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食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

フランス王の戦い-戦争と宗教改革と食の革命(2)

2021-06-05 17:50:23 | 第四章 近世の食の革命
フランス王の戦い-戦争と宗教改革と食の革命(2)
前回はハプスブルク家の始まりのお話をしました。今回はハプスブルク家と激しい戦いを繰り広げたフランス王家のお話です。

フランスの歴史が分かるように、少し時代をさかのぼって、ゲルマン民族の大移動後から話を始めたいと思います。なお、今回も食の話は少なめです。

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4~6世紀のゲルマン人の大移動の後、ゲルマン人の部族ごとに複数の国家が形成された。それらはお互いに覇権を競い合ったが、最終的にフランク王国が戦いに勝利する。

フランク王カール大帝(在位:768~814年)の時代には、フランク王国はイベリア半島とイタリア南部、ブリテン諸島を除く西ヨーロッパのほぼ全域を支配した。なお、カール大帝はキリスト教を国教とし、ローマ教皇より帝冠を授けられたことから初代の神聖ローマ帝国皇帝ともみなされている。

カール大帝の後継者ルートヴィヒ1世(ルイ1世)の死後にフランク王国は西・東・中の3王国に分割され、3人の息子に引き継がれた。西フランクはフランス、東フランクはドイツ、中フランクはイタリアのもととなる。

カール大帝の一族はカロリング家と言うが、西・東・中フランク王国はいずれも男系の王位継承者が9~10世紀中に途絶えてしまった。このため、987年に西フランク王国はカペー家のユーグ・カペーに引き継がれ、西フランク王国は「フランス王国」と呼ばれるようになった。なお、カペー朝以後のフランス王朝(ヴァロワ朝、ブルボン朝、オルレアン朝)はすべてカペー家の分家によるものである。

カペー家がフランス王を引き継いだ時には王の領土は狭く、権力も小さかったが、12世紀頃から順調に領土を拡大して行った。特にフィリップ2世(在位:1180~1223年)の時代には、イングランド王がフランスに持つ広大な領土の大部分を奪うとともに、フランス北部の諸侯の力をおさえ、さらにフランス南部の影響力も拡大させた。

14世紀にフィリップ4世(在位:1285~1314年)がイギリスとの戦いの戦費を得るために教会や修道院に課税した結果、ローマ教皇と対立することとなる。ローマ教皇はフィリップを破門しようとするが、逆にフィリップの配下の者が教皇を襲い、その結果教皇は病死してしまう。フィリップ4世は新しい教皇をフランスに強制的に移住させた。こうしてローマ教皇の権威は衰えて行った。

1328年にカペー朝最後の王シャルル4世が亡くなると、その従弟のヴァロワ家フィリップ6世(在位:1328~1350年)が即位した。これに対して、フィリップ4世の娘の子であるイングランド王エドワード3世(在位:1327~1377年)がフランスの王位継承権を主張し、フランスに侵入して戦争を始めた。いわゆる100年戦争(1339~1453年)の始まりだ。

100年戦争はジャンヌ・ダルクの登場などによって最終的にフランス側が勝利する。そしてこの戦争の副産物として、国王による絶対王政がフランスとイングランドで成立した。その要因となったのが封建領主の没落だ。これは戦争に参加した封建領主が経済的に疲弊するとともに、ペストで人口が減少する中で農民や商人の地位が向上して領主による徴税が困難になったことによる。

フランスでは、没落した封建領主は王に領土を差し出す代わりに剣の貴族と呼ばれる軍人となって給料をもらうようになった。また、官僚として働く新しい貴族(法服貴族)が生まれた。さらに国王は、商人に商業特権を与える代わりに税金を徴収するようになった。こうして王に権力が集中する絶対王政が確立して行った。一方、イギリスではフランスと異なる形で絶対王政が成立するが、それは別の機会にお話しします。

絶対王政によってフランスは国王の命令一つで大きな軍隊を動かせるようになった。100年戦争によって経済的に疲弊していたフランスは、豊かな国に攻め入り、自国の領土にしようともくろんでいた。ハプスブルク家のマクシミリアンがブルゴーニュ公国の跡継ぎになった際にフランスが介入したのはこのような理由からだ。

フランスにとって経済的に発展していたイタリアは魅力的な土地だった。フランス王シャルル8世(1470~1498年、在位:1483~1498年)は1494年に5万の軍勢を率いてイタリア半島を南下した。そして、いともたやすく南イタリアのナポリを占領したのである。この時フランス軍は小銃と大砲を他国に先駆けて大量に使用したが、これが近代的な戦争の始まりとなった。重い甲冑を身に付けた騎士の一騎打ちの時代は終わりを告げようとしていたのである。

