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食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

女王の海賊フランシス・ドレイク-イギリス・オランダの躍進(2)

2021-06-19 18:00:28 | 第四章 近世の食の革命
女王の海賊フランシス・ドレイク-イギリス・オランダの躍進(2)
今回は、イングランド女王エリザベス1世が重用した海賊フランシス・ドレイクを取り上げます。彼はイギリスがスペインの無敵艦隊(アルマダと呼ばれた)を打ち破ったアルマダの海戦で大活躍したことで有名ですが、それ以外にもエリザベス女王のために様々な功績を残しています。彼がいなかったら、イギリスが大国へと成長することは無かったと考える学者も少なくありません。

エリザベス1世の頃は、ブリテン島の南半分がイングランドで、北半分はカトリック国のスコットランドでした。また、南のドーバー海峡をはさんだ対岸にはカトリックの大国フランスがあり、両国は断続的な戦いを続けていました。それに加えて、海洋帝国として日が昇る勢いを見せていたスペインがイングランドへの侵略の機会をうかがっていました。さらにローマ教皇配下の修道士もイングランド国内に潜入していました。

このように四面楚歌のイングランドでしたが、国内には毛織物業しか目ぼしい産業が無く国力も小さかったことから、正攻法でカトリック国の脅威に打ち勝つのは不可能でした。そこで取った手段が海賊やスパイを活用することでした。その海賊の代表がフランシス・ドレイクであり、スパイの親玉がフランシス・ウォルシンガムという人物でした。アルマダの海戦の勝利も、ドレイクとウォルシンガムの連携がうまく行ったからだと言われています。

なお、両名ともエリザベス1世からナイト(騎士)の叙勲を得ていますが、騎士は男爵や侯爵のように世襲制ではないため、功績の大きさに比べて一代限りの名誉しか与えられなかったとも言えます。


フランシス・ドレイク
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フランシス・ドレイク(1543年頃~1596年)はイングランド南西部のクラウンデールという町で牧師の子として生まれた。しかし一家はカトリックの反乱に巻き込まれ、港町のプリマスに逃げのびた。そこでは非常に貧しい生活を強いられたらしい。この経験がカトリックに対して反感を抱くきっかけの一つになったと言われている。

ドレイクは10代前半から海の仕事を始めたとされる。しばらくして10歳ほど年上の従弟で大物海賊となっていたジョン・ホーキンスの下で働き始める。ここで船乗りや海賊としての技術を身につけたと考えられている。そして、1568年には念願であった自分の船を手に入れた。

ホーキンスは奴隷貿易の先駆者で、配下のドレイクも奴隷貿易に参加していた。この頃、奴隷貿易は合法と認められていたのである。しかし、ある時ドレイクが参加した船団がスペイン海軍の襲撃に遭い、ほとんどの仲間が殺されてしまう。この事件によってドレイクはスペインに対する敵愾心を強く持つようになったとされている。そして、スペイン船やポルトガル船相手に海賊行為を行うようになったのだ。

ドレイクが強奪したのは主に金や銀などの財宝、砂糖やワインだった。特に南米のポトシ銀山から運ばれてくる銀は一番の獲物だった。当時は銀が世界通貨として使用されており、その主要な産地がポトシ銀山だったのだ。なお、ワインは自分たちの飲料となった。

ドレイクの最大の功績の一つが1577年から1580年にかけて行われた世界一周だ。これはマゼラン艦隊に次ぐ2度目の世界一周であり、イギリス人としては初めての快挙だった。ドレイクはこの功績によって、エリザベス1世からナイト(騎士)の称号を授けられている。

ところが、世界一周自体は当初の目的ではなく、結果として世界一周してしまったというのが通説だ。真の目的は、ポトシ銀山から運ばれる銀を太平洋側から強奪することだった。そして元の計画では、来た時と同じようにマゼラン海峡を通って大西洋に戻り、北上してイングランドに帰国するつもりだったのが、マゼラン海峡が難所だったことから太平洋を西に向かって横断するルートを取ったと言われている。実際、マゼラン海峡を通過できたのはイングランドを出港した5隻中2隻だけだった。

しかし、この航路の選択が功を奏した。ドレイクの船団は季節風に乗って太平洋を横断し、香辛料の生産が盛んなインドネシアの島々に立ち寄ることができたのだ。ドレイクはそこで大量のクローブ(約6トン)やナツメグ、コショウ、ショウガなどの香辛料を購入した。その頃のクローブやナツメグは希少性が高く、ヨーロッパでは非常に価値の高いものだった。イングランドに持ち帰れば大儲けできるのは確実だったのだ。

ドレイクたちはその後も西に進み、喜望峰を回ってイングランドに帰り着いた。ただし、世界一周を成し遂げて帰港できたのは、ドレイクが乗船するゴールデン・ハインド号1隻のみだった。なお、この船のレプリカが現在でもロンドンで展示されている(航行可能で来日もしている)。

