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予測が世界をつくりだす――アンディ・クラーク『経験する機械』訳者あとがき・ためし読み/高橋 洋

現実はわたしたちの外側にただ在るのではない。心は外界を受け取るだけの装置ではない。人間の能動的な予測によって、世界は絶えず構成されている――。心と身体、世界はどうつながっているのか。「拡張された心」「生まれながらのサイボーグ」など、これまでユニークな理論で認知科学・心の哲学を切り拓いてきた第一人者アンディ・クラークの最新刊『経験する機械――心はいかにして現実を予測し構成するか』より、「訳者あとがき」を公開します。

アンディ・クラーク『経験する機械』

 本書はThe Experience Machine: How Our Minds Predict and Shape Reality(Pantheon Books, 2023)の全訳である。著者のアンディ・クラークはイギリスのサセックス大学とオーストラリアのマッコーリー大学で教鞭を執る認知哲学者である。本書にも書かれているとおり、1990年代には、当時クラークが勤務していたワシントン大学(セントルイス)に、その後世界的に著名な哲学者になるデイヴィッド・チャーマーズをポスドク生として引き入れ、「拡張された心」と題する著名な論文を共同で執筆したこともある。その論文に含まれ、本書でも第6章「生身の脳を超えて」で紹介されているオットーとインガの思考実験はよく知られており、認知科学や脳科学の他の本でも見かけることがある。

 なお既存の邦訳には、『認知の微視的構造――哲学、認知科学、PDPモデル』(野家伸也、佐藤英明訳、産業図書、1997年)、『生まれながらのサイボーグ――心・テクノロジー・知能の未来』(呉羽真、久木田水生、西尾香苗訳、春秋社、2015年)、『現れる存在――脳と身体と世界の再統合』(池上高志、森本元太郎訳、ハヤカワ文庫NF、2022年)がある。なおクラークの前著はSurfing Uncertainty: Prediction, Action, and the Embodied Mind(Oxford University Press, 2016)だが、現時点で邦訳は存在しない。前著は本書と同様、予測処理理論を扱っているが、明らかに一般読者向けに書かれている本書に比べて専門的な記述が多く、はるかに難解だという印象を受けた。したがってまず本書を読んで予測処理理論に興味を持った読者は、英語を苦にしなければ、次に前著を読んでみるとよいかもしれない。

 次に全体的な概要を説明しよう。最初に明確にしておくと、本書のタイトルにある「経験する機械」とは、「予測する脳」を意味する。本書の構成をおおまかに言えば、まず予測処理理論の理論的な側面をわかりやすく解説し(第1章)、その知見をもとに既存のいかなる現象を説明でき(第2~4章)、それを今後どのように実践的に応用できるか(第5~7章)が検討される。したがって理論的な側面はほぼ第1章にまとめて記述されており、残りの章は実践面を主体に記述されている。しかも理論的な側面を解説する第1章も、具体例が豊富で非常にわかりやすい。最近の脳科学や認知科学の本では、予測処理理論に言及されることが多くなっているので、そのタイプの本を普段よく読んでいる読者には馴染みの理論ではあろうが、まだよく知らない人のためにこの理論の目的を、著者の言葉を借りてここに簡単に記しておく。「はじめに」に次のようにある。

この見方〔予測処理理論〕は、知覚に対する従来の考え方に疑義を呈する。経験は感覚情報の入力から始まると一般に考えられがちだが、発展途上の予測する脳の科学は、それとは異なる見方を提起する。それによれば、感覚シグナルはすでに生じている情報に基づく推測(予測の試み)を洗練し修正するために用いられる。つまり、もっとも重要な仕事の多くは、予測処理が請け負うのだ。この新たな見方に基づけば、世界や自己や自分の身体に関する経験は、単なる外的な事実や内的な事実の反映などではなく、人間のあらゆる経験は情報に基づく予測と感覚刺激が合流する場所で生じると考えられる。

『経験する機械』15頁

 重要な指摘をしておくと、予測処理理論では、知覚や認知のみならず行動が統合的に捉えられており、行動を介して外界を変え、変化した外界から刺激を入力し、それに基づいて知覚、予測、認知を是正するという循環ループが重視されている。これは予測処理理論が単なる認知科学の一理論ではなく、知覚、認知、行動、環境、情動を統合的に捉える総合理論であることを意味する。

 次に、各章の内容を簡潔に紹介しておく。

第1章 予測する機械を解剖する
 本章ではおもに理論面が解説され、人間の脳が予測する機械であることが論じられる。つまり、人間の経験は、予測や予想、ならびに予測エラーの是正によって刻一刻と先見的に構造化されているという点を見ていく。実際には非常に錯綜した概念である「予測する脳」が、一般読者にも難なく理解できるよう解説されている。なお前述のとおり、前著ではこのメカニズムがもっと詳細に論じられている。

