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男澤惠一・家系と先祖のBLOG

「先祖を知れば未来が見える」著者、日本家系調査会の男澤惠一が読者様の幸福を願って書いております。

黒岩さん

2019年12月18日 | この名字のルーツは?
長野県の黒岩様から調査依頼されて、その途中ですが、群馬県吾妻郡嬬恋村でも一番多い名字です。
多く分布している県:長野県、群馬県、福岡県。
①群馬県富岡市上黒岩・下黒岩発祥。江戸時代から記録のある地名。善隣。長野県千曲市森に分布あり。
②埼玉県入間郡越生町黒岩発祥。江戸時代から記録のある地名。
③高知県高岡郡佐川町黒原(旧:黒岩)発祥。安土桃山時代から記録のある地名。
④高知県安芸市土居に鎌倉時代からあった安芸城の外の黒岩屋敷からと伝える。高知県安芸市井ノ口乙黒岩が比定地。
⑤事物。黒い岩から。徳島県美馬郡つるぎ町貞光木屋では明治新姓と伝える。福岡県久留米市北野町高良に江戸時代にあった。

1064長野県
964群馬県
755福岡県
463東京都
456高知県
359神奈川県
291大阪府

市区町村別苗字分布 世帯数 市区町村名
202長野県 須坂市
191長野県 長野市
115長野県 上高井郡高山村
54長野県 上水内郡信州新町
47長野県 上田市
46長野県 中野市
45長野県 下高井郡山ノ内町
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長井家由来調査 群馬県

2019年12月12日 | この名字のルーツは?
藤原北家利仁流斎藤氏族
斎藤実盛(平安末期の武将)の後裔で、武蔵国幡羅郡長井荘(埼玉県熊谷市)に住して長井を称した。戦国期に長井豊前守政実は三波川流域の北谷の領主として浄法寺城(群馬県藤岡市・旧鬼石町)に居城した。上杉氏の家臣であったが、永禄6年(1563)頃武田信玄に降った。永禄13年(1570)には政実は島名城(高崎市元島名町)に移ったというが、これ以後も三波川流域を支配している。その子・右衛門尉信実は武田氏滅亡後、越後に走り、天正18年(1590)小田原攻めの時、上杉景勝の先陣藤田信吉の相備えとなって豊臣勢の加わり、浄法寺城を攻略した。その後徳川家康の家臣となったが、慶長初年(1596)播磨へ配流となった。

長井豊前守政実の一族・上大類町の長井三河は、天正3年(1575)5月武田家家臣・和田業繁に従って、三河国長篠(愛知県新城市長篠)に出陣(長篠の戦)、業繁が君ヶ臥戸の砦(鳶ヶ巣山の北方)を守り、三河は鳶ヶ巣山(とびがすやま・新城市鳶ケ巣山)で奮戦して討死にしました。

長篠の戦い(ながしののたたかい、長篠の合戦・長篠合戦とも)は、戦国時代の天正3年5月21日(1575年6月29日)、三河国長篠城(現愛知県新城市長篠)をめぐり、3万8千の織田信長・徳川家康連合軍と、1万5千の武田勝頼の軍勢が戦った合戦。
決戦地が設楽原(設楽ヶ原、したらがはら)および有海原(あるみ原)だったため長篠設楽原(設楽ヶ原)の戦い(ながしの したらがはら の たたかい)と記す場合もある。
この戦いで武田氏は、重臣層を含む多くの将兵を失う大敗を喫し、領国の動揺を招いた。
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松井家ルーツ

2019年12月07日 | この名字のルーツは?
松井氏の代表家紋:「丸に竹笹に雀紋」「岩に根笹紋」「丸に蔦紋」
蔦紋は元々、柏紋派生の家紋とされており、皇族の家紋や副紋としても使われた。棚倉藩主松平松井家を含め著名な家で見られる家紋。
棚倉藩松井氏
棚倉藩は、陸奥国(磐城国)白河郡・菊多郡・磐前郡・磐城郡などを支配した藩。藩庁は白河郡棚倉城に置かれた(現在の福島県東白川郡棚倉町)。
松平(松井)家
譜代 6万石
松平康爵
松平康圭
松平康泰
松平康英

