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食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

大航海時代の帆船-大航海時代のはじまりと食(3)

2021-04-07 23:02:08 | 第四章 近世の食の革命
大航海時代の帆船-大航海時代のはじまりと食(3)
人類は様々な道具を作り出してきました。そのような道具の歴史を眺めていると「必要は発明の母」という言い方はもっともだなと思うことがよくあります。今回は大航海時代の初め頃に使用された帆船を取り上げますが、それらが生み出された経緯を見ると、当時の帆船も必要に迫られた結果生まれてきたことがよくわかります。

なお、今回は番外編のようなもので、食の話はほとんどありません。

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大航海時代の初め頃に主に使用されていた帆船のタイプは、「カラック船」と「カラベル船」と呼ばれるものだった。コロンブスがアメリカ大陸を発見した航海では、1隻のカラック船(サンタマリア号:コロンブスの乗船)と2隻のカラベル船(ピンタ号とニーニャ号)が使われた。マゼランの世界一周ではビクトリア号(マゼランの乗船)を始めとする5隻のカラック船が使用された。

一般的にカラック船は大きく、船底が平らで大量の荷物が乗せることができたが、小回りが利きにくいという欠点を持っていた。一方のカラベル船はカラック船より小型のものが多く、速度も速くて小回りも利いたため沿岸の浅瀬や河川を探検することが可能だった。このため、物資などの輸送目的にはカラック船が主に使用され、探検が主になる時はカラベル船が使われた。以下にカラック船とカラベル船について詳しく見て行く。

大航海時代の大量輸送を支えたカラック船
カラック船は海外進出に注力していたポルトガルが15世紀に開発したヨーロッパで最初の遠洋航海用の帆船だった。カラック船は大航海時代を代表する帆船となり、15~16世紀にはポルトガルとスペインなどで盛んに建造された。

カラック船の特徴は次の通りだ。

・全長と全幅の比は3:1で船体は丸みをおびてずんぐりとしており、大量輸送に適した広い船倉を持っていた。
・3~4本のマストを持ち、前方のマストには四角形の横帆(おうはん)が張られ、後ろのマストには三角形のラテンセイルと呼ばれる縦帆(じゅうはん)が張られた。
・船尾中央舵を有した。
・船首と船尾に船楼と呼ばれる家のような複層の構造物が設置されていた。


カラック船(サンタマリア号)

カラック船は北欧のコグ船と呼ばれる帆船と南方の帆船の長所を組み合わせることで生み出された。コグ船は、北欧のヴァイキングが使っていた「クリンカー造り(clinker-built)」(板の一部を重ね合わせて張る構造)を受け継いだ中型の帆船で、13世紀~15世紀にハンザ同盟などによって主に近距離貿易で使われていた。

  
コグ船

コグ船からカラック船に受け継がれたのが「四角形の横帆」「船尾中央舵」「船楼」である。

「横帆」とは、船首と船尾を結んだ線に垂直に張られた帆のことだ。横帆は追い風(順風)をしっかりと受け止めて強い推進力を生み出すため、外洋などで常に進む方向に向かって風が吹いている時に最も活躍する。しかし向かい風(逆風)ではほとんど機能しなくなる。また、大きくなると扱いにくくなるので、大型帆船では一つのマストの上下に2枚以上の横帆を張るようになった。

「船尾中央舵」はその名の通り、船尾の中央に固定された舵(かじ)のことで、12世紀の終わり頃に発明されてコグ船に導入されたものだ。それまでの舵は船尾の両側に吊るされていたオールで、曲がりたい側のオールを海水に沈めて抵抗を生み出すことで方向を変えていた。船尾中央舵が取付けられたことによって、船を旋回させたり直進させたりが容易になった。なお、中央舵の舵輪は船尾楼に設置されていた。

また、「船楼」には大砲が置かれていて、防御や攻撃のための役割を果たしていた。海面からかなり高い位置に大砲があるため、敵が小舟に乗って襲ってきても攻撃を受けにくいし、逆に攻撃しやすいという利点があった。ポルトガルがアジアに拠点を築く上で、この船楼の大砲がかなり活躍したと言われている。