ドレイクが帰国した時には、イングランドではドレイクたちは既に死んだものと考えられていたという。それは無理もないことで、当時の航海の致死率が非常に高かったからだ。その主要な原因はビタミンC不足による「壊血病」の発症だ。壊血病は長引くと死に至る病で、大航海時代には壊血病によって約200万人の船乗りが命を落としたと見積もられている。

ビタミンCは野菜や果物などに含まれているが、船乗りたちが食べていたものは塩漬け肉や塩ダラなどの保存食ばかりで、ビタミン類が圧倒的に不足していた。こうした食事を数か月もしていると、体内に貯蔵されていたビタミンCが枯渇して壊血病が発症するのだ。

ビタミンCは体内の組織を維持しているコラーゲンを作るために必須のビタミンで、壊血病では新しいコラーゲンを補充することができずに組織が壊れてしまうのだ。その結果、皮膚は崩れ、歯茎はボロボロになり、細菌が繁殖して悪臭を放ち出すようになる。また、体の内部では軟骨が少なくなるため骨同士がこすれてコキコキと音がするようになり、血管が破れて内出血が体中に広がる。さらには神経も侵されて幻覚などを見るようになるという。そして、最後には体が朽ちて死んで行くのだ。

この壊血病の克服に成功するのは18世紀末になってからである。イギリス海軍の軍医ギルバート・ブレインが、レモンやオレンジなどの柑橘類に壊血病を防ぐ効果があることを見つけて、乗組員に摂取させたのである。さらに、実際にビタミンCが発見されるのは1931年になってからで、ハンガリー人のセント=ジェルジがパプリカから世界で初めて単離を行った。

さて、ドレイクが本国に持ち帰った財宝や香辛料は莫大な富を生み出した。この頃の航海は投機の対象になっており、船長は出資者から金を集めて航海を行い、帰港した際には航海で出た利益を出資額に応じて分配することとなっていた。ドレイクのこの航海では、利益は出資金の47倍の60万ポンドになったとされる。出資金のうち約半分はエリザベス1世が出したものであり、配当金は30万ポンドに上った。当時のイングランドの国家予算が20万ポンドと見積もられていることから、莫大な儲けを手にしたことになる。

英雄となったドレイクはナイトに叙され、さらに1581年にプリマス市長となるが、やがてエリザベス1世の要請を受けて海賊に復帰した。1587年にはスペインの王室船を拿捕して莫大な財宝を手に入れるなど女王の期待通りの働きをしたという。

そして、いよいよ1588年のアルマダの海戦である。この戦いは一度だけの海戦というイメージもあるが、実際には前哨戦も含めて複数の戦いが繰り広げられた。イングランド軍の実質の司令官はドレイクであり、彼は前哨戦から大活躍した。1587年の前哨戦では、冒頭に登場したウォルシンガムの情報からスペイン軍基地への攻撃を行い、100隻以上の艦船の破壊と大量の物資の破棄に成功している。

本戦では、短距離砲しか持たないスペイン海軍に対してイギリス海軍は長距離砲を用いて遠方からの攻撃をしかけることで優位に立った。さらに、火薬や可燃物を搭載した船に火をつけて突入させるなどすることでスペイン艦隊を大混乱に陥れたとされる。

この時スペイン軍にとって誤算だったことが、イギリス本土に上陸する陸軍の招集が間に合わなかったことだ。そのため作戦を中止してスペイン本国に帰還することにしたのだが、不運なことに嵐が襲来し3割以上の船が沈没してしまったのだ。さらに船内に蔓延した感染病で死亡したり、食料不足で餓死したりするなどして、合わせて1万人以上の兵が死んだと言われている。

一方のイングランド海軍の損害は微々たるもので、死者は100名にも満たなかった。

こうしてアルマダの海戦はイングランド側の大勝利に終わった。しかし、スペインの優位はまだ続いており、両者の戦いはその後もしばらく続いた。ドレイクもリスボンを襲撃するなどいくつかの戦いに参加するが、大きな戦果を挙げるには至らなかったらしい。そして最後は南米で赤痢にかかり死亡したとされる。1596年1月28日のことである。彼の遺体は今でもパナマの海底で静かに眠っていると言われている。

スペインの失敗-イギリス・オランダの躍進(1)

2021-06-16 23:22:41 | 第四章 近世の食の革命
4・6 イギリス・オランダの躍進
スペインの失敗-イギリス・オランダの躍進(1)
歴史に「if」は無いと言われます。

でも、「もし織田信長が本能寺の変で死んでいなかったら、その後の日本の歴史は大きく変わっていただろう」などと考えると、いろいろな妄想が頭の中を駆け巡って、少しワクワクするものです。

