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食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

英蘭戦争とアメリカ植民地-イギリス・オランダの躍進(7)

2021-07-04 14:06:02 | 第四章 近世の食の革命
英蘭戦争とアメリカ植民地-イギリス・オランダの躍進(7)
今回は17世紀の後半にイギリスオランダの間で起こった英蘭戦争と、同時に進行していたアメリカ大陸のイギリス植民地の開発について見て行きます。

この戦争まで海上貿易についてはオランダがイギリスを圧倒していました。オランダは商人が作った国であり、また、造船に関しても当時のヨーロッパで随一の技術力を誇っていました。すなわち、オランダにとって海上貿易は、自分たちの能力を十分に発揮できる場だったのです。

一方、イギリスは国内の生産力も高くなく、まだまだ小国であったため、海外進出を成功させるしか生き残る術はありませんでした。そして、そのためにはライバル国であったオランダに打ち勝つ必要があったのです。

こうして英蘭戦争が始まって行くのですが、イギリスの目論見は成功したのでしょうか。

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海上貿易でオランダの後塵を拝していたイギリスは、それに対抗するために1651年に「航海法」という法律を制定した。航海法とは、イギリス本国やイギリス植民地で貿易を行うのはイギリス船だけにするという法律だ。

クロムウェルはこの法律によって、多数の船を使って海運業を行っていたオランダに打撃を与えるとともに、自国の海運業を発展させようとしたのだ。実際に、航海法が制定されるとイギリス船籍の船は増えて行き、100年後には10倍以上になったと言われている。ちなみに、18世紀のイギリスの経済学者アダム・スミスは、航海法を「過去の最も賢明な政策」と高く評価している。

1652年にイギリスが航海法に基づいてオランダ商船を取り締まろうとしたところオランダ側が拒否したため、ドーバー海峡で護衛艦同士の戦いが発生した。これが英蘭戦争の始まりである。この時は開戦準備を整えていたイギリス側が勝利した。

1658年にクロムウェルが死去すると、処刑されたチャールズ1世の子のチャールズ2世(在位:1660~1685年)が即位し、王政が復活した(王政復古)。チャールズ2世は航海法を維持し、さらに北アメリカのオランダ植民地に軍を派遣し、中心地だったニューアムステルダムを占領させた。これが後のニューヨークとなる。

これに対してオランダ側が1665年に宣戦布告し、第二次英蘭戦争が始まった。今回は十分に準備をしていたオランダが優位に立った。そして、オランダ史上最高の英雄と言われる海軍司令官デ・ロイテルの活躍などによってオランダが勝利する。デ・ロイテルは指揮する艦隊でイギリスのテムズ川をさかのぼり、多数の戦艦を焼き払うとともに、イギリス旗艦ロイヤル・チャールズ号を奪うなどの大戦果を挙げた。


     デ・ロイテル

講和条約では、北アメリカのオランダ植民地をそのままイギリスに譲る代わりに、オランダは南アメリカのイギリス植民地スリナムを得た。スリナムの方が温暖で農作物の生産性が高く、また金がとれることも期待されていたため、オランダ側に有利な条約だった。

ここで、少しイギリスのアメリカ植民地について見ておこう。

北アメリカにおけるイギリスの最初の永続的な植民地となったのが、大西洋岸の中南部バージニア州のジェームズタウンだ。1607年に105名の植民団によって設立された町である。なお、バージニアは一生の間結婚しなかった処女(バージン)王のエリザベス1世にちなんで名付けられ、ジェームズタウンは当時のイングランド国王ジェームズ1世にちなんで命名された。

また、1620年にはイングランド国教会から弾圧を受けたピューリタン(清教徒)102名が、メイフラワー号でイギリスを逃れて北アメリカ北東部に渡り、現在のマサチューセッツ州にプリマスを建設した。なお、ピューリタンたちはバージニアに行きたかったのだが、メイフラワー号に積んでいた飲料水代わりのビール(エール)が尽きたため、仕方なく寒いプリマスに上陸したと言われている。

ジェームズタウンの人々もプリマスの人々も農作業や漁業などをしたことが無く、食料不足や壊血病などのため死者が続出した。その様子を見た現地のネイティブアメリカン(インディアン)が食料を分けてくれたり、トウモロコシの育て方などを教えてくれたりして、何とか全滅を免れたとされている。しかし、その後は武力によってネイティブアメリカンを制圧して行った。

