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食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

トスカーナ料理とフランス料理-ルネサンスと食の革命(2)

2021-05-22 19:07:30 | 第四章 近世の食の革命
トスカーナ料理とフランス料理-ルネサンスと食の革命(2)
ルネサンス期にフィレンツェは芸術や文化の中心となりましたが、食の世界でも当時の最先端の地でした。

フィレンツェを含む一帯の地域は古代ローマ時代から「トスカーナ」と呼ばれ、ここで発展したのが「トスカーナ料理」です。そして、このトスカーナ料理がフランスに伝えられることで「フランス料理」の原型が作られます。

例えば、日本で「オニオングラタンスープ」の名で有名な「スーパ・ロワニョン・グラティネ(soupe à l’oignon gratiné)」は、トスカーナのカラバッチャ(carabaccia)という料理が原型と言われています。


スーパ・ロワニョン・グラティネ(Image par RitaE de Pixabay)


カラバッチャ

今回はトスカーナ料理について見たあと、それがフランスにどのように伝えられたかを見て行きます。

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トスカーナはイタリア半島の北寄りの中西部に位置する。

トスカーナにはフィレンツェ以外に、ヴェネツィアやジェノヴァと肩を並べる湾港都市のピサが栄えていたが、ジェノヴァとの戦いに敗れたのちは衰退し、15世紀初めにはフィレンツェ共和国に征服された。こうしてフィレンツェ共和国はトスカーナの大部分を支配することとなった。



トスカーナの内陸部は大部分が丘陵地帯で、夏は暑く冬は非常に寒い。一方、海岸部は温暖で雨が少ない地中海性気候となっている。このように変化に富んだ気候のため、ここではたくさんの種類の作物を手に入れることができ、トスカーナは食材の宝庫と言われてきた。

トスカーナの農作物として重要なものがマメ類だ。「豆食いのトスカーナ人」と言われるほどインゲンマメやレンズマメなどの豆類をよく食べる。また、カーヴォロ・ネーロという黒キャベツが冬野菜の定番となっている。そのほかには、地中海気候で良く育つオリーブやタマネギ、キュウリ、レタスなどが良く栽培されてきた。 

家畜としては、現代でもイタリアのブランド牛として有名な「キアニーナ牛」という白牛が筆頭にあげられる。このウシの名はトスカーナのキアーナ渓谷に由来し、イタリアでもっとも古いウシと言われている。赤身が美味しい牛肉で、フィレンツェの名物料理「ビステッカ・アッラ・フィオレンティーナ(Bistecca alla Fiorentina)」(フィレンツェ風Tボーンステーキ)に使用される。

それ以外にはヒツジもたくさん飼育され、仔羊の肉が料理によく使用された。また、ヒツジの乳を原料としたチーズ「ペコリーノ・トスカーナ」はトスカーナ料理には欠かせないものになっている。

チーズと来れば次はワインだが、トスカーナはワインの産地としても有名だ。イタリアワインでもっとも有名な「キャンティ」はトスカーナの内陸部のキャンティ地方で造られる赤ワインだ。その歴史は14世紀までさかのぼり、ルネサンス期に品質が大きく向上したと言われている。それ以外にも「モンタルチーノ」などの有名ワインがトスカーナで造られてきた。

キャンティの特長の一つが原料のブドウに「サンジョヴェーゼ種」を主に使用していることだ。このブドウは栽培が難しく、土地ごとに風味が異なると言われている。この風味の違いを守るために、メディチ家の当主コジモ3世(1642~1723年)は、キャンティなどの著名なワイン生産地の境界を定めることで原産地保護を行った最初の人として知られている。

以上のようにトスカーナでは豊富な食材が手に入るため、新しい料理を試してみるのに最適な場所だった。

元々のトスカーナの料理は貧しい農民の料理で、硬くなった古いパンを食べやすいようにスープに入れたり、サラダに入れたりしたものが多かった。冒頭のカラバッチャもタマネギスープにパンを浸したものだ。また、「パンツァネッラ」は水に浸してやわらかくしたパンを入れたサラダである。

このような素朴な料理にメディチ家が新しい食文化を導入することでトスカーナ料理が発展したと考えられている。

メディチ家は大富豪だったが、見かけの豪華さにはこだわらずに料理の品質を追い求めたと言われている。そのために良い食材をそろえ、それぞれの持ち味を生かした素朴で健康的な料理を作り出して行った。例えば、高品質の香り高いオリーブオイルで肉や野菜をソテーしたものなどを好んだそうだ。ただし、砂糖を使った菓子類には目が無かったようで、砂糖漬けの果物をよく食べていたと伝えられている。

