A.娘の幸福は結婚で決まる?
安倍元首相銃撃事件で表面化した旧統一教会と、日本の右翼政治家との関係は、これまでもなにかと取り沙汰されていたことだけれども、朝鮮民族の儒教的家族観とキリスト教を勝手に読み替えた文鮮明の統一原理は、誇大妄想のカルト宗教にすぎない。それはとりあえずここでは措いておくとして、問題は家族と結婚をめぐる冷凍保存されたかのような価値観である。「家父長制」と呼んでしまうとやや限定された歴史的概念になるが、日本の明治以降の社会編成原理として、民法や伝統的慣習の秩序であった「イエ」制度への強い固着が、日本の右翼思想には今も根強くある。
どこの国にもある愛国的ナショナリズムには、固有の宗教的・風土的・文化的特性を基盤にしているのだが、他民族を敵視する排外主義、自分たちが優越しているとするエスノセントリズム、民族的英雄を賛美するカリスマのシンボル化などがある。そして「イエ」制度への固着はそれとは別の、ある意味独特な家族観、濃密な情緒的イメージを伴っている。そこで第一に重視されるのは、先祖から子孫へとつながる「イエ」の連続性であり、それは血の継承という一族血統原理とは違い、○○家という幻想の共同体への帰属と奉仕のシステムなのだ。厄介なのは、これが家を代表し統率する父、それを敬い無条件に奉仕する嫁(妻)、付き従う子どもたち、という幻像を非常に麗しい家族として称揚する思想にある。
日本の明治以降の近代化(西洋化という側面をいかに無害化するかという課題でもあった)の努力は、この「イエ」制度を骨格にすることで、一神教の神に対抗する万世一系の天皇の支配を永遠化しようとした。それはかなり無理を伴う、とくに子を産み「イエ」を支える女性に過酷なものだった。それを、具体的な形を伴う文化装置としての冠婚葬祭のあり方から、ちゃんと見ていくことは、非常にリフレクシヴな知的営みだと思う。
「大正末期から昭和初期にかけての1920年代(第一次世界大戦の第二次世界大戦に挟まれたいわゆる戦間期)は、さまざまな大衆文化が花開いた時期である。
出版文化も例外ではなく、各種ハウツー本が盛んに出版されている。冠婚葬祭マニュアルがまとまった形で出てくるのも昭和の初期だ。
この時期に冠婚葬祭マニュアルが求められた理由はおそらく二つあるだろう。
ひとつは儀式のスタイルが変わりつつある時代だったこと。まだまだ都市だけでの風俗であったとはいえ、明治の末に登場した神前結婚式、告別式型葬儀はともに認知度を上げ、新しい方式への関心は高かった。人々が冠婚葬祭に多大な興味を持っていたことは、婦人雑誌がこの種の記事をたびたび乗せていたことからもうかがえる。
もうひとつは都市への人口集中、都市化の進行である。
冠婚葬祭は地方色の濃いイベントだから、以前なら全国一律のマニュアルを作るのは無理だし、そう需要もなかっただろう。それは村の長老らがよしなにはからってくれたのである。が、第一世界大戦の後くらいから、農家の次男、三男を中心に農村から都市への人口流出がおこり、都市で結婚して家庭をきずく人々が増えた。彼ら都市住民は伝統的な共同体とは切り離された存在であり、冠婚葬祭も自前で行う必要が出てきた。
加えてそこに冠婚葬祭気分を盛り上げる慶事があった。なんとまたもやロイヤルウェディング、すなわち1924(大正13)年1月26日に行われた皇太子裕仁(ひろひと)(昭和天皇)と久邇宮良子(くにのみやながこ)(香淳皇后)の婚儀である。大正天皇の結婚もそうだったけれども、冠婚葬祭業界というものはどうもロイヤルウェデイングで活気づくものらしい。
ときに裕仁24歳、良子22歳。二人の結婚はその五年前には内定しており、1923(大正12)年1月には民間の結納に当たる「納采の儀」も行われて、年内にも結婚の手はずだった。が、この年の九月に起こった関東大震災のため、翌年に延期されたのである。
