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冠婚葬祭の変遷 1 作られた婚儀と葬儀  異様な家族観 

A.ヒトを文化的存在にするための発明品
 ぼくは、大学に教員として勤めていたときは、商売道具ともいえる本を買うお金は、研究費の一部として出ていたので、毎月2,3万円くらいは書籍や専門誌を購入していた。大学を辞めてから、それがないので、書店で本を買うことはぐっと減って、もっぱら図書館で借りるのが中心になった。図書館のメリットは、検索システムで探せばたいていの既刊文献はみつかるし、みつからなくても図書館ネットワークで、どこにあるかがわかる。でも、目当ての本を探すにはまず、署名や著者名、あるいは出版社などがわかっていなければならない。本を見つける楽しみは、書店や図書館でぶらぶら開架の書棚を眺めながら、思いがけぬ本があった、と手に取る喜びにある。ぼくの住む地域の中央図書館では、文庫や新書がすべて揃っているわけではないが、岩波新書や中公新書などはほぼ全巻、同じコーナーで並んでいる。先日も、中央図書館で偶然みつけたのが、斎藤美奈子『冠婚葬祭のひみつ』岩波新書2006年だった。斎藤さんがこんな本を書いていたのを知らなかったので、さっそく借りて読んでみた。なるほど独特の文体で、非常にわかりやすく書かれた「冠婚葬祭」の明治以降の変遷が説明され、現在それがどうなっていて、この先どうなるかまで考察されている。以下、明治時代にそれまでの儀礼習俗、とくに婚姻と葬儀がどう作られ変化したきたのかの部分を、読み引用させていただく。
 冠婚葬祭のうち「婚」と「葬」はわかるとして、「冠」と「祭」については少し説明が要る。「冠」とはもとは元服のことで、15歳前後の男子の成人式だった。「祭」は先祖の祭祀で、三回忌、七回忌などの追善供養、あるいはお彼岸、お盆、そして正月も節句も日本の季節行事の多くは「先祖を偲ぶ日」「神を祀る日」だった。斎藤美奈子は、これをさらにヒトをナマの身体的存在から文化的存在にする装置、身体上の性的現象を社会化する文化的工夫だったと考える。

 「近代の冠婚葬祭には、三つのエポックメーキングな時期がある。
 1900年代(明治30年代。近代国家の確立期)
 1960年代(昭和30年代。高度経済成長期)
 1990年代(平成以降。バブル経済崩壊以降)
 明治30年代、20世紀初頭の話から始めよう。
冠婚葬祭の習俗は階層や地域によってまちまちで、細かいことをいいだしたらキリがないのだけれども、近世の武家で幅をきかせていたのは「小笠原流礼法」だ。
小笠原流とは、その名の通り、小笠原家が伝えるマナーの形だ。もともとは鎌倉時代の弓道と馬術の礼法で、こっちはこっちで今も残っているのだが(源頼朝の家来だった小笠原長清が祖といわれる)、室町時代からは冠婚葬祭や日常生活のマナー全般の規範となった(足利義満のマナーの先生だった小笠原長秀が祖といわれる)。
 もっとも庶民にそんなものは関係ないわけで、「小笠原流じゃあるまいし」といったら、それは「堅苦しいことはやめようぜ」の意味だったりもしたらしい。しかし、そうはいってもセレブのふるまいは真似してみたいもの。明治の結婚式のスタンダードは、この小笠原流を簡略化したような「自宅結婚式」だった。日本映画なんかで、花嫁花婿が座敷で三々九度の杯を交わしているシーンを見たことがないだろうか。あれですあれ。
 思いっきり簡略化して当日の流れだけをいうと、それはだいたいこんな手順をとる。
 ①婿方の使者が嫁方を訪れ、花嫁と両親・親族とで杯をかわす(嫁方での式)。
 ②花嫁を乗せた輿(明治以降は人力車)を中心に、親戚一同がぞろぞろと行列を組んで、嫁方から婿方に向かう(花嫁行列)。
 ③花嫁行列の三々九度の盃に続き、親、家族、親類、客などと杯をかわす(婿方での式)。
 婿方で行われる盃事が「祝言」で、花嫁の輿が婿方の敷居をまたぐことを「輿入れ」と呼ぶ。そして、いちばん華やかなのが②の花嫁行列であった。
 宗教者が介在しないことにお気づきだろうか。そう、昔の結婚式は、神式もキリスト教式もない、純粋な民間行事だったのだ。挙式と披露宴の境目もあいまいで、③の盃事から客をまじえての祝宴になだれこむのが普通だった。