メディチ家は「優雅に」食べるためにテーブルマナーを洗練させたことでも知られている。

中世までのヨーロッパには個人用の皿は無く、大皿の料理をめいめいが手でつかんで食べていた。ナイフは使用されていたが、大皿の肉料理などを切り分けるのに使用されていただけだ。また、フォークは11世紀の初め頃にビザンツ帝国からヴェネツィアに伝えられたが、金属製で高価であったため一般的には普及していなかった。さらにイタリアには東方世界から磁器製の皿なども伝えられていた。

メディチ家は最先端のイタリアの地にあって、食事の参加者それぞれが個人用の皿に料理を取り分けて、ナイフとフォークを使って食べるという、スマートで衛生的な食事作法を確立させた。メディチ家の遺産目録には多数のフォークの記載があり、これらが日常的に使用されていたと考えられている。また、7代目のフランチェスコ1世(1541~1587年)は自ら陶磁器の製作に取り組み、「メディチ磁器」と呼ばれたものを完成させている。

1533年にメディチ家のカトリーヌ・ド・メディシス(イタリア語: カテリーナ・デ・メディチ、1519~1589年)はフランス王アンリ2世(在位:1547~1559年)と結婚する。ちなみに、アンリ2世は馬上槍試合で頭部を負傷し死亡してしまうが、この出来事をノストラダムスが予言していたという話が残されている。

美食家であったカトリーヌは、婚姻の際に大勢の料理人をフィレンチェから連れて行ったと言われている。この時カトリーヌに付き添ってきた料理長がフランス宮廷のテーブルマナーの野蛮さに驚き、『食事作法の50則』というテーブルマナーの専門書を書いたとされる。

こうしてフランス宮廷ではメディチ家のようにナイフとフォークを使って料理を食べるようになった。ところがルイ14世(在位1643〜1715年)の時代までには、手づかみで食べる習慣に戻ったようである。そして再びフォークを使って食べるようになるのは17世紀になってからと言われている。

カトリーヌはさらに、トスカーナの食材やオニオングラタンスープなどの料理、シャーベットやアイスクリーム、マカロン、シュークリームといった菓子類をフランスに伝えたとされている。

実際にこの頃にイタリアからフランスに様々な料理や菓子類が伝えられたと考えられているが、言い伝えのようにカトリーヌ自身が関わっていたかどうかについては確証がないそうだ。どうも、とりあえずカトリーヌの名前を出しておけばそれらしいお話ができると思われたようである。

ルネサンスとは何か-ルネサンスと食の革命(1)

2021-05-20 23:17:59 | 第四章 近世の食の革命
4・5 ルネサンスと食の革命
ルネサンスとは何か-ルネサンスと食の革命(1)
「ルネサンス」は日本人になかなかインパクトのある言葉のようで、とある芸人コンビのネタとして使われたり、某会社の社名として使われたりしています。

歴史的にもルネサンスはとても重要で、近世以降にヨーロッパが大発展する先駆けとなったと考えられています。また、ルネサンスは食の世界にも重要な影響を及ぼしました。

今回は西洋の歴史を語る上で絶対にはずせないルネサンスについてざっと見て行こうと思います。

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ルネサンスとは、14世紀にイタリアから始まった「古代ギリシア・ローマの文化の復興」を目指した運動のことだ。大航海時代やプロテスタントを生み出した宗教改革とともに、ヨーロッパ近世の出発点となったと考えられている。

なぜ古代ギリシア・ローマの文化をよみがえらせようとしたのだろうか。
この問いに答えるためには、当時のヨーロッパの社会状況を知る必要がある。

中世のヨーロッパは暗黒時代と言われるように、文化が停滞していた時期だ。その頃は毎日を生き抜くのに精いっぱいで、それ以外のことに気を向ける余裕も無かったと思われる。

中世の生活環境はとても悪かった。かつて古代ローマで使われていた上下水道はゲルマン民族の侵入によって破壊され放置されたままで、自分たちの糞尿を目の前の道路に捨てるなどは当たり前で、非常に不衛生だった。

このためひとたび感染病が発生すると、またたく間に人々の間に広まって行った。14世紀にペスト(黒死病)で多数の死者を出したのも無理からぬことだった。

さらに領主や教会によって農民などの一般庶民は権利が大幅に制限され、自由がほとんどない社会でもあった。作物に重い税がかけられていたため食事も質素で、固いパンと野菜スープ、そして少しのワインを飲むだけだった。

