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冠婚葬祭の変遷 6 戦後社会のなかの結婚と葬儀  満州移民のその後

2022-08-17 01:48:22 | 日記
A.選別差別の縁談システム
 戦前のにっぽん「イエ社会」では、婚姻はまず「イエ」の継承存続が第一義の価値で、それを維持する婚姻は、健康で後継ぎの男子を産んで子育てから祖父母の介護まで、家事全般に大活躍する「ヨメ」こそ望ましい女だった(学歴とか容姿とかはど~でもいい)。であるから、ヨメにふさわしい女を厳しい基準で、親や上司や親戚がふるいにかけて選別した。そのような縁談システムが「見合い結婚」だったわけだが、もちろんそういうシステムが対象とするのは、しかるべき財産と社会的地位のある中産階級以上の話であって、資産も学歴もないビンボー庶民は、似たような境遇の男女がなかば偶然に結ばれて、形式ばった大袈裟な結婚式なんか関係なかったんである。そのことは、大戦争を経て憲法や民法が変った戦後になっても、基本的事情はあまり変わらなかった。むしろ、経済復興から高度成長に向かう時代には、中産階級化した大衆も、上流階級の縁談システムを模倣し出すことにもなり、結婚式はその象徴的なイベントになっていく。
 
 「ちょうどこのころから結婚に際して取り入れられるようになった習慣が二つある。ひとつは結婚前に健康診断書を交換すること。もうひとつは、自分で、または親戚か興信所に依頼して、縁談の相手の素姓や品行を事前に調べる身元調査だ。
 例の生活改善同盟会による『結婚の志をり』にも調査と診断書のすすめが出てくる。

 我が国従来の習慣は結婚前に相互の血統だけは十分精密に調査をしますが、精神上に如何なる遺伝があるか等のことは余り調査しない遺憾があるのでございますから、今後は此の点に関して特に注意し、必要条件の一として精密な調査をすることが肝要でございます。

 と同時に〈今後は其の結婚に先立ち最も責任ある医師の診断書を相互に取り交わすことが必要でございます〉として、「結婚ニ関スル健康診断書」の書式までが載っている。
 これというのが、身長・体重・視力・聴力・既往症・骨格・栄養・呼吸器・消火器・神経系・血行系(循環器系)……と細かい項目に分れており、しかも「総評」として、まるで徴兵検査のように甲乙丙丁のいずれかに〇をつけるようになっているのだ。
  ( 中 略 )
 個人情報の保護、などという概念もなかった時代。本当におそろしい。
 もちろんそれは、大事な娘の一生を託すのだ、大事な息子の嫁(というより大事な跡取りを産む女)なのだと思えばその親心、だったのであろう。若くして死んだ詩人の金子みすゞのように、夫から性病をうつされて悲惨な結婚生活を送った人もいた以上、結婚調査が必要なシチュエーションがあったことも理解できなくはない。
 しかし、血縁者の死因まで調べあげるような結婚調査が、この国の優生思想を形づくり、差別の温床となってきたこともまた事実なのだ。
 冠婚葬祭マニュアルは、儀式の型を学ぶためのマナーブックだと私たちは思っている。しかし、セックス、迷信、優生思想に彩られた戦前のマニュアルは、重要な事実を教えてくれる。「しきたり」「常識」「心得」といった口当たりのいい言葉の裏に、看過できない差別思想がじつは隠れているかもしれない、ということである。役に立たないだけならまだいい。有害な思想をそれらが撒き散らかしていたとしたら、責任は誰が取るのだろう。」斎藤美奈子『冠婚葬祭のひみつ』岩波新書、2006年.pp.36-43. 

