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04 西武帝国の興亡~会社は株主のものか


第4回 西武のカリスマ・堤義明氏による支配の構図

 2世経営者でありながら、西武グループの総帥としていかんなくその力を発揮してきた堤義明氏。積極的なリゾート開発で、西武グループを一時は世界的な企業にまで成長させた。しかし社長に就任した直後は、必ずしも大きな力を持っていたわけではなかった。

 「義明氏は、父・康次郎氏が亡くなった時点では、全く自己名義の株を持っていなかったと思います」

 コクド元社長の中島渉氏はこう語る。1966年、中島氏をはじめとする複数の幹部は、義明氏から「俺は自分の土地も家もないんだよ」と打ち明けられたのだという。

 そこで中島氏たちは「コクドの代表取締役である義明氏が、自己名義の株を1株も持っていないのは不自然であると考えて、義明氏名義の株を作るよう薦めました。このとき初めて、義明氏名義の株が作られたと思います」

 中島氏たちは、東京・広尾にある康次郎氏の屋敷内に家を持つようにも勧めたという。

 しかし義明氏は、広尾の屋敷には、兄・清二氏の母である操夫人がいるから遠慮したという。そのため中島氏らは、プリンスホテルが所有する南麻布の土地(現在、フィンランド大使館と料亭有栖川・清水が建っている土地)を勧めた。

 だが最終的には、神奈川県・大磯にあったコクドの土地を義明氏が購入し、義明氏名義の家を建てたという。

 その後、義明氏は名義株を手に入れつつ権力を握っていった。ではどのようなプロセスで名義株を手に入れたのだろうか。

幼少時から厳しく育てられる

 義明氏が生れたのは1934年。康次郎氏と恒子夫人との間に生まれた長男で、次男には豊島園前社長の康弘氏、三男には猶二氏がいる。

 義明氏は、広尾にある堤邸近くの麻布・高樹町に住み、幼少のころから厳しく教育されたという。麻布中学時代には、堤邸にある柔道場で、康次郎氏によって厳しく鍛えられた。早くから帝王学も学んだ。

 早稲田大学時代には西武系の会社に入り、事業所を持たせてもらった。ここを基盤に、「大磯ロングビーチ」など、自ら構想した事業を実践していった。

 このとき、周囲の役員からは「時期尚早ではないか」との指摘が相次いだ。だが康次郎氏は「社会勉強のための月謝だ。赤字になってもいい」と語ったという。ただし大磯ロングビーチは、5~6年は赤字が続いたものの、その後黒字化している。

 その後も康次郎氏は、さまざまな場面で義明氏を鍛えたという。買収対象物件の調査や、熱海や伊豆・箱根の観光地を視察する際に同伴。伊豆箱根鉄道の幹部会にも同席させた。大学卒業後は、コクドの前身である国土計画興業の代表取締役に就任させている。後継者として大きな期待を寄せていたことは想像に難くない。

後継者・義明氏は、堤家の共通認識ではなかった

 ただし義明氏は、最初から西武グループ総帥の椅子が約束されていたわけではなかった。

 康次郎氏は一時、後継者に清二氏を考えていたという。しかし清二氏は学生運動にのめり込み、自ら後継を辞退した。その後、康次郎氏は「『決定を何度も覆すことはよくない』と考えて、清二氏が辞退して以降、後継者を決めていなかったと思います」と中島氏は言う。

 「『後継者を決めてしまうと、それに甘んじてしまい、本人のためにならない。なので、決めたら駄目だ』とおっしゃっていました。また、康次郎氏の葬儀の喪主を決める際、ご家族の間でちょっと揉めていらっしゃいました。後継者が義明氏であるということは、堤家の共通認識にはなっていなかったと思います」(同)

 1964年4月26日、康次郎氏が突然、逝去した。このとき相続人には、康次郎夫人の操、娘の小島淑子、邦子、息子の清、清二、義明、康弘の諸氏と債権者たちがいた。相続分は操氏が3分の1。小島淑子氏、清氏、清二氏、邦子氏が各33分の4。義明氏、康弘氏、それに債権者が33分の2だった。

 相続税対策と後継者を検討される舞台となったのが火曜会だ。康次郎氏の娘婿で西武鉄道社長を務める小島正治郎氏、専務の宮内巖氏、西武百貨店社長の清二氏、義明氏、操氏などで構成される西武グループの事実上の意思決定機関である。ここで、義明氏を西武グループの総帥とすることを決定した。

