文学が言語ゲームになっているとして(1)~「ゲーテはすべてを言った」を読んで~
ある読書会で、鈴木結生の「ゲーテはすべてを言った」を読んだ。これは、老いたゲーテ研究者が、自分の知らぬゲーテの一節に出会い、その一節の原典を探す、という物語で、今年の芥川賞を受賞した。この作品のいくつかの主要テーマを巡って話は流れてゆき、ある人が、「発話」についての話をした。「ゲーテはすべてを言った」という作品は、「ゲーテがこの一節を言ったか言ってないか」という問題を巡る話でもあるが、「アカデミアは原典をいかに扱うか」というテーマを、ゲーテという大文豪の巨大な影を通じて扱っている作品でもある。大学生が多かったあの読書会では、「アカデミックに作品を扱う」ということを重視して話が進んだが、段々と日常言語、つまり自分たちの「我々が今まさに話している言葉」に対象が移っていった。それで、「発話」ということが問題になった。彼女曰く、「言ったか言ってないか」は普段の生活では、というかむしろそっちのほうで、大変重要な問題になるから、自分はいつも話すことについてためらってしまう、という話だった。
世の中や、そして今の大学なんぞでは何でも言っていいという意識が蔓延している状況であるから、あの読書会に参加した文学青年の皆さんは、一層言葉に気を付けているようだった。
私はすかさず、「いや、自分はためらわずに発言して、いつも後悔する」と言って、その時まさに後悔したのだが、なんとなく雰囲気は和んだ。その中で、ある人がこう発言した。
「そもそも、文学について話しているこの会が、いつの間にか日常言語、発話という口語について話し合っているということ自体が、この『ゲーテはすべてを言った』という作品が凄いところだと思う。」
彼は、その前にもこの小説の中で文語と口語が分離しているということを指摘していた。たとえば、スマートフォンを「済補」と書いて「スマホ」と読ませているところなど、著者は自身の博識に任せて文学的な諧謔を行っているところがある。それに対し、そもそもの文構造はとてもすっきりしていて読みやすく、また著者は軽やかなリズムを持った文体を使っているというところもある。読みやすいところと読みにくいところが両立しているという分裂がこの小説全体に仕掛けられている、という話をしていた。
こう書くと、この「ゲーテはすべてを言った」という小説は、アカデミックな場に属する主人公、大文豪ゲーテ、話し言葉と書き言葉の差異、というモチーフを扱っているので、とても難解でありつつも、新しい小説であるという風に、読者の皆さんは思われるかもしれない。
しかし、彼はこの小説が芥川賞を受賞したことにより、「文学が正道に戻ってきた」という話をしていた。私も、「ゲーテはすべてを言った」という小説が新しい実験に満ちながらも、王道的な文学であるということで、彼に全面的に賛成だ。なぜだろうか?次回に続く。
2025/03/27


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