一方、南方の船から受け継いだのが船体の外板が「カーヴェル造り(carvel-built)」であることと、三角形の「縦帆(ラテンセイル)」だ。

外板の「カーヴェル造り」は8世紀頃から地中海を航行する船に用いられていた工法で、図のように板を平らに張り合わせていくやり方だ。先のコグ船の外板の「クリンカー造り」に比べて、同じ量の木材を使うとカーヴェル造りの方が大きな船を作ることができるのだ。これがカラック船に導入されることで広い船倉を確保することができた。

「縦帆(ラテンセイル)」とは、船首と船尾を結んだ線に垂直に張られた帆のことだ。

縦帆は横帆に比べて風の力を推進力に変える効率が低いものの、向かい風(逆風)でも船をジグザグに進ませることで風上に向かうことができる。また、船を旋回させることで舵の役割もする。このように縦帆が登場したことによって、人類は海の上を自由に航行できるようになった。なお、縦帆はアラブ人が開発・発展させたものをイタリアのジェノヴァ人やヴェネツィア人が広く使用したことから「ラテンセイル」と呼ばれた。

カラック船では横帆と縦帆を組み合わせることで、どのような状況でも船を目的地に向かって進ませることができた。こうして生み出されたカラック船はその積載力を生かして軍艦としても商船としても大活躍した。

冒険者のためのカラベル船
カラベル船はもともとポルトガルの沿岸部で使用されていた漁船をベースに15世紀に開発されたもので、次のような特徴を持っていた。

・小型の帆船で、船体は木の板が平たんになるように並べられた「カーヴェル造り」で作られた。
・2~3本のマストを持ち、縦帆である三角形のラテンセイルが張られていた。
・船尾中央舵を有した。
・船楼は持たなかった。


カラベル船

カラベル船がポルトガルで開発されたのは、彼らがアフリカ西岸を南下してアジアへの航路を開拓していたからだ。アフリカ西岸を南下するときは追い風(順風)だが、帰りは向かい風(逆風)になるためラテンセイルが適していたのである。アジアへの航路を開拓したヴァスコ・ダ・ガマもカラベル船を多用した。

喜望峰を回ってアジアへの航路が拓かれると追い風の場合に備えて、横帆を張るための4本目のマストが追加されたり、メインマストに横帆を張ったりするようになった。

大航海時代の初め頃はポルトガルやスペインの探検家は主にカラック船を用いていたが、未知の海域を調査するという目的にはカラベル船の方が適していることが認知されるようになって、こちらの方をメインに使用するようになった。つまり、カラベル船は操舵性と速度に優れ、運用にカラック船ほどの人員が必要がなかったため、冒険者にとっては最適な帆船だったのである。

大航海を支えた保存食-大航海時代のはじまりと食(2)

2021-04-03 23:38:53 | 第四章 近世の食の革命
大航海を支えた保存食-大航海時代のはじまりと食(2)
大航海時代に帆船でヨーロッパからアジアやアメリカに行くには長い時間がかかりました。例えば、コロンブスはアメリカ大陸への航海を4度行っていますが、いずれも片道に2カ月ほどを要しています。かかった時間と距離から計算すると、1日100 km進むのがせいぜいだったようです。

このような長い航海で問題になったのが食料です。当時は冷蔵庫が無かったため、高い気温でも長期間にわたって保存できる食べ物が必須でした。それでは、当時の海の男たちは船の上で何を食べていたのでしょうか?

今回はこのような長期間の航海を支えた食について見て行きます。

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ヨーロッパから中南米に行くのにも喜望峰を回ってアジアに行くのにも、高温の熱帯の海域を通る必要がある。さらに海の上なので湿度も高い。こんな悪環境で長持ちする食品はなかなかなかった。

陸上の一般的な保存食であった塩漬けの肉や魚は長くはもたなかった。これらは高温多湿の状態では次第に腐り始め、ウジがわいてドロドロになったそうだ。

また、炭水化物源として積まれていたものが「ビスケット」だが、これもコクゾウムシがわいたりネズミに食べられたりしたそうだ。なお、ビスケットは二度焼きにしたパンのことで、現代の乾パンに近いものだった。堅くて不味くて、船乗りに嫌われていたそうだ。