中世の半ば頃になると、農業生産力が増大し、農村だけでは消費しきれない食料が生み出されるようになった。その結果、このような余剰品を売り歩く商人や生活必需品を作って売る手工業者が現れた。彼らは富を蓄えることで次第に力をつけて行った。そしてついに一致団結して地方領主から自治権を獲得し、自治都市を作るまでになる。

自治都市の中で特に大きく発展したのがヴェネツィアやジェノヴァ、フィレンツェなどの北イタリアの都市だった。ヴェネツィアとジェノヴァは湾港都市であり、11世紀の終わり頃から始まった十字軍遠征によって地中海における人や物の移動が活発になった結果、香辛料などの地中海貿易を行うことによって大いに発展した。一方、フィレンツェは生糸や羊毛を輸入し、美しい生地や服にして輸出することで繁栄した。

これらの都市は周辺の農村に対する支配権も領主から奪うことによって小さな国家と呼べる規模まで発展する。なお、このような自治都市はコムーネと呼ばれる。コムーネは有力な業者団体(ギルド)から選出された代表が集まって合議を行うことで運営されていた。古代ギリシアやローマの共和政に近い形態である。

ところで、十字軍遠征はイスラム勢力との戦いであったが、ヨーロッパ人はこの戦いを通してイスラムの文化にも接触することになった。イスラム社会は古代ギリシア・ローマの哲学や医学などの科学的な知識を積極的に導入し、さらにそれらを発展させていたが、ヨーロッパ人はこの古典知識に出会ったのである。そして、イスラムと同じように古代ギリシア・ローマの文化を再導入すれば、ヨーロッパ社会をさらに発展させることができると考えたのだ。特にコムーネの人々は社会体制が古代ギリシアやローマと近かったことから、積極的な導入をはかった。

北イタリアの大商人や有力なギルド、君主などは金や場所を提供するパトロンとなり、学者や芸術家を集めて古典文化の研究や議論を行わせた。コムーネの上流階級の人々にとって、このように文化を振興するのが一つのステータスとなっていた。

中でもフィレンツェのメディチ家は大口のパトロンとなることでルネサンスを大きく推し進める役割をしたことで有名だ。こうして、フィレンツェはルネサンスの中心地として栄えることとなった。

メディチ家は金融業(両替商)で巨万の富を成したが、その力を使ってフィレンツェでの実質的な支配者として君臨していた。彼らはドナテルロやボッティチェリ、ミケランジェロ、レオナルド・ダ・ヴィンチなどの芸術家やマルシリオ・フィチーノなどの思想家を若い頃から援助したと言われている。なお、ローマのサン・ピエトロ大聖堂の大改修を行った教皇レオ十世はメディチ家の出身であり、この大改修ではミケランジェロが主要な役割を果たした。


     ミケランジェロ

ルネサンス期の芸術家たちはそれまでの無機質な表現をやめて、陰影を用いた立体的な表現を行うことで写実性を高めた作品や、人物の感情表現を豊かにすることで高い人間性が感じられる作品を作るようになった。また、人体の理想的な比率や黄金比率などを研究し、理想的な美を追求した。

また学者たちは、古代ギリシア・ローマ・イスラムの膨大な文献をヨーロッパの言語に翻訳して行った。特に1453年の東ローマ帝国が滅亡した時に多くの優れた学者を北イタリアに招いたことから、古典文献の研究は大きく進んだ。そして、ヨハネス・グーテンベルク(1398年頃〜1468年)が生み出した革新的な印刷技術によって、古典知識はヨーロッパ全土に普及することになった。

このようなルネサンスの活動は人々自身の生き方にも影響を与えるようになる。それまでの人々は領主や教会が定めたさまざまな規制によって自由が束縛されていたが、古代の人々の自由な生活を知り、人間を中心とした生き方を追求するようになったのだ。このような人間中心の在り方を「ヒューマニズム(人文主義)」と呼ぶ。

ヒューマニズムは北イタリアからヨーロッパ全体に浸透することによって、多くの人々の考え方に大きな影響を与えることになった。例えば、シェークスピア(イギリス)の『ハムレット』やセルバンテス(スペイン)の『ドン・キホーテ』、ラブレー(フランス)の『ガルガンチュワ物語』などはヒューマニズムの立場から人間の本質を鋭くとらえた作品である。

さらにルネサンスは、近代科学が生まれるきっかけにもなった。カトリックが説いてきた世界観に対して疑いが生まれ、自らの経験や実験で確かめられた事実だけを認めようとする考えが強まったのだ。そして、このような実証主義の立場に立って研究を行う人々が次々と現れるようになった。

