A.「イエ社会」の功罪
1945年8月に大日本帝国は戦争に敗北し、連合国軍に占領された。そこから始まった戦後改革は、日本社会を根底から変えていったともいえるが、陸海軍の消滅、財閥解体、農地改革などの目に見える大変化のなかで、戦前の日本社会を規定していた構造である家父長制的「イエ社会」も廃止する方向をGHQは打ち出し、そこから憲法と民法の改正も行われた。つまり、家長のもとに男系男子が代々の家名と資産を継承し、子弟子女家族メンバーはイエに所属して個人の権利は尊重されず、とくに女子は他家に嫁入りし子を産み育てることが何より重要な役割とされたのが「イエ秩序」だった。そこから結婚の儀礼も葬式のやり方も「イエ」単位で行われるのが当然とされた。いわば冠婚葬祭のあり方は、この「イエ秩序」の確認であり男子はよき家長たるべく、女子はよき嫁になるために学校教育も構成されていた。明治後の近代化のなかで登場した女学校が、結局「良妻賢母」をつくることを目的としたものだったことは、戦後も女子教育のなかに影をとどめていた。
戦後の民主主義教育は、この「イエ社会」を批判し個の尊重を目指しはしたものの、人々の意識も家族のありかたも、そう簡単には変わらず、結婚も葬式も昔の型を踏襲する時代が続いた。しかし、戦後の復興と経済成長という大変革が進むと、「イエ社会」の基礎にあった共同体と伝統的人間関係は壊れ、人々の意識ももはや昔の家父長的「イエ社会」を守ることのメリットが希薄になってくることは避けられなかった。そして、21世紀の現在では、もはや「イエ社会」的な秩序を守ろうとする人は頑迷な保守主義イデオロギーの持ち主とみられ、世の中の現実とはかなりズレた人間になっている。ただ、そもそも戦前の「イエ社会」もじつは、それを固守するメリットを享受できた人は、社会の上層を形成する地位と資産をもつ特権階層(とくに年長男性)だけであり、一般大衆庶民の生活は「イエ」を第一に考えるよりも、現実の必要や利害によって左右される移ろいやすいものであって、「イエ秩序」はただ表面的な儀礼や人前の見栄を張った形式保持だけのものだったといえそうだ。
「そもそも明治三〇年代に冠婚葬祭の儀礼の形が変わったのはなぜだったのだろうか。
日本初の神前結婚式、プリンス嘉仁の結婚の時代に遡りたい。冠婚葬祭史を語るにあたって、欠くことのできない事件が、じつはその二年前にあった。1898(明治31)年の、いわゆる「明治民法」の公布である。もう少し正確にいうと、民法の第四編(親族)と第五編(相続)が、家制度を中心におくかどうかでもめにもめた末、他の部分から二年ほど遅れてこの年に施行されたのである。この民法によって、結婚と葬送の歴史がどれほど大きく変わったか。その影響は、現在に至るまで長く尾を引いている。
民法に先立つこと27年、1871(明治4)年にできた戸籍法で、日本人は全員、「○○家」の一員として登録されることになった。それを補強したのが民放である。
その特徴をいくつかあげれば、戸主(家長、原則として年長の男子)にすべての権限が集中していること、長男が家督と全財産を相続すること、女子は無能力者とされ、一切の権限が与えられていないこと。きょうだい間の不平等と男尊女卑を公然と法制化していたわけで、こんな差別的な法律は世界的にも珍しいといわれている。
結婚式(結婚)に関係のある部分として、特筆すべきはこの条項である。
「妻ハ婚姻ニ因リテ夫ノ家ニ入ル」(第788条1項)
「入籍」という事態が発生したのは、この民法によってである。日本において夫婦同姓が法的に義務づけられたのもこの民法によってである。
「入籍」こそが結婚だと思い込んでいる人は今も多い。が、何をもって結婚とするかは、それぞれの社会でちがっている。一定の形式にそった儀礼をもって結婚とする「儀式婚」。当事者同士の契約による「民事婚」。法律で結婚の要件を定める「法律婚」。
