A.葬儀と宗教
今はお葬式をするには葬儀屋に一切お任せで、おおかたの葬儀は仏教の形式でするのが大多数だ。遺体を置いた祭壇を前にお坊さんがお経を読み、参列者はお焼香をし遺族に挨拶をして引き上げる。コロナ禍の前は、お通夜とお葬式と二日間かけて、家族親族に加え、友人知人関係者が多く集まってお葬式をするのが当たり前の光景だった。しかし、これは昔から変わらぬ形だったかというと、どうやら明治の途中で今に近い形ができたようで、それ以前は一部上流階級は別として、葬儀は村落共同体が出づくりでやっていた素朴なもので、寺院や仏教僧侶が携わるようになったのも江戸時代からで、それ以前は宗教者の関与はほぼなかったという。
もともとの仏教は、個々の死者の埋葬や先祖供養といった葬儀には、仏陀の教えは関係なく、寺院が墓地を管理するというのも近世になってでてきた制度だという。そもそも昭和の戦後になっても、地方農村地域では多くが土葬で、ぼくの母の実家は山梨の農村だったので、祖父の葬儀は棺をそのまま墓地に埋める土葬だった。火葬が主流になるのは、都市部で葬祭業者と火葬場というシステムができあがった頃からだ。
そのあたりを斎藤美奈子の『冠婚葬祭のひみつ』(岩波新書)は、明治30年代の葬儀や今後の近代化、一種の文化革命について、わかりやすく説明している。
「では、葬式の近代化に寄与したのは、何だったのだろうか。
中江兆民の告別式は無宗教葬で行われた。それは「行列をしない葬儀」「会葬者が集う葬儀」として、後に広く受け入れられることになる。が、葬式の宗教離れをうながすまでには、さすがにならなかった。葬式と仏教徒の間には因縁浅からぬものがあり、長年の習慣が早々一朝一夕に変わるものではないのである。
ただ、葬式と仏教が結びついたのも江戸時代からでそれ以前は、婚礼と同様、葬式も宗教者が介在しない形で行われていたことは知っておいてもいいだろう。
もともとの仏教の教えに葬式という発想はないのでそうだ。釈尊は出家者は葬儀にはかかわるな、葬式などは在家の者に任せておけ、といい残したという。
それがなぜ「葬式仏教」と呼ばれるような存在に変わったのか。
すべてのはじまりは、1635(寛永12)年ごろ、江戸幕府がキリシタン弾圧のためにもうけた寺請制度である。日本人全員を近くの寺に帰属させ、寺には寺請証文(キリシタンでないことを証明する身分証書)を発行し、宗門人別帳(各人の宗旨と檀那寺を記した一戸ごとの住民基礎台帳)に捺印する権限を与える。近世の寺は、宗教施設である以上に、警察(キリシタンの摘発)と役所(檀家の管理)を兼ねた、末端権力の一部だったといってもいいだろう。
僧侶が寺に定住するようになったのも(それ以前はフリーランスの僧も多かった)、葬式に関与するようになったのも寺請制度以降のこと。仏式の式次第はキリシタンの葬儀に学んだのだという説さえある(神前結婚式の例を思えば考えられないことではない)。が、その後、仏式の葬式は独自の発展をとげ、寺請制度が確立した1700(元禄13)年ごろには、位牌、仏壇、戒名といった制度が導入され、葬式には必ず僧侶が関与しなくちゃダメとか、戒名をつけろとか、何年かごとに年忌法要をやれといったルールが設けられた(ルールを徹底させるにあたり、寺院側が「宗門檀那請合之掟」という文書を偽造したというのは有名な話である)。
寺に睨まれたらおしまいだから、人々はいやでもそれに従う。寺は寺で本末制度(本寺を頂点、底辺を末寺とするヒエラルキー)に縛られており、本寺におさめる上納金を調達しなければならなかった。そのため寺は、檀家の葬式と法要を行うことで経済基盤とした。葬式と仏教が結びついたのは、宗教というよりは経済の問題なのだ。
実際、葬式を仕切っていたのは寺ではなく、「葬式組」などと呼ばれる村落共同体の中のグループだ。棺や葬具をつくる、死装束を縫う、炊き出しをする。棺をかつぐ、墓穴を掘る。そんな裏方のすべてを葬式組は担っていた。