今回取り上げるスペイン王フェリペ2世も、「もし彼があの時しくじっていなかったら、その後の世界史は大きく変わっていただろう」と思えるほどの、歴史の転換点にいた重要人物です。

彼に相対したのがイングランド女王のエリザベス1世で、彼らの時代にスペインとイギリスはいくたびもの戦いを繰り広げました。その中でもっとも有名なものが「アルマダの海戦」で、スペインが誇る無敵艦隊がイギリス海軍に敗れるという大番狂わせが起こったとされています。


フェリペ2世
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スペイン王カルロス1世(カール5世)(在位:1516~1556年)が1519年に神聖ローマ帝国皇帝に選ばれた年に、スペイン人のコルテスはメキシコに派遣された。彼は1521年にアステカ帝国を征服してスペイン領とした。また、同じようにスペイン人のピサロは1533年にインカ帝国を征服した。こうしてブラジルを除き、中南米のほとんどがスペインの植民地となったのだ

一方、1519年にはカルロス1世の命を受けてマゼランが世界一周の冒険旅行に旅立つ。マゼランの船団はアメリカ大陸南端のマゼラン海峡を通過して太平洋を横断し、香辛料諸島(モルッカ諸島)やフィリピンなどに立ち寄りながら1522年にスペインに帰国した(ただし、マゼランは途中で戦死した)。こうして香辛料の生産地の情報を得たスペインは香辛料貿易にも乗り出した。これ以降スペインは海洋帝国・植民地帝国として発展して行く。

1556年にカルロス1世(カール5世)が退位すると、スペイン王は息子のフェリペ2世(在位:1556~1598年)が引き継ぎ、神聖ローマ帝国皇帝の座は弟のフェルディナント1世(在位:1556~1564年)が受け継いだ。この結果フェリペ2世は、スペインが有するスペイン本土、ナポリ、シチリア、ネーデルラント(現在のオランダやベルギーなど)、アメリカ大陸、フィリピンなどの支配者となったのだ。

フェリペ2世はスペインの領土をさらに拡大する積極的外交を展開しようとした。この背景にはカトリックの保護国として、カトリックを全世界に広めるという野望があった。

フェリペ2世が即位した頃の地中海はオスマン帝国が支配していた。オスマン帝国がイタリアにも迫る姿勢を見せたことから、ローマ教皇は各国に支援を呼びかけた。それに応じてフェリペ2世はスペイン艦隊を派遣し、レパントの海戦でオスマン帝国軍を打ち破った。この結果、スペイン艦隊は「無敵艦隊」と呼ばれるようになる。

フェリペ2世は即位前の1554年にイングランド女王のメアリー1世(1516~1558年)と結婚しており、イングランドの共同統治権を得ていた。メアリー1世はイングランドの宗教をカトリックに回復させようとしていた。うまく行けばイングランドはカトリック国に戻り、その領土もスペインのものとなる可能性があったが、メアリー1世の逝去によってこの夢はとん挫した。なお、フェリペ2世は次の女王となったエリザベス1世(在位:1558~1603年)にも求婚したが断れている。

エリザベス1世は、メアリー1世が回復させたカトリックを排除し、プロテスタントであるイギリス国教を復活させたため、フェリペ2世と対立するようになる。

一方、ネーデルラント(現在のオランダやベルギーなど)ではプロテスタントの勢力が拡大していた。この地は毛織物業を中心に商工業が非常に発展しており、スペイン王国の資金源となっていたのだが、フェリペ2世は即位後すぐに重税を課すとともに、プロテスタントを厳しく弾圧するようになった。これに対してネーデルラントの人々は、プロテスタントとカトリックの関係なく一致団結して反乱を起こすようになる。

後の歴史を知っている者にしてみれば、スペインが資金源のネーデルラントを失うことだけは避けなければならなかったことを分かっている。しかし、フェリペ2世はこれに失敗した。うまく統治を行うためには「アメとムチ」が必要と言われるが、スペインが行ったのはムチだけで、スペイン軍は反乱を徹底して押さえつけただけだったのだ。例えば、捕らえた者の全財産を没収し、それでも歯向かう者を次々と処刑したとされる。

こうしてネーデルラントの人々のスペインに対する反抗心がさらに強まることとなり、1568年には本格的な独立戦争が始まった。特にカルヴァン主義のプロテスタントが勇敢に闘ったとされる。

この独立戦争を支援したのがエリザベス1世だ。スペインはイギリスにとっても敵国であり、また、ネーデルラントの人々はイギリスと同じようにプロテスタントだったからだ。しかし、ネーデルラントの人々もイギリスも兵力の面ではスペインにとてもかなわない。そこで採用した戦略が「海賊行為」というゲリラ戦法だ。