その後の17世紀中に、北米の西海岸では次々とイギリスの植民地が作られて行くことになる。そして、1674年に第二次英蘭戦争の講和によってニューアムステルダム(ニューヨーク)を中心とするオランダ植民地もイギリス植民地となった。



一方、カリブ海でイギリスは1625年にバルバドスを、1647年にバハマを植民地とした。さらに1655年にクロムウェルは、スペインが支配していたジャマイカに軍隊を派遣して占領した。これらの島々ではアフリカから運ばれてくる黒人奴隷を使った砂糖のプランテーションが開始され、大量の砂糖がイギリス本国に運ばれるようになる。

それでは、英蘭戦争の続きを見て行こう。

イギリス国王チャールズ2世は即位する前はフランスに亡命していたが、実はその時に密かにカトリックに改宗していたのだ。そしてイギリス国王として即位後は、次第にカトリック勢力に肩入れするようになり、さらにフランスと密約を結んでイギリスをカトリック国に戻すとともにプロテスタント国のオランダを占領しようとした。そうして1672年にイギリスにフランスとその同盟国のスェーデンを交えた第三次英蘭戦争が起こる。

フランス軍は内陸側からオランダ国内に侵攻し、イギリス軍は海側からオランダに上陸しようとした。オランダはフランス軍に対して水攻めで対抗し、イギリス軍に対してはまたもデ・ロイテルの活躍によってこれを打ち破った。

一方、イングランド国教会を守りたいイギリス議会はチャールズ2世に迫り、1674年にオランダと講和した。さらに、1677年にチャールズ2世の弟の娘であるメアリーをオランダの指導者のウィレム3世の妻として送り出した。こうしてイギリスとオランダの関係が深まった結果、不利を悟ったフランスはオランダとの講和に応じたことにより戦争は終了した。

1685年にチャールズ2世が死去すると、弟のジェームズ2世(在位:1685~1688年)が即位した。ところが、ジェームズ2世は兄のチャールズ2世以上にカトリック勢力を優遇し、イングランド国教会の勢力を排除するようになった。

危機感を覚えたイギリス議会はオランダのウィレム3世と妻のメアリー(チャールズ2世の娘)と結び、オランダ軍をイギリスに上陸させた。これを見てチャールズ2世はフランスに亡命し、その代わりにウィレム3世と妻のメアリーがイングランド王に即位してウィリアム3世(在位:1689~1702年)とメアリー2世(在位:1689~1694年)となり、イギリス(イングランド・スコットランド・アイルランド)の共同統治を行った。これを名誉革命と呼ぶ。

なお、この時に「権利の章典」が制定され、議会の権利の強化とカトリック教徒は国王になれないことなどが定められた。これは現代でもイギリスの根本的な法典とされている。

こうしてイギリスとオランダの争いはひとまず収まった。なお、ウィリアム3世の死後はメアリーの妹のアンがイギリス女王(在位:1702~1707年)となった。

ジェントルマンとイギリス料理-イギリス・オランダの躍進(6)

2021-07-01 17:36:37 | 第四章 近世の食の革命
ジェントルマンとイギリス料理-イギリス・オランダの躍進(6)
ジェントルマン(gentleman)」は日本語では通常「紳士」と訳されますが、イギリス史におけるジェントルマンは、簡単に日本語訳ができないほど深い意味を持つ言葉で、また時代とともにその意味も変わって行きます。

近世以降のイギリスはこのジェントルマンが社会の中心となって発展して行きます。例えば、イギリスの近代化にはジェントルマンが担った金融やサービス業などの発展が重要であると考えられており、これを「ジェントルマン資本主義」と言います。

今回は、ジェントルマンの誕生と「イギリス料理が不味い」と言われる理由について見て行きます。

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イギリス(イングランド)がフランスと戦った百年戦争(1339~1453年)や、イングランドの王位継承権を持つ者同士が争ったバラ戦争(1455~1485年)によって、戦争に参加した封建貴族の多くが戦争にともなう出費などによって疲弊し、没落した。

没落貴族に代わって地主となったのが、「ジェントリ(gentry)」と呼ばれた騎士や商人、そして豪農などだ。ジェントリの多くは、イギリスがノルマン人によって支配される以前に各地域を治めていた有力者たちであった。このため、地域の代表としての自覚があり、治安維持や徴税などの役務を無給で行ったり、道路の整備や公共施設の建設などの慈善事業を行ったりした。

