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食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

高貴なる腐敗のはじまり:トカイワイン-近世のハプスブルク家の食の革命(4)

2021-08-19 20:19:44 | 第四章 近世の食の革命
高貴なる腐敗のはじまり:トカイワイン-近世のハプスブルク家の食の革命(4)
貴腐ワイン」という、すごく甘口で素晴らしい香りが特徴のワインがあります。これは「貴腐菌」と呼ばれる菌がつくことでできた貴腐ブドウを原料に作られるワインです。

貴腐菌がブドウに付着すると、ぶどうの皮の表面のワックスを溶かして中に侵入しようとします。こうしてブドウの皮にはたくさんの穴ができるのですが、そこから水分が蒸発し、糖分が濃縮されて干しぶどうのようになります。また、侵入した貴腐菌によって香りの元となる成分も生み出されます。

このようなブドウを貴腐ブドウと呼んでおり、これを原料とすることで、甘口で独特の香りを醸す貴腐ワインが生み出されるわけです。

ところで、ブドウに貴腐菌がつけば必ず貴腐ブドウになるわけではありません。貴腐菌の本名はボトリティス・シネレア(Botrytis cinerea)と言い、実は様々な農作物に灰色かび病や立ち枯れ病などの病気を生み出す厄介な菌なのです。

ブドウもボトリティス・シネレアの繁殖が盛んになり過ぎると、灰色かび病になってしまい貴腐ワインは造れません。つまり、貴腐ブドウとなるためには、「適度」にボトリティス・シネレア(貴腐菌)が繁殖することが必要なのです。

貴腐ワインの産地は、貴腐菌が適度に生育する気候に恵まれています。貴腐ワインの産地では、夜から朝にかけて霧が発生したり小雨が降ったりして湿度が高くなり、貴腐菌の繁殖に適した湿度になります。一方、日中になると晴れ上がり、乾燥して貴腐菌の過度の繁殖が抑えられます。このように貴腐菌の繁殖が適度に保たれることで、貴腐ブドウとなります。

さて、今回は、貴腐ワインのはじまりのお話です。貴腐ワインが最初に造られたのは、ハンガリーのトカイ地方と言われています。ここで醸造された貴腐ワインはハプスブルク家の秘蔵のワインとなり、他国の王家への贈答品として重用されました。

なお、貴腐ワインはハンガリー語で「nemesrothadás」と言い、これは「高貴な腐敗」を意味します。「貴腐」という言葉はこの「高貴な腐敗」から作られました。


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トカイ地方はハンガリーの北東部の、ボドログ川とティサ川という二つの川が合流するところに位置している。この地域の昼と夜の寒暖差は10℃以上もあるため(東京だと寒暖差が大きくても10℃まで)、二つの川が生み出す水蒸気が朝には霧となる。これがブドウ畑を包み込むことで、貴腐菌を繁殖させるのだ。

ハンガリーは遊牧民族のマジャール人が建てた国だったが、995年に神聖ローマ帝国との戦いに敗れたことから、国家を存続するためにキリスト教を国教とすることにした。キリスト教では聖体拝領の儀式などでワインは必需品であったことから、ブドウの栽培とワインの醸造が盛んになった。

トカイ地方がワインの一大産地となるのは16世紀以降のことで、貴腐ワインがこの地で造られるようになったことと関係していると考えられている。貴腐ワインの醸造がいつから始まったかについてはよく分かっていないが、16世紀後半の文書に貴腐ブドウの語が見られることから、16世紀には貴腐ワインが造られるようになっていたと考えられている。

なお、ハンガリーでは次のような貴腐ワインのはじまりのお話が語り継がれているという。

「1630年頃にトカイにオスマン帝国軍が侵攻してきた。その脅威から逃れるために、住民は一時的にトカイを離れた。オスマン軍が去ったので住民がトカイに再び戻ってきたのだが、ブドウの収穫期はすでに過ぎてしまっており、ほとんどのブドウがしなびていた。ところが、ダメもとでワインの醸造を試してみたところ、甘くて薫り高いワインが出来あがったのである。こうしてトカイでは、わざとブドウの収穫期を遅くして、ワインを造るようになったのだ。」

これに似た「戦争のために云々」というお話が、貴腐ワインの有名な産地であるドイツ・ラインガウ の シュロス・ヨハニスベルクとフランス・ボルドーのソーテルヌで伝説として残っているという。しかし、いずれの話も日本昔話のようなもので、実際にあった話とは考えられていない。