弾圧から逃れたネーデルラントの人々は小さい船に乗り込み、スペイン船を襲撃することで物資を奪ったり、船そのものを奪ったりした。エリザベス1世も海賊を配下におさめ、スペイン船に対して海賊行為を命じた。有名な海賊フランシス・ドレイクはアメリカ大陸沿岸まで乗り出し、大量の物資や財宝、そして軍艦を手に入れたという。

ネーデルラントとイギリスはともにヴァイキングが住み着いた土地であったことから、海賊行為は先祖から受け継いだ血のなせる業と言えるかもしれない。

こうした状況を打破するために、スペインは1588年にアルマダの海戦をイギリスに仕掛けたのだが、この時もドレイクら海賊の活躍によってイギリス側の勝利となった。無敵艦隊の敗北である。

そして、ネーデルラントではカトリックの多かった南部が独立戦争から脱落したが、1596年にはフランスとイギリスが北部7州を国家として認める条約を締結したことから、ネーデルラント連邦共和国(通称オランダ)が成立する。

オランダはその後オランダ東インド会社を設立し、ポルトガルからアジアの香料貿易を奪うなどして海上帝国として強大化して行った。そして17世紀には、黄金時代を迎えることとなる。また、イギリスもスペインなどから植民地を奪うことで大国化し、大英帝国を築いて行くことになる。

一方、スペインはドル箱のネーデルラントを失い、海賊によって財宝や物資を奪われるとともに、植民地も失って行った。この結果、大した産業がないスペインは凋落の一途をたどることになるのだ。

もしフェリペ2世がネーデルラントの統治をもう少しうまく進めていれば、ネーデルラントが独立することもなかっただろう。そうなれば、ネーデルラントから莫大な資金を調達できたし、イギリスだけを相手にすれば良かったので、イギリスに勝利して自らの領土としていた可能性がある。しかし、これは歴史のifで、言っても仕方がないことだ。

さて、ここで、フェリペ2世の時代のスペインの首都の料理について見て行こう。

フェリペ2世は1561年に宮廷をマドリードに移し、ここが事実上の首都となった。マドリードは海から約300 km離れた内陸にあり、気候は乾燥しておりコメの栽培には適さない。このため、魚介類やコメの料理を良く食べる他の地域とは異なり、どちらもほとんど食べない。その代わり、肉と豆を良く食べるのが特徴だ。

スペインとポルトガルは以前の支配者のイスラムから土地を奪い返して建国された。このため、スペイン人はイスラム教やユダヤ教がタブーとする豚肉を好んで食べるようになったとされ、教会も豚肉を食べることを奨励した。

このような豚肉料理の一つに、豚肉と豆の煮込み料理であるコシード(Cocido)がある。

スペイン各地にコシードがあるが、最も有名なのがマドリードの「コシード・マドリレーニョ(Cocido Madrileño)」だ。これは、鶏肉、豚肉、生ハム、チョリソ(トウガラシ入りポークソーセージ)、モルシラ(ブラッドソーセージ)などの肉類をひよこ豆や野菜と一緒に煮込んだ料理だ。この料理はユダヤ人が食べていた料理を豚肉風にアレンジしたもので、16世紀に始まったと言われている。

コシード・マドリレーニョを食べる時には、煮込んだ具材とスープを3つに分けて、スープ、豆と野菜、肉類の順に食べるのが伝統となっている。現代ではスープにパスタを入れることが多い。


コシード・マドリレーニョ

これ以外のマドリード料理には、牛の胃を煮込んだ「カジョス・アラ・マドリレーニャ(Callos a la Madrileña)」がある。この料理の起源も16世紀までさかのぼると言われている。なお、ヨーロッパで内臓を食べる場合は肝臓や腎臓がほとんどで、胃を食べるのは珍しいらしい。

マドリードはドーナツでも有名だ。「ロスキージャス(Rosquillas tontas y listas)」というドーナツは、5月のマドリードの守護聖人サン・イシドロの日にレモネードと一緒に食べられる伝統的なものだ。その表面は卵黄や粉砂糖、メレンゲでコートされる。

また、11月の諸聖人の日には、「ブニュエロ(Buñuelos rellenos)」というカスタードクリームや生クリームが入った揚げパンが食べられるそうだ。

カトリックの国だけあって、キリスト教に関係がある料理が多いのが特徴のようである。

イギリス(イングランド)の宗教改革と食-戦争と宗教改革と食の革命(5)

2021-06-14 22:36:40 | 第四章 近世の食の革命
イギリス(イングランド)の宗教改革と食-戦争と宗教改革と食の革命(5)
今回はイギリスの宗教改革と食について見て行きます。

イギリスでは他の国とは異なった原因で宗教改革が起こりました。その原因を作り出したのはヘンリ8世です。彼は歴代のイギリス国王の中ではかなり有名で、これまでに何冊もの本になっています。