このようなフランスの行為に対して、ヴェネツィア共和国・ローマ教皇・ミラノ公国・アラゴン王国(スペインの前身)・ハプスブルク家の同盟が結成され、フランス軍をイタリア半島から追い出した。フランスに帰国したシャルル8世は不運なことに、低い石門に頭をぶつけて死んでしまった。また、その後のフランス王たちもイタリア侵攻を繰り返したが、いずれも撤退を余儀なくされている。

1519年にはフランス王フランソワ1世が神聖ローマ帝国皇帝の座をハプスブルク家のカール5世(カルロス1世)と争ったが、これもカール5世に敗北してしまう。カール5世はスペイン王でもあったことから、フランスはスペインと神聖ローマ帝国に挟まれる形になり、逆にフランスが侵攻を受ける可能性が高まった。


フランソワ1世

そこで1521年にフランソワ1世は再びイタリアへの侵攻を開始した。この戦いでは王自身が最前線で指揮をとる奮闘ぶりを示したが、敵陣深く入り込んでしまったところ捕縛されてしまう。捕虜となったフランソワ1世は領土の一部をカール5世に譲渡し、カールの姉エレオノールを王妃とすることなどを条件に釈放された。

しかし、フランソワ1世はフランスに帰国すると、カール5世の勢力拡大を脅威に感じていたローマ教皇やヴェネツィアなどと結び、対カール5世同盟を結成した。これに激怒したカール5世は1527年にローマに侵攻し「ローマの略奪」と呼ばれた略奪・破壊行為を行い、ローマは完全に廃墟と化してしまう。

懲りないフランソワ1世は1535年にはオスマン帝国と手を結び、神聖ローマ帝国を挟撃する形をとった。オスマン帝国は1526年にハンガリーの中央部と南部を制圧し、1529年にはウィーンを包囲するなど、ヨーロッパの驚異となっていた。このように、ヨーロッパの敵であったオスマン帝国さえも味方に引き込むやり方にはフランソワ1世の執念が感じられる。

オスマン帝国は1537年に大艦隊を率いて地中海の制圧に乗り出してきた。これに対してカール5世は、ヴェネツィア並びにローマ教皇と同盟軍を結成し撃退を試みるが、あっさりと敗れ去ってしまう。こうして地中海の制海権はオスマン帝国に握られてしまった。

逆にカール5世は、1543年にイングランド王ヘンリ8世と同盟を結び、両方面からフランスに攻撃を加えた。これによってフランス軍は後退を余儀なくされたが、その後も戦いは続いた。

このような交戦状態が終結するのは、次代のフランス王アンリ2世(在位:1547~1559年)とスペイン王フェリペ2世(在位:1556~1598年)の時代になってからである。両国ともに莫大な戦費のために破産状態になったからだと言われている。

さて、カール5世との戦いに明け暮れたフランソワ1世だが、レオナルド・ダ・ヴィンチをフランスに迎えるなど、イタリアのルネサンス文化をフランスに積極的に導入したことでも知られている。イタリア・フィレンツェのメディチ家からカトリーヌ・ド・メディシスをアンリ2世の妃として迎えたのも、イタリアとの結びつきを強めるためと言われている。

既にお話ししたように、カトリーヌはフランスの食文化の向上に大きな貢献をした。それまでのフランス宮廷ではフォークを使わず、貴婦人でも手づかみで料理を食べていた。また、パンが皿の代わりで、料理の汁がしみ込んだらそのまま食べたり、下僕に下げ渡されたりしていた。このような宮廷にカトリーヌはフォークや陶器製の食器を持ちこんだのである。さらにカトリーヌは、オニオングラタンスープやシャーベット、アイスクリームなどの新しい料理をフランスに伝えたとも言われている。

またフランソワ1世の時代には、ロワール川流域にシュノンソー城、ブロワ城、シャンボール城などの名城が建てられたのだが、その近くに現代でも名声をはせるシュノンソー・ブロワ・シャンボールなどのシャトー(ワイン生産所)が作られた。この地域でのワインの消費量が増えていたことが推測される。

フランソワ1世が持ち込んだルネサンスの実証主義は次第にワイン造りにも適用されるようになり、やがてシャンパンなどの新しいワインが誕生して行く土台となった。フランソワ1世の時代にフランスは、料理とワインの大国として成長していくスタートを切ったと言えるだろう。

ハプスブルク家の興隆と食-戦争と宗教改革と食の革命(1)