なお、ハンガリーのトカイ地方では貴腐ワインだけでなく、いわゆる普通のワインも造っていた(いる)のだが、貴腐ワインがとても有名になったため、トカイワインと言えば貴腐ワインを指すようになった。

当時からトカイワインの素晴らしさは多くの王族や聖職者が認めるところだった。1703年にトカイの領主がフランス王ルイ14世にトカイワインを贈ったのだが、ルイ14世は大いに満足して「これぞ王者のワインにしてワインの王者である」と激賞したと伝えられている。また、ルイ15世やロシアのピョートル大帝、プロシアのフレデリク1世などもトカイワインの大ファンだったと言われている。

ハプスブルク家の支配地の中ではトカイワインの品質が随一であったため、宮廷の酒の貯蔵室には常に大量のトカイワインが貯蔵されていた。マリア・テレジアがフランスのロレーヌ公だったフランツ・シュテファンと結婚するとフランスのワインも入ってきたが、それでもメインはトカワインだった。

このように、トカイワインは国内外で大人気だったため、生産地のトカイはとても潤っており、この地を領地としたトランスヴァニア公はハンガリーでもっとも裕福な貴族だった。しかし、ハンガリーの人々はオーストリアの支配から独立を果たしたいという思いを強く持っており、ワインで稼いだ金は反オーストリアの財源として活用されていたと言われている。

ウィーン料理のはじまり(2)-近世のハプスブルク家の食の革命(3)

2021-08-16 17:44:44 | 第四章 近世の食の革命
ウィーン料理のはじまり(2)-近世のハプスブルク家の食の革命(3)
前回から近世を始まりとするウィーン料理菓子について見ていますが、今回は近世の中頃以降から影響を受けるようになったハンガリーオスマン帝国に起源がある料理についてお話します。

ハンガリーは、ヨーロッパとアジアを分けるウラル山脈が起源地とされる遊牧民族のマジャール人によって11世紀に建国されました。1240年にはモンゴル軍の侵略を受けるなどしたため、城砦や城壁を整えて防御力を高めたと言われています。

しかし14世紀になると、オスマン帝国の勢力が拡大し、ハンガリーにも侵入して来るようになりました。1526年にはオスマン帝国軍との戦いによってハンガリー王が死亡し、その後王位はハプスブルク家に移りました。そして1541年にオスマン帝国軍によってブダ(現在のブダペストの一部)が征服されると、ハンガリーの国土のうち、西部と北部はハプスブルク領となり、中央部と南部はオスマン帝国領に、そして東部はオスマン帝国寄りのトランシルヴァニア公国が支配するようになります。その結果、ハンガリーにはオスマン帝国の食文化が導入されました。

1683年にはオスマン帝国軍がオーストリアに侵攻しウィーンを包囲しましたが、ポーランド軍の活躍でこれを撃退し、それ以降はオスマン帝国の勢力が衰えて行きました。そして1699年に締結されたカルロヴィッツ条約によって、オスマン帝国が支配していたハンガリーの領土はハプスブルク家に戻されます。こうしてハンガリーに取り込まれていたオスマン帝国の食文化がハプスブルク家にもたらされることになったのです。

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代表的なハンガリー料理と言えば、パプリカを使った牛肉の煮込み料理の「グヤーシュ」だ。このグヤーシュがオーストリアに持ちこまれると人気の料理となり、「グーラッシュ(Gulasch)」と呼ばれるようになった。現代では定番のウィーン料理の一つになっている。


グーラッシュ(Bild von RitaE auf Pixabay)

パプリカはトウガラシの変異種で、トウガラシの辛みの成分であるカプサイシンを作り出せなくなっている。このため、辛味以外のトウガラシの独特の風味を楽しむことができる。ハンガリーでは主にパウダー状にしたものを料理に使う。

ハンガリー人はトウガラシを品種改良することでパプリカを生み出したが、このトウガラシはアメリカ大陸が原産地で、ポルトガル人が植民地のインドに持ちこんだものをオスマン帝国が本国に持ち帰り、さらにハンガリーに伝えたのである。

しかし、ハンガリー人は辛いものが苦手で、トウガラシ内部の隔壁と呼ばれる辛い部分を取り除いて食べていたという。そして「必要は発明の母」という通り、18世紀になって辛くない「パプリカ」を生み出したのである。