《松井氏のルーツ》
清和源氏満政流
清和源氏満政流の松井氏は、源満政の6世の孫にして源頼朝の御家人となり、山城国綴喜郡の地頭職となった重行の系統がある(なお、同郡には、渡来人系(百済人とも)の松井氏があるがこれとは別系統である)。
子孫の一系統は、三河国に移り、後に徳川家康に仕え、幕臣・旗本となった。また、前掲の松井康之は清和源氏満政流で山城国綴喜郡松井庄の出身とする説もある。松井康之が肥後国移住の際、綴喜郡松井の菩提寺にあった父正之の墓を所領に移転したという。
清和源氏為義流
その祖は、清和源氏の源為義の子・源維義。維義が松井冠者を称したことから、維義の子の季義が松井姓を名乗ったとする。この系統には三河松井氏(後の松井松平家)・遠江松井氏。別流に丹波松井氏、近江松井氏がある。室町将軍家御家人の松井氏や、戦国時代に丹波国竹野郡に割拠した松井佐渡守(丹波松井氏)も同流を称する。江戸時代には、肥後熊本藩主・細川氏の筆頭家老で実質の八代城主になった。
三河松井氏
室町時代に今川氏家臣の遠江松井氏が三河国に入り、吉良氏の寄騎となった系統がある。これが三河松井氏である。松井忠次の代で今川氏・吉良氏の麾下を離れて徳川家康に従い、松平姓を受けて松平周防守康親と名乗った。これ以降、松平姓を受けた一族を松井松平家とも呼ぶ。譜代大名や旗本を出した。
特に大名の家は江戸時代に繁栄し、国政の中枢に座り、幕閣の老中・大坂城代・京都所司代・寺社奉行などを歴任した。

都道府県別苗字分布 世帯数 都道府県名
4382 大阪府
3914 愛知県
3096 東京都
2705 兵庫県
2337 神奈川県
2208 静岡県
2015 北海道
1768 京都府
1497 埼玉県
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埼玉県の小林氏

2019年12月06日 | この名字のルーツは?
埼玉県の小林氏はもちろんこの他の流れもありますが、最近の調査では・・・
埼玉郡小林村(現久喜市小林・旧菖蒲町)
「風土紀稿 日蓮宗妙福寺」に、「当寺は太田修理助藤原佐忠なる者、僧日英と云えるを招請して応安年中開きし寺なり。よりて是を開基とす。応永18年(1411)10月23日卒し、法名蓮定と称す。此の人道真などの祖族なるべけれど、其家の係類にも見えざれば詳ならず。佐の字恐くは資の字の誤なるべし」とあります。
「武蔵國郡村誌」の小林村に、「太田道灌の家臣・太田修理この地を開墾し、姓を小林と改め遂に村名となせり」。また妙福寺の由来に「応安中僧日英開基太田修理允佐忠創建す」とあります。
妙福寺の由来記には、「開基檀那は太田四郎修理資藤原佐忠なり。後代小林周防守忠宣と云い、旧小林村の祖先なり」とあります。
開基檀那(カイキダンナ)とは、寺院を創建するさいに、必要な土地・費用などを寄進した世俗の実力者。
埼玉苗字辞典の小林に「太田道灌の家臣と書いてあるが、道灌は文明年間(1469~87)の人で年代合わず。道灌の家とは無関係なり」とあります。
太田資兼ー太田資房ー太田資清(永享4年“1411”~長享2年“1488”/明応元年“1492”)ー太田道灌(永享4年“1432”~文明18年“1486”)。太田道灌は、清和源氏(摂津源氏・多田源氏)です。
太田四郎修理資藤原佐忠は、応永18年(1411)没なので、太田資房(道灌の祖父)か資兼(道灌の曽祖父)の世代になります。
また日蓮宗大本山・法華経寺の太田家は、清和源氏頼光流でした。

