A.笑える「床入り」マニュアル
結婚式というものを、花婿の自宅で執り行うのが当たり前であったのが、江戸時代から明治大正と続く伝統で、花嫁はまさに育った家を出て、村の道を行列をして相手の家に「嫁入った」わけだった。そこには宗教色はあまりない。仲人をはじめ親族居並ぶ座敷で、三々九度の盃をかわし、宴会となり、その夜が「初夜」となる。これは昭和に入っても、広く行われていたから、神社で神に夫婦の契りを誓う神前結婚式が普及したのは、意外に新しい昭和になってからだった。良家の娘は結婚するまで「純潔」でなければいけない(実態はともかく)、と信じられていたから、結婚式の夜とは即「初体験」が予定されていて、男子の方は遊郭のある時代だから童貞ではない人が多いわけだろうが、女子の多くはそういう知識は与えられていない。そこで冠婚葬祭マニュアルの婚儀の項には、性教育指南が必要だったわけだ。厳かな儀式の形をとりながら、今から見ると相当笑える。こんなこと大真面目に言ってたんだ(マジ?)。
「冠婚葬祭マニュアルに、性教育を入れなければならない理由もあった。小笠原流(を簡略化した自宅結婚式)では、なんとセックスが儀式に組み込まれていたのである。
前節の冒頭で、自宅結婚式の手順を述べたのを覚えているだろうか。じつをいうと、式はあそこでは終わらない。ラストを飾るのは「閨盃(ねやさかずき)の式」である。
昭和初期のマニュアルからその部分を拾ってみよう。
総客の酒宴の中途で、婿は侍女郎に案内されて嫁の部屋へ参ります。これより先に、介添女は新夫婦の寝床を布いて置きます。(中略)男は上座に、女は下座になるやうに寝床をとるやうにします。/盃事は、夫婦の前に巻鯣(まきするめ)を乗せた三方と、盃一個を乗せた三方と銚子を出し、冷酒にて献々(こんこん)の盃事をするのであります。(中略)そこで酌人は退(さが)り、侍女郎は夫婦を寝床に導きます。この際、婿は気を利かして手水(ちょうず)に立つやうにします。その間に嫁を先に臥せられるのです。若しまた婿がその儘(まま)其処(そこ)に居れば、付添いの者は場合を計つて寝られるやうに勧めて宜いのです。いづれにせよ、嫁の方は婿より先に寝るのが法ですが、場合に依つては婿が先になつても構ひません。嫁の介添女は次の間で臥せるのであります。(『日本婚礼式』)
「床入りの儀式」とも呼ばれるように、つまるところ、これは「ベッドィンの儀式」である。同じ邸内ではまだ宴会をやっており、隣室では不測の事態にそなえて見張りの女性が耳をそばだてている(たぶん。いや絶対)のだからたまらない。
事実、「不測の事態」も少なからずあったようで、「床入りの心得」に出てくるのは、ホントかウソか分からないような「事故」の数々だ。
高砂に三々九度の盃も花耻(はなはず)かしい色直しの席も済んで、いざ床入りといふことになります。蘭燈影ほのかな翠帳紅閨の中から、俄に悲痛な叫びが起つて花婿は周章狼狽し、人々は騒ぎ、結局目出たかるべき結婚の夜に医師を招かなくてはならぬやうな事が起ります。この原因は膣痙攣といふ病からで、一旦かゝる目に遭うた新婦はその後も性交を嫌怖し、遂には性不感症に陥るのであります。(『結婚礼式一切の智識』)
はたまた、生殖器の異常(無膣や処女膜の肥厚は重大な欠陥なので事前に医者に見せておけ)、局部負傷(初夜に乱暴な成功をすると膣が裂傷をおこす)、月経(双方が狼狽する。そのために婚礼の日取りは月経日を避けるのがこの時代の常識であった)、女子の恥毛過多(やはり乱暴な性交をすると恥毛で負傷するという。本当だろうか)。
さらに各書が口をすっぱくして説くのは、男女の「生理」のちがいである。
新郎はその夜をやる気満々で待ちかまえているが、新婦は不安と恐怖のどん底にある。この差を無視して性欲のままに新郎が襲いかかると、新婦は必ずや不感症になる。そこで新郎は事を急がず気長に待て、「儀式的な初夜の行為」は不成功に終わるほうがよい、といったいましめが語られる一方、新婦には新婦の心得が説かれるのだった。
〈苟(いやしく)も人妻となるものは、単に精神的や労役的に犠牲を其(その)良人(おっと)の為めに払ふのみならず、肉体的にも犠牲を払はねばならぬものであることを、結婚の夜に先立ち懇々と能く説き教え置くべきであります〉(『日本婚礼式』)
