に受けたのだ、と思われがちだが、事実は少しちがったのではないか。というのも『冠婚葬祭入門』が教えるマナーは、60年代以降に一般化した式に準じていたからである。
 象徴的な(小笠原流を崩した)自宅結婚式を、〈地方では今でも自宅での結婚式、披露宴が多く〉という書き方で、わずか1ページに圧縮してしまったことだろう。
 うがった見方をすれば、それは日本の作法の中心が、江戸時代以来の小笠原流礼法から作法の伝授者としては新興の裏千家の手にわたった瞬間、だったかもしれない。
 周囲のように、著者の塩月弥栄子は、裏千家の十五代家元千宗室の姉である。
 文化人類学者の加藤恵津子は、1969年以降、宗室が「茶道は総合文化である」というキャンペーンに乗り出したことを指摘し、〈千家の一員としての血筋が、塩月に「日本の伝統的作法」全体としての権威者としての資格を与えた〉と述べている。そして70年代からの塩月の旺盛な出版活動は、裏千家の「男は芸術/女は作法」という戦略とも呼応するというのである(『〈お茶〉はなぜ女のものになったか』)。
 自宅家婚式などというのは、この当時でも、すでに時代遅れだったかもしれない。しかし、伝統の儀式がここで引導をわたされ、やがて人々の記憶からも消えてしまったことは、冠婚葬祭マニュアル史的にいえば大きな変化なのである。
 その他の点でも、この本は、それまでの類書とは多くの点でちがっていた。
 ①「婚」のいかがわしさを払拭したこと
 『冠婚葬祭入門』における「婚」の章は、従来の類書と大きくちがっている。
 マニュアルに徹することで、説教くさい部分、理屈っぽい部分はすべてカットする。
 さらに特筆すべきは、自宅結婚式もろとも「床入りの式」「新婚初夜の心得」に類する淫靡なセックス情報がきれいに消去されたことである。思えば従来の冠婚葬祭マニュアルは、占いや優生思想もさることながら、「床入り」「初夜」の呪縛から逃れられなかったために、どう転んでもいかがわしい雰囲気がぬぐい去れなかったのだ。
 初夜情報が消えたのは「結婚までセックスはご法度」という規範がゆるんだこととも関連するだろう。『女性自身』『女性セブン』から、『明星』『平凡』『平凡パンチ』『週刊プレイボーイ』まで、1950~60年代に続々と創刊された若い女性向け、男性向けの週刊誌には、すでに性情報がいっぱいだった。親や仲人が「あの子はうまく初夜をのりきれるかしら」なぞと思い悩む奥床しい時代は、よくも悪くも終わったのである。
 占いも消えた。六輝を完全否定してはいないものの、〈式日を選ぶ場合は、大安とか仏滅などを気にするよりも、当事者や列席者に都合のよい日時を第一に考えるべきです〉(「結婚式の日取りは、参列者の都合のよい費が吉日である」)と述べる。
 身元調査や健康診断についての項目だけは残念ながら残った。
〈(仲人が)不安を感じる相手なら、見合いの前に身元調査をするに越したことはありません。調査は興信所に依頼するなり、先方の勤務先や出身校、友人、隣近所などで、それとなく評判をききます〉(「身元調査は見合い前にするとよい」)
 〈肉体の病気以上に重大なのは精神の疾患で、もし結婚相手やその家族に疑問があれば、知ろうと判断をせず専門家に相談することです〉(「結納と一緒に健康診断書を交わす」)
 このへん完全払拭できなかったのは時代の限界だろうか(現在発行されている『冠婚葬祭入門』にこの項目はない)。それでも書き方は旧来に比べてかなり慎重である。

 ②「葬」の所作をはっきりさせたこと 
 以前の冠婚葬祭マニュアルで、「婚」以上にわけがわからなかったのは「葬」である。素っ気なさすぎたり、細部に入りこみすぎていたり。『冠婚葬祭入門』は必要最低限の作法を示すことで、そのモヤモヤした部分に輪郭を与えた。
 これは「婚」のページにもいえることだが、もともとの「しきたり」を右から左へ伝えるだけでなく、著者ならではの踏み込んだ提案もまじっていた。
 〈喪服に、真珠のアクセサリーをつけてもよい〉、〈香典包みの中包みにも、金額と氏名を明記する〉、〈「御霊前」ということばは、どの宗派にも通用する〉、〈お悔やみのことばは、月並みなほどよい〉、〈大きな告別式では、遺族に直接お悔やみの挨拶を述べなくてもよい〉などは『冠婚葬祭入門』が広めたマナーといえるだろう。
 喪家に対するアドバイスも、葬儀社が仕切ってくれるだろう部分は割愛し、近親者が直接関与する部分だけに的がしぼられている。
 〈葬儀料、僧侶へのお布施、弔問客の接待費など、葬式にはかなりの費用がかかるうえ、戒名まで金で買うのです〉(「戒名は、大居士、居士、信士の順で値段がちがう」)とチクリとやってみたりするかと思えば、こんな提案もある。
 〈私の仲のよい友人が、私に「もしも自分が死んだら、きれいに化粧した顔だけわずかに出して、白いカーネーションをそのまわりに、あとは棺いっぱいに、大好きな黄色いバラでうずめてもらいたいわ。」と言っていました。これは男性にはわからない女心でしょう〉(「棺の中には、焼けにくいものを入れない」)
 女心(?)に基づくこの提案は、実際にも1980年代から一般化して、現在の葬儀ではすでに定番になっている。出棺前に近親者の手で棺を花で埋める「別れ花の式」である。いや、あれは西洋の葬式で墓穴に土をかぶせる前に花を投げ入れる習慣を模したのだ、という説もあるけれど、いずれにしても、それを採用したのはどこかの葬儀社だ。後の式次第にまで影響を与えたのだとしたら、おそるべし『冠婚葬祭入門』といわなくてはならない。」斎藤美奈子『冠婚葬祭のひみつ』岩波新書、2006年.pp.60-69. 

