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食の歴史 by 新谷隆史ー人類史を作った食の革命

脳と食を愛する生物学者の新谷隆史です。本ブログでは人類史の礎となった様々な食の革命について考察していきます。

ドイツワインの歴史-近世ドイツの食の革命(4)

2021-09-04 23:22:01 | 第四章 近世の食の革命
ドイツワインの歴史-近世ドイツの食の革命(4)
1980年代の半ば頃まで、日本に輸入されるワインでもっとも多かったのがドイツワインです。私が大学生の時に自分で買った最初のワインもドイツワインでした。その頃はワインの知識は全くなく、店頭で並んでいたものを適当に買っただけでした。

ドイツワインと聞けば白ワインを思い浮かべる人が多いですが、実際にドイツで生産されるワインの半分以上は白ワインで、また、その品質もとても優れているとされています。

ドイツの多くの高級白ワインに使用されているのが「リースリング」と言う品種で、ドイツでは他の品種をブレンドせずに、単一品種のブドウでワインを造るのが一般的です。

今回は、ドイツワインの歴史をたどりながら、ドイツワインの特徴について見て行こうと思います。

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ドイツで最初にワインが醸造されたのは、紀元1世紀末から2世紀初頭にかけてのモーゼル河中流域と考えられている。当時はドイツの地はローマ帝国の一部であり、ローマ人がイタリアからブドウを持ちこんだと言われている。3世紀にはローマ皇帝プロブス(在位:276~282年)の命によってモーゼル河流域からライン河流域にかけてブドウ畑が拡張され、ワインが大量に生産された。



この「モーゼル地方」は現代でもワインの銘醸地であり、5大畑(オルツタイルラーゲ)の一つである「シャルツホーフベルク」を擁している。なお、オルツタイルラーゲとは、ワインの表記に畑名だけを入れることが許された5つの畑のことを言う(それ以外は地区名と畑名を記載する)。

中世に入るとドイツのいたるところでブドウが栽培されるようになったが、良いブドウができる地域は限られており、次第に特定の場所でしかワイン造りは行われなくなって行った。その理由がドイツの気候にある。これを説明するために、現在のドイツで行われているドイツワインの格付けについて説明しよう。

ドイツワインの格付けは他国のものと大きく異なっている点がある。それは、原料のブドウ果汁の糖度によって格付けを行うことだ。

ドイツでは法律で、ワインを大きく4つのクラスに分けている。日本に入って来るのは上位2つのクラスのワインで、「プレディカーツヴァイン」と「クヴァリテーツヴァイン」と呼ばれる。

最高級のプレディカーツヴァインはブドウ果汁の糖度によって、さらに6つのクラスに分けられ、糖度が高いほど高級ワインに分類される。ただし、ブドウ果汁の糖度が高いからと言って甘口のワインになるわけではなく、甘口と辛口の両方のワインが造られている。

このようにドイツで糖度が重視される理由は、ドイツでは糖度の高いブドウを作るのが難しいからだ。ドイツは気候が寒冷で、また緯度が高いために太陽の光が弱く、光合成が起こりにくい(光合成量は、光の強度・温度・二酸化炭素濃度によって決まる)。光合成が起こりにくいと糖ができず、ブドウが甘くならないのだ。

酒を造る酵母は糖を原料にアルコールを生み出すのだが、糖度が低いブドウ果汁を原料にすると十分なアルコールができずに、低品質のワインになってしまうのである。

このような理由から、ドイツでは糖度が高いブドウができる地域がワインの銘醸地として選択されて行ったのだ。

ドイツの多くのブドウ畑は、川沿いの南向きの急斜面に位置している。これは、日中に川の表面によって日光が反射するからだ。このような畑では、太陽から直接来る光と反射光によって光の強度が高まるとともに温度も上昇する。また、夜になって気温が下がってきても、川からの放射熱によってそれほど寒くならない。

ドイツでブドウ栽培に最適の地とされてきたのが「ラインガウ地方」だ。ラインガウには 「シュロス・ヨハニスベルク」「シュタインベルク」「シュロス・ライヒャルツハウゼン」「シュロス・フォルラーツ」という、5大畑(オルツタイルラーゲ)のうち4つの畑が存在している。