葬式が共同体にとっていかに重要だったかを示すのが、村の掟を破った家とのつきあいを断つ「村八分」だろう。八部のつき合いを断つとして、残ったつきあいの二分は、家事と葬式だという説、労役と葬式だという説、いろいろだが、ともかく二分のうちの一分は葬式だ。遺族が何もしなくていいように、すべての仕事は葬式組がやる。その代り次の葬式では手伝う。相互扶助の固い掟が村にはあった。
こうしたグラスルーツの葬式に、寺はいわば後から割り込んだのだ。日本の葬式には、だから仏教が割り込む以前の習慣と、仏教が開発したルールとがまじりあっている。1868(明治元)年の神仏分離れいによって廃寺が続出すると、残った寺は生き残りをかけ、ますます葬式と法要に精を出すようになった。一方、人々の側にしても、昔は大家族だったし、人もよく死んだ。需要と供給の関係が、そこでは成り立っていたのである。
近代の話に戻ろう。葬式の近代化を促したもの、それもやっぱりビジネスだった。
葬式に手を貸すビジネスは江戸時代からあって、井原西鶴『日本永代蔵』(1688年)に出てくるのが最初の例といわれるが、明治の東京や大阪には、葬具のリースや人材派遣を請け負う専門の葬儀社がいくつもあり、互いにしのぎを削っていた。棺桶屋、人足請負業、駕籠屋、花屋など、その前身はさまざまだ。
こうした会社の営業努力もあったのだろう、明治の都市では葬列がイベントと化す。建築史家の井上章一は、東京や大阪など都市の葬儀について、〈明治時代の葬列は、たいへん長大なものになることが多かった。見世物、スペクタクルとしての属性を備えたものだったといってもよい〉(『霊柩車の誕生(新版)』)と述べている。
富裕層の行儀ともなれば、その数は軽く数百、数千人、実業家岩崎弥太郎(1885年没)の葬儀の行列など七万人にもなったというから尋常ではない。
先頭を行く案内人、僧侶(神道式の場合は神職)、さまざまな葬具を手にした人、位牌や香炉を持つ人。腰に乗せた棺の後には、親族、使用人、会葬者などが続く。また、飾り物として、白衣の看護婦(明治の葬儀にはなぜか人気があったという)、花籠、放鳥籠(出棺前に鳩を放つイベントはこのころからあったのだ)などがオプションとして加わる。「造花放鳥」は明治の葬列の流行だったというから、まるで商店街のパレードだ。
葬列には、棺をかつぐ「駕籠かき人足」、墓穴を掘る「穴掘り人足」など、かなりの人出が
必要である、ほとんどはその日限りのアルバイト。貧しい層には葬列が貴重なバイト先であり、これだけで食べているフリーターみたいな人もいたらしい。
このような派手な葬列は、大正になるころにはぱったりと姿を消す。
交通事情の変化も関係していた。花嫁行列のない神前結婚式が評判になったのも、あるいは交通事情がからんでいたかもしれない。人力車や路面電車などが行き交う路上で、人がぞろぞろ練り歩く行列を行うことは、じゃまだし危険だ。
かわって登場した葬式の装置が二つあった。祭壇と霊柩車である。
戦後の葬儀のスタンダードとなる白木の祭壇を考案したのは、大阪の葬儀社「籠友」を経営する鈴木勇太郎という人物という。1899(明治32)年、鈴木は、まず青竹製の祭壇を、続いて白木の祭壇を発表する。鈴木は非常なアイディアマンだったらしく、霊柩車を考案したのもこの人で、こちらは1917(大正6)年のこと(高橋繁行『葬祭の日本史』)。
籠友は、江戸末期の大名行列のプロデュース業から転じたという変わり種の葬儀社だ。アイディアマンの手にかかれば、棺を運んだ輿の機能が二分し、一方では葬列に持って歩いた葬具を並べる祭壇に形をかえ、一方では宮型霊柩車に発展する。まさにベンチャービジネスである。
葬儀のスタイルを一変させた要因は、もう一つある。火葬の普及だ。こちらはテクノロジーの進化、もっと大げさにいえば産業革命と連動している。
目に、日本の葬送はほとんどが土葬だった、といったけれども、それは必ずしも宗教的な理由によるわけではない。火葬に較べると、土葬は省エネなのである。