グヤーシュのグヤは牛の群れを意味しており、遊牧民だったマジャール人が宿営地で食べていた牛肉の煮込み料理が起源と言われている。グヤーシュの作り方も至ってシンプルで、牛肉を野菜と一緒にパプリカとトマトで煮込むだけだ。グーラッシュの作り方もグヤーシュとほとんど変わらない。

ハンガリーにあるパンノニア平原はウシの一大放牧地で、ここで育てられた大量のウシが国外に輸出されていた。1699年にハンガリーのほぼ全土がハプスブルク家の領土となったことから、ウィーンには大量の牛肉が持ち込まれるようになった。その結果誕生したのが、ウィンナーシュニッツェル(ウィーン風カツレツ)と並ぶ人気を誇る「ターフェルシュピッツ(Tafelspitz)」だ。これは、塊の牛肉(仔牛肉がベスト)を野菜や香辛料とともにじっくり煮込んだ料理で、食べやすい厚さにスライスされて供される。リンゴと西洋わさびで作ったソースをかけて食べることが多い。


ターフェルシュピッツ

ターフェルシュピッツは長らく庶民の料理だったが、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(在位:1848~1916年)が大好物としたことから、高級レストランでも欠かせない料理となった。

さて、いくつかの有名なお菓子もハンガリーからオーストリアに伝えられた。その一つが「アプフェルシュトゥルーデル(Apfelstrudel)」だ。これは、シュトゥルーデルという薄い生地でリンゴを巻いて作ったアップルパイの一種で、マリア・テレジアが好んで食べていたと伝えられている。


アプフェルシュトゥルーデル(Bild von RitaE auf Pixabay)

シュトゥルーデル生地は、小麦粉に塩・卵・水を加えてよくこねた後、非常に薄く延ばして作る。この生地で詰め物を幾層にも巻いてから焼いたものをシュトゥルーデルと呼んでおり、時には肉や野菜を入れて食事の料理とすることもある。18世紀にハンガリーから伝えられたと言われている。

シュトゥルーデルの起源は、中世からアラブ地域で作られていた菓子の「バクラヴァ」と考えられている。バクラヴァの生地も、小麦粉に塩・卵・水を加えてよくこねた後、向こうが透けるくらい薄く延ばして作る。そしてこの生地を幾層にも重ねたもので、ナッツなどをはさんで焼いて菓子とする。オスマン帝国でよく食べられていた菓子であり、現代のトルコでも名物となっている。


バクラヴァ(DevanathによるPixabayからの画像)

パラチンキ(Palatschinke)」)もハンガリーからオーストリアに伝わったお菓子で、小麦粉の生地をクレープ状に焼いたものにジャムなどを包んだお菓子だ。

このお菓子の起源は、古代ギリシア・ローマ時代からある「平たいケーキ」を意味する「プラケンタ」で、ドイツや東ヨーロッパの国々でよく食べられている。オーストリアではアプリコットジャム(アンズジャム)が入ったパラチンキが人気だ。


パラチンキ(Bild von thechuk auf Pixabay)

ウィーン料理の始まり(1)-近世のハプスブルク家の食の革命(2)

2021-08-10 17:15:14 | 第四章 近世の食の革命
ウィーン料理の始まり(1)-近世のハプスブルク家の食の革命(2)
今回から2回にわたって、有名なウィーン料理について、その起源を探って行きます。

ウィーン料理はハプスブルグ家が宮廷を築くことで発展しました。その特徴は、前回お話したように、いろいろな国の料理が取り入れられていることです。

ウィーン料理が影響を受けたとされている国は、イタリア、ドイツ、ギリシア(ビザンツ帝国)、チェコ、ハンガリー、オスマン帝国、フランスなどがあります。このうち、イタリア、ドイツ、ギリシア(ビザンツ帝国)からは早い時期からの影響が見られますが、チェコ、ハンガリー、オスマン帝国、フランスについては、近世の中頃以降から影響を受けるようになります。

今回は、近世の早い時期から食べられている料理を中心に見て行きますが、やはりイタリアなどからの持ち込まれた料理が元になっているようです。

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・ウィンナーシュニッツェル(ウィーン風カツレツ)