今回はまず簡単にイギリスの歴史を振り返ってから、ヘンリ8世が始めた宗教改革と彼の時代の食について見て行きます。


     ヘンリ8世
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イングランド王国は1066年にヴァイキングで知られるノルマン人によって建国された。これをノルマン朝と呼ぶ。国王はフランス北部のノルマンディーにも所領を持つノルマンディー公であり、イギリス王であると同時にフランス国王の家臣だった。このため宮廷ではフランス語が主に使用されていた。

1154年に男系の後継者が絶えてノルマン朝は断絶したため、血縁のフランス・アンジュー伯が王位を継承し、ヘンリ2世となった。プランタジネット朝の始まりである。

プランタジネット朝では貴族と教会の力が次第に強くなった。1215年に貴族たちは国王に「大憲章(マグナ・カルタ)」を認めさせ、貴族の権限を保障させるとともに、国王も法に従うことが決められた。1265年には初めて議会の開設が認められ、さらに1295年にはエドワード1世が貴族・聖職者・騎士・市民から構成される議会を招集した。彼の時代には宮廷で英語が話されるようになり、イギリスの国家としての独自性が生まれたとされる。

1339年にプランタジネット朝のエドワード3世はフランス王位継承権を主張してフランスに出兵し、百年戦争が始まった。戦いはイギリス側優勢で進行したが、ジャンヌ・ダルクの出現によってフランス側が盛り返し、イギリス側の敗戦で幕を閉じた。この敗戦で、フランスにおけるイングランド王の領地は湾口都市のカレーを除いてすべてが失われた。

なお、百年戦争の間にプランタジネット朝が途絶えて、ランカスター朝となった。ランカスターは侯爵家で、エドワード3世の息子の一人が建てたものだ。また、別の息子が建てた侯爵家にヨーク家があり、1455年から王位をめぐってランカスター家とヨーク家の間でバラ戦争(1455~1485年)が始まる。バラ戦争と呼ばれるのは両家の紋章がバラだったからだ。

バラ戦争は最終的にランカスター家が勝利し、ヘンリ7世が1485年にテューダー朝を開いた。この戦争でイギリス諸侯は疲弊して没落するとともに王に権力が集中し、絶対王政が形成されて行ったとされている。

イギリスの宗教改革はテューダー朝のヘンリ8世(1491~1547年、在位:1541~1547年)によって行われた。彼は王妃と離婚して新しい女性と結婚がしたいがために新しい宗教を始めたのだ。

ヘンリ8世の妃はスペイン王女のキャサリンで、政略目的で二人は結婚したが、二人の間に女の子しか生まれなかったため二人の関係は悪化していた。また、ヘンリ8世は女好きで、キャサリンの侍女のメアリー・ブーリンと関係を持っていた。さらに彼はメアリーの姉妹のアン・プーリンを好きになり、キャサリンと離婚してアンと結婚することに決めたのだ。

しかし、カトリックでは離婚は通常認められない。そこでヘンリ8世は自身を最高指導者とするイングランド国教会を新たに設立したのである。新しい宗教の教義はカルヴァンのものに近かった。

宗教改革によってヘンリ8世は望み通りアン・プーリンと結婚できたのだが、授かった子はまた女の子だった。彼は次の女性と結婚するためにアンをロンドン塔に幽閉し、ついには処刑してしまう。結局、ヘンリ8世は合計6人の女性と結婚し、そのうちの2人を処刑した。

ヘンリ8世の死後、後を継いだのは3番目の妻との間に生まれた唯一の息子である9歳のエドワード6世だったが、16歳で若死にしてしまう。次に即位したのはヘンリ8世と最初の王妃キャサリンとの間に生まれた女王メアリー1世(在位:1553~1558年)だった。

彼女の母はスペイン王族出身で、さらにメアリー1世も国王フェリペ2世と結婚する。スペインはカトリック国であり、メアリー1世もカトリックを信仰していたことから、イギリスの宗教を再びカトリックに戻そうとした。そして反対するプロテスタントを次々と処刑して行ったことから、彼女は「ブラッディ・メアリー(血まみれのメアリー)」と呼ばれた。

しかし、腫瘍を患ったメアリー1世は1558年に死去し、代わってヘンリ8世と2番目の王妃のアン・プーリンとの間に生まれた女王エリザベス1世(在位:1558~1603年)が即位した。彼女はイギリス国教会を復活させ、それをイギリスに根付かせることに成功する。(なお、エリザベス1世の代にイギリスはスペインの無敵艦隊を打ち破るなど、強国への礎を築いて行くのだが、その話はまた改めてします。)