日本でも、明治の前半までは儀式婚や民事婚(今風にいえば事実婚)が一般的で、結婚も離婚も地域共同体の慣習に任せているというのが実態だった。明治政府も当初は「儀式婚」にこだわっていた。が、結果的には、入籍だけでいい(逆にいうと入籍しなければけっこんとは認めない)という方式を明治民法は打ち出した。「婚姻」とは法的に認められた結婚を指す言葉。よくも悪くも、結婚を国家が管理する時代がここからはじまったのだった。
評判の悪い明治民法だけれども、この法律で「結婚の近代化」が図られたのも事実である。なにしろこの時代には「足入れ婚」(息子の嫁にと女を連れてきて、労働力と性の対象にしたあげく、気に入らなければ追い出す試験結婚みたいなもの)なんていう野蛮な風習があったほどで、妻の座が法的に保障されるのは、重要なことだったのだ。
妻の座といえば、明治民法でもう一つ重要なのがこの条項だ。
「配偶者アル者ハ重ネテ婚姻ヲ為スコトヲ得ス」(第766条)
日本において、一夫一婦制が確立したのは、この条文によってである。
日本の富裕層、エリート層は、事実上の一夫多妻(一婦多妾)で、家督を継がせる男子を確保するとの名目で、男は「妻」のほかに複数の「妾」をもつのが当たり前だった(「畜妾制」と呼ばれる)。一夫一婦制はキリスト教の習慣だから、民法がこれを採用しようとしたときも「麗しい日本の伝統を壊す気か!」という反対論が巻き起こったほどだった。政界も財界も学界も文壇も、かつてはこういうスケベジジイの巣窟だったのである。困った政府は、後に「内縁」を認める形で、スケベジジイを懐柔する策に出たのだが、ともあれ民法で一夫一婦制を定めた以上、政府にはそれを徹底させる責務があった。
ここでもう一度、プリンス嘉仁と九条節子のロイヤルウェディングを思い出してほしい。二人手に手をとり、同じ馬車でパレードをしたあの結婚式を。
もはや、おわかりであろう。イベント化された嘉仁と節子の婚礼は、一夫一婦制のデモンストレーションという側面があったと考えられるのだ。
実際、大正天皇夫妻は、一生を一夫一婦で通したはじめての天皇でもあった。四人の皇子にも恵まれた結婚生活は、一夫一婦制の広告塔にはぴったりだったともいえるだろう。
一見、男女同権に見える一夫一婦制も、ひと皮むけば、「夫ハ妻ノ財産ヲ管理ス」(第801条)。嫁の地位は異常に低く、同権でも平等でも全然なかったんですけれどもね。
明治民法は葬式と墓の形にも影響を与えた。
葬式と墓に関係のある条項はこれである。
「系譜、祭具及ヒ墳墓ノ所有権ハ家督相続ノ特権ニ属ス」(第987条)
家督を相続する者(多くは長男)が祭具と墳墓も所有する。だから当時の喪主はほとんど長男であった。葬儀は家督を相続した「次の戸主」のお披露目も兼ねていたのである。「系譜、祭具及ヒ墳墓」とは、平たくいえば仏壇と墓のおもりである。
これを契機として、はじめて登場した墓の形がある。「○○家代々之墓」という、私たちが現在もっとも見慣れている、あのスタイルの墓だ。
だいたいまあ、あの形は火葬でなければ無理であろう。土葬なのに「先祖代々之墓」が可能かどうか考えてみてほしい。同じ場所を何度も掘って、次々に棺を埋められるだろうか。
ちなみに、じゃあ土葬時代の墓がどうなっていたか。
結論からいうと、庶民の間では遺体を埋めたらそれでだいたい終わりというケースが多かったらしい(「遺棄墓制」と呼ばれたりする)。目印として生木を挿したり自然石を置く程度はしても、それはいずれ朽ちるものであり、墓石のように長く残ることを目指しちゃいなかった。
わかりやすいのは、近畿地方などに見られる「両墓制」である。
両墓制とは、遺体を埋めた場所(埋め墓と呼ばれる)とは別のところに、墓参りのための石塔を立てること(詣り墓と呼ばれる)。「捨て墓」とも呼ばれるように、両墓制における埋め墓とは要するに「死体捨て場」だ。死体捨て場(埋め墓)は村はずれに、石塔(詣り墓)は、たとえば寺の墓地に建てる。石の下には何も埋まっていない。
ついでにいえば、仏教が介入する以前、中世の庶民の間では、曝葬(風葬)が一般的だった。柩を林野や海岸に放置する、つまりは「死体遺棄」である。というと聞こえは悪いが、思想的には昨今の散骨にも近いところがある。