藤原秀郷流太田氏族
藤原秀郷の後裔で、武蔵国埼玉郡太田荘(現在の久喜市・加須市・羽生市・さいたま市岩槻区)或いは下野国都賀郡太田荘(栃木市藤岡町太田)を本拠とした太田一族。小山氏・下河辺氏・大河戸氏を出した。
祖は太田大夫・太田別当と呼ばれた太田行尊(行隆)。太田荘を開発したとみられ、行政━行光━行広━行朝と続いた。行朝は源頼朝に従い、野木宮合戦に参加し、これにより太田荘を安堵されたと考えられる。しかし建久5年(1194)6月に、行朝は久伊豆神社の神人を殺傷したとみられ、神人側が抗議して頼朝が二階堂行光を派遣し仲裁する事態となり、行朝は太田荘の荘司職を没収された。以後小山氏など庶家は活躍するが、惣領たる秀郷流太田氏は没落してしまった。その一族が近隣に土着し、土豪となった。
藤原秀郷‐千常‐文脩-兼光‐頼行‐太田行尊‐宗行‐行政‐行光‐行広‐行朝‐行助
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五十嵐氏

2019年12月05日 | この名字のルーツは?
新潟県、東京都、山形県。新潟県三条市飯田の五十嵐神社の付近(旧:五十嵐(イカラシ)保)から発祥。南北朝時代から記録のある地名。姓の古い発音もイカラシ。アイヌ語のインカル・ウシ(inkar-ushi)は「展望がきく場所」、「見張り台」の意。インカル・ウシの比定地は新潟県三条市北五百川の八木ヶ鼻。新潟県新潟市西区の五十嵐(イカラシ)は経由地。江戸時代から記録のある地名。新潟県新潟市北区木崎では新潟県新潟市西区の五十嵐を経て来住したと伝える。新潟県五泉市五十嵐新田は経由地。江戸時代から記録のある地名。地名は開発者の五十嵐氏からとの伝あり。福島県耶麻郡西会津町新郷豊洲常盤、福島県耶麻郡北塩原村大塩大久保、福島県耶麻郡猪苗代町磐根土田、宮城県栗原市栗駒稲屋敷では草分けと伝える。善隣。福島県会津若松市西七日町に分布あり。
※皇紀からでは弥生時代の垂仁天皇の皇子に五十足彦命(イカタラシヒコノミコト)の名前があった。


都道府県順位
1 新潟県
(約28,200人)

2 東京都
(約16,000人)

3 山形県
(約15,900人)

4 北海道
(約15,400人)

5 福島県
(約14,700人)

6 神奈川県
(約11,000人)

7 埼玉県
(約10,000人)

8 千葉県
(約7,500人)

9 群馬県
(約5,600人)

10 茨城県
(約3,600人

市区町村順位
1 新潟県 新潟市
(約9,000人)

2 山形県 鶴岡市
(約6,600人)

3 新潟県 長岡市
(約4,000人)

4 福島県 会津若松市
(約2,800人)

5 新潟県 三条市
(約2,500人)

6 山形県 酒田市
(約2,200人)

7 福島県 喜多方市
(約1,800人)

8 新潟県 五泉市
(約1,600人)

9 山形県 山形市
(約1,500人)

10 富山県 富山市
(約1,400人)
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長野県の小林さん

2019年12月03日 | この名字のルーツは?
長野県は小林さんが多い!
 信濃の小林氏は伊那郡と諏訪郡から発祥した二つの流れがあり、いずれも諏訪神家にゆかりがある。諏訪郡の小林氏は諏訪氏と同族であり、伊那郡の小林氏は知久氏の分かれである。知久氏は清和源氏満快流だが、諏訪氏と姻戚関係があり諏訪氏とは同族とみなされる。
 その他、木曽義仲の子孫、藤原氏の流れという小林氏があり、戦国時代はじめの甲斐国東山梨郡に小林尾張守・和泉守という豪族があり、巨摩郡には信濃から移住したという小林氏がいた。信濃の隣の越後国では上杉謙信の侍大将の一人に小林左馬介の名が見え、魚沼郡にある越後一宮弥彦神社の神官に小林氏がいた。江戸時代の長岡藩士や米沢の上杉の家臣にも小林氏が見られる。

