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食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

ジャガイモ-ヨーロッパにやって来た新しい食(2)

2021-05-10 12:06:17 | 第四章 近世の食の革命
ジャガイモ-ヨーロッパにやって来た新しい食(2)
ジャガイモは現代社会ではなくてはならない食材です。

日本でよく食べられるジャガイモを使った料理を思い浮かべてみても、肉じゃが・ポテトコロッケ・ポテトサラダ・ポテトチップス・フライドポテト・ビーフシチュー・カレーライス・クリームシチューなど、皆が大好きな料理ばかりです。

他の国々でも同じように、ジャガイモ料理は人気のメニューになっています。例えば、スペインの代表的な料理にトルティージャ・エスパーニャというジャガイモを使ったオムレツのような料理があります。


トルティージャ(unserekleinemausによるPixabayからの画像)

このように大人気のジャガイモですが、ヨーロッパに伝えられてしばらくの間は食べられることはほとんど無かったということです。今回はこのようなジャガイモの歴史について見て行きます。

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ヨーロッパ人の記録にジャガイモが最初に登場するのは、スペイン人シエサ・デ・レオンが1553年に書いた『インカ帝国史』で、そこにはジャガイモのことを「パパ (papa)と言い、キノコの松露に似ている。ゆがくと柔らかくなって、ゆで栗のようになる」と記されている。

インカ帝国は1532年にスペイン人によって征服されるが、インカ人の抵抗がその後も続き、またスペイン人同士の争いも勃発していた。これを平定するためにスペイン王室から1547年にペルーへ派遣された軍にシエサ・デ・レオンは所属しており、クロニスタと呼ばれる記録者として南米の優れた記録を残したのである。

その後の1570年頃にジャガイモは新大陸からスペインに持ち込まれたという説が有力だ。しかし、スペインでの栽培はあまり広がらなかった。ヨーロッパに持ち帰ろうとしたスペイン人が試しに食べてみたところ芽の毒にあたったため、食べるのには適さないと思われたからとも言われている。ちなみに現代のジャガイモの芽にも毒があるので注意が必要だ。

ジャガイモはスペインに持ちこまれた後、1600年前後にフランスやドイツ、イギリスなどのヨーロッパの多くの国々に伝わって行った。ところがこれらの国々でも、「毒がある」「ハンセン氏病になる」「聖書で認められていない」「妊婦が食べると早産する」などと言われて、しばらくの間本格的に食べられることはなかった。むしろ花の美しさから観賞用あるいは研究用として栽培されることが多かったと言われている。

このように最初はあまり食べられていなかったジャガイモだが、徐々にヨーロッパの北部を中心に広く栽培されるようになる。その大きな要因となったのが戦争と気候の寒冷化だ。

ジャガイモ栽培が広がるきっかけとなった最初の大きな戦争が、1618年から1648年まで現在のドイツ(当時は神聖ローマ帝国と呼ばれた)で戦われた「三十年戦争」だ。この戦争はカトリック国であった神聖ローマ帝国が帝国内の新教徒(プロテスタント)を弾圧したことに端を発するものだが、プロテスタント国のデンマークとスウェーデンが参戦したことや、神聖ローマ帝国を支配していたハプスブルク家と対立するフランスが参戦したために大規模な国際戦争へと発展したのである。

この戦争の結果、神聖ローマ帝国の人口の約20%が失われ、各国の死者の合計は800万人以上にのぼったと言われている。土地の荒廃もすさまじく、多くのコムギやライムギなどの畑が兵士によって荒らされてしまった。

このような耕作地の荒廃とそれにともなう食料不足がジャガイモの栽培の拡大につながったのだ。ジャガイモは畑を踏み荒らされても収穫できたし、単位面積当たりの収穫量もカロリー換算でコムギの約2倍ととても高かったためだ。また、16世紀の後半から寒冷化していた気候が、冷涼な環境で育つジャガイモの栽培には適していたこともあった。ちなみに、寒いアイルランドでは17世紀からジャガイモが積極的に取り入れられ、18世紀には主食の地位を占めるようになった。