天文学の分野では、ポーランドのニコラウス・コペルニクス(1473〜1543年)が地動説に基づいた天文学を構築した。続いてイタリアのガリレオ・ガリレイ(1564年〜1642年)は、望遠鏡で天体を観察することで地動説を確認した。また彼は、ピサの斜塔の落下実験で質量が変わっても物体の落下速度は同じであることを見つけた。

医学の分野では、ベルギーのアンドレアス・ヴェサリウス(1514〜1564年)は死体解剖を行うことによって人体の構造を研究し、人体解剖図の『ファブリカ』を出版した。彼は血管の始まりはそれまで信じられていた肝臓ではなく、心臓であることを発見した。イギリスのウイリアム・ハーベイ(1578~1657年)は様々な観察を行うことによって、体内の血液が心臓を中心に循環しているとの説を提出した。

以上のように、北イタリアで始まったルネサンスはヨーロッパが近代化する上で重要な役割を果たしたが、北イタリアのコムーネは16世紀になると急速に衰えて行くことになる。その要因となったのが大航海時代の到来によって香辛料貿易の中心がポルトガル・スペインに移ったことや、宗教改革によるローマ教皇の権威失墜、絶対王政国家となったフランスの圧力などだ。

こうして衰えた北イタリアに代わってフランスがパトロンとなり、レオナルド・ダ・ヴィンチなどの芸術家を宮廷に招いたことから、文化の中心はフランスへと移って行く。「芸術の都パリ」と言われるように、西洋芸術と言えばフランスが筆頭に上がるのはこのためだ。

チョコレートの歴史②-ヨーロッパにやって来た新しい食(5)

2021-05-17 18:29:51 | 第四章 近世の食の革命
チョコレートの歴史②-ヨーロッパにやって来た新しい食(5)
私は毎日昼食後にチョコレートを食べています。また、朝と昼にコーヒーを飲み、夜にはお茶を飲んでいます。

実は、チョコレート(カカオ)・コーヒー・茶がヨーロッパに入ってきたのは同じ頃です。カカオは中南米、コーヒーはエチオピア、茶は中国を原産地としていますが、まったく異なる出自の作物が同時期にヨーロッパにやって来たのです。

さらに、この3つはいずれも、カトリック国であるスペイン・ポルトガル・イタリア・フランスなどにまず広まり、その後にイギリス・オランダなどのプロテスタント国に広まりました。この裏には、スペインとポルトガルの海外進出で始まった大航海時代の主役がイギリス・オランダに移って行くという歴史の流れがあります。

今回は「チョコレートの歴史②」として、カカオがスペインなどのカトリック国に広まって行く様子について見て行きます。


カカオポッド(MaliflacによるPixabayからの画像)

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カカオがいつスペインに持ちこまれたかについては正確なことは分かっていない。ネット上では、1504年にコロンブスが持ち帰ったとか、アステカ帝国を征服したエルナン・コルテスが1528年にスペイン国王に献上したとか書かれていたりするが、どちらも根拠に乏しいようだ。

ヨーロッパの歴史にカカオが最初に登場するのは1544年のことだ。キリスト教修道士にともなわれてスペインにやって来たマヤ族の貴族が、スペイン皇太子のフェリペに泡立てたカカオ飲料を献上したとされている。

本格的に貿易品としてカカオがアメリカ大陸からスペインに運ばれるようになったのは1585年になってからのことだ。しかし、それ以前にメソアメリカを支配したスペイン移住者たちの間でカカオは重要な飲料としての地位を固めていた。

そのいきさつは次の通りだ。

エルナン・コルテス(1485~1547年)率いるスペイン軍が1521年にアステカ帝国を滅ぼすと、メソアメリカは植民地としてスペイン人によって支配されるようになった。その頃のスペイン人は、カカオの実がメソアメリカで通貨として利用されるほど価値があることは理解していたが、積極的に口にしてみようとは思わなかったようだ。あるスペイン人はカカオ飲料を「人よりもブタにふさわしい飲み物」と断じている。

しかし、時が経つにつれてスペインからの移住者たちにメソアメリカの文化が浸透してきた。インディオの女性たちがスペイン人の妾や妻として台所を任されていたことや、現地で生まれたスペイン人の子供たちが成長してきたことがその大きな要因となったと考えられる。

こうしてスペイン人たちはコムギの代わりにトウモロコシを食べるようになったし、カカオ飲料も口にするようになった。特に上流階級の女性の間でカカオ飲料が大変好まれるようになったそうだ。