ラインガウでは、ライン河とマイン河の分岐点近くの北岸にある南向きの斜面にブドウ畑が広がっている。ラインガウでブドウが作られ始めたのは8世紀のことで、それにはフランク王国のカール大帝(742年~814年)が関わっている。

カール大帝がフランクフルトの西の町インゲルハイムの居城に滞在していた時のことだ。この城はライン川の近くにあったのだが、季節は冬の終わりということで城の周りは一面雪におおわれていた。ところが彼がふと川の対岸に目をやると、丘の上の雪が融けかけているのが見えた。カール大帝はその丘がブドウの栽培に適した暖かい地であることを見抜き、ブドウ畑をつくるように命じたという。

その丘こそ、ドイツで最高級の白ワインを生み出し続けている「ラインガウ」だ。ラインガウの北にはタウヌス山がそびえ、北風を防いでくれる。また、ゆったり流れるライン川によって太陽の光が反射し、大地を温める。さらに、夜になるとライン川が生み出す霧が寒さからブドウを守るのだ。

ラインガウ地方で重要なブドウの品種がリースリングで、栽培面積のほぼ90%を占めている。リースリングは白ワイン用の品種で、しっかりとした酸味と上質な芳香を特徴としている。香りが強いことから樽での香味付けは一般的に行われず、リースリングワインではブドウ本来の香りを楽しむことができると言われている。また、辛口から極甘口のアイスワインや、さらには発泡性があるものまで多様なワインを造ることができるという特徴を持っている。

ラインガウ地方のヨハニスベルクはドイツにおける貴腐ワインのはじまりの地とされていて、次のような伝承がある。

1775年のことだ。ヨハニスベルクでブドウ栽培を行っていた修道士たちは領主からのブドウ収穫の許可をソワソワしながら待っていた。毎年収穫時期になると領主からブドウの収穫を許可する伝令が届くのだが、その年は到着が遅れていてブドウがダメになりそうだったのだ。結局、伝令は14日遅れてしまい、干しブドウのようになったブドウを収穫することになった。ところが、ダメもとでそのブドウでワインを造ってみたところ、素晴らしいワインができたのだ。実はこの時ブドウは貴腐化していて、水分が抜けて糖度が高くなるとともに、芳醇な香りの元が作られていたのである。

ドイツのワインの銘醸地には、モーゼルとラインガウのほかに、ナーエやファルツ、ラインヘッセン、バーデンなどがある。

なお、格付けの一番上のクラスはブドウ果汁の糖度でさらにクラス分けが行われていたが、2番目以降のクラスでは、ブドウ果汁に糖を加える「シャプタリザシオン」という工程が認められている。

また、近年では温暖化のためにブドウの糖度が上がるようになり、ワイン造りに適したブドウが作りやすくなっているとも言われている。

テンサイと砂糖-近世ドイツの食の革命(3)

2021-09-02 23:29:52 | 第四章 近世の食の革命
テンサイと砂糖-近世ドイツの食の革命(3)
現在、世界で消費される砂糖の70%はサトウキビから精製されています。そして、残りの30%は「テンサイ(sugar beet)」と言う植物から取られています。

テンサイを漢字で書くと「甜菜」となります。字の通り、「甜菜」は「舌に甘い野菜」と言う意味です。なお、サトウキビから取った砂糖を「甘蔗糖(かんしょとう)」、テンサイから取った砂糖を「甜菜糖」と呼ぶことがあります。

砂糖はテンサイの根っこの部分に集まります。根っこはカブのような形をしていて、1㎏くらいまで成長します。このためテンサイは「サトウダイコン」と呼ばれることもあります。なお、1㎏のテンサイには、約180gの砂糖が含まれています。

サトウキビはイネ科の植物で、温暖な気候で育ちます。一方のテンサイはアカザ亜科の植物で、寒冷な気候を好みます。このため、テンサイは日本では主に北海道で栽培されています。

テンサイから砂糖を取れるのを見つけたのは近世のドイツの研究者たちでした。そこで今回は、甜菜糖の歴史について見て行こうと思います。


テンサイ(sugar beet)
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テンサイは「ビート(beet)」と言う食用植物の一品種だ。ビートには、根の部分を食べる品種と葉の部分を食べる品種がある。ヨーロッパでビートと言うと、赤カブのようなテーブルビートを指すことが多い。これはウクライナの伝統的な煮込み料理の「ボルシチ」の材料となる。一方、葉を食べるビートには、スピナッチビートスイスチャードと言う品種があり、ホウレンソウのような食べ方をする。