2021-06-01 22:16:04 | 第四章 近世の食の革命
4・5 戦争と宗教改革と食の革命
ハプスブルク家の興隆と食-戦争と宗教改革と食の革命(1)
北イタリアを中心にルネサンスが花開いていたちょうどその頃、ヨーロッパでは2つの大きな戦いが始まりました。1つ目はハプスブルク家フランス王家の戦いで、2つ目はカトリックプロテスタントの戦いです。

戦いの当事者たちは気づいていなかったと思いますが、この2つの戦いはヨーロッパ社会を大きく変えるきっかけになりました。

今回からのシリーズでは、この2つの戦いの経緯をたどりながら当時のヨーロッパの食について見て行きます。

今回は、ヨーロッパの超名門一族であるハプスブルク家の始まりの歴史についてです。

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16世紀後半にフランスとイギリスを除くヨーロッパのほとんどを支配していたのがハプスブルク家だ。その支配地の大部分は戦いによって獲得したものではなく、他の王族との婚姻によって得たものだった。そこから次の有名な言辞が生まれた。

戦争は他家にさせておけ。幸いなるオーストリアよ、汝は結婚せよ。

このようにハプスブルク家の本拠地はオーストリアとされるのが普通だ。しかし、元はスイス北東部のライン川上流域を支配した小貴族で、後にオーストリアへ本拠地を移したのだ。

ハプスブルク家の躍進の始まりは、家長のルードルフ1世が1273年に神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれたことだ。

神聖ローマ帝国内には200以上の公国や騎士領、司教領、自由都市などがあり、それぞれが独立国のような存在だった。その代表としてローマ教皇を守護するのがローマ皇帝だ。領地が増えるなどの実利的なメリットは大して無かったが、キリスト教が絶対とされてきた時代では大変名誉ある地位であり、誰もがローマ皇帝になりたがった。

ローマ皇帝は、選帝侯という3人の聖職者と4人の世俗君主による選挙によって選ばれる。実際には選帝侯によって選ばれた時点ではローマ王と呼ばれ、さらにローマ教皇から帝冠を授けられて真のローマ皇帝となる。

選帝侯が皇帝を選ぶ基準はその時々の状況によって異なるが、選帝侯にとって何らかのメリットがある者を選ぶのが通常で、時には金が物を言うこともあった。ルードルフ1世が選ばれたのは、彼の野心もない凡庸さが選帝侯には都合が良かったからだと言われている。

しかし、ルードルフ1世は決して無能ではなかった。選挙の結果に納得できなかった有力貴族のオットカルが反乱を起こしたのだが、それを速やかに鎮圧し、彼の領地だったオーストリアなどを自分のものにしたのだ。その結果、ハプスブルク家は旧領を離れてオーストリアに定住する。

ルードルフ1世の息子もローマ帝国皇帝となるが、ハプスブルク家の野心が恐れられたのか、その後しばらくは皇帝に選ばれず、地方の一領主に甘んじるしかなかった。

ところが1440年になると、ハプスブルク家のフリードリヒ3世が再びローマ帝国皇帝に選ばれる。この時も彼の無能さが選帝侯に気に入られたのだ。実際にフリードリヒ3世は小心者で、戦争が始まるといち早く逃げ出し、敵が去るまで出てこなかったと言われている。

そんな彼が率いるハプスブルク家に幸運が舞い降りた。息子のマクシミリアン(1459~1519年)にブルゴーニュ公国の姫との結婚話が持ち上がったのだ。


マクシミリアン

その頃のヨーロッパで、イタリア以外に経済面や文化面でもっとも進んでいたのがブルゴーニュ公国だった。ブルゴーニュ公国は現在のフランス東部のブルゴーニュ地方に加えて、ネーデルラント(現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルク)を含んでおり、ブルゴーニュ公によって治められていた。その娘マリアの婿としてマクシミリアンに白羽の矢が立ったのである。

ブルゴーニュ公は自らが次の皇帝になりたいがためにハプスブルク家に近づいたと言われている。しかし、公は1477年の二人の結婚式の直前に戦没してしまい、ブルゴーニュ公国は若い二人が治めることとなった。

マクシミリアンは愚鈍な父と違って聡明・勇敢で、混乱に乗じて侵入してきたフランス軍をさんざんに蹴散らしている。また、マクシミリアンとマリアの仲はむつまじく、結婚後相次いでフィリップという男の子とマルガレーテという女の子に恵まれた。

しかし不幸は突然やって来る。常に夫のそばにいたいマリアは身重ながらも狩に同行したのだが、運悪く落馬してしまい、それが元で急逝してしまったのだ。これを機に、王子のフィリップだけを残して、マクシミリアンをブルゴーニュ公国から追い出そうとする動きが強まる。この裏にはブルゴーニュを我が物にしようとするフランス国王の暗躍があった。これに対してマクシミリアンは持ち前の優秀さを存分に発揮した。反対勢力を一つずつ屈服させて行き、最終的にはブルゴーニュ公国全域を完全に掌握したのだ。こうしてブルゴーニュの状況は落ち着いた。