沖縄地方でほんの最近まで行われていた「洗骨」も古い時代の風習である。棺のままの遺体を何年か放置し、白骨化したころに、残った皮膚や肉を手で洗い落とし、改めて骨壺におさめて墓に入れる。骨を洗うのは近親の女性の仕事だった。そのため沖縄の戦後の女性解放運動が火葬場の設置要求運動から始まった、というのは有名な話。
遺体を埋めた場所に石塔をたてるのは、江戸中期からの流行という。でも、江戸の墓は個人単位、または夫婦単位の建碑が中心だった。
死んだら墓は絶対に必要なものだと思っている人は多い。日本人は遺骨への執着が高い民族だともいわれる。しかし、本当にそうなのだろうか。
民俗学者の井之口章次は、日本の基層にあるのは〈死体と霊魂とを区別して考える民族文化〉(『日本の葬式』)だったと述べている。遺体を山野に放置する曝葬も、遺体に縄をかけて棺桶に入れる風習も、埋葬したっきりの遺棄墓制や両墓制も、今の感覚だとずいぶん荒っぽい気がする。しかし、だからといって彼らが使者を大切に思っていなかったとはいえないだろう。遺体はただのぬけがらであり、魂は別にあるという考え方のほうが、抽象性の高い思考かもしれないのだ。昔の日本人は遺体にも遺骨にも墓にも固執していなかった。だから平気で遺体を見捨てたのではないか。日本人が遺骨に非常なこだわりを示すようになったのは、火葬が普及し、「代々墓」ができて以降のように思われる。
戦前の「代々墓」は、それでもまだ墓石の下は地面のままで、そこに遺骨をそのまま埋めるか、骨壺ごと埋めるかだった(今でもこの形をとる地域もある)。年月がたてば壺は割れ、骨は土に還ってリン酸カルシウムと化す。改葬しようと思って石をどけたら、中はからっぽ、土だけすくって新しい墓に移したなんていう話も珍しくない。
現在の「先祖代々墓」は、墓石の下にカロートと呼ばれるセメント製の収納室があって、そこに骨壺を納める形になっている。あんな小さなスペースに、何十人ものご先祖の骨壺が入るわけがないのである。だから古い骨壺は出して合葬にするわけだが、昔からあるように思える代々墓は明治以降の産物、ということは覚えておいてもいいだろう。
明治民法は、そんなわけで、冠婚葬祭にも大きな影響を与えたのだった。
21世紀になった現在でも、「家を継ぐ/守る」とか「墓を継ぐ/守る」ことと思っている人もいるのではないだろうか。お盆に墓参りに行けば、そこには「○○家」という氏が刻まれた墓が、断固たるたたずまいで屹立している。長男は「おれがこれを守らねば」と思い、嫁は「わたしはここに入るのね」と思う。子が独立し、住居が別でも、死ねば家の墓に入る。家とはつまり「同じ墓に入る人」の集合体なのだ。明治民法下の家制度をビジュアル化したのが「代々墓」だといってもいい。
しかし、「家」というけど、明治になるまで、そんなものに縛られている人は多くなかったのである。せいぜい武家と、相続する財産のある豪商や豪農くらい。戸籍制度ができた時点で、これに合致する家族は2%程度だったという(湯沢擁彦『明治の結婚 明治の離婚』)。
為政者は、その2%をモデルに民法をつくったのだった。大した財産も持たぬ庶民までが、「結婚は家と家の結びつき」と考え、「墓は先祖代々のもの」と信じるようになったのは、明治民法の制定以後、と思っていい。
近世の大部分の農民や労働者は、相続する財産もなかったし、名字すらないのだから家意識は育ちようもない。もちろん宗門人別帳はあり、屋号によって家と家の区別くらいはしていたけれども、彼らが重視したのは家より共同体。血縁よりも地縁である(どちらがマシかはともかく)。客を招いて結婚式をやるのも新しいメンバーを共同体に紹介して承認を得るためだったし、伝統的な村落共同体には若い男女が出会う「若者組」「娘組」なんでいうシステムもあり、「夜這い」もふつうに行われていた。葬式も墓も同様で、葬式は完全に共同体(葬式組)の行事、墓にいたってはないも同然だった。
それを根本から変えたのが、民法という近代の法制度と、資本主義経済の発展だった、というのがおもしろいところである。「しきたり」「伝統」「作法」なんて、蓋を開ければ、案外とそんなものなのである。」斎藤美奈子『冠婚葬祭のひみつ』岩波新書、2006年.pp.20-27.