このような中で最も長く保存できたものが「タラの干物」だ。タラと言っても日本で食べるマダラやスケソウダラとは別の種類のタイセイヨウダラという魚で、脂分が少なく乾燥させるとカチコチに固くなって長期保存ができるようになるのだ。日本でもマダラを乾燥させたボウダラが伝統的な保存食になっている。



タイセイヨウダラの干物には身をそのまま天日で乾燥させたストックフィッシュと、軽く塩漬けしたあと乾燥させたソルトフィッシュの2つがある。

ストックフィッシュは10世紀以前からノルウェーの北西部で作られるようになり、ヴァイキングの航海時の重要な食料になっていた。14世紀にはハンザ同盟がストックフィッシュの貿易を独占するようになり、同盟の重要な交易品になっていた。なお、ストックフィッシュという名前は、タラが「ストック」と呼ばれる木製のラックに吊り下げられて干されたことから付いた。

一方のソルトフィッシュは主にイギリスで作られたもので、とれたタラを船上で軽く塩漬けにし、港に戻ってから天日干しして作った。ソルトフィッシュはストックフィッシュよりも保存性が良く、大航海時代に重宝されるようになる。

ストックフィッシュとソルトフィッシュには、軽くてかさばらないので保管しやすいという利点もあった。こうしてストックフィッシュとソルトフィッシュは大航海を支える重要な保存食となったのである。「タラが無かったら大航海時代は来なかった」と言われることがあるが、これはまんざら誇張でもないようだ。

さて、カチコチのストックフィッシュやソルトフィッシュを食べるには下処理が必要だった。日本でボウダラを調理する時には水に何日もつけて柔らかくするが、同じようにストックフィッシュやソルトフィッシュもトンカチなどでたたいて小さくした後に布袋に入れてから海水につけることで柔らかくした。それから肉のように焼いて食べるのが一般的だったらしい。

ところで、コロンブスの次に新大陸に到達したのはカボットというヴェネツィア人で、彼はイギリスの商人から依頼を受けて西方への航路を開拓した。実は彼が目指したのはジパング(日本)だったが、コロンブスと同じようにアメリカに行きついてしまったのだ。彼が到達したのは、コロンブスが着いたところよりも北の、おそらく現在のカナダ沿岸だと考えられている。そこで彼が見たのが海を泳ぐ大量のタラだった。この発見以降、カナダ沖のタラはヨーロッパ諸国の争いの元となる。そして、最終的に勝利したのはイギリスだった。

タイセイヨウダラは現在でも南ヨーロッパやイギリスで人気がある魚で、ポルトガルでは毎日違う料理を作れるほどタラを使ったレシピが豊富と言われている。また、イギリスのスナックの定番である「フィッシュ・アンド・チップス」もタラとポテトをフライにしたものだ。これらの国々ではタラの料理は国民食と言っても良いかもしれない。

大航海時代のはじまりー大航海時代のはじまりと食(1)

2021-03-31 18:01:36 | 第四章 近世の食の革命
第四章 近世の食
4・1 大航海時代のはじまりと食
大航海時代のはじまり
西洋史で近世と言うと、宗教改革あたりから産業革命の前あたりまでの、16世紀から18世紀半ばくらいまでを指すことが多いようです。この時代には、食の世界で画期的な出来事が起こりました。それは、ヨーロッパ人によるアメリカ大陸原産の作物の発見です。大航海時代が始まってヨーロッパ人がアメリカ大陸に進出したことによって、この新しい出会いが起こりました。

ヨーロッパ人がアメリカ大陸で初めて出会った作物には次のようなものがあります。

トウモロコシ、ジャガイモ、サツマイモ、トマト、トウガラシ(ピーマン・シシトウ)、カボチャ、インゲン、ラッカセイ(ピーナッツ・南京豆ともいう)、アボカド、パイナップル、パパイヤ、カカオ、ヒマワリなどの農作物