ちょうどその頃、ヨーロッパ東部ではオスマン帝国やオスマン帝国の後ろ盾を得たハンガリーの侵入が相次いでおり、ハプスブルク家のウィーンはハンガリー軍によって占拠されていた。1453年に東ローマ帝国(ビザンツ帝国)がオスマン帝国によって滅ぼされており、ヨーロッパも東ローマ帝国の二の舞になる可能性があった。

この危機的状況を打破するために選帝侯は1486年にマクシミリアンをローマ王の座にすえる。「中世最後の騎士」との呼び名が高いマクシミリアンをハンガリーやオスマン帝国を撃退するための切り札としたのだ。

マクシミリアンには幸運の女神がついていた。オーストリアを広く占拠していたハンガリー王マーチャーシュ1世が1490年に急死するとハンガリー軍は急速に弱体化したため、マクシミリアン率いる帝国軍はハンガリー軍を簡単に追い払うことができたのだ。こうしてマクシミリアンはハプスブルク家の旧領だけでなく、オーストリア全土の支配権を獲得するに至る。

マクシミリアンとハプスブルク家の幸運はさらに続く。1496年にはハプスブルク家とスペイン王家との婚姻が執り行われたのだが、結果的にこれがスペインの領土をハプスブルク家が獲得することにつながるのだ。

この時にはマクシミリアンの子フィリップとマルガレーテがそれぞれ、スペインの王女ファナ、王子ファンと結婚した。ところが、この結婚から10数年以内にスペイン国王夫妻と王子ファンが亡くなってしまい、スペイン王は王女ファンとフィリップの子供に引き継がれることになったのだ。

ファンとフィリップの間には2人の男子と4人の女子が生まれていた。このうち長男のカルロス(1500~1558年)が1516年にスペイン国王カルロス1世(在位:1516~1556年)として即位したのだ。彼はイベリア半島のスペイン本国だけでなく、南ローマとシチリア、そして新大陸の広大な領土を治める王となった。


カルロス1世(カール5世)

カルロスはブルゴーニュで生まれ育ち、1506年にはブルゴーニュ公となっていたが、1516年の即位に合わせて大勢のブルゴーニュ人を伴ってスペインに乗り込んだ。こうしてスペインでは、ブルゴーニュの優雅な文化とスペイン本来の厳格なカトリック文化が融合した独自の文化が生まれることになる。

さらにハプスブルク家はハンガリーの王位も獲得することになった。1515年に次男のフェルディナント(1503~1564年)はハンガリー王女のアンナとの、また三女のマリアもハンガリー王子のラヨショとの婚約が成立したのだが、1526年にラヨショが戦死したため、フェルディナントがハンガリーとそれに帰属するボヘミア(現在のチェコスロヴァキア)の王となったのである。こうしてハプスブルク家は、オーストリアとブルゴーニュに加えて、スペイン領とハンガリー・ボヘミアと言う広大な領土を手中に収めた。

1519年に祖父のマクシミリアンが死去すると、スペイン王カルロス1世はオーストリアをはじめとするハプスブルク家の領土を継承した。さらにカルロス1世は、1519年に神聖ローマ帝国皇帝カール5世(在位:1519~1556年)となる。その後カール5世(カルロス1世)はフランスとの間で激しい戦いを続けるが、その話は次回に回したいと思う。

カール5世は1556年にすべての地位から退いた。長年の戦争で蓄積した疲労や10年ほど前から患っている痛風によるものと考えられている。スペインとネーデルラントの領土は息子のフェリペ2世が受け継ぎ、オーストリアの領土と神聖ローマ帝国皇帝位は弟のフェルディナント1世が継承した。これ以降、神聖ローマ帝国皇帝位はオーストリア系ハプスブルク家の世襲となる。

最後に、カール5世の食生活について少しお話しておこう。

カール5世はかなりの大食漢であったと言われている。好物はイベリコブタのソーセージやハム、カタクチイワシのオムレツ、ウナギのパイ、イノシシ・ウシ・去勢オスドリ・ウズラの焼肉、マルメロ(カリンに似た果物)の砂糖漬け、そしてよく冷えたビールとライン産ワインだった。特にビールは朝から飲むことも多く、これが痛風の一因となったと考えられている。