テーブルビート(Gyöngyi NagyによるPixabayからの画像)


スイスチャード

ビートの先祖は地中海沿岸が原産地と考えられており、炭化したテーブルビートが紀元前2000年代のエジプトの遺跡から見つかっている。また、古代ギリシアや古代ローマの記録からも、その当時にテーブルビートやスピナッチビートがよく食べられていたことが分かる。なお15世紀には、根の部分を飼料にする品種が開発されたが、これがテンサイの原種につながる。

テーブルビートに砂糖のようなものが含まれることに気づいたのはフランスの農学者オリヴィエ・ド・セールとされている。彼は1575年に「テンサイのしぼり汁を煮詰めると砂糖のシロップのようになるが、その色が朱色なので見ていて美しい」と記したが、人々に注目されることは無く、その後しばらくの間忘れ去られてしまう。

次にテンサイに含まれる砂糖について革新的な研究を行ったのが、ドイツの化学者マルクグラフ(1709~1782年)だ。彼はドイツ中部のハレで最先端の化学と医学を学び、1744年から様々な植物の抽出物について研究を行っていた。その中で、飼料用のビートから甘味物質を精製することに成功し、これがサトウキビから取れる砂糖と同じものであることを見つけたのである。彼はこの発見を1747年にベルリン科学アカデミーに報告した。

彼の弟子だったフランス移民のアシャール(1753~1821年)がテンサイから砂糖を精製する研究を引き継いだ。彼は1784年に「ホワイトシレジアン」という飼料用のビートからテンサイの原種となる株を選び出し、栽培を始めた。そして1801年にはプロイセン王のフリードリヒ・ウィリアム3世の庇護のもと、製糖工場を建設したのである。

なお、アシャールが見つけたテンサイの原種は約5~6%の砂糖を含んでいたが、その後に様々な品種改良が行われた結果、現代の品種には約18%もの砂糖が含まれようになった。

ここからは近代の話になってしまうが、テンサイから砂糖を精製する技術がヨーロッパに広まるきっかけを作ったのが、ナポレオン・ボナパルト(1769~1821年)である。彼はフランス革命期の軍人で、1804年に皇帝に即位してナポレオン1世(在位:1804~1815年)となる。

アシャールの研究を聞きつけたナポレオンは、科学者をプロシアに派遣してアシャールの工場を調査させた。科学者が帰国すると、ナポレオンはアシャールの工場を真似た2つの小さな工場をパリ近郊に建設させ精糖を行わせた。その頃はイギリスによるヨーロッパ封鎖によってサトウキビ糖(甘蔗糖)の輸入が不可能になっていたため、ナポレオンは甜菜糖で不足分を補おうとしたのだ。

その後ナポレオンは、砂糖学校を設立したり、農家にテンサイの栽培を義務づけたりすることで、テンサイの生産と砂糖製造を拡大させて行った。こうしてフランスの製糖産業は大成功をおさめるが、これを見た他のヨーロッパの国々も次々とテンサイ産業に参入して行くことになり、ヨーロッパに広く定着することになるのである。

ハンバーグとミートローフ-近世ドイツの食の革命(2)

2021-08-28 17:05:49 | 第四章 近世の食の革命
ハンバーグとミートローフ-近世ドイツの食の革命(2)
日本人が好きな料理の一つに「ハンバーグ」があります。しかし、海外には日本のハンバーグと同じ料理はほとんど存在しません。このため、日本のハンバーグのことを外国人は「Japanese hamburg steak (Hanbagu:日本風ハンバーグ)」と呼んだりします。

日本風のハンバーグは、ひき肉(一般的には牛と豚の合い挽き)にパン粉と牛乳、刻んだタマネギなどの野菜を入れ、さらに卵と塩・香辛料を加えてこねたあと、フライパンやオーブンなどで焼き上げた料理です。一方、その元となったハンブルクステーキ(Hamburg steak)は、牛のひき肉につなぎを入れずに、塩と香辛料だけで味付けをして焼いた料理です。