現在のドイツ北部からポーランド西部にかけての地域を領土としたプロイセン王国では、フリードリヒ大王(1712~1786年)がジャガイモ栽培を農民に強制することで、飢饉から人々を救ったと言われている。フリードリヒ大王がオーストリアと戦ったバイエルン王位をめぐる戦争は「ジャガイモ戦争」と呼ばれているが、この戦いでは本格的な戦闘をほとんど行わずにジャガイモを育てることに熱中していたという。

一方フランスでは、農学者・栄養学者のアントワーヌ・オーギュスタン・パルマンティエ(1737~1813年)がジャガイモを食用として広めることに大きく貢献した。彼はイギリス・プロイセンなどの連合軍とフランス・オーストリア・スペインなどの連合軍が戦った七年戦争(1754~1763年)でプロイセンの捕虜となったのだが、収容所でジャガイモを食べた経験からその価値に気づき、フランスに帰国後にジャガイモ栽培の普及に努めたのだ。

彼は、フランス王ルイ16世と王妃のマリー・アントワネットに協力を仰ぎ、ジャガイモの花で作った花束やブーケで部屋や衣装を飾ってもらうことで、上流階級におけるジャガイモの認知度を広げて行った。


ジャガイモの花(Andrea FrydrychowskiによるPixabayからの画像)

また彼はジャガイモが貴重な作物であることを農民に分からせるため、昼間はジャガイモ畑に見張りの兵をつけ、夜になると兵を引き上げさせて、わざとジャガイモを盗ませるように仕向けたという逸話が残っている(プロイセンのフリードリヒ大王にも同様の逸話がある)。

パルマンティエの教えに従ってジャガイモを栽培した地域では凶作の年に飢饉を免れたことから、人々はジャガイモの価値を認めるようになり、ジャガイモの栽培がフランスに根付いて行った。

こうした彼の功績をたたえてパリの地下鉄3番線にパルマンティエ駅が作られ、農民にジャガイモを手渡しているパルマンティエの像がすえられた。また、フランスには彼にちなんだ「アッシ・パルマンティエ」という有名料理がある。これは、炒めたひき肉の上にマッシュポテトを重ねチーズを乗せてオーブンで焼いたもので、これを食べない者はフランス人ではないと言われるほどだ。これ以外にもジャガイモを使った料理には「パルマンティエ風」と付けられているものが多い。


アッシ・パルマンティエ

こうして18世紀中にはヨーロッパのほとんどの国で食用にするためにジャガイモが栽培されるようになり、19世紀には多くの国で主要な作物になった。

なお、日本には1600年頃にインドネシアのジャカルタを拠点にしていたオランダ人によって伝えられたという説が有力だ。そして、ジャカルタから「ジャガイモ」という名前が付けられたと言われている。

トウモロコシ-ヨーロッパにやって来た食べ物(1)

2021-05-07 17:58:41 | 第四章 近世の食の革命
4・3 大航海時代にヨーロッパにやって来た新しい食
トウモロコシ-ヨーロッパにやって来た新しい食(1)
今回から大航海時代に新たにヨーロッパにもたらされた作物について見て行きます。第1回目の今回は、コメ・コムギとともに世界三大穀物と呼ばれている「トウモロコシ」です。


(Andrey GrachevによるPixabayからの画像)

現在の全世界のトウモロコシの生産量は11億トンを越えていて、約5億トンのコメや約7億トンのコムギよりもずっと多く作られています。この理由の一つとしてあげられるのが、トウモロコシの利用用途がとても広いことです。

トウモロコシは人がそのまま食べたり粉にして食べたりする以外に、デンプン(コーンスターチ)やコーンオイル、コーンシロップなどの原料になります。また、家畜の飼料としてよく利用されており、トウモロコシを食べさせることで家畜を短期間のうちに太らせることができるため、近代畜産業では無くてはならないものとなっています。

ところで、トウモロコシにはたくさんの種類があります。例えば、私たちが野菜売り場で目にするのは「スイートコーン(甘味種)」と呼ばれるもので、その名の通り糖分が多いため食べると甘味を感じます。これ以外に、ポップコーンに使われる「ポップコーン(爆裂種)」や主に飼料となる「デントコーン(馬歯種)」、トルティーヤの元となる「フリントコーン(硬粒種)」、粉にしやすい「ソフトコーン(軟粒種)」、モチモチの食感がある「ワキシーコーン(モチ種)」などがあります。