 次は、大戦争が終わった戦後の結婚事情である。これはこれで、大きく変わったともいえるが、じつはそう簡単には変わらなかった。

 「冠婚葬祭の面から見た戦前と戦後を分けるもっとも大きなトピックスは、日本国憲法の発布(1946年)と民法の改正(1949年)であろう。親族・相続について定めた民法の第四編・第五編が大きく改正されたのだ。
 憲法第24条によって「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」と規定され、戸主を中心とした三世代の戸籍は廃止。かわって登場した新しい戸籍は、夫婦と子の二世代からなり、婚姻によって新しく作成されることになった。
 つまり、ここで「家制度」は廃止された、はずだった。はずだった、といったのは、実際には「家」は温存されたに等しかったからである。戦後数年にわたる日本人の家族は(ということは冠婚葬祭も)、タテマエは改正民法、ホンネは明治民法という、二面性を帯びることになる。そうですね、「半分だけ民主主義」といったらいいだろうか。
 とはいえ、ここで冠婚葬祭を改革する戦後らしい働きがあったのも事実である。
 ひとつは、都道府県(のちには市区町村に移管)が生活改善運動と住民サービスの一環として、冠婚葬祭に参入したことだろう。
 1949(昭和24)年、東京都は都民葬(現在の区民葬の前身)をスタートさせている。低価格の棺と、祭壇及び葬具一式の貸し出しをセットにした簡素な葬儀ではあったが、これは全国の多くの自治体に波及、「市民葬」として定着した。
 また、1951(昭和26)年にオープンした都立(のちに区立)新宿生活館は、人前結婚式のはしりともいえるサービスをはじめている。生活館とは全国の自治体にあった住民サービスセンターのこと。新式の婚礼を発案したのは新宿生活館の初代館長塚本哲。会場には日の丸をかかげ、三々九度の盃の後、憲法第24条を読み上げ、誓いの言葉を述べ、出席者一同の前で婚姻届けに署名をする。宗教者も媒酌人もなし。二人は平服で式に臨み、新婦にはベールと髪飾りが無料で貸し出される。通常の婚礼費用が四万、五万だった時代に、5000円以内でできる式として「生活館式」は話題を呼び、こちらも全国の自治体に波及した。
 だが、それ以上に大きなトピックは、冠婚葬祭互助会の発足であろう。
 互助会は1948(昭和23)年、横須賀市の町内会が一カ月に20円ずつ出し合って万一に備えたのが発端という。入会して毎月一定額を積み立てれば、安い費用で葬式や結婚式が行える。戦時中の「隣組」を基盤としたささやかな事業。
 しかし、積み立て方式が人々の心をつかんだのか、互助会はあっというまに全国的なグループ組織に発展、1950年代後半には直営の結婚式場を持つまでになったのだった。長寿閣(1957年、横須賀市冠婚葬祭互助会。のちに平安閣と改称)、高砂殿(58年、愛知冠婚葬祭互助会)、平安閣(1961年、名古屋市冠婚葬祭互助会)。おおお、そこなら知ってる知ってる、の式場が目白押しである。
 また、互助会の発足に先立つ1949(昭和22)年には、東京の明治神宮に隣接して明治記念館が建設され、これが総合結婚式場の嚆矢となった。
 自治体式の人前結婚式と、互助会や専門式場が提供する神前結婚式の戦いがどちらの勝利に終わったのかは、すでにみなさまご存じの通りである。しかし、その話は後回しにして、先にこの時代の冠婚葬祭マニュアルを見ておこう。
 敗戦後の混乱期もすぎ、この種の本がまとまって出てきたのは1950年代の後半。互助会がめきめき力をつけた時期である。と同時にそれはミッチーブームの前後でもあった。冠婚葬祭業界はロイヤルウェディングで盛り上がる、その法則は今度も踏襲されたのであった。
 1958(昭和33)年11月27日、皇室会議は、皇太子明仁親王(現天皇)と正田美智子氏(現皇后)の婚約を発表、日本中が祝賀にわきかえった。民間から選ばれた初の妃だったこと、「軽井沢の恋」という恋愛結婚であった(とされた)ことなど、そこには戦後民主主義のイメージが色濃く投影されていた。翌59年4月10日の婚儀では、賢所での式と六頭立ての馬車を仕立てたパレードがテレビ中継され、白黒テレビの購買者が急増した。夫妻は三人の子どもを手元で育て、夫婦そろっての皇室外交に努めるなど、戦後的なマイホームのイメージリーダーとして機能し続けることになる。戦中の天皇制像を払拭し、新しい皇室像をアピールするのに、この結婚は絶好のチャンスだったといえるだろう。
 では、当時の冠婚葬祭マニュアルはどんな風だったか。
 概してこのころのマニュアルは、保守的なのから多少革新的なのまで、ばらつきが大きい。巻頭言の差にも、編集方針の差があらわれている。