また、日本人の多くは日本風のハンバーグを丸いパンにはさんだものを「ハンバーガー」だと思っていますが、もともとのハンバーガーのパテはハンブルクステーキのようにほぼ牛肉だけでできています(そのため、100%牛肉との表示がされたりします)。

日本のハンバーグに近い料理が「ミートローフ」で、これはひき肉にパン粉と牛乳、炒めたタマネギなどの野菜、塩、香辛料を加え、こねたあとオーブンで焼き上げた料理です。

ハンバーグとミートローフはどちらもドイツが関係しています。そこで今回は、ハンバーグとミートローフの歴史について見て行きます。


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ミートローフ

ミートローフ(Wolfgang EckertによるPixabayからの画像)

肉を細かく刻んでひき肉状にしたものにパンとワインを入れてこね、表面にコショウやハーブなどを振りかけて焼いた料理が5世紀頃のローマ帝国の料理書『アピキウス』に記載されている。これがミートローフの原型であると考えられている。

そのままでは食べにくい固い肉もひき肉状にすることで食べやすくなるし、乾燥して固くなったパンも美味しく食べられる。また、パンが入ることで料理のボリュームもアップするので経済的だ。このため、ミートローフはヨーロッパ中に広がって現代まで食べ続けられている。

その中でも、ミートローフがよく食べられてきたのがドイツと北欧だった。北欧では、ミートローフはゆでたジャガイモやマッシュポテトと一緒に食べられることが多く、ドイツではゆで卵を中に詰めて食べることが多かった。

17世紀には多くのドイツ人やオランダ人が移民として北アメリカに渡ったが、彼らの間でごちそうとして食べられていたのがミートローフだった。中でも、北アメリカで手に入りやすかったブタのひき肉にトウモロコシを混ぜ込んで作ったミートローフが人気だった。この料理のおかげで、ミートローフは北アメリカにも定着して行った。

ただし、ミートローフが本格的に大流行するようになったのは、18世紀後半からの産業革命期に家庭用の肉挽き機(ミートグラインダー)が登場してからである(最初の肉挽き機は、19世紀初頭にドイツ人技師カール・ドライスによって発明された)。

ハンバーグ
「ハンバーグの起源はタルタルステーキ」というお話が語られることがある。タルタルステーキとは、生の牛肉を細かく切り刻み、オリーブオイル・食塩・香辛料で味付けし、タマネギやニンニクなどのみじん切りや卵黄などを添えた料理だ。


タルタルステーキ(xesisexによるPixabayからの画像)

「タルタル」とはタタール人(モンゴル人)から作られた言葉で、タタール人が固い馬肉を馬の鞍の下にはさんでやわらかくしてから切り刻んで食べていたという話から、これに似た生肉料理をタルタルステーキと呼ぶようになったと言われている。しかし、馬の鞍の下に馬肉をはさむというのは作り話で、タタール人の野蛮さを誇張するために広められたとされている。

モンゴル軍は1240年から1241年にかけてポーランドとハンガリーに侵攻したが、この時にタルタルステーキの作り方が伝わったとされる。しかし、これまでに発見されたタルタルステーキの最古のレシピは18世紀のもので、タルタルステーキがいつから食べられるようになったかについてはよく分かっていない。

ドイツではタルタルステーキを焼いたような「ブーレッテン(主にドイツ北部)」や「フリカデレ(ドイツ南部)」と言う料理が考案された。これはミートローフのようにパン粉やタマネギなどは入っていない牛のひき肉を焼いたものだ。ブーレッテンとフリカデレはパンとともに食べられることが多く、ハンバーガーの起源とも考えられる。この料理は、18世紀のドイツで労働者の間でとても人気があったらしい。

19世紀前半になると、多くのヨーロッパ人が移民として新大陸に渡ったが、彼らの多くは北ドイツのハンブルク港から乗船し、ニューヨークに向かったという。その時にブーレッテンのレシピがニューヨークに伝わったと考えられている。19世紀の後半には、ブーレッテンはニューヨークのレストランで「ハンブルクステーキ」と名付けられて人気を博することになった。これがいわゆる「ハンバーグステーキ」の元祖である。