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トウモロコシがメソアメリカで栽培化された後も南北アメリカ大陸で品種改良が続けられた。コロンブスが1492年にアメリカに到達した時には、今日知られている多くの品種が作り出されていたと言われている。

トウモロコシはとても優秀な穀物で、次のような長所を持っている。

・単位面積当たりの収量が高い(コムギの約2倍)。
・環境への適応性が高い(平均気温が15℃までなら生育が可能)。
・収穫や運搬、貯蔵が容易で、脱粒もしやすい。
・実(子実)だけでなく、茎や葉も家畜の飼料として利用できる。

このように優秀な作物をヨーロッパ人が見逃すはずはなく、コロンブスは1492年の最初の航海の時にスペインにトウモロコシを持ち帰っている。ちなみに、コロンブス船団の乗員の日記には「たいへん美味しい」という記載があるそうだ。

ところがスペインではトウモロコシはあまり受け入れられなかった。トウモロコシの奇妙な姿が敬遠されたからだと考えられる。一般的に人類は食べ物に対して保守的で、なかなか新しい食べ物を口にしないものなのだ。

それでもコムギなどの穀物がうまく育たない地域では、トウモロコシの栽培が急速に進んで行った。こうしてトウモロコシの栽培は16世紀半ばには地中海沿岸に広がり、16世紀末までにはイギリスや東ヨーロッパでも栽培されるようになった。

中でもイタリア北部の山岳地帯ではトウモロコシの栽培がとても盛んになった。この地域では「ポレンタ(polenta)」と呼ばれるトウモロコシ料理がその頃より名物になっている。ポレンタは粗挽きにしたトウモロコシの粉を1時間ほど煮て粥状にし、塩・オリーブオイル・バターなどで風味付けをしたものだ。食べる時にチーズやソースをかけることもある。同様の料理は南ヨーロッパや東ヨーロッパの山岳地帯に広く見られるらしい。

       ポレンタ

トウモロコシの栽培はヨーロッパだけでなく、世界中に急速に広がって行った。東地中海を支配していたオスマン帝国ではトウモロコシは早くから盛んに栽培されたという。また、アフリカには奴隷の食糧とするために16世紀初頭に持ち込まれたが、収量の高さから栽培する農民が急速に増えて行った。アフリカの高い気温がトウモロコシの栽培に適していいたのがその要因の一つだ。こうして1900年までにはアフリカ全土で栽培されるようになったと言われている。しかし、このアフリカにおけるトウモロコシ栽培の広がりが、現代で大きな問題になっているアフリカにおける人口爆発の一因となっているという指摘もある。

アジアへの伝播について見てみると、トウモロコシは陸路やポルトガルによるアジア航路によって伝えられたと考えられている。16世紀の前半にはインドや中国でも栽培されるようになった。

日本には1579年にポルトガル人によってフリントコーン(硬粒種)伝えられたのが最初とされている。その後、九州や四国の山間部など稲作に適していない地域で栽培され始め、徐々に北の地域へと広がって行ったと言われている。ただしフリントコーンは硬かったため、粉にして餅や粥に混ぜたりして食べることがほとんどだった。

日本でトウモロコシが本格的に栽培されるようになったのは明治時代初期のことで、北海道農事試験場がスイートコーン(甘味種)とデントコーン(馬歯種)をアメリカから導入したことから始まった。このため今でも北海道はトウモロコシの産地として有名なのだ。

サツマイモとカボチャ-ヨーロッパ人到来以前の中南米の食(6)

2021-05-05 20:15:50 | 第四章 近世の食の革命
サツマイモとカボチャ-ヨーロッパ人到来以前の中南米の食(6)
「芋栗南瓜(いもくりなんきん)」という言葉があるように、昔から日本人の女性の多くはサツマイモとクリとカボチャ(南瓜)が大好きと言われています。

例えばある調査では、85%の女性がサツマイモを好きと答えており、男性の65%を大きく引き離しています。また、好きな野菜を尋ねると、10~30代女性ではサツマイモとカボチャが上位2位を占めます。