葬儀は死者を弔う精神的な文化だが、もう一つの目的は遺体の処理だ。かそうもどそうも目的は遺体の破壊で、土葬の場合はゆっくり土に還るところを、火葬は人の手でいっきにやってしまう。つまり人工的な方法といえる。
火葬も古くからあった習俗ではあるが、火葬にするのは大変だった。野外に浅い穴を掘ってわらなどの燃料と棺を置き、さらに燃料を積み上げて火をつける「野焼き」。火葬場の原型ともいえる屋根のついた「火屋」。いずれにしても、火葬は時間も手間もかかれば、燃料だってばかにならない。ひと一人焼くには一晩以上を要したともいう。焼けば異臭が出るから、遠方まで遺体を運ばなければならず、広いスペースも、火の番人もいる。
昔は死がいまより日常的だった。大人も子どももよく死んだ。まして武士は死ぬのが商売みたいなものだった。そのたびに火葬なんかしていられない、それがほんとのところじゃなかっただろうか。
政府が統計をとりはじめた明治20年代の平均寿命は、男子は42.8歳、女子は44.3歳である。乳幼児死亡率が高かったし(冠婚葬祭的にいうと、だから成長にまつわるイベントには一歳児以下の祝い事がやけに多いし、元服にも大きな意味があったのである)、病気や事故はもちろん、地震、台風、火事、飢饉まで、死ぬ原因には事欠かなかった。
一方、明治30年代ごろからは、都市化の進行にともない都市人口が増加する。当然、死者も増加して、土葬にする場所が確保できなくなってきた。
明治政府の埋葬政策はめちゃくちゃで、1873(明治6)年に火葬禁止令を出したかと思うと、わずか二年後には火葬禁止を解除するなど、かなり場当たり的である。
が、火葬の普及を後押ししたのはハードウェアの発達だった。焚き口を横に向けて、空気を送り込むことのできる近代的な火葬炉(当時の言葉では火葬窯)がお目見えしたのは1915(大正4)年のこと(横田睦『お墓博士のお墓と葬儀のお金の話』)。重油や石炭を燃料に用いるようになったのも大正初期で、それまでは一晩かかっていた火葬が、わずか二、三時間ですむようになったという。産業革命はこんなところにまで及んでいたのだ。
ちょっと横にそれるけれども、現在、全国にある火葬場のほとんどは公営である。ところが東京には、公営の火葬場が瑞江斎場の一か所しかない。落合斎場、桐ケ谷斎場、町屋斎場など、残りの六か所の火葬場はすべて民営、東京博善株式会社の経営である。この会社の前身、東京博善社を1887(明治209)年に創業し、火葬場の近代化に努めたのは木村荘平という牛鍋屋の主人だった。山田風太郎の短編小説「いろは大王の火葬場」(『明治バベルの塔』所収)のモデルになった人物だ。これまたベンチャービジネスである。
土葬から火葬への転換は、葬式のその他の面にも影響を与えた。
一連が「寝棺」の普及である。寝かせた姿勢で遺体をおさめる「寝棺」は、明治中期までは上流階級の専売特許。棺桶という言葉もあるように、庶民のスタンダードは「座棺」と呼ばれる桶型の棺だった。遺体を水で洗ったあと、しゃがんだ姿勢にととのえ、地域によっては首から膝まで縄をかけて棺におさめる。墓地を効率的に使う意味でも、野焼きにするときも、面積をとらない座棺が合理的だったのだ。しかし、、近代的な火葬炉で短時間に焼くためには、以前とちがって今度は寝棺のほうが適していたのである。
葬式の近代化とともに、喪服の文化も変わった。旧来、日本の喪の色は白だった。それが欧化政策の一環で黒が礼服の色となり、洋装化と連動して和服も黒へと変わっていく。一説によると、明治30年代の皇室の葬儀が黒い喪服の最初という。
おおかたこれも、どこかの呉服店かデパートが最初に売り出したのではなかろうか。だって現代の冠婚葬祭文化の生みの親は、ほとんどがアイディアに長けたビジネスマンなんだから。喪服だってそうにちがいない。」斎藤美奈子『冠婚葬祭のひみつ』岩波新書、2006年.pp.12-19.