Anna JurtによるPixabayからの画像

「ウィンナーシュニッツェル(Wiener Schnitzel)」は、ウィーンを代表する料理で、いわゆるカツレツのことだ。少し厚めの仔牛肉をしっかりたたいて薄く引き延ばし、表面に小麦粉・卵・パン粉を順番につけて、浸るくらいのラードでこんがりときつね色に焼き揚げ、最後に溶かしバターを塗る。レモンをしぼって食べるが、肉はとても柔らかく、レモンとの相性も抜群である。

このウィンナーシュニッツェルという料理名は19世紀に登場したことが分かっているが、料理自体はそれより以前から作られていたと考えられている。一説では、14~15世紀に北イタリアから伝わったとされる。北イタリアのミラノには豚肉で作った「ミラノ風カツレツ」があり、これを元にウィンナーシュニッツェルが作られるようになったのではないかということだ。

また、ビザンツ帝国やスペインにもウィンナーシュニッツェルに似た料理が古くからあることから、このうちのいずれから伝わったという説もある。

バックヘンデル(ウィーン風フライドチキン)


juergen 4711 による Pixabayからの画像

「バックヘンデル(Viennese Backhendl)」とはウィーン風のフライドチキンのことだ。

調理法は次の通りだ。

1年ほど飼育した鶏肉を4等分して表面に塩と香辛料をすりこむ。さらに、小麦粉・卵を塗って薄めにパン粉をつけ、カリカリになるまで油で揚げる。昔のレシピでは、胃袋や肝臓などの内臓もパン粉をつけて揚げていたが、現代では食べなくなった。

バックヘンデルという料理名は1817年に初めて登場したが、同じような調理法が17世紀の終わりの料理本に記載されていることから、少なくとも17世紀中には考案されていた料理だったと考えられている。19世紀になって、ウィーンの宮廷では簡素な料理が好まれるようになってから、バックヘンデルの人気が急上昇したと言われている。

牛肉スープ

ハプスブルクの宮廷では、牛肉と野菜を煮込んで作ったスープを食べる習慣が16世紀のフェルディナント1世(在位:1526~1564年)からずっと続いていた。特に、レオポルト1世(在位:1657~1705年)は牛肉スープが大好きで、食事の間は途切れることが無くスープが供されていたという。それ以降の皇帝もみんな牛肉スープが好きで、マリア・テレジア(在位:1740~1780年)もいつも美味しそうに牛肉スープを食べていたと伝えられている。

牛肉スープに入れられる具材も様々なものが考案された。ここで、現代のウィーン料理でよく食べられている2つのスープ料理を紹介しよう。

一つ目は「フリターテンズッペ(Frittatensuppe)」と言う料理だ。


フリターテンズッペ(Alyson Hurtによるflickrからの画像)

これは、細切りしたクレープ(フリターテン)を牛肉スープに入れた料理のことだ。17世紀の終わりに出版された料理本にこのレシピが記載されている。なお、「フリターテン」という言葉は、イタリア語の「Frittata(パンケーキ)」が語源と言われている。

フリターテンズッペは、オーストリアでは最も人気のあるスープ料理で、日本での味噌汁のようなものと言える。現代のウィーン料理では、スープはチキンスープや野菜スープなど牛肉以外でも良いとされる。

二つ目は「グリースノッケルズッペ (Grießnockerlsuppe)」だ。マカロニコムギ(グリース)で作った団子(ノッケル)が入った牛肉のスープ(ズッペ)と言う意味だ。


グリースノッケルズッペ

まず、溶かしたバターにマカロニコムギを入れ、混ぜながら少しずつ卵を加えてこねる。そして、スプーンですくって塩水でゆがくことで団子ができる。これを牛肉スープに入れて出来上がりだ。

同じような団子入りの牛肉スープには、牛の肝臓の団子を入れた「レバークネーデルズッペ(Leberknödelsuppe)」があり、こちらもウィーンのレストランでは定番の料理となっている。

このようなスープの具材が多く考案されたのが17世紀から18世紀のことで、上記以外に、通常の肉の団子やベーコンの団子、肺の団子などが当時の料理本に記載されている。また、シンプルなものとしては蒸したオオムギがあり、先述のレオポルト1世も好んで食べていたらしい。

オーストリア系ハプスブルク家-近世のハプスブルク家の食の革命(1)