このようにジェントリは、自らの利益だけを追求するのではなく、地域の「親分」として庶民を見守る存在だった。さらに、日頃から体力とともに知性や芸術性を高めることで、誰からも尊敬されるような人物になろうとした。そして、これをジェントリのあるべき姿として自らの行動を律することを誇りとしていた。

一方、国王側もジェントリを国の組織に取り込むことで、国内を安定化させて統治できると考えた。そこで、ジェントリを下院議員や地方官僚、判事などの役職に就かせたのである。

ジェントリはプロテスタントに改宗した者が多く、ヘンリ8世(在位:1509~1547年)が離婚問題からローマ・カトリックを脱してイングランド国教会を設立した時も国王を支持した。ヘンリ8世の方も、宗教改革の一環として修道院の解散を行った際に、その土地を貴族やジェントリなどに優先的に払い下げた。その結果、ジェントリはさらに勢力を拡大することになるのである。

なお、この時には一部の商人にも土地が払い下げられたが、彼らも新たなジェントリとして迎え入れられることになった。このようにイギリスでは、ビジネスで成功した者が土地を手に入れることでジェントリになるという図式が定着して行った。成功者をジェントリとして取り込むという点でイギリスの上流階級は開放的であり、これによって支配階級の活力が保たれたと言われている。

ヘンリ8世の死後、イングランドは一時的にカトリックに戻ったが、エリザベス1世の代にはジェントリを味方につけることでイングランド国教会が復活し、定着した。

エリザベス1世には子供がいなかったので、彼女の死後には次のイングランド王として遠縁でスコットランド王のジェームズ6世(在位:1603~1625年)が即位した。ジェームズ6世は、王位は神から与えられた神聖なものという王権神授説を信奉しており、議会を無視するなど専制的な行いを繰り返した。特に、イングランド国教会以外のプロテスタント(ピューリタン(清教徒)と呼ばれた)を認めなかったため、ジェントリの反発を招いた。

息子のチャールズ1世(1625~1649年)も専制的な政治を行い、プロテスタントを徹底的に弾圧した。そして、議会と激しく対立した結果、双方が軍隊を立てて戦う内戦となってしまった。議会派の中心がジェントリ出身のピューリタンであったため、この内戦はピューリタン革命(清教徒革命)(1642~1649年)と呼ばれる。

最初は国王派(王党派)が優勢だったが、議会派の中心人物だったオリバー・クロムウェル(1599~1658年)の活躍によって巻き返しをはかり、最終的に議会派が勝利した。敗れたチャールズ1世はロンドンの広場で公開処刑された。なお、クロムウェルはジェントリ出身の熱心なピューリタンで、下院議員を務めていた。


オリバー・クロムウェル

権力を握ったクロムウェルはしだいに独裁的となり、反対する勢力をことごとく弾圧し、追放した。1653年には独裁権を持つ護国卿となり、死ぬまで独裁者として君臨した。

クロムウェルの時代には対外的にも大きな出来事がいくつも発生した。その一つがアイルランドの征服と植民地化だ。

イングランドとは異なり、アイルランドにはケルト人の文化が残り、またカトリックの教えが根付いていた。アイルランドはヘンリ8世の代からイングランドによって支配されており、エリザベス1世の代には北アイルランドに多数のイングランド国教会の信者が移住した。その結果、アイルランドでは宗教的な対立が起こるようになる。

1641年にはカトリック教徒を中心に反乱が起き、多くのイングランド国教会の信者が殺された。するとクロムウェルは軍を派遣して、カトリックの弾圧を行うとともに一般住民の大虐殺を行った。また、アイルランド全体の約40%の土地を奪い、軍人に褒賞として与えたり、商人に売り渡したりした。これは事実上の植民地化であり、これ以降イングランドやスコットランドの地主がアイルランドの土地を支配するようになった。アイルランドはイングランドよりも農業や牧畜に適した土地であったため、アイルランドはイングランドに食糧を供給する農場と化してしまったのである。

アイルランドで生産されたコムギ、オオムギ、ライムギなどの穀物のほとんどはイングランドに送られ、アイルランドの人々は主にジャガイモを食べて暮らすようになったという。このことが19世紀の半ばにジャガイモの大凶作によって大勢のアイルランド人が死んだ「ジャガイモ飢饉」を引き起こす原因となった。