ベッドの中でも夫に尽くせ。それでも夫に「レイプみたいな真似はするな」と説いているだけマシである。近代女子教育は、若い娘に純潔を求め、彼女らを性情報から遠ざけてきた。修道女に育てるならそれでもよかっただろうが、目指すところが良「妻」賢「母」である以上、セックスを避けては通れない。その矛盾は、どこかで誰かが解決しなければならない。冠婚葬祭マニュアルは、セックスカウンセラーの役目も担っていたのである。
この当時の冠婚葬祭マニュアルがいかに今と異なるか、あと二つだけ取り上げておこう。
ひとつは占いのページである。
冠婚葬祭マニュアル本が続々と出版された1929~29年(昭和2~4年)は、丙午(ひのえうま)の年(1908年)に生まれた子どもたちが成人、つまり結婚年齢に達した時期にあたっていた。丙午なんていう迷信を信じてはいけないと、どの本も強く訴えている。
〈よく丙午の女は、良人を殺すといふことが一般に言はれて居りますが、これは全くの迷信にすぎません〉。だったら、こんな占いのページなどさっさとやめればいいのに、そうはならない。なぜなら〈生れ年月によい星があれば、たとへ丙午生れの者でも、立派な婦徳を備へた妻として、円満な家庭生活をすることが出来る〉からだ。
「夫婦和合の秘訣」「夫婦の相性」などと称し、かくして登場する陰陽道だかなんだかに由来する各種占いは、五行の相性相剋、九星の相性、十干、天稟、六曜星、十二直、本命的殺、吉日、年回りの縁起かつぎ、十二宮による運気……。
なぜ冠婚葬祭マニュアルに占いが必要なのか。これは近世までの伝統を引きずった習慣だと思われる。小笠原流に代表される近世までの礼法では、陰陽道が大きな意味をもっていた。つまり冠婚葬祭は迷信が支配する領域だったのだ。
ちょっと脱線すると、その片鱗として今も残っているのが、先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口というあの「六輝」だか「六曜」だかいうやつであろう。近代の思考とはおよそ相容れないはずなのに、いまだにそれはカレンダーに印刷され、結婚式には仏滅を避けて大安が選ばれ、「友を引く」というくだらぬ理由で葬儀では友引が敬遠される。
そのために、現在もなお日本の火葬場は友引の日が休みである。迷信であっても休日を確保するうえでは望ましいという労働者の立場に立った見方もあれば、何もかも年中無休のこの時代に、しかも葬儀は急ぐ必要があるのに日を選べないとは何事だという意見もある。いずれにしても、そんな迷信に公営の火葬場がおとなしく従っているのが日本という国なのだ(福岡市、京都市、横浜市のように、今は友引休業を廃止した自治体もあるが、まだ少数派である)。
現在にしてなおそうなのだから、戦前の冠婚葬祭マニュアルに占いが必須科目だったとしても、私たちは笑えない。今も、細木数子があれだけ人気なんだし。
もう一つの必須科目、それはあやしげな疑似科学の数々である。
大正から昭和の初期にかけては、遺伝や病気にまつわる疑似科学が以上に流行った時代でもあった。冠婚葬祭マニュアルも例外ではない、というよりも結婚こそ、この手の情報が現実的に機能する場だったといってもよいのではなかろうか。
それは理想の相手の選び方、という形で登場する。
いわく、早婚も問題だが、不婚や遅婚は心身に異常をきたし、疾病の原因となり、また品行が乱れるので花柳病をまねく。〈癩病或は癌の血統であるかどうか、結核患者が血族の間にあったかどうか〉を調べること。また、家族が長命であることは重要である。
〈結婚者当人の体格及び体質は要件中の最要件〉(『結婚礼式一切の智識』)であって、美醜よりも健康かどうか、つまり、姿勢、筋肉のつき方、血色(光沢)をチェックしろという。
〈営養の外貌に現はるゝ表徴は、即ち血色又は光沢の如何にあります。この光沢の美悪は詰り営養の美悪の徴候で、光沢の善良なる者でなければ決して健康な人と云ふことは出来ません〉(同前)などというのだから、まるで馬か牛の鑑定だ。
加えて「病的若しくは変態」の「遺伝的素質」が列挙されるのである。「神経質性素質」「ヒステリー性素質」「意志薄弱素質」「感情爽快素質」「精神乖離素質」。中身は、ちょっと神経質、ちょっと感情的、ちょっとずぼら、といった程度の要するに性格の話だったりするのだが、それをことさら「遺伝」と呼ぶ。
こういうのを何と称すか、心ある人なら知っているだろう。そう、優生思想である。
近世を引きずった迷信と、近代の名を借りた優生思想。