明治初年の「廃仏毀釈」という無茶な改革政策で、檀家制度と幕藩制の保護を失った仏教寺院は、生き残りをかけてその営業戦略を「お葬式」と「お墓」と「法事」に傾注し、人が死んだらお寺が弔って永代供養するシステムを作りあげた。その結果、日本の仏教寺院はもっぱら葬儀屋ビジネスと手を組んで「葬式仏教」という、ほんらいの宗教のもつ信仰による魂の救済という機能を失っていった。
B.出稼ぎ労働の記憶
ぼくの個人的なことをいえば、社会学の研究者となる最初の仕事が、「出稼ぎ研究」の実態調査だった。1960年代の高度経済成長を底辺で担った出稼ぎ労働とは、発展する大都市で大規模建設工事や労働集約的製造業の工場で、地方の農村や漁村から季節的に出てきて働く大量の人たちがいた。出稼ぎ労働者の出身地は、東北や北海道、あるいは北陸や九州の僻地が多かった。彼らの労働環境は厳しく、故郷の家族と離れて働く出稼ぎ労働は、低賃金や家庭崩壊などの社会問題も生んでいた。ぼくたちの研究プロジェクトは、それを出稼ぎ労働者が働いている大都市の現場や工場を実態調査をし、次には出稼ぎが出てくる故郷の農村に行ってその生活を調査するというものだった。約五年ほど続いた調査研究で、ぼくは全国各地を歩き回った。今となっては、はるか昔の懐かしい記憶だが、山形県白鷹町で当時の出稼ぎの写真が残っていたことから、それを町民有志が映画にしたという記事が新聞に載っていた。
「白鷹町民 出稼ぎの記録 山形の有志が映画化:1960年代、年間2000人
1960年代に年間約二千人が出稼ぎをしていたという山形県白鷹町で、町民手作りの映画「出稼ぎの時代から」が完成した。町内で7月24日にあった上映会を皮切りに、県内外での公開を見込む。
79分にわたる映画の中心は、66,67年に川崎市の団地造成現場で働く作業員の様子を収めたスライドショーの映像。基の写真は当時、二十代で現場に赴いた同町の農業本木勝利さん(77)が撮影した。重労働を強いられた環境の厳しさが垣間見える。
2020年に町の資料から本木さんが収めた当時の記録が見つかったことが製作のきっかけとなった。出稼ぎとは何だったのかを再考する資料になるとして、町民の間で映画化の構想が持ち上がり、町民有志約二十人が昨年夏から作業を進めてきた。
記録を残した本木さんが監督役を担い、他のメンバーと編集方針を議論。出稼ぎ中に留守を預かった家族、現代の若手農家や外国人労働者ら約二十人にインタビューした映像を収録した。当時の苦悩を振り返るとともに、現在の農業や労働をめぐる課題も問いかける内容に仕上げた。
本木さんは「高度経済成長を支えた出稼ぎを通じ、社会が得た物と失った物があった。映画を見た人が、今後の農業や集落のあり方を考えてくれたらいい」と言う。
連絡先は「製作委員会」の菊池富夫委員長090(8424)7963(河北新報)」東京新聞2022年8月5日朝刊21面特報欄。
同じ紙面に載っていた「本音のコラム」は、旧統一教会とかかわりのあった政治家たちの、あまりに無自覚無節操な発言をとりあげている。おそらく、この政治家たちはなんで批判されるのかよく分かっていない。べつに変なことをやったわけじゃないのに、いけなかったの?という態度に呆れる。それは、一強与党の大御所の元首相が、先頭切って平気でやっていたんだから、オレたちそれを見習っただけだもんね、ということだろう。でもそれが重大事件の原因になった。自民党の腐敗・堕落は本人たちも分からないほど、地に堕ちていた。
「陰謀の果ての悲劇 北丸雄二
ある集団が悪事の秘密結社に操られ、ってな陰謀ドラマはよくあって、人気海外ドラマ『メンタリスト』も警察や司法にレッド・ジョン一派が潜む不気味さが物語の牽引力。他にもイルミナティとか、虚実はともかくそこで描かれる「悪意」の底知れなさが気持ち悪い。でも、今回のこれはどう? 普通は隠すだろうに策す努力も見られない。表面化しても悪びれずに「何が問題なのか正直分からない」。隠す努力が見られないのはそもそも「悪意」の認識が甘いのか薄いのか、陰謀にしては登場キャラが次から次へとおバカすぎ。だいたいその結社が背景で重要人物が殺されたなら、その背景を徹底追及するのがドラマの鉄則。しかしそんな意欲すら見えてこない。いや待てよ、死んだ「重要人物」より今の自分らの地位が重要なら、両者の背景にいた秘密結社の悪意を調べることは自らの政治的軽薄を暴くことになる。「けしからん!」と怒ればその怒りは自分たちに戻ってくる。だから「挨拶しただけ」「名前を貸しただけ」で台風一過を待つ常套戦術か。でも秘密結社を監視すべき国家公安委員長まで「実態を知らなかった」「名前を貸しただけ」だなんて、彼が名前を貸した「だけ」なのは逆に「国家公安委員長」という職に対してじゃないかとの新疑惑も生まれて、それはそれで十分怖い政治的悲劇になるわね。(ジャーナリスト)」東京新聞2022年8月5日朝刊21面特報欄 本音のコラム。