今回は女性に大人気のサツマイモとカボチャについて見て行きます。すでにお話ししたように、どちらもアメリカ大陸が原産地となっており、ヨーロッパ人が新大陸に到達したのちに世界中に広まりました。

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・サツマイモ


サツマイモはヒルガオ科サツマイモ属の植物で、私たちは「塊根(かいこん)」と呼ばれる肥大化した根を食べている。この塊根には大量のデンプンに加えて、ビタミンCやビタミンEなどのビタミン類やカルシウムやカリウムなどのミネラル分が豊富に含まれているため栄養価が高い。また、食物繊維も多く、これは整腸作用や血中コレステロール値の降下作用などの健康効果を発揮する。

サツマイモには他の作物に比べてやせた土地でもよく育つという利点もある。この理由の一つが、空気中の窒素を栄養素に変換する窒素固定細菌がサツマイモの茎に共生していため肥料が少なくてすむからだ(逆に肥料をやり過ぎると葉っぱばかり茂ってしまう)。なお、窒素固定細菌の共生は、イネ、ムギ、サトウキビ、バナナ、パイナップルなどでも見つかっている。

サツマイモはやせた土地で育つことから、日本をはじめとして多くの国々で「救荒作物」として人々の命を救って来た。江戸時代には、サツマイモが栽培されていた南九州地方が飢饉の際に餓死者が少なかったことから、八代将軍吉宗(在職:1716~1745年)が関東での栽培を推奨した結果、天明の大飢饉(1782~1788年)で多くの人々の命を救ったと言われている。

サツマイモはメキシコからペルーにかけて紀元前3000年頃に栽培化されたと推測されている。サツマイモの祖先と考えられている野生種が「トリフィダ (I. trifida)」と呼ばれる植物だ。トリフィダは鉛筆くらいの細い根しか持っていないが、栽培化によって根にたくさんの栄養分が蓄積されるようになり、現在のようなサツマイモが生まれたと考えられている。

植物が栽培化される際によく見られるのが、染色体の数が数倍に増える「倍数化」という現象だ。ほとんどの動物や野生の植物の多くは同じ染色体を2本ずつ持っている「2倍体」と呼ばれる状態になっている。ちなみに人間も23の染色体を2本ずつ持っている2倍体の生物だ。倍数化とは染色体を2本よりも多く持つようになることを言い、植物ではよく見られる現象だ。

例えば、ジャガイモやコーヒー(アラビカ種)は染色体を4本ずつ持つ4倍体だ。そして、サツマイモは15の染色体を6本ずつ持つ6倍体である。一方、野生種のトリフィダは2倍体なので、サツマイモは栽培化によって3倍の染色体をもつようになったのだ。一般的に倍数化が起きると植物の大きさが大きくなるが、倍数化によってサツマイモの根の部分が大きくなったと推測される。

さて、中南米で誕生したサツマイモは紀元前1000年頃にポリネシア、ニューギニア、ニュージーランド、そしてインドネシア東部に伝わった。その経緯についてはよく分かっていないが、根などが海流で流されたか、鳥によって運ばれたか、あるいはアメリカの原住民が紀元前1000年以降に太平洋の島々に移住した時に運ばれたかのいずれかであろうと考えられている。

ヨーロッパへは15世紀の終わりにコロンブスがアメリカから持ちかえったと言われている。日本には1600年頃に中国から琉球に伝わったものが薩摩に導入されたというのが定説だ。

・カボチャ


カボチャはウリ科カボチャ属に属している。ウリ科の作物にはカボチャのほかにキュウリやメロン、スイカなどがある。ちなみに「Pumpkinパンプキン」という名前は、ギリシア語で「大きなメロン」を意味する「Peponペポン」に由来していると言われる。

なお、アメリカやカナダでパンプキンと呼ばれるのはハロウィーンで使われる皮がオレンジ色のものだけだ。日本で一般的な皮が緑色のカボチャは「Squashスクウォッシュ」と呼ばれる。

カボチャは紀元前8000~前6000年にメソアメリカで栽培化されたと推定されている。カボチャの栽培化はトウモロコシの栽培化よりも早く、メソアメリカでもっとも古くに栽培化された作物だと言われている。