さて、好色で残忍な性格で悪評が高いヘンリ8世だが、学術や文学、音楽に秀でた文化人としても知られている。また、たいへんな美食家であったとも伝えられている。

ヘンリ8世は大の肉好きで、肉なら何でも食べたと言われている。基本的に毎日豚肉を食べ、その他にヒツジやニワトリ、ウシ、ウサギ、シカ、そしてクジャクやハクチョウなどの野鳥が好きだったようだ。

甘いものも大好きで、砂糖がたくさん入った菓子に目が無かったらしい。中でも、後世になって「メイズ・オブ・オナー (Maids of Honour、侍女)」と名付けられたタルトはヘンリ8世一番のお気に入りで、レシピを宮殿内の金庫にしまって王族だけのものにしたと伝えられている。なお、このレシピを受け継いだロンドンの菓子店が今もメイズ・オブ・オナーを作り続けているらしい。

また、ヘンリ8世はスペインからサツマイモを取り寄せ、砂糖とスパイスをきかせたパイを作らせてよく食べていたと言われている。さらにヘンリ8世は酒も大好きで、酸っぱいワインには砂糖をたくさん入れて飲んでいたらしい。

残された記録からヘンリ8世の1日の摂取カロリーを見積もると、およそ5000キロカロリーになるそうで、これは平均的な成人男性の2倍に相当する。このため、ヘンリ8世は次第に高度の肥状態となり、そのために死亡したと考えられている。

ところで、以前にもお話ししたが、修道院はワインやビールの主要な生産所であり、北国のイギリスではブドウが育たないので、修道院ではビール(エール)が造られていた。ところが、ヘンリ8世の宗教改革の一環として、1530年にカトリックの修道院がすべて廃止されてしまい、修道院のビール造りはストップする。

代わりに人々は自宅でビールを造るようになった。このビール造りを取り仕切ったのは女性で、ビールをうまく造れない娘は嫁のもらい手がなかったらしい。また、お嫁に行くときにはビール造りの鍋を持たせるのが慣わしになったという。

さらに、ビール造りがとてもうまい女性は酒場の女主人に抜擢されることがあったそうで、ヘンリ8世の宗教改革は女性の自立を促したという面もあったのかもしれない。

カルヴァンの宗教改革と質素な食事-戦争と宗教改革と食の革命(4)

2021-06-11 22:37:45 | 第四章 近世の食の革命
カルヴァンの宗教改革と質素な食事-戦争と宗教改革と食の革命(4)
宗教改革の指導者としてルターと並び称されるのがカルヴァンです。カルヴァンの教えはルターの教えよりも厳格と言われています。

ルターの教えは主にドイツ北部とデンマーク、スウェーデン、ノルウェーなどの北欧諸国に広まりました。一方のカルヴァンの教えは主にオランダ(ネーデルラント)とイギリス(イングランドとスコットランド)、そしてフランスに広まりました。なお、フランスではその後カトリックが再び主流になります。

また、スペインやポルトガル、イタリアなどのそれ以外の西ヨーロッパの国々はカトリックのままであり、東ヨーロッパではギリシア正教が信仰されました。

このようなキリスト教の宗派の違いは人々の日々の食事にも影響を与え、それは現代でも残っています。

今回はカルヴァンの宗教改革によって変化した社会と日々の食事について見て行きます。


カルヴァン
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ジャン・カルヴァン(1509~1564年)は北フランスに生まれ、大学で神学、哲学、法律を学んだ。そして1533年頃に神秘的な体験をし、プロテスタントとして活動するようになったと言われている。

しかし、フランスでは次第にプロテスタントに対する弾圧が厳しくなったため、カルヴァンはスイスのバーゼルに亡命した。そして1536年にバーゼルで聖書の手引書である『キリスト教の綱要』を出版し、広く世にその名が知られるようになる。

カルヴァンもルターと同じように聖書を中心とした信仰を説いた。それに加えてカルヴァンの教えの特徴とされているのが「予定説」と言われるものだ。これは、「神によって誰が救われるかはあらかじめ(予)決まっている(定)」という考え方だ。そして聖書は救われる人のためのものと教えた。

つまり、予定説では善行を積んでも悪行三昧でも、その人の運命は変わらないとされる。これは一見救いの無い教えにも思えるが、当時の人々の受け取り方は違ったようだ。「救われる人は正しい行いをするように定められており、そのような行いをしている自分こそが救済される選ばれた人なのだ」と考えたのだ。そして、「自分の仕事は神に与えられたものであり、一生懸命働けば必ず成功するはずだ」と強く信じたのである。

カルヴァンが蓄財をすすめたこともあり、人々は仕事に励み貯蓄を増やすことで自身の信仰を証明しようと考えるようになった。こうした考えは金儲けをなりわいとする商工業者に喜んで受け入れられ、広まって行った。