時の政権は若くて健康な裕仁を、大々的に売り出そうとしていた節がある。
ハーバート・ビッグスは〈成婚の日には、47機の軍用機が首都の上空を飛行し、慶賀のこおばを記した小さな落下傘をまいた〉(『昭和天皇』)と述べている。馬車の行列が行く沿道には何千人もの観衆が詰めかけた。大正天皇のとき以上に、それは華やかな式典だったといえるだろう。
では、この頃の冠婚葬祭マニュアルにはどんなことが書いてあったのだろう。
この時期の本に、葬式のページは極端に少ない。あるいは、まったくない。忌服の期間、死亡通知状や悔やみ状の手本に続いて出てくるのは、こんな記述だ。
何事を措いても第一番に必要なものは医師の診断書であります。診断書を貰つて区役所とか、田舎なら役場へ行って死亡届をし、埋葬書を貰つて今度は警察へ行つて其の旨を届けます。それで宜いとなれば、其の埋葬書は火葬場へ行くとか、寺院へ送るまでは大切に持つて居ります。/一方は葬儀社へ行つて総ての取極めをします。そして其の足で菩提寺へ行つて委細を頼みます。すると住職は其の約束に依つて宜しく取計うて呉れます。(小平久馬『日本婚礼式』1929年)
これだけだ。警察に届けるという以外は現在とほぼいっしょ。診断書と死亡届が強調されるあたりに近代の匂いがするものの、具体的な次第については「宜しく取計うて呉れます」といたって素っ気ない。会葬者、近親者の心得にいたってはこの通り。
最親喪者は神葬なれば誄(しのびごと)(俗にのりと)仏式なれば読経の終つた時、係員の報知によつて席を離れ、玉串を捧げ、又は焼香を為し、さて次々に会葬者の拝礼等が済んで、それ等の人々が退散の時出口に立つて一々無言のまゝ例を施し、式場係上席の人は簡単に会葬の礼辞を言ひ、こゝで大概は帰途に就き、近親と親友等が埋葬に従ふのであります。/尤も近頃は火葬にするのが多くなりましたから、この場合には寺院とか自宅で告別式を挙行し、そして火葬場へ行きます。この告別式は、前述の通りを行ふものでありますからその心であれば大差はありません。(同前)
それだけかい。火葬も告別式もすでに一般化していたのだなということはわかるけれども、現在のマニュアルのように、焼香の回数とか、香典の額といったうるさいことは何も書いていない。「前述の通り」といったところで、前述とは「係員の報知によって」なのである。
しかし、これだけの記述からでも、くみとれることはある。
農山漁村での葬儀は葬式組の手で行われていたとして、都市での葬儀はすでに当事者の手を離れ、葬儀社の手にゆだねられていたということだ。霊柩車と火葬場が整備された都市の葬儀では、係員の指示に従っていれば、滞りなく式は執行されたのである。
それにひきかえ、結婚にかんしては、非常に細かい指示と説明がある。日常の礼儀や饗応の仕方をふくむ総合的な内容でも、「婚礼」「結婚」をタイトルに冠しているのが、この時期の冠婚葬祭マニュアルの特徴である。
内容はどの本も似たりよったりで(著作権が確立していなかったせいなのか、一字一句たがわぬ文章だったりする)、伝統的な自宅結婚式を中心に、神前結婚式、キリスト教式結婚式の式次第が、一挙手一投足までくわしく述べられているのが目をひく。
婚礼前の諸事(見合い、結納、荷物送りなど)、花嫁花婿の服装、結婚式の諸式、結婚式後の心得(里帰り、里開き、婿入りの式、門見せの礼など)、本によっては各種届け出(婚姻届、入夫届、転籍届、分籍届など)の書式。結婚生活の秘訣からイラストつきの帯の結び方や髪の結い方まで、これでもかというほどの執拗さだ。
だが、重要なのはそのことではない。このころの類書は、「婚礼」というイベントのマニュアルである以上に、「結婚」のマニュアルなのだ。
巻頭には「結婚とは何か」みたいな説教がたっぷり出てくる。「新時代の結婚の心得」を広めるぞとの意欲が、そこにはみなぎっている。定番は「結婚の本義」で、生物学(繁殖)、社会の基盤、男女間の愛情の三つの面から、それはこんこんと説明される。