カボチャの祖先と考えられる野生種は、小さくて硬く、苦味があるらしい。カボチャの栽培化は狩猟採集時代から始まったと考えられており、人類が時間をかけて美味しくて栄養価の高い品種を作り上げたのだろう。

メソアメリカで栽培化されたカボチャはその後アメリカ大陸に広く普及し、紀元前4000年のミズーリ川流域の遺跡や西暦前1400年頃のミシシッピ川流域の遺跡でも見つかっている。

アメリカ大陸では長い間、カボチャはトウモロコシとインゲンマメと一緒に同じ畑で栽培されていた。これは「三姉妹農法」と呼ばれ、こうすると三姉妹がお互いに助け合って収量が増えるのだという。

この農法では、トウモロコシを最初に育てて、ある程度生育したところで近くにカボチャとインゲンマメを栽培するのだ。すると、カボチャはトウモロコシの浅い根を保護するとともに、地面を覆うことで雑草を防ぎ、土が乾燥するのを防ぐ。また、インゲンマメの根には窒素固定細菌の根瘤細菌が共生しているため、空気中の窒素を栄養素として土の中に放出してくれる。一方、トウモロコシの丈夫な茎はインゲンマメのツルがからまる支柱となる。

アメリカ大陸の人々はカボチャを食料とする以外に、樹液を火傷の治療に使ったり、種子を利尿剤として利用したりしていたらしい。また、皮の部分を乾燥させ、穀物やマメなどを保管する容器としたり、乾燥させたカボチャの細片を織り込んでマットを作ったりした。

カボチャはコロンブスによってヨーロッパにもたらされた。日本へはポルトガル人が16世紀にカンボジアで育てたものを持ち込んだと言われている。このカンボジアから「カボチャ」の名がついたとされている。

ナス科の作物-ヨーロッパ人到来以前の中南米の食(5)

2021-05-02 18:52:25 | 第四章 近世の食の革命
ナス科の作物-ヨーロッパ人到来以前の中南米の食(5)
ナス、トマト、ジャガイモ、トウガラシは私たちの食卓によく上る野菜ですが、すべて「ナス科」に属しています。そして、このうちナス以外はみなアメリカ大陸が原産地となっています。

これらの新大陸の食材はコロンブスがアメリカ大陸に到達した以降にヨーロッパ人によって西洋に持ち込まれ、品種改良されながら世界中に広がって行きました。そして現在では各国の料理に無くてはならないものになっています。例えば、トウガラシの無い韓国料理やトマトが無いイタリア料理は想像できません。

今回は現代の料理には欠かせない新大陸のナス科の作物について見て行きます。

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ナス科植物は100属、2500種の植物が知られているが、主なものとしては食用となるナスやトマト、ジャガイモなどが属するナス属、トウガラシなどが属するトウガラシ属のほかに、商業的に重要なタバコなどが属するタバコ属、チョウセンアサガオなどが属するチョウセンアサガオ属、ペチュニアなどが属するペチュニア属、ホオズキなどが属するホオズキ属などが知られている。

ちなみにナス科はヒルガオ科とともにナス目に属しているが、ヒルガオ科にはアメリカ大陸原産のサツマイモが含まれている。

ナス科が生まれたのはアフリカとされている。以前は、プレートテクトニクス理論で現在のアフリカ大陸・南アメリカ大陸・インド亜大陸・オーストラリア大陸・南極大陸がひとまとまりの「ゴンドワナ大陸」であった頃にナス科が成立したという説が主張されていた。しかし現在では、各大陸に分離した白亜紀(約1億4500万年前から6600万年前)の終わり頃にナス科が誕生したのではないかと言われている。そして、アフリカから動植物の移動にともなって各大陸に広がり、それぞれの地域で独自の進化を遂げたと考えられている。

ナス科の代表のナスはインド東部が原産で、日本には奈良時代に中国を経由してもたらされたと考えられている。平安時代になると日本国内で広く食べられるようになり、江戸時代には野菜の中でもっともよく食べられる野菜になったと言われている。
それ以外の人類にとって重要なナス科の植物のほとんどのものがアメリカ大陸原産だ。ジャガイモについては既にお話したことがあるので、今回はトマトとトウガラシについて取り上げる。まずはトマトについて見て行こう。