カール5世のビールに関する逸話に「4つの取っ手が付いたビールジョッキ」がある。

ある村の酒屋に入ったカール5世がビールを注文すると、女主人がジョッキの取っ手を持ってカール5世に手渡したので、冷たいジョッキを両手で受け取らなくてはいけなかった。そこで取っ手が2つあるジョッキを作らせて女主人に渡したのだが、今度は両手で両方の取っ手を持ってカール5世に手渡した。カール5世がさらに取っ手3つのジョッキを渡したところ、次は3つ目の取っ手を顔で支えて手渡されてしまった。それで最後に4つの取っ手が付いたビールジョッキが出来あがったというわけだ。現在はこの逸話にちなんだビールジョッキも売られているようである。



ミラノのヴィスコンティ-ルネサンスと食の革命(5)

2021-05-29 20:31:18 | 第四章 近世の食の革命
ミラノのヴィスコンティ-ルネサンスと食の革命(5)
『ベニスに死す』という映画をご存知でしょうか?

静養のためベニス(ヴェネツィア)を訪れた初老の音楽家が、とある貴族の美少年に恋をしてしまうというお話です。音楽家は少年の姿を追って日々ベニスの街をさまよいます。しかし、この時ベニスではコレラがはやり始めていました。それでも音楽家は少年から離れることができません。やがて音楽家もコレラにかかってしまい、死んでしまいます。彼は老いをかくすために髪を黒く染め、顔には白い化粧をしていたのですが、それが死化粧となったのでした。

本作は全編にわたって美しい映像があふれる傑作ですが、ラストシーンは特に秀逸です。きらきら輝く海辺で遊ぶ美少年。それを見ながらベンチに座る音楽家。少年に手を伸ばすも届くわけもなく、満たされない想いを抱きながら力尽き、ひとり寂しく死んでいきます。

この映画の監督はルキノ・ヴィスコンティというイタリア人ですが、彼の作品はどれも「映像の美術」と呼ぶにふさわしいものです。

実はルキノ・ヴィスコンティは、ルネサンス期前半にイタリアのミラノを支配していた貴族ヴィスコンティ家の末裔です(彼自身も伯爵)。このヴィスコンティ家はミラノで芸術・文化の振興に大きな貢献をしたことで知られています。ルキノの映像美術も血のなせる業と言えるでしょう。

今回はヴィスコンティ家を取り上げながら、ルネサンス期のミラノの食について見て行きます。

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ミラノはスイスとの国境にほど近い北イタリアに位置し、ローマに次ぐ人口を有する大都市だ。古くから商工業と文化・芸術の中心として栄えてきたが、現在ではミラノ・コレクションなどで知られるように「ファッションの都」と呼ばれることもある。

ミラノの近くにはポー川が流れており、その流域一帯は古くからロンバルディアと呼ばれている。この地域はイタリアでもっとも農業生産力が高く、また人々の独立心も旺盛だった。このため11世紀からミラノを始めとする自治都市が建設されて行った。12世紀に神聖ローマ帝国の侵略を受けた際には自治都市はロンバルディア同盟を結成し、帝国軍を打ち破っている。

ヴィスコンティ家は元は小貴族だったが、十字軍遠征で武功を上げて勢力を拡大したと言われている。この頃から使用し始めたのがイスラム教徒を飲み込む大蛇の家紋だ。


ヴィスコンティ家の家紋(https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1580049)

1262年には一族のオットーネ・ヴィスコンティがミラノ大司教に任命され、さらに1271年にはテオバルド・ヴィスコンティがローマ教皇グレオリウス10世(在位:1271~1276年)に即位し、ヴィスコンティ家は躍進を始める。

そして14世紀初めにはミラノの支配権を獲得する。さらにジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティ(1378~1402年)の代にはロンバルディア全域とその周辺地を含む広大な地域を支配するようになった。この地域は、神聖ローマ皇帝から「ミラノ公国」として認められ、ジャン・ガレアッツォは初代ミラノ公となる。ヴィスコンティ家最盛期の到来だ。

ジャン・ガレアッツォは領地から得られる莫大な資金を文化・芸術事業に投じた。有名なミラノ大聖堂(ドゥオーモ)は、世界最大・最高の聖堂にしようとジャン・ガレアッツォが特に力を入れた建造物だ。ミラノ大聖堂の完成までに5世紀の期間が費やされたが、その壮大な姿は圧巻だ。ジャン・ガレアッツォは資金を提供するだけでなく、彼自身も古典文学に造詣が深かったと言われている。


ミラノ大聖堂(Dorinel NedelcuによるPixabayからの画像)