ただし、スペイン人たちの好みに合わせてカカオ飲料も変化したそうだ。スペイン人たちになじみのある砂糖や、トウガラシの代わりにシナモンやコショウ、アニスなどが入れられるようになった(バニラはそのまま使われた)。また、アステカのカカオ飲料は冷たかったのに対して、スペイン人たちは温かいカカオ飲料を好んで飲んだ。

ところで、アステカ帝国の時代までカカオを口にできるのは上流階級や兵士だけだったが、スペイン人が支配すると一般庶民もカカオ飲料を飲むようになった。この背景にはカカオ栽培の広がりがあった。カカオが儲けになることを知った人々が盛んにカカオを栽培するようになり値段が下がったのだ。ただし、多く栽培されたのは育てやすいフォラステロ種の方だった。味は良いが育てにくいクリオロ種は敬遠されたのだ。

大量に生産されるようになったカカオはスペイン本国にも送られるようになる。当時はスペイン-アメリカ大陸間には頻繁に輸送船が行きかい、多くの物資が運ばれていた。その一つとしてカカオがスペインに運ばれるようになったのだ。そして17世紀なるとスペイン宮廷を中心に上流社会でカカオ飲料が大流行するとともに、一般国民も大きな催事の際などにカカオ飲料を楽しむようになった。

スペインに伝わったカカオは、スペインが支配していたポルトガルやイタリア南部にも広がって行った。ポルトガルは1580年に王朝が断絶しスペインに併合されていた。一方、イタリア南部も1556年からスペインの支配地となっていた。この両地域には遅くとも17世紀初めまでにカカオが伝わったと考えられる。

カカオは次に、ヴェネツィアやジェノヴァ、フィレンツェ(のちのトスカーナ)などの小国やローマ教皇領などがひしめき合っていた北イタリアに伝えられた。ヴェネツィアやジェノヴァ、フィレンツェは貿易で成り立っている商業都市国家であった。これらの国々にはカカオを新しい交易品とする商人の手を通して持ち込まれたと考えられている。

一方、ローマ教皇領にカカオを持ちこんだのは「イエズス会」ではないかと考えられている。イエズス会はフランシスコ・ザビエルが属していたことから歴史の授業で習うことが多い。この修道会は新興のプロテスタントに対抗してローマ教皇の権威を高めるために1540年に設立されたものだが、活動資金を得るために商業活動も盛んに行っていた。その一環としてアメリカ大陸ではキリスト教に改宗させたインディオを使って、大農園で綿やサトウキビ、そしてカカオを栽培していた。このカカオをローマに持ちこんだと推測されている。

フランスにカカオがいつ、どのように伝わったかについてはよく分かっていない。スペイン王女アンヌが1615年にフランス国王ルイ13世の妻となった時に伝えられたという説もあるが、確たる証拠はないらしい。

確実でもっとも古い記録は、ルイ14世(在位:1643~1715年)が1659年にダヴィッド・シャリューと言う商人にフランス国内のカカオ商品の製造・販売の独占権を与えるとした勅許文だ。そのため、これ以前にはフランスにカカオが伝えられていたと考えられている。

1660年にスペイン王女のマリア・テレサがルイ14世と結婚した。彼女はスペイン王宮から連れて来た女官たちとカカオ飲料を日々楽しんだと言われている。おそらくこの行為がフランスの上流階級にカカオを定着させる役割を果たした。と言うのも、マリア・テレサがやって来た頃は、カカオ飲料は高貴な女性にふさわしくないとみなされていたのだが、その後急速に上流階級の女性に飲まれるようになったからだ。そして宮廷の公的行事では、常にカカオ飲料がふるまわれるようになったという。

さて、16~17世紀のカトリック教会においては、カカオ飲料をさまざまな断食日に飲んで良いかという議論が長く続いていた。実は、カカオだけでなく、コーヒーや茶、ジャガイモ、トウモロコシ、トマトなどの新しい食品について宗教的に許されるかという議論が起こっていたのだ。しかし、現代社会の様子から分かるように、新しい食品たちは宗教的にもヨーロッパ社会に受け入れられて行った。

トウガラシ-ヨーロッパにやって来た新しい食(4)

2021-05-14 23:57:01 | 第四章 近世の食の革命
トウガラシ-ヨーロッパにやって来た新しい食(4)
世界の人口の約4分の1の人が毎日トウガラシ類を食べていると言われています。このトウガラシ類には辛いトウガラシだけでなく、シシトウやピーマン、パプリカのようにトウガラシの品種改良から生まれた甘味種も含まれています。