 しかし、遺産の分割配分が問題として残った。康次郎名義の遺産らしい遺産は、コクドの15%の株式と生まれ故郷である滋賀県にある若干の土地しかない。

 しかも、康次郎氏名義の15%のコクド株は、相続税対策のため国立学園に移した。移転したのは、半年間ある納税期限が迫る1カ月前の1964年9月のことだ。しかし「『相続する財産がない』ということでは税務署が認めないだろう」ということで、コクドや西武鉄道などから慰労金名目で2億円を調達して、これを遺産として分配することしたという。

 遺産の分割問題は、すっきりと片付いたわけではない。義明氏が代表して相続することに操氏が難色を示したため、小島氏が仲裁に入った。遺産分割協議の対象は操氏が住む広尾の3000坪の家屋敷と土地。土地はコクド名義となっていた。

 協議により、これを清二氏が経営する西武百貨店の所有とすることでまとまったという。その後1970年に、義明氏と清二氏が協議。コクドは義明氏が相続、西武百貨店は清二氏が相続することを決めたという。

名義株を集め、コクドの支配権を確立

 義明氏は康次郎氏の葬儀の喪主を務め、堤家の代表であることを内外に示した。

 1966年8月、名義株を管理していた広尾の康次郎氏のお屋敷の分室を解散。名義株の管理は、川島喜晴氏から義明氏に移ったという。そして金庫番となったのが義明氏の側近で株式担当だった島津惇雄氏だ。

 中島氏によると、義明氏はこのとき「この名義株について『どうしてこんな野暮なことをするのだろう。』とおっしゃっていたことがありました。当時、義明氏も法律に違反することだとは思っていなかったようです」(中島氏)。野暮なこととは、もちろん名義株のことだ。

 その後義明氏は、中島氏らから51%の株式を持つべきではないかといった進言を受け、国立学園の株式15%と合わせて51%となるよう、36%分の名義株を自分名義に書き換えたという。1967年初頭のことだ。

 「このとき、すでに退社している古い役員などの株を選び、書き換えを行いました。ただ名義を書き換えるだけでは、名義株の仕組みが税務署などに分かってしまうために、100円で買ったという形にしたのです」(中島氏)

 さらに義明氏は株による支配権を強化する。

 1976年2月には、役員などを対象にしたコクド役員持ち株会「国友会」を誕生させたという。名義株を集約して管理できるようにするための仕組みを整えたわけだ。国友会の設立を提案したのは、島津氏だ。

 義明氏は、自己名義の株の取得、名義株を集中的に管理する仕組みの構築によって西武グループの支配を完成させていった。

 この間義明氏は、事業面で派手な動きはしていない。「私の死後10年間は、新しい事業に手を出すな」という康次郎氏の遺言を着実に守った。中でも不動産買収には慎重となり、1965年の東京オリンピックの年には「不動産部門」からの撤退を宣言した。

 10年間の沈黙を破った後は、セゾングループを急拡大させていた清二氏に挑戦するかのように、リゾート開発やホテル建設にまい進した。ホテル建設では、義明氏が自ら指揮を取り、内装の設計まで手掛けたという。

 ただし、名義株などを使った義明氏の西武グループ支配は、いつしか義明氏自身を裸の王様にしてしまったようだ。義明氏による強引なまでのリゾート開発やホテル建設が、西武グループの経営を大きく蝕んでいった。

 「華やかな拡大路線とは裏腹に、ホテルの稼働率は同格のホテルに比べ、決して高いものではなかった」(コクド関係者)

 そして名義株の整理を島津氏から引き継いだ総務部次長の木内保氏が、西武鉄道の名義株事件が起こった後、自殺するに至った。ここから西武グループは転落の軌跡を描いていったのである。

(松崎 隆司=経済ジャーナリスト)


松崎 隆司(まつざき たかし)
経済ジャーナリスト

中央大学法学部を卒業後、経済誌の出版社に入社。経済誌の記者やM&A専門誌の編集長などを経て1999年独立。
経営論から人事、M&Aなど経済全般について取材を進めている。11月には「知っておきたい昭和の名経営者」(三笠書房)を出版する予定。
主な著書
「会社破綻の現場」(講談社)
「闘う経営者」(実業之日本社)
「商売のしくみとしきたり」(日本実業出版社)


2006年1月30日 NIKKEI BP
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