 人の結婚式やお葬式に行って、このやり方は間違っているなんて言うのは失礼だし、とくにお葬式はいちおう仏教やキリスト教やいろんな宗派によって、形式は決まっているのだろうから、よそ者が文句などいえない。ただ、『冠婚葬祭入門』の普及で、まあいちおうこうやっていれば問題ない、という型ができたのが高度経済成長が行き着いた1970年頃だったのだな。


B.大日本帝国の末期とロシアは似てくるのか?
ウクライナ侵攻で世界から非難が集まっているロシアのプーチン大統領。どんなに非難を浴びても、ひるむことなく戦争を続けるかたくなさは、最終的に何をもたらすのか?そういえば昭和10年代の日本は、満州への侵略で世界から非難を浴び、さらに日中戦争をだらだらと続けた結果、国際連盟を脱退してナチス・ドイツと手を組み世界戦争へとなだれ込んで、結果的に国を滅ぼした。なんか似ている。

 「戦後77年とウクライナ侵攻:過去の日本が二重写し 福島 聡 
 「いかに国際的に悪人呼ばわりを被ったことか」「平和の反逆者であるかのごとくにののしられ、世界的孤立の窮地に陥れられた」「正当なる要求、正義の声が、世界的に封鎖された」
 ウクライナ侵攻をめぐりロシア政府関係者が国際的孤立に不満をぶつけている、のではない。共同通信社の前身である同盟通信社(同盟)が1936年に設立されるのに合わせ、同年版の「日本新聞年鑑」に掲載された一文だ(一部漢字を現代表記に改変」。国策通信社設立の目的を記している。
 日本軍は31年、中国東北部で南満州鉄道の線路を爆破。中国側の仕業と発表して軍事行動を起こし、満州各地を占領した。翌年には満州国建国を宣言し、事実上の支配権を握った。
 国際連盟は中国の主権を認め日本側の主張を否定。反発した日本は33年に連盟を脱退した。孤立を深める日本で、国内の世論統制と対外的な主張発信を目的に設立されたのが同盟だ。日本政府の言い分を代弁することを狙った報道機関だった。
 その後、日本は日中戦争を始め、さらに太平洋戦争に突入。同盟はその過程で、戦争の旗振り役として大きな役割を果たした。
 ロシアのウクライナ侵攻が始まって五カ月余り。太平洋戦争の終戦からは77年となる。ウクライナ侵攻を巡ってはロシア側の一方的な主張と、同国内での強力な情報・言論統制にしばしば争点が当たる。その姿には、かつての日本が二重写しになる。
 戦前の日本でも、国家総動員法で新聞・出版物への記事掲載を制限・禁止できると規定するなど統制が進み、新聞側も戦場に多数の記者を送って軍を後押しする記事を出し続けた。国民は報道される戦果に喜び、熱狂して軍の行動を支えた。
 最近開かれた、中学・高校の歴史教育関係者らの会合を取材していたら、こんな場面があった。ウクライナ戦争を授業でどう扱っているかが問われ、一人の教員が歴史的背景の複雑さなどから、どう扱っていいか戸惑っていると話した。
 それに対し別の教員が「日本が関わった戦争ではどうだったのか。例えばメディアがどう伝えていたかを取り上げてみては」と提案した。日本の近現代史という補助線を引き、対照しながっ理解を深める手法だ。
 今回のロシアの行動には、周辺地域の地理、歴史、民族のほか、冷戦終結以降の国際情勢、関係国それぞれの国内事情など、さまざまな要因が絡み合っている。加えて、現在進行中の出来事を説明するのは容易ではないかもしれない。
 そこでウクライナ問題を入り口にして、日本の近現代史を顧みる、というのは一つの有効なやり方と思える。今国際社会が直面する課題に関する学びと、日本の歩みを検証する学習との間に橋をかけるような、意欲的な授業が展開されることを期待したい。(共同通信編集委員)」東京新聞2022年8月20日朝刊6面、視点・私はこう見る欄。
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