一般的に熱帯などの暑い地域では辛いトウガラシをよく食べて、それ以外の地域では辛くないシシトウやピーマン、パプリカなどを食べるようです。

例えば、インドや東南アジア、アフリカ、中南米などの熱い地域ではトウガラシをたくさん使った辛い料理が多く食べられています。熱い地域で辛い料理を食べるのは、発汗を促して体を冷やすためと、食欲を増進するためと言われています。一方、ヨーロッパではパプリカなどの甘味種が主に使われ、また、辛いトウガラシが使われる時でもかなりマイルドな辛さになっています。

今回はヨーロッパにおけるトウガラシの歴史について見て行きましょう。



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「香辛料を探し求めた男たち-大航海時代の始まりと食(4)」でお話ししたように、大航海時代に海に乗り出した人々の大きな目的の一つが、香辛料を産するインドへの新しい航路を見つけることだった。コロンブス(1451年頃~1506年)のねらいも、大西洋を横断してインドに到達することだったが、アメリカ大陸が邪魔をしてしまったのだ。それでもコロンブスは生涯にわたって、自分が見つけた大陸はインドの一部だと信じていたという。

香辛料を探していたコロンブスはアメリカ大陸でトウガラシに出会う。コショウとは姿かたちがかなり違っていたが、その辛さからコロンブスはトウガラシをコショウの仲間だと思ったようだ。

現代の私たちから見るとコロンブスは大きな誤解したように思えるが、実は仕方がなかったとも言える。と言うのも、コショウの辛さもトウガラシの辛さも私たちは同じ体の仕組みを使って感じているからだ。

コショウの辛味成分の「ピペリン」も、トウガラシの辛み成分の「カプサイシン」も「痛みや熱さのセンサー分子TRPV1」に作用することで「辛い」という感覚を生み出している。TRPV1は神経細胞の表面に存在していて、ピペリンやカプサイシンが結合すると神経細胞を興奮させることで、「辛い」という感覚を生み出すのだ。このため、トウガラシを食べたコロンブスがコショウと同じ辛さだと思っても仕方なかったのだ。

なお、ピペリンとカプサイシンの作用の仕方は少し異なっていて、カプサイシンの作用は低い濃度から高い濃度にかけて徐々に強くなるのに対して、ピペリンは低い濃度ではほとんど作用せず、ある濃度以上になると急激に作用が強くなる。これが両者の辛さの違いになっているのかもしれない。

話を歴史に戻そう。コロンブスはスペイン-アメリカ大陸間の航海を4度行っているが、1493年の2度目の航海の時にスペイン王のためにトウガラシを持ち帰った。これがトウガラシがヨーロッパに持ちこまれた最初とされている。その後、トウガラシはヨーロッパ各地、特に南ヨーロッパで栽培が広がって行った。

1542年に出版されたドイツの植物学者レオンハルト・フックスの著書にはトウガラシの植物全体のスケッチとともに説明が記されている。また、1585年の記録には、スペインとチェコで栽培されていることが記されている。

インドや中国などのアジア地域やアフリカには、ポルトガルが開拓した航路によってトウガラシが広まって行った。1593年の記録には、インドのカリカットやインドネシアのモルッカ諸島(香辛料諸島)でトウガラシが栽培されていることが記されている。日本でも、奈良の僧侶の日記である『多聞院日記』に1593年にトウガラシを育てたとの記述が残されている。

ヨーロッパで最初にトウガラシを熱烈に受け入れたのがハンガリー人だ。ハンガリーにはオスマン帝国を経由してトウガラシが伝えられたが、その経緯は次の通りだ。

ハンガリーは1541年から東南部と中部をオスマン帝国によって、また北西部をオーストリアによって分割支配されていた。オスマン帝国は一時期インドのポルトガル支配地を奪ったのだが、その時にインドからトウガラシを持ち帰り、これをハンガリーに伝えたのだ。

どうもハンガリー人は辛いものがとても苦手なようで、トウガラシが伝えられた当初は辛いトウガラシを我慢して食べていたという。彼らは辛味成分が濃縮しているトウガラシ内部の隔壁と呼ばれる部分を丁寧に取り除くという涙ぐましい作業もしていたらしい。

一方でハンガリー人は、品種改良の努力も続けていた。そして18世紀になって、辛くない「パプリカ」を生み出すに至るのである。まさしく「必要は発明の母」と言える。ちなみにパプリカではカプサイシンを作り出す時に働く最後の酵素が壊れているため辛くならないのだ。