一方、1652年からイングランドはオランダと戦争を始める。また、カリブ海への進出を行い、西インド諸島を植民地化して砂糖のプランテーションを開始した(これらについては後に詳しく見て行きます)。

さて、最後に「ジェントルマン」の話をしよう。

17世紀にはジェントルマンという言葉が定着して使われるようになっていた。例えば、クロムウェル自身も「私は生まれながらのジェントルマンである」と言っている。

この時代のジェントルマンとは貴族階級とジェントリを合わせた人たちを意味しており、地代収入によって豊かな生活を送っていたという点で共通していた。そして、婚姻関係はジェントルマンの家族同士でしか結ばれず、貴族とジェントリはほぼ同一の社会階級とみなされたのである。ちなみに、ジェントルマンである貴族とジェントリはともに「家紋」を持つことが許されていた。

このように特権階級であったジェントルマンの階層は、多くてもせいぜい人口の5%程度しかいなかったとされている。しかし彼らが、政治・経済・学問・芸術などの世界で圧倒的な影響力を及ぼしたのだ。

ジェントリの多くがカルヴァン派のプロテスタントであったことから、その生活もカルヴァンの教えに従った質素なものを目指した。私たちはジェントルマンの服装と言えば黒いスーツを思い浮かべることが多いが、その理由は華美な服装をしなかったジェントリの生活スタイルにある。

また、食生活においてもジェントルマンは暴飲暴食を避け、簡単で質素な料理を好んで食べた。イギリス人は牛肉が大好きだが、単に焼いただけのステーキローストビーフとして食べることが多い。肉にかけるソースも、焼いた時ににじみ出してきた肉汁にワインや調味料、小麦粉などを加えて作ったグレイビーソースが基本で、あまり手をかけない。



ジェントルマンがこのように簡素な食事を好んだことから、イギリス料理では食材の種類が少なく、また調理法の多様性も広がらなかった。これが、フランス料理やイタリア料理などと比べて「伝統的なイギリス料理は不味い」と言われる一因となったと考えられている。

コーヒーと東インド会社-イギリス・オランダの躍進(5)

2021-06-27 18:40:22 | 第四章 近世の食の革命
コーヒーと東インド会社-イギリス・オランダの躍進(5)
モカ・コーヒー」という言葉を聞いたことがある人は多いのではないでしょうか。でも、モカ・コーヒーの名前の由来については、よほどのコーヒー好きしか知らないと思います。

モカはアラビア半島の南東部のイエメンにある港町で、15世紀末からコーヒー貿易の拠点となっていました。そして、このモカ港から積み出されたコーヒーのことをモカ・コーヒーと呼んだのです。

東インド会社もモカ港でコーヒーを仕入れてヨーロッパに運びました。そしてこれが世界中にコーヒーを広めるきっかけとなりました。

ちなみに、イギリスの飲み物と言えは「紅茶」を思い浮かべますが、紅茶がイギリスで広く飲まれる以前はコーヒーがたくさん飲まれていました。18世紀の前半には、ロンドンとその周辺部に合わせて8000軒ものコーヒーハウスがあったと言われています。

今回はイギリスとオランダの東インド会社によるコーヒー貿易の様子をたどりながら、コーヒーの伝播の歴史を見て行きます。


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紅海をはさんだモカの対岸にはコーヒー(アラビカ種)の原産地のエチオピアがある。14世紀の終わり頃に、エチオピアからアラビア半島南東部(現在のイエメン)にコーヒーノキの苗木が持ちこまれたと考えられている。そして、エチオピアに加えてイエメンもコーヒーの一大産地になった。



エジプトの記録には、15世紀のイエメンでスーフィー(イスラム神秘主義者)がコーヒーを飲んでいたという記述がある。スーフィーとは、イスラム教の宗派の一つで、神との精神的な一体化を第一とした人たちのことだ。彼らは一晩中神の名を唱え続けるという修行を行うが、この時にコーヒーが眠気を覚ますのに役立っていたようだ。

1517年にオスマン帝国がエジプトやイエメンを支配していたマムルーク朝(1250~1517年)を滅ぼすと、コーヒーを飲む習慣はオスマン帝国に持ち込まれて定着した。そして16世紀の後半になると、首都のイスタンブールでは多くのコーヒーハウスが生まれたと言われている。