 とはいうものの、自宅結婚式の作法はまことに煩雑で、本式にやったら花嫁衣装はじめ、一同くたくたになってしまっただろうというほどのものである。たとえば、三々九度と親族の盃事がすんだら、白い式服から色付きの衣装に着替え(当時は花嫁だけでなく花婿もみな白い式服で式に臨んだ)、床の間の飾りもすべてしつらいを替え、一同座り直した後、今度は「色直し」の盃事がはじまるのである。明治の頃はそこまではやらなくなったようだが、本来の色直しは婚礼の三日目に行われたというから、婚礼も重労働である。
 一方の葬式はというと、こちらの形式も婚礼となんとなく似ている。
 現在の葬送儀礼は、遺体を火葬にして収骨するまでの「葬式」と、遺骨を墓におさめる「納骨」の二段階に分かれている。昔はこれがひとつの流れで行われた。
 遺体を洗い清めて(湯灌)、一晩つきそう(通夜)ところは今と同じ。ちなみになぜ通夜をするかというと、(これには諸説あるのだが)ほんとに死んだかどうかを確かめるためだったらしい。昔の死の判定基準はあいまいですから。もしかしたら生き返るかもしれないじゃん、というわけである。で、翌日はこんな手順となる。
 ①遺体を棺におさめて焼香し、庭先で人々と別れをして出棺する(自宅での葬式)。
 ②棺を中心に一同がぞろぞろ葬列をつくって檀那寺や墓地に向かう(野辺送り)。
 ③ここで僧侶が読経をし(寺での葬式)、墓穴に棺を埋める(埋葬)。
 このうちもっとも華やかだったのは(葬式をつかまえて華やかと形容するのも変なものだが、ほんとに華やかだったのだ)は、②の野辺送りである。
 そして、そうそう、現代と一番ちがうのは、土葬である点だろう。
 現在の日本では99%が火葬である。しかし、江戸時代には大部分が土葬だったし、1896(明治29)年の火葬率は27%、戦後の1955(昭和30)年でも54%である。日本はつい最近まで土層の国だったのである。
 ちなみに小笠原流礼法の伝書『大諸礼集』に元服や結婚の項はあっても、葬式の項は見当たらない。葬儀と祭祀は寺の管轄だったからだろうか。武家にとって「武士道と云ふは死ぬ事と見付たり」だから、寺とのつきあいは重要だった。冠と婚は小笠原流、葬と祭は寺、そんな棲み分けが、近世の武家社会にはあったのかもしれない。
 さて、と、こんな行列中心の古式ゆかしい儀礼に変化が訪れたのが明治30年代だった。
 ひと言でいえば、カジュアル化。もう少し説明的にいうと、行列型から集会型へ、あるいは移動型から劇場型への質的転換である。
 まず、今日「伝統的なスタイル」とされる神前結婚式がはじまった。日本の結婚式に宗教者が介在するようになったのは、このときからといわれている。
 神前結婚式のルーツはほぼ特定されている。1900(明治33)年5月10日の、皇太子嘉仁(よしひと)(大正天皇)と九条節子(くじょうさだこ)(貞明皇后)の婚礼である。
 ときに嘉仁22歳、節子17歳。
 嘉仁は陸軍少佐の正装で青山の東宮御所を、節子は白繻子の礼装で赤坂の九条邸を出発。それから束帯と十二単に着がえて宮中賢所の神前で婚儀を行い、洋装に着がえて宮中正殿で天皇皇后に挨拶をし、それから沿道の人々の中を馬車でパレード。さらに正装と中礼服のローブデコルテ姿で要人の祝賀を受け、しかるのちに二人、手に手をとって饗宴の席にのぞんだという(片野真佐子『皇后の近代』)。
 二人はまた、はじめて新婚旅行に出かけたロイヤルカップルでもあった。伊勢神宮と神武天皇陵などへの参拝を兼ねた、二人そろっての三重・京都・奈良への旅。
 それがどれほどアバンギャルド、が大げさならニューウェイブな結婚のあり方だったか、戦後生まれの人々は想像もつかないだろう。なにがニューウェイブかって「カップル」をビジュアル化してみせたところがスゴイのである。夫婦そろって手に手をとってなんてこと、皇族に限らず、それまではありえなかったんだから。
 一方、弔い方面では、告別式が発明されたのが明治30年代だった。今日、葬儀と告別式はひとつづきになっていて、どこまでが葬儀でどこからが告別式か判然としないところがあるのだが、いちおう説明しておくと、親族の焼香が葬儀、一般参会者の焼香が告別式だ。葬儀は宗教的な行事で、告別式は社会的な儀式だという人もいる。
 告別式のルーツもほぼ特定されている。1901(明治34)年12月17日に行われた、思想家中江兆民(本名篤介)の葬儀である。享年55。無神論者だった兆民は、大げさな葬列を組んで練り歩く仏式の葬式を好まず、遺体は解剖の後、すぐ火葬にするようにと遺言した。そのため遺族と友人、弟子らが相談し、「告別式」の名で、今でいう「お別れ会」みたいなものを青山斎場で開いたのである。左はその時の死亡広告。