今日、結婚が差別を生む装置だと考える人はあまりいないかもしれない。
しかし、ちょっと前まで(まさか今もということはないと思いたい)、結婚はあからさまな差別選別の道具だった。身内に病者や障害者がいるとか、被差別部落の出身だとかいう理由で結婚を反対されたカップルの話を、あなたも聞いたことがあるはずだ。
この件にからんで、ひとつ特筆すべき事件がある。昭和天皇の結婚だ。
プリンス裕仁のロイヤルウェデイングについては先ほども述べたけれども。二人の結婚は、一時、暗礁にのりあげたのだ。良子の母方、島津家に色覚異常の遺伝があるとされ、元老山県有朋らが婚約内定の取り消しを求めたのだった。世にいう「宮中某重大事件」である。結果的に山県らの主張はしりぞけられ、二人は予定通り結婚した。長州閥の山県が薩摩閥の島津家を快く思っていなかったせいだとの陰謀説もある。
けれども、皇族の結婚が親族の遺伝的形質と結びつけられたこと。医師による調査が実際にも行われたこと。しかも、それが国民の知るところとなり、「皇統の純潔」か「約束の履行」かをめぐって激しい議論に発展したこと。人々が結婚と優生思想の関係を学習するうえで、これは大きなトピックだったのではなかろうか。」斎藤美奈子『冠婚葬祭のひみつ』岩波新書、2006年.pp.36-43.
皇太子の結婚という国家イベントが、人々の意識と行動に大きな影響を与えた、とくに中流以上の国民の結婚の形に模倣効果を及ぼしたという話だが、たしかにそうかもしれない。馬車でパレードまでは無理だが、健康で育ちの良い娘が嫁に来た、ということを世間にお披露目することが、家の権威と未来を確かなものにすると宣伝する効果は「イエ制度」にとって重要だった。当の花嫁には、かなりの重圧だったはずだけれど…。
B.戦争の終わり方
戦争はある日はじまり、すぐ終わることもあるが、国家の存亡をかけて戦えば簡単にはやめられない。長引くと犠牲となる死者は増えていく。日本が1941年12月から45年8月まで長期間続けた戦争は、いつ果てるとも知れない長期戦になったが、77年前の8月15日で終わった。問題はなぜ戦争を始めたのか、なぜ敗北に終わったのか、という問題は、じゅうぶん検証され議論されるべきだし、実際多くの研究や議論が積み重ねられてきた。ただ、一般の日本人には、なにか大きな失敗、悲惨な記憶として語られ、「もう二度と戦争はしてはいけない」という抽象化された標語だけが残っている。問題は、戦争の実態をよく知ることと、それ以上に考えるべきは、その戦争の結果、この国と人々がどう変わったか、そこに戦争の終わり方の問題を確認する必要がある、というのは一種の問題提起ではある。
「戦争はどう終わるのか インタビュー:政治学者 千々和 泰明さん(1978年生まれ。防衛研究所主任研究官。専門は防衛政策史・戦争終結論
戦争はなぜ起きるのか、そして、どうすれば防げるのか。そんな議論を私たちは積み重ねてきた。「それだけでよいだろうか」と政治学者の千々和泰明さんは問う。「戦争はどう終わるのか」も深く考えるべきだと言うのだ。戦争を終わらせること、その特有の難しさとは何か。ウクライナ侵攻が続く中、8月15日を前に聞いた。
――「戦争はいかに集結したか」と題する著書を発表したのは昨年7月でしたね。ウクライナ侵攻が始まる7カ月前です。なぜ、戦争の終わり方について考え始めようという提言をしたのですか。
「戦争終結について考える議論が日本には欠けている、と感じたからです。戦争が一般にどう終わるのかについての理解も、始まってしまった戦争をっどう終えるかについての検討も、私の見たところ、ほぼ見当たりません。学問研究の現場でも、安全保障政策を作っている現場でも同様です」
――先の大戦で甚大な被害を出したこともあり、戦争がなぜ始まるのか、どう防ぐかの議論は、多く積み重ねられてきたように思います。どう終わるのかまで考える必要があるのでしょうか。
「戦争をどう回避するかを考えることの大事さは変わりません。しかし、不幸にして一度戦争が始まってしまった場合には、どうすれば理性的にその戦争を終えられるかも重要な課題になります」
「戦争をどう終えるかが大事な問題であることは、1945年の敗戦経験からも言えます。米国による2回の原爆使用とソ連の対日参戦。そんな破滅的な結末を避けられず、戦争の終局で膨大な犠牲者を出してしまった日本は、戦争終結に失敗した国だからです」
――失敗とは?