一方、ジャン・ガレアッツォは残虐性でも知られている人物で、敵対する貴族を牝牛の皮に包んで生きたまま城壁に塗り込めたという逸話が残っている。ちなみに、『羊たちの沈黙』の主人公「人喰いレクター」はヴィスコンティ家の末裔という設定で、学術・芸術に通じながらも残虐性を有するというところがジャン・ガレアッツォに似ている。

ジャン・ガレアッツォは領地拡大のための戦いを死ぬまで続けた。フィレンツェのメディチ家は長年のライバルで、トスカーナ地方に攻め入りフィレンツェを陥落寸前まで追い詰めたが、悲願達成の目前で病死してしまった。そして息子の代になると領土は解体される。それでもヴィスコンティ家は1447年までミラノを支配した。



その後、ヴィスコンティ家の娘婿だったフランチェスコ・スフォルツァが権力を握り、1535年までスフォルツァ家がミラノ公を受け継いだ。なお、レオナルド・ダ・ヴィンチはスフォルツァ家のルドヴィーコ・スフォルツァによってミラノに迎えられ、1482年から1499年までこの地で活動したが、その間に有名な『最後の晩餐』をサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂の壁に描いている。


さて、ここでルネサンス期のミラノの食を見て行こう。

ミラノの料理には黄色もしくは黄金食のものが多い。例えば、ミラノ風カツレツ「コトレッタ(Cotoletta alla Milanese)」も黄金色をしている。この理由は、ミラノでは経済が発展したことから「金」の黄色が好まれたためと言われている。

ルネサンス期に成立したとされているミラノの名物料理の一つに、サフランを贅沢に使用した「リゾットミラネーゼ(Risotto alla Milanese)」がある。これは、コメをバターで炒め、スープと大量のサフランを加えて作る料理だ。


リゾットミラネーゼ

ロンバルディアのポー川流域では15世紀から盛んに稲作が行われていて、コメはありふれた食材だった。言い伝えでは、結婚式の食事会で、色彩豊かな食器に負けないように黄色を強調するためにサフランを大量に使用したのが始まりとされる。また、結婚を反対した人が料理をダメにするためサフランを大量に投入したが、反対にとても美味しくなってしまったとも言われている。

レオナルド・ダ・ヴィンチの手記にも記されているルネサンス期の料理の一つが「ミネストローネ(Minestrone)」だ。ミネステローネは「具だくさんの野菜スープ」という意味で、ミラノでは野菜をじっくり煮込んだ最後にコメを入れて仕上げるのが特徴だ。

現代のミネステローネにはトマトが使われているが、ルネサンス期にはトマトは食材として使用されておらず、ミネステローネの色も黄色に近かった。

次はお菓子だ。ミラノと言えば「ティラミス(Tiramisu)」だが、これは1960年代に考案されたもので、まだまだ新しいデザートだ。

ルネサンス期のミラノで誕生したお菓子としては「パネットーネ(Panettone)」がある。パネットーネはスフォルツァ家が支配した頃のミラノで、クリスマスに欠かせないものとして作られるようになったと言われている。

パネットーネはドライフルーツが入った発酵菓子パンだ。材料は小麦粉、砂糖、卵、バター、酵母、そして干しブドウなどのドライフルーツだ。砂糖とバターが入ると小麦粉の生地は発酵しにくくなるが、初乳を飲んだ子牛の腸から採った特殊な酵母を用いてゆっくりと発酵を行うことでパネットーネは作られる。


パネットーネ(CiranoTondiによるPixabayからの画像)

一方、ドライフルーツが入っていないものは「パンドーロ(Pandoro)」と言い、ロンバルディアの西にあるヴェローナの銘菓だ。現代ではパネットーネとパンドーロはイタリア中でクリスマスに食べるお菓子の定番となっている。また、パネットーネはイタリア移民によって南米に伝えられ、そこでもクリスマスに欠かせないお菓子となった。

ローマ教皇の料理番スカッピ -ルネサンスと食の革命(4)

2021-05-27 17:17:39 | 第四章 近世の食の革命
ローマ教皇の料理番スカッピ -ルネサンスと食の革命(4)
前回はルネサンス期のイタリア・フェラーラで活躍した天才料理人メッシスブーゴのお話をしましたが、今回はもう一人の天才料理人バルトロメオ・スカッピ(Bartolomeo Scappi)のお話です。

スカッピはメッシスブーゴと同じルネサンス期にローマで活躍した料理人です。そして、彼の名を有名にしたのもメッシスブーゴと同じようにスカッピ自身が書いた料理本でした。

ルネサンス期にはヨハネス・グーテンベルグ(1398年頃~1468年)が開発した活版印刷技術が普及してきており、良い本が出版されるとまたたく間にヨーロッパ中で読まれるようになっていました。そして、その著者の名は後世まで語り継がれることになったのです。