「中江篤介儀本日死去致し候に付、この段為御知申上候也。明治三十四年十二月十三日 遺言により一切宗教上の儀式を用いず候に付、来る十七日午前九時(住所略)自宅出棺、青山会斎場に於いて知己友人相会し告別式執行致候間この段謹告候也。友人 板垣退助 大石正巳」
 おおお、友人代表は板垣退助か。しかし、彼ら自由民権運動の志士たちも困ったことだろう。民権論の理論的支柱は死してなお、お騒がせ人間だったとも言えようか。
 儀礼の形というものは、永遠不滅のように見えて、変わるときにはすぐ変わる。
 当初は奇異に見えただろう神前結婚式も告別式型葬儀も、意外にあっさり受け入れられ、とりわけ1923(大正12)年の関東大震災以降、都市でかなり普及した。
 神前結婚式と告別式型葬儀の共通点は「簡便である」ということだろう。宗教がどうしたというようなことは、じつはあまり関係ないのである(と私は思う)。
 じゃあ何が関係あるかというと、産業ないしはビジネスだ。
先に結婚式とビジネスの関係から見ておこう。
 プリンス嘉仁は神前結婚式だったというと、まず思い浮かべるのは国家神道とのからみである。このロイヤルウェディングは、日清戦争(1894~95年)と日露戦争(1904~05年)にはさまれた富国強兵期に当たっていた。近代国家の体裁をととのえるために、明治政府が「天皇を中心とした神の国」の建設をめざしていたのは周知の事実。また、国家神道の下での神社は「国家の宗祀であって宗教ではない」という変な位置づけで、葬式(神葬祭)を行う自由は制限されていた。葬式ビジネスを寺に独占されていた神道界にとっても、結婚式は新たなビジネスチャンス、いやありがたい教えを広める絶好の機会だったにちがいない。
 その証拠に、ロイヤルウェディングの翌1901(明治34)年には、早くも日比谷大神宮(現在の東京大神宮)で模擬神前結婚式(一般向けのデモンストレーションである)が開かれ、そのまた翌年には同じ日比谷大神宮で初の神前家婚式が行われている。昔ながらの盃事と親善での誓いを組み合わせた式次第は、現代の神前結婚式とほとんど同じ。その後の神前結婚式に大きな影響を与えたことはまちがいないだろう。やがて、乃木神社、出雲大社系の神社、天満宮、平安神宮など、有名神社がつぎつぎと神前家婚式の名のりをあげ、神社で結婚式をして料理屋で宴会をというパターンが昭和初期には一部上流階級の間で流行した。
 しかし、神前結婚式が国家神道の牽引役として機能したと考えるのは性急にすぎよう。こういうことに長けているのは、宗教者ではなくビジネスマンだ。」斎藤美奈子『冠婚葬祭のひみつ』岩波新書、2006. pp.2-10. 

 江戸時代に行われていた武家中心の冠婚葬祭は、今のものとはかなり違っていた。それが文明開化に並走して大きく変わったのが明治30年代だった。その動きの中心は伝統的な仏教や神道という宗教の側からではなく、皇室行事のリニューアルとそれを巧みに産業化した新興ビジネスマンのアイディアだったという。これはかなり説得力ある議論だ。


B.改憲案で一致
 自民党改憲案の緊急事態条項は、旧統一教会=勝共連合の主張に沿っているだけでなく、新設の憲法24条で「家族の尊重」、現行20条の「いかなる宗教団体も政治上の権力を行使してはならない」を削除している。旧統一教会のいう「家族」「家庭」というのは、われわれが考えている「家族」とはまったく違うもので、文鮮明を「真のお父さま」として、女性たちはみな彼の精液を受けて一つの家族になることが世界平和だという、とんでもない教え。これが朝鮮戦争直後の韓国から登場したのには、それなりの理由があるが、日本の伝統保守を謳いながら「反共」の一点で手を組んで、選挙を助けてもらった自民党の「虚偽」は自覚しておいた方がいい。

 「安倍晋三元首相銃撃事件を契機に、自民党との深い関係が露呈した世界平和統一家庭連合(旧統一教会)。その旧統一教会の政治部門とされる国際勝共連合(勝共連合)の改憲案と、自民党の改憲草案が、「緊急事態条項」や「家族条項」などで一致していることが、注目を集めている。被害者弁護団から「反社会的勢力」とも指摘される旧統一教会側の主張が、関係の濃い自民党の改憲草案にも反映されていたのか。 (山田祐一郎、中山岳)
 〈家族条項〉「基本的単位、社会にも必要」個人の尊重ないがしろ?