・トマト
トマトは日本の家庭で購入金額がもっとも多い野菜であり、世界的にももっとも消費量が多い野菜だ。ちなみに、トマトを生食するのは日本人くらいで、他の国では熱を加えて調理してから食べる。



トマトの原産地はアンデス山脈の高地であるが、栽培は西暦700年頃からメソアメリカで始まったと考えられている。16世紀にスペイン人がやって来た時には、アステカ人によって栽培品種として確立されていた。野生種のトマトは果実の大きさが1~2㎝だが、栽培化によって3~5㎝と大きくなっていた。ちなみに、現代では10㎝以上のものが通常で、これはヨーロッパに渡った以降の品種改良によるものだ。

アステカの人々はトマトを「へそが付いたふっくらとした果実」と言う意味で「ジトマティル」と呼んだが、これがトマトの語源になった。アステカ人は、トマトには子を産む力を高める効果があると考えていたそうで、トマト料理を新婚夫婦への贈り物としたらしい。

アステカの記録には、現代のメキシコでも食べられているトマトを使ったサルサ(サルサとは料理やソースの意味)のレシピが残されている。例えばメキシコ料理でよく使われるソースの「サルサ・ロハ」はトマトにトウガラシなどの香辛料を加えたもので、その歴史はアステカ時代までさかのぼることができる。

トマトはスペイン人によってヨーロッパにもたらされるが、しばらくの間毒があると思われていたため主に観賞用の植物として栽培されていた。一般に食べられるようになったのは18世紀になってからだ。

・トウガラシ
ナス科トウガラシ属の主な栽培種には「アニューム」や「シネンセ」などがあるが、もっとも広く栽培されているのがアニューム種だ。アニューム種には「トウガラシ」や「タカノツメ」などの辛味種と、「ピーマン」「パプリカ」「シシトウガラシ」などの甘味種がある。



トウガラシやタカノツメなどの辛味種が辛いのは辛み成分の「カプサイシン」が含まれているからだ。カプサイシンが口の中に入ると痛覚神経が刺激されて「辛い感覚」が生じる。また、交感神経が活発化することで発汗が促進され、心臓の動きも激しくなる。そして、大量に摂取すると死亡することもある。

トウガラシの赤色が辛味の成分だと思っている人がいるが、それは間違いで、あの赤色は辛味とは関係のないカロテンの仲間(カロテノイド)の「カプサンチン」の色だ。赤いパプリカの色はこのカプサンチンのせいで、カプサンチンが少ないと黄色のパプリカになる。ちなみにピーマンは緑色をしているが、これは未成熟のためであり、成熟すると赤色や黄色などに変わるものが多い。

トウガラシが属するアニューム種の起源地はメソアメリカと考えられていて、紀元前6500~5000年頃と推定される地層から栽培種の跡が見つかっている。この品種(辛味種)はアメリカ大陸の各地で紀元前から栽培が行われて来た。1世紀頃の中央アンデスの遺跡からトウガラシの図柄が入った織物が発見されている。

シネンセ種の代表的な品種は、とても辛いことで有名な「ハバネロ」だ。シネンセ種の起源はアマゾン地域の低地帯と考えられており、そこからメソアメリカや中央アンデスに伝わって紀元前2000年頃から栽培されるようになった。


ハバネロ(Ted ErskiによるPixabayからの画像)

ところで、トウガラシなどの辛さの単位に「スコヴィル」が用いられている。これは人が辛味を感じられなくなるまで砂糖水でどれだけ希釈するかということを示していたが、現在では機械を用いた測定で決められている。ちなみにタカノツメは約5万スコヴィルで、ハバネロは約30万スコヴィルと言われている。

トウガラシはコロンブスによってスペインに持ち帰られ、品種改良とともにヨーロッパ全域に広がった。特にオスマン帝国の支配下にあったハンガリーで盛んに栽培され、「ハンガリー料理と言えばパプリカ」と言われるほどになる。

チョコレートの歴史①-ヨーロッパ人到来以前の中南米の食(4)