 戦中戦後の十四年間、これら礼法の無視された空白時代を過ごしてきた若い人たちが、さて結婚式を挙げたいがどういうふうにして挙げるのか、葬式を行わねばならぬがどんな方式で行うのか、と戸惑うのは当然のことであろう。(中略)本書はこの要望に応えて刊行されることになったものである。(藤崎弘編『冠婚葬祭辞典』1957年)

 結婚式と葬儀のエチケットというものはたぶん、現代生活の中で最も古めかしいものを残しているのではないかと思います。(中略)従って今までの本には単に習慣をそのまま記しているものや、明治時代の布告を現代語に直したようなものが多いようです。しかし、古い人間関係に基づいたエチケットは現代には通用しません。(堀口健二『結婚・諸式・弔事の心得』1958年)」斎藤美奈子『冠婚葬祭のひみつ』岩波新書、2006年.pp.50-55. 

 戦後社会を形づくるモデルとしての近代家族、夫婦と子どもが友愛に満ちたマイホームで、支えあい助け合って暮らす理想の家族。その始まりが、キリスト教信者でもないのにチャペルで白いウェディングドレスの新婦が、新郎と永遠の愛を誓う着飾った結婚式という虚構。恋愛結婚というロマンチック・ラヴ・イデオロギーに補強された結婚幻想。それはたしかに、古い「イエ秩序」は脱しているけれど、新しい人間のあり方を導くことができたのだろうか?結婚が社会が要請する選別システムの現れでしかない以上、この近代家族モデルが早晩行き詰ることは避けられないのだった。はっきりいって、結婚式や葬式のやり方のあれこれなんて、人間の幸福とは関係がないと思うほかない。


B.国策の犠牲者は救われる権利がある
 1932(昭和7)年、日本が満州国を傀儡国家として建国し、そこに農村から集めた「開拓団」を送り込んだ歴史。「開拓団」といいながら無人の荒野を開拓して農地にするのではなく、中国人から奪った土地を配分した侵略に近い。そこで、政府の言葉を信じて満洲に渡った「開拓団」の人々の運命は、1945年夏の日本の敗戦とソ連の侵攻によって、悲惨な難民の逃避行に陥った。戦争の終わり方は、この人たちにとって最悪だった。両親を失い現地で残留孤児として育てられた幼児のその後も、当事者以外だれも関心を持たない。国家というものは、国民のためと称してときに最悪の選択をする。それが戦争なのです。