このように新しい印刷技術は情報の伝達速度を著しく高めるとともに、著者の名を広く知らしめる役割を果たしました。ルターの宗教改革が成功したのも、彼の『95か条の提題』や『新約聖書』(ドイツ語版)が印刷され、多くの人々に読まれたからです。

ちなみに、活版印刷技術は羅針盤、火薬とともに「ルネサンス三大発明」の一つにあげられています。

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バルトロメオ・スカッピ(1500年初頭〜1570年頃)は、ルネサンス期のイタリアの料理人だ。彼はローマでさまざまな枢機卿に仕えたのち、亡くなるまで少なくとも3人のローマ教皇の料理長として働いたとされている。

スカッピがローマ教皇に仕えていたちょうどその頃、バチカンではミケランジェロ(1475~1564年)がシスティーナ礼拝堂で壁画『最後の審判』を描き、また、サン・ピエトロ大聖堂の建築にたずさわっていた。もしかしたらスカッピはミケランジェロとバチカンで話をすることがあったかもしれない。


サン・ピエトロ大聖堂(Michał LechによるPixabayからの画像)

1570年にスカッピは料理書の『オペラ(Opera dell'arte del cucinare)』を出版した。この本は大人気を博し、度重なる重版が行われるとともに、各国で翻訳された。1600年代にはオランダで盗作本が出版されるほどだったという。

オペラは次のように6巻に分かれている。

第1巻:料理全般について、料理長の義務、調理器具、良い食材を見分けて保存する方法
第2巻:動物と鳥の肉の料理とソースの作り方
第3巻:魚、卵、野菜の料理の作り方
第4巻:季節ごとの食べ物、高貴な人と一緒に旅行するために必要なアイテム
第5巻:ペイストリー(小麦粉とバターで作った焼き物)、ケーキなどの作り方
第6巻:体が弱い人のための料理

第2、3、5巻には様々な料理のレシピが掲載され、その数は1000を越える。また、28の緻密に描かれたイラストが載せられており、ルネサンス期にイタリアで使用されていた調理器具などを知ることができる。


オペラに掲載された調理器具

もっとも多いレシピはスープのもので、ほとんどの場合で具材は野菜と肉だ。また、スープの基本的な調味料としては、チーズ・砂糖・シナモンが一緒に使われることが多く、その時代の定番トリオと言っても良いだろう。ちなみにスカッピは、パルミジャーノ・レッジャーノを最高のチーズと呼んでいた。

料理の食材は中世から引き続いて使用されていたものがほとんどだが、中にはシチメンチョウのように新大陸から持ち込まれたものも記載されており、新しい食材が普及しつつあったことがうかがえる。

スカッピは典型的なルネッサンス人であり、科学的・論理的に料理を行った。例えば、煮る時には食材が浮かび上がらないように重りをつけたり、炎によるコゲを防ぐために油を塗った紙を肉に巻いたりなどの工夫をしている。また、ゼラチンを作る時に金属のスプーンを使うと苦くなるため、木のスプーンを使用するなど細かい指示も記載されている。

またスカッピは料理の見栄えにすごくこだわりがあったようで、魚でヤギなどの動物の頭を作るなど、視覚的にインパクトがある料理を好んで作った。そしてそのような料理を、ルネサンス期のイタリアで誕生した美しいマヨリカ焼の食器に盛り付けたそうだ。スカッピは教会の絵画や彫刻をいつも見ていたはずで、それらがスカッピの料理に大きな影響を与えたと思われる。


マヨリカ焼の食器

最後に、スカッピが残したレシピから「塩漬けアンチョビのタルト」を紹介しよう。

塩漬けアンチョビのタルト
(材料)
アンチョビ(カタクチイワシ)、小麦粉、バター、粉チーズ、卵、塩、コショウ

(調理の仕方)
アンチョビのはらわたを取り除き、水でよく洗ってきれいにした後、水気を切ります。
小麦粉に柔らかくしたバターと塩、そしてぬるま湯を少し加え、こねます。
生地をナプキンで包み、数時間寝かせます。
粉チーズ、卵、コショウをよく混ぜておきましょう。
型に寝かせた生地を広げ、その上にアンチョビの切り身を乗せて、さらに粉チーズ、卵、コショウを乗せます。
オーブンで焼いて、温かいまま、または冷たくしてお召し上がりください。

ルネサンスの天才料理人メッシスブーゴ-ルネサンスと食の革命(3)

2021-05-24 18:17:58 | 第四章 近世の食の革命
ルネサンスの天才料理人メッシスブーゴ-ルネサンスと食の革命(3)
ルネサンス期の絵画・建築の分野ではミケランジェロやレオナルド・ダ・ヴィンチのような「天才」と呼ばれる人物が出現しました。