2021-04-30 18:26:26 | 第四章 近世の食の革命
チョコレートの歴史①-ヨーロッパ人到来以前の中南米の食(4)
皆さんには、しばらく食べないとどうしても食べたくなる食べ物は無いでしょうか?日本人は海外の生活が長くなってご飯が食べられなくなると、ご飯を食べたくて食べたくて仕方がなくなるという話はよく聞きます。

このように、特定の食品をどうしても食べたくなることを「食物渇望」と呼びます。日本ではご飯が食物渇望を生み出す食べ物の上位にきますが、世界的にはチョコレートが食物渇望を生み出す食品のNo.1の座を占めています。

チョコレートの原料はカカオ(カカオノキ)の種子です。カカオの原産地はメソアメリカで、メソアメリカ文明では紀元前2000年頃からカカオの種子は飲料の原料として利用されていました。

今回は前半部でチョコレートの作り方をお話した後に、後半部分でアメリカ大陸でのカカオの利用について見て行きます。

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カカオノキはアオギリ科カカオノキ属の高さ10mほどの常緑樹だ。カカオノキの学名は 「Theobroma cacao」だが、このTheobroma はギリシア語で「神 (theos) の食べ物 (broma) 」を意味している。この名前はカカオがメソアメリカで神々へのお供え物だったからついたと言われている。

カカオノキの花は直径3センチメートル程度で白色をしており、写真のように房状になったものが幹や太い枝に直接つく。しかし、このうち種子ができるのは1%に満たない。このためカカオの果実(カカオポッドと呼ぶ)は幹や枝に1個から数個がぶら下がった状態になる。


カカオの花(helenacoles623によるPixabayからの画像)


カカオポッド(MaliflacによるPixabayからの画像)

カカオポッドの中には白い果肉で覆われた種子が20~40粒入っている。そして、この種子には40~50%ほどの脂肪分が含まれていて、これがチョコレートになるのだ。


カカオポッド内部(David Greenwood-HaighによるPixabayからの画像)

チョコレートを作るためには、カカオポッドを収穫するとすぐに割って種子を白色の果肉ごと取り出し、バナナの皮で包んだり箱に入れたりして一週間ほど発酵させる。この時に内部温度が50℃ほどまで上昇し、いろいろな化学反応が起こって種子の色が褐色に変わるとともに独特の風味が生まれる。発酵が終了した種子は乾燥させられ、チョコレート工場に送られる。

チョコレート工場では異物を取り除いた後、熱風を当てることで焙煎が行われる。この焙煎によって香ばしい香味が生じる。そのあと機械で種子をくだき、表面のかたい皮を取り除く。残った種子の中身がカカオニブとよばれる部分だ。

次の工程ではカカオニブを温めながらなめらかな舌触りになるまですりつぶす。カカオニブにはおよそ50%の脂肪分が含まれているため、すりつぶすとドロドロのペースト状になる。このペースト状になったものをカカオマス(もしくはカカオリカー)という。なお、この工程ではカカオニブが直径100μm程度の粒子になるまですりつぶされるのだが、そのための機械は1879年になって初めて開発されたため、それまでは今のようななめらかなチョコレートは食べることはできなかった。

食べるチョコレートを作るには、カカオマスに「ココアバター(カカオバター)」と砂糖や乳製品などを加える。ココアバターはカカオマスから褐色の固形部分を取り除いた後の脂肪分のことだ。ちなみに、ホワイトチョコレートはココアバターに砂糖と脱脂粉乳などを加えて固化させたものだ。また、カカオマスの褐色の固形部分はココアケーキと呼ばれて、ココアの元となる。

市販の安価なチョコレートの多くには高価なココアバターの代わりにココナッツオイルやパームオイルが入っている。ちなみに、日本でチョコレートと呼ぶためにはカカオ由来の成分が35%以上(乳製品を含む場合は21%以上)でココアバターが18%以上含まれていなければならない。最近よく見かける70%~99%チョコレートはカカオ由来の成分が70%~99%含むものだが、カカオマスとココアバターの比率は製品ごとにかなり違う。