最も代表的なハンガリー料理であるグヤーシュには、パプリカの粉末がたくさん使用されていて、独特の風味が楽しめる。グヤーシュは日本の味噌汁のような存在で、本来は牛肉と野菜が具だったが、最近では何の肉を入れても良いらしい。ちなみに、グヤーシュのグヤは牛の群れを意味している。



トマトと同じように、イタリアではトウガラシもナポリに最初に伝わった。1526年のこととされている。これは当時のナポリがスペインによって支配されていたからだ。

イタリアのトウガラシ料理と聞いて日本人が最初に思い浮かべるのは「ペペロンチーノ・スパゲティ」と言われている。これは正式名称を「スパゲティ・アーリオ・オーリオ・ペペロンチーノ」と言う。

アーリオはニンニク、オーリオはオリーブオイル、ペペロンはトウガラシを意味し、ゆでたスパゲティをにんにくとオリーブオイル、そしてトウガラシだけで調理したものだ。元々「スパゲティ・アーリオ・オーリオ」というものがあり、これにトウガラシを加えたものをスパゲティ・アーリオ・オーリオ・ペペロンチーノと呼ぶのだ。

ところで、イタリア人も一般的に辛さに弱いらしく、イタリアで日本人がペペロンチーノ・スパゲティを食べると、辛くなくて物足りなさを感じるらしい。また、日本でイタリア人がペペロンチーノ・スパゲティを食べると、辛すぎて閉口するという。

しかし、ブーツ型のイタリア半島のくつ先に位置するカラブリア州はトウガラシの産地として有名で、住民は大のトウガラシ好きで知られている。カラブリアでは「ンドゥイア」と言うトウガラシの入ったペースト状のサラミなど、伝統的な保存食が現代でも作られている。

スペインの北部中央からフランスの南西部にまたがるバスク地方の人々は航海術に優れていたため、大航海時代には船乗りとして重用されていた。バスク人はコロンブスの航海にも参加していて、彼らがトウガラシを故郷に伝えたと言われている。

こうしてバスク地方はトウガラシの一大生産地へと成長したのだ。中でもフランス領の町エスプレットは、トウガラシの品種名にもなっているほど有名なトウガラシ産地で、毎年秋に「トウガラシ祭り」が開催されるほどだ。

真っ赤なトウガラシ「エスプレット」は甘い香りがして、粉にしたものがバスク料理に欠かせない食材となっている。エスプレットを使った代表的な料理が「アショア」で、子羊や子牛のミンチ肉と刻んだ野菜やニンニクをエスプレットとともに煮込んだものだ。

ところで、現代のイギリスやオランダ、ドイツではトウガラシ料理はほとんど食べられない。この理由は宗教にある。トウガラシがヨーロッパに広まった頃はカトリックとプロテスタントの争いが激しい時で、トウガラシを伝えたスペインがカトリック国だったため、当時プロテスタント国だったイギリスやオランダ、ドイツ(プロイセン)がトウガラシを受け入れなかったのだ。

宗教は食の世界に大きな影響を与えるものである。

トマト-ヨーロッパにやって来た新しい食(3)

2021-05-12 23:04:50 | 第四章 近世の食の革命
トマト-ヨーロッパにやって来た新しい食(3)


皆さんはトマトをよく食べますか?

総務省の家計調査よると、日本の家庭ではトマトの購入金額が野菜の中でもっとも高いそうです。

年間の消費量について見てみると、日本人一人あたり約4.4kgトマトを食べているそうです。たくさん食べているようにも見えますが、世界を見回してみると下の図のように日本人よりずっと多くのトマトを食べている国がたくさんあります(国連食糧農業機関の統計FAOSTATより)。最も消費量が多いトルコでは1年間に88kgものトマトを食べていて、何と日本人の20倍にもなります。
この図から分かるように、トルコも含めてスペインやギリシアのように地中海に面した国々ではトマトをたくさん食べるようです。この理由は、地中海の温かい気候がトマトの生育に適していたからだと考えられます。



このように今や多くの国々でたくさん食べられるようになったトマトですが、ジャガイモと同じように、ヨーロッパに伝えられてからしばらくの間は食べられることはありませんでした。

今回はこのようなトマトの歴史について見て行きます。

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1521年にアステカ帝国を征服したスペイン人のエルナン・コルテス(1485~1547年)は1527年にスペインに一時帰国しているが、この時に初めてヨーロッパにトマトを持ち帰ったと言う説が有力だ。

ところで、トマトの学名はSolanum lycopersicumと名付けられたが、これは「ナス族の(Solanum) 狼の桃(lycopersicum)」という意味だ。