一夫一婦は本来人類の犯すべからざる天則であります。これは生物学の上からも論じ、或いは進化主義から論じても、人類は蜂や蟻の如く多妻多夫なるべきものでありません。この天則に依って道徳の標準も出来、或は社会組織も之に基いて造られなければ人類の幸福を享くると云ふことは到底得られぬ筈であります。一夫多妻、畜妾主義の不合理、悖徳なることは此の理に於て明かであります。(『日本婚礼式』)
蜂や蟻は「多妻多夫」だったのか。というあたり笑わせてくれるにしても、一夫一婦の正当性を「生物学」的に解説する、いやそれ以前に結婚にこんな理屈をこねること自体、きわめて近代的な結婚観であり、かつてはありえない発想だった。
この大仰な感じを理解するには、当時の結婚観を知っておいた方がいいかもしれない。
1898(明治31)年に明治民法が公布され、1900(明治33)年に行われた皇太子嘉仁の婚礼が一夫一婦制の広告塔になった、という話は前節ででした。これとほとんど同じ時期に公布された法律が重要な法律がもうひとつある。
高等女学校令(1899年)だ。これは女子の中等教育について定めた法律なのだけれども、その意味するところは『良妻賢母教育』のスタートだった。当時の文部大臣菊池大麓は、1902(明治35)年の全国高等女学校会議ではっきりと述べている。
「日本では此の婦女子と云うものは将来結婚して妻になり母になるものであると云うことは当然の身の成行きであると云う様に極って居るのであります」
高等女学校令とこの訓示によって、女子の本分は結婚すること、女子教育の目的は良妻賢母を育成すること、それが「国家の方針」になったといってよい。
それを体現した異色の結婚マニュアルが、甫守勤吾『結婚の志をり』(1927年)だ。これは文部省の外郭団体「生活改善同盟会」の肝いりで出版された本で、緒言からして〈国家の健全なる進歩発達は、家庭の健全なる進歩発展に因ることは云ふまでもない事で、言葉を換へて云へば家庭は即ち国家の基礎でございます〉と、やたらと居丈高である。
1920(大正9)年に発足した生活改善同盟会は、新しい家族のあり方を国民に教育するための、国家的な啓蒙活動機関だった。結婚費用は年収の三割程度にしておけ、結婚式を料理店でやるな、結婚式の当日に結婚届を出せ、新婦の色直しをやめろ、といったお節介にまじって、この本は結婚のなんたるかを明言している。
〈子女たる者一度他家に縁づいた後は、全くその家庭の人となつたと云ふ事を一日片時も忘れてはなりません〉〈男子も女子も結婚して一度他人の家庭の人となった以上、それよりは自我を全く殺して、先方の家憲・家風に従ふ事が第一要義でございます〉
現代の国家の方針がいちおう憲法第24条に基づく男女平等であるとすれば、当時のそれは、「家制度」の保持と性別役割分業だった。考えてみれば、「男は外で働き、女は家を守る」という夫婦の役割分業も、一夫一婦制を前提にした発想ではある。
一夫一婦制、婚姻届の提出(法律婚)、家制度(妻が夫の家に入る)、性別役割分業。今日の「結婚」を構成する要素はここで出そろい、「女の幸せは結婚である」というイデオロギーも、ここから本格的に始動したといっていいだろう。
女学校が花嫁学校と同じで、教育も就職も(昭和の初期は職業婦人がもてはやされた時代だった)結婚のための布石となれば、結婚マニュアルが分厚くなるのも道理である。ここで失敗したら、せっかくそこまで積み上げてきた結婚に向けての努力が(費用も)すべて水泡に帰すのである。それはもう必死ですよ、娘をもった親御さんたちは。
だが、高等女学校は、重要な科目を忘れていた。もし結婚が人生の目的というのなら、ぜひともそれをカリキュラムに組み込むべきだったのだ。それとは何か。性教育である。」斎藤美奈子『冠婚葬祭のひみつ』岩波新書、2006年.pp.28-35.