「満州移民と孤老たち:木下 貴雄(王栄) 落葉帰根 せめて晩年は穏やかに 
 二年前に他界した父も中国残留孤児の一人だった。
 1942年、私の祖父が長野県からの「新立屯上久堅村開拓団」の警備指導員として、中国ハルビン・通河県(旧満州三江省通河県)に渡った。同開拓団は、終戦の1945年8月の逃避行の中、四百人以上の尊い命が凍土に散った。長野県が送り出した開拓団中でも志望者数が多い団の一つであった。
 祖父は、終戦直前の現地招集でソ連軍捕虜となってシベリアに抑留され、そのまま日本の地を踏むことはなかった。祖母は父を出産して一カ月足らずで敗戦を迎えた。直後の苦難な逃避行に耐えられず、自殺を図ろうとしたことも、生後一か月の父を断腸の思いで中国人の養父母に託し、同年冬、通河県濃河鎮の日本人収容所で病死した。今も異郷の松花江の畔に眠る。
 父は中国で養父母の愛情を受けて育てられた。師範学校卒業後に教職に就いた。中国人の母と結婚し、男女四人の子を授かり、その一人が私だ。父が中国での社会的地位を敢えて捨てて日本に帰国したのは、いわば、「落葉帰根」であろう。日本人として、たとえ異国で生きていても、最後は必ず祖国の土に還ることを願っていた。
 帰国後、苦労しながら日本語を習得し、賢明に働いてきた父はパーキンソン病を患い、定年後に病状が悪化し、75歳で亡くなった。最期は認知症の症状も現れ、「母語がえり」の現象をはじめ、幻覚や幻聴、徘徊もするようになった。筆談で意思疎通を試みたが、震える手で字がうまく書けず、「無理だよ」という目で私を見つめた父の表情が忘れられない。
  •    * 
 本人にも家族にも言葉の問題は切実で、日本語の不得手なまま介護制度などを理解するのは大変なことである。自らの経験も踏まえ、2014年に仲間と「外国人高齢者と介護の橋渡しプロジェクト」という団体をつくり、専門知識をもった中国語の介護通訳の育成や、日系ブラジル人なども含め外国人のための介護保険のリーフレット作りなどの活動を始めた。
 だが、現状では中国語に対応できる介護施設はまだ少ない。言葉が通じない介護施設での孤独さに耐えきれず、自殺を図るまで追いつめられた人もいる。体も不自由で助けを求めることもできず、数十円のうどんを食べて数日間を忍んだ人も、末期がんの緩和ケアの説明を理解できずに、自宅で最期を看取った中国人の配偶者や、経済的事情で墓を建てることができず、亡き人の遺骨を地に還せずにいる家族もいる。
 孤児が孤老になっただけではなく、孤児に伴って日本に移住した二世たちも老いに向かっている。生活に追われて充分に日本語を学ぶ機会もないまま、いじめや差別を受けたり、非正規の仕事を転々としながら、新型コロナウイルス下で職を失い、困窮に拍車がかかって苦しむ人も多い。無年金問題も生じている。老いた親の介護と自分の老後生活への不安を抱えている。
  •    * 
 父の引き揚げに伴い来日して四十年の今年、私は初めて「岸壁の母」の歌で知られる舞鶴港に立った。私の伯父が昭和30(1955)年、旧満州からの引き揚げ船・興安丸から見えた日本の姿に「母さん、日本に帰ってきたよ」と叫んだという。その時の思いに触れたくなったのだ。平湾に復元された「平引揚桟橋」、引揚記念公園に建つ「岸壁の母」「異国の丘」の歌碑、「あゝ母なる国」の碑、引揚記念館にあるシベリア抑留収容所の模型や体験室。数々の遺留品…。それらを眺めながら、旧満州や朝鮮、シベリアなどから命からがらに引き揚げてきた人たちが、引き揚げ船から遠く見える祖国日本の姿を目にした時、平湾の桟橋に足を踏み下ろした時の安堵感はいかほどだったか、想像もつかない、計り知れないものだったろうと、私は考えていた。
 いま、ここで、声を大にして叫びたい。もう一度、終戦後に国に幾度も見棄てられ、帰国後も幾度も社会に忘れられてきた、満州移民の生き証人である残留孤児たちの存在を思い出してほしい。そして、波乱万丈の人生を送り続け、高齢となった今もなお平凡な老後生活を送れずにいる“孤老”たちのために、もう一度力になって支えてほしい。孤老たちにはもう時間がない。残留孤児たちの存在をみんなで思い出すのはこれが最後のチャンスかもしれない。国策によって、戦争によって人生を翻弄され続けてきた孤老たちには、せめて晩年くらいは心身ともに平和で穏やかであってほしい。終戦七十七年目の夏、そんな願いを込めて…。(きのしたたかお=外国人高齢者と介護の橋渡しプロジェクト代表)」東京新聞2022年8月16日朝刊19面こころ欄。
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