2021-08-06 22:13:32 | 第四章 近世の食の革命
オーストリア系ハプスブルク家-近世のハプスブルク家の食の革命(1)
今回から近世の中欧と東欧の食のシリーズが始まります。最初は、現在のオーストリア・チェコ・ハンガリーなどを支配したオーストリア系ハプスブルク家について見て行きます。

オーストリアの首都はウィーンです。世界最高峰の楽団ウィーンフィルを擁するなどして「音楽の都」と言われるウィーンは、お菓子でも有名で、「菓子の都」と呼ばれることもあります。その代表的なお菓子が「ザッハートルテ」と言うチョコレート菓子です。これは、チョコレートケーキをチョコレートが入った砂糖の衣(フォンダン)でコーティングした、とても甘くて、とても濃厚なお菓子です。


ザッハートルテ

また、ウィーンは料理でも有名で、仔牛肉を使ったカツレツの一種「ウィーナーシュニッツェル」は今でもオーストリアで一番人気の料理です。

ウィーンは1278年からハプスブルク家が支配するようになりました。しかし、その頃のハプスブルク家はまだまだ弱小貴族でした。その後ハプスブルク家は次第に勢力を拡大させ、15世紀半ばからは神聖ローマ帝国の皇帝位を世襲するようになります。そしてウィーンには宮廷が建てられ、神聖ローマ帝国の首都としての役割を果たすようになります。

第1回目となる今回は、オーストリア系ハプスブルク家について概略を見て行きます。

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ハプスブルク家は、最初は現在のスイス北部を領地としていた小貴族だった。この地には、1020年頃に建てられたハプスブルク城が今でも遺されている。
ハプスブルク家の躍進の始まりは、家長のルードルフ1世が1273年に神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれたことだ。

神聖ローマ帝国内には200以上の公国や騎士領、司教領、自由都市などがあり、それぞれが独立国のような存在だった。その代表としてローマ教皇を守護するのがローマ皇帝だ。ローマ皇帝は、選帝侯という3人の聖職者と4人の世俗君主による選挙によって選ばれる。ルードルフ1世が選ばれたのは、野心のない凡庸さが選帝侯には都合が良かったからだと言われている。

ルードルフ1世は決して無能ではなく、反乱を起こした貴族を鎮圧し、彼の領地だったオーストリアなどを自分のものにする。こうして、ハプスブルク家は旧領を離れてオーストリアに定住するようになった。

ルードルフ1世の息子もローマ帝国皇帝となるが、ハプスブルク家の野心が恐れられたのか、その後しばらくは皇帝に選ばれず、地方の一領主に甘んじるしかなかった。ところが1440年になると、ハプスブルク家のフリードリヒ3世が再びローマ帝国皇帝に選ばれる。この時も彼の無能さが選帝侯に気に入られたのだ。実際にフリードリヒ3世は小心者で、戦争が始まるといち早く逃げ出し、敵が去るまで出てこなかったと言われている。

その息子のマクシミリアン(1459~1519年)の代になってハプスブルグ家は大躍進を果たす。彼は裕福なブルゴーニュ公国の姫と結婚することになったのだが、結婚の前にブルゴーニュ公が亡くなってしまった結果、最終的にブルゴーニュはハプスブルク家のものとなったのだ。

さらに、マクシミリアンの息子フィリップがスペインの王女ファナと結婚したことで、スペイン王の座もハプスブルグ家に転がり込む。この結婚から10数年以内にスペイン国王夫妻と王子が亡くなってしまったため、スペイン王は王女ファンとフィリップの子供に引き継がれることになったからだ。

フィリップの長男のカルロス(1500~1558年)は、1516年にスペイン国王カルロス1世(在位:1516~1556年)として即位する。彼はイベリア半島のスペイン本国だけでなく、南ローマとシチリア、そして新大陸の広大な領土を治める王となった。

また、フィリップの次男のフェルディナント(1503~1564年)は、1515年にハンガリー王女のアンナとの婚約が成立したのだが、1526年にハンガリー王子が戦死したため、フェルディナントがハンガリーとそれに帰属するボヘミア(現在のチェコ)の王となったのである。

こうしてハプスブルク家は、中欧と東欧において、元来のオーストリアの領土に加えて、ハンガリー・ボヘミアと言う広大な領土を手中に収めたのである。このようにハプスブルグ家が支配した中欧・東欧の領土をひとまとめにして「オーストリア」と呼んでいた。