日本の女子教育の歴史は、良家の子女が通う女学校を「良妻賢母」を作るという理念のもと、国家の要請に沿って進められた教育と同時に、そこから自己主張する女の潜在的パワーを引き出したという思わぬ効果を生んでいた。社会的に力のある男と結婚して、子を産むことが女の一番成功した人生だと信じる人は、女にも男にもまだかなりいる。でも、それはカビの生えた前近代の右翼思想をひきずっている。夫婦別姓、LGBTQを認めない自民党女性議員Y氏は統一教会とも手を組んで、「イエ秩序」を守ろうとしている。それこそ人類の未来を閉ざす救いのない奈落への道だ。
B.軍事政権の危険
ぼくはフィリピンには行ったことがない。そこが太平洋の戦争で日本軍が荒らしまわって敗北した場所だということも気になったが、朝鮮半島や中国大陸とは違う、沖縄ともつながる南方島嶼国であり、スペインとアメリカに植民地支配された歴史があることが、簡単には理解できない地域だと思ったからだ。大岡昇平の「レイテ戦記」でさらに、フィリピンという場所を複雑な気持ちで眺めることになった。そのことがむしろ、ぼくの関心をフィリピンから遠ざけ、混乱と貧困と政治不安が続く発展途上国として眺めていたことを反省する。
「フィリピンの民主化:市民革命 支えた国軍 小野木昌弘
フィリピンのラモス元大統領が、九十四歳で亡くなった。国軍ナンバー2だった1986年、マルコス独裁政権に反旗を翻して決起。大統領を放逐し、文民政権を打ち立てた「ピープルパワー革命」につないだ。国軍が“縁の下の力持ち”に徹して市民を支えた革命の精神は、ラモス氏の置き土産といえるだろう。
革命では、「国軍の政権離反」で勇気づけられた市民約百万人が、首都マニラの幹線道路・エドサ通りを埋めて反政府活動を展開。マルコス大統領夫妻がハワイに亡命して、民主はコラソン・アキノ氏が大統領に就任した。
イメルダ夫人の靴三千足がマラカニアン宮殿に残ったままになるなど、ドラマチックな展開だったが、国軍が市民の味方になり、無血で政権が交代した。同革命でラモス氏はアキノ氏と“立役者”として並び称された。
フィリピンはしかし、体制の急変で政情不安になり、アキノ政権は不安定だった。所得格差を示す「ジニ係数」は独裁時代より上がり、貧富の差は広がっていた。
アキノ氏に後継指名されたラモス氏は、92年から98年まで大統領を務めた。「民主化しても生活は苦しいまま」という世論を受け止め、公営企業の民営化や外資の誘致などで経済を立て直した。
ところで、「街頭の民主主義」は、ラモス大統領退任の三年後、2001年のエストラダ政権崩壊時にも再現された。
とばく上納金疑惑など、醜聞にまみれて国民の信頼を失った大統領の辞任を求め、約五十万人の市民がエドサ通りに集結。その場に現れた当時の国軍幹部らが次々と政権離反を表明し、副大統領だったアロヨ氏が、路上で大統領就任演説を行った。かつてと同様に無血政策が実現し「ピープルズパワー2」と称された。
ラモス氏はこの政変の翌月、マニラ勤務だった記者に「大統領に辞任を拒まれたので、国軍幹部に離反を促した」と舞台裏を明かした。この時も、ラモス氏が仕向けた国軍の造反が政権崩壊の引き金になったが、やはり国軍は政権を取りにいかなかった。
「だって、国の主役は市民ですから」。私の質問に、ラモス氏は繰り返した。「国軍じゃありません」
訃報に接して真っ先に想起したのが、この言葉だった。そして、クーデターで民主政権を倒し、暴力で国を牛耳ろうとしているミャンマー国軍の蛮行とのあまりに大きな差異を思った。
少し因縁めくが、ラモス氏が亡くなる少し前、あのピープルパワー革命で政権を追われたマルコス氏の長男、フェルデナンド・マルコス氏が、フィリピン大統領に就任した。同国民の平均年齢は26歳と若く、独裁終焉と革命を知る層は少数派になった。でも、どちらの記憶も薄れさせてはならない。 (論説委員)」東京新聞2022年8月10日朝刊6面、視点・私はこう見る欄。
1946年,日本国憲法の草案がGHQによって英語で書かれ、前文の主語「われら国民」はpeople、つまりリンカーンの言う「人民」ピープルだったのを、日本政府は「国民」に書き換えた。人民では天皇のいない共和国になってしまうからだ。日本軍は解体してなくなっても、この国は立憲君主制のもとに団結する国民(臣民)の国なのだといいたかったのだろう。国家は何のためにあるのか?誰のためにあるのか?フィリピンは、そこで生きる市民のためにあり、国軍はそれを支える存在以上のものではない。これは、政治的に賢明な知恵だと思う。それに引き換え、国軍を復活し「イエ秩序」を復活する改憲を企む日本の愚劣は目を覆う。