第2章 精神医学と神経学をつなぐ
 「精神医学」とは「心」を、また「神経学」とは「脳(身体)」を意味する。元来、心を扱う精神医学と、脳や神経系を扱う神経学は切り離して捉えられていた。しかし、予測する脳という観点からすると、これら二つは緊密に統合されていると見なせる。そしてその事実は、「精神医学と神経学の領域の境界付近に位置する、とりわけ啓発的な症例は、機能性障害と呼ばれる障害に関するものだ」(68頁)とあるように、生物学的な原因が認められないにもかかわらず、何らかの心の問題が発症する機能性障害によって逆説的に浮き彫りにされる。また同じことは慢性疼痛、自閉スペクトラム症、統合失調症、サイコシス、心的外傷後ストレス障害などによってもはっきりとわかり、これらの障害がいかに発症するのかが予測処理理論によって説明される。

第3章 自己充足的予測としての行動
 第2章までは、「心(感覚、認知、情動など)」と「脳(身体)」の相互作用が検討されていたが、第3章ではそれに「行動」が加えられ、人間は予測エラーを是正するべく行動することが説明される。著者によれば、「知覚と行動はいわばつねに協調し合っており、行動は、さらなる知覚をもたらす動作を始動する知覚を引き起こす」(111~112頁)。なお非常に重要なので、行動についてはあとでもう一度述べる。

第4章 身体を予測する
 予測は、外界から入ってくる感覚情報のみを対象に行なわれるのではない。身体内で生じる感覚、つまり体性感覚を対象にしてもなされる。本章は、リサ・フェルドマン・バレット著『情動はこうしてつくられる――脳の隠れた働きと構成主義的情動理論』(拙訳、紀伊國屋書店、2019年)で提起されている「身体予算」の概念をもとに立論されている。またあとで述べるように、「身体予算」の概念をもとに、情動が予測する脳に関与していることが論じられる。

間奏 ハードプロブレム――予測者を予測する?
 デイヴィッド・チャーマーズが提起した哲学的議論「ハードプロブレム」、つまり「クオリア」に関する問題が、予測する脳の観点から論じられている。前述のとおり、チャーマーズは本書の著者クラークに師事し、共著論文を発表したこともある。

第5章 よりよい予想
 予測処理には負の側面もある。というのも、「予測によって経験が構築される限り、そこにはバイアスが含まれざるを得ないからだ」(172頁)。本章では、予測に必然的にともなわれるバイアスに対処するための方法が論じられる。その方法として、没入感のあるバーチャル・リアリティ(VR)、フィクション作品の読書、バイオフィードバック訓練などが取り上げられている。

第6章 生身の脳を超えて
 ここまでの章で論じられてきたように、予測処理は単に脳内に限定されるメカニズムではなく、行動を介して脳と外界(環境)と内界(身体)が統合される総体的な循環ループのなかで実行される。このような考えに基づいて、本章ではクラークとチャーマーズが一九九〇年代に発表した著名な論文で提唱した「拡張された心」という概念が論じられる。この理論に従えば、たとえば「予測する脳は、必要な情報が自分自身の心の状態や構造として蓄積されているのか、それともノート、アプリ、GPSシステムなどの外部の資源に蓄積されているのかを問わない」(195頁)と見なされる。

第7章 予測する機械をハッキングする
 本章では、脳すなわち予測する機械が持つ性質を、健康の維持や疾病、とりわけうつや不安障害などの心の病の治療にいかに利用できるのかが、実例とともに解説されている。具体例として「正直なプラシーボ」、話し合い療法(トークセラピー)、自己暗示、瞑想、向精神薬の利用、儀式などがあげられている。
 次に、クラークの予測処理理論の特徴について、訳者の個人的な見解を交えて見ていこう。

①予測処理理論は知覚や認知と行動を統合する
 予測処理と聞くと、何かを予測するだけの受動的な処理にすぎないように響くかもしれない。だがそうではない。そこには行動という能動的な要素が統合的に関与している。予測処理理論を理解するには、この点をまず念頭に置く必要がある。これについては、「結論」にある次の著者の言葉が如実に語っている。

だが予測処理理論は、知覚についての単なる最新理論ではなく、行動に関する新たな理論でもある。とても興味深いことに、予測処理理論は知覚と行動を完全に統合する初めての理論であり、感覚状態をめぐる予測エラーを最小限に抑えるという共通の目標を達成するために構築された能力として、知覚と行動を捉える。知覚とは感覚的証拠にもっとも適合する予測を発見することであり、行動とは予測に沿うよう世界を変えることだ。つまり知覚と行動は、予測エラーに対処する相互に補完的な手段なのであり、つねに互いに影響を及ぼし合いながら機能しているのである。