オスマン帝国と交易を行っていたヴェネツィアの商人はコーヒーがヨーロッパでも受け入れられると考え、16世紀末からコーヒーの貿易を始めた。同じ頃にオスマン帝国との貿易を開始したイギリスのレヴァント会社もこのコーヒー貿易に参画した。そして、ヴェネツィアとレヴァント会社は協力してコーヒーの貿易を行うようになったのである。

17世紀に入るとイギリスとオランダで東インド会社が設立され、船団が喜望峰を回ってインド洋にやって来るようになった。主な目的地はインドや東南アジアだったが、その途中で補給や船の修理のためにモカの近くに寄港した。ここで東インド会社の人々はモカ港のコーヒーに出会ったと思われる。

香辛料ほどではなかったが、彼らにはコーヒーもとても魅力的な商品に見えたようだ。そこで現地のトルコ商人と交渉を行った結果、コーヒーの貿易を開始することに成功する。これ以降、モカ港から大量のコーヒーが船でヨーロッパに運ばれるようになり、また価格もヴェネツィア・レヴァント会社のコーヒーよりもずっと安くなったことから、ヨーロッパ中にコーヒーが出回るようになった。

このようなコーヒーの安定的な供給の結果、1645年のヴェネツィアでのコーヒーハウスの開店を皮切りに、ヨーロッパの各地でコーヒーハウスが誕生するようになった。例えば、1650年にはロンドンで、1666年にはアムステルダムで最初のコーヒーハウスが開店している。そして、コーヒーハウスは情報交換の場として様々な社会活動の発展に役立ったと考えられている。

例えば、イギリスでコーヒーハウスが誕生したのは、ピューリタン革命(清教徒革命)によって王政が倒れた頃で、コーヒーハウスは社会の中心となっていた市民の情報交換の場となったのだ。コーヒーハウスには新聞雑誌が置かれ、また議論が戦わされることで「世論」が形成されたと言われている。

さらにコーヒーハウスは、店ごとに特定の職業の顧客を扱うように専門化することで、株式会社や保険業を誕生させることになった。例えば、保険業で有名な「ロイズ」の前身もコーヒーハウスだ。ロイズは東インド会社の関係者を専門の顧客とした結果、海上保険を売り買いする場として発展して行ったのだ。

このようにイギリスのコーヒーハウスは、政治・経済・文化・芸術・報道などの発展において極めて重要な役割を果たしたと考えられている。しかし18世紀後半になると、専門化が進んだコーヒーハウスは会員制のクラブとなり、またコーヒーよりも茶が飲まれるようになった結果、イギリスのコーヒーハウスは急速に衰退して行った。

さて、一方のオランダだが、オランダ東インド会社はモカ港からの貿易を行うだけでなく、自前でのコーヒー生産に乗り出した。

コーヒーノキの海外持ち出しはオスマン帝国によって厳しく取り締まられていたが、インド人が密かに苗木を持ち出し、南インドでの栽培に成功していた。オランダ東インド会社は1658年にこの南インドから苗木をセイロン島に持ち込み栽培を開始した。しかし、この栽培は最終的に失敗する。

それでもオランダ東インド会社はあきらめずに、17世紀の終わりにはジャワ島で栽培を始めた。今度の栽培は軌道に乗り、1711年にはジャワ産の最初のコーヒーがオランダのアムステルダム港に到着した。

ジャワでは現地の農民にコーヒー栽培を強制し、買い取り価格も東インド会社が一方的に決定した。その結果、ジャワ・コーヒーはモカ・コーヒーよりも安価になり、オランダ東インド会社がヨーロッパのコーヒー供給を支配するようになる。

コーヒー貿易でもオランダがイギリスに勝利したのである。

イギリスとオランダの戦い-イギリス・オランダの躍進(4)

2021-06-24 18:22:30 | 第四章 近世の食の革命
イギリスとオランダの戦い-イギリス・オランダの躍進(4)
今回はイギリスとオランダの「東インド会社」の続きです。

イギリス(イングランド)とオランダはともに数少ないプロテスタント国で、オランダの独立ではイングランドが支援を行うなど、両国の関係は良好でした。

ところが、両国が東インド会社を設立した後は「昨日の友は今日の敵」という言葉の通り、イングランドとオランダは東南アジアでの香辛料の貿易をめぐって激しく争うようになります。

オランダは経済的に非常に栄えており、たくさんの船を貿易に投入することができました。一方、イングランドはまだまだ貧しく、オランダほどの多くの船を利用することはできませんでした。両国の戦いの結果は火を見るよりも明らかでした。