「桃」と名付けられたのはトマトが桃に近い赤色をしているからだと考えられる。一方「オオカミ」が意味するところは、いつも発情していると思われていたオオカミのように、トマトには発情効果があるとされたからだ。イギリスやフランスではトマトの別名として「愛のリンゴ (love apple, pommes d'amour)」が使われていたが、これもトマトの発情効果が念頭にあったからだ(リンゴは性欲を生み出したエデンの園の「禁断の果実」)。

トマトに発情効果があると思われたのは、同じナス科の「マンドレイク」がトマトに似た実をつけるからだと考えられている。マンドレイクはハリー・ポッターの映画にも出てきた人の形をした根っこを持つ植物で、精力剤をはじめとして様々な薬や毒の原料として用いられていたらしい。そして、古代ギリシアでは「愛のリンゴ」と呼ばれていた。つまり、トマトはマンドレイクの仲間とみなされた結果、発情効果があると思われたわけだ。

このように少し危ない植物とみなされたため、トマトは食用として利用されることはしばらくの間無かった。その間は赤い実がきれいだったことから観賞用として上流階級の邸宅の庭などで育てられていたらしい。

それでも目の前にあると食べようと試みる人が出てくるものだ。イタリアには16世紀の中ごろにスペインからトマトが伝わったとされているが、イタリアの上流階級で実験的にいろいろな植物を食べてみようとした人々がいたようだ。彼らはトマトを食べてみても毒に当たらないし、美味しかったことからトマトに興味を持った。そして、品種改良を進めることでさまざまな色や形のトマトを作り出して行った。

ヨーロッパで最初のトマト料理がいつ作られたかについては記録が残っていないのではっきりしない。トマト料理のレシピが記録に初めて登場するのは1692年にナポリの料理人アントニオ・ラティーニが書いた料理本で、そこには次のようなトマトソースが記載されている。

「熟したトマトをローストし、皮を取り除いたらナイフで細かく刻みます。そこに細かく刻んだ玉ねぎとトウガラシ、そして少量のタイムを加えます。すべてを混ぜ合わせて、少量の塩、オリーブオイル、ワインビネガーで味をととのえます。これは、ゆでた料理などに最適な非常においしいソースです。」

このソースにはトウガラシが使用されていて、メソアメリカで食べられていたトマトを使ったサルサに似ている。

やがて、トウガラシの代わりにニンニクを使った「マリナーラソース」が生まれた。マリナーラソースは、トマトとにんにく、オリーブオイルとバジルを使って作るイタリア料理の基本的なソースだ。マリナーラソースを乗せて作った「マリナーラ・ピザ」はナポリピザの元祖とされており、1734年に初めて作られたと言われている。

こうして、トマトは様々なイタリア料理に使用されるようになって行ったのだが、現在のイタリア料理の定番のトマト料理の多くが登場したのは19世紀なってからで、パスタにトマトが使われるようになったのも19世紀のことだ。

19世紀にはトマトの赤色は緑・白・赤から成るイタリア国旗の赤色を象徴するものと考えられて、料理に盛んに使用されるようになった。例えば、この頃に生まれたピザ・マルゲリータは、国旗の緑・白・赤を表すようにバジル・モッツァレラチーズ・トマトからできている。

  ピザ・マルゲリータ

スペインやフランスでも18世紀頃からトマトが料理に使用され始め、19世紀頃に現在でも食べられている伝統的なトマト料理が作り出されて行った。例えば、スペイン料理の有名な冷製スープである「ガスパチョ」や、世界三大スープのひとつと言われるフランスの「ブイヤベース」も19世紀頃に現在の形が確立したとされている。

ガスパチョ:トマト・タマネギ・キュウリ・パプリカ・ニンニク・バゲット(パン)・オリーブオイルなどをすり鉢ですりつぶして、塩・ワインビネガーで味をととのえる。現代ではミキサーで簡単に作れる。


ガスパチョ(Aline PonceによるPixabayからの画像)

ブイヤベース:鍋でニンニクをオリーブオイルで炒めて香りを出し、セロリ・フェンネル・パセリ・タマネギなどの香味野菜を炒める。次に小魚を炒めて、水を注いで弱火で煮込む。魚のアラを取り出して、トマトペーストと細かく刻んだ野菜、数種類の魚を入れて煮込む。火が通ったらサフラン・塩・コショウで味をととのえる。


ブイヤベース(Innes LinderによるPixabayからの画像)

日本にトマトは17世紀に伝わったとされているが、ヨーロッパと同じように観賞用として栽培されていたそうである。