タバコやコカ(コカインの原料)などの薬品あるいは嗜好品



農作物についてはどれもなじみのあるものばかりで、もしこれらが無かったら現代の食事はとても寂しいものになっていたはずです。例えば、ジャガイモやトマトは西欧料理には欠かせない食材になっていますし、トウガラシはキムチなどの韓国料理に必須の香辛料です。また、カカオは大好きなチョコレートの原材料です。

西洋諸国の海外進出によって奴隷貿易やプランテーションの拡大など、世の中は大きく変化します。いわゆる地球規模の変化であるグローバリゼーションが始まったのも大航海時代と考えられるのです。

そこで、第四章「近世の食」第一回目の今回は、大航海時代のはじまりを概観していきます。

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いわゆる「大航海時代」は15世紀半ばくらいから始まるとされる。

大航海時代の先鞭をつけたのはヨーロッパ最西端の新興国ポルトガルだった。地中海貿易の恩恵を受けてこなかったポルトガルが、ジェノヴァ商人から資金と船の建造・運用技術の支援を受けて海外進出に乗り出したのである。

ポルトガル人たちは未知の領域だったアフリカの西の海域を南下し続け、1488年にはバルトロメウ・ディアスが喜望峰に到達する。そして1498年にはヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を越えてインドに到達し、ポルトガルとインドを結ぶ航路が開かれることとなった。やがてこの航路を使って莫大な量の香辛料がヨーロッパに運び込まれることになり、ポルトガルの首都リスボンは香辛料貿易の中心として成長して行った。

ポルトガルはマレー半島・セイロン島などにも進出し、1557年にはマカオに要塞を築いてアジア貿易の拠点とした。なお、1543年にはポルトガル人が日本の種子島に漂着して鉄砲を伝えている。

一方、ポルトガルに出遅れたスペインは、大西洋を西に航海してアジアに到達するというクリストファー・コロンブスの提案に乗り支援を行った。コロンブスは1492年に大西洋を横断し、アジアではなく西インド諸島に到達した。コロンブス自身はアジアに到達したと信じ込んでいたが、同じ頃にスペインとポルトガルの両国から派遣されたアメリゴ・ヴェスプッチは、この地がアジア大陸とは別の大陸であると報告した。

ところで、ヨーロッパでは新たに見つけた土地は見つけた国のものになるとされていた。ポルトガルとスペインは両国間の争いを避けるために、ローマ教皇に仲介してもらいトルデシリャス条約を成立させた。この条約では、西経46度37分の経線を境界として、そこから東はポルトガルのものになり、西の地はスペインのものになると定められた。この結果、アフリカ・アジアと南米ブラジルはポルトガルが権利を持つこととなり、それ以外のアメリカ大陸の土地はスペインのものとなった。

アメリカ大陸でヨーロッパ人が初めて出会った作物の多くが、大航海時代の初め頃にヨーロッパに持ち帰られた。例えば、トウモロコシとトウガラシ、カカオはコロンブスが1500年前後にヨーロッパに持ち帰っているし、トマトは1520年頃、ジャガイモは1570年頃にヨーロッパに運び込まれたとされている。ちなみに、ヨーロッパに持ち帰った作物のほとんどはアメリカ大陸の現地人によって栽培化され育てられていたものだった。

また逆に、アメリカ大陸にはそれまで無かった作物や家畜がヨーロッパから持ち込まれた。例えば、作物ではコムギやオオムギ、タマネギなどが、家畜ではウシやブタ、ヤギなどが新大陸に持ち込まれた。

また、ポルトガル領となったブラジルにはサトウキビが持ち込まれ、1530年代からサトウキビを栽培し製糖する大農園(プランテーション)が始まった。そこでは安価な労働力として現地のインディオを奴隷として使役した。しかし、ヨーロッパから持ち込まれた伝染病や過酷な労働のためにインディオの人口はまたたく間に減少したため、西アフリカから運んできた黒人奴隷を使うようになった。

大航海時代の海外進出はポルトガルとスペインが先行していたが、やがてイギリスやオランダ、フランスも海外進出に力を注ぐようになった。この三国はアフリカ・アジア・アメリカ大陸に独自の植民地を成立させ、先行していたポルトガルやスペインの権利を奪っていった。こうしてポルトガルとスペインに代わって、イギリスやフランスなどがヨーロッパの強国となって行くのである。