長野県の小林氏は諏訪神族が多い
神家一党33氏
以下の氏族は諏訪氏の一族であるという。南北朝時代は宗家の諏訪氏ともども南朝方となる。
関屋氏、深澤氏、皆野氏、三塚氏、四宮氏、若尾氏、不覚氏、保科氏、神野氏、笠原氏、千野氏、松島氏、座光寺氏、栗原氏、上原氏、栗林氏、矢崎氏、風間氏、平島氏、平方氏、栗澤氏、遠山氏、向山氏、中村氏、西保氏、真志野氏、真野氏、脇間氏、繭屋氏、大妻氏、小島氏、中野氏、根津氏、浦野氏、大垣氏、有賀氏、平井氏、神田氏、神内氏、知久氏、桓原氏、宮所氏、小坂氏、安倍氏、元澤氏、高遠氏、原氏、安部氏
その他の諏訪氏一族
岡屋氏、栗田氏、三輪氏、箕輪氏、埴原田氏、一瀬氏、武井氏、安宿氏、足羽氏、桑原氏、山井氏、花岡氏、関氏、大平氏、大島氏、小野氏、小林氏、平林氏、周防氏、片倉氏、藤森氏、原氏、矢澤氏、宮下氏、宮崎氏、金山氏、津波木氏、岩波氏、高木氏、横田氏、海口氏、西條氏、櫻井氏、栗澤氏、福島氏、春日氏、大藍氏、宮坂氏、吉田氏、小井弖氏、平栗氏、早出氏、濱氏、中尾氏、波間氏、吉田氏、木村氏、大木氏 、米澤氏、沖氏、杵淵氏、寺尾氏、保坂氏
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竹本姓

2019年11月23日 | この名字のルーツは?
全国の竹本姓
タケモト 【竹本】日本姓氏語源辞典
広島県、大阪府、愛知県に多い。
全国人数:およそ54,100人

①地形。竹のそばから。広島県広島市中区基町が藩庁の広島藩士、愛知県豊川市に江戸時代にあった。徳島県三好市東祖谷釣井に江戸時代にあった。同地では平氏の後裔と伝える。平(タイラ)参照。広島県呉市豊浜町大字豊島では明治新姓時に小桜姓から改姓したと伝える。小桜(コザクラ)参照。岡山県倉敷市でチクモトあり。善隣。大阪府羽曳野市向野、宮崎県えびの市上江に分布あり。
②埼玉県比企郡鳩山町竹本発祥。江戸時代から記録のある地名。同地に江戸時代にあった。
③愛知県豊川市御津町広石竹本発祥。同地に分布あり。
④コリア系。大韓民国京畿道安城市竹山(チュクサン)面の本貫あり。東京都大田区で1976年8月23日に帰化の記録あり。本姓は具。具(グ)参照。
⑤創賜。鹿児島県の奄美群島の一字姓である竹に「本」を追加。推定では1953年の日本復帰時。鹿児島県大島郡与論町那間に分布あり。同地に竹姓あり。竹(タケ)参照。
⑥嵩元の異形。沖縄県沖縄市では沖縄県うるま市勝連内間の出で嵩元姓から1945年以降に改姓したと伝える。

主なルーツ
①清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)頼政流。
②中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)秀郷流。
③安倍氏(祖先は第八代孝元天皇の孫)などにもみられる。
④竹本義太夫家は中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる藤原姓を名乗ったとされる。

山口県の竹本氏
安倍姓:これも竹本氏にして、家紋丸に鷹の羽一本。
※一本ということは、安倍氏流竹本家はこの家紋ということになります。
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榊原源氏車紋 その2

2019年11月21日 | この名字のルーツは?
貴族の乗り物「牛車」の車輪をモチーフとしている。佐藤氏が用いたことで広まったが、徳川四天王・榊原康政が用いていたことも有名である。なお、榊原氏の場合は「榊原源氏車(さかきばらげんじぐるま)」と呼ばれる。