ドイツのマックス・ヴェーバー(1864~1920年)は20世紀の初めに、カルヴァンの予定説が資本主義を発展させたという説を唱えた。実際に、カルヴァンの教えが広まったイギリスやオランダでは商工業が発展し、両国は世界経済の中心となって行った。一方、最終的にカルヴァンの教えを排除したフランスでは商工業が停滞し、経済面で両国に水をあけられることになる。

さて、貯蓄を増やすには稼ぎを多くして消費を抑えるのが一番だ。カルヴァンが清貧な生活を送ることを教義としたことからも、カルヴァンの教えを信仰した人々の食事は質素なものになった。

この影響は現代のイギリスやオランダでも残っており、例えばイギリスでは誕生パーティーなどに招待されても、いわゆる「ごちそう」のようなものはあまり出てこない。また、オランダでは朝食と昼食はサンドウィッチで、夕食は肉や魚の料理が一品にジャガイモやパスタなどの炭水化物の料理が一品というのがスタンダードらしい。

日本は1641年から1859年まで長崎の出島を通してオランダと交易を行っており、両国の関係はかなり深いと言える。しかし、オランダから日本に入ってきた食べ物と言われても、何も思いつかないのではないだろうか。これは、カステラや金平糖、てんぷらなどがポルトガルから日本に持ち込まれて定着したのとは好対照だ。オランダの食べ物が質素だったため、日本人の食指を動かすことが無かったのだろう。

カルヴァンは1541年にジュネーブに招かれ、やがて宗教組織と統治組織が一体化した「神権政治」を行うようになった。カルヴァンは非常に厳格で、住民に清貧な生活を強要し、飲酒や賭博などは厳禁だった。違反者がいないか常に取り締まりを行っていて、もし見つかれば処刑されることもあったという。

また、自分の考えと異なる者には容赦せず、徹底的な弾圧を加えたと伝えられている。もっとも有名な例が、神学者ミゲル・セルヴェが生きながらに火刑に処された話だ。彼は三位一体説を否定するなど独自の考えを持った異端者とされていた。セルヴェはカルヴァンとも書簡のやり取りをしていたが、その中でカルヴァンの『キリスト教綱要』を批判したことからカルヴァンの憎悪の対象となった。そしてセルヴェはジュネーブに立ち寄った際に捕まえられ、できるだけ苦しませるために弱い火で長い時間かけて火あぶりにされたと言われている。ちなみに、当時のジュネーブの法律では旅行者を死刑にすることはできなかったらしい。何とも恐ろしい話である。

なお、カルヴァンの信者はフランスではユグノー、オランダではヘーゼン(ゴイセン)、イングランドではピューリタン(清教徒)、コットランドではプレスビテリアン(長老派)と呼ばれた。

ルターの宗教改革と食の変化-戦争と宗教改革と食の革命(3)

2021-06-09 17:01:06 | 第四章 近世の食の革命
ルターの宗教改革と食の変化-戦争と宗教改革と食の革命(3)
宗教では特定の食べ物を食べることが禁じられていることがあります。例えば、日本の仏教では葬式などで肉食をひかえるなど、動物性の食べ物を口にすることが禁じられており、昔のお坊さんは日常生活でも肉を食べることはできませんでした。

また、イスラム教やユダヤ教では豚肉など特定の食品を食べることが禁じられています。

現代のキリスト教では聖職者を除いて食の制限はほとんどありませんが、中世には断食日に肉を食べることが禁じられていました。この断食日は1年間に93日もあり、特に復活祭の前の46日間は四旬節と言って、肉に加えて乳製品や卵なども禁止されていました。

このようなキリスト教の食の戒律を大きく変えるきっかけとなったのが、ルターが始めたとされる「宗教改革」です。

今回は宗教改革とそれにともなう食の変化を見て行きます。


                 ルター
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宗教改革は、ドイツにおいてローマ教皇の名の下で贖宥状(しょくゆうじょう、免罪符ともいう)が発売されていることに疑問を持ったマルティン・ルター(1483~1546年)が、1517年に『95か条の論題』という質問状をドイツ・ザクセン地方の教会の扉に貼り付けたことをきっかけに始まったとされている。

ルターは修道士であると同時に大学の神学教授で、キリスト教の専門家だった。質問状は贖宥状を販売していたドミニコ修道会に対してキリスト教の教義について論争をもちかけたものだった。

実は贖宥状は十字軍遠征の時から何度も出されてきた。十字軍の時は、戦争で人を殺しても贖宥状を手に入れればその罪が赦されるとされた。しかし今回は、贖宥状によって「あらゆる罪」が赦されて誰でも天国に行けるという点がキリスト教の教義と異なっているとルターは考えたのだ。