スペイン王カルロス1世はオーストリアをはじめとするハプスブルク家のすべての領土を継承するとともに、1519年に神聖ローマ帝国皇帝カール5世(在位:1519~1556年)となった。そして彼の死後は、スペインとネーデルラントの領土は息子のフェリペ2世が受け継ぎ、オーストリアの領土と神聖ローマ帝国皇帝位は弟のフェルディナント1世(在位:1526~1564年)が継承した。

これ以降ハプスブルグ家は、スペイン系オーストリア系に分かれることになったが、お互いに婚姻関係を結ぶなど良好な関係は続いて行く。しかし、近親婚を繰り返したために身体上の様々な異常が現れるようになり、スペイン系は1700年に断絶することとなった。

ここで、フェルディナント1世以降のオーストリア皇帝をあげておこう。

フェルディナント1世 (1526~1564年)
マクシミリアン2世 (1564~1576年):プロテスタント寄りの政策をとった。
ルドルフ2世 (1576~1612年):政治能力に欠け、占星術や錬金術に没頭した。
マティアス (1612~1619年):兄のルドルフ2世から皇位を奪う。
*新旧キリスト教徒の戦いである30年戦争(1618~1648年)が始まる。
フェルディナント2世 (1619~1637年):戦争を有利に進めるがフランスの参戦で泥沼化。
フェルディナント3世 (1637~1657年):30年戦争に事実上敗北した。
レオポルト1世 (1657~1705年):1683年にオスマン帝国軍がウィーンを包囲した。
ヨーゼフ1世 (1705~1711年):スペイン王位をめぐってフランスと争うが急逝した。
カール6世 (1711~1740年):歴代で最大の領土を築いた。
マリア・テレジア (1740~1780年):父から帝位を譲られるが、プロイセンが介入して戦争になった。
ヨーゼフ2世 (1780~1790年):王権の強化などの急進的な改革を行った。
レオポルト2世 (1790~1792年):ヨーゼフ2世の弟。兄が進めた改革を元に戻した。
フランツ2世 (1792~1835年):ナポレオン軍に敗れることで神聖ローマ帝国が消滅。これ以降は「オーストリア帝国」と呼ばれるようになった。

最後に、フェルディナント1世について食に関する話をしておこう。

彼はスペイン宮廷で生まれ育ち、その後オーストリアにやって来た。この時に取り巻きのスペイン人を一緒に連れてきたため、スペインの宮廷文化の要素がオーストリアに伝えられた。また、スペインが支配していたネーデルラントからは多数の菓子職人を宮廷に招いた。

一方、王妃アンナの故郷のボヘミアではイタリアとのつながりが強く、フェルディナント1世もイタリアの文化を好んだことから、多くのイタリア人がオーストリア宮廷に招かれた。その結果、最先端のイタリア料理やテーブルマナーが宮廷に取り入れられた。

このように、オーストリアの料理の特徴は「多国籍」であることだ。オーストリアは文化の異なる複数の国が集ることでできていたことと、様々な国の料理を積極的に取り入れたことから、オーストリア料理(ウィーン料理)は様々な国の特徴をあわせ持っているのである。

なお、フェルディナント1世は、古くに作られた宮廷晩餐会の作法を再整備したり、1523年にはウィーン初の料理学校を設立したりするなど、オーストリアの宮廷料理の発展に大きな貢献をしたと伝えられている。

香り立つコニャック-フランスの大国化と食の革命(11)

2021-08-02 18:09:59 | 第四章 近世の食の革命
香り立つコニャック-フランスの大国化と食の革命(11)
ブランデーはワインを蒸留して造られるお酒で、フランスのブランデーが質・量ともに世界一とされています。特に有名なブランデーが「コニャック」で、ボルドーの北100㎞ほどにある町コニャックから命名されました。

ボルドーと同じように、コニャックでも古くからワインを造っていましたが、ボルドーのワインの方が有名になったため、あまり売れなくなってしまったのでした。その窮地を救ったのがブランデー造りです。ブランデーが売れるようになったため、コニャックは裕福な町になったのです。

さて、コニャックと言えば、飲んだ後で口や鼻腔に残る芳醇な香りが特徴です。コニャックで栽培されていたブドウはボルドーのものとは違って、酸味が強い種類でした。この酸味が芳醇な香りに重要だったのです。