「敗北が決定的になったあとも絶望的な戦いを続けてしまったことです。もし日本に降伏を促したポツダム宣言を早く受諾していれば、広島・長崎への核兵器使用やソ連の対日参戦による甚大な犠牲は食い止められたはずです」
「しかし実際には日本の指導部は、米軍に有効な一撃を加えたりソ連に米国との仲介をしてもらったりすることを通じて、より有利な和平を目指そうと考え続けてしまいました。自らの政策の非現実性に向き合えなかった例です」
――ではなぜ、戦争終結一般の議論が必要なのでしょう。
「冷戦期の日本には、軍事研究が日の目を見ない状況があったからではないでしょうか。戦争をどう終わらせるかを考えることは『戦争を容認すること』だと誤解されかねなかったのです。私自身も戦争終結の研究を始めたことで周囲から「そんな研究をしていたら戦争容認派だと批判されちゃうよ」と助言されています。ただ実際にはそんな批判は聞こえてきません。日本の状況が変わったのかもしれないと感じています」
「万一の事態を想定した議論をタブー視すべきではありません。むしろ、最悪の事態を『想定外』として具体的な検討を怠ってきた結果が、3.11での原発事故だったのではないでしょうか」
――具体的にどう研究を進めていったのでしょう。
「戦争は無条件降伏という形で終わることもあれば、妥協的な休戦で終わることもあります。20世紀以降に起きた主な戦争がどう終わったかを分析した結果、次のような構図が見えてきました」
「まず戦争は力と力のぶつかり合いであるため、戦争終結は戦局で優勢にある側が主導します。そして優生側から見て終結の形態は大きく二つに分かれます。相手と二度と戦わずに済むよう徹底的にたたく『紛争原因の根本的解決』と、自国民の人命などの犠牲を出したくないためそこまでいかずに妥協する『妥協的和平』です」
――過去の戦争で言うと、それぞれのケースの例は?
「紛争原因の根本的解決と呼べる代表例は、第2次世界大戦でナチスドイツと戦った連合国です。首都ベルリンを陥落させ、ドイツの主権を消滅させるまで戦った。連合国兵士の犠牲を抑えることよりも、大戦を引き起こす要因となったナチズムを完全排除することを重視した終わらせ方です。日本の無条件降伏で終わった太平洋戦争も、こちらに分類できます」
「妥協的和平の典型例は、イラクがクウェートに侵攻したのを機に米国などがイラクと戦った1991年の湾岸戦争でしょう。自国兵の犠牲を増やしたくない米国側は、フセイン体制へのとどめは刺さないままに停戦。体制の存続を許し、禍根を残しました。ほかにも朝鮮戦争やベトナム戦争などが、こちらの分類に入ります」
――戦争の終わり方がどちらになるかは何で決まるのですか。
「優勢側が『将来の危険の除去』を重視するか『現在の犠牲の回避』を重視するかで決まるのだと私は見ます。対ナチスドイツ戦は、前者を重視したケースです。逆に湾岸戦争では米国側に『フセイン体制はほっておいてもつぶれる』との楽観もあり、将来の危険は過小評価されていました」
「一般に戦争を終わらせるのが難しい理由は、『将来の危険の除去』と『現在の犠牲の回避』がトレードオフ(二律背反)の関係にあるからです。紛争原因の根本的解決を目指せば現在の犠牲が増大し、逆に妥協的和平を求めれば将来の危険が残てしまう。優勢側は、こうしたジレンマの中での判断を迫られるのです」
――ロシアによるウクライナ侵攻は約半年を経過しましたが、終りの見通しが立っていません。
ウクライナ側は『将来の危険』を除去するために『現在の犠牲』を払い続けています。ロシアに属国化される危険があることに加え、ブチャでの虐殺以降は、占領されたら虐殺やレイプや強制連行をされる危険があることも明白になりました。『犠牲を払っても将来の危険を除去する』という重い決断を共有している状態です。ただ劣勢側であるため、終結を主導することは困難です」