『経験する機械』271頁

②予測処理の大部分は無意識に作用する
 本書には予測処理の大部分が無意識のうちに作用することを示す記述が随所に見られる(それに対して、意識的な予測はたいてい「予想」と記述されている)。予測という言葉からは、それが認知作用であるようなイメージを与えるし、実際にそう見なせる。ところが近年になって、認知作用は意識の存在を前提とするという誤解が広まっているように思われる。典型例は、ダニエル・カーネマンの二重システム理論で、彼は無意識的な直観をシステム1と、また意識的な熟慮をシステム2に分類している。
 この分類に従った場合、多くの読者は認知をシステム2に分類しようとするのではないか。しかし最近になって、このカーネマンの二重システム理論を修正する理論が提起されるようになった。その一つは、ジョセフ・ルドゥー著『存在の四次元――意識の生物学理論』(拙訳、みすず書房、2025年)に見られる。ルドゥーは、認知を「認知的で非意識的な行動制御(認知的次元)」と「認知的で意識的な行動制御(意識的次元)」に分け、認知が意識的にも非意識的にも作用すると主張している。クラークの予測処理理論は、まさにそのようなメカニズムを予測処理の観点から裏づけると見ることができる。

③情動は予測する脳と緊密に結びついている
 これはおもに第4章で論じられており、この見方はリサ・フェルドマン・バレットの身体予算の概念に基づいている。予測する脳と情動の結びつきについては、本書ではたとえば次のように述べられている。「内受容性予測処理の見方に従えば、情動や感情は、身体の状態や全般的な覚醒に関する基本的な情報と、それらのもっともありうる原因に関する高次の予測――たとえば〔動悸の原因は〕心臓発作か激しい運動か――が統合されるときに生じる」(133頁)。

④脳(心)と身体と環境は統合的に捉えられる
 脳(心)と身体と社会的環境のあいだの複雑な相互作用は、昨今の脳科学や認知科学の主要な主題の一つになっており、たとえば拙訳ではスザンヌ・オサリバン著『眠りつづける少女たち――脳神経科医は〈謎の病〉を調査する旅に出た』(紀伊國屋書店、2023年)や、ロイ・リチャード・グリンカー著『誰も正常ではない――スティグマは作られ、作り変えられる』(みすず書房、2022年)がこの主題を扱っている。本書はこの考えを科学的に裏づける証拠を提供していると見なすことができる。

 ①で述べたように、予測処理理論は知覚と行動を統合的に捉える。つまり予測によって始動される行動によって外界に働きかけ、知覚を介してその結果を受け取り、それに基づいて予測を是正するという循環の存在が前提とされている。これはまさに、脳(心)と身体と環境のあいだで働いている相互作用の基盤を説明する。ゆえに、「予測処理理論は、脳と身体と社会的環境のあいだの複雑な相互作用を理解するためのまったく新しい有望な手段になるはずだ」(146頁)と主張されているのである。

⑤情報が外界に存在するのか心のなかに存在するのかを問わない
 これは④の必然的な帰結とも見なせ、第6章で論じられている「拡張された心」という概念は、この考えに基づいて提起されている。なおよく知られているオットーとインガの例は、この「拡張された心」の概念をわかりやすく説明する思考実験だと言える。

⑥世界はありのままに見ることができない
 「世界はありのままに見ることができない」という考えは、おもに哲学的な観点から論じられることが多いが(たとえば実在の否定)、最近になって科学的な観点からも論じられるようになってきた。たとえば拙訳では、ドナルド・ホフマン著『世界はありのままに見ることができない――なぜ進化は私たちを真実から遠ざけたのか』(青土社、2020年)があげられる。このホフマンの著書は副題からもわかるように進化生物学に依拠して立論されているのに対して、本書では、脳科学をもとにして立論されている。これに関して本書から一箇所引用しておこう。「私たちは、単純に「ものごとをありのままに経験したり、外界から真正なシグナルを受け取ったりする」ことなどできないのだ。実を言えば、予測処理理論が知覚に関するすぐれた説明になるのなら、「ものごとをありのままに経験する」「外界から正しいシグナルを受け取る」などといった言い方に、いかなる意味があるのかさえはっきりしなくなる。知覚とは、到来する感覚シグナルに対して(重みづけられた)予測を適用することであり、経験はこれら二つの要素が遭遇することで生じる」(186~187頁)。
 このように本書で提起されている予測処理理論は、(ここでは関連する拙訳のみを取り上げたが)最先端の脳科学、認知科学と幅広く関係しており、非常に射程の長い理論だと見ることができる。本書ではそのことが具体例を用いてわかりやすく解説されている。したがって最新の脳科学や認知科学について知りたい読者には、本書は格好の一冊だと言える。


高橋 洋(たかはし・ひろし)
1960年生まれ。同志社大学文学部文化学科卒(哲学及び倫理学専攻)。IT企業勤務を経て翻訳家。エリック・カンデル『なぜ脳はアートがわかるのか』(青土社)、バチャ・メスキータ『文化はいかに情動をつくるのか』、リサ・フェルドマン・バレット『情動はこうしてつくられる』、ジョナサン・ハイト『社会はなぜ左と右にわかれるのか』(以上、紀伊國屋書店)、マイケル・トマセロ『行為主体性の進化』、アントニオ・ダマシオ『進化の意外な順序』(以上、白揚社)、ジョセフ・ルドゥー『存在の四次元』(みすず書房)ほか、科学系の翻訳書多数。


【関連書籍】
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