今回は、コニャックを中心に、近世フランスのブランデー造りについて見て行きます。



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現代では、酸味の強いブドウから造った白ワインを蒸留したのち、オーク(樫)の樽に詰めて2年以上熟成させたものをブランデーと呼んでいる。

また、コニャックは、ユニ・ブランなどの決められたブドウで造った白ワインを、決められた銅製の蒸留器(シャラント式アランビック蒸留器)で2回蒸留し、リムーザンもしくはトロンセ産のオークの樽で2年以上熟成させた原酒をブレンドすることで造られている。4年以上熟成させた原酒からは「V.S.O.P.(Very Superior Old Pale)」などの表示が、10年以上熟成させた原酒からは「XO(Extra Old)」や「Napoleon」などの表示がされたコニャックが造られる。

ブランデーの製造に欠かせないのが「蒸留器」だ。アランビックと呼ばれた蒸留器は、8世紀にイスラムの錬金術師ジャービル・イブン・ハイヤーンが考案したとされている。また、9世紀には同じくイスラムの錬金術師のアル=キンディがアルコールを初めて蒸留したと言われている。

蒸留器はイスラム勢力が支配していたイベリア半島を経由して西ヨーロッパに伝えられた。そして、14世紀にはフランスでブランデーの製造が始まったとされている。しかし、その頃のブランデーは品質が悪く、庶民が飲む安酒だった。

コニャックとともに有名な「アルマニャック」は、ボルドーを流れているガロンヌ川の上流域のアルマニャック地方で造られるブランデーだ。この地方では、15世紀からブランデーの製造が始まったとされている。ボルドーのワイン商人が他の地域のワインの輸送にガロンヌ川を使用することを禁じたことから、ブランデーの製造を始めたと言われている。

アルマニャックのブランデーは最初の頃は品質が悪かったが、製造方法が次第に洗練されて、コニャックに並び立つほどの評価を受けるようになった。アルマニャックでは、アルマニャック式蒸留器と呼ばれる蒸留器で、1~2週間かけてゆっくりと1度だけの蒸留が行われるのが特徴だ。



一方、コニャックで高級酒であるブランデーの生産が始まったのは17世紀になってからだ。そのいきさつは次のようだったと考えられている。

コニャックを含むシャラント地方は古代ローマ時代からブドウの栽培を行っていた。やがて、塩田による塩の生産が盛んになり、この地方のラ・ロッシェル港は塩とワインの交易で栄えた。しかし、ワインの方はボルドーのワインが台頭するにつれて、あまり売れなくなって行った。

宗教革命ののちはコニャックには多くのプロテスタントが住むようになったため、プロテスタントのオランダ商人が取引のために頻繁にやって来るようになった。コニャックでのブランデー造りに大きな役割を果たしたのが、このオランダ商人たちだった。彼らは船を使った長距離の輸送に耐えるような、保存性の高い酒を求めていたのだが、あまり売れていないコニャックのワインを見て、蒸留することを思いついたのだ。近くには広大な森があり、燃料となる木材が手に入りやすいことも好条件だった。

早速蒸留してみたところ、1回の蒸留では美味しい酒はできなかったが、もう1度蒸留してみるとかなり良いものになった。そして、これを近くのリムーザンのオークで作った樽に入れて保存しておいたところ、さらに香り高い素晴らしい酒に変身したのだ。コニャックで栽培されていたフォール・ブランの強い酸味がオークの樽の成分と反応して、芳醇な香りが生み出されたのである。

こうして誕生したコニャックは、体を温めるために強い酒が好まれた北ヨーロッパを中心に愛好家を増やして行った。特にイギリスの上流階級に大人気となり、大部分のコニャックがイギリスに向けて輸出されるようになった。コニャックの等級が「V.S.O.P.(Very Superior Old Pale)」のように英語表記なのは、このような理由からだ。

ブランデー(brandy)」という言葉を造ったのもイギリス人だ。オランダ人が焼いたワインを意味する「brandwijn」と呼んでいたものをイギリス人が「brand wine」とし、さらにそれを略して「brandy」としたとされている。

なお、「ナポレオン(Napoleon)」というブランデーには注意が必要だ。コニャックとアルマニャックでは高品質のブランデーにしか付けられない名前だが、それ以外ではどんな安いブランデーに付けても良いのだ。このため、コニャックとアルマニャック以外のナポレオンは総じて美味しくないのである。