 改憲を巡る自民草案と旧統一教会側との「一致」は、まだある。
 渡辺氏(引用者註:渡辺芳雄勝共連合副会長)は先の動画で、憲法に「家族保護の文言追加」を主張。「家庭という基本的単位が、最も社会国家に必要。だから保護しなきゃいけないという文言を、何としても憲法に入れなくてはならない」と強調する。これに対し、自民草案で新設された24条条文には「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される」とある。双方の「家族重視」は、よく似通っている。
 旧統一教会は2015年の改称で家庭連合と名乗っている通り、関連団体を含めて「家庭」「家族」はキーワードだ。創始者の故・文鮮明氏を「真のお父さま」と呼び、「神様の下に人類が一つの家族である世界」を理想に掲げる。
 こうした教団の「家族観」について、北海道大の桜井義秀教授(宗教社会学)は「目指しているのは文氏を中心にした「真の」家族。自由恋愛や婚前交渉は論外で、信者には合同結婚式で相手が選ばれる」と解説する。
 こうした教義に基づく家族観は、自民草案のうたう家族とは似て非なるものだ。ただ、桜井氏は、勝共連合が教義に基づく家族観を前面に出さず自民草案に同調していると指摘。その思惑について「教義を真正面から説くだけでは、多くの人々は受け入れず信者も増えない。だから教団側に都合のよい自民の改憲草案に乗っかり、利用しようとしている。実際に関連団体は「家庭づくり国民運動」などの講座を開き、旧統一教会の名を出さずに布教につなげてきた」と述べる。
 自民草案は、現憲法20条にある「いかなる宗教団体も政治上の権力を行使してはならない」の文言を削除。さらに、国とその機関の宗教活動を禁じた点も変え、「社会的儀礼または習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りではない」とする。政教分離の原則を緩めるとの批判はかねてあったが、旧統一教会と自民党との関係が問われている今、これを許していいのか。
 恵泉女学園大の斉藤小百合教授(憲法学)は「自民草案にももともと、政治家による靖国神社参拝の違憲性を払拭し、国家神道を復権させるもくろみがあるとみていた。さらに旧統一教会との関係も浮き彫りになり、政教分離のハードルを下げる方向で改憲が進むならば、憂慮すべき事態だ」と警鐘を鳴らす。
 斉藤氏は、自民草案と旧統一教会の考えに類似するのは「個人の尊重を退け、父権主義的家族の中に埋没させる危うさ」とみる。「立憲主義の柱となる個人の尊重をないがしろにするかのような改憲に、自民と旧統一教会が足並みをそろえているように見える」と問題視する。
 ただ、自民草案への影響が取り沙汰される主張を展開してきたのは、旧統一教会・勝共連合に限らない。宗教団体の言説に詳しい評論家の古谷経衡氏は「日本会議や神社本庁などの『宗教右派団体』は、自民草案に一定の影響を与えてきた。旧統一教会とも共通するのは、復古的な家族観、夫婦別姓反対などだ。そうした「雑念」が自民草案には入っているといえる」と説く。
 古谷氏は「旧統一教会については、かつて霊感商法で多く被害者を生み、今も宗教二世たちは苦しんでいる。そうした団体のエッセンスが含まれる自民草案に沿う改憲は政治倫理上、許されないだろう」と述べ、こう強調する。「このまま改憲の議論が進み国会で発議され、国民投票にかけられるならば一部の宗教団体を利する面がある。国民は一度、立ち止まって考える必要があるのではないか」
 〈デスクメモ〉安倍氏が2006年に上梓し、改憲を訴えたのは「美しい国へ」。その二年前、勝共連合初代会長久保木修己氏の遺稿集として出た本が「美しい国 日本の使命」。偶然か、思想の一致か。今となっては二人とも故人だから確かめられないが、こんな縁が感じられる改憲は不気味だ。」東京新聞2022年8月2日朝刊21面、こちら特報部。
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