しかし、「イエ社会」が人間にとって100%メリットのないものだったら、いくら法律で規定されているといっても、こんなに長く人々の生活の基礎になっていたはずもない。それは、これを制度化した明治政府が意図したように、天皇の下に統一国家をつくり、国民の一体化した社会を実現するために、江戸時代の武家の秩序であった「イエ」という制度を一般庶民にまで普及させようとし、それにある程度成功したからだろう。権力をもつ支配層には、まことに都合がよく、そのおこぼれに預かりたい権威主義的な男たちも、これに乗って威張っていた。女たちは、かなり面倒な立場に置かれたが、面従腹背で耐えた。だから、戦後「イエ秩序」が壊れていくことに、若い女性たちは一方で喜んだが、他方で結婚により女が守られるメリットを感じて、頼りになる男に「嫁入り」することを望んだのだろう。
B.隠蔽体質に犯された政治
自分がやましいことはしていない、恥じるところはない、のであれば、何も隠す必要などない。疑惑を招くのなら、それを全部公開して疑いを晴らすのがやるべきことだろう。でも、最長期政権を誇った安倍晋三氏の首相時代、政府の上から下まで、疑惑を指摘されると説明するといいながら肝心なところは全部隠してボロが出ないようにし、ほとぼりがさめるまで黙っているという体質が当たり前になった。これは、国家として腐敗堕落したと思える事態だ。
「隠すことは法の支配にもとる 専修大学教授 山田 健太
日本社会の美徳として隠す文化が存在する。しかしそれは決して、為政者や強者が自らの都合の悪いことを覆い隠すことであってはならない。そんな身内の論理で市民から事実を見えなくすることを、防ぐための社会制度の一つが法の支配だ。
首相は7月14日の記者会見で、死去した元首相の国葬実施を表明した。その後、同22日の定例閣議で「子安倍晋三の葬儀の執行について」が議題になり了承された。議事録と称されるメモが後日、官邸ウェブサイトで公開される習わしだが、報告内容が記されるだけで議論の中身が示されることは一般に一切ない。閣議決定したと手続き的な正当性が主張されるものの、どんな意思決定の経緯があったのかは、このままでは未来永劫わからないままだ。
今日の民主主義国家においては、政府とりわけ政権が勝手に物事を決める、不透明な政策決定を排除する目的で、公文書の管理や情報公開の仕組みが整備されてきた。市民からみれば、主権者として国が保有する情報を共有するための知る権利だ。日本においては今世紀に入って形は整えられたものの、この二十年間骨抜きが急速に進んでいる。
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安倍政権時代の公文書の改竄・隠蔽・廃棄の歴史を振り返ることはしないが、その後の菅・岸田政権も、その方針を受け継いでいるように見受けられる。直近の事例でも、統一教会の名称変更を巡る文部科学省決定に係る公文書は「のり弁」といわれる状態で真っ黒に塗りつぶされていた。ただ、こうした公文書の非開示は日常茶飯事で、ニュースでもそれ自体を問題視することがなくなってきている。まさにオープンにされないことが一般化してしまい、社会全体が慣れてしまっている証拠だ。
隠す文化は政府関連機関にも及び、東京五輪・パラリンピック組織委員会の決算書類は、行政機関でないことを理由にほとんど非公開のままだ。長野五輪同様に、こっそりと廃棄され、検証の道は閉ざされることになるだろう。さらに同委員会については「発信者の申出により公開を停止しています」の表記の下、国立国会図書館のウェブアーカイブの公開対象から外れてしまい、過去の公式な大会発信情報すらアクセスできなくなってしまった。どこまでも「見せない化」を進めるのがこの国のしきたりということになる。
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さらに隠す文化は、それを暴く側であるはずのメディア一般にも広がっている。最たるものがテレビのモザイクであり、新聞でもよく出てくる関係筋表記だ。いまや画面にはテロップとモザイクが氾濫する状況で、一番大切な事実が奥に押し込められているありさまだ。このモザイク多用のきっかけは、一説にはオウム真理教事件からとされているが、プライバシー保護を名目に覆い隠す作用は、政府が行う公文書の黒塗りとかわらないのではなかろうか。
メディア自体の一見工夫に見える所作が、必要以上に隠す文化を許容し、むしろ積極的に後押しをしているという自覚が必要だ。隠すことで誰が得をしているのかをとことん問い、社会全体が「事実」を共有し「歴史」を検証できてこそ、はじめて進歩がある。もちろん知り得た過去の経験に目をつむっては意味がないのであって、先例で手続き上の問題が指摘されていた方法で国葬を強行するのも、法の支配に反する。」東京新聞2022年8月7日朝刊5面 時代を読む。