ちなみに、19世紀半ば頃にアメリカでは改良型の肉挽き器が開発され、大量のひき肉を生産することができるようになった。これが、アメリカでハンブルクステーキが流行する後押しをしたと考えられている。

その後、ハンブルクステーキは次第にそのままの形では食べられなくなり、代わって20世紀初頭にハンブルクステーキをパンにはさんだ「ハンバーガー」が登場して、アメリカで大流行するようになる。ハンバーガーは、牛のひき肉に塩・コショウをして焼いたものをパンにはさめば簡単にできるし、食べやすくて後片付けも楽なため、アメリカのバーベキューでは定番の料理になって行った。

なお、日本でハンブルクステーキが最初に食べられたのは1882年のこととされている。その後しばらくは広く食べられることはなかったが、1960年代になって合い挽きのひき肉やつなぎが使われるようになり、一般家庭でも日本風ハンバーグが作られるようになって行った。

ドイツの伝統的な食文化-近世ドイツの食の革命(1)

2021-08-25 08:34:22 | 第四章 近世の食の革命
ドイツの伝統的な食文化-近世ドイツの食の革命(1)
今回から近世のドイツの食について見て行きます。

ドイツと言っても近世のドイツは現代のドイツのように一つの大国ではなく、諸国に分裂した状態でした。そして、国同士の争いが頻発しており、戦争によって土地が荒廃することが繰り返されていました。

第一回目の今回は、近世までのドイツの歴史を概観するとともに、この地域で伝統的に食べられてきた食について見て行こうと思います。

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ローマ帝国の後に西ヨーロッパを統一したのがゲルマン民族の国家フランク王国だった。8世紀後半にフランク王国のカール大帝が西ヨーロッパを統一すると、ローマ教皇から西ローマ皇帝に任じられた。

ゲルマン民族の伝統では、親が亡くなると財産は男子に等分されるため、カール大帝の死後フランク王国は西・中・東の3つに分割されて3人の息子に受け継がれた。このうちの東フランク王国の領土が現代のドイツに近い。

ところが、東フランク王国では10世紀初めにカール大帝の家系が断絶してしまう。最終的に王位を継承したのがザクセン家のハインリッヒ1世だ(在位:919~936年)。彼は分割相続を廃止し、それ以降は一人の皇子がすべてを相続するようになった。

次の王のオットー1世(東フランク王在位:936~973年)の時に、彼の王位に反対する勢力が次々に現れて国内は混乱状態になるが、やがて彼は王国全土を掌握することに成功する。さらに、ローマ教皇を援助したことから帝位を授けられ、962年に神聖ローマ皇帝となった(在位:962~ 973年)。これ以降、東フランク王国は神聖ローマ帝国となる。

しかし、その後の神聖ローマ皇帝は教皇と司教の任命権(叙任権)などめぐって対立するようになり、有名な「カノッサの屈辱」などの事件が起きるなどした。その結果、皇帝の権威は次第に弱まって行った。

12世紀末になると、皇帝は選帝侯による選挙によって決められるようになった。こうして皇帝の権威はさらに弱まることになり、逆に地方領主の力が強まって行った。そして、15世紀以降はオーストリアのハプスブルク家が皇帝位を世襲するようになる。なお、その頃の神聖ローマ帝国には約300の諸侯の領土や自治都市が存在していたと言われている。

16世紀になると宗教改革が始まり、カトリックとプロテスタントの対立が激化して行った。そして、1618年に皇帝フェルディナント2世がカトリックを強制したことに対して、ベーメン(ボヘミア、現在のチェコ)のプロテスタントが反乱を起こした。これを発端にカトリックの諸侯とプロテスタントの諸侯の戦いとなり、30年戦争(1618~1648年)が始まる。

戦争開始後すぐにカトリック側にはスペインが支援し、プロテスタント側にはオランダが支援したため30年戦争は国際戦争へと発展した。さらに、デンマークやスウェーデン、そしてフランスも介入したため戦争は泥沼化し、神聖ローマ帝国では多数の死者が発生し、土地が荒廃した。また、神聖ローマ皇帝の権威は消失し、各諸侯には国家主権が認められるようになった。

このような各地の諸侯の中で、ドイツの北東部を領土とするプロイセン王国が勢力を伸ばし、ハプスブルク家のオーストリア帝国と対立するようになる。そして18世紀にはオーストリアとの戦争に勝利して、ヨーロッパの強国の一つとなったのである。