ルターは純粋に神学論争をしたかっただけのようだが、ラテン語で書かれた質問状は知らないうちにドイツ語に翻訳され、印刷されて瞬く間に世の中に広まってしまう。

この背景にはローマ教皇やカトリック教会に対する民衆や領主の不満があった。当時のドイツ(神聖ローマ帝国)はたくさんの領邦の寄せ集めであり、各領主の力は小さく、また司教が治める領地も多かった。このためドイツは「ローマの牝牛(めうし)」と呼ばれたように、乳を搾り取られるようにローマ教皇らによって金を吸い上げられていたのだ。ルターの質問状はくすぶっていた人々の反発心に火をつけたのである。

なお、この時贖宥状を出したのはフィレンツェのメディチ家出身の教皇レオ10世(在位:1513~1521年)だ。彼は豪奢な生活を送るため、そしてサン・ピエトロ大聖堂の大改修を行うために莫大な借金をしており、贖宥状はその返済のためだった。

『95か条の論題』によって一躍有名人となったルターは、もともとローマ教皇やカトリック教会などの権威に対して批判的であり、「神」と「聖書」を中心とした信仰に生きるべきだと考えていた。

騒ぎが大きくなりつつあることを見てローマ教皇側はルターを説得しようとしたが、彼は一切妥協せず、1520年にはカトリック教会の権威や慣習を否定する文書を次々と発表し始めた。それに対してローマ教皇はルターを破門処分とする。さらに神聖ローマ帝国皇帝のカール5世によって帝国からの追放処分が言い渡された。

それでもルターには多くの賛同者がいた。その内の一人、ザクセン選帝侯フリードリヒ3世によってルターは保護される。フリードリヒ3世は帝国の有力者の一人であり、その頃の帝国はフランスとの戦争を続けていたことから、この件については深く追及されなかったようだ。そしてその結果、ルターの宗教改革はさらに勢いを増して行くことになる。

ルターは、聖書中心の信仰を広めるためには母国語で書かれた聖書が必要不可欠と考え、それまでのラテン語の聖書をドイツ語に翻訳した。こうして1532年頃に出版された『ルター聖書』によって、人々が聖書の内容をよく理解するようになった。

ちなみに、聖書がドイツ語に翻訳されたのはこれが初めてではない。隣国のスイスにもルターの始めた宗教改革の波が到来したのだが、その改革に賛同した人々によって1529年頃に『チューリッヒ聖書』と呼ばれるドイツ語の聖書が出版されている。

なお、この出版に関わった人たちは1522年のカトリックの断食日に集まり、大勢の人々の前で「肉を食べる」パフォーマンスを繰り広げたという逸話が残っている。断食は聖書に記載が無く、教会によって定められた慣習であったため、これを破ることが宗教改革の格好のデモンストレーションだったのである。

ちょうどこの頃にヨーロッパでよく利用されるようになったものに「バター」がある。古代ローマではバターは貧しい人が食べるものとされていたが、ゲルマン民族はバターを食べていたことから徐々にヨーロッパに定着してきていた。しかし、カトリックでは四旬節にバターなどの乳製品を食べることが禁じられていたため、広く食べられるまでには至っていなかった(ただし、贖宥状を買うことができた金持ちは、一年中バターを食べていたという)。

宗教改革によって食のタブーから解放された人々は、バターを好んで食べるようになった。特にオリーブを生産できない北部の地域でバターは急速に広まって行った。また、カトリックでも人々の要望を受けて四旬節にバターを食べても良いことになった。こうして17世紀には、肉や魚料理にバターがよく使用されるようになるのだ。

カトリックでも宗教改革の影響を受けて、断食日の食の制限もバターのように次第に緩やかになって行った。

食のタブー以外にも、宗教改革によって聖職者の婚姻の禁止も解消された。カトリックの聖職者には婚姻は認められていなかったが(愛人を持つ聖職者も少なからずいたらしいが)、宗教改革によって妻帯も可能になったのだ。1525年にはルター自身も元修道女のカタリーナ・フォン・ボラと結婚し、彼女との間に3男3女をもうけている。

さらにルターは、独自の宗派である「ルター派(ルーテル派)」を立ち上げた。すると、多くのドイツ人がルター派に属するようになったが、依然としてカトリックに属する人たちも多かった。つまり、ドイツがカトリックとルター派によって二分されたのだ。

これに対して皇帝カール5世は、ルター派をいったん認めた後にこれを撤回したため紛争が起こってしまう。この時にルター派の諸侯がカール5世に抗議したことから、新しい宗派のことを、抗議する人の意味の「プロテスタント」と呼ぶようになった。

やがて1555年に、カール5世が諸侯の信仰の自由を認めたため、プロテスタントは公認されることとなった。ただし、民衆は領主の宗派に従う必要があったため、民間レベルの争いは続くことになった。民衆も含めて信仰の自由が認められるまでには1648年まで待たなければならなかったのである。