今回はこのような両国の争いを軸に、当時の香辛料の生産と流通について見て行きます。

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新しく設立されたオランダ東インド会社は1603年12月に最初の船団を出向させた。この12隻の船団の目的は香辛料の貿易ととともに、インド洋沿岸のポルトガルの拠点を攻撃することだった。

オランダ東インド会社の一番の目的地はクローブやナツメグを産出するモルッカ諸島(香辛料諸島)に属するマルク諸島とバンダ諸島だった。この頃はコショウなどのヨーロッパで古くから知られている香辛料については供給が安定していたため、クローブやナツメグなどの高級香辛料に注目が集まっていたのだ。

ここでクローブナツメグについて簡単に説明しておこう。

クローブはチョウジノキという樹木の花蕾(つぼみ)を乾燥させたもので、すがすがしい甘い香りを特徴とする。ウースターソースの香りの多くがクローブのものと言えば、少しは分かってもらえるだろうか。中国の漢時代には皇帝が食事の後に口臭を消すために使っていたと言われている。


クローブ(abuyotamによるPixabayからの画像)

日本では丁子(チョウジ)と呼び、正倉院にも納められていることから、奈良時代には日本に伝わっていたことが分かる。武士は丁子の香りを兜に炊き込めたり、丁子の油で刀剣の手入れをしたり、頭髪剤として使用したりしていたことから、日本人には好まれてきた香りと言える。

一方、当時のヨーロッパでは、クローブの香りはペスト予防に効果があると考えられていた。ペストは悪い空気を吸い込むことで発症すると言う説が広まっており、クローブの香りは悪い空気を清浄にすると信じられたのだ。医者は鳥のくちばしのようなマスクの中にクローブやハーブを入れてペスト患者に接したと言われている。また、オレンジなどの柑橘類にクローブを差し込んだ「ポマンダー」が魔除けとして用いられた。


ポマンダー

一方のナツメグは、ニクズクという樹木の果実の中の種のことだ。種の入った殻は赤色の網目状の皮で覆われているが、これは別の香辛料のメイスになる。ナツメグもメイスも同じように独特の甘い香りとほろ苦さを特徴としていて、肉や野菜の不快臭をマスクするのに効果的だ。このため、ひき肉料理には不可欠の香辛料とされている。なお、メイスの方が香りやほろ苦さがまろやかで色も薄いため、焼き菓子などのデザート類やスープなどで上品さを求める時には主にメイスが使用される。


ナツメグとメイス(Ma_RikaによるPixabayからの画像)

ナツメグやメイスもクローブと同じように、病気の予防に効果があると考えられていた。また、当時のヨーロッパではナツメグよりもメイスの方が人気で、オランダ本国から現地の東インド会社に対して「ナツメグの樹を切って、代わりにメイスを植えるように」という笑い話のような指示が出されたことがあったという。

さて、話を歴史に戻そう。

オランダ人がやってくる前のマルク諸島とバンダ諸島では、ポルトガルやスペインの支配は確立していなかった。ポルトガルは何とか要塞を築いたが、現地では有力なスルタン(イスラムの地域支配者)が勢力を誇っており、また複雑な地形のため少数の船で海域一帯を支配することができなかったのだ。ポルトガルはスルタンに武器やインドで手に入れた綿製品などを渡すことで香辛料を手に入れていた。

東南アジアに進出してきたオランダは1605年にはマルク諸島とバンダ諸島の中間点にあったポルトガルの要塞を奪った。さらに、オランダ東インド会社の拠点としてジャワ島の西部のジャカルタに要塞を築き、街の名をバタヴィアと改称した。実はイギリス東インド会社がジャワ島の王と関係を結んで1602年にジャワ島内に要塞を築いていたのだが、オランダ東インド会社は力づくでイギリスを排除したという。なお、バタヴィアは第二次世界大戦での日本による占領まで、オランダによる植民地支配の中心地となった。

さらにオランダ東インド会社は、バンド諸島においても武力を用いて一帯の島々を支配した。イギリス勢力を追い出すとともに、抵抗する島民を虐殺し、代わりに自分たちの奴隷や使用人を送り込むことでナツメグやメイスの生産を独占しようとしたのだ。