さて、ここでドイツの伝統的な食について見て行こう。

ドイツを含むヨーロッパ北部は冷涼な気候で土地もやせていることから、農作物の生産性が低い。特に冬になると生の食材が不足することから、保存食が発達することとなった。中でも、主に豚肉を使ったソーセージがドイツを代表する食べ物となった。なお、ソーセージ(英:sausage)の語源はラテン語で「塩をする」と言う意味の「Salsisium」で、肉にたっぷり塩をすることで保存性を高めたことから、この名がついたと言われている。



昔のドイツでは、秋にドングリをたくさん食べて太ったブタを冬になる前に肉にしていた。冬になるとブタが食べるエサが無くなったからである(ジャガイモが出回るようになると、これがブタのエサになった)。

ブタを殺すと血が出るが、これがまず血のソーセージ「ブルートヴルスト」の材料となる。肝臓や腎臓、胃などの内臓はそのまま煮たり焼いたりして食べるが、肝臓はペースト状の肝臓ソーセージ「レバーヴルスト」の材料になる。これはパンなどに塗って食べる。なお、ドイツは冷涼な環境でコムギが育ちにくいので、ライムギのパンが主に食べられる。

内臓の次はいよいよ肉の部分だ。内蔵の周りのバラ肉は「ベーコン」の材料になる。塩漬けにしたものを燻製してベーコンが作られる。

バラ肉の上の背の部分にあるのがロースだが、やわらかい肉なのでそのまま料理して食べることが多い。ロースは英語の「ロースト(roast)」から作られた言葉で、焼いてそのまま食べるのに適した肉と言う意味だ。

ソーセージに最も適した部分が肩肉だ。主に仔豚の肉を使って作られる伝統的なソーセージが「ブラートヴルスト」だ。ブラートは「細かく刻んだ肉」を意味する。ドイツで最も古いブラートヴルストは1313年のニュルンベルクの記録に残されている。現代では、地域ごとに特有のブラートヴルストが作られている。

脚にはモモ肉があるが、ここは「ハム」の材料となる。塩漬けしたモモ肉を燻製するかゆでるかしてハムが作られる。

その先にはすね肉があり、ここは有名なドイツ料理「アイスバイン」の材料となる。これは、塩で漬けこんだすね肉を、タマネギ、セロリなどの香味野菜やクローブなどの香辛料とともに数時間煮込んで作る。アイスとは氷のことだが、コラーゲンが溶け出して表面が氷のようにテカテカするためだとか、すね肉についている骨がスケート靴のブレードとして使われたからだとか言われている。なお、17世紀にオランダの移民がドイツにスケートを伝えたとされている。

アイスバインにはザワークラウトが添えられることが多い。ザワークラウトはキャベツの漬物のことで、千切りにしたキャベツを塩・香辛料とともに壺に入れると乳酸発酵が起こり、酸っぱいザワークラウトが出来上がる。

なお、ヨーロッパ人が野菜を普通に食べるようになったのは比較的新しく、16世紀か17世紀になってからだ。それまでは食品としてではなく、薬として食べられることが多かった。例えば、キャベツは古代エジプトや古代ギリシアの時代に既に知られていたが、神へのお供え物(古代エジプト)や胃薬・二日酔いの薬・便通剤(古代ギリシア)などとして利用されていた。なお、古代のキャベツは現在のように球のようになっておらず、結球したのは12世紀頃と考えられている。

カフェの都ウィーンのはじまり-近世のハプスブルク家の食の革命(5)

2021-08-21 18:43:11 | 第四章 近世の食の革命
カフェの都ウィーンのはじまり-近世のハプスブルク家の食の革命(5)
「音楽の都」や「菓子の都」と言われるウィーンは、「カフェの都」と呼ばれることもあります。オーストリアではカフェのことを「カフェハウスKaffeehaus」と言いますが、2011年にウィーンの100軒ほどのカフェハウスがユネスコの無形文化遺産に指定されたことからも、ウィーンにおけるカフェの重要性が分かります。