料理の世界でも彼らと肩を並べると言われている天才がフェラーラというイタリア北部の都市に現れます。その名は「クリストフォロ・ディ・メッシスブーゴ(Cristoforo di Messisbugo)」と言い、彼はフェラーラを治めた貴族エステ家の料理人として腕を振るいました。

今回はメッシスブーゴの足跡をたどることで、ルネサンス期の貴族の食を見て行きます。

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フェラーラはイタリア半島の付け根あたりにある都市で、ここから北東90㎞くらいのところにはヴェネツィアがある。フェラーラはフィレンツェよりも先にルネサンスの文化が花開いたことで知られている。

13世紀からフェラーラ一帯を治めていたのがイタリアの有力貴族のエステ家だ。エステ家は先進的な貴族で、彼らが文化を保護し都市開発を進めた結果、フェラーラは「理想都市」と呼ばれるようになるまで発展した。


エステ家のエステンス城(Image par Filip Filipović de Pixabay)

今回の主人公であるクリストフォロ・ディ・メッシスブーゴ (生年不詳~1548年)は、1524年から1548年にかけてエステ家君主のアルフォンソ1世とその子エルコレ2世に仕えた使用人兼料理長だ。エステ家主催の数多くの晩餐会などを切り盛りしたが、その能力が王族・貴族から高く評価され、1533年には貴族の称号を授けられている。

メッシスブーゴは研究心が旺盛で、手に入るあらゆる食材の調理法や保存法の開発に取り組んだと言われている。例えば、パスタを料理に本格的に使用し始めたのは彼と言われているし、キャビア(オオチョウザメの卵)の調理法も残している。また、コメとサフランを使った料理のリゾットの原型を作ったとも伝えられている。

またメッシスブーゴは、ルネサンス期の料理の味付けの変化にも大きな影響を与えたと考えられている。それまでの中世の上流階級の料理は酸味が強く、大量の香辛料が使われてかなりスパイシーだった。それがルネッサンス期になると、ここに砂糖の甘さが加わるのだ。この風味の変化を促したのがメッシスブーゴらルネサンスの料理人たちだ。その頃にはフェラーラにほど近いヴェネツィアに大量の砂糖が運び込まれており、砂糖を料理に存分に使えるようになっていたのだ。

しかし後に見るように、ルネサンス期が過ぎると過剰な香辛料や砂糖の使用は食材本来の味を損なうとされ、香辛料は主にメインの料理に控えめに使用されるようになり、砂糖もメインの料理ではなく主にデザートに使われるようになる。

メッシスブーゴはエステ家では単に料理を作るだけでなく、晩餐会全体の演出も担当していた。古代ローマで食事の合間に余興が楽しまれていたように、食事の合間に音楽を流したり、道化師に曲芸を披露させたり、出席者にゲームしてもらったりと、様々な趣向を凝らしたらしい。そして晩餐会が終わると、招待客に心のこもったお土産を手渡したという。

以上のようなメッシスブーゴの功績を広く世に知らしめたのが、彼の著作の『晩餐会、料理の構成と食器・小道具一般について(Banchetti, compositioni di vivande, et apparecchio generale)』だ。この本の執筆は1539年までに終わっていたが、出版されたのはメッシスブーゴが亡くなった翌年の1549年だ。この本は多くの人に読まれるベストセラーとなり、15版まで版を重ねたと言われている。

本は三部構成で、最初のセクションでは食材とその入手方法から調理器具や食器、装飾品まで、晩餐会に必要なものがリストアップされている。続くセクションでは、彼が担当した10数回の晩餐会のコースについて説明があり、最後のセクションには、パスタ・ケーキ・スープ・ソース・スープ・乳製品の6種類にグループ分けされた323のレシピが載せられている。

ここで、1529年に開催された晩餐会に出された一部の料理を紹介しよう。

ウズラのロースト・松の実の入りオニオンスープ・子牛にパンをまぶして油で揚げて砂糖とシナモンをまぶしたもの・自家製ハトパイ・マスの卵のパイ・ロイヤルソースでローストしたヤマウズラ・砂糖とシナモンでローストした魚・松の実の砂糖漬けの甘いソースで覆われた魚のフライ・ヤツメウナギのソース焼き・ソースとマスタードで覆われた揚げイシビラメ・オレンジと砂糖を入れたイワシの揚げ物・上にオレンジを乗せた揚げスズメ・鯛のパセリとネギのグリル・梨パイ・栗のタルト・果物各種

やはり砂糖がいっぱい使われていて、現代人にはとても甘そうだ。