また、クローブの生産地のマルク諸島においても、オランダ以外のヨーロッパ人を追い出そうと画策した。それに抵抗した現地の王を武力で制圧し、さらにポルトガルの一大拠点であったマラッカを1641年に征服した。

こうして17世紀末までにオランダ東インド会社は、マルク諸島とバンダ諸島の香辛料を独占的にヨーロッパに運ぶことに成功する。

このような東南アジアの活動と並行して、オランダ東インド会社はアジア全域に勢力を広げ、各地に商館を築いていった。例えば、日本の長崎の平戸には1609年に幕府の許可を得て商館を建てた。



一方、イギリス東インド会社も1613年に平戸に商館を開設するなど各地に商館を建設していたが、たびたびオランダ船に貿易が妨害されたり船が拿捕されたりしたという。そして1623年には、マルク諸島のアンボン島にあるイギリス商館がオランダ東インド会社に襲われ、商館員が全員処刑されるという事件が起きた。

これを契機にイギリス東インド会社は東アジア方面から撤退し、また、香辛料も安全に手に入る少量のものしか扱わなくなった。その代わりに、インドのムガール帝国などと綿織物の貿易を主に行うようになる。

以上のように、オランダ東インド会社は17世紀中に香辛料貿易と東アジアとの貿易を手中に収めたのである。

東インド会社の誕生-イギリス・オランダの躍進(3)

2021-06-22 22:58:07 | 第四章 近世の食の革命
東インド会社の誕生-イギリス・オランダの躍進(3)
東インド会社」は中学の歴史の授業でも習う重要な項目です。世界史の年表では必ず出てくるようです。

東インド会社は言葉の響き自体は覚えやすいのですが、私は「東インド」で作られた「会社」って何だろうと疑問に思いながら、授業をしっかり聞いていなかったのもあって、十分に理解しないまま大人になりました。

実際、東インド会社はヨーロッパの各国に設立され、国によって内容や歴史も異なるし、時代とともにその様相も変化することから、一まとめにして説明するのは難しいものです。

そこで今回は、17世紀の初めに設立されたイギリスとオランダの東インド会社の誕生の様子を見て行きたいと思います。なお、話を分かりやすくするために、東インド会社が設立される前のポルトガルによる東インドでの貿易から話を始めます。

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1497年7月にポルトガルのリスボンを出港したヴァスコ・ダ・ガマの艦隊は喜望峰を越えて、翌年の5月にインド西部のカリカットの港に到着した。


ヴァスコ・ダ・ガマ

ポルトガル人にとっては初めてのインドだったが、現地の人々にとって外国人は珍しくなかった。と言うのも、インド洋は古くから異なる民族同士が入り混じって商取引を行う交易の海だったからだ。そこでは誰でも航海可能であり、港も金さえ払えば誰でも利用できるという取り決めがあった。そして各地の支配者は商取引に税をかけることで収入を得ていた。

しかし、ガマたちは商人ではなかったため取引できる荷も少なく、現地のルールも知らなかったため人々から不審に思われたらしい。一方のガマたちも敵対していたイスラム教徒の姿を見て、彼らのせいで交渉がうまく進まないと思い込んだという。

やがてガマたちが決まり通りの商取引を行わないことにしびれを切らした役人が、ガマの乗組員を拘束した。それに対してガマも人質を取って対抗し、乗組員を奪還すると追いかけてくる船を銃や大砲で撃退しながら何とかポルトガルに帰還した。

しかし、ガマが持ち帰った香辛料が莫大な富を生み出したため、ポルトガルはインドとの貿易を継続することにする。ガマが持ち帰った情報から、インド洋では銃や大砲などの火砲が威力を発揮することは明らかだった。そこでポルトガルは、武力を用いてインド洋の交易を支配することに決めた。特に香辛料貿易についてはポルトガルによる独占を目指した。

最初の頃はポルトガルの想定通りに物事は進んだ。ポルトガル船はインド洋沿岸の主要な港を攻撃し、1515年頃までに次々と支配下に置いて行ったのだ。港にはポルトガルの要塞が築かれ、ポルトガル人が駐留するようになった。そして、カルタスと呼ばれる船の通行証を発行し、安全を保障する代わりに取引のたびに要塞で税を支払うように命じた。一方、カルタスを持っていない船からは物資をすべて没収したという。