1554年にオスマン帝国の首都イスタンブールで世界初のカフェハウスが誕生しました。そして、それから約130年後の1685年にウィーンで最初のカフェハウスが誕生したとされています。今回は、このカフェハウス誕生のお話から始めて、ウィーンの伝統的なカフェハウスの様子について見て行きます。


Cafe Sperl(Sandor Somkuti撮影)
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1685年に最初のカフェハウスが生まれたいきさつとして、次のような話がよく語られる。

「1683年にオスマン帝国軍がウィーンを包囲した。ウィーンの守備隊はポーランドの援軍を心待ちにしていたが、なかなかやってこない。そこで、トルコ語に長けたフランツ・ゲオルグ・コルシツキーという人物が伝令役となり、オスマン軍の包囲網を抜け出してポーランド軍に赴き、援軍の要請を行った。ポーランド軍はすぐに援軍に駆け付け、オスマン軍を蹴散らしたことによって、ウィーンは救われた。こうしてオスマン軍が去ったあとには様々な物資が残されていたのだが、その中に大量のコーヒー豆があった。ウィーンの人々はこれをラクダのエサと思って捨てようとしたのだが、コーヒー豆のことを知っていたコルシツキーは伝令を成功させたご褒美にこれをもらい受け、1685年にウィーンで最初のコーヒーハウスを開店させたのである。」

しかし、この話は真実とは異なる伝説と考えられている。1685年にコーヒーハウスを開いたのはアルメニア商人のヨハネス・ディオダードという人物であり、さらにそれ以前からウィーンにはコーヒーハウスがあったと推測されている。

そもそも、オーストリアに最初にコーヒーが紹介されたのは1665年のオーストリアとオスマン帝国との和平交渉の席だった。その頃オスマン帝国との貿易で活躍していたのがアルメニア商人で、オーストリアでもコーヒーが売れると判断した彼らが、オスマン帝国からコーヒー豆を運んでオーストリアに流通させたと言われている。はっきりとした記録には残っていないが、1685年以前にウィーンでカフェハウスを開店させたのもアルメニア商人だったと推測される。

ウィーンのカフェハウスは1700年には4軒になり、1770年には48軒、そして19世紀半ばには100軒ほどまでに増えて行った。

カフェハウスの多くは大きな交差点の角に建てられた。こうすることで、店が目立ちやすくなるし、入りやすくなる。また、窓が増えて店内が明るくなる。
ウィーンのカフェハウスでよく使用された椅子が曲げ木椅子で、19世紀になるとトーネット社製の曲げ木椅子がカフェハウスの定番となった。テーブルは大理石でできた丸い天板のものが一般的だった。


曲げ木椅子(Bentwood chair)(By Valerie McGlinchey, CC BY-SA 2.0 uk, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=9977605)

イギリスやフランスのコーヒーハウスやカフェと同じように、ウィーンのカフェハウスも男性の社交場や情報交換の場として発展して行った。このため、カフェハウスには多数の新聞と雑誌が置かれていた。また、伝統的なウィーンのカフェハウスに欠かせないのが「ヘル・オーバー(Herr Ober)」と呼ばれる、タキシードに身を包んだ男性ウェイターだ。

以上のような特徴が無形文化遺産を構成する要素となっている。

ウィーンの一般的なコーヒーにはミルクなどが入っているものがほとんどだ。ウィーンで一番ポピュラーなコーヒーの「メランジェ(Melange)」は、エスプレッソコーヒーに泡立てた温かいミルクを入れたものだ。これに泡立てたクリームを乗せると「カプツィナー(Kapuziner)」になる。

日本のウィンナーコーヒーは本場では「アインシュペナー(Ein spänner)」と呼ばれ、エスプレッソコーヒーに泡立てたクリームを乗せたものだ。また、「マリア・テレジア(Maria Theresia)」と言う、マリア・テレジアが好んだオレンジリキュールをメランジェに入れたコーヒーも有名だ。

カフェハウスではコーヒーのほかに、それぞれの店の定番のお菓子を出すのが一般的だ。デメルではザッハトルテが定番だし、多くの店で自慢のトルテが供されている。

なお、ウィーンには、モーツァルトやベートーヴェンが演奏したレストランを改装したカフェ・フラウエンフーバーやジークムント・フロイトらが訪れたカフェ・ツェントラルなどの歴史に浸ることができるカフェも多く存在している。