チョコレートの原料のココアマス、ココアバター、乳製品、砂糖を良く混合した後は冷やして固める作業を行う。チョコレートの油脂成分はかなり均質のため、液体状のチョコレートを冷やして固化すると油脂成分が規則正しく並んで結晶構造を作る。結晶構造にはI 型~ VI 型と呼ばれる6 種類があり、この中でチョコレートに最適なものはV型である。V型は他の型よりも生地がなめらかで表面につやがあり、口に入れた時に素早く融けるためだ。

このV型を作るためには「テンパリング」という操作を行う。テンパリングでは50℃以上で融かしたチョコレートを撹拌しながら27℃まで冷却し、一定時間保持した後に31℃まで温度を上げる。これを型に入れて固めるとチョコレートの出来上がりだ。

ところで、カカオの栽培種には大きく分けて「クリオロ種」「フォラステロ種」「トリニタリオ種」の3つあり、このうちクリオロ種が最初に栽培化されたものと考えられている。クリオロ種は原種に近いマイルドな風味が特徴だが、病虫害に弱いため栽培量はとても少ない。

それに対してフォラステロ種は苦みと渋みが強いが育てやすいため、世界で最も多く栽培されている。また、トリニタリオ種はクリオロ種とフォラステロ種の交配で生み出されたもので、クリオロ種の風味の良さとフォラステロ種の育てやすさをあわせ持っている。

クリオロ種は紀元前2000年頃にメソアメリカで栽培化されたと考えられており(南米のエクアドルという説もある)、フォラステロ種はそれより後に南米のアマゾン川上流地域もしくはオリノコ川流域で栽培化されたと考えられている。紀元前1900年頃のメソアメリカの遺跡からカカオを用いた最古の飲料の跡が出土しているが、これはクリオロ種だろう。メソアメリカのカカオは基本的にクリオロ種だった。

メソアメリカのメキシコ湾岸部では紀元前1200年頃からオルメカ文明が栄えたが、その遺跡から炭化したカカオの種子(カカオ豆)が見つかっている。オルメカ文明ではカカオのことを「カカウ」と呼んだと言われており、これがカカオの語源となった。

メソアメリカのユカタン半島では4世紀から9世紀にかけてマヤ文明が繁栄したが、その出土品の中にはカカウの文字が描かれ土器やカカオの痕跡が残っている土器が見つかっている。また、メキシコ中央高原で紀元前2世紀頃から7世紀頃まで栄えたテオティワカン文明の遺跡からはカカオ豆が描かれた土器が見つかっている。

15世紀前半からメキシコ中央高原で栄えたアステカ帝国では、カカオは地方からの重要な貢納品だった。このように宮殿に集められたカカオは儀式の際に神々へのお供え物となった。マヤ文明においてもアステカと同じように、カカオは神々に奉げる神聖な食べ物とみなされていたという。

また、アステカにおいてカカオは通貨の役割も果たしていた。アステカではスペイン人がやって来るまでいわゆる通貨は存在していなかったが、物々交換では不便なため、神聖で価値の高いカカオが通貨の代わりに使用されていたのだ。ちなみに、オスの七面鳥はカカオ200粒、野ウサギはカカオ100粒、トマトはカカオ1粒と交換されたらしい。

このように価値の高いカカオを口にできたのは上流階級の者だけだった。マヤでもアステカでもカカオは飲料(ショコラトル)にして飲まれていた。

ショコラトルを作るためには現代のチョコレートを作るように、カカオ豆を発酵させたのち火にあぶって焙煎し、それをすりつぶしてペースト状にした。そしてそれを水にとき、風味付けのためにトウガラシやバニラ、トウモロコシの粉などが入れられた。現代のチョコレートのように砂糖は入っていなかったので、甘くはなかった。また、脂分が多いため、攪拌棒でかき混ぜながら飲んだらしい。

カカオには脂分が多いためエネルギー価が高く、またカフェインによく似たテオブロミンを大量に含んでいるため興奮作用がある。このような理由から、メソアメリカではショコラトルが好んで飲まれたのではないかと思われる。また、現代においてチョコレートが食物渇望を生み出すのも、チョコレートに大量に含まれている脂質と砂糖、そしてテオブロミンによると考えられる。