さらにポルトガル人はインドより東に進み、マレー半島を越えて東南アジア方面に進出した。そして、クローブが採れるマルク諸島や、ナツメグが採れるバンダ諸島を見つけた。



また、南シナ海や東シナ海にも船を向け、中国(明)沿岸や琉球王国、日本、朝鮮半島までたどり着いた。ちなみに日本への上陸は、1541年に現在の大分県に漂着したのが最初と言われている。そして1543年に種子島へポルトガル商人が漂着し、鉄砲が伝えられた。

さて、ここで「東インド」について説明しておこう。大航海時代の東インドとは、喜望峰を回って東に進んだところにある海岸地帯全体のことを指していた。このため、東アフリカも東インドに入るし、インド洋沿岸はもちろん、中国も日本もアメリカ大陸の西海岸も東インドとみなされていた。

一方、西インドとは、ヨーロッパから西に向かったときに出会う大陸であるアメリカ大陸の東海岸のすべてのことを指す。南北アメリカにはさまれたカリブ海の群島を「西インド諸島(West Indies)」と呼ぶのはこのためだ。
話をポルトガルのインド洋支配に戻そう。

ポルトガルは大きな国ではない。このため、インド洋を支配するために大量の船や人を送り込むことは難しい。また、要塞を維持するための資材もポルトガル本国から送るしかない。その結果、ポルトガルのインド洋支配に穴が生まれたのだ。つまり、ポルトガルの監視の目を逃れて香辛料がヨーロッパに運ばれるルートが出現したのである。

それは、ペルシア湾や紅海の港から陸路を通ってオスマン帝国に入り、そこからさらに地中海に至る経路だ。こうして16世紀半ばになると、ポルトガルが船で運んできた香辛料も、陸路を通って地中海に入ってきた香辛料も値段は変わらなくなったという。

1581年にはイングランドがオスマン帝国と貿易を行う「レヴァント会社」を設立し、香辛料などを購入する一方で、自国の毛織物を販売することで利益を上げるようになった。このレヴァント会社がのちの「イギリス東インド会社」の前身となる。

一方のオランダ(ネーデルラント)は、スペインから独立するために長く戦っていた。オランダは貿易で栄えていたが、カトリック国のスペインと敵対したことから、ポルトガルが運んでくる香辛料の取引には参加できなくなった。そこで彼らが考えたことが、「自分たちでインドに行ってみよう」だった。こうして1595年4月に4隻の船がオランダのアムステルダムを出港した。

苦難の末、翌年の夏にオランダ人たちはインドネシアのジャワ島に到達した。そこで香辛料などを購入し、オランダには1597年8月に帰還する。乗組員は約三分の一まで減っていたが、この航海によって東インドとの貿易が可能であることが実証されたのである。

その後は船団が次々とオランダを出発し、東インドから香辛料などを持ち帰った。このような動きに対してポルトガルは何もできなかった。1580年にスペインに併合されたポルトガルには、オランダをはねのける力は無かったのである。

このようなオランダの成功を見て、イギリスのレヴァント会社の幹部たちは自分たちも東インドに船を送ることにした。やり方としては、新しい会社を設立し、一回の航海のたびに出資者を募って、集めた金で船と乗組員や物資を準備して航海を行い、持ち帰った物品を売って得た利益を出資額に応じて分配するものだった。この新しい会社が「イギリス東インド会社」である。

東インド会社は、1601年に東インドとの貿易を独占する特許をエリザベス1世から交付された。そして同じ年の3月に、4隻の船が東インドに向けて旅立った。船団は東南アジアで香辛料を手に入れ、1603年9月に無事に帰国した。これを皮切りに、イギリスも東インドとの貿易を本格化させたのである。

一方、先んじていたオランダには一つの悩みがあった。オランダでは複数の会社がそれぞれ独自に船団を東インドに派遣して貿易を行っており、会社同士の競争が激しくなっていたのだ。このまま競争を続けると共倒れになる可能性があったため、政府が主導して1つの会社にまとめ上げた。これが「オランダ東インド会社」だ。

1602年に設立されたオランダ東インド会社には、政府から特権が与えられた。すなわち、東インドとの独占的な貿易を行う権利に加えて、オランダの名のもとに要塞を建設する権利、総督を任命する権利、軍隊を組織する権利、そして現地の政府と条約を結ぶ権利である。

オランダには武力でもってポルトガルを追い出し、自分たちの海洋帝国を作る野望があった。それを任されたのがオランダ東インド会社だったのだ。  (つづく)