榊原康政(さかきばらやすまさ)
徳川三傑、徳川四天王、徳川十六神将
出身:三河国
生年月日:1548年○月○日
没年月日:1606年6月19日
年齢:満58歳歿

いわゆる「徳川四天王」のひとり(ほか、酒井忠次、井伊直政、本多忠勝)。また、徳川十六神将でもある。なお、本多忠勝とは同い年である。 幼名は於亀(亀丸とも)。通称は小平太。おもな官位は従五位下式部大輔、贈正四位。 榊原康政は12歳で徳川家康(当時、松平元康)に小姓として仕え、1563年の三河一向一揆で初陣を飾ると、その時に挙げた武功により家康から「康」の一字を与えられた。
1570年の姉川の戦い、1572年の三方ヶ原の戦いなど数多くの戦いで戦功を立てた康政だが、特にその武名を高めるようになったのが1584年の小牧・長久手の戦いであろう。
小牧・長久手の戦いにおいて、榊原康政は、豊臣秀吉のかつての主家・織田家に対する不義を書き連ねた檄文(げきぶん)を秀吉陣営の諸大名に送り付け、秀吉を激怒させた。怒り狂った秀吉は康政の首に10万石の懸賞をかけたという。懸賞首となった康政の小牧・長久手の戦いでの働きは目覚しく、秀吉の甥・羽柴秀次の軍勢を壊滅に追い込んだだけでなく、池田恒興、森長可といった名のある武将を討ち取っている。
徳川家康が関東に入国すると康政には上野国館林10万石が与えられ、その後、家康の3男・徳川秀忠付となった。
1600年の関ヶ原の戦いの際には秀忠に従って参戦。だが、途中の上田城攻めと悪天候のため本戦に遅刻するという大失態を犯し、秀忠は家康の激怒を買った。この時、命がけで両者の仲をとりもったのが康政といわれる。戦後、家康から水戸25万石への加増を打診されたが康政は館林の方が江戸へ近いことなどを理由にこれを固辞。 また、老中職に任ぜられたが、「老臣が権を争うのは亡国のもと」といって本多正信らとの権力争いを避け幕政から遠ざかったという(諸説あり)。1606年6月19日、館林で死去した。
榊原康政の墓 善導寺 県指定史跡(館林市)群馬県館林市楠町3692
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栃木県の大塚姓

2019年11月11日 | この名字のルーツは?
栃木市大塚町、大塚行基氏は「丸に剣片喰紋」藤原道隆流、孫太郞泰親を始祖とする。
益子町、大塚八郎氏は藤原秀郷の後裔、小野崎勘太夫の子孫という。「二つ巴紋」
戦国武将としては、皆川氏家臣に大塚大膳。宇都宮氏家臣に大塚能登守、佐野氏家臣に大塚信濃守綱利などがいる。
大塚は母方姓なのでさらに研究を進めたいです。自分にかかわるルーツはどうしても後回しになってしまいます。
日本家系調査会
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河野氏由来 愛媛県発祥の豪族

2019年11月08日 | この名字のルーツは?
古代豪族越智氏の氏流
伊予国風早郡河野郷(愛媛県北条市)発祥の豪族にて古代末に武士化して中予・東予の実権を握り、南北朝時代以降守護大名として活動した名族。
水軍を擁して代々中予知方に勢力を振るった。瀬戸内海に海賊が横行した時、その子孫は郡司のほかに追捕使に任ぜられ、さらに伊予掾・大目に補せられた。古代末期に本拠を風早郡河野郷に移して高縄山城を築き、親清の時河野氏と称した。
源平合戦の際、河野通信は源 義経軍を援けて活躍し、御家人となった。通有・通忠の代に元寇の来襲があり、志賀島の戦に殊勲をあげた。通貞が越後国上田荘小栗山郷を領し、越後国の河野氏祖となります。
戦国末期、長宗我部に敗れて没落し、天正15年(1587)福島正則の伊予入国で直系は滅亡した。
日本家系調査会
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