「ロシアは優勢側ですが、首都キーウを攻め落として根本的解決をできる状況にはありません。焦点は妥協的和平ですが、プーチン政権が『現在の犠牲』を避けるために和平を求める状況にある以下といえば、疑問です。世論は強権的にコントロールされ、自軍の犠牲もフェイクニュースで小さく見せられます。ロシアとウクライナが互いにより有利な妥協的和平を狙って、相手の現在の犠牲を増やしあう。そんな戦局が続くことが、残念ながら予想されます」
――今回の侵攻は、世界中の人々に『戦争が終わってほしい』と思わせる機会になっています。
「ウクライナが侵攻されたときに日本では『犠牲を防ぐために早く降伏すべきだ』という声が上がりました。それを聞いて私は、日本人が抱く戦争終結イメージに疑問を感じました。もし『米国による敗戦後の占領は寛大な占領だった』というイメージをもとに戦争終結を考えているのだとしたら、『本土』目線だけで歴史を見てきた表れです。実際、ソ連に侵攻された中国大陸の旧満州では、ウクライナで見られるような悲惨な事態が起きていたのですから」
「平和の回復にとっては、必ずしも戦争終結それ自体が重要なのではありません。また、戦争終結は早ければよいとも限りません」
――どういう意味でしょうか。
「重要なのは、どのような条件でもたらされた戦争終結であるかです。それによって交戦諸国が何を得て、何を失うかが重要なのです。勝ち目がないのに犠牲を払うことも問題ですが、戦うべきなのに妥協してしまって戦争の惨禍が何度も繰り返されてしまう事態も避ける必要があります」
――戦争終結の研究を始めたきっかけは、内閣官房での安全保障の実務経験だったのですね。
「2011~12年に内閣官房副長官補付の事務官として、国家安全保障会議(NSC)創設に向けた準備に携わりました。NSCは政府の安全保障政策の司令塔です。当時現場では、戦争を防ぐ『抑止』や危機発生時の『初動対処』に関する議論は進んでいたのですが、研究者として、戦争をどう終えるかという視点の議論も盛り込むような仕事をしていかなければいけないと思いました」
「安全保障を考える際には、やむをえない場合に①いかに戦争を始めるか②いかに勝利するか③いかに終結させるかの3点を考える必要があると思います。戦争では出口戦略も大事なのです。『日本は戦争の出口戦略までしっかり考えている国だ』と他国に思わせることは、日本への攻撃をためらわせる抑止にもつながりえます」
――為政者ではない国民が「戦争終結のジレンマ」について考えることの意味は何でしょう。
「第2次世界大戦でチャーチル英首相は、ナチスドイツとの戦争に立ち上がるよう国民に呼びかけました。ベトナム戦争では、米国民による反戦運動の高まりが為政者の判断に影響しました。『将来の危険の除去』と『現在の犠牲の回避』のどちらを重視するか。実際の選択をするのは為政者であるにしても、国民がどのような戦争観をもつかも重要なのです」(聞き手 編集委員・塩倉裕)」朝日新聞2022年8月13日朝刊9面オピニオン欄。
千々和氏は、「犠牲者増大を回避」するために妥協的解決、つまり敗者を壊滅させない中途半端な終わり方か、「将来の禍根を徹底的に断つ」ために、こちらの犠牲もやむをえないと考えるか、に二分して考えている。しかし、ナチスドイツの場合は徹底した壊滅まで戦った(それは主としてロシアだが)として、日本の場合は、軍事的には解体占領して民主的戦後改革を行ったというが、軍人幹部に全部責任を負わせて、天皇制と旧支配層を中途半端に温存したのではないか。そのことが、戦争の終わらせ方として成功例のように語られるのは、ちょっと違うように思う。民主主義か全体主義かという単純化は、戦後冷戦時代の思考をひきずっていて、軍事的勝利の次に来るのは、政権政府の打倒と国境の引き直し、賠償金などの決着で平和条約締結というわけだが、いずれにしても怨念は残る。それを再び戦争にしないのは、軍事力に依存しない知恵と相互の深い理